Y字の交差路

 ここはY2つめがノリで作ったブログです。  カードワースを中心に、私が思ったことや考えたことを徒然なるままに書きたいと思います。

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『旅の空』

 ウェーベル村での仕事を終え、シグルトはジゼルを連れて、ロマンの待つヴィスマールに帰還した。
 
 ロマンは、シグルトがジゼルを伴って帰ると目を丸くしたが、詳しい事情を聴くと納得した様に同行を認める。
 毒舌家ではあるが根は謙虚で生真面目なので、理が通れば文句を言わない…そんな少年だとジゼルは評価した。

 シグルトの美しさにもびっくりしたが、ロマンの中性的な美しさも群を抜いている。

 柔らかな銀髪に、金褐色の瞳は黄昏の光を閉じ込めた様。
 女性も羨みそうになる程白く、肌理細やかな肌。
 まだ声変わりをしていない高い声を聞くと、少女だと言っても信じるだろう。

 だが、女性が苦手なのか、ジゼルには近寄りたがらない。
 それが少し寂しく感じられた。

 ジゼルが持前の好奇心でロマンを眺めていると、その横ではシグルトが繕い物をしていた。
 
「…上手ね。

 男の人でもそういうことするんだ?」

 新進的な考え方はするが、それでもジゼルはこの時代の女性である。
 男が裁縫をすること自体が異様に感じられるのは、田舎の山中で「それが当たり前」として育ったためもあるだろう。

 実家での裁縫事は、器用なこともあいまって、ジゼルが一手に引き受けていた。 
 見た限りでは、シグルトの裁縫技術は「普通の主婦」程度に手慣れている。

「…冒険者をやっていれば、自然とこの手の手仕事は増える。

 道無き道を行き、怪物と切った張ったをすれば、ほつれや鉤裂きは付きものだからな」

 そう言いつつ、すでに愛用の外套を縫い終えた様だ。
 目立たぬ様に上手に縫い目を隠し、繰り返し丁寧に縫って頑丈にしてある。

 針を片付けるため、シグルトが革製の針刺しを手に取った。
 そこに、見慣れない形の針が数本差してあるのを、眼の良いジゼルは目ざとく見つけ出した。
 すぐに別の好奇心が首をもたげる。

「…この返しのついた小さいのは、釣り針よね。

 でもこっちの弧を描いた針はあまり見ないわ。
 職人が絨毯を縫う大きな針に似てるけど…しかも銀製?」

 細工物の様に細く、銀で出来た不思議な針を見つける。

 この手の針が弧を描いているのは、平坦な動かせないものを縫うためだ。
 用途も、形を縫い易く変えられない物のために使うのだろう。

「ああ、この弧針(こしん)のことか。

 特注の品だからな」

 丁寧に磨かれ、薄く油を塗付したそれは、装飾品の様に美しい。

「でも、銀じゃ硬いものを縫う時折れちゃうでしょ?
 
 何に使うの、これ?」

 首を傾げるジゼル。

 シグルトは苦笑してその針を取った。

「これは傷を縫うための、医療針だ。

 見た目より柔軟で、曲がってもすぐ折れたりしない。
 銀製なのは、血に触れても錆び難く、錆の毒で身体を害さないためだ。

 弧を描いてるのは、手早く肉を縫うためであり、また片手で縫うことを容易にする工夫だな。
 真っ直ぐの針は、肉の弾力で押し戻されるし、血脂で滑ってしまう」

 実演する様に、指の腹に曲がった針を掛ける。
 それを巻き込む感じでくるりと回す。
 繕いものをするより、随分手慣れていた。

 生々しい話を聞いて、ジゼルの顔が引き攣る。
 
「…鋭利な刀剣による裂傷は、包帯で巻いても傷が癒着し難いし、すぐに開いてしまう。

 手っ取り早いのは、昔からの方法で縫うことだ。
 直針など使えば、縫い難く患者は痛い思いをする。
 下手をすれば、折れた針先が肉に残って危ない。
 針が弧を描いているのは、刺した先端が肉の外に出るという、その特性を考えているんだ。
 
 傷口はある程度深く縫わないと、糸で肉が裂けて傷を広げかねない。
 膿んだ傷口を縫う時は特にな…腐った肉が削げない様に、より深く縫う必要がある。
 
 だから、こういった専門の針を使う。

 傷の縫合は、医療的にとても大切な技術だ。
 応急処置でも基本的なことだから、生肉や皮を使って近い感触を確認しながら縫う練習をしておくことも大切だ。

 矢傷や血管からの大量出血を、血管の桔索で止めることも出来る。
 止血には、洗濯挟みの様なもので出血点を挟むのも手っ取り早い。
 紐や帯で止血すると、どうしても組織上部分の止血になって、下部が壊死を起こし易くなるからな。 

 専門の知識と技術は必要だが、こういったことが出来るなら、誰かの命を繋げることもあるだろう。

 獣の牙や爪で肉を抉られたり、戦場で腐った手足を切り落とすことになっても、手当の仕方と道具があれば生き残る可能性は高くなる。
 死ぬ者がいる時は、傷が深過ぎるか治療手段が分からない時がほとんどだ。
 
 俺は戦士だから刀傷や裂傷が絶えないが、治癒の秘蹟で何時も直してもらえるとは限らない。
 有限のそういった力では、すべてを手当てしきれない状況に出くわすこともある。

 …一番嫌な用途だが、死体を見目良くする時にも役に立つ。

 備えあれば憂い無し、ということだ」

 その針は、実際に使ったための摩耗や変色が見受けられた。
 シグルトの言う用途も、随分と具体的だ。

 つまり経験があるということだろう。

 話を逸らそうとして、ジゼルは咄嗟にもう一つの針を取った。

「…こっちの、穴の空いた筒みたいな奴は?」

 まるで見たことの無い形状のそれは、一言で言ってまさに筒だ。
 先端が尖っているから、針の一種なのだろうが。

「それは穿孔刺。

 膿を抜いたり、気道…喉が詰まった時や、肺が打撃の衝撃で潰れて肺が膨らまなくなった時、溜まった血や空気を抜くのに使う。
 この膨らんだ部分は、深く入り過ぎない様に肉に掛かる部分だ。

 内出血が酷い時には、適切な応急処置が出来るから重宝する。
 俺が学んだ医者は、腫瘍が腐った患者の膿を出したり、打撲で頭に血が溜まった患者の治療にも使っていた」

 シグルトが話す言葉の中には、高度な外科の医療知識が含まれていた。

 だが、傍から聞いていれば異質で痛々しい話である。
 ジゼルは聞いたことを少し後悔していた。

「他にもこの薄い尖った剃刀は、切開のためのものだ。
 今は、糸切りに使っているが、本来は簡単な手術に使う。
 俺は使うのが下手だから、精々鏃の摘出や鬱血の切開にしか使わないが。
 
 …こういった切開手術は、腐ったら切り落とすのが当然の今の医療では、異端とされるものだ。

 だが、手足と泣き別れしたくない時は、異質と呼ばれても頼る必要がある。
 まあ、俺は祈って秘蹟が起きるほど、敬虔ではないのでな。

 こういった罰当たりをするのにも、抵抗は無い」

 腐敗した患部を蛆に食わせることが、一番優れた壊疽の治療法だと教えたら、目の前の娘はどんな顔をするだろう?
 シグルトは筒状の医療針を弄びながら、肩をすくめた。  


「…それでシグルト、これからどうしよう?

 相変わらず湾は渡れそうにないよ。
 悪天候じゃないんだけど、海が時化て漁にも出られない有様なんだって。
 
 暫くは、状況も変わりそうにないみたい」

 ジゼルが青褪めて硬直している中、横からロマンが現状を切り出した。
 針を手早く仕舞い、しばし思案するシグルト。

「…予定通り、湾沿いの街道を通ることにしよう。

 ジゼルのことを、『小さき希望亭』の親父さんに紹介しておきたいところだし…
 そのルートなら、リューンやポートリオンを経路に入れられるはずだ。

 彼女は乗馬が出来るから、ロマンと一緒に馬に乗って行くと良い。
 俺は途中から後を追おう。

 ヴィスマール近郊の森を抜けるまでは、一緒がいいだろう。
 林道を抜け見通しが良くなれば、盗賊に襲われる心配も無くなるはずだ」

 ジゼルと一緒に、という部分でロマンは複雑な顔をした。
 しがしシグルトの提案に、渋々頷く。

 ロマンの歩く速度はシグルトに遠く及ばないし、ジゼルは女性でしかも病を患っている(実際に心臓は完治しているが)。
 シグルトの提案が最も効率的なのである。

「まぁ、シグルトの足なら待たされることは無いからね」

 真面目な顔をしてロマンが応えると、そう励もう、とシグルトは頷いた。

 ジゼルは首を傾げる。

 二人乗りで歩かせることが多くなるとはいえ、馬での移動は徒歩より速いのだ。
 確かにシグルトは歩く速度も速く、ジゼルも後を追うのに必死になったが、馬の速度ほどでは無かったと思う。

 だが、ジゼルの予想は大きく裏切られることになった。


「…し、信じられない!

 どうして追いつけるの?!」

 ヴィスマール近郊の林道を抜けるまで、一行は同じ速度で移動した。
 シグルトの要望で、かなり早めである。

 最初ジゼルは、ヴィスマールまでの過程で感じていた欝憤を晴らすが如く、かなりの速度で馬を歩かせた。
 足の速いシグルトに対する、ちょっとした悪戯心である。
 
 しかし、シグルトは涼しい顔をして、ぴたりとその後ろをついてくる。
 人間なら早足に近い速度を、まるで風に乗るかの様にだ。

 林道を抜け、先に行くことになっても、ちょっと馬を休ませる間にシグルトは追いついてしまう。
 むきになったなったジゼルは、試す様に「もう少し飛ばしていい?」と尋ねると、シグルトは当然という風に頷いた。
 ロマンなどは、含み笑いをしている。

 かくして、引き離すぐらいの速度で馬を走らせてみたが、シグルトは歩きながら信じられない速度で後ろをついて来た。
 さらに、馬を疲れさせない程度にもっと早く駆けさせてみる。

 今騎乗している乗用馬は、甲冑を着た騎士が乗ることもある大型種である。
 ウェーベル村でジゼルが乗っていたホーリーに比べれば、最高速度は遅いが、持久力や馬力ははるかに上だ。
 本気で走らせても数時間は大丈夫である。

 シグルトは、その速度に息も切らさず追いついて来た。
 引き離したと思っても、休むために馬を歩かせていると、何時の間にか追いついている。

「…凄いでしょ?

 なんでも、東洋の呼吸法を使ってるんだって。
 シグルトの歩き方は、全速力の馬ほどでは無いけど、とても速いんだ。

 しかもほとんど休まないから、実際には馬に匹敵するぐらいの速度で移動出来るんだよ」

 自慢げに言うロマンの横で、ジゼルは文字通り目を丸くしていた。
 追いついたシグルトは、脇から付け足す様に解説する。

「俺が最初に学んだ武術の師は、とりわけ歩法と呼吸の仕方を重視する方だった。

 歩法は、身体のバランスを保ち間合を支配するのに必要となる。
 呼吸は、体力の維持と爆発的な力を発揮する時に大切だ。

 この二つを鍛えておけば、長く力強く行動し続けることが出来る。
 師は、遠く東の地でそれを学んだと言っていた。

 俺の使う歩法は、それに加えて鉄板を脛に巻き、砂入りの袋を背負って鍛錬する高速移動術だ。
 〈飛毛脚〉という東方の武術家が使うものを、応用したものらしい。

 10歳から、5年間ほぼ毎日一刻(二時間)ずつこの鍛錬をして来た。
 雪中の強行軍でも、倒れず早く動ける様になりたかったのでな。
 今は重宝している…苦労した価値はあった、ということだ。

 西方武術の悪口を言うわけでは無いが…こと体術の鍛錬に関しては東方武術に軍配が上がるだろう。

 〈氣〉や〈経絡〉という、血肉に加えてそれを動かす力と器官に着目した技術体系は、素晴らしいものだ。
 筋肉痛や体組織の疲弊を食餌で補いつつ、身体を内部から鍛えていく鍛錬法は、西方には滅多に見られない。

 これらの技術で基本になることは、健康維持にも応用出来る。
 ジゼルにも、機会があったら教えよう」

 シグルトがかつて学んだ槍の師ハイデンは、古から伝わる技法に、東方武術の〈内功〉を積むやり方…すなわち鍛錬法に内部からの肉体改造を組み込み、優れた武術を完成させた。

 西洋武術にも、呼吸や精神といった内面を重んじる部分はもちろんある。
 しかし東方武術と比べる場合、内臓や呼吸、氣や精神といった専門的な鍛練では、どうしても一歩劣るのだ。

 剣士であれ槍使いであれ、「武器にこだわった戦い方しか出来ない」傾向もある。
 剣士が蹴りや拳による殴打を行うのは邪道であるとか、槍使いが頭突きをするのは珍妙であるとか。

 そういった「礼節を重んじる綺麗な戦い方」を、ハイデンは嘲笑した。
 彼の技は「槍を使う戦い方」であり、「槍に使われる戦い方」では無かったからだ。

 シグルトが最初にさせられた鍛錬法は、徹底的な歩法と呼吸法の套路(型)を反復することだった。

 実際の反射神経や感覚を研ぎ澄まし、痛みに慣れるために、槍を模した硬い棒で殴り合う乱取りもやらされる。
 寸止めなど許されず、実戦同様に殴り殺す覚悟で打ち合い、青痣で済めばまだ良い。
 骨折や打撲は当たり前で、武術の出来ない身体にされる者や、生死を彷徨った弟子も多数いた。

 もともとシグルトの応急処置に関する医療知識は、実際の戦いよりも、鍛錬による故障を治療するために学ぶ様になった。
 シグルトの身体にも、兄弟子に打たれて裂けた傷を縫った傷痕が数か所ある。

 そんな鍛錬を5年以上続け、多くの同門が挫折する中で、シグルトはハイデンの一番弟子となった。

 彼が後輩に教える時は、師程極端に厳しくは無かったが、自身は師の教えをよく守った。
 実戦同様の鍛錬で磨いたひり付く様な戦闘感覚は、今でもシグルトを助けている。

 また呼吸の仕方と氣の導引、発勁(力の制御)、食事と肉体酷使を繰り返すことによる内臓や血管の強化、武術向きの骨格への肉体改造といった、徹底的な内外を変えていく鍛練も積む。
 やり方は、怪我が絶えない殴り合いより、もっと過酷だ。

 長時間同じ格好で静止して、骨格や下半身を虐める練法は、凄まじい激痛を伴う。
 臓腑を鍛えるため、独特の方法で内臓を揺すり身体を外部から打擲する。
 普通使わない内部の筋肉や骨を、重りを付けた屈伸や柔軟運動で徹底的に酷使し、筋肉痛や疲労骨折並の苦痛を毎日の様に味わう。
 敵の攻撃で気絶しない様に、脳を傷つけない程度に何度も脳震盪を起こして慣れて行く。
 夏場は雪解けの冷たい川に身を沈め、呼吸を止めて、少ない酸素で長時間活動し、冷たさに耐える能力を養う。

 気を抜けは、心臓が止まり、あるいは半身不随になる様な内容である。

 延々と精神をすり減らし、我慢強さを磨き上げていく。
 涙や鼻水を流すのはもちろん、血反吐と胃液を吐き、酷い時には失禁して糞尿を垂れ流す。
 そうやって無様を晒すことに慣れ、戦いに必要の無い驕慢を叩き壊すのだ。

 師に従って終いまで続けられたのは、何時もシグルトだけだった。
 そういった極限状態を体験し修めて来たシグルトは、鋼鉄の様な忍耐力を持つに至る。
 シグルトの持つ、修行僧の様な禁欲さは鍛錬の賜物なのだ。

 厳しい修行の最後には、戦術の教練と冷酷さを養う精神鍛錬を受けて、奥義を習得し免許皆伝となる。

 殺すこと、悩みに捉われないこと、極限で何をするか判断出来ること…
 身体が目的のために反応で動く様、徹底的な自己暗示と反復運動をする。
 気絶しても無意識に戦い、折れた腕すら振り回せる様に痛みを忘れる術を叩き込む。
 自分の思考より早く一撃が出せる様に、心理的な常識を破壊し、心技一体の境地を目指す。

 状況に乱されず場を支配する意思と行動力が必要だとして、武器への執着や技術への偏りは消し去って行く。
 機械の様な緻密さと着実さを得ながらも、その実は氣魂で支配し、深淵にして天衣無縫な様へと至るのである。

 行為は冷たく精巧に、思考は意より早く、発揮する力は火山の様に激烈になること。
 敵ならば女子供も殺し、かつ殺戮の快感に酔って隙を作ってもならない。
 賢者の如く聡明に、征服者の如く圧倒的に、己を抑え目的を成す戦士となる…

 ハイデンは、戦場で戦いながら武術を昇華した武人であり、戦場で命を掛けて殺し合う世界を渡り歩いて来た。
 即ち、戦いこそが目的であり、生き残ることが勝利という世界である。

 彼に言わせれば、騎士道精神から生まれた剣術など〈お遊戯〉なのだ。

 シグルトは、師程に他門の武術を悪し様に言う気にはなれない。
 実戦云々や実用性はともかく、費やされた時間や哲学には、学ぶべきものもあるからだ。

 でも、実際の戦い方で言うなら、ハイデンの教えは的を射ていた。

 余程の状況でない限り、シグルトは激昂しない。
 たった一度だけ我を忘れて怒り狂った時は、大切なものを全て失う羽目になった。

 現在の故障だらけの身体で動き回れるのも、鍛え抜いた心身と、学んだ技術おかげだった。 
 足の腱を抉られ、全身が故障だらけのシグルトは、ハイデンに学んだ徹底的な〈内功〉のおかげで、常人を凌ぐ力が出せる。

 中でも一番特殊な技術は、〈氣〉の作用を用いて、である。

 アフマドに作って貰った添え木に、〈氣〉を流して腱の代わりにするのだ。
 さらに鍛え上げた歩法で、並の人間を凌ぐ行動を可能にしている。
 
 人体の常識を無視する動きになれるには、数か月を要した。
 違和感と激痛に悩まされながら、途方もない時間を費やして、今の動きが出来る様になった。
 耐える心を持っていなければ、此処までのことは出来なかったはずである。

 精神と肉体を極限まで鍛えた場合、多くの人間はそれで満足してしまうだろう。
 だが、ハイデンの教えにはその先があった。

 〈氣〉と〈魂〉の鍛練である。
 
 人間の肉体には限度があった。
 鍛えるのも、酷使するのもだ。

 〈氣〉を利用した肉体の運用は、そういった限界を超える可能性がある。
 数倍の膂力を発揮し、人外の反動を受ける肉体を守ることが可能となるのだ。

 〈氣〉を剣に込めれば鋼を両断し、布の一片が刃や棍棒の如く振るえる。

 通常の人間は、〈氣〉という神秘的力に出逢うと、発揮される怪力や威力、或いは実態無き存在に届く効果に注意が向く。
 だが、それは一番大切なことではない。

 武術において〈氣〉の運用をする場合、「振るう怪力に耐えられない肉体を支持する」ことこそ、一番の命題なのだ。

 〈氣〉を用いなくても、力学を知り鍛練を繰り返せば、人間は数倍の力を発揮出来る。
 …大抵はその強化や力学に、肉体の方が故障してしまうのだが。

 肉体が力を発揮するには、力の支点となる強い肉体が必要である。
 現に、大きくて太い柱ほど大きな屋根を支えるではないか。

 怪力で振るえば、弱い武器はへし折れてしまう。
 冒険者になった頃、剣の扱いに慣れてなかったシグルトがまさにそうだ。

 岩を殴った場合、砕けるのは拳である。
 剣で岩は斬れない…刃が欠けてしまうだろう。

 武術の力用において、耐久力こそ隠れた基礎である。

 多くの武術では、軸足の強さを重んじる。
 素手で戦う者は、肉体を凶器に変えるか、硬い部分を武器に使う。
 獣の爪や牙が太いのは、折れないためだ。

 〈氣〉の付与は、無茶な力の使用で肉体が破壊されない様、守るために使うべきなのだ。

 付与すれば、刃や身体の間接へ跳ね返る負担を緩衝する。
 鍛え上げた肉体にそれを行えば、さらなる限界の突破が可能となる。

 大人一人分の肉体は、かなりの重さがある。
 例えば、50kgの棍棒を想像してみるといい。
 そんなもので殴られれば、相手はひしゃげるだろう。

 人間がその分の力を出せないのは…いや、出さないのは、肉体を壊さないためなのである。

 武術においては、そういった肉体の安全機構を、徐々に攻撃に傾かせていく。
 肉体が鍛えられるか、衝撃を流す技術が巧みになるほど、より強い力が出せる。

 極限までアソビを無くした行動は、ゆったりと見えても、発揮される力は凄まじい。

 シグルトは、こういった技術を〈発勁〉という言葉で学んでいる。
 〈氣〉の運用を含めた、総合的な力の出し方だ。

 〈氣〉の作用は凄まじい。
 でも、それだけでは〈付け焼き刃〉である。

 鍛え上げた基があり、それに〈氣〉を用い、バランスを取る。
 
 肉体を外的力とすれば、〈氣〉や技術は内的力。
 それらを集合し、全て運用することが〈発勁〉の妙であった。

 内臓や骨格を鍛える鍛錬も、総合力を高める大切な要素だ。
 骨を切り裂く膂力がもたらす反動は、常人の腕が衝撃で痺れさせてしまう。
 鍛錬の足りない者は、骨折してしまうだろう。

 〈内外合一〉。

 優れた武術家は、技術と身体を鍛え、研ぎ澄ますほど体格も美しくなってくる。
 それは、バランスがとれた機能美なのである。

 その上、シグルトは医術を学んでいる。
 どの様に〈氣〉を使い、どこを補強すれば効率的に身体を使えるかなんとなく分かるのである。

 この時必要なのは、技術同士の矛盾では無く調和だ。
 有りえないとされることを調和させ、超えられない領域に踏み入る。

 持った技術や知識を統合し、最大限に無駄無く効果を発揮すること…
 シグルトの強さと賢さ…その秘密は、その応用力と集合力にあった。

 実際にシグルトが、こういった概念やそれを応用した技術を他人に話す事は、めったに無い。
 分からない概念を話したところで、それを理解など出来ないからだ。
 変人扱いされる結果で終わるだろう。

 必要な者が機に応じて体得する…
 しかし、求め無くばそれは成らない。
 求めぬ者は求めず、求める者は励むべし。

 これは、シグルトが至った一つの真理である。

 ジゼルに関しては、一部でもそういった理を教えるべきだと感じていた。
 彼女は、教えを求めるだけの障害を負っているからだ。

 本来心臓が悪い者は、同時に腎臓を病む。
 循環系に異常を持つ者が多いのだ。

 心臓は、酸素や栄養を込めた血液を送り出すポンプである。
 それが病めば、他の臓器や器官も病んで来る。

 ジゼルは森神の力で〈心臓だけ〉は治っているかもしれない。
 でも、他の臓器はどうだろうか?
 
 森神は、ジゼルが〈心臓を患っていた時間〉まで消してくれたわけでは無い。
 実際に彼女は心臓を患っていたことを覚えているし、格段に良くなったとはいえ、ジゼルは根本的な体力に欠ける。

 神や精霊の行う神秘とは誠実で、それ以上でもそれ以下でも無い。
 ならば、ジゼルには楽観よりも現実を直視することを教え、体力が足りるうちに悪所を見極め、それを改善させる必要がある。

 補う方法を教えてやればよいのだ。

 きっと人は神経質であるとか、細やかだと評価するだろう。
 あるいは迷惑がるかもしれない。
 それでもシグルトは構わなかった。

 自身はすでに満足な身体では無い…だからこそ、あるべきものを尊び備えることを訴える。
 それで親しい者が一人でも救われる可能性があるなら、無駄では無いのだ。

 ジゼルに部分的でも〈内功〉の鍛錬を教えれば、弱っている内臓や血流を操作し、人並の健康を得ることも出来るだろう。
 アフマドに診療して貰い、悪い部分を明らかにすれば、より効率的な方法が教えられるはずである。

 シグルトが、自分の体験からそこまで大層な目標を立てているとは知らず、ジゼルは「面白そうね」と微笑んでいた。


 しばらく道中を進み、一行は街道に設けられた休憩所で休むことになった。

 ジゼルは、汗を拭くシグルトを横目で眺めている。
 不意に、そこにいるはずのシグルトが、景色に溶けてしまう様な、不思議な感覚を覚えた。

 目を瞬くと、そこには確かにシグルトがいる。
 だが、この美しくとてつもない才能を秘めた青年は、時折その存在感が希薄になるのだ。
 こんなにも人を惹きつけて止まないのに、である。

 シグルトは空を見上げていた。
 そこには澄み渡った蒼穹がある。

 ジゼルも空を見上げて、不意に悟った。

 そう、シグルトが見ているのは空と同じ。
 決して人が届かない、何かの高みなのだ。

 神秘的な青黒い瞳は、果てしない空を映している。

 人の弱さを、欲を知り、受け入れることが出来る理知の光。
 でも、その瞳が至るべき高みとして捉えているのは、とても高い空の向こう。

 人は可能性というものを持ちながら、その限りを設けている。
 それは寿命であり、妥協であり、敗北である。

 例えるなら、自分の足で登れる山の頂だ。

 シグルトは、人が頂とするそういった限界を理解している。
 限りのある人の一生を、強さも弱さも、とても尊んでいる。

 なのに、見つめているのは頂を超えた、空の様な場所なのだ。
 
 矛盾を内包し、それを背負って試練の道を歩むその覚悟。
 果てしない道のりが、その先にある。
 それでも、歩むことを決めた改革者。
 
(…なんて、遠いんだろう…)

 そう、シグルトのその意思は、側にいる者に弱さを思い出させる。
 人が否定しなければ思い出してしまう、行くべき道に生い茂った茨の棘を。

 だから、人はシグルトを勇者に祭り上げ、違う次元に置いて評価する。
 自分たちが、茨の水戸を歩まぬために。
 高みに置かれた、シグルトのいる場所は、感じ取れず他人事になるのだ。
 
(ああ、そうだわ。

 これが、英雄なんだ)

 それがどんなに無謀でも、どんなに望まぬとしても。
 至る場所が、常人が至らぬ頂の先にある者。

 上り詰めるが故に、可能性を超える奇跡を起こす、超越者。
 儚い限られたその一生を歩む時、凡人が避けるであろう辛苦の道を選ぶ、受難者。

 シグルトの美しさも、そして能力も、彼の本質ではない。
 ただ、人より優れ、期待されることによって己を鍛えるきっかけ。

 あの空の様な場所に至るための、ただの布石なのだ。

 ジゼルは、シグルトに惹かれている自分を感じている。
 でも、今はとても一緒に歩むだけの自信が無い。
 近付けば近付くほど、そら恐ろしい何かを感じずにはいられない。

 …何と孤高な生き様だろう。

 彼は、その孤独をすでに背負う覚悟をしている。
 だから、シグルトの双眸は空よりも深いのだ。

 しかし、そんな青黒い瞳が何時の間にか自分を眺めていることに気付き、ジゼルは首筋まで赤くなった。

(み、見透かされたりしてない、よね?)

 焦ったジゼルを見るシグルトは、何時もの苦笑。
 沢山の人に愛されながらも、内には深い孤独を持ち、心の底から笑えない寂しげなその表情。

 ジゼルは、そのまま見つめられることに耐えられず、視線を空にそらした。

「…空が綺麗よね」

 不意に口から、そんな言葉が出る。
 シグルトは頷き、そのまままた空を見た。

「…そうだな。

 あの蒼天はとても高くて、綺麗だ。
 無理だと言われても、いつか掴んでみたい…そんな風に憧れる。

 この身で出来ぬことであっても、せめてこの心だけはあの空を掴んでみたいと、そう思う」

 それは、シグルトが漏らした本音だった。
 見通しの良い澄んだ空は、彼のそんな心を映したのだろうか。

 ただ涼しげな秋の風が、二人の間を駆け抜けていった。



 リプレイクロスまでの中継ぎとして描いたエピソードです。

 クロスする前に、シグルトのスタイルを少し。
 教導クロスをやりたい人は、参考にして下さい。

 金成の苦労人なんです。
 外伝でも書いてるけど。

 シグルトとジゼルの距離に関しては、いずれ続編で買いますが、シグルトは後輩扱い。ジゼルは憧れって感じですね。

 シグルトの医療知識は中世レベルではなく、19世紀~20世紀近い時代のものもあります。
 師のアフマドがそれだけ優秀だった、ということです。
 リプレイ中の医者では、最高レベルの医療技術があるとしています。
 脳外科や神経接合までやるからなぁ。

 ただ、シグルトは医療知識はあるけど、上手ではありません。

 武術に関しては、相当深いものを持ってます。
 某マンガを参考にしました。
 
 シグルトの武術が華国(中国)武術の流れをくむのは、槍もそっちの技術が高いからです。
 気功や食餌、内臓の鍛練は近代の格闘術にはありますが、中世では、インドかそっちにしかなかったと思うので。
 
 気功を身体の保護に使うスタイルは、シグルトの後のスキルにも影響してきます。
 シグルトが、防御を高めたままの鋭い技を使う、攻防一体のスキルを好むことからも、わかるでしょう。

 飛毛脚というと、某格闘ゲームを思い出す方も多いでしょう。
 わたしゃやったこと無いですけどね。
 ただ、影走りの高速習得の下地にはなるでしょう?

 シグルトの持つ孤高の雰囲気、今回は説明できたかなって思います。
 ま、生まれから「天を掴もうとした」という設定ですから。

 人が至れない高み、というのは、私の英雄観にかかわることでもあります。
 ちょっとしたエピソードですが、しっかりY2つ節(説明くどくど)もありましたし、ぼちぼちいろいろ書かねばなぁ。

 筆遅いのは、どうか御勘弁を。 


〈著作情報〉2009年10月29日現在
・今回活躍した連れ込みPCジゼルは、楓さんのシナリオから連れ込んだものです。
 著作情報等、リプレイRの『ジゼリッタ』を御覧下さい。
 
 カードワースはgroupAskに著作権があり、カードワースの管理、バージョンアップ、オフィシャルな情報等はgroupAsk official fansiteにて、カードワース愛護協会の皆さ

んがなさっています。
 このリプレイは各シナリオをプレイした上で、その結果を小説風リプレイとしてY2つが書いたものです。
 書かれた記事、書かれる記事は、特定のシナリオの名前が出たときは、そのシナリオの著作権はすべてそのシナリオの作者さんにあります。
 
 また、リプレイ中に使われる内容には、各シナリオで手に入れたスキルやアイテム、各シナリオに関連した情報等が扱われることがあります。
 それらの著作権は、それぞれのシナリオの作者さんにあります。
 またカード絵等の素材に関しては、シナリオ付属の著作情報等を参考にして下さい。
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『ジゼリッタ』

 出発の朝、シグルトとロマンは早々に食事を済ませると、フォーチュン=ベルの朝市に立ち寄っていた。
 旅の間の保存食や、油などの消耗品を手に入れるためである。

 身体一つで踏破出来るほど、この時代の旅は甘くない。

 山賊や野盗はもちろん、獣や怪物に襲われる危険性。
 崖崩れや地割れで街道を逸れた時の備え。
 旅の最中に病に陥った時の対策。

 この時代一般人のほとんどが、故郷を出ることなくその土に還るのが当たり前だった。
 旅とは命懸けなのである。

 シグルトは、故郷から西方にやって来るまで、多少は旅慣れしていた。
 西方人がその名を聞けば震え上がる、城塞都市キーレや蛮族領を通過して来たのだ。

 対してロマンは、子供という身の上と華奢な身体つきから、あまり旅に向いていなかった。
 今回は馬があるので移動は楽だが、“風を纏う者”では一番体力も無い。

 シグルトは、ロマンがパーティに居る時は、その体力配分にも気を掛ける様にしていた。

 ロマンは要領が良い。
 自分が一番疲れない動作を心掛けているので、並の大人より沢山の距離を歩くことが出来る。

 シグルトは、馬に乗せられる分量を考え、水で増やせる保存食を中心に、重量が軽いものを購入していた。

 購入といっても、シグルトたちはほとんど通貨を使わない。
 無駄な出費になるからだ。

 商人が儲けるのは、利益が出るからである。
 加えて、販売に関する税金も、商品に上乗せされていた。
 その分だけ、消費者は金銭を失うのである。

 だが、ほとんどの都市の場合、「金銭の使用によって税金と利潤が発生する」仕組だった。
 物々交換をした場合、この関税が掛からなくなるので、安く済むのだ。

 普通に、それを見逃すほど役人も甘くない。
 一般人は通貨で購入し、売買には税金が生まれる様にちゃんとなっている。
 商人たちは、組合を作ってまとめて税金を納めたり、豪商は個人で税金を納めて、商業権を得るのだ。

 彼らの様な商人たちには、沢山の権利が認められており、税金の分保護されているわけである。

 だが、何事にも抜け道はある…それが時間や売り場の制限がある市だ。

 朝や夕べに立つ市は、指定した時間内に安い税金と場所代で商売を許可することが多い。
 故に、特別な権利を持たない農夫や猟師、旅商などが露店を開く機会にもなる。

 市では「一定時間内に商品を売り尽くす」のが理想となり、結果的に物品はとても安く売られていた。
 そこで生まれた利潤は、それぞれが商人から買い物をする金になり、この状態まで権利云々で口を出す商人は少ない。
 役人も、都市の活性化や、市民の懐を潤し多少なりとも税金を取れるので認めていた。

 此処で重要になるのが、「税金を払った者は、その市において商業権を得る」ことである。

 物品の仕入れに関する権利が、認められる可能性があるのだ。
 しかも、市は「取引する物品の限定が少ない」のである。
 細かい制限を説明していたら、露店を出す前に市が終わってしまうからだ。

 冒険者が珍しい物品で、「税金を払って商売している者」に取引を持ちかけた場合、持ちかけられた側はそれを「仕入れ」る事が出来る。
 対価として、その商人は冒険者の求める物品を与えて、取引を成立させる。

 事実上の物々交換が可能なのだ。

 ほとんどの旅商や、市に立つ〈にわか商人〉は、生活のために商売をしている。
 通貨を得て買い物をするのは当然だが、自分たちが欲しいものを安く手に入れたいのが本心だ。

 砂糖や塩は、商人が高く扱う高級品で、中々手に入らない。
 それを交換の対価として呈示すれば、大抵は取引に応じてくれるのである。

 市における物々交換は、税金があまりかからないマジックであった。
 これを利用すれば、圧倒的に安く品物が手に入るというわけだ。

 この様な抜け道を禁止する厳しい都市も、もちろんある。
 だが、下手な拘束や制限は、都市への人の出入りを停滞させてしまう。
 税金が発生しなくなり、都市は活力を失う。

 それに、農夫や漁師の様なにわか商人は、難しい制限を理解出来ず別の取引先を探す。
 ただ複雑であっても、弊害を起こすのだ。
 
 時間制限を設け地域的にも限定的に行うという条件で、多くの都市はこういった商いの自由化を認めていた。

 人気のある塩や砂糖、香辛料は物々交換に適している。
 〈にわか商人〉に「材料」として取引を持ち掛ければ、どの商売でも必需品であるため、他安く物々交換が成立する。

 古い保存食品は据え置きで引き取って貰い、塩や砂糖の様な調味料を加えて必要なものをまとめて手に入れる…それは旅をする冒険者の、世渡りの術なのだ。

 シグルトは、このやり方をレベッカから学んだ。
 彼女に付き合ううち、彼自身もそれなりに交渉が出来る様になった。
 まさに、「門前の小僧」である。

 シグルトは、贔屓にしている露店を回り、干した無花果(いちじく)や胡桃、干し肉などを仕入れる。

 相手は若手の行商や子供が多かった。
 これは、シグルトが子供贔屓なわけでは無く、ちゃんと理由がある。

 若手や子供は、どうしても客に舐められて足元を見られる。
 だから、シグルトの様に交渉を持ち掛ける客は有り難いのだ。
 
 顔見知りであればおまけもしてくれるし、持ちつ持たれつである。
 
 気がつけば、数片の砂糖と塩一袋、道中で摘んで来た薬草だけで、荷物袋いっぱいの食料が揃っていた。
 交換する時、割ががいいのはやはり香辛料や砂糖である。

 揃えた食品は、多彩だった。

 干し肉は保存食の代名詞とも言えるが、それだけでは身が持たない。

 ビスケットやパン、保存用の香草に、干した果物。
 林檎などの、多少は日持ちする果物類は、水分補給にもなる。

 塩や香辛料は、虫除けや食糧保存のためにも使うが、大量に使うと身体を害する。
 薄味に慣れることは、旅する者に必要であった。

 シグルトは、アレトゥーザ商人の知り合いが喜びそうな物も少し手に入れ、買い物を終えた。
 先を見越して品物を仕入れるのは、次の機会に自身を助けてくれる。
 
 そして、待たせていたロマンを探すと、彼は怪しげな露店で指輪を買っているところだった。

「ロマン、何を買ったんだ?」

 シグルトが尋ねると、ロマンはその小さな指輪を自慢げに示した。

「遺跡で時々見つかる魔法の指輪だよ。

 これ一つに、解読や魔力感知、扉を閉める魔法が封じられてるんだ。
 普段は必要ないけど、遺跡の調査なんかで凄い効果を発揮するはずだよ。

 僕はお金を使う必要が無かったけど、一個ぐらい何か役に立つ物を買っておかないと、預かったお金が無駄になるからね」

 ロマンが買った指輪は【アラジンの指輪】という、『千夜一夜物語』に登場する魔法の指輪を模したものである。

 限定的だが、様々な魔法を使うことが出来る。
 使える魔法は、強力なものでは無いが、使い方次第でとても役立つと言われていた。

「お前が選んだものなら間違いあるまい。

 調合してくれた高価な薬や、品物も特上品ばかりだから、レベッカも驚くだろう。
 何よりの成果だ」

 微笑んで頷いたシグルトの褒め言葉に、ロマンは照れた様に白い顔を赤らめた。


 荷物を揃えた2人は馬に乗り、ヴィスマールを目指す。
 
 『緑の都』と呼ばれるヴィスマールは、周囲を深い森で囲まれている。
 街道の周囲も林道が多く、野営地も森ばかり選ぶ羽目になった。

 2人は夜間、蚊に刺されない様に、露出した肌に虫除けのつんとした香りの香草を塗り、蚊帳を張って休んだ。
 ロマンは虫や鼠が病気を媒介することを知っており、嵩んでも蚊帳を手放さない。

 シグルトは香草で作った香を焚き火にくべて、虫や獣を寄せ付けない様にしていた。

 虫と蛇対策として、彼の持つ荷物袋は香草で煮て、処理してある。
 短時間置いている間に、毒蛇が袋に入り込んだという話が実際にあった。
 
 夏の間は、こういった気遣いも冒険者に必要なことだ。

 大人と子供2人を乗せれば、馬には無理が出来ないだろうと思われるが、そこはシグルトがしっかりしていた。
 馬車を引いたり、甲冑を着て走る、軍用にも使われる大型の馬を借りていたのだ。

 幸い馬の餌は、豊かな森の中にいくらでもあった。
 その馬は、疲れた様子もなく2人を乗せて良く走ってくれた。

 4日目の昼前には、森林に囲まれた都市ヴィスマールに到着する。
 そこは、丁度フォーチュン=ベルとアレトゥーザの中継点辺りにあった。

 さらに走って湾を船で渡れば、アレトゥーザまで間もない距離だ。
 カルバチアやヴィズマールからの移動では、このルートが最も近い。

 2人は、この都市の宿で一泊することにした。


 旅の冒険者が良く泊まるという宿で、シグルトとロマンは食事をしていた。
 だが、そこで聞いた噂にロマンが困った様に眉をひそめた。

「…この先の湾が荒れていて、渡れないみたいだね。
 船乗りの話じゃ、数日は荒れそうだよ。

 少しヴィスマールでお休みかな?」

 季節は9月初頭。
 秋口ともなると、海岸近くの天候ほその日任せだ。

「3日待って渡れそうになければ、時間はかかるが湾沿いの街道で回り道をするか。

 湾越えが最短ルートとはいえ、天候任せなのは困ったものだな」

 馬による移動は、こういった状況では不利だ。
 飼葉や馬屋を借りる賃金も、馬鹿にならない。 

「あんたたち冒険者だな?

 もし湾が渡れずに立ち往生しているなら、一仕事してみないか?
 この近くの村で、羆が出たってんで、退治の依頼が来てる」

 羆、という言葉にシグルトが眉をひそめた。

「村人でも狩れそうだってことだが、祭りの前で流血沙汰は御法度なんだと。
 この辺りの村落は、妙に仕来たりに拘るからな。

 あんた強そうだし、どうだい?」

 シグルトとロマンは同時に溜息を吐いた。

「この時期の羆を相手にするだって…獣を舐めてるね。

 侮って手負いにさせたりしたら、その村は大惨事だよ」

 ロマンの言葉に、シグルトも頷く。

「秋口は、豊富な餌で肥え太った熊の力が強い頃だ。

 しかも、〈腕の立つ冒険者一人〉とは…危ういな。
 熊狩りは、人海戦術を使わないと難しい。

 誰かこの依頼を受けたりしているのか?」

 シグルトの問いに、「んなわけないだろ?」と店主が笑った。

「流石に、羆に一人で挑もうなんて勇者、いないさ。
 この辺りの森の民なら、なおさらだ。

 あの村は、ここ数十年熊が出なかったんで、日和ってるんだろ。
 聞いた話じゃ、森の神様を祭る古い祠があって、その神様は豊穣と村の安全を約束してくれてたらしい。
 その手の時代遅れな信仰がある村は、得てして無謀なんだよ。

 最近じゃ、聖北の坊さんもうろついてるから、その手の神さんの行事はすっかり廃れて来てる。
 だから、罰が当たって熊が出たんじゃないか?

 しかも、熊一頭に銀貨四百枚じゃ、割に合わない。 
 ま、祭りが終わったら、村人総出で熊狩りってもんだな」

 他人事の様に話す宿の主人の胸には、聖北の聖印が掛かっていた。
 先ほどから依頼して来た村に対しても、どこか偏見を持っている様子がある。

 ヴィスマールは、周囲を森に囲まれた特性上、林業や薬草取り、狩人の類が多いと言われる。
 彼らは得てして、森の様に寛大に振る舞い、その実とても排他的だ。
 森の民は獣同様に、縄張り意識も強い。

 もちろん、全ての民がそうではないだろう。
 しかし、雰囲気というものは、必然多数側に傾く。

「ロマン…」

 シグルトが全てを言う前に、ロマンは頷いた。

「行くんだね…お人好しだなぁ。

 まぁ、どうせ湾が渡れないなら足止めだしね。
 人助けしておいでよ。

 僕は此処の図書館で、森に関する書物でも読んでるから」

 シグルトは、仕事を選ぶのにはとても慎重だが、依頼が切羽詰まったものだと優先して受ける傾向がある。
 それに、シグルト程の武勇と慎重さがあれば、羆一匹に後れは取らないだろう。

「…気をつけて」

 そっぽを向きながらぼそりと言葉にするロマンに、シグルトは強く頷き返した。


 シグルトは、その日のうちに羆退治を依頼したという、ウェーベル村へと向かった。
 
 村へと続く近道は、急な坂が続き馬が使えない。
 足に障害を持つシグルトにとって、木の根や石が浮き出した坂道を踏破するのは正直きつかったが、シグルトはその身にトリアムールを宿して、風の様に駆け上っていった。

 トリアムールの精霊術は、すでにシグルトの一部と言っていい。
 精霊の姿を見ることが出来ず、その声も聞けないシグルトだが、トリアムールの意思ははっきりと理解出来た。

 精霊と四六時中側にいるせいか、シグルトは精霊の気配を感じ取る力が増している。
 森そのものが、シグルトの味方だった。

 彼は、精霊に愛される資質を持っている。

 何とはなしにシグルトは、妖精や精霊が嫌う鉄の籠手を戦闘に臨むまで外すことにしていた。
 それに山道では暑苦しく、汗がつけば錆の原因にもなりかねない。

 名工の作った剣と籠手は、耳障りな金属音がほとんど鳴らなかった。

 小気味好く急な坂を登り切り、平らな道は滑る様に歩く。
 シグルトは気付いていなかったが、彼の歩みは馬による移動と大差なかった。

 ヴィスマールから西へ徒歩で半日。
 シグルトはその距離を、さらに半分の時間で踏破していた。


 ウェーベル村の入り口を潜ると、そこには目印の様に大きな噴水があった。
 噴水は清涼な水を湛え周囲の空気を冷やして、一帯は少しひんやりとしている。

 この特産品は、その豊富な水源と豊かな森を利用した果樹栽培だ。
 柑橘類に梨や林檎、そして葡萄。
 中には、この村でしか取れない稀少な果物もあるという
 
 そのまま売る時もあるが、多くは酒や蜂蜜漬け、ドライフルーツにして、一年の間村の財政を潤していた。

 時刻は夕刻近くだが、村の広場に敷物を広げて果物の皮を剥いている村人が何人かいる。
 恵みの秋に差し掛かったこの季節、仕事は山積みなのだろう。

 村人の一人がシグルトに気がつき、その美貌に見とれてぽかんと口を開けていた。

「…お仕事中、失礼する。

 私はシグルトという、冒険者だ。

 ヴィスマールの宿で羆退治の依頼を知り、やって来た。
 依頼主であるこの村の村長に会いたいのだが、案内してもなえないだろうか?」
 
 声を掛けられた夫人は、言葉も無く何度も頷くと、シグルトを村で一番立派な建物まで案内した。
 立派な荷馬車と大きな馬屋があり、戸口には魔除けの意味か、大きな木の枝が結わえつけてあった。


 その日、娘は何時もの様に乗馬を楽しんでいた。

 実り豊かとは言え、この閉鎖的な村の生活は息苦しい。
 馬に乗っている時、そして踊っている時だけが彼女に自由な気持ちを与えてくれた。

 少し無理をしたせいか、胸が苦しかった。
 彼女の身体は、先天的に重い病を抱えている。

 もう婚期が気になる年頃であるが、彼女の立場と病とが、結婚する気持ちを奪っている。
 美しい彼女に求婚する男たちは多いが、皆腫物を扱う様に彼女に接した。

 娘には、それが辛かった。

「ジゼルゥ~!」

 乗馬服に身を包んだ娘とは全く違う、エプロンに農夫の女性が使う粗末なヘッドドレス姿の村娘である。

「どうしたのよ、マリー。

 慌てなくても、私、今から帰るところよ」

 幼馴染の彼女は、娘にとって数ない心休まる相手だ。
 同じ年頃の娘は、ほとんどが結婚してしまい、子育てに忙しい。

 この幼馴染も、婚約者がいて、来年の春には結婚する。
 結婚した相手のために作る蜂蜜酒の作り方を学ぶと言って、最近まで大騒ぎしていた。

 時々、騒いで興奮出来る彼女がとても羨ましくなった。
 娘の身体は、それすら許さない。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、この幼馴染は大きくて愛嬌のある両目をくりくりと動かした。
 とても興奮した時の、彼女の癖だ。

「あのね、村長が言ってた熊退治の冒険者が来たの。

 皆大騒ぎよ!」

 「騒いでるのは貴女でしょうに」と心の中でぼやきつつ、娘は相槌を打った。

「そうなんだ。

 あの依頼、いくらなんでも割に合わないから、受ける人いないと思ってたのに。
 よっぽどお金が無い人なのかしら?

 その人が山賊みたいな強面だったら、私隠れるわよ」

 すると、幼馴染の村娘は首を横に振った。

「逆、逆!
 まるでどっかの戯曲に出てくる森の妖精王みたいに綺麗な人で、立派な剣を腰に下げてたわ。

 どこか品があって、道を尋ねる時に自分から名乗って来たみたい。
 声を掛けられたカトラおばさんなんて、年甲斐もなく頭の中が桃色よ」

 興奮して顔を赤らめる幼馴染。
 彼女もどこか、夢見心地の様子だった。

「この間までホラントのことで惚気てばかりいたのに、浮気な娘ねぇ。

 彼の前で、そんな顔しちゃだめよ」

 幼馴染の態度をたしなめつつも、娘は久しぶりに感じる新たなものへの好奇心に、心躍っていた。

 
 村長の家についたシグルトは、ドアをノックした。
 程無くして迎え入れられる。

「よく来てくれた…」

 屈強な身体つきの男である。

「私は、村長のシュバル。

 この村を代表し、貴方を歓迎しよう」

 堂々とした村長の態度には、礼儀半分、舐められまいとする態度が半分。
 穏やかな表情しているが、その実豪胆さを持ち合わせた人物であると感じられた。

「俺はシグルト。
 リューン郊外の『小さき希望亭』に所属する冒険者集団“風を纏う者”の一人だ。

 歓迎の言葉、痛み入る。

 短い間になるだろうが、滞在の間宜しく頼む」

 武骨な口調だが、綺麗な礼をして応えると、村長はうむと頷いた。

「…では、早速話に移ろう。

 依頼の内容は羆の退治。
 報酬は銀貨四百枚。

 …村を出て西に少しの所に、広場がある。
 この村では、『森神の箱庭』と称される場所だ。
 そこまでは簡単な一本道だから、迷う心配はないだろう。

 村では十年に一度、その広場で収穫祭が行われる。
 それは間もなくのことだが…こともあろうに若い羆がその場所を餌場にしてしまったのだ。

 村の掟で収穫祭に近い時期は、村の者すべて、森の動物を殺傷することが禁じられている。
 我々は手を出せずにいるわけだ。

 そこで、村の外の人間に依頼した、というわけだ。
 過去にも、その広場を獣が縄張りにし、同じ様に狩った事例があってな。
 今回もその様にしたのだ」

 シグルトは黙って聞いていたが、村長が一通り話を終えたのを確認すると質問を始めた。

「事情は理解した。
 だが、いくつか質問させてもらおう。

 羆は、油断出来ない相手だ。
 それに対応するには、相応の情報と準備がいる。

 その羆は、どの程度の体格で、特徴はあるか?」

 刺す様な厳しい目付きで聞き出したシグルトに、村長は少し気圧された様子である。
 たかが熊一匹…簡単な依頼だと思っている節があった。

「…取り立てて冒険者殿が騒ぐ様な、大きな羆では無い。
 若い雄で、縄張りを追われてやって来たのだろう。

 村の狩人でも、容易く狩れるはずだ。
 冒険者殿ならは、造作もあるまい」

 シグルトは村長の言葉を、苦いものでも飲み込む様子で聞いていた。
 そして、大きく溜息を吐くと、言い含める様に話し出す。。

「まず、誤解が無い様に最初に断っておく。

 報酬の増額要求をするつもりはない。
 条件付きで、この依頼は受けると約束しよう。

 だが、忠告したいことがいくつかある。

 まず、この時期の羆はたらふく食べて、とても力が強いのだ。
 もし過去に熊を狩ったことがある者がいるのなら、それは春先では無いか?

 越冬を終えた熊は、痩せ細り体力が無く、容易く狩れることがある。
 多くの熊殺しが、それ故に侮って次の熊に挑み、返討ちになった事例は多い。

 それで手負いになった狂い熊が襲い、ほぼ壊滅した村が実際にあったことを告げておく。
 人によって傷つけられた熊は狡猾になり、人を喰らって襲う様になる。

 恐れを知らず死ぬまで狂った様に戦う狂戦士…ベルセルクのベルとは熊のことだ。

 狂い熊の強さや狡猾さから生まれた言葉だろう、と話してくれた老婆は語っていた。
 北では、熊の様に強くあろうと、都市や人の名にもベルを冠した話が多数ある。
 
 熊の縄張りは案外広い…そうして怒らせ、狂ってしまえば、近隣を巻き込む恐ろしい火種になる。
 沢山の無辜の人や獣が、巻き込まれることにもなりかねんのだ。

 我々冒険者は、時々そういった「狂い熊」を狩らされる。
 その時は、功名に逸った若手が良く死ぬと聞く。

 どうか、今後は熊狩りに関して、〈容易く狩れる〉などと侮った見識は改めて頂きたい。

 報酬の銀貨四百枚だが…
 熊狩りの最低報酬は銀貨五百枚、羆相手なら八百枚は用意した方がよかろう。

 報酬の基準は、仕事の難易度に関する目安になる。
 つまり報酬が相場より安いと、実力の無い者が受けることになる。

 熊の毛皮や肉を報酬に加えるのは、対策法の一つだ。
 その道の熟練者が受けてくれるし、依頼人の見識も推測出来る。

 羆の怪力は、オーガーに次ぐと言われ、危険度の高い依頼として扱われる。
 相場を知らんと、悪質な冒険者に足元を見られることになるだろう。
 同業者にそういった悪辣な輩が居ることを否定出来んのが、とても残念だが。

 雇う人数は、一人ではなく三人以上の多少熟練した冒険者に頼むこと。
 ただの宿の張り紙では無く、冒険者の宿か組合を通じて、ちゃんとした冒険者を雇ってほしい。

 あの様な厳しい条件の依頼では、まず受ける者がいない。
 受けるとしても程度の低い、食いつめ冒険者がやって来て、熊を怒らせて終わるだろう。

 今後、これらのことを考慮してくれることを、この依頼を受ける条件としたい」

 村長はシグルトの厳しい言葉に、目を見開いていた。

「我々冒険者の多くは、依頼達成のため誠心誠意尽力する…命を掛けて。
 だからこそ、貴方たち依頼人にもこういった厳しさを知って頂きたいのだ。

 貴方たち依頼人の誠実さと注意が、多くの命と、同時に我ら冒険者の名誉と身を救うことになる。

 どうか、頼む」

 頭を下げたシグルトに、村長は慌てた様に頷いた。
 厳しい口調の中にも、シグルトの態度はとても誠実だったからだ。

「…承知した。
 貴方の言葉は、今後村の皆に伝え、徹底させよう。

 一目見た時から、普通の冒険者とは違って見えたが…
 その深い見識と誠実で高潔な様子、もしや名のあるお方では?」

 この問いに、シグルトは首を横に振って否定する。

「…名は、父が有名な竜殺しの名からつけたものだが、正直不相応だと感じている。
 ことは思うままに行かず、日々喘ぎ、最近やっと駆け出しを抜け出したばかりの、粗忽者だ。

 だが、頼れる仲間のおかげで、なんとかやっている。
 今では導くべき後輩も、少しばかり出来たところだ。

 その後輩可愛さに、初対面で厳しいことを言った無礼は、御容赦願いたい」

 ふ、と小さく笑うシグルト。
 それは、とても爽やかで誇らしげな微笑みだった。
 
 彼がこの仕事を受けた一番の理由は、無知な後輩同輩たちを守るためだった。
 
 もちろん、見過ごすことだって出来た。
 だが、それは彼の信じる義に反する。

 シグルトは、言葉だけの正義に酔って謳うだけの偽善者になりたくなかった。
 自ら行うことこそが義を示し、後に続く者たちの道標になる。
 そうして、後輩たちに恥じない先達になろうと励むのだ。

 自身に問いかけ、己にこそ恥じないための信義を重んじる。
 それこそが、名の誉れよと、亡くなったシグルトの父が言っていた。

 シグルトの父は王を救った武勲で、シグルトの母の名誉を回復した。
 望めば高い爵位と、土地を得ることも出来たのにである。

 口下手な父は、「私の名誉は、誇らしげにしてくれる妻と子の笑顔なのだ」と恥ずかしそうに言っていた。
 シグルトはその言葉を残してくれた父を、心から誇りに思う。

 そして、それがシグルトの重んじる名誉そのものとなった。
 つまらない自尊心で貶めてはならないと、強く自戒している。
 
 他者の名誉を守れぬ者に、己の名誉は背負えない。
 何かを見捨て、何かを蹴落として得るのは増長慢心だ。
 共に喜び称え合えることこそが、誇るべき名誉である。

 それは、シグルトの揺るがない信念であった。

〝明日飢えるとも、一つのパンを友と喰らい、その美味を分かち合って死ね。
 身は飢えて原野に朽ちるとも、心と魂は満たされよう。

 姿と言葉は忘れ去られても、屍(しかばね)が汚く泥にまみれても、妻と子と大地はきっと誇ってくれる。

 強きは弱きを守り胸を張ろう。
 臆病者はせめて覚えていよう。

 死に急ぐのは愚かだが、心満たされ逝くことこそが生なのだ。

 その一生が尽きるまで、どうか恥じずに生きて行こう。
 だから死ぬ時は、誰かのために笑って逝こう。

 残る者には一欠片の幸福を。

 どうかこの心と魂には、ささやかな名と誉れあれ〟

 シグルトは、故郷の兵士たちが歌え伝えた『明日の英雄』と呼ばれるこの歌が好きだった。 
 明日の同輩後輩が、ささやかな微笑みで幸福を謳歌出来た時、シグルトはその名誉を実感出来るのだ。 
 
「では、早速明日にでも仕事を遂行しよう。

 契約書を作成したいので、この紙に署名を願えるか?」

 シグルトは宿から貰って来た張り紙の空いた場所に、先ほどの条件をさっと箇条書きにし、契約書を作成する。
 この方法は、貴重な紙を無駄にしないための知恵だ。

 “風を纏う者”のリーダーとして、多くの署名をして来たシグルトの作業は慣れたものだった。

「…これで契約成立だ。

 申し訳ないが、今夜はこの村のどこかで一泊させてもらいたい。
 どこか泊まれる場所があれば、手配して貰えると助かるのだが、お願い出来るだろうか?」

 村長は、「もちろん」と大きく頷いた。

「客人は、我が家の客室を使うといい。

 大変な仕事に安い報酬で申し訳ないが、代わりに今夜は村を上げて歓待したい。
 いかがなものか?」

 シグルトは、首を横に振った。

「お気持ちは有り難いが、迷惑だろう。

 泊まれるだけで、充分だ」

 すると、村長は声の高さを少し落とした。

「いや、冒険者殿には悪いが、すでに手配済みだ。

 熊騒動で、すっかり村人の覇気が無くなってしまってな。
 十年に一度の祭を前にしているというのに。

 祭の練習を兼ねているが、その実村人にうっ憤晴らしをさせたいのだよ。
 この様な森の奥の村では、きっかけがないと騒げないのが、悲しいところだな」

 笑う村長の申し出に、それならばと、シグルトも歓待を有り難く受けることにした。

 厳しい環境で生活する者たちは、とにかくお祭好きである。
 それは、祭や何かの宴会程度しか羽根を伸ばす機会が無いからだ。

 労働の妨げとなる酒は、普段は飲もうにも物が無く、特別な時にしか振舞われない。
 シグルトは厳しい環境で育ったので、その気持ちが良く理解出来る。
 
 粗悪だが独特の辛味があった故郷の酒の味を思い出し、シグルトは懐かしむ様に目を細めた。
 

 村長の言う通り、シグルトの歓待は大仰なものとなった。
 
 祭で行う芸の練習だといって騒いでいたが、村人たちは早くから酒に酔い、御馳走を並べて貪り食っている。
 ただ、殺生禁止というのは確かで、並ぶ肉類は塩漬けばかり。
 代わりに並ぶ果物や山菜料理は、とても豪勢だ。

 塩気の強い味付けに、喉が渇いて自然と酒が進む。

 シグルトは果実酒の様な甘味の強い酒は、あまり好まない。

 今は余計な風味が無い酒に、干した棗(なつめ)と生姜を薄く数片切り入れたものを飲んでいた。
 生姜の微妙な辛みは苦手な者も多いが、シグルトは好んで入れる。

 村の女たちがこぞって酌をしようと訪れるが、「手酌で飲むのが好き」と自分のペースで嗜んでいる。
 本心は、明日は熊退治というのに、節度の無い飲み方は命取りになるからだ。
 最も、シグルトの場合、どんな時でも暴飲暴食は決してしないのだが。

 村の広場には大きな焚火が焚かれ、それを囲んで男と女たちが手拍子で踊っていた。
 
 シグルトは、こういった祭の情景が好きだ。

 日々をささやかに生きる者が、その情熱を炎にくべて燃え上がらせる時。
 自身もそれを見ることで、強く生を実感出来る。

「よう、アンタ。

 楽しんでるかい?」

 不意に声を掛けられて、幻想的な炎からそちらに目を移す。
 そこには若い男が一人立っていた。

 好奇心に満ちた不躾な目で、シグルトを眺めている。
 少しだけ男の鼻の頭が赤いのは、酒に酔っているせいだろう。

「俺はヒラリオ。
 よろしくな英雄サン。

 アンタは、なんてんだ?」

 シグルトは、この男の態度や口調から、虚栄心が少し強い、典型的な若者の性格を感じ取った。

「…シグルト。

 英雄というのは言い過ぎだ」

 応えて、間を持たすために、一口酒を啜る。

「なんだ、そりゃ?

 生姜なんて、薬臭くなるだろ」

 からかう様子に、シグルトは苦笑する。
 
「生姜は消化を助け、棗は強過ぎる生姜の効果を和らげてくれる。

 俺はまだ仕事を終えていない。
 歓迎して貰って、次の日仕事が出来ませんじゃ済まないからな。

 酒は、身と心を助けてこそ、だ」

 正直用意された御馳走は、多過ぎて食べきれない。
 シグルトが食べたものと言えば、薄く切った塩漬け肉と香草をライ麦の硬いパンに挟んだものと、スープぐらいだ。

「いけねぇなぁ。

 せっかく歓迎してるんだ。
 しっかり食ってくれよ」

 そういう勧めも、はっきり断る。

「健康を考えるなら、こういった宴は夜より昼やる方がいいんだ。
 次の日、寝込んでも良いなら別だがな。

 暴飲暴食の後に寝ると、寝ざめも悪い。
 次の日吐くくらいなら、明日の弁当にとっておくさ。

 うまし糧も身を活かすために取らねば、今どこかで食えずに喘ぐ貧しい者たちに申し訳ない」

 祭の席では無粋な言葉。
 だが、シグルトは貴族として生まれた母が教えてくれた志…〈高貴なる責任〉について、一番最初にこう習った。

〝貴方がありつける日々の糧は、持たざる者の血と涙。
 当たり前とただ貪るだけなら、美味の真意は理解出来ないでしょう。
 
 力無き者の小さな捧げ物を心から尊べないなら、貴方は自身が一番蔑む者にすら劣ります。

 貴方が食べている糧には、お腹を満たす幸福と、身を繋ぐ恩恵…
 そして、それを食べて生きながらえる者としての責任が込められているのです。

 与えられた幸福と恩恵に感謝し、食べることで担った責任を忘れてはいけませんよ。
 生きてそれを果たした時、人は初めて誇るべき自分になれるのです〟

 シグルトにとって責任や名誉とは、威張るものではなく、守るものだ。
 彼が高潔でいられるのは、こういった基本的な部分から実践しているからである。

 小食な反面、水代わりに飲んていた酒量はそこそこになっていた。

 最も、北方人であるシグルトは酒に強い。
 故郷で飲んでいた酒には、「酔った気分を無理やり起こすために、悪酔いさせる」薬草をぶち込んだ凄いものもあったぐらいだ。

「それに肉を食い過ぎると、体臭を強くする。

 明日、熊にばれるからな」

 ふうん、とヒラリオは鼻を鳴らした。
 彼には、理解出来ないことなのだろう。

「ま、頑張ってくれよ、兄弟。
 アンタが熊を殺らなきゃ、十年に一度の祭が駄目になっちまう。

 俺たちみたいな連中は、祭と女ぐらいしか楽しみが無いんだ。

 真面目なアンタに、これ以上無理に酒を飲ませるのは止めるさ。
 でも、気が向いたら女と踊ってみないか?

 あそこの娘と人妻どもは、あんたに誘われたくて、うずうずしてる」

 酒を飲んだ男らしい、やや品の無い会話。
 ふとシグルトは、女好きで知られていた親友を思い出し、笑みを浮かべる。

「人に勧めるより、そっちが誘ったらどうなんだ?

 女の尻に目を取られて、踊りの最中に転ばない自信があれば、だがな」

 客人の痛烈な反撃に、ヒラリオはガハハと笑った。

「言うねぇ…だんまりな朴念仁かと思えば。

 ま、俺みたいなイイ男は、慣れ親しんだこの村の女どもに食傷気味でね。
 だからこのとろけそうなワインで、甘い夜を過ごすのさ」

 そう言って、ヒラリオはよたよたと去って行った。

(酒に酔った男など、皆あんなものだな)

 故郷を懐かしみつつ、シグルトはもう一口酒を飲んだ。
 生姜の辛みと、ほんのり匂う棗の香り。

「今晩は、冒険者サン。

 楽しんでる?」

 次に声をかけて来たのは、ブロンドの愛嬌の好さそうな娘だ。
 頬が赤いのは、熱気とやはり酒のせいだろう。

「うむ。

 正直、本番の祭りでもないのに、賑やか過ぎるとも思うがな」

 うんうんと、娘は頷いた。

「そうでしょう。

 だって、此処はとても退屈なんですもの。
 騒ぐためのきっかけは何でもいいのよ。

 私、もうすぐ結婚するんだけど、嬉しい反面〈人生の墓場〉かなぁ、なんて思っちゃう。

 つまり、私たちは貴方というきっかけを利用して、はしたなく盛大に騒いでるわけ。
 来てくれて、有難う~♪」

 どういたしまして、とシグルトは肩をすくめて見せた。
 祭りの雰囲気は、普段頑なな彼の表情を柔らかにしている。

「…それにしても、冒険者サン、本当に綺麗な顔してるわよね。

 もう、この村の女の子は貴方に夢中よ。
 人妻まで、潤んだ瞳でロマンスを求めてるんだから。

 熱に浮かされてないのは…あの娘ぐらい」

 不意にその娘が見やった先を見ると、煌びやかな服を着た髪の美しい娘が立っていた。
 青っぽい不思議な色の髪をした、神秘的な女である。

「彼女が今回の巫女。

 収穫祭の時、村一番の踊り手が伝承にある舞踏を捧げ、森神様に感謝するの」

 舞踏と聞いて、シグルトはラムーナのことを思い出していた。
 妹の様に思っている彼女は、無事に新しい舞踏を習得出来ただろうか。

「あの娘は、村の誇りよ。

 だって、幼馴染の私よりずっとダンスが上手なんだもん」

 軽い嫉妬と憧憬。
 そして、寂しげな様子は憐みだろうか。

 シグルトは、巫女と呼ばれた娘を見やる。

「ふふ、ね…冒険者サン。

 良かったら踊って来たら?
 貴方みたいな美男子が口説けば、あの娘も受けてくれるかも。

 それじゃ、良い夜を―」

 娘はそう言い残して、一人の男の元に向かう。
 彼が、結婚相手だろう。

 シグルトはしばしそのカップルを眺め、とても優しい顔をした。
 まるで、その幸せがずっと続けと願う様に。

「ねぇ、貴方…」

 そんなシグルトに、また呼びかける者があった。
 張りのある美しい声に、シグルトはゆっくりとそちらを振り向く。

 何時の間にやって来たのか、先ほど巫女と呼ばれた娘が立っていた。

 はっとする様な、華奢で可憐な容貌は、巫女の装束と化粧でさらに磨きあげられている。
 間違いなく、この村で一番美しい容貌をしていた。

「貴方、冒険者の人よね?

 噂通りの凄い綺麗な顔だから、すぐに分かったわ」

 薄っすらと浮かべた笑みと、好奇心に満ちた大きな瞳には、意志の強さも込められていた。
 そこにいるだけで、空気が変わるような強い印象を与える娘である。

「…シグルトだ。

 名乗るのはこれで何度目かな」

 苦笑して返すシグルトに、娘は嬉しそうに眼を細めて笑った。

「…うふふ、そうよね。
 でも私は貴方と会うのが初めてだから、勘弁してね。

 良かったわ。
 遠目に、あんまり楽しんでる様子が無かったから、帰っちゃったかと思った」

 そうやって胸を撫で下す。

「それなりに楽しんでいる。

 だが、帰るとは…
 その口振りだと、君は村長の身内か?」

 シグルトの洞察に、娘は頷いて手を叩いた。

「すごい…冒険者って、そんなことまで分かるのね?」

 笑顔の娘に、シグルトは首を横に振った。

「ただの推測だ。
 君は村長と雰囲気が少し似ている。

 …今晩は世話になるが、よろしく頼む」

 真っ直ぐに見つめ返したシグルトに、娘はしっかりと頷いた。

「…私はジゼリッタ。

 よかったら、ジゼルって呼んでね」

 差し出された手を、軽く握り返すシグルト。

「了解した。

 俺のこともシグルトでいい」

 シグルトの提案を、娘…ジゼルは目を輝やかせて受け入れた。


 ジゼルは、好奇心の強い娘だった。
 シグルトの横に座ると、根掘り葉掘り聞いて来る。

 簡潔明瞭にジゼルの問いに答えつつ、シグルトも会話を楽しむことにした。

「…まぁ、リューンから来たの?」

 シグルトの所属する冒険者の宿が、リューン郊外にあると聞くと、ジゼルは目を丸くした。

「故郷は、ずっと北の方なんだがな。
 他にもフォーチュン=ベルやアレトゥーザでも仕事をする

 この辺りはヴィスマールが一番の都市になるわけか」

 そして、シグルトは先日までフォーチュン=ベルに居たと告げる。
 
「凄い…あんな遠くから、よくこんな田舎まで来たわね。

 そんなに仕事が無いの?」

 ジゼルの素朴な質問に、シグルトは苦笑した。

「それなりに忙しい。

 今回は、通りがかりにヴィスマールで張り紙を見つけて、忠告がてらやって来た」

 村長とのやり取りを話すと、ジゼルは目を丸くしていた。

「シグルトって、好い人なのね。
 私たちは、貴方に依頼を見つけてもらえて、凄く幸運だったわ。

 私も言ったのよ、銀貨四百枚はちょっと酷いかもって。

 でも、こんな森の中の村ではお金がとても少ないのよ。
 果物やお酒は、商人と物々交換で渡すから、通貨そのものが手に入らないの。

 この辺りの村なんて、お金を持ってても使い道が無いでしょ。
 自給自足してることが多い村なら、なおさらね。

 聖北の教えには帰依してないから、あんまり他の村とも交流しないの。
 ううん、交流出来ないっていう方が正しいかな。
 もしかしたら、聖北の文化圏からは、仲間外れかも。

 年に何度か訪れる、旅芸人や吟遊詩人が語るロマンスなんて何も無い、退屈な村よ。
 皆して、世界はここだけだって思い込んでる様な…

 そうして村人は村で結婚して、村で一生を終えるの…」

 閉鎖的な環境に慣れつつも、外への憧憬を捨て切れていない、そんな目をして、ジゼルは苦笑した。

「実は私、リューンに行きたいの。

 もっとダンスの勉強をしたいなって思って」

 遠い地に思いを馳せ、目を輝かせるジゼル。

「俺の仲間にも、踊りの得意な娘がいる。 
 今頃、アレトゥーザで新しい舞踏を習い終えたかもしれないな。

 君が求めるなら、村を出て学びに行かないのか?」

 直球な質問をすると、ジゼルは肩を落とした。

「そんな風に言って貰ったのは初めてよ。

 皆、私をこの村に縛り付けて、放そうとしない。
 この村で生まれた女は、この村で子供を産み、この村で一生を終えるの。

 もう、ウンザリ。

 パパったら、食事の度にお説教するんだから。
 おかげで、スープが文字に見えてきちゃう。

 いつか、食当たりになりそうよ」

 そんな愚痴を言って、肩を怒らせているジゼル。
 
「…人は背負うものがそれぞれ違う。
 考え方の違う者のせいにして嘆いても、空しいままで報われることは決して無い。

 君が望むなら、やってみるといい。
 何が答えかは、踏み出してみなければわからないが、少なくとも不毛な愚痴を吐かなくてすむだろう」

 シグルトは、自然とそう言葉にしていた。
 驚いた様にジゼルが見つめてくる。

「…選んでから後悔することは必ずある。 
 だが、その場に留まって延々と何かを責めているぐらいなら、歩み出した方がきっとずっといいはずだ。

 俺もまた自分で歩んだことで、失ったり、悲しい思いを繰り返しながら、それでも生きて来た。
 その経験から言えることは、自ら選んだ道ならば、愚痴を言う時も他人のせいにしなくて済む。

 望むのならば、求めて進み出せばいい。

 自身のことを選ぶのは自分であるべきだ…少なくとも俺はそう思う」

 それは、シグルトの生き方そのものであった。

「俺の言葉は俺のものだ。

 君に与えてやれるのは、君とは違う者としての言葉だけ。
 それは、君の父上も同じこと。

 選ぶのは、何時でも君自身だ。
 今の状況も、君が選んだ先にある。

 誰かを責める前に、自分が見るべき先を見据え、行ってみるといい」

 そして、こう付け加える。

「ただし、自分で道を選んだ時は、自身で責任を果たさねばならない。

 〈自由〉という言葉がある。
 とても高潔で、俺たち冒険者はこの言葉を愛している。

 だが、本当に〈自由〉を得る冒険者は希だろう。
 何故なら、己自身で選ばずに依存する、その弱さは誰にでもあるからだ。

 〈自由〉の本質は、他から解放されて自ら成すこと。
 同時に、選んだために負うべき責任や業をも内包する。

 全てを自身で受け入れ、それでも歩める者にしか〈自由〉は無い。 
 君が、今の生を誰かのせいにする限り、その生は縛られている。
 たとえ、君が村を出た後でも、だ。

 何かを得るとは、失うことの表裏。
 
 もし、君が後悔も痛苦も覚悟して〈自由〉であろうと願うなら…
 君の〈自由〉が〝リューンでダンスを学ぶこと〟なら…

 最初にすることは、〈自由〉がもたらす責任を負う覚悟と、勇気を持って第一歩を踏み出すことだ。

 そうして、〈自由〉を勝ち得るか、それとも後悔しながら愚痴を言い続けるのか。
 それも、また君次第だな」

 とても深い意味の言葉だった。

 ジゼルは、シグルトの青黒い瞳に見つめられ、どきりとする。
 どうしてこの人はこんなにも深い想いを、その双眸に宿しているのだろう、と。

 まるで、森の夜空の様な眼差し。
 そこには、様々な苦しみや悲哀を内包しているのに、一片の迷いも無い。
 今の彼の言葉と同じ様に。

 胸が弾けそうに痛い…
 見透かされた恥ずかしさが半分。
 そして、病の身が半分。

(…そう、私はいつも〈コレ〉のせいにして来た。

 負けない様に明るく冷静に振る舞って…その実留まっている。
 私は…)

 ジゼルはふと広場の篝火を見た。
 間もなく燃え尽き様としているのに、こんなにも周囲を照らしているその炎を。

(ああ、この火は私と同じ。
 燃え尽きるその瞬間まで、周囲を精一杯照らそうとしている。

 そう、時間は有限で、やりたいことが私にはある。

 私は…踊りたい!)

 溢れる想いで胸をいっぱいにし、ジゼルはシグルトの手を取っていた。

「…ねぇ、シグルト、踊りましょう!」

 瞳を輝かせ、ジゼルは誘う。

「…俺は、上手くないぞ?」

 シグルトは、苦労性の彼らしい何時もの苦笑を浮かべた。
 それがとても可愛く見えて、ジゼルは笑う。

「うふふ、適当にふらついていれば良いわ。

 だって、お祭本番じゃないんだから」

 そう言って、ジゼルはシグルトを上目遣いに見る。
 戸惑う彼に、今度は拗ねて口を尖らせた。

「もぉっ…

 こういう時は男の人がエスコートしてくれなきゃ、駄目じゃない!」

 一瞬考えたシグルトは、また苦笑する。
 そして、大仰に片膝を地に着き、繋がれていた自分の手を、ジゼルの掌を上に載せる様に返す。

「…では、巫女にして舞姫たるジゼリッタよ。

 そのたおやかな御手を拝借。
 今宵の舞踏へ誘う名誉を、許し給え」

 片手は胸に、静かに一礼。
 かつて、恋人や妹に言われて覚えた、一つだけしか知らないダンスの誘い方。

 夜は更けていく。
 酒に、御馳走に酔いしれ、村人たちはもう微睡みに誘われつつある。

 残った観客は、星空と森の木々たち。
 
 篝火の照らすその舞台で、一組の男女は、とても不器用で微笑ましいワルツを踊るのだった。


 早朝、シグルトは外が白む前に起き出していた。
 周囲が薄暗い中で、広場へと向かう。

 日課の鍛錬のためである。

 朝が早いはずの村人たちを、誰も見かけない。
 昨晩しこたま酒を飲んだせいか、まだ眠っているのだろう。

 それはシグルトにとって、願ったりだ。
 出来れば、昼過ぎまで寝ていてほしいと思う。

 最悪の結果になった場合、熊はこの村を襲うだろう。
 そうなれば、家の中にいる方が安全だからだ。

 敗れるつもりは毛頭無い。
 だが、敵を刃に掛け、死を前にし続けて来た戦士の心は、驕りを許さない。

 最悪の結果が起きた時どうするか…その手段は村長に伝えてある。
 自分が夕刻近くなっても戻らなかったら、次の冒険者を早く雇う様にし、村人の外出は極力避ける様に、と。

 残す憂いは無い。
 ならば、備えて刃を磨くのみ。

 シグルトは、広場に立ち鍛錬を始めた。

 剣や籠手は、万一村人に会って驚かせない様に、外している。
 剣を持ったつもりで、手に馴染んだ愛剣の重みと太さをイメージしながら、時にゆったり時に激しく、演武の様に動作を繰り返す。

 やがて身体が温まったところで、次のステップに移行した。

 一歩で地面が抉れ、吐き出す息は炎の様。

 目前には、故郷で一度屠ったことがある羆をイメージする。
 そいつは、食らった人間の血で口元を真っ赤に染めていた。

 シグルトは、放たれる圧迫感に抗うため、深く集中した。

 心は氷…敵への憐憫と恐怖を消し去るために。
 腹は炎…敵を打ち破る猛々しさと力を得るために。
 手は刃…確実に敵を斃し、未来を切り開くために。

 睨み据えるのは、羆の身体の中心…心臓だ。

 羆が低く構える…突進で吹き飛ばされれば、圧し掛かられて、頭や喉笛を食い千切られる。
 立ち上がった時は、横薙ぎの一撃が来る…離れていれば身体一つ分覆い被さる様に伏せて、すぐに飛びかかって来る。

 羆の横薙ぎは腕の反対に下がって躱す、あるいは屈んで避け、脇を抜けて背後を取る。
 突進は真横に躱す…森の中にそれだけの広さがあるか…無ければ木を盾に、それが折れ砕ける一瞬で凌ぐ。

 熊の巨体と、剣を足した自身のリーチ。
 どれだけ自分が有利で、敵の急所を刺した後、死に際の一撃を貰わない様に、どう残心するのか。

 集中するごとに、敵の輪郭がはっきりしていく。

 羆のごわごわした毛並、そして鋭い爪や牙。
 円らに見える瞳に宿るのは、意外にも獰猛な獣の本性。
 生きるために食らう、畜生道の業。

 怒涛の様な圧力と恐怖を受け流し、貫くべき急所を意識して睨む。
 そして、達するべき結果は必殺。

 命を奪う自分には、苦しませずに相手を屠る義務がある。
 仕留め損なえば、悪鬼の如き獣を世に放つことになる。

 敗れれば村人が危うくなり、仲間は悲しむだろう。
 そして、大切な人が救ってくれた、その命が無駄になる。

(俺は戦い、己の生をもぎ取る。
 それが自然に食い込み腐らせる、人間の欺瞞だとしても。

 せめて、死をもたらす覚悟を持って、この刃を振るおう)

 一切の躊躇は無かった。

 動作は決まっている。
 ただ息を吐いて呼吸を止めた後、砲弾の様に駆け、羆の心臓を抉る。

 手の刃金は、シグルトの牙であり爪なのだ。

 心臓を破砕され、獲物がびくりと痙攣する殺伐とした風景。
 剣を引き抜いて、敵の余力を躱し切る。

 羆が倒れ伏し、その目から命の灯火が消えていく。
 死をもたらすおぞましさすら飲み込んで、シグルトは最後まで敵を睨んでいる。

 そう、殺した者の務めとして、敵を死の世界に見葬(みおく)るために。

 高まった気合いで、側にある噴水の水受けに溜った水の波紋が、さかしまになった。
 シグルトの髪や産毛が立ち、空気がびりびりと震える。

 それは殺気の様に澱んだ悪意では無く、闘う者の澄んだ一念。

 ふわり…

 羽根が浮き、舞い上がる様な初動。
 地を滑る様に駆ける。
 イメージした敵の目前、大地から力を吸い上げる様に力一杯踏みしめ…

 剣は、敵の心臓を穿ち抜いた。

 実際には数歩駆けて、空手を突き出しただけ。
 それでも、踏み込んだ足は地に減り込み、剣先をイメージしただろうその部分の空気が、弾ける様に飛散した。

 優れた武術家が最後に至るのは、心技体の三位一体と、それを引き結ぶ〈氣〉の領域。
 必ず成すと強く思う故に、必勝を呼び込む、迷い無き一撃であった。

「…フウゥッ…」

 腹の奥底から、溜めこんでいた雑念と後悔の全てを吐き出す様に、重い吐息で終える。
 
 全身汗だくになり、身体中の関節が緊張からの解放で悲鳴を上げた。
 押し寄せる疲労と、痛苦…それすら吐き捨てる。

「…行くか」

 見れば、村を囲う木々の隙間から、刺す様に朝日の清浄な光が通り抜けて来た。


 ジゼルは、鍛錬に励むシグルトを見つめていた。

 早起き出来たのは、理由があって酒が飲めなかったからだ。

 早朝に屋敷を出たシグルトは、ジゼルの部屋からも見下ろせる、広場の噴水の近くで鍛錬を始めた。
 剣を持っていないので、最初は珍妙な踊りか滑稽な道化の様だと笑いそうになった。

 だが、見るうちに飲み込まれそうになる。
 
 シグルトの背には、とてつもない悲壮があり、そして動作の一つ一つが強く繊細だ。
 それが魂の籠った技だと気付いた時、ジゼルは呼吸すら忘れそうになるほどに、見入っていた。

 やがて、シグルトの動作がぴたりと止まり、次の瞬間裂帛の気合とともに突きを放つ。
 シグルトの空いた手には、無いはずの剣がしっかり握られ、貫かれた何かが霧散した様に見えた。

 技が決まる瞬間、近くに稲津までも落ちた様に空気が震え、壁がビリリと震える。
 木々に羽根を休めていた鳥たちは、一斉に飛び立った。

 周囲から一瞬音が消える。
 刺激物の匂いを嗅いで、一瞬耳の奥が痺れた様な感じ。

「…凄い」

 溜息の後には、驚嘆の言葉が溢れた。

 同時に思う…自分は彼の様にひたむきで覚悟が出来ていたのか、と。
 
 昨夜、シグルトに言われた言葉が思い返される…
 
〝選ぶのは、何時でも君自身だ。
 今の状況も、君が選んだ先にある。

 誰かを責める前に、自分が見るべき先を見据え、行ってみるといい〟

「…そう、だよね」

 森に向かうシグルトの背を見つめながら、ジゼルはある決意をしていた。


 シグルトが森に向かおうと歩き出すと、後ろからジゼルが追いかけて来た。

「…貴方、又下長いね~

 追いつくのにも、一苦労だったわ」

 昨晩の巫女装束では無く、活動的な麻の上着に、革の上下。
 一見すれば男ものである。

「…何だ?

 まだ起きるには早い時間だぞ?」

 鍛錬によって汗で濡れた髪を拭いながら、シグルトが聞く。
 
「…お弁当よ。
 
 しっかり入ったこっちはお昼用。
 簡単にまとめたこっちは、朝ごはんだから、道中食べて。

 昨日の余りもので悪いけどね。

 私も弓をやるから、獣のことは分かってるつもり。
 すぐに熊が見つかるとは限らないから、食べ物ぐらい、ね」

 ふむ、とシグルトは頷いた。

 当たり前のことであるが、熊をはじめ動物の縄張りはなかなかに広い。
 羆が『森神の箱庭』をねぐらにしていたとしても、遭遇するかは分からないのだ。

 そうなれば、戻ってくるのを待つか、探しに行くか…どちらにしても長期戦である。

「有り難く頂こう。

 保存食では味気無いからな」

 そして、一緒に果実酒の瓶を受け取る。

「あ、お酒は拙かった?

 確かそういうお酒飲まないんだったよね?
 でも、生水よりはいいと思うんだけど…」

 しかし、シグルトは笑って首を横に振った。

「これはこれで別の使い方がある。
 この地特産の酒なら、尚更な。

 貰っていこう」

 別の使い道?、とジゼルが小首を傾げた。
 
「…捧げ物だ。
 神も精霊も妖精も、酒好きが多い。
 
 葡萄酒の起源はディオニソスだというが、彼の神は森の鹿神ケルヌンノスと集合して考えられることもある。

 昔から森の神域に入る時、酒を捧げるのは森人の習いとされている…この辺りでは違うのか?」

 ジゼルは目を丸くした。
 そういった風習は廃れたものも多い…特に聖北の教えが入って来てからは。

 この村に残る祭の儀式には、シグルトの言う様なやり方の名残らしきものがある。
 
「博学ね、シグルトって。

 そういうことって、冒険者や外の世界の人って、軽んじてるのかと思っていたわ」

 ジゼルの正直な感想に、シグルトは苦笑する。

「そも、信仰とは畏怖から生まれたものだ。
 
 神とは超常にして及ばざる領域…それを恐れた者たちが信仰を始めた。
 神や精霊をなだめるために、神官や巫女という役目が生まれ、君の様に舞踏を踊ったり、あるいは呪文や詩歌を用いる様になった。

 超常なる者への畏敬とは、生きるために慎重になることそのものなのだ。

 畏敬を忘れる者は、即ち危険に関する恐れも無いということ。
 
 それは勇気ではなく、無謀でしかない。
 怖れを知る者は、恐ろしいものに挑むための勇気と、危険に避けるための心構えを得られる。

 俺は敬虔では無いが、偉大な存在が無いとは思わない。
 そして、目前に神の領域があるなら、他人の家に入る様に敬意を尽くすべきだと思うのだ。

 特に、俺は余所者だからな」

 精霊術師の老婆に学んだシグルトは、神や精霊についてそう学んだ。
 
「…貴方って、年幾つ?

 昨晩みたいに、舞踏の礼法とか知ってるし、説教臭いし。
 まるで村の長老みたいかと思えば…

 己の道は自分で選べ、みたいな開放的な一面もあって…

 外見は若そうだけど、経験豊富っぽいし、年齢が予想出来ないわ」

 ジゼルが突拍子もなくそう聞いた。

「…先月19になったところだ。
 
 8月16日が俺の生まれた日だから、加えて二週と数日か」

 細かいところまで言うと、ジゼルは驚いて、だらしなく口を開ける。
 あいた口が塞がらない、そんな様子だ。

「…うそぉ、私と同い年?
 しかも、生まれ月では年下?

 外見は若いけど、見えない…ぜ~んぜん10代には見えないっ!」

 奇しくもそれは、シグルトがアンジュに出逢った頃に言われた感想とほぼ同じだった。

 シグルトは、その泰然さと強い意志から、老人の様な雰囲気を持っている。
 それは、先輩先達として後輩や年下の者を導き、リーダーとして仲間の中心となって皆を引っ張って行く、彼の指導力の表れなのだが。

「…むぅ、よく言われる。

 きっと、武人故の不精さから老けて見えるのだろうな」

 的外れな自推を口にし、困った様に首をめぐらしたシグルトは、年相応の青年だった。
 ジゼルはその可愛らしい仕草に、思わず吹き出してしまう。

「ぷ、ククク…

 変なの」

 美しくまっすぐで、とても聡明。
 なのに、踊りは不器用で、どこか憎めない鈍さもある。

 周囲を震わすほどの武勇を見せたかと思えば、同い年の娘に笑われて困った顔をしている。

 ジゼルは、出逢って一日で、すっかりシグルトのことが好きになっていた。
 それは、恋というには漠然とし過ぎた、憧れの様なものだが、胸の奥がむず痒くてとても温かくなった。

(きっと、沢山の女の子が夢中になってるだろうな…)

 シグルトは、村の若者が自分に向ける青臭い好色さや、押しつけがましい好意を感じさせない。
 素朴で慈しむ様な、爽やかな親しみで、今もジゼルを見つめている。

 その態度がシグルトを一段と落ち着いて見せ、側にいるとほっと出来るのだ。

「…熊退治、頑張ってね。

 貴方が無事に帰って来たなら、今夜がお祭の本番よ。
 びっくりする様なダンスを踊ってあげるから…

 それが一等席で立って見られる様に、怪我しないで」

 そう言って顔を伏せ、弁当の入った袋を押し付ける。
 こんなちょっとした動作が、無性に照れ臭い。

 シグルトはしっかりと弁当を受け取り、頷いた。

「…楽しみにしよう。

 では、行って来る」

 羽織った外套を翻し、シグルトは振り向かずに森へと向う。
 その広い背中を朝日の眩さに目を細めながら、ジゼルは無言で見送るのだった。


 林道を歩きながら、シグルトは真新しい鋼鉄の籠手をはめ、昔習った狩人のまじないをする。

 森から冷たく匂う土を、上に伸びた若枝から葉を数枚。
 握りしめて混ぜ合わせ、籠手と剣になすりつけた。

 これで鉄の匂いを消し、獣に気付かれなくなるという。

 残った土と葉の汁で右頬に一本、戦化粧を描いた。
 感じる遺物感と一体化して、やがて森に溶け込むイメージ。

 そして、地に剣を置き森に一礼する。

 森は妖精や精霊が住む異界なのだ。
 敬意を持たず、支配しようとすれば惑わされる。

「これから、貴方の神域で狩りを行う。

 この大いなる森を司る御方(おんかた)よ…
 俺は信無き故に、敬意と誠意で貴方に祈ろう。

 どうか、森の気まぐれより護り給え。

 木々と草花の精霊たちよ、大地の精霊たちよ、風の精霊たちよ…
 俺に、小さな祝福を与え給え。

 願わくば、森の命の様に永らえる力で、鉄の臭いを隠し給え。
 この身を、彼の獲物へ至らしめよ」

 シグルトの言葉に応える様に、森がざわめいた。
 何か大きな存在に抱かれている様な安心感で、胸が一杯になる。

「その慈悲に、感謝を…」

 剣を収め、ジゼルから貰った地酒を大地に少し振り撒く。

「残りは、獲物を狩り終えた勝利の暁に捧げよう…」

 全て捧げると、森の神威は満足してしてしまい、力を貸してくれない。
 酒を大半残して、焦らすのもまじないのコツであった。

 こうして、シグルトは『森神の箱庭』に向かった。


 その聖域は、欝蒼とした深い森だった。
 踏み慣らした道がなければ、容易く人を惑わせるだろう。

 その林道半ばでシグルトは、立ち止った。

「《…トリアムール、お前の風で、俺が風下にならない様護ってくれ》」
 
 シグルトが精霊術の詠唱を始めると、周囲にふわふわと風が漂い始める。
 その風は、どこか不機嫌だった。

「…?

 《どうしたトリアムール?》」

 言葉に言霊を含んだ韻を踏んで、シグルトは呼びかける。
 こうすれば、精霊には必ず言葉が届くからだ。

「「…あのお色気過剰女といい、さっきの痩せっぽちといい…最近シグルトってば、女の子に優し過ぎ。
 
  私という者がありながら…頭に来てるんだからっ!!」」

 神域で精霊の力が強まったせいか、トリアムールの囁く声がはっきりと聞こえた。

 普段は、精霊そのものの影響力が現実世界に及び難いのと、シグルトの精霊術師としての視覚や聴覚が弱いため、トリアムールとの交信は感覚的なものである。
 だが、この様な神域や幽体離脱でそのバランスに変化が起きると、今の様に声を聞き取ることも可能になることがある。

「…なんだ、何時もの嫉妬か」

 シグルトは言葉が交わせない時でも、トリアムールの行動や思考を把握出来る様になっていた。
 この可愛らしい風の精霊は、子供っぽい性格で悪戯好きだが、さらにはちょっと嫉妬深い。

 シグルトは、異性に好意を持たれやすいので、こうやって機嫌を損ねることがよくあった。
 さらには、トリアムールとシグルトが普通に出来ない言葉による会話が出来ることも、トリアムールとしては面白くないのだろう。

「「…お、もしかして話が通じてる?

  そうか、この森って〈信仰の残った神域〉だから、私たちの様な古の神の眷族の力が及びやすくなるんだ。
  よし、ではさっそく戻ってあの娘っ子の髪をかき乱して…」」

 不遜なことを考えているらしいトリアムールに、シグルトは呆れたように溜息を吐いた。

「…嫌がらせは、妄想の中だけにしておけ。

 それより、これから熊狩りをするから、力を借りるぞ」

 シグルトの眉が少しばかり釣り上がっているのを見て、トリアムールは「やだなぁ、冗談だよぉ」とひきつった笑みを浮かべた。
 前にしつこくシグルトに付きまとっていた取り巻きを、悪戯で転倒させたことがあり、その時に大目玉を食ったのだ。

「「りょーかいしたよ。

  でも、シグルト、無茶は駄目だからね。
  風で勢いに乗ると力は強まるけど、身体の負担になるんだから」」

 トリアムールの力を借りる【飄纏う勇姿】は、切り裂く突風を放ちながら、自身の能力を高める精霊術である。
 風に乗って勢いに乗れば、技の破壊力も格段に高まるが、同時に故障の多いシグルトの肉体に負担を掛けていた。

「もちろんだ。

 だが、羆は手加減して無傷で勝てるほど、弱くあるまい。
 むしろ、即決するために一切容赦無しだ。

 限界まで攻勢で行くぞ」

 さらに術を駆使してトリアムールの風を纏い、シグルトは剣の柄に手を置いた。
 精霊術によって研ぎ澄まされた感覚が、森の何処に目的の羆がいるかを探し始める。

 少し歩くと、やや開けた場所に出た。

(此処が、『森神の箱庭』か?)

 そこは樹木の根が所々の地面から突き出し、でこぼことしている。
 聖域としては随分と荒れている様で、特別な神聖さも感じない。

(…いや、何かとても小さいが気配がある。

 ここは何らかの問題があって、聖域としての用をなさなくなっているのだ。
 だから、あの様な奴が住みつくわけだ)

 シグルトの目前には、我が物顔で寝転がっている羆が一頭見えた。
 体格は並の羆に比べて、やや小さめ。

 足元には、腐りかけた獣の死体が転がっている。
 悪臭が立ちこめ、蝿の群れが煙の様に立ち上っていた。

(若い雄だな…
 縄張り争いに負けて、外れて逃れて来たのだろう。
 
 なるほど、ここは奴にとって楽園というわけか)

 だらしなく欠伸している羆を見据え、シグルトは静かに集中し始めた。

(…距離で50歩。
 だが、乱立した木の根が邪魔だな。

 俺の脚なら全速力で二呼吸ぐらいか。
 仕掛けるには、あの辺りから…)

 殺気を飲み込み、周囲の空気に自分の存在を溶け込ませていく。
 トリアムールが、熊に向かって風が吹かない様にしてくれていた。

 やがて、熊の背後を取る。

(…よし、仕掛けるか)

 シグルトは剣を鞘払い、転がっていた石を叩いて金音を立てた。
 
 びくりっ、と羆が背を震わせこちらを見る。
 その時には走り出していた。

 案の定、思わぬ奇襲に羆は浮足立つ様に立ち上がった。

「《トリアムール!!》」

 シグルトから二筋の突風が吹き上がり、羆を切り裂いていた。
 完全な奇襲に、敵は慌てふためき首をめぐらすだけ。

 地を蹴る両足。
 膝下に力が入らないシグルトは、踏み切る時、全身で大地を蹴るイメージをする。
 風に乗った、鋭利な突進でシグルトの姿がぐらりとぼやけた。

 周囲に突き出した木の根が、疾走を遮る。
 それを姫垣を飛び越える様なステップで、勢いを落とさないまま接近し、足りない部分は身に着けた籠手の重さを加えて剣を突き出す。

 全身全霊の一撃が、羆の心臓を抉った。

(…浅いっ!)

 風に強く押されていたためか、熊は思った以上に後ろによろめいていた。
 その分、刃は心臓を貫くまでには至らない。
 
 即座にシグルトは剣を引き抜き、バックステップする。
 敵の反撃は凌いで、再度の一撃で終わらせるつもりだった。

 しかし、その羆はすでに後ろに向けて倒れる寸前である。
 シグルトの剣が既に致命傷を負わせていたのだ。

「《トリアムール…楽にしてやれ》」

 羆の頸動脈を示し、短く告げる。
 一瞬の突風で羆の首筋が弾け、血飛沫が散った。

 羆はどうと後ろに倒れ、ひくりと一度痙攣して動かなくなった。
 失血による死は、眠る様な気だるさの中、苦しまずに死ねるはずだ。

 そのままシグルトはしばし、眼を閉じ黙祷する。

 全身を駆け巡る疲労を、飲み込むイメージで抑えて行く。
 添え木が足の肉を締め上げる激痛は、歯を食いしばって耐えた。

 背筋を下る冷たい汗。
 シグルトは何時も戦いの後に、眉間に皺を寄せる。
 それは、常人ならば数度は気絶しそうな痛みを耐えるためだ。

(…拙いな。

 少しずつ、耐えられる時間が短くなっている)

 シグルトが絶えず鍛錬しているのは、身体の温度を上げるためだった。
 軽快なステップは上半身の体重移動で引っ張り、襲ってくる眩暈はこめかみに力を入れて耐える。

 空気を噛んだ様な、独特の脱力感。
 人が思った以上に力を出せない時に感じる、背筋の底から這い上がってくる無力感。

 シグルトは、長時間瞬発力を持続出来ない。
 だから、敵を引きつけてここぞという時に技を発揮する。
 必然、振るうのに何時も以上の力を使う技には、使用限度があった。

 シグルトの技が鋭いのは、彼の才能と努力よりも、彼が悲壮な程の覚悟で身を削って振るうからだ。
 溜まり続けた無茶のツケが、少しづつシグルトの身体を蝕んでいた。
 
 眼を開けた時、熊の巨体は土に還ったかの様に動かなくなっていた。
 シグルトは遺体の泥を拭い、余っていた酒を少し獲物の頭に振りかける。

 転がっていた獣の腐乱死体は、そのまま引きずって行き、近くの窪地に捨てた。
 拾ったしなやかな枝葉を束ねて、死体からこぼれ落ちた蛆虫を掃き、羆の遺体の周囲を清めて行く。

 熊の死体の側によると、血抜きの処理を施し、零れた血は敷き詰めた枯れ葉に落とす。
 
 熊の処理が落ち着くと、シグルトは改めて『森神の箱庭』を見渡した。

 小さな祠らしきものが一つある以外、何も無い。 
 シグルトはその祠に近寄ろうとして、足を止めた。

 小さな土饅頭(土を盛り上げただけ)が、少し離れた場所にある。
 見れば、その周囲には丸い石が転がっていた。

(これは、『妖精の塚』の跡か)

 『妖精の塚』とは、零落した神々が聖北のような外来の信仰によって追い出され、違う世界に旅立つ時に使ったとされる門である。
 その塚がある限り、精霊や妖精として去った神は現世に力を及ぼせるが、それを知った教会の信者たちが塚を壊して回り、今はめったに見なくなった。

 その塚も、中心となる石柱を壊され、丸石で囲ったサークルは歪められている。
 もう一度祠を見ると、祠を置く敷石は、塚の物を使っているでは無いか。

(これでは、森神も出て来れまい)

 この様に、祭祀のやり方が歪んで去った神々は多い。

 祭る側は伝統を守っていると思っているが、この村では、本当の祀り方は廃れて久しいのだろう。
 または、廃れた祭をもう一度再興したのか。

 村の者は、十年に一度の祭だと言っていた。
 本来豊穣や収穫の祭は年に春秋の2回、少なくとも年に1度はあるものだ。

 飢饉や大きな災害があったためか、あるいは教会勢力から隠れるために祭をしなくなったのだろう。
 形式的に残った祭は省略化され、終いには元の祭とは別の、ただの儀式と化す。

 そうやって、古きものは消えていく。
 伝統とは、必死に守ってもやがてはこぼれてしまうのだ。

 此処の森神は随分優しいのだな、とシグルトは感じていた。
 ないがしろにされていた神や精霊は、本来祟るものである。

「…ならばせめて、俺の知る礼を尽くそう。

 古き森の神よ、その古の栄光を称え、森の恵みと慈悲に感謝を」

 歪んだサークルを直し、塚に生えた雑草と小さな木々を抜く。
 そして、敷石にされた石柱の代わりに、手頃で大きな石を持って来て、塚の中心に立てる。

 そこに酒を注ぎ、持ってきた弁当から供物代わりの供え物を用意する。

「《輪の先には、林檎並木の黄金の園。

  古の栄光は、母なる大地の胸にある。
  神々の時は過ぎ、妖精は微睡むだろう。

  私は覚えている。
  時が過ぎても、神々が偉大だった頃の昔話を。

  その姿は見えずとも、時無き楽園で安らかに。

  精霊の歌が風となって駆ける時…
  見えざる世界で、緑の褥で、貴方たちは古の夢を見る》」

 シグルトは歌う様に詠唱した。
 忘れられた古い神々の安らぎを願う、祝詞である。

 ある吟遊詩人が、荒ぶる神々の御霊を鎮めるために作った呪歌を元にしていた。

「…残念だな。

 この輪が無事なら、お前たちを帰してやれたかもしれんのに」

 シグルトが腕を撫でると、囁く様な声が聞こえた。

「「平気、私たちは幸せだもの。
  シグルトは覚えていてくれている。

  忘れられるのは淋しいけれど、人の誰かは覚えていてくれるから。

  だから、私たちはまた旅をするの。
  もう少し、貴方の物語を見ているの…」」

 シグルトは、妖精の力を借りることが出来る。
 彼の身体を借りているその妖精たちは、自分たちの世界への帰還を望んでいた。

 シグルトはその願いを果たしてやりたいと思っている。

「「安心、安心♪

  森の神様、喜んでるよ。
  きっと何かで応えてくれる。

  優しく大きな、森の神様♪

  うふふふふっ…」」

 しばし古い時代の神や妖精のために祈っていると、そんな風に妖精たちが騒ぎ出した。
 
「ならば、いいがな」

 シグルトはそう言うと、適当な木の根に腰を下ろし、弁当を広げて遅い朝食を食べ始めた。


 荒れた『森神の箱庭』を綺麗にして、シグルトは村に戻る。
 それなりの時間がかかったので、有り難く昼の弁当も貰って食べた。

 森から村に入ると、昨晩話したヒラリオが入口に立っていた。
 シグルトの姿を見かけると、すぐに長老の家に走って行く。

(なるほど、あの男の仕事は森番か)

 家の窓を少し開けて、不安げに村の者たちがシグルトを見ている。
 シグルトは、籠手をはめた手を軽く掲げ、勝利を示した。

 途端に家々の扉が空き、村人たちが嬉しそうに声をかけてくる。

 シグルトは、彼らに軽く応えると村長の家に向かった。

「ヒラリオから話は聞いている。

 依頼は、無事にすんだのか?」

 出迎えた村長は、シグルトに事のあらましを聞いて来た。

「羆の遺体は『森神の箱庭』の中央に残して来た。

 その処理はまかせよう…出来れば自然に従って、村の皆で食べてやってくれ」

 狩った獲物は、不味かろうと食ってやるのが森や山での礼儀とされていた。
 腹に収まれば、その獣は誰かの血肉として生きられるからだ。

「ふむ、御苦労だった。

 しかし、驚いたな…かすり傷一つ負っていないとは」

 村長は、無傷で依頼を完遂したシグルトに、いたく感服している様子だ。

 だが、シグルトは渋い顔をした。

 怪力の熊によって傷を負えば、致命傷になりかねない。
 無傷でいることで、ぎりぎり及第点なのだ。

「一瞬で仕留めるつもりだったが、叶わなかった。
 仲間がいれば怪我人が出たかもしれない。

 紙一重で生き延びることは出来たが、今後に考慮すべきことが沢山ありそうだ」

 この様に、シグルトはとても厳しい自己評価を下していた。 
 村長は、謙虚さと受け取った様だが。

 報酬の銀貨四百枚を受け取り、契約終了の署名を貰うと、村長が思いついた様に口にした。

「…どうだろう?

 収穫祭まで残って、是非一緒に祝ってくれまいか。
 村人たちも、皆貴方の誠実さを褒めていた。

 金で、というわけにはいかないが、せめて恩人をもてなす機会を頂ければ嬉しい。

 森神様も、きっと喜んで下さるだろう」

 村長の横で、ヒラリオも強く頷いている。
 その好奇に見開いた瞳は「残って武勇譚を語れ」と催促していた。

「…思ったよりも依頼が早く終わったので、明後日の朝までなら問題無い。

 これより厄介者となるが、それでもよろしければ」

 一礼したシグルトに、村長は深く頷いた。

「俺は、このことを村人に伝えてこよう」

 そう言ってヒラリオは、去って行った。

「では、世話になる。

 ところで御息女は?
 今宵世話になる挨拶と、弁当の礼を言いたいのだが」

 空いたバスケットを掲げると、村長は、ああと鷹揚に頷いた。

「ジゼリッタならば、何時もの乗馬だ。

 冒険者殿が熊狩りを終えるまでは、村の外に出るなと言ってあるから、村のどこかを周回しておるだろう」

 村長に礼を言い、馬小屋のある裏庭から見ようと、裏口から外に出させてもらった。
 それに表には、我先に熊殺しの武勇譚を聞こうと、村人たちが集まっていたからだ。

 屋敷の裏庭はよく整理が行き届いていた。
 馬が怪我をしない様に土が慣らされ、小石は道端に寄せられている。

 秋口の爽やかな微風が、果物の甘い香りを乗せて吹きつけて来た。
 獣を一頭殺してついた、血生臭さが洗われる様で、シグルトはまだ高い太陽を目を細めて見上げる。

 すると、風に乗って心地良い蹄の音が近づい来た。

 立派な白馬に跨り、乗馬服を着たジゼルがこっちに向かって来たのだ。
 彼女はシグルトの側まで来ると、馬からするりと下りて、愛馬の鼻面を撫でてやる。

「有難う、ホーリー」

 手綱を引きながら、彼女はシグルトに向き直った。

「…依頼はもう終わったの?」

 小首を傾げて、ジゼルが聞いてくる。
 シグルトがどこも怪我してないのを見て、ほっとした様子だ。

「うむ。

 先ほどは弁当を馳走になった。
 入れ物は、厨房の入り口に置いてきたが、問題無いか?」

 ジゼルは微笑んで頷く。
 しかし、シグルトが何時もの外套を纏っているのに気が付くと、表情が曇る。

「じゃあ、もう旅立つの?」

 ためらう様に尋ねるジゼルに、シグルトは首を横に振って苦笑した。

「…いや、村長の御好意を受けることになってな。
 収穫祭が終わるまで残ることになった。

 もう少しの間厄介になるが、よろしく頼む」

 ぺこりとシグルトが頭を下げる。
 
「…そう。

 なら、またお布団に、干したてのシーツをかけなきゃね」

 ジゼルは胸を撫で下ろしていた。
 その様子を見ていたシグルトは、不意にジゼルの胸元に目をやる。

「な、何?

 もしかして胸が好きとか?」

 決して好色な視線では無かったので、ジゼルは目を瞬かせた。
 虫でも付いていたのだろうか、と。

「…やや呼吸が荒いと思ってな。

 早く中で休むといい。
 俺も、明後日には旅立てる様、準備をしておこう」
 
 シグルトはそう言って、屋敷に戻った。
 どこか悲しげな様子で。

 残されたジゼルは、訳が分からず小首を傾げた。
 

 その日の夜、ウェーベル村の収穫祭が前倒しで行われることになった。
 熊肉の腐敗を避けるためである。

 狭い『森神の箱庭』には、村人が総出でひしめいていた。
 中央に場を設けるため、さらに詰めて座っている様は滑稽ですらある。

 中央には、巫女が踊れるスペースとやや小振りな篝火。
 火柱が赤々と夜空を照らし、天の月を食らうかの様に火の粉を捲き上げている。

 皆の前には足場もないほどの皿が並び、御馳走が積み上げられていた。
 中には、シグルトが仕留めた熊の肉もある。

 若く栄養の生き届いた羆の肉は、すぐに血抜きをしたためか味も良く、好評だった。

 シグルトは武勇譚を請われる度に適当に受け流しながら、ジゼルの到着を待っていた。
 伝承好きなシグルトにとって、古来から続く奉納の舞踏は興味深い事柄だ。

 すると、ジゼルが薄い舞踏服姿で、こちらに駆けて来る。

「…シグルト!」

 上気した白い肌はほんのりと赤く染まり、そこはかとなく色っぽい。

「寒そうな衣装だな。

 舞踏が始まるまで、何か羽織らなくても大丈夫か?」

 男性として、女性の魅力に興味が無いわけでは無い。
 だが、シグルトは好色な目で女性を見ることを決してしない。

「ええ、踊れば暑くなるから、これで丁度好いぐらい」

 踊る前の緊張と興奮で、弾む声で話すジゼル。

「…ねぇ、どう本番の収穫祭は?

 熊肉の方じゃないわよ…」

 冗談めかして、ジゼルがシグルトに尋ねる。

「そうだな。

 素朴だが、暖かい」

 シンプルなシグルトの返答に、ジゼルは嬉しそうに頷いた。

「ね、せっかくだから、詩の一つも吟じてみて。

 都会の人の感性って、興味があるわ」

 不意に振られた話に、シグルトは目を瞬かせた。

「詩など、幼い頃に母の膝元で真似て作った程度だ。

 俺にはまったくセンスが無いぞ」

 眉間に皺をよせたシグルトに、尚もジゼルは迫った。

「だからいいんじゃない。

 荒削りな男の人の詩って、森の神様に踊りに乗せて届けたら面白そうでしょ?
 それに、貴方は村の英雄なわけだし」

 一行に引く気の無いジゼルの好奇心に、シグルトは困った様子で最後には折れた。

「では、笑わず聞いてくれ…

《十の年が巡り、森神の園は宴に賑わう。
 微睡む神々の足音を、人々が称えるだろう。

 篝火の煌きは、宵闇に火花の手拍子を上げる。

 天の星たちは夜の闇に静寂(しじま)を奏で、
 月は眩い太陽に思いを馳せ、満ち欠け続ける。

 水は涼風を起こしてこの情熱を包み、
 大地には、樹木の芽生える命の声が豊穣を謳う。

 たわわな果実は、天地の慈しみで甘美に実り、
 獣たちの肉で腹を満たし、酒の熱さに心は躍る。

 夜空は深く、いかなる望みも吸い込んでくれる。

 明日に焦がれ、有限の時を生きるとも、
 人々に受け継がれる血潮と魂は、未来へと続くだろう。

 願わくば、清浄な日の出を焦がれて待つ。
 朝露で歓喜の涙を流す草花がある様に。

 栄える幸福がどうか恵みの雨をもたらし、
 森の神よ、この民草に豊かな収穫を幾年も与え給え。

 旅人たる私は、この出逢いを忘れない。

 舞姫よ、どうか我が拙き言葉を天に舞い上げよ。

 千の木の葉が落ちるとも、
 万の草花が芽吹く様に。

 このささやかな喜びに満ちた、感謝の吐息を…》」

 朗々とシグルトは詩を吟じた。
 
 彼の深い声が、夜の闇に溶けながら、聞く者の胸に沁み込んでいく。

「…俺ではこんなところか。

 やはり難しい。
 母なら、もっと良い詩を吟じただろうが」

 黙って聞いていたジゼルは、首を横に振った。

「ううん、十分よ。

 とても温かで優しい詩ね。
 貴方の喜びが分かるもの。

 この際、詩人に転職してみたら?」

 祭りの熱気で頬を染め、ジゼルが微笑んだ。
 
「…勘弁してほしいな。

 戦いよりも詩を作る方が緊張する。
 無精者の俺には、命を代償に詩の才能を与えるという〈妖精の恋人(リャナン・シー)〉に愛されずとも寿命が縮む思いだ。

 どうせ作るなら、歯の浮く様な言葉では無く、堅実な鍋か包丁の方がいい」

 突飛なシグルトの冗談に、ジゼルがくすくすと笑った。

「…有難う、シグルト。

 貴方のその気持ち…きっと森神様に届けて見せるわ」

 そう言って、ジゼルは『森神の箱庭』の中央に設けられた舞台へ向かった。
 
 しなやかに、静かな梢の囁きの様に、最初の動作が始まる。

 その舞踏は、決して激しいものでは無かった。
 だが、動作の一つ一つには、魂を揺さぶる様な情熱が込められている。

 篝火の炎を反射して、ジゼルから飛び散る汗が、宝石のように輝いた。
 応える様に、火の粉が空に舞い上がる。

 ジゼルの瞳は、夜空の星よりも強く輝いていた。
 その情熱を炎にくべ、天に昇る勢いで繊細な舞踏を踊り続ける。

 そんな中、ジゼルの双眸がシグルトのそれと合い、どちらからともなく笑みを浮かべ合う。

 互いに生じた想いは、恋などという洗練されたものでは無く、2人の仲は同じ祭を楽しむ巫女と旅人に過ぎない。
 だが、詩を捧げた者とそれを奉納するもの…2人は祭の熱気の中で常には無い一体感を感じていた。

 ジゼルはくるくるとシグルトの側まで踊って来ると、何かを持ち上げる所作で天を仰いだ。
 また篝火が弾けて、祭はクライマックスを迎えようとしていた。

 そんな2人の姿を、木の陰から睨む影があった。

「…何故だ?
 余所者が、どうしてあいつの側にいて親しくしている?

 ジゼルも、何故あの様に微笑むのだ?
 同じ村で共に過ごしたこの俺には、振り向きもしないと言うのに。

 …気に食わん。
 まるで劇の勇者と姫にでもなったつもりか?

 どうして、そんなに満ち足りた笑顔を浮かべるのだ…
 お前の病を知り、それでもお前を見ているこの俺をないがしろにして。

 次第に赤らんでいくその頬は、恋する乙女だとその男に告げたいのか?

 見ていろ…俺こそが相応しいと思い知らせてやる!」

 その男、ヒラリオは血が出るほどに唇を噛みしめ、嫉妬に狂った血走る眼で睨んでいた。
 幻想的な祭の2人を、まるで呪い殺す勢いで。


 やがて、踊り終えたジゼルは額の汗をぬぐいながら、手を振る村人たちに応える様に優雅な礼をした。
 
 それを遠目に見ながら、シグルトは酒を啜る。
 
(祭とは不思議だな。
 忘れた多くの物を思い出す様で、とても騒がしく熱い。

 それほど経っていないのに、これほどまでに郷愁を覚える)

 酒が切れ、口に入った生姜の味が酔いを覚まさせる。
 何時だって夢は覚め、祭は終わるのだ。

 黄昏ていたシグルトの隣に、ジゼルが腰かけた。
 祭の熱気と踊りで赤く染まった白い肌を汗で輝かせ、大業を成し遂げた充実感で満ち足りた笑みを浮かべながら。

 シグルトは優しく微笑みかけ、彼女を讃える様に頷いた。
 嬉しそうにジゼルは目を細め、夜空を見上げる。

「ああ、まだ踊り足りないわ。

 今夜だけは、ウィアに魅入られた男の様に踊っていたい気分!」

 祭の音楽に合わせて指を鳴らしながら、首を音に合わせて振っているジゼル。
 
「ウィア…ああ、ウィリーのことか。

 此処にも、不埒な男を踊り狂わせるという妖精の伝説があるのだな」

 シグルトが、何とはなしに口にした。

「あら、知ってるの?

 貴方の知る伝説も似たものなのかしら?」

 何気に口にした、ジゼルは興味深げにシグルトを見る。

「多分同じルーツの伝説だろう。

 非業のまま死んだ森に住む乙女は、その怨念を晴らすため、不埒な男を死ぬまで踊らせる妖精になって、月光の下舞うという。
 その始まりは、〈ウィル・オ・ザ・ウィスプ〉…鬼火伝説の一種らしいがな」

 シグルトが知った顔で話すと、ジゼルは持ち前の好奇心で身を乗り出して来た。

「貴方の知るそのお話を聞きたいわ。

 鬼火伝説って何?」

 シグルトは、祭の熱に酔ったのか、少し饒舌になることにした。
 元々伝承を語ることは、嫌いでは無い。

「…ある所にウィルという不埒な男が居た。

 ウィルは、強欲で口が軽く、それ故に生前に沢山の罪を犯したまま死ぬ。
 しかし、天国と地獄を分ける場所で人を裁くという聖者を言い負かし、一度は生き返るのだ。

 だが、反省せずに悪行を重ねたまま、またウィルは死ぬ。
 再びウィルを迎えた聖者は、ウィルの業の深さに呆れ果て、天国にも地獄にも行けない様、扉を閉ざし彼を追いやってしまったという。
 
 以来、ウィルは中有…死と生の狭間を彷徨ったまま、誰からも見つけられず淋しく孤独に彷徨うこととなった。
 それを見た悪魔は不憫に思い、煉獄に燃える一つの木炭をかぶのランタンに入れてウィルに手渡し、彼はそのランタンを持って闇夜に現れる。
 
 そして、自分の仲間を増やすため、底なしの沼地や淵にその青白いランタンで誘うそうだ。

 その伝説にちなみ、アンデッドとなって鬼火を燃やすものをウィル、あるいはごく一般的な男の名前…ジャックと呼ぶ。
 鬼火…アンデッドの〈ウィスプ〉とは、この燃える木炭やランタン、火を付けたひと房の藁束等が元の言葉となっているそうだ。

 そこから派生したのがウィリーだ。
 女の鬼火から、果てはウィスプを妖精とする説から、男に騙されたり不幸にされた乙女が死ぬと、ウィリーという恐ろしい妖精になると。

 ウィリーは、自身に非業を与えた男を憎み、生きている者を羨み、そう言った者を見つけると死ぬまで踊らせるか、自由を奪って底なし沼に沈めるという。

 おそらくは、真夜中に踊る妖精の伝説と、生者を惑わす鬼火の伝説が集合して生まれたのだろう。
 そう言う伝説が残る地では、実際に伝説をもとにした怪物や妖精が生まれるそうだ。

 伝説は信じる者がそれを行った時、真実になる。
 案外、君がその伝説を知っているなら、この森にもそういった妖精が居るのかもしれないな…

 何時までも踊りたいなどと言葉にしたら、本当に休まず踊り続けさせられるかもしれないぞ?」

 伝説を流れるように説明し、最後に不遜なジゼルの言葉を取ってからかう。
 流石にシグルトも、祭の酒に酔ったのだろうか。

 同時に、ジゼルの身体を気遣っての言葉でもあった。
 シグルトは、ジゼルが病を抱えていることを見抜いていたのだ。

「こわ~い。

 分かりました。
 今日は休むから、脅しちゃ嫌よ」

 目は笑ったまま、ジゼルがおどけて見せる。

「そうしろ…休めば、またもっと踊れるはずだ。

 きっと、いい踊りをたくさんな」

 そう言ってシグルトは立ち上がり、近くの空いた皿に、使っていた杯を伏せて置いた。

 篝火は火勢を弱め、酔った村人たちも少しずつ帰りつつある。
 祭の終焉は近いのだ。

 天を仰ぎ、シグルトは一度静かに目を閉じる。

 そして、出逢ったばかりのジゼルという娘が心の底から自由に踊れる様に…
 夜空に祈りを捧げるのだった。


 次の日の朝。
 シグルトが朝の鍛錬を終えて村長宅に戻ると、火急の用事と村長に呼び出された。

 少しだけ後ろ髪を引かれる思いはあった。

 この村の空気は、故郷のそれに似ている。
 土臭くて素朴な、飲み込む様な閉鎖された世界。
 だからこそ、常の世界には無い独特の安らぎもある。

 だが、村長の一声はその迷いを完全に打ち消すものだった。

「昨晩は、楽しませて頂いた。
 誘って頂いたことを、心から感謝している。

 久しく忘れていた故郷を思い出し、立場を忘れてはしゃいでしまった様だ。
 迷惑をかけていなければよいのだが…」

 村長は苦笑して頷いた。

「迷惑などでは無い。

 貴方の詩は私も横で聞いていた。
 その気持ちに胸が打たれた。

 貴方の喜びも、祭に招いた者としてとても喜ばしい」

 だが、不意に眉を寄せ暗い顔になる。

「…しかし、貴方には本日中に村を出てほしいのだ。

 これは、貴方が迷惑をかけたからでは無い…
 一人の父親として頼みたい」

 明らかな拒絶の歎願。
 シグルトは黙ってその先を待った。

「…ジゼリッタが昨晩、貴方と村を出たいと言いだした。
 冒険者としての貴方の強さと高潔さに触れ、そして決意したのだろう。

 私も一人の父として、それを応援してやりたい。

 しかし、ジゼリッタには外の世界は耐えられない。
 あの娘は重い病を患っているのだ。

 だから、これ以上娘を惑わせないで頂きたい」

 黙って聞いていたシグルトは静かに頷く。

「…あの細い呼吸や、裏に干された薬草で見当は付いていた。

 娘御は、心の臓を患っているのだな?」

 村長の目が見開かれた。

「…かつて、医者を師に学んだことがある。

 ジゼルの病は、初めて会った時にそれとなく感じていた。
 親としての貴方の気持ちを分かるなどと増長するつもりはないが、気の毒に思う。

 申し出は最もだ。
 俺は、すぐにも村を去ろう。

 今まで世話になった。
 感謝する。

 だが、今一つお願いしたい。

 もし貴方が、父として娘に望む道を歩ませてやりたいと願うのなら…
 今なら、俺の医学の師がペルージュにいる。
 彼は、同じ様な症例を数年の治療で完治させたことがあると言っていた。

 ここに、その医師への紹介状と、会うための手順をしたためておいた。
 変った異国の人だが、高い金を取る人では無いし、消毒用に使える強い酒を2~3本渡せば診てくれるはずだ。

 お節介かもしれないが、このまま座して死に怯えるよりは希望もあるだろう。
 願わくば、彼女に運命に挑む機会を与えてやってほしい。

 俺はまだ親では無いが、子として親を思ったことはある。
 だからこそ、ジゼルの気持ちを汲んでやりたい。
 
 どうか、あの娘の夢が叶う様、決断してくれ」

 巻いた羊皮紙を机に置き、シグルトは静かに村長の決断を待った。
 降って湧いた希望に、村長は何度も頭を下げて礼を言う。

「…幸せになる者は、多いに越したことはない。

 もしその手助けになるなら、何よりだ。
 ペルージュは聖北の領分だから、この村の信仰のことは隠して行くと好いだろう。

 では、荷を持ったら失礼する。
 ジゼルに、よろしく伝えてくれ」

 一礼して、シグルトは去って行く。
 その後ろ姿を見つめながら、村長は呟く様に口にした。

「…冒険者、か。 
 なんと気持ちの好い男なのだろう。

 ジゼリッタが興味を持つのも、当然だ。
 だが、あれほどの器では、この村で娘の婿にとも言い出せんな。

 娘の見る目は確かだったが、それ故に目を付けた男が特別過ぎた。
 あれは、風の様に止まらない、そんな男だ」

 医者への紹介状を握り締め、村長は寂しげな笑みを浮かべた。


 シグルトが屋敷を後にしようと荷を纏めていた頃、ヒラリオは村長邸の馬小屋に忍び込んでいた。

「良し、誰もいないな。

 あの阿婆擦れめ…
 俺を怒らせたことを後悔させてやる。

 ククッ、この薬でお前の愛馬は大暴れさ」

 手に持った粉薬を一摘み、ヒラリオの侵入を警戒して鼻息を荒くしているジゼルの愛馬ホーリーに振りかける。
 見る間にホーリーの目から理性が消えた。

 ヒラリオは小屋に設けられた柵を外し、扉を開けてホーリーの脱走をお膳立てる。

「…シグルト。

 アンタは、あの馬を止められるかな?」

 自身もまたその粉薬によって惑わされたかの様に、ヒラリオの目は嫉妬の炎によって燃え狂っていた。


 シグルトが旅支度を終え、屋敷を出ようとすると、村長が見送りに玄関まで現れた。

「では、世話になった」

 短いシグルトの挨拶に、村長は「こちらこそ」、と応え頭を下げる。
 
 そうしてシグルトが、この村での逗留を終えようとした矢先である。

「キャァァッ!!」

 甲高い女の悲鳴。
 そして、人々が怖れ戦く声があちこちから聞こえてくる。

「な、何事だ?」

 村長が動揺して思わずに声にした。

「…蹄の音がする。
 
 この様子は、暴れ馬か?」

 シグルトの落ち着いた判断に、村長の顔が青ざめた。

「ま、まさかうちの…!!」

 それ以上聞く事無く、シグルトは外に飛び出した。

 案の定、外ではジゼルの愛馬ホーリーが、狂った様に暴れていた。
 目は血走り、口端から泡をこぼす姿は、まさに「狂乱した」様子である。

 周囲は、果物の収穫のために出された木箱や荷車が蹴倒され、酷い有様だ。
 何人か巻き込まれて怪我をしたのか、倒れた数人が呻いている。

(…死ぬほどの怪我人は居ない様だな。

 しかし、気難しそうだったとはいえ、見た限りこれほど暴れる様な馬では無かった。
 何がこうまでさせている?)

 シグルトは精霊術を用いて妖精の加護を得ながら籠手をはめ、ホーリーに近づいていった。

「…ホーリー!

 止めろっ!!」

 前に立塞がって、その気を誘うと、怒り狂ったホーリーはシグルトに襲いかかって来た。
 近寄った拍子に、飛び散ったホーリーの涎から何とも言えない刺激臭がする。

(…これはエパか?

 く、誰かが意図的にホーリーを狂わせたな。
 いったい誰が…)

 襲い掛かって来たホーリーの蹄を、見切って躱す。

 しかし、着地場所には砕け散った木箱の欠片が落ちており、ホーリーはそれに足を取られて派手に転倒した。
 骨の折れる音と、壁に激突する凄まじい音。

 土埃が舞い、ホーリーは一度悲しげに嘶いて、地に倒れ伏した。

 耳と鼻から血を噴き出し、舌をだらりと出す。
 当たりどころから、頭蓋骨が砕けたのだろう。
 馬の突進力とは凄まじいのだ。

 シグルトは動かなくなったホーリーの側によると、さっと脈を測り、唇を噛みしめた。

 その時、騒ぎを聞きつけてジゼルが走って来た。
 荒れ果てた周囲の様子と、変わり果てた愛馬の姿に目を見開く。

「えっ…これは?」

 悲壮な様子でシグルトを見るジゼルに、シグルトは静かに首を横に振った。

「ね、ねぇシグルト…

 これはどういうことなの?」

 信じられないという顔で、ジゼルはシグルトに問いただした。

「貴方が、貴方がホーリーを殺したの?」

 しばし黙ったシグルトは、肯定も否定もしなかった。

「俺に襲いかかって来たので、その攻撃を避けた。

 その時着地に失敗して壁に突っ込んだが…事故と一言で片付けられる状況でもあるまいな。
 この様な結果になって、すまない」

 静かにシグルトはジゼルを見た。
 否定しても、状況はそれを許さない。
 故に一旦ジゼルが話を聞ける様になるまで、待つつもりだった。

「…どうしてっ!」

 ジゼルが手を振り上げる。
 それを横から割って入った村娘が止める。

「違うわ、ジゼル!

 その人は悪くないのっ」

 彼女の静止に、力無くジゼルの手が下げられる。

「マリー…」

 マリーと呼ばれた村娘は、荒れ果てた村の様子を指さした。

「見ての通りよ…

 ホーリーが突然暴れ出して、それを冒険者サンが止めようとしてくれたのよ!
 そうしたら、ホーリーが冒険者さんに襲い掛かって…

 そのまま受けたら死んでしまうから、冒険者サンは攻撃を躱しただけ。
 ホーリーはそのままこけて、運悪く頭を強くぶつけて…

 だから、冒険者サンは悪くないわ」

 ジゼルの目に諦めの光が宿り、そして彼女は項垂れた。

「…そう。
 分かったわ。

 ホーリー、今…うっ!」

 力無くジゼルは、死んだ愛馬に近寄ろうとして、突然苦悶の表情になる。
 胸を抑え、脂汗が額から落ちた。

「…いかんっ!」

 シグルトは、すぐにジゼルの心臓が発作を起こしたのだと気がついた。
 強い緊張の後の僅かな脱力…心臓の病にとってこれらの急激な変化は大きな危険を伴う。

「…く、苦しい…!」

 喘ぎながら、細い息を繰り返し、パクパクと口を開閉するジゼル。
 駆け寄ったシグルトは、血流を制御するツボを押さえ、彼女の体勢が楽になる様に抱き抱える。

(くっ、唇が紫になっている…

 血が息が意思に逆らい始めているのだ。
 このままでは拙いっ!)

 処置を続けながら、シグルトは強い口調で側にいたマリーに声をかけた。

「…マリーと言ったな?

 すぐにジゼルの家の玄関に掛かっている、尖った葉の薬草を持ってきてくれ!」

 ジゼルの乗馬服を緩め、体温が奪われない様に、自分が纏っていた外套でその身体を包む。

「う、うん!」

 慌てて駆け去るマリー。

「い…嫌っ!

 まだ、死にたくない…助けて」

 弱い痙攣を繰り返しながら、ジゼルが助けを求める様にシグルトに手を伸ばす。

「ゆっくり息を吸えっ!

 惑乱に意識を捉われるな。
 ゆっくり、背中の後ろまで吸い込み、ゆっくり吐くんだ」

 血流を落ち着けるため、優しく肩を擦ってやりながら、シグルトは懸命にジゼルを励ました。

「…シ…グル、ト…」

 弱々しい一息の後、ジゼルはシグルトの名を呼び、だらりと脱力した。
 触れた身体から、脈拍による振動が消える。

「…逝くなっ!」

 シグルトはジゼルの心臓を何度もマッサージし、ジゼルの鼻をつまんで口移しで息を吹き込む。
 時折心臓を叩く様に胸の中心を圧し 、手に気を集中して心臓に送り込む。

 だが、何度蘇生処置を施しても、ジゼルが目覚めることは無かった。

 側には、薬草を抱え蒼い顔したまま立ち尽くすマリーと、急を聞いて駆け付けた村長が祈る様な目でシグルトを見つめていた。
 諦めず、ずっと蘇生処置を続けるシグルト。

 時間が立つのも忘れて、行為に没頭していたシグルトは、背に男の嗚咽を聞き、終にその手を止めた。

 泣き崩れた村長の姿があった。
 その手から、シグルトの渡した紹介状が零れ落ちる。

 シグルトは、手拭いでジゼルの汚れた顔と口を拭き清めると、服を戻しそっと地に横たえた。

「…力及ばなかった。

 すまない」

 周りには村人たちが集まって来ていた。
 中には、壊れた木箱を片付ける者もいる。

 ホーリーの遺体はすでに無かった。
 空の太陽は、真上からシグルトをギラギラと照らしていた。

 それだけ長い間、蘇生処置を続けていたのだろう。

「…冒険者サンは悪くないわ」

 泣き腫らした顔で、マリーが言った。
 今でも両手には、祈る様に薬草が抱えられている。

 シグルトは耐え切れない激情をかみ殺す様に歯を食いしばり、憎い何かを叩き潰す様に石畳を殴りつけた。
 飛び散った石のかけらが、シグルトの額をかすめ、血が一雫だけ汗と混じり合ってジゼルの頬に落ちる。

 それはまるで、シグルトの流した慟哭の涙の様だった。
 

 ジゼルはホーリーの遺体とともに、すぐに埋葬された。
 この村には、事故死の者が出た場合、魔物に成らぬ様すぐ葬る仕来たりがあるという。

 美しく、才能に恵まれた森神の巫女は、その夢を叶えることなくその一生を終えた。
 天は彼女に才能と美しさを与えたが、病という重い宿命も背負わせたのだ。

 シグルトは、村長と村人に請われ、ジゼルを埋葬するのを手伝った。
 村の誰もがシグルトの必死さを目にし、その資格があるのだと認めていた。
 
 墓穴を掘るのを手伝い、遺体を地に横たえ、土を掛ける間…シグルトは一言も喋らなかった。
 涙は流さない。
 だが、彼が泣いているのだと、誰もが感じ取っていた。

 シグルトは、親しい者の死を経験したことが何度かある。
 それ故に涙を流して悲しむのは、親である村長と、ジゼルの親しい者たちが行うべきと身を律していた。
 
 冷静に振る舞うシグルトの唇は引き結ばれ、軋む様に歯を噛みしめる音が、その悲しみの深さを物語っていた。

(俺は何人、親しくなったものを見送ればよいのだろうな…)

 シグルトの背中は、そんな彼の本音を正直に語っていた。


 その夜のこと。

 誰も居なくなったジゼルの墓の前で、泣きながら謝る男の姿があった。
 ヒラリオである。

「ううっ…許してくれ!

 まさかこんな酷いことになるなんて、思いもしなかったんだ。
 ただ、お前とあの冒険者が楽しそうに話していたのが、妬ましかったんだ。

 すまない…すまないっ!」

 だが、ヒラリオは知らなかった…あるいは信じていなかった。
 夜半過ぎ、人の悲しみや後悔が、人ならぬものを招くことがあることを。

 そして、此処は墓場である。
 時には未練を残したものが弔われる、死と生の狭間…中有の領域なのだ。

 ヒラリオは嘆くのに夢中で、何時の間にか自分が沢山の鬼火に囲まれていることに気がつかなかった。

 不意に自分の涙が何かの光を反射して青白く光り、漸くそれに気付く。

「…ひっ!

 ひぃぃぃっ!!!」

 不気味に揺れる無数の火の玉を見て、ヒラリオは正気を失った様によたよたと走り去った。

 やがて、鬼火の一つが古びた墓の上で人の姿を取る。
 それに習う様に、無数の鬼火たちは次々と人型に転じて行った。

 中央で最初に人型を取ったそれは、美しく白い顔を嘲りの表情で歪め、ヒラリオの逃げ去った先を詰まらなそうに見やった。

「…薄汚い人間の男め。

 我らが聖域を、言い訳と鼻汁で汚した罪は万死に値する。
 すぐに殺してくれようが…

 それよりは、新しく生まれる同胞(はらから)の祝福が先。
 
 ウィアの女王ミレトの名において命ずる…
 皆も妾と祝うのだ」

 女は、透けた白い霧の衣を纏い、捩じくれた一本の棒杖を天に掲げ、一つの墓を示す。
 それは、先ほどジゼルが埋葬された墓である。

 高らかに女が呪文を唱えると、合わせる様に他の人外たちも唱和する。
 杖を持ったその女が、その杖でジゼルの墓を打ち据えた時、地面から弾け出る様に小さな鬼火が一つ飛び出した。
 その鬼火はやがて、人の姿を取る。

「…あ、あれ?

 私は何を…」

 それは、少し透けた姿だったが、間違いなくジゼルである。

「ふふ、ジゼリッタと言うのか。

 お前も、無念非業の死を遂げたのだな?」

 薄い唇を歪め、杖を持った女は笑う。

「えっ…

 私は、心臓の病で――」

 目をぱちくりと開閉し、分からないという風にジゼルは首を傾げる。

「――そう、お前は心臓の病で最期を迎えた。
 愚かな男の嫉妬によって起こされた、無情な仕打ちのせいでな。

 故に、妾たちの同胞として復活させた。

 この辺りでは〈ウィア〉と呼ばれている、その妖精になったのだ」

 女の言葉によって思い返されるシグルトとの会話。
 
〝…非業のまま死んだ森に住む乙女は、その怨念を晴らすため、不埒な男を死ぬまで踊らせる妖精になって、月光の下舞うという…〟

「ウィア…」

 舌に乗せて言葉にすると、不思議な感じがする。
 祭の中、隣でシグルトが語ってくれた妖精に、自分自身が成ったという神秘。

「―むっ…?

 珍しい夜だ。
 こんな夜更けに、2人も人の気配を感じるとは。

 ジゼリッタよ、その獲物はお前にやろう。
 我らの存在意義、しかと体認するのだ」

 女は促す様に頷くと、他のウィアを伴って飛び去った。

 残されたジゼルは、自分の墓の前で途方にくれる。

「…身体の奥底から湧きあがってくる、この衝動と知らない知識。
 私は、ウィアになったのね。

 でも、この衝動を否定する自分もいる。

 どうすれば…」

 思い浮かぶのは、自分の最期を看取ってくれた美しい一人の男。
 彼なら、どうするだろう?

 ジゼルは透ける身体で立ち尽くしたまま、思案に耽った。


 杖の女が感じたもう一つの気配は、シグルトだった。
 
 彼は、村人の勧めを断り、今晩のうちにヴィスマールへ帰還するつもりである。
 夜間の道は暗いが、その気になればランプも持っていたし、一度歩いた山道は記憶している。

 シグルトの胸には、封じていた暗い気持ちが呼び起されていた。
 助けようとしても叶わぬ不遇があることを、再び強く感じたせいだ。

 もっと早く駆けより、ジゼルに治療を施していれば…
 あるいは、ホーリーを止められていれば…

 様々な〈もし〉が頭に浮かんでは消えて行く。
 ジゼルを失った今では、それが詮無い愚痴に過ぎないことも分かっている。

 シグルトは多くの死を看取って来た。
 その中にはもっと身近だった者の、さらに残酷な死様もあった。

 一個の人間が努力したとしても、痛苦別離は世の常であり、逃れられない。
 それをよく分かっているシグルトであっても…やはり死別の虚しさは深い。

 ジゼルはもしかしたら、新しい未来を歩めるかも知れなかったのだ。
 希望に満ちた、夢を叶えるための未来を。

 だが、彼女は死んでしまった。
 とてもあっけなく、悲しい結果で。

 シグルトには、それがとてもやる瀬なく感じられた。

 天衣無縫に見えるシグルトも、その内は一個の人である。
 親しい者の死を悼み、憤懣に身を焦がす。

 ただそれが、人には見えないほどに、表現が下手なだけだ。

 そんなシグルトが一番許せないのは、すでにジゼルの死を認め断念し、悼んでいる無力な自分。
 死者にしてやれることは、いつでも弔いと思い出を語ることぐらい。

 この様なことが起こらないために、日々努力して来た。
 報われるためだけに励んで来たのではないが、どこかで大切な人たちを守れると自負していた。

 その慢心が許せない。

 でも、シグルトは決意を新たにしていた。
 嘆くだけでは前に進めないことを、何度も経験していたからだ。

 まずは村を出、そして日々の生活に戻る。
 そしてやるべき時にやるべきことを行いながら、今回のことを身に刻んで生きてゆこう…

 嘆き澱んでも、それは決して死者のためにはならないと知っている。
 ならば、この痛苦を背負って生きること。

 それがシグルトという男の、生き様である。

 故に、旅立つ前に、もう一度だけジゼルの墓を訪れておきたかった。
 始まるには、きっかけが必要だからだ。

 夜道をジゼルの墓へと歩みながら、シグルトはすでに冒険者としての生存能力を発揮し始めている。

 周囲に満ちる哀愁と鬼気。
 シグルトが何時もにもまして憂鬱に感じるのも、夜の森に満ちた瘴気のせいだろう。

 不意に思い出す、ジゼルとの会話。
 〈ウィア〉という化生の伝説。

 張りつめた表情のシグルトを、トリアムールの起こす風が心配気に撫でて行く。
 分かったという風に、シグルトは精霊術を行使した。

 トリアムールの風術とともに定着しつつある、妖精の隠形術。
 この術の力をもってすれば、多少の呪縛は退けることが出来る。

(嫁入り前の娘が非業の死を遂げ、妖精となった慣れの果て。

 夜に墓から抜け出して、森に迷い込んだ愚か者を死ぬまで踊らせ…
 あるいは底なしの沼に誘う)

 〈ウィア〉とは悲しい伝説である。
 
 シグルトは、妖精に生まれ変わった死者を弔うために、古いまじないの詩を口ずさみ、夜道を歩き始めた。

「《月夜の晩に踊る〈よきひとたち〉よ、
  星はこんなにも輝いている。

  死は悼まれ、そして消える。

  乙女は蝶に、戦士は獣に、
  可憐に雄々しく生まれ変わり、

  未練は果てて夜を謳歌する。

  ならば〈よきひとたち〉よ、
  死と夜の暗がりは、
  恐ろしいはずがあろうか。

  月は太陽よりも優しく包んでくれる。
  日差しに焼かれることはないだろう。

  夜の風はこんなにも静かなのだ。
  生の喧騒は忘れられよう。

  闇の安らぎに微睡む様に、
  夜はあなたたちの揺り籠なのだ…》」

 【妖精の護光】に身を包み、詩を吟じるシグルトは、当人も妖精の様だった。
 当然であろう…シグルトもまた、白エルフと呼ばれる古い妖精の血を引く者なのだ。

 夜の森は不気味であると同時に、郷愁を感じさせる。
 寡黙なシグルトが、詩を捧げるほどに。

 シグルトの周りだけ、森の憂鬱な気配が消え、柔らかな静けさに包まれて行く。
 
 詩とは言霊の芸術である。
 言葉とは、本来高貴で高尚なものなのだ。

 神に捧げる呪文があり、賛美する歌がある。
 今シグルトは、言葉の持つ神秘によって、周囲の意味を変えた。

 弔いの言葉は、死に意味を与え死者を葬る。
 喜びの言葉は、生を祝福し力を与える。

 何気なく使われる言葉を、古の民はもっと大切に使っていた。
 森の様に古からある場所は、それ故に美しい言葉を好むのだ。

 シグルトは、そんな伝承をとても尊いと思う。

 気付けば星空の下、ジゼルの墓の前に辿り着いていた。

 そこにあるのは、聖北の信仰が影響しない墓石。
 多くは魂を沈め、死者が甦らない様にするための重しの意。

 この時代、土葬が中心だった故に、死者復活の概念がことさらに強い。
 
 聖北では、死者の復活は尊いものとされる。
 死を超越する救世主の奇跡だと。

 だが、生前の姿を残したまま葬られた者の復活は、本来は忌むべきものとされた。
 復活と同時に、生者を脅かす別の存在に変わるのだと。

 多くはウィスプやグールを中心とするアンデッド。
 ウィアの様な妖精的な側面を持つものも存在する。

 それでも人が土葬を好むのは、死者がどこかで戻ってくることを願う意味があるのか。
 あるいは、生きた時の姿を壊すのが恐ろしいのか。

 でも、埋葬された死体は見えず応えない。
 そこには、目印として重々しい墓石が一つあるだけなのだ。

 シグルトは、墓の前に跪くと、風で降りかかった土埃を払い落し、ジゼルの墓碑銘をなぞった。

〝麗しき森神の巫女ジゼリッタ、愛馬ホーリーとともにここに眠る〟

 簡素な碑文である。
 
「…ジゼル。
 謝罪が君の命を繋ぐものだったのなら、俺は迷わず何度でも君に頭を下げただろう。

 だが、君はこの冷たい土の下にホーリーと横たわっている。

 今の俺に出来ることは、君を忘れずにいて、思い出し語ること。
 悲しいことだが、せめて忘れないと誓おう。
 君を思い出す度、あの時の詩を、そして君の舞踏を思い出す。

 君に寂しさが無い様、楽しい思い出が君の心を慰められる様に祈ろう」

 素朴な誓とともに、シグルトは墓石を撫でた。

「…貴方は強いのね、シグルト。

 そうしてもらえるなら、とても嬉しいわ」

 湧きあがる様な声。
 そして、墓石の向こうからその娘は微笑んで覗きこんでいた。

「…ジゼルなのか?」

 シグルトの状況判断能力が現状を把握し、そして何が起こったか理解した。
 同時に、彼女から危険な鬼気が発せられないことを知って、力を抜く。

「…また逢えたわね、シグルト」

 何時もの様に、好奇心と陽気さに満ちた笑顔。

「…そうか、伝説通りウィアになってしまったのか。

 だが、君は邪な存在にはなっていない様だな」

 落ち着いた様子でシグルトは、苦笑した。

「うん。

 正気のままだから大丈夫。
 貴方を踊り殺したりしないわ。

 でも、驚かないなんて凄いのね」

 好奇心で目を見開く仕草。
 少し透けていても、それは変わらなかった。

「…冒険者になる前から、死神だの神殺しだの、色々なものに会ったからな。

 驚くよりも、今がどういうことなのかそちらに気が行くようになってしまった。
 少し、因果だな」

 肩をすくめて見せるシグルトに、ジゼルがそうなんだと微笑み返す。
 まるで生きていた時と同じ様に。

 ジゼルには少しだけ恐れがあった。
 もしかしたら、ウィアになった自分に敵意を向けて来るのではないかと。

 だが、シグルトがそういう人間でないことは、直感で分かってもいた。
 彼は目に見えないものととても大切にし、真実を見据えていることを感じていたから。

 シグルトは続いて何かを言おうとするが、ジゼルは待ってとそれを制した。

「もし謝るのなら、止めてね。

 貴方は村を救うために、ホーリーを止めようとした。

 そして、死ぬ間際の貴方の温もりを覚えているわ。 
 必死に私を生かそうとしてくれたことも。

 謝られたりしたら、パニックを起こして死んじゃった私が恥ずかしくなっちゃう。

 ね、男の子は、女の子に恥をかかせないものよ?」

 唇に一本人差し指を当て、片目を瞑ってそんな言葉を口にするジゼルに、シグルトは大きく頷いた。

「…それにね。 
 私、たぶん長くなかったわ。

 だから、いいの。

 今はウィアになっちゃったけど、貴方とまたこうして話せるなんて、嬉しいわ。
 こんな夜に来てくれたから、逢えたのよね。

 有難う」

 そう言って、ジゼルはシグルトの手に自分の手を重ねる。
 透けて見えるが、実体がちゃんとある。

「ふふ、ちゃんと触れるわ。

 これなら、また貴方とワルツが踊れるわね」

 シグルトは両手を広げて困った顔をして見えた。

「踊り殺されない程度なら、お受けするがな。

 でも、知っての通り、踊りは苦手だぞ?」

 シグルトの言葉に、ジゼルは晴れやかな笑顔を浮かべていた。


 その頃…ヒラリオは必死に逃げていた。

 何時の間にか、夜気で冷やされて霧に覆われた沼の前に辿り着く。
 
 村からは随分離れてしまった。
 冷たい汗が、ぽたぽたと地面に滴り落ちる。

「な、何なんだ、あの鬼火は?

 後を追いかけて来やがって…」

 荒い息で、休みながらヒラリオは毒づく。

 すると、先回りしたかの様に、沼地に4つ鬼火が現れた。

「ひぃっ!」

 怯えて尻餅を突く。

 やがて鬼火は人型を取り、中央にいる杖を持った女が滑る様に近付いて来た。

「お、女?」

 目を見開くヒラリオを睨み据え、杖の女は蔑む様に首を巡らした。

「―愚かな人間よ。
 我らの静かな月夜に、土足で踏み込み、その靴音で眠りを妨げた罪は重いぞ。

 妾こそは、この森のウィアを統べる女王ミレト。

 夜の森は、我らあやかしの領分であるのに、そこに踏み入るとは恐れを知らぬ。
 その愚行を後悔するがいい…」

 ヒラリオは、この地方に伝わる伝承を思い出し蒼褪める。

「…ウィ、ウィアだと?」

 震えるヒラリオの足に向け、ミレトと名乗った杖の女は、その捩じれた杖を一振りする。
 途端、痙攣する様にヒラリオの両足が波打ち、勝手に上下に歩き始める。 

「か、身体が…!」

 必死に身体を制御しようとするが、まるで別の何かに足を乗っ取られた様だ。

「―踊り…死ね。

 お前の様な下賎のことなど知りはせぬが…
 滑稽な舞踏で我らを楽しませつつ、散り逝くがいい」

 薄い唇を吊り上げて、ウィアの女王が笑う。
 そして、周囲のウィアたちが拍手する。

 まるで、虫の足を夢中で千切る子供の様に、無邪気なのに邪悪な笑みを浮かべて。

「う、うわぁっ!

 止めてくれ、止めてっ!
 助けてっ!!」

 そのままヒラリオの足は、不器用なステップを踏みながら沼に向かっていく。

「ひ、ひぃっ!
 死にたく、死にたくないっ!

 だ、だれかぁ、誰かぁっぶぉ!!!

 がぼぉ、ぐふぉ、がぼぼ…」

 沼に入ったまま深水でぐるぐる回り、鼻から口から沼地の生臭い泥水が入ってくる。
 必死に陸を求めてもがくうち、何か細いものを掴み、必死に引き寄せる。
 それはヒラリオの肩にがしがみ付いた。

 ヒラリオはそれがなんであるか知って、息が止まった。

 自分と同じ様に沈められた男であろう、腐って眼窩から魚が飛び出した骸骨だった。
 そのままヒラリオの心臓は凍りつく。

 奇しくも溺れ死ぬ前に、ヒラリオは自分がジゼルにもたらした死と同様、心臓の停止でその一生を終えたのだ。

 死体になったヒラリオは、ぐるぐると骸骨と踊りながら沼に沈んで行った。
 その姿を、ウィアたちは腹を抱えて笑う。

「ほほ、醜い者同士、お似合いの舞踏よな。

 …さて、ジゼリッタの方は手間取っておる様だ。
 仕方ない、妾が手を貸してやろう」

 沈んでいく死体には目もくれず、ウィアの女王ミレトは鬼火に姿を変え、ジゼルの墓に向けて飛んで行った。


 2人の短い歓談は、ヒラリオの甲高い悲鳴によって終わった。

「…男の悲鳴…

 北の方からか?」

 籠手をはめ、剣の鞘を返す。
 即座に抜刀出来る様、柄に手を掛け、シグルトの目は猛禽の様な鋭さを宿した。

 後ろで見つめていたジゼルは、それがシグルトの日常だと気付いて少し淋しさを覚えるも、気持ちを切り替えて彼に向き直る。

「…シグルト、逃げて。

 多分、ウィアの女王が間もなくやって来るわ。
 貴方を、殺すために」

 シグルトは首を横に振った。

「…森の広さから言って、逃げるのは無理だ。
 鬼火になってやって来るウィアの移動速度は、とてつもなく早い。

 一応は対抗手段も備えて来ている。
 場合によっては、一戦も止むを得ないだろう」

 ジゼルは、浮かび得たウィアの知識で反論する。

「彼女を甘く見ては駄目。

 魔法の木の枝で、相手を想いのままに出来るのよ」

 シグルトは頷いた。

「【支配の枝】とも呼ばれる棒杖(ワンド)だろう。

 それならば、俺の装備で何とか出来るかもしれん」

 シグルトは、籠手を打ち鳴らした。
 
「…駄目よ、無茶は。

 最後に貴方に逢えて良かったわ。
 私は、安らかになれる方法を探して、貴方との思い出を抱きながら眠るから…

 だから、さよなら」

 決意に満ちたジゼルの顔。
 シグルトは、彼女の気持ちを酌むことにした。

「…分かった。

 だが、もし君が生まれ変わることがあったら…
 或いは俺が一生を全うしたのなら…
 どこかで逢おう。

 何時か昼には、君の墓に来て、良い酒と都会の話を捧げると約束する」

 シグルトの言葉に、ジゼルは深く頷く。

「…じゃあ、お別れ…あっ!」

 ジゼルの表情が、見る見る絶望に染まって行く。
 
「ウィアの女王が来るわっ!

 早く、お墓の影に隠れてっ!!」

 苦肉の策であろう。
 シグルトは、無駄と分かりつつも頷いて、ジゼルの墓石の後ろに姿を潜めた。
 同時に、ある決意を持って籠手に古い言葉を描きつけていく。

 シグルトが隠れるのと同時に、鬼火がふわりと降りて人型を取る。
 ウィアの女王ミレトである。

「―男を殺せなんだな、ジゼリッタ」

 現れるなり、刻薄な表情でミレトはジゼルをねめつける。

「も、申し訳ありません、女王様…」

 芯の所にあるウィアとしての本能が、創造主であるミレトへの畏怖を起こさせる。

 墓の後ろで、シグルトは剣と籠手に土で三角形と二十六夜の月(逆三日月)を描く。
 まじないを終え息を潜めるが、何時でも飛び出す備えは出来た。

「何人足りとも、この夜に此処に足を踏み入れてはならぬ。

 妾の安息を守るため…そこに隠れておる男も始末せねばな…」

 元より、妖精は気配で存在を知る。
 姿を隠す故に、見つけるのも得意なのだ。

 シグルトは、隠れるのを止め、姿をミレトの前に晒した。

「はははっ!

 この森は妾の庭。
 全てを見通すのも容易い。

 ジゼリッタ、殺せ。

 その男の自由を奪い、踊らせて精気を奪い去るのだ!」

 即座にジゼルは反発する。
 頭を大きく振って、ミレトを睨みつけた。

「嫌よ、たとえ女王様の命令でも出来ないわ!」

 それに呼応する様に、シグルトは暗がりからミレトの前に歩み出た。
 その美しい顔立ちに、ミレトが息を飲む。

「もし、ジゼルに俺を殺す様なことを命じるのなら、俺はお前に確実な破滅をもたらすだろう。

 〈ダナの子供たち(トゥアハ・デ・ダナーン)〉の妖精ならば、【滅びの鎌】を恐れぬはずがない」

 強い言霊を持ったまじないの言葉に、ミレトが一瞬怯む。

「…ふん、小癪な人間め、片腹痛いわ。
 何処で知ったかは知らぬが、その様なはったりで妾を貶められると思っているのか?

 ならば、望みどおりジゼリッタでは無く、妾自らお主を踊り殺してくれよう!」

 そうしてミレトは、呪文を唱えながら杖を一振りする。

「《魔法の杖よ。

  あの者を踊らせよ!》」

 しかし、ミレトが放った魔力は霧散した。

「ば、馬鹿な…

 何故杖の魔力が…」

 驚愕に染まったミレトの耳に、くすくすと小さな笑い声が聞こえた。

「「愚か愚かと笑うけれど、ほんとに愚かなのはウィアの女王。
  妖精の加護を受けた勇者の前に、癇癪起こして杖振る、ただのおばさん!

  白エルフの血を引く王子様には、〈お母様〉の加護もある。
  きっと、刈られる、怒られる…」」

 シグルトが纏った【妖精の護光】が、呪縛を打ち破ったのだ。
 目には目を、妖精の力には妖精の力で対応した、シグルトの作戦勝ちである。

 その一瞬に、シグルトが踏み込んで剣を振るった。
 あっけなくミレトの杖が折れ飛ぶ。

 剣と籠手に描かれた紋章を見て、ミレトの顔が恐怖にひきつった。

「な、何故お前が、我らの〈偉大なる母〉の収穫の紋章を使っている!

 それは、それは…失われた!!」

 ミレトを諭す様に、シグルトが紋章を指さす…三角形に二十六夜の月の紋章を。

「俺の先祖の一人に、償い(エリック)と呼ばれた男が居た。

 滅び去った光の神の血を引く、末裔だ。
 この青黒い髪と瞳は、邪眼の王を屠った呪いで、つけられた反逆者の徴。

 ならば、お前たちの終焉の言葉を知ってもいよう」

 シグルトは強い言霊を持って、ミレトを縛る。

「かつて、神々は人のいない世界に去って精霊や妖精になった。
 後の妖精は皆、去りし神の眷族だ。

 ならば、俺が最初に告げた言葉に従わなかった時点で、理不尽な妖精の力は全て失われている。

 偉大なる母神は、ことさらに力に酔い磨くことを忘れた、増長する者を嫌うからな。
 彼の女神の怒りで、どれだけの終焉が訪れたのか、それは神々が神話になっていることが示しているはずだ。
 
 【滅びの鎌】…神を斬る【金剛の鎌】は、お前たち全ての妖精を産み、魔の黒雲に乗ってやって来た神々の母〈ダナ〉のこと。
 産み与え、刈り取り奪う太古の、神性すら語られざる女神。

 俺は、奇しくも〈ダナ〉の申し子として生まれて来た。
 彼女の骨盤を象徴する金床に乗り、天を掴もうとしたそうだ。

 〈ダナ〉の本性は、歪みを歪ませ正す破魔。
 燃える炉の子宮で、子を鍛え直す刃金の母。

 全てを切り裂くその御名で、理不尽な妖精の力は去る」

 シグルトが言っているのは、ケルト神話を元にした妖精のルーツである。
 妖精となった神々の母…それが、刃金の精霊として知られる、謎多き大精霊ダナであった。
 
 シグルトの先祖とされる白エルフの姫君は、一人の旅人と恋に落ちた。
 その男の名はエリック…「償い」や「贖い」を意味する名を背負わされた、光の神ルー(ルーグ)の末裔である。
 
 ルーは〈ダナの子供たち(トゥアハ・デ・ダナーン)〉と〈フォーモル〉と呼ばれる魔神族の混血の神で、伝説の英雄クー・フーリンの父親だ。
 祖父であるフォーモルの王、邪眼のバロールを屠り、終には神々の王となる。

 だが、ルーの子供や血筋に関しては後の記録が残っていない。
 ケルトの神々については、多くが散失し残っていないが、シグルトは容貌に色濃く名残を残す、ルーの神魔の血と古き妖精の血を引く混血の末裔であった。

 ジグルトの才能、そして美貌。
 それらは血筋故である。
 同時にその波乱万丈の運命もまた、然り。

 シグルトは何時も、自分の才能に否定的だ。
 それは、背負わされた理不尽と孤高が、彼の才能故にもたらされることを伝承で知っていたからだ。

 それを打ち破るには、努力より他無い。
 遠い昔にシグルトは、美しいハーフエルフの女性からそれを学んだ。

 その女性とは、エリックと白エルフの娘で、シグルトの遠い先祖に当たる神仙オルテンシア姫である。

 シグルトは、選ばれた様に英雄の相を持って生まれた。
 ケルトの多くの英雄たちがそうである様に。

 だが、英雄の相は必ず当人を才能故に堕落させ、増長させ、破滅させる。
 シグルトもまた、増長こそしなかったが、運命に翻弄されて来た。

 そんなシグルトだからこそ、憎むのだ。
 ミレトの様に傍若無人に振る舞う、運命を弄ぶ古の者を。

「もう一つ教えてやろう。
 お前たちのまじないで、俺は踊らない。
 
 俺はすでに踵を切られ、普通に踊れないのだから」

 まともな踵の腱をすでに切り裂かれたシグルトを踊らせるなど、不可能だったのだ。
 妖精の加護無くとも、シグルトは支配されて踊ることなど無かっただろう。

 折れた杖を握り締め、ミレトは悔しさの余りその顔を憤怒で歪めていた。
 薄い唇が波うち、悪鬼の様である。

「ぐぅ、これではジゼリッタに命じても…
 されど、ここで男を取り逃がすなどウィアの名折れ。

 かくなる上は、妾直々に屠ってくれるわ!」

 杖を投げ捨てたミレトの前に、ジゼルが躍り出る。

「シグルトを傷つけると言うなら、私も戦うわ。

 この村一番の誉れを持った私の弓で、貴女を射抜く!」

 ジゼルの手には、何時の間にか弓矢が握られていた。
 一緒に埋葬された愛用品は、死者の持ち物となるのだ。

 シグルトがトリアムールの風を召喚し、身に纏う。

「…ジゼルには安らぎを。

 人の敵である貴様には牙を剥こう。
 何故人が、神々や妖精に長じてこの世に蔓延ったか、知るがいい」

 剣先をミレトに向け、宣告するシグルト。

「身の程を知れ、人間、そして小娘がっ!

 我が魔力で、粉微塵に粉砕してくれるわ!!」

 その言葉をきっかけに、戦いが始まった。
 ジゼルが弓を構え、ミレトに狙いを定める。

「同じウィアでありながら、女王たる妾に矢を向けるとは。
 この無礼者めが!

 男ともども、殺してくれようっ!!」

 その言葉に、ジゼルは挑戦的な笑みを浮かべた。

「あら、私はもう死んだはずよ。

 死人をどうやって殺すのかしらねっ!」

 見え透いた挑発にも、逆上したミレトは面白い様に乗って突っ込んで来た。

「《トリアムール!》」

 二筋の風がミレトの霧の衣を切り裂く。 
 シグルトはその間に接近して、渾身の力でミレトを殴りつけた。

「ぐふ、き、貴様、女の顔を何だと…!!」

 鼻血こそ出ていないが、歪んだ顔はもはや美しさも気品も無い。

「後ろがお留守よ!」

 ジゼルの弓が、ミレトの腕に突き刺さる。
 血飛沫の様に、身体が霞んで夜の空気に融けて行った。

「…調子に乗るなぁぁぁ!!!」

 崩れかけた腕を鉤爪に変え、ジゼルを狙う。
 しかしそれを、シグルトが籠手で受け止めた。

 衝撃が骨まで響くが、堪えてさらにトリアムールの風を叩きつける。
 今度は左の拳で腹を殴りつけた。

「が、はぁっ…

 な、何故こうも人間如きの攻撃が…」

 よろめき後ろに下がったミレトに、シグルトは腕を突き出して見せる。

「…妖精は昔から鉄を嫌うからな。

 鋼の拳はさぞや効くだろう?」

 シグルトが剣で攻撃せず、籠手で殴りつけたのはそう言う理由だった。

「それに、この籠手も紋章入りだ。

 …死人に戻るがいい!」

 再びトリアムールの風を身に纏い、シグルトはミレトの攻撃を籠手で弾き飛ばした。
 即座に接敵し、風を叩きつけ、勢いに乗ってさらに右拳でミレトの顎を打ち抜いた。

「凄いわシグルト。

 まるで拳闘士みたいよ」

 ジゼルの矢が、ミレトの体勢を突き崩すと、シグルトはもう一度風を叩き込み、アロンダイトでミレトの身体を切り裂いていく。

「ぐは、や、止めろ…人間。

 それ以上すれば、容赦…」

 返す刃がその口を黙らせる。

「…消え去れ!」

 熊を屠った時と同じ突進から、アロンダイトをミレトの喉仏に突き徹す。

「―!…、ぉ、ぉ…れ!!」

 声にならぬ叫びを上げたミレトの首を、アロンダイトを捩って抉り、刃を立てたまま身体の旋回で分断する。
 そして、千切れ飛んだ頭を、拳で殴り飛ばした。

 首を失ったミレトの身体はふらふらと後ろによろめき、そしてぱっと青白い炎を上げて消え去る。
 恨めしそうにひしゃげて転がった首は、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、同じ様に炎となって霧散した。

 拳を交えた格闘の様な戦い方…荒っぽいこの戦い方こそ、シグルトの本来の剣術である。

 戦場における刹那の攻防で、全身を使えぬ者はそれ故に命を落とす。
 籠手は防具にあらず、立派な武器にもなるのだ。

「…もう気配はないな。

 勝った様だ」

 残心を終えて剣を鞘に収め、シグルトは静かに息を吐く。

「…ねぇ?」

 後ろから、ジゼルの声がする。
 でも、その気配は薄れかけていた。

「…ああ、何だ?」

 努めて平静に、シグルトは振り向いてジゼルを見る。
 思った通り、その透け方が酷くなっていた。

「…今度こそ、本当にお別れね」

 淋しげなジゼルの顔。
 その頬を、籠手を外した手を伸ばして優しく撫でる。

「ああ、そうだな」

 母体であるウィアの女王を倒した時点で、こうなることは分かり切っていた。
 ジゼルは、こうして呪縛から解放され、元の死者に戻るのだ。

 だが、2人とも清々しい顔をしていた。
 
 ジゼルはウィアとして人を殺すことを望まず、シグルトは彼女に安らぎを与えてやりたかったから。

「…本当に有難う。

 そして、御免なさい。
 最後まで付き合ってくれて。

 …ほら、もうこんなに透けて来てる。
 もう、貴方とワルツを踊るのは諦めた方がいいわね」

 シグルトは、何時もの様に苦笑した。
 ジゼルを撫でていた手には、すでに感触が無い。

「…俺は少し安心したよ。

 下手な踊りをしても、寿命が縮む」

 ここでは笑顔で見送ろうと、シグルトは決めていた。
 でも、彼の不器用な仕草では、苦笑が精いっぱいだ。

「…ふふ、貴方って苦笑してばかり。

 でも、素敵だわ。
 誰かのために精一杯やせ我慢してくれる。

 そんな貴方の顔が好きだったわ」

 愛おしそうに伸ばされたジゼルの手は、虚しくシグルトをすり抜けていた。

「…お願い。

 祈っていてね。
 私も、貴方との思い出を夢見ながら、祈るから」

 シグルトは静かに頷いた。
 もう、ジゼルの身体はほとんど見えない。

「…で、何を一番に祈ったらいい?」

 優しくシグルトが聞くと、ジゼルはふふと笑った。

「月並みだけど…『君に幸あれ』ってね!」

 もう一度シグルトが頷いた時、ジゼルは朝日に融ける様に消えて行った。

「…必ず祈ろう。

 君を思い出す度、無力に負けそうになった時。
 俺は、君を忘れない」

 見ればすでに朝日が完全に顔を出していた。
 一夜の不思議な体験は、幕を閉じたのだ。

 シグルトはそのまま、ヴィスマールを目指して歩き出した。


 暫く歩いていると、周囲が濃い霧に包まれていた。
 精霊術を使うシグルトの直感が、ただの霧では無いと告げている。

(ウィアの復讐か?

 それにしては、瘴気が無いし、今は昼間だ。
 とすると、いったい何者が?)

 そんな事を考えていると、不意に大きな何かの気配がした。

「やあ。

 僕の声が、聞こえるかい、美しい勇者くん」

 野太いが、どこか愛嬌のある深い声。
 人ならぬものの声だと、直感的に感じ取る。

「…何者だ?」

 シグルトは立ち止まって油断なく構え、声に問い返した。

「人は森神と呼ぶ。

 君には、祠のことや熊のこと…もろもろで礼が言いたくてね。
 ちょっと異界に招いて、話しかけてるのさ。

 まあ、大雑把に言うと、夢の世界ってところか。
 
 この霧は、魔の雲。
 僕たちの乗物で、時間や世界を繋ぐ事が出来る。

 当然、夢の様なあやふやな世界でもね。
 君は、普通の疑り深い人間と違って分かるはずだよ。

 そうだね。

〝神を信じることは、常識や倫理の問題では無く感情の領域である。

 神の存在を立証することは、それを反証することと同じく不可能である〟

 哲学的に吟じてみたけど、どうだい?」

 どこか人を食った様な雰囲気が伝わってくる。
 
 シグルトは目を閉じ、その声が聞こえて来た方向に大きく足を踏み出した。
 覆っていた粘つく霧の感覚が晴れた時、シグルトは頃合いかと目を開ける。

 そこは、『森神の箱庭』だった。

「…ようこそ、僕の箱庭へ」

 そこには人懐っこい目をした、熊の様な大男がどっかりと切り株に腰を下していた。
 体躯に合わず、その喋り方は穏やかで丁寧だ。

「…貴方がこの森の神か?」

 怖気付くこと無く尋ねると、男は嬉しそうに頷いた。

「流石は、僕らの末裔だね。

 神を前に堂々としたものだ。
 或いは慣れたかい?

 “貪欲”につけ回されて、生き残った君だ。
 僕ぐらいでは、何ともないか」

 何もかも知っているかの様に、森神は話す。

「…貴方の感想など興味はない。
 俺たち人間とは、考え方も価値観も違うはずだ。

 出来れば、待ち人が居るので早くこの森を出たいのだが。

 用件を聞こう」

 神に対していささか不遜な物言いだが、この神は多分怒り出したりなどすまい。
 からかう様なその視線が、そう告げているからだ。

「君には3つ借りが出来てしまった。

 1つは、祠を直してくれたこと。
 君の吟じてくれた言葉には心打たれた。
 いや、長生きはしているものだね。

 2つ目は羆退治。
 祠が歪んで力が出なかったから、あんな獣に僕の庭を蹂躙させてしまった。
 安い報酬なのに、正義感で僕の民人の願いを叶えてくれたことも特に評価出来るね。

 3つめがウィアの退治。
 あの女王は、僕の力が森に及び難くなってから我が物顔で悪さをしていたから、やっつけてくれてとても感謝している。
 これで、僕の神としての威光も守られるというものさ。

 仮にも神と崇められている僕だ。
 何のお礼もせずに、君を返すのは忍びないと思ったんだ。

 そこで、君を此処に誘ったというわけ」

 ふむ、とシグルトは静かに頷く。
 神々とは元々契約や義に五月蠅く、気まぐれな存在だ。

 それを考えれば、この森神の行動も頷ける。

「何でも望みを言うといい。

 巨万の富でも、歴史に残る様な名声でも構わない。
 
 そうだね、時間を戻して死者を蘇らすことも可能だよ。

 僕は神だ。
 それが出来ると断言しよう。

 君は、何を望むかな?」

 シグルトはこの神が何故出て来たのか、はっきり理解した。
 彼には、神と言う存在が願いをかなえる時のルールを知っていたからだ。

 彼らが望みを叶えるには、「誰かから強く望んでもらう必要がある」のだ。

「…では、ジゼリッタという貴方の巫女が、いまわに望んだ夢を、生きる道を叶えてやってくれ。
 俺と違い、彼女は死にたくないと望んだのだから。

 願わくば、彼女に夢を叶えるための生の存続を…」

 不意に森神は目を閉じ考え込んだ。
 そして、シグルトに問う。

「本当にそれでいいのかい?

 君が失った友人を生き返らすことも、あるいは失った恋人と愛を取り戻すことだって出来るかも知れないよ?
 君は、何故自分のための望みを願わない?」

 戻すならば、もっと昔も可能だと言っているのだ。
 そして、失った友や恋人を取り戻す機会を与えると。

「…死んだ友のことは今でも悲しい。
 失った恋人との時間も、懐かしむことがある。

 だが、それはすでに起き、遠く過ぎ去った過去だ。
 その先に出逢って歩んで来た仲間があり、今の俺がある。

 嘆き、出逢い、そして歩む。
 ならば、俺の望みは叶えて貰うのではなく、自ら叶えるために励むのみ。

 過去を含めて、今を生きているのが俺だ。

 全ての死者を生き返らせれば、過去を取り戻せるわけでは無い。
 起きてしまったこと…すでに辱められた友たちが、救われるわけでもない。
 
 もし過去に戻ることが出来たとしても、今の仲間たちと築いてきた時間が軽んじられよう。

 どれほどの慟哭も、そして結果である今も…それは俺が選び得た生なのだから」

 迷いの無い回答だった。
 しかし、少し意地悪な顔をして、さらに森神が問う。

「君の言葉は矛盾しているね。

 その言葉をたどるなら、ジゼリッタを救うことは過去を振り返ること。
 綺麗事を言っていても、結局は…」

 シグルトは強く頷いた。

「そう、綺麗事だ。
 だが、俺は綺麗事とは花を愛でる様なものだと思う。

 咲いた花しか愛でない者もいれば、咲く花を夢見て育てることから愛でる者もいるだろう。
 でも、それが美しい、尊いと知っているなら、不完全なりに求めても悪いとは思わない。
 むしろ、人らしいとさえ思う。

 少しぐらいの歪みなら、かえってゆとりにもなるだろう。

 俺は完全無欠では無い。
 間違い、後悔する人間だ。

 人間として、目の前にある成したいことを、自分の欲で行う。
 それは、俺の矜持であり、我儘だ。

 綺麗なだけの人間でいるつもりもない。

 だが、綺麗なものを愛でないつもりもない。
 綺麗事でも、それが選ぶべきことだと信じたのなら、それを望むだけだ。
 自分の中の汚いもの、醜いものを知っているのなら余計にな。

 もし、それが誰かにとって喜ばしいことなら、道理や矛盾など知ったことでは無い。
 
 受ける謗りも含めて、俺は迷わずそれを選ぶ」

 真っ直ぐに、目を逸らさずそう答える。
 
「万古不易であることは尊いだろう。
 完全無欠であることは凄いことかもしれない。

 だが、俺は目前にある小さな人の生こそが愛おしいと思う。

 永遠不滅では無く、老いて失うことがあるとしても…
 限りある一生を、悔いと悲しみで染めながらも…

 その先にある死を受け入れて尚、生きて来てよかったと言える、人として死ぬために。
 俺は生き、選んで行きたい。

 俺は、そんな刹那の輝きと綺麗事に、たまらなく焦がれるのだ。
 たとえ、明日に死すとも、誇りを持ってその明日を選べる者でありたい。

 逆に、俺が貴方たちの様に不老を得て悠久に生きる事があったとしても…
 刹那の美しさを忘れずに、長い時を尊んで生きたいと思う。

 刹那も悠久も、それは違う美しさのある綺麗事だ。
 俺は両方それぞれの美しさを、胸を張って讃えたい。
 それが、御都合主義で欲深なことであっても。

 不完全であることは何かに欠け、失うこともあるだろうが…
 無いからこそ求め尊ぶこともあるのだ。

 俺は、数日の刹那にジゼルに逢い、彼女の笑顔と願いを知った。
 だからこそ、この時この場所で、彼女のささやかな幸せを祈り願う。

 〝君に幸あれ〟と。
 そう祈ると約束したからな。

 神である貴方には、特にその願いを込めて祈ろう。

 俺は、そんな、我儘な人間だ」

 爽やかにシグルトは笑った。

「クックック、ハァ~ハッハッ!

 好いな、君は。
 人であることを悟り、それ故の清濁合わせ持ちながら、それを恐れず恥じない。
 僕らの偉大なる母が気に入るわけだ。

 失うことを嘆きながら、それでも得ようと高みを目指す…
 君の道はとてつもなく孤高で、それ故に武骨で美しい。
 
 かつてある神は、永遠不滅を得るために骨を選んだ。
 人には、一時の美味はあっても腐る肉が与えられた。

 だが、君は骨と肉の両方を選ぶことが出来る。
 だからこそ血が、両方を備えた身体を流れて生かすのだ。

 血の道とは、鋼鉄の生き様。
 〈揺るぎないもの(アダマス)〉の意味が、金剛石から鉄に受け継がれたのは…

 折れ欠ける脆さすら内包しながら、それでも貫く鉄の生き様が揺るぎないからだ。

 君は、確かに〈刃金〉の生き様を持っている。
 僕らの偉大なる母が、それを司っている様に…」

 森神は満足気に頷くと、切り株から立ち上がった。

「…良いだろう。

 ついでに、彼女の病も除いてあげよう。
 納得出来る答えを示した御褒美だ。
 彼女もウィア退治に貢献したのだから、その分も含めてだね。

 君の記憶もそのまま残そう…僕のことを忘れられると淋しいから。

 時間を戻して、あのお馬鹿君がホーリーを狂わせた所に、解決手段付きで戻してあげよう。

 でも、それだけのことをするんだ。
 僕たちは神らしく、もう少し代償を貰わないとね」

 ぎらり、と森神の目が見開かれる。

「…その代償とは?」

 やはり一筋縄ではいかない。
 これが神や精霊と言う存在だ。

「…僕に一太刀浴びせること。

 ただし、君が失敗した時は命を貰う。
 僕は本気で向かうから、手を抜くとあの世行きだ。
 
 僕たちらしい、試練だろう?」

 獰猛に歯を剥き出す。

 やはり古の神だ。
 どこか残忍で享楽的だ。

「さあ、君の一念を剣で示してくれ。

 言葉の次は行動さ。
 心の強さは願いに通じる。

 特に君たち〈刃金〉は、常に道を切り開くことを試されるのだから」

 どこから取り出したのか、岩でも粉砕出来そうな巨大な斧を構え、森神は構えを取った。
 紛う事無き、達人の気配だった。

 並の剣士ならば、その一睨みで逃げだすだろう。
 しかしシグルトには、譲れないものがあった。

 目を閉じてジゼルの笑顔を浮かべる。
 会って数日の娘だが、確かに心を通わせた、夢に輝くその娘の瞳を想う。

「…全身全霊で、応えよう」

 そうして取った構えは、奇しくも突きではなく斬撃である。
 道を切り開くという、シグルトなりの意思表示だ。

「…行くぞ!」

 森神が、猪の様に大地を蹴る。
 その巨体からは信じられない速度で、大斧はシグルトの脳天をかち割るべく振り下ろされる。

 シグルトは呼吸を止め、最上の技で応えるべく静かに待った。

 森神の大斧はシグルトが居た場所の大地を大きく抉り、土塊を撒き散らして減り込む。
 一緒に縦に割られたのは、果たしてシグルトの残像であった。

「…がぁ。
 クク、本当に容赦ない。

 だが、見事だ」

 不死の神は死なない。
 ましてこの森は、彼の神の領域だ。

 しかし、シグルトの一太刀は森神の図太い脇腹を7割がた分かっていた。

 【影走り】…必中にして天衣無縫の回避力を誇る、恐るべき秘剣である。

 周囲が霧に包まれて行く。

「ジゼリッタの死んだ未来は、僕の夢になる。
 こうやって神の試練に打ち勝ち、望みを叶えた君のことを僕が覚えているためにね。

 そう、単なる夢で、彼女は…」

 ぐるぐると周囲の霧が濃くなり、森神の声が遠くなって行く。

 そして、シグルトは〈あの時〉まで戻るのだった。


「ちょっと、待ってよ!」

 足早に急な森の道を下って行くシグルトを、必死にジゼルが追いかけてくる。

「…村一番の狩人なんだろう?

 ならば、山歩きも村一番でなければな」

 収穫祭の翌日、シグルトとジゼルはウィスマールに向かって林道を下っていた。
 
 ホーリーが、ヒラリオの悪さによって暴れるという問題があったが、シグルトが偶然に持っていた鎮静効果のある香水の一振りで片が付いた。
 嫉妬に狂ったヒラリオは罪を暴かれ、今は村にある小屋に閉じ込められている。
 
 もしかしたら死人が出てもおかしくない騒動だったので、ヒラリオの断罪はこれから村の会議で決まるそうだ。
 まあ、祭の直後で酔いが残っていたんだろう、と罪はそれほど重くならないかもしれない。

 シグルトが、村長の言葉通りすぐに村を出ると、ジゼルはなんと村長を説き伏せて、一人で村を出て来たそうだ。
 村長をはじめ、馬のホーリーまでまた暴れて反対したらしいのだが、彼女の意志は固い。

 ヴィスマールまでシグルトと行き、その後ペルージュのアフマドを訪ね、心臓を診療して貰うことになっていた。
 実は森神のおかげで心臓は完治しているのだが、実際に完治を医者に宣言してもらった方がいいだろう。

 ジゼルは、心臓が治ったら、そのままリューンでダンサーを目指すそうだ。
 その間、本業として稼げるようになるまでは、シグルト同様に冒険者をして稼ぐと言っている。

 彼女の呼吸も顔色も、見違えて良いので、シグルトは甘やかさないことにした。

 彼女の弓の腕が驚異的なことは、見知っているので大丈夫だとも思う。
 それに、ジゼルは野伏(レンジャー)としての優れた能力がある。
 『小さき希望亭』にはまだ無い人材故に、とても重宝することだろう。

 また女性を連れ込んだと、宿の人間に何か言われるかもしれないが、先の話と割り切った。

 不意に立ち止ったシグルトは、ジゼルが追いつくのを待って聞いた。

「…ジゼル、君は神を信じるか?

 羆の様な立派な体格の、神様を」

 そんな言葉に、ジゼルは肩をすくめた。

「具体的な例えね。
 
 だけど私は全然信じてないわ。
 巫女になっておいて、なんだけど…」

 晴れやかに笑って、彼女は続ける。

「神様が居るのなら、これほど不公平なことは無いはずだもの。
 今私は、世界中に振り分けられた幸せを、とてもたくさん独り占めしていることになるわ。

 心臓の調子が良くて、しかも名医さんを紹介して貰えた。
 そのまま自分の夢にも邁進出来そうな状況にある。

 …ね?
 一つ叶っても夢みたいなのに、そんなえこ贔屓する神様なんて、誰も信じてくれないわよ。

 こんなに幸せでいいのかって、思っちゃう。
 神様がいたら、罰を当てられちゃうわ」

 目を細めて、心から幸せそうに…ジゼルは微笑んだ。

 シグルトは、森神が御大層に述べていた哲学的な言葉を思い出しながら、苦笑した。

「…何?

 可笑しかった?」

 可愛らしく小首を傾げたジゼルに、「思い出し笑いだ」とシグルトは告げて、また足早に歩き出した。
 見上げれば、空はどこまでも高い。

(〝君に幸あれ〟か…)
 
 神に祈れば叶うこともあるのだな、とシグルトはまた苦笑して、必死に追いかけてくる可憐な供に歩調を合わせるのだった。



 と言うわけで、シグルトの珍道中編、第一部の締めは楓さんの『ジゼリッタ』です。

 長かった~
 いや、シナリオそのものは普通サイズのソロシナリオなんですが、色々と追加描写入れるうちに、長編並のボリュームになってしまいました。

 でも、のって書けたので、描写の一部には手ごたえも感じています。
 書いてる最中に大風邪ひいて、熱と咳と格闘しつつ書いたのですが、以外に知恵熱だったかも。

 森、神、妖精とくれば、ケルト神話。
 話の内容も少しケルトの幻想伝説っぽく纏めてみました。

 この話のモデルである、バレエの『ジゼル』は、結構有名ですよね。
 元はハイネの紹介したウィリーの伝承を元に編纂された話の様ですが…

 シグルトと、ジゼルの主人公アルブレヒトは貴族という共通点以外、だいぶ差があったので表現が難しかったです。
 楓さんの描く主人公(男)は善人が多めなので、こっちではそれほど違和感無かったですが。

 それにしても、心臓弱いヒロインなのにバレエとかけるあたり、結構無茶がある原作です。
 私は原作の主人公は大嫌いで、このシナリオにハッピーエンドがあったのは有り難かったですね。

 幻想的な雰囲気を出すために苦労しました。

 特に、詩とか…私才能ないなぁ。
 シグルトたちの言葉だっと、もっと洗練されてるということで、勘弁して下さい。
 
 楓さんの詩を使うか最後まで悩んだのですが、シグルトの場合もう少し素朴というか、武骨な詩になるだろうということで、さらっとした内容にしてあります。
 
 むしろ、妖精伝説や塚の話を見て、思わずにやりとした人もいるのではないでしょうか。
 一応、ケルト神話をちゃんとベースにして描いているつもりです。

 シグルトのもう一つの血筋が、ルーの末裔だというのは随分前から決めていたことです。
 金髪碧眼のダーナ神族に対し、フォーモル族は魔神として対照的な容貌、ということで青黒い髪と瞳を思いついたのです。
 この容貌は、ルーがフォーモルの血筋ということで、エリック(償い)という言葉とともに、シグルトにくっつけていた設定です。
 ルーは祖父殺しなので、その末裔は呪われた、みたいな。

 シグルトは、光の万能神ルーと白エルフの血を引く上、魔神の血まで持ってるわけ(たどればバロールの血筋でもあります)ですから、人間の血で薄まったとはいえ、所謂ケルト的なの破滅性を持ってるわけです。
 完全無欠だけど、どこか危うげな感じ。
 元槍使いだったのも、血のせいでしょうね。

 これらの設定は、リプレイを最初から読まないとちんぷんかんぷんかもしれませんが。


 さて、ヒロインのジゼルですが…
 からっとして好い娘ですよね。
 私は陰湿ヒロインより、こういう明るくてマイペースなヒロインが好みです。
 
 ダンスが趣味、ということで、フーレイさんサイドで登場しているエトワールのライバルになりそうな予感があります。
 敏捷系ではありませんが、彼女にはレベッカを凌ぐ驚異の器用度13があるので、そっち系のダンスは天下無敵でしょう。

 シグルトとの掛け合いでも、かなりいい雰囲気でびっくりした人もいるかもしれません。
 もし過去に恋人がいなければ、くっついてた可能性が無きにしもあらず。

 シグルトは、こういう陽性の性格が好みだという表れでもあります。
 ただ、仲は良いけど友情止まりの可能性が激大ですが。

 彼女が宿に合流するのは、シグルトたちがリューンに帰還する頃になるかと思います。
 完治してても、一応生きる死ぬの病気だったので、落ちをつけたいと考えて、アフマドに登場願いました。

 シグルトの話や、リプレイの筋に合わせて羆の強さの価値観にいろいろ言ってますが、Y2つ仕様なので御了承下さい。
 実際の熊は怖いですが、実技レベルでは楓さんのシナリオにおける評価も頷けます。
 実際無傷で圧勝しましたし。
 とりあえず、シグルトの熊蘊蓄は、導入のために用意したきっかけみたいなものです。

 書く過程で大分雰囲気が変わってしまったかもしれませんが、見てて笑えたり、シグルトの意外な暴力性を知ってびっくりした人もいるかもしれませんね。
 流石に、籠手で顔面パンチはひどかったかなぁ。

 ちょっとダナの設定も垂れ流しています。

 色々と書いてしまいました…

 楓さん、雰囲気壊してしまったら御免なさい。(ぺこり)

 シグルト、このシナリオで先んじてレベル4になりました。
 やっと、アレトゥーザのレナータと並んだ感じです。

 今回の収支は…

『希望の都フォーチュン=ベル』
・【アラジンの指輪】-500SP

『ジゼリッタ』
・熊退治の報酬 +400SP

・連れ込みPC ジゼル

 以上です。


〈著作情報〉2009年08月21日現在

◇『ジゼリッタ』は楓さんのシナリオです。現時点でオフィシャルファンサイトのギルドにも登録され、下記サイトで配布されています。
 シナリオの著作権は、楓さんにあります。
 このリプレイの時のバージョンはVer ver1.00です。
  
・楓さんサイト『Fleur de cerisier』
 アドレス: ■ttp://blog.goo.ne.jp/kaede_015/(■をhに)


◇『希望の都フォーチュン=ベル』はDjinnさんのシナリオです。現時点でオフィシャルファンサイトのギルドとVectorにも登録され、Djinnさんのサイトで配布されています。 
 シナリオの著作権は、Djinnさんにあります。
 このリプレイの時のバージョンはVer Ver1.06です。
  
・Djinnさんサイト『水底のオアシス』
 アドレス: ■ttp://djinn.xrea.jp(■をhに)


◇今回、地形の配置について、シナリオ『地図作製組合』の地図を参考にしています。
 『地図作製組合』はCWGeoProjectから生まれたクロスシナリオです。現時点で下記サイトで配布されています。
 シナリオの著作権は、CWGeoProjectの方々にあります。
 このリプレイの時のバージョンはVer. β-1.30です。
  
・CWGeoProjectのサイト『Card Wirth Geography』
 アドレス: ■ttp://w2.abcoroti.com/~cwg/(■をhに)


 カードワースはgroupAskに著作権があり、カードワースの管理、バージョンアップ、オフィシャルな情報等はgroupAsk official fansiteにて、カードワース愛護協会の皆さんがなさっ

ています。
 このリプレイは各シナリオをプレイした上で、その結果を小説風リプレイとしてY2つが書いたものです。
 書かれた記事、書かれる記事は、特定のシナリオの名前が出たときは、そのシナリオの著作権はすべてそのシナリオの作者さんにあります。
 
 また、リプレイ中に使われる内容には、各シナリオで手に入れたスキルやアイテム、各シナリオに関連した情報等が扱われることがあります。
 それらの著作権は、それぞれのシナリオの作者さんにあります。
 またカード絵等の素材に関しては、シナリオ付属の著作情報等を参考にして下さい。
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『剣と籠手』

 その朝、シグルトは早朝から旅支度をしていた。

 これから仕事に出かけようとしていたアンジュが、それを見とがめる。

「シグルト、その格好…

 旅に出るの?」

 少しだけ不安げに聞くと、シグルトは頷いた。

「ああ。

 本当なら、もっと早くリューンを旅立つつもりだったが、やるべきことがあったからな」

 簡素なシグルトの答えに、やっぱりという顔になったアンジュは肩を落とした。

「もうちょっと、私の〈教導〉をしてほしかったんだけど、仕方ないわよね。
 
 分かった。
 その代り帰ってきたら、最優先で続きをお願いね」

 シグルトは、駄々をこねた後輩はことさら厳しい。
 説教でも長話したいと思いつつも、アンジュは嫌われない様に、シグルトを立てる態度をとる。

「君には、基本的なことを教えたはずだ。
 あとは、仲間を見つけ、鍛錬しながら道を見つけていけばいい。

 俺の仲間に君のことを相談して、別の技術を学ばせる必要もある。 
 ピッキングや、女の野外生活や旅に関する〈教導〉は、仲間のレベッカの方が向いているからな。

 それに、師から離れて、気付くことも沢山ある」

 アンジュの内心を知ってか知らずか、シグルトはそう言って、励ます様に頷いた。

「パーティを組むまでに、君は自分なりのスタイルを確立しておくといい。
 俺が、仲間と離れて単独で仕事が出来るのも、そういったことを踏まえて行動して来たからだ。

 冒険者は、仕事中に個別行動をとることもある。
 その時、自分で判断し正しい行動が出来る様にならねばな。

 アンジュ、冒険者に求められることはたくさんある。
 己の矜持を持って、意志を貫くならば、なおさらだ。

 君は、俺が一番最初に実戦の教導に連れて行った冒険者だ。
 だから、期待している。

 がっかりさせないでくれよ?」
 
 不安げに黙ってしまったアンジュに、シグルトは何時もの様に苦笑した。

「…分かってる。
 貴方を困らせるために冒険者になったのではないもの。

 この『小さき希望亭』で待ってるから」

 しばしの沈黙の後、アンジュは胸を張って応えた。

「うむ。
 戻って来た時、君がどこまで成長しているか、楽しみにしている。

 では…親父さん、行って来る」

 使い古した外套を担ぎ、シグルトは『小さき希望亭』の扉を開いた。


 『小さき希望亭』を後にしたシグルトは、まずリューンに向かう。
 そして、『地図作製組合』と看板が掛かっている建物に入って行った。

 此処は、各地の冒険者から地理を聞き、正確な地図の完成を目指している組織だ。
 
 旅をする者にとって地図は、とても重要なものだ。
 正確なそれがあれば、移動速度や中継地点の検討が容易になり、何より迷わなくなる。

 街道の立て札や、旅先で道を聞いて旅をする者が多いこの時代、略図的なものは多数あれど、正確な地図を持つ者は少ない。
 嘘の様な話だが、高さや距離が正確な縮図を作るための測量技術を持っているのは、ドワーフか一部の知識人だけであった。

 地図に使う紙も貴重品であり、さらに一般人には地図を読み解く能力はあまりない。
 一般的な地図と言えば、書き手の国や組織を中心に都合よく境界線を描いて、地名を適当に配置だけのお粗末なものがほとんどである。

 旅をする冒険者さえ、「街道に従って移動するか、大雑把な地図を使う」程度の者が非常に多かった。
 
 しかし、“風を纏う者”は正確な地図の利用をとても重視する、数少ない冒険者たちである。

 “風を纏う者”は各自一枚ずつレベッカが書いた西方諸国の地図を持っていた。
 加えて、ロマンがロードストーン(天然磁石)を使って作ったコンパス(方位磁石)を携帯している。 
 
 コンパスは、強力なロードストーンに細長い短剣状の鉄片を貼り付け暫く置いき、小さな木の裏板を貼って水に浮かぶ様にしたものだ。
 カップなどに浮かべると、北と南が分かる優れモノである。

 あまり知られていないが、地域によって磁北(磁石が示す北)と真北は数度ずれる。
 真北と呼ばれる本来の北は、〈北の果ての星〉と呼ばれる星の位置から割り出されているので、これを知らないものは「だいたい北」しか分からないのだ。
 それに、星で方位を見る方法は夜間にしか使えない。
 
 こういった知識が無く、コンパスに頼り過ぎると、遠距離になればなるほど深刻な誤差となって現れる。

 “風を纏う者”のメンバーの地図は、星の位置で北を定めたものであり、一定距離ごとの都市ごとに大まかな磁北と真北のずれが書きこまれている高度なものである。
 分からない者が見れば、暗号の様な数字が都市名の上に書き添えられたその地図はとても珍妙に見えるだろう。

 地図は、正しく見て使いこなせなければ意味が無い。
 “風を纏う者”は、磁石で真北の位置を確認して進路を選ぶ、高度な移動技術を確立していた。

 シグルトはこの技術を後輩に伝えたいと念願していたが、そのためには出来るだけ正確な地図がどうしても必要だった。 
 彼が地図を大切にする理由は他にもある。

 武術の師に学んだ時「戦場においては指揮官が、投石機の射程距離や騎馬の到達時間を計算出来なければ、生き残れない」と、目分量で距離を測る技術を叩き込まれた。
 シグルトの巧みな戦術は、距離や地形利用を踏まえたものである。

 距離の掌握は、冒険者にとっても重要な技術だ。
 特に討伐の仕事で見張りを無力化する時、距離が狙撃の成功率に関わる。
 立体的な戦闘配置を理解出来なければ、乱戦で仲間とはぐれたり、その後合流出来なくなる。

 詳しい地形の把握が可能なら、攻撃、奇襲、撤退、逃走といった戦術の選択肢が増え、生存率が増すのである。

 それに、冒険者が死亡する原因の上位に、〈遭難〉がある。
 樹海や砂漠、海洋、山といった未開の場所では、地理の理解力や方向感覚、距離感が生死を分ける。

 雪の多い地方に育ったシグルトは、雪原で迷った時に、星と方位の位置から目的地に向かう技術を教えられた。
 或いはシグルトの勘の良さは、こういった間隔を鍛えたからこそ、発揮されるのかもしれない。

 間違いだらけの大雑把な地図を見るにつけ、シグルトは言い知れぬ苛立ちを感じていた。
 何時か自分たちも、地図が原因で困ることになるかもしれないと。 

 だからか、『地図作製組合』が出来た時、シグルトは早くに協力を申し出ていた。

 今回は、知っている地形に関する資料を纏め上げ、持って来たのである。
 見返りに、最新の街道地図を写させて貰う約束だった。


「おお、シグルトさん!」

 建物に入ると、真新しい羊皮紙と睨めっこしていた賢者風の男が、興奮した様に顔を上げた。

 彼の名はクレーマー。
 組合の製図主任であるが、少しばかり大げさな挙動が特徴的な変わり者である。

「約束の地図と、知る限りの風土や天候を書きまとめて来た。

 確認してもらえるか?」

 シグルトが差し出した図面は5枚。
 『アレトゥーザ』、『キーレ』、『フォーチュン=ベル』、『ポートリオン』の四都市。
 あと、クレーマーに請われてまとめた『風繰り嶺』の地理。

 差し出された図面の精確さと、詳細な情報にクレーマーは唸っていた。

「噂には聞いていましたが、貴方に任せてよかった。

 フォーチュン=ベル近海の海図は教会勢力の贔屓目が入ってない、とても正確なものですね。
 おお、こっちの風土の報告書など…あの都市にはそんな仕来たりがあるのですか。

 いや、すみません。
 つい新しい情報に興奮してしまって」

 そう言うとクレーマーは、この組合で発行している証書をくれる。
 これは金券として使えるもので、組合内で、お金や物品と交換出来る。
 
 地図の書写と、証書の発行が報酬、という契約になっていた。

「ふむ、確かに5枚。

 確か、地酒や鉱石と交換も可能だったな?」

 シグルトは、新しい地図を一時間ほどかけて書き写すと、貰った証書を、品物に交換することにした。

 手に入れたのは【黒曜石】と【アーシウムの赤】。
 ともに剣を預けているブレッゼンへの土産である。

 シグルトは品物を確認すると、『地図作製組合』を出た。

 冒険者とは、大雑把な荒くれ者というイメージで見られがちだ。
 実際、仕事が無くて酒場で飲んだくれている冒険者も数多い。

 だが、こうやって地味な仕事を確実にこなし、忙しく日常生活を送っている冒険者もいる。
 
 シグルトは、一攫千金という言葉が嫌いだった。
 人生は賭け事ではない。
 積み重ねた苦労の分、報われる生き方でありたいと思う。

 華々しい評価と、数々の成功を成し得て来たのはその実、シグルトがとても堅実だったからだ。
 彼が証書を品物に変える姿は、とてもシュールだったが、様にもなっていた。

 シグルトの生まれ育った国は貧しい。
 貴族でさえ、冬の食事は一日一食ということもあったほどだ。

 塩漬けの肉や魚の悪臭で、手や髪が生臭くなることもあった。
 慣れない大工仕事は、一年も続ければ本業に弟子入り出来そうな腕前になった。
 屋根の雪下ろしで地面の雪に突っ込むと、身動きが全く取れなくなって命に関わることを、知るものは少ないだろう。

 美しい母の手が、冬になると繕いものと家事のせいで赤切れていたことを思い出す。
 肌の切れ間から湿った皮膚が見えて、ひりひりするその感覚。
 
 霜焼で半泣きになった妹の手に、何度も暖かな息を吐きかけ、擦ってやったこと。
 自分のそれには小水を掛けて温める、品の無いやり方が最も効果的だと、少年たちは早いうちに知る。
 この豊かな都市の人間たちは、厠に行く間に凍死する恐怖など知らないはずだ。

 平穏な日常がどれほど大切であるのか、シグルトはよく知っていた。

 食料と水の重さに安堵を覚え、履き慣れた靴の感触が頼もしい…
 シグルトは、そんな日々が好きだった。


 リューンを出たシグルトは、借り受けた馬を使って一路フォーチュン=ベルへと向かう。
 
 フォーチュン=ベルにはロマンがいるので、彼を迎えつつブレッゼンの工房に立ち寄り、預けた剣を受け取るつもりだった。
 思えば、随分寄り道をしてしまった。

 美しいシグルトが馬を駆り、走る姿は颯爽としている。
 すれ違う旅人たちは、興味深げに彼の背を眺めた。
 
 そうして数日、シグルトは目的の希望の都に到着した…

 
 フォーチュン=ベルに入ると、シグルトは贔屓にしている宿に馬を預け、ロマンのいる工房を訪ねるため、街の中を歩いていた。
 
 不意に、通りかかった酒場から忙しい喧噪が聞こえ、その中に知った声を耳にする。

「…だから、財布を忘れたと言っておるだろうが!

 この程度のはした金、わしの家に来ればすぐに払ってやるというに…分からん奴だな」

 それはブレッゼンだった。
 数人の男たちに囲まれ、眉間に皺を寄せている。

「だから、爺さん…それは出来ないと言っている。

 この店は何時でも現金払いだ。
 だいたいあれだけ飲んで、支払いの段階で〝財布を忘れた〟なんて言い訳、信じる奴はいないぜ?」

 リーダーらしい分からず屋の男に、ブレッゼンは溜息を吐いた。

「…たまに飲みに出かければこれだ。

 まったく、出された酒の質も悪ければ、店員の態度も悪い。
 しかもこの都市に住んでいて、わしを知らんとは…嘆かわしいわ」

 怒鳴る気力もないわい、という風にブレッゼンは身に着けていた腕輪を外そうとしていた。
 銀製の高価そうなものである。

「失礼する。
 彼の酒代は俺が立て替えよう。

 幾らだ?」

 横から入って来たシグルトに、ブレッゼンを囲んでいた男たちは目を向け見開いた。

「あ、あんたは…!!」

 フォーチュン=ベルで立て続けに大きな仕事を達成した“風を纏う者”は、それなりに名が知られていた。
 そのリーダーであるシグルトの顔を知る者がいたのだろう。

「…おお、お前か」

 シグルトが酒代としてはかなりの額である銀貨一千枚を支払うと、ブレッゼンは若い者が年上を敬うのは当然という風に、鷹揚に頷いた。
 目を丸くする男たちを置いて、2人は足早に酒場を出る。
 
「ふむ、ついでだ…工房まで送ろう」

 ブレッゼンを名で呼ぶ馬鹿はやらない。
 もめていたのは名前を隠して、ひっそりと飲みに来たかったからだろう。
 
 ブレッゼンの名はフォーチュン=ベルでは有名過ぎるが、知れば人が寄って来る。
 だから顔見知りがいない酒場に入って飲んでいたと、シグルトは推測した。

 酒場を出てしばらく歩くと、ブレッゼンはふうと一息吐いた。

「…借りを作ったな。

 金は帰ったらすぐ返そう」

 振り向きもせず言う彼は、相変わらずのひねくれ者だ。
 
「気にするな…俺も剣を預けたままだったからな。

 それに、相談したいことがあったから、仕事中でないのは有り難い。
 鎚振る貴方に声を掛ける、無粋をせずに済んだ。
 
 〝鉄があれば、黙して打て〟。

 これも必然だろう」

 シグルトの使った言葉は、鍛冶師が良く使う天命の暗喩である。

 偶然の悪戯も、日常も、皆必然であり天の定めたこと。
 トラブルは天命であり、焦らず、現実を生きろという様な意味だ。

「ほう、古い鍛冶師の言葉を知っている。

 …で、相談とは?」

 にやりと笑って、ブレッゼンは灰色の顎髭を扱いた。

「剣を使うに当たって、相応しい防具を検討している。
 荒事があると、どうしても躱すだけでは危うくてな。

 槍の様に距離をおけない剣は、敵に付いて戦う場面も多くなる。
 
 だが、冒険者の装備として、鎧は仰々しい。
 それで籠手だけでも、と思ったんだが…」

 ブレッゼンはしばし考え、ふむと頷いた。

「お前は、戦場の剣をよく知っている様子だな。
 身奇麗なだけでは、生き残れぬ者もいる。

 あの剣の研いだ痕跡を見たが、刃に手を添える防御を使いこなしていたな?
 
 少し古いが、手頃な鋼の籠手が一つある。
 魔法の品でないから、店には並べておらぬがな。

 酒代の礼だ…その手に合わせ、くれてやる」

 シグルトは、ブレッゼンの好意に甘えることにした。
 こう言う時の遠慮は、返って無粋である。

「有り難い。

 では、俺も手土産を渡そう…良い酒が手に入ったのでな」

 シグルトが【アーシウムの赤】を取り出すと、ブレッゼンは途端に振り向いて、子供の様に目を輝かせた。

「何と、最近は手に入れるのが難しくなって居ったそれを、よくぞ!
 葡萄酒で赤と言えば、これよっ。
 
 ほれ、急ぐぞっ!!」

 名匠の酒好きぶりに苦笑しつつ、シグルトもブレッゼンに合わせて足を早めた。

 
 家に着くなり、ブレッゼンは掻っ攫う様に【アーシウムの赤】を受け取ると、工房に入って行った。
 それほど経たずに、鎚で鉄を打つ音が聞こえ始める。
 
 シグルトは待つ間に、留守番をしていたサンディに挨拶すると、持って来た【黒曜石】を手渡す。

「有難う、シグルトさん。

 今、お金を用意するから…」

 【黒曜石】の対価を払おうというサンディの申し出を、今度は遠慮する。

「それは、剣を長く預けたままだったから、代金代わりにしてほしい。
 これからブレッゼンに籠手を貰う約束もしているし、な。

 その代わり、今度の時もよろしく頼む」

 サンディは、それならばと箱を一つ持って来て、中から古びた革の手袋を取り出した。

「これはレベッカさんに上げてね。
 戦士であるシグルトさんみたいに、器用な人にとっても手は大切だから。

 結構、由緒正しい品物なのよ」

 良く出来た女性である。
 ひねくれたブレッゼンが工房を構えていられるのは、サンディのこういった内需の功があるからだろう。

「有難う、必ず渡しておくよ」

 シグルトが手袋を受け取ると、丁度工房から鎚の音が聞こえなくなった。

「終わったみたいね…

 シグルトさん、様子を見に行って下さる?
 主人はきっと待っているわ」

 往年の勘からか、サンディはシグルトに工房に向う様勧めた。


 工房に入ると、ブレッゼンがアロンダイトの柄に革紐を巻いているところだった。
 磨きぬかれたシグルトの愛剣は、窓から入る日差しを浴びてキラキラと輝いている。
 
「おう、来たか」
 
 ブレッゼンは、剣の溝に詰まった革屑を払いながら声をかけて来た。

「取りに来るのがずいぶん遅れてしまった。

 すまない」

 シグルトが誤ると、ブレッゼンは半身で振り向き、鬚だらけの口端を歪めて笑った。
 
「フフフ、【アロンダイト】が急かすから早く仕上がっていたが…
 なかなかお前が来ぬので、数度磨いておいた。

 良い仕上がりよ。

 かつてある王にこの剣と同じく円卓の騎士の剣を打ったことがあったが、同じ気分じゃ」
 
 満足そうに髭を撫で、ブレッゼンは剣を振った。
 
「…祖国エルトリアを外敵から守り抜いたという武王、ギルバウスⅡ世の【ガラティン】か?」
 
 ブレッゼンが、よく知っているなと頷く。
 
 【ガラティン】は【アロンダイト】と並ぶ、騎士王アーサーが円卓の騎士の剣である。
 時間帯次第で強さが変わる魔力をその身に宿し、時には最強と呼ばれた騎士ランスロットを凌ぐこともあったという、騎士ガウェインの愛剣である。
 
「かの武王は、我が友の剣の弟子でな。
 武人らしい気概を持った方だった。
 
 当時、多くの貴族がわしの作る武具を求めてやって来たが、皆横柄な態度で小物1つ作る気にはならなんだ…
 
 しかしかの王は、戦乱を治めるためにと、一介の職人のわしに膝を折り頭を垂れた。
 武は民と国のために振るうと誓い、その通りの素晴らしき国になされた。
 
 今では【ガラティン】は、若くして己の実力で将軍の地位を勝ち得た、陛下の姫君が継いだと聞く。
 
 あの剣は、善き国を作る道を切り開くために使われているのだ。
 これこそ、職人の冥利に尽きると言うものよ」
 
 ブレッゼンは良質の酒を飲んだ後のせいか、とても機嫌がよく饒舌である。
 
「シグルトよ。
 かの武王の様に英雄になれとは言わん。
 
 だが、わしが見込んで【アロンダイト】を授けたこと、努々(ゆめゆめ)忘れるな。
 剣は戦いの道具ではあるが…剣士の友であり、心であり、魂なのだ」
 
 シグルトは愛剣の柄を撫で、しっかりと頷いた。

 コォ…ゥゥン
 
 手渡された【アロンダイト】は澄んだ輝きでシグルトに応え、喜ぶ様に軽やかな響きで鳴った。

「ほう、剣を鳴かせたか」

 〈剣が鳴く〉とは、特にぶつけたり振ったわけでもないのに、剣が金属音を立てることをいう。

 銘剣の多くは、甲高い音で主に危険を知らせ、悲しげな音で主の死を予言する。
 そして、正しい持ち主に戻った剣は、喜びで鳴くと言われていた。

 鳴く剣を打てる匠は稀だが、剣を鳴かす剣士はもっと少ない。
 
「戻って来るまでの間に、随分腕を上げた様だな。
 お前ならば、この剣を最後の頂まで連れていけるだろう。

 さて、次だ。

 腕を出せシグルト。
 そろそろ、打ち直した籠手が冷えておる頃よ」

 ブレッゼンはシグルトの腕を取り、傷や訓練の痕を見て満足げに頷いた。

「うむ、これぞ戦士の腕。

 どれ、一つ合わせてみるか」

 ブレッゼンは、シグルトの腕に麻布を捲き、鎖で編んだ腕輪を通すと、籠手を組み立て始めた。
 微妙な指の太さに合わせ、部品を調整する。

「…掌は、鋼糸で編んでおいた。
 握れば、同じ様に皺が出来る。
 滑り止めに、鮫の革を編み込んでおいたが、擦り減ったなら、此処に持ってくるか自分で編め。

 関節部分には肉を挟まん様、サラシを捲くのだぞ。
 着ずれが起きん様に、着ける時は動かん様しっかり、な。
 
 まだ夏の日差しだ…蒸れん様に空気穴はあるが、日差しには晒すなよ。
 サラシを捲いていても、火傷することになる。
 
 時折上質の油を挿し、鎖は目の細かい砂で水を使わずに扱いて洗え。
 鉄は、返り血や塩風にも弱いからな。

 かかった血は、拭かずに布に吸わせろ。
 拭き広げたりすれば、手入れの手間が増える。

 乾いた血なら、刷毛で払い落せるだろう。
 血の染みが消えるまで磨き、油で覆っておけ。
 
 錆落としをする時は、灰で油を吸わせてから、念入りにすればいい。
 終わったら、刷毛で灰や金屑を払って、油を塗るのを忘れるな。

 手入れの道具は、わしのお古をやろう。

 腕に被せる装甲は、しっかり腕に貼り動かぬ様に固定すれば、お前が望む荒っぽい使い方をしても耐えられるはずだ」

 籠手を組み立てながら、ブレッゼンは扱い方や細かい手入れの仕方を説明していく。

 籠手が優秀な防具でありながら、鎧と別に扱われない理由は、手入れや扱いが難しいからである。
 それに、重みで腕が疲れるのも原因だ。

「お前ほどに鍛錬してあれば、腕の延長で使えるだろう。

 この籠手は、かつてわしが若い頃に使っていた甲冑の予備でな。
 武骨な造りだが、このわしの腕二本、守り通した折り紙付きだ。

 戦士であれ、職人であれ…腕を護らん者は、能無しよ。

 籠手を着ける、ということは接近戦やナイフ相手の戦闘を踏まえておるんだろう?
 実戦を知らねば、間合の最悪たる格闘戦のことなど、歯牙にも掛けん。

 戦場では、殴り合い掴み合いも卑怯とは言わぬ。
 殺されぬために、どちらも必死になるからな。

 多くの戦士が、盗賊や暗殺者に敗れるのは、対策が足りんからだ」

 ブレッゼンの解説に、強く頷くシグルト。

「奇襲を受けた時、身体を庇うのは腕だ。
 砂利道で転倒した時受け身を取るのも、敵に武器を振るう時一番近づくのも。
 
 とりあえずこれは、繋ぎの品だ。
 悪い品では無いが、何れ物足りなくなる。

 暇な時にでも、お前専用の真銀の籠手を鍛えてやろう。
 もっと鉱石が必要になるから、探して来い」

 淡々とした口調の中にも、ブレッゼンの気遣いが感じられ、シグルトは感謝するように頭を下げた。

「ふふ、次の時も土産の酒を忘れるなよ?」

 太い眉を冗談めかして動かした名匠に、シグルトは苦笑して頷いた。


 手に入れた籠手をしまい、久しぶりに戻った剣を腰に佩くと、シグルトはロマンを迎えるために『象牙の杯』へと向かった。
 工房に着くと、不気味な老婆が出迎えてくれる。
 
「ほほ、坊やの連れかえ?

 また、好い男だねぇ。
 茶でも飲んでいくかい?」

 猛禽の様な鋭い双眸に、見据えられる。
 並の人間なら怖気づいただろう。

「お気遣い、痛み入る。
 だが、これ以上仲間を待たせるのは心苦しいのでな。

 先に顔を合わせるつもりだ」

 仕方ないねぇ、と笑って老婆はロマンの元へシグルトを誘った。

「やっと来たね。

 待ちくたびれちゃったよ」

 数週間ぶりに逢うロマンは、相も変わらずひねた態度で胸を張った。

 窓の外は、すでに赤らんでいる。
 黄昏時が近いのだ。

「今日旅立つと、すぐに夜になっちゃうよね。

 一晩泊まって、明日にでも発とう」

 ロマンの提案に、シグルトも賛同した。
 
「馬があるから、ヴィスマール経由の新しい街道を通って一週間というところか。
 海路という手もあるが、この時期の海は荒れやすい。

 これが新しい地図だ。
 暇な時にでも、写しておくといい」

 シグルトの差し出した地図を暫く眺め、ロマンは地図を返した。
 
「…ん。

 もう覚えたから、休みの時でも書いておくよ」

 ロマンの記憶力は、常人離れしている。
 今まで読んだ本の、ページや皺の位置まで覚えているのだ。

 彼が知らない知識といえば、読んでない類の物だけだろう。

「明日は早いし、早く食事を済ませよう。

 そうだ、デザートが美味しい店を見つけたんだ。
 そこにしようよ」

 ロマンの天才的な一面と子供らしい一面のギャップに苦笑しつつ、シグルトは仲間との穏やかで満たされた時間を過ごすのだった。



 一旦シグルトとロマンが合流する中継エピソードです。
 いくつかのシナリオをまとめて一話にしました。

 真北と磁北の話は、案外知らない人多いでしょう。
 私は多少方位の吉凶を占ったり出来るのですが、実際に影響するのは真北です。
 日本から見る真北は、東に5~7度ぐらいずれます。(日本でも3度あるいは10度近く違う場所もあります)
 
 10歩程度のズレでも、数十キロ先では相当な差になって出るので、北を使う時は、磁北を優先するのか真北を優先するのか決めないと迷うでしょう。
 切り株の年輪による傾きは、「ある程度」しか分からないので鵜呑みにするのは危険です…大体こっちか、程度に使うが吉。

 思うのですが、魔法的な磁場が沢山ありそうなファンタジーの世界で、コンパスってよく狂うんじゃないでしょうか。

 ピリ・レイスの地図の原本とかならともかく、昔の地図は、むちゃくちゃな地図ばっかりです。

 中世の地図を見ると、現在の地図の違いにびっくりします。
 大航海時代の初頭だって、アメリカ大陸だってインドと勘違いされてたんですから。
 野垂れ死にが多いわけです。

 『地図作製組合』は面白い試みです。
 私も公式に使えそうなマップを知りたかったので、リプレイではこの地図を大いに利用しています。
 でも、フォーチュン=ベルとアレトゥーザ、遠いなぁ。

 鉱石が手に入るシナリオですので、上手に利用するとよいでしょう。

 シグルトたちはキーレに行ってませんが、実は同じ宿の“煌く炎たち”が行ってるのでフラグが立ったようです。
 面倒なので、北から来るときにキーレを見た扱いでシグルトにポイント渡しました。

 『魔剣工房』で【アロンダイト】を回収しつつ、金銭の動きが出来るだけ無い様に辻褄合わせしています。
 “風を纏う者”とブレゼンの関係を、出来るだけお金でだけの関係にしないためです。

 今回は1000SPをブレッゼンの酒代立て替えという扱いで、それに【黒曜石】の販売で1000SP。
 それで出来た2000SPを使って拙作『風鎧う刃金の技』で【錬鋼の籠手】を入手しました。
 防御しつつカード交換が出来るので、なかなか使えます。

 3レベル以降は、小さな蓄積ダメージがくっきり実力に反映されます。
 一撃で死にそうなスキルも、10%ダメージ減少させる防具があると、かろうじて生き残ったりします。
 【錬鋼の籠手】の防御効果は、手札交換中の隙を埋め、上手くすればカウンターや溜めを成立させるので、『剣士の求め』や『風鎧う刃金の技』のスキルを使うなら重宝するでしょう


 装備しているだけで回避力も上がるので、かさむ(アイテムスロットを一つ埋める)ものの、それほど気にならないでしょう。

 最後にフォーチュン=ベルですが…次回ここで一個だけロマンの買い物をしておこうかな、と考えています。
 お金、まだ結構余裕あるなぁ。


 今回の収支は以下の通り。

◇シグルトのみ
『地図作製組合』
・【アーシウムの赤】入手
・【黒曜石】入手

『魔剣工房』
・【バスタードソード】(アロンダイト第二段階)入手
・【アーシウムの赤】使用(ブレッゼンへのお土産)
・【黒曜石】販売(+1000SP)
・【バロの手】入手

『風鎧う刃金の技』
・【錬鋼の籠手】購入(-2000SP)

 現在の所持金1555SP(チャリ~ン♪)


〈著作情報〉2009年08月01日現在

◇『地図作製組合』はCWGeoProjectから生まれたクロスシナリオです。現時点で下記サイトで配布されています。
 シナリオの著作権は、CWGeoProjectの方々にあります。
 このリプレイの時のバージョンはVer. β-1.30です。
  
・CWGeoProjectのサイト『Card Wirth Geography』
 アドレス: ■ttp://w2.abcoroti.com/~cwg/(■をhに)

 今回このシナリオで入手したアイテム【アーシウムの赤】と【黒曜石】はクロスインポートアイテムです。
 『地図作製組合』の付属テキストに、著作権の詳細が書かれていますので、そちらを参考になさって下さい。


◇『魔剣工房』はDjinnさんのシナリオです。現時点でオフィシャルファンサイトのギルドとVectorにも登録され、Djinnさんのサイトで配布されています。 
 シナリオの著作権は、Djinnさんにあります。
 このリプレイの時のバージョンはVer 1.07です。
  
・Djinnさんサイト『水底のオアシス』
 アドレス: ■ttp://djinn.xrea.jp(■をhに)


◇『風鎧う刃金の技』はY2つのシナリオです。当ブログにダウンロードサイトへのリンクが張られています。
 シナリオの著作権は、Y2つにあります。

・Y2つのシナリオ置場『Y字の交差路別院』
 アドレス:■ttp://sites.google.com/site/waijinokousaro/■をhに)
 
 
 カードワースはgroupAskに著作権があり、カードワースの管理、バージョンアップ、オフィシャルな情報等はgroupAsk official fansiteにて、カードワース愛護協会の皆さんがなさっ

ています。
 このリプレイは各シナリオをプレイした上で、その結果を小説風リプレイとしてY2つが書いたものです。
 書かれた記事、書かれる記事は、特定のシナリオの名前が出たときは、そのシナリオの著作権はすべてそのシナリオの作者さんにあります。
 
 また、リプレイ中に使われる内容には、各シナリオで手に入れたスキルやアイテム、各シナリオに関連した情報等が扱われることがあります。
 それらの著作権は、それぞれのシナリオの作者さんにあります。
 またカード絵等の素材に関しては、シナリオ付属の著作情報等を参考にして下さい。
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『私』

 美しい朝日が差し込む時間、私は部屋のカーテンを勢い良く開いた。

 窓からいっぱいに飛び込んで来る、光の雨。
 少し前までの、夜型だった頃の私は、こんな日々を過ごすことなんて、考えてもいなかったと思う。

 私がこの『小さき希望亭』に来て、もうすぐ一週間になろうとしている。

 この宿を含めた〈冒険者の宿〉と呼ばれる機関では、冒険者と呼ばれる人たちに、仕事の斡旋をしたり、彼らの駐留先になる拠点だ。
 そいう私も、新米だが冒険者である。

 冒険者は、所謂何でも屋みたいな仕事。
 魔物や盗賊の討伐といった荒事も多いけど、荷物の輸送や遺跡の探索、珍しいものでは対立組織の調停なんかもやるらしい。

 〈冒険者〉なんて浪漫溢れる名称だけど、実際にお伽噺の勇者の様な冒険者は、ほんの一部だ。

 私が旅の吟遊詩人に聞いて、初めて抱いた冒険者像は、そんな格好良くて英雄と呼ぶに相応しいものだった。
 そして、このリューンにやってくる前に酒場で聞いた冒険者のイメージは、ならず者そのもの。

 実際に冒険者になってみて、彼らと交流してみたが、その本質は〈十人十色〉。
 本当に英雄そのものと言える凄い人もいれば、私の様な女の子には「隙あらばものにしてやる」とばかりに近寄って来る色ボケ、鋭利で理知的な賢者に、ちんぴらと変わらない人間の屑までいる。

 その点、私の所属した『小さき希望亭』は、良質の冒険者の集まりだった。
 
 冒険者の宿には、〈専属〉と呼ばれる冒険者たちがいる。

 彼らは、その宿から優先的に仕事を受けられる代わりに、宿からの要請を守る義務もある。
 つまり身元のはっきりした仕事人たちで、ギルドと呼ばれる各組織…商人、職人、漁師他色々ある…や、地位の高い人から依頼を貰うことが出来る。

 私もまた、そんな〈専属〉冒険者の登録し終えて数日、といったところ。
 目下、鍛錬しつつ、自分の所属する〈パーティ〉のメンバーを探している、そんな立場にある。

 〈パーティ〉と呼ばれる、冒険者のグループを示す単位がある。
 〈専属〉の優秀なパーティを持つことは、宿のステータスになるのだが、『小さき希望亭』は小さい宿にも関わらず、話題の多い〈専属〉パーティが所属していることで、名が知られていた。

 でも、うちの宿の〈専属〉パーティは現在、なんとたった2つきり。
 正直言って、とても少ない。

 そのうちの一つ、“煌く炎たち”は、マルスという元傭兵の戦士がリーダーのパーティだ。

 彼らは戦闘力が高く、討伐の依頼を得意にしている。 
 他のメンバーは、炎の精霊術師でもある女戦士ゼナ、聖北の元修道女だったレシール、老獪な魔術師カロック、玄人盗賊のジェフで、5人組。

 うちの宿の特徴、と言えば、女性冒険者が意外に多いことだろう。

 それは、この『小さき希望亭』が、女性に居心地の良い宿だからだ。
 此処の主人は、酔って女性冒険者に絡むような奴は締め出しをする。

 女性冒険者の絶対数は、少ない。
 どの位かっていうと、全冒険者のうち一割を切るんじゃないかな?

 何故かって、それはこの仕事がきつくて汚くて危険な仕事だからだ。
 この時代、女であれば、理想は十代のうちに玉の輿。
 男と並んで、切った張った~て世界は、はしたないと言われても仕方が無い。
 
 そんな、私と同じ女性冒険者のゼナやレシールとは、ここ数日で喧嘩友達みたいな関係になった。
 仲良くなってみれば、2人とも人間味のある面白い人たちである。

 ゼナなんかは感情的で、怒るとすぐに炎の精霊を召喚しそうになって皆で止めるのだけど、きちんとした矜持を持っていて、因習なんかには囚われない自由人だ。
 下級貴族の御令嬢だったレシールは、プライドが高くて頭が固いけど、清楚で情が厚い。
 “煌く炎たち”リーダーのマルスは男前(顔じゃないのがやや残念だが)で、他の男性たちもしっかり者。

 冒険者のパーティは6人を一単位とするので、私は5人組の“煌く炎たち”から誘われてたりする。
 しかし、今のところ私が入りたいと念願しているのは、もう一方の“風を纏う者”の方だ。

 “風を纏う者”のメンバーのうち、面識があるのは一人だけだが、私にとってその人は特別。
 こうして冒険者になったのも、また冒険者としてのイロハを教えてくれたのも、皆彼だからだ。

 “風を纏う者”は、新進気鋭のパーティで、結成して半年も経っていない。
 だが、依頼の達成率は9割を超え、成功の街道を躍進というより驀進している。

 貴族にコネがあったり、各ギルドのお偉いさんに注目されてたり、彼らに教えを請いに来る冒険者もいるぐらい。
 『小さき希望亭』が有名になったのも、このパーティのおかげといっていい。 

 “煌く炎たち”同様、まだメンバーが5人なので、空いた最後の座を得ようと狙ってる冒険者も多いが、今のところ全て撃沈している。
 私もそうなのだが、最初のアプローチはすっぱりと断られた。

 諦めきれない私は、鋭意修業中で、いつかその座を射止めようと頑張っている。

 …見ると、窓の下で、あの人が何時もの様に剣の鍛錬をしていた。
 上半身裸で、汗がその白い肌を濡らしている姿は、ちょっとセクシーで野性的だ。

 あんなに綺麗な人なのに、身体には無数の傷がある。
 彼が歴戦の戦士である、証なのかも知れない。

 でも、彼ならこう言うだろう…

〝この傷を負った分、俺は及ばなかったということだ〟

 …こんな感じにね。

 ふふ、この宿に来てから、彼のことはたくさん知った。
 女の子がキャーキャー騒ぐ美貌以上に、素敵で逞しい内面を持っているのに、実はちょっと鈍感で可愛らしい一面だってあることも。

 …お、あそこに並んでるのは、彼の教導目当ての新米冒険者っぽい。
 あっちの桃色なオーラ全開の連中は、性懲りも無く彼の心を射止め様とやって来た娘たちね。
 うわ、マダムっぽいのもちらほらといるわ。
 あそこの子供たちは、彼に遊んでほしい子たちね…意外だけど子供好きで優しいからなぁ。

 …おや?

 ちょっと、待て、待てっ!
 アレは、何?!
 いかにも「ヤラナイカ」な、黒髪の兄貴っぽいのの集団は…
 あ、女の子たちに踏まれた…あーめん。

 相変わらず人気よね…はぁ。


 窓からの観察を終え、借りている2階の部屋から1階の店に降りると、何時もの様に宿の親父さんが食器を磨いていた。

 頭が少し寂しいけれど、それは言わないのが礼儀というもの。
 不真面目な冒険者に対しては厳しい評価をする人だけれど、私には良くしてくれる。

 親父さんは「早いな」と言いつつ、私の好みに合わせて朝食を用意してくれた。

 此処の料理は、賄いでもちょっとした高級料理店より美味しいらしい。
 朝食だけ食べに来る人がいるくらいだから、よっぽどだ。

 賄い、と言えば…今日私は仕事を休んでいる。
 冒険者では無く、副業の方だ。

 顔見せに行って、数回店番をした程度だが、最初から休んでばかりだと止めさせられるかもしれない。
 あの仕事は好きだし、明日は行くことにしよう。

 今私は『ささやかな宝』というファンシーなお店で、雇われ店員の様な仕事もやっていた。
 冒険者として生活が安定するまで、生活費を稼ぐために、世話してもらったのだ。

 そこの店主さんは上品な女性で、全然怒ったりしないし、サービスばっかりするので店の経営が心配。

 品揃えが豊富で、化粧品なんかは毎日売れているので、そこそこに忙しい。
 店主さんには、私の身元保証人にもなって貰っているし、時給扱いで銀貨5枚もくれる。
 
 たかが銀貨5枚って笑う人もいるけど、それだけあれば、この宿で1日分の食事が賄える。
 にこにこ笑って、可愛らしい小物の説明をして、店主さんとお茶を飲みつつ店番すれば稼げるんだから、正直正規の店員になるか真面目に悩んでいる。

 こう言ってはなんだが、私は化粧品にはうるさいのだ。
 特に香水に関しては、専門家に負けない知識があると自負している。

 調香師になるほど器用ではないし、鼻だって特別良い方ではないが…

 香水の産業が活発なリューンのブランドは全部覚えているし、どんな心理作用があって、どの年代のために作られたか、なんていう蘊蓄は誰にも負けない。
 自前でブレンドしたオリジナルの香水は自信作。
 副業採用のきっかけになったくらいで、店主さんが私の名前で出さないか~なんて誘ってくれてる。

 数日前までの私は、それはそれは腐っていた。
 お金は無いし、稼ぎ方は知らないし、そのくせお腹ばかり減るので、泣きそうだった。

 市民税取られたくなくて、歓楽街の廃墟に潜伏して、通りすがりの助平なお兄さんからこっそりあるものを戴く。
 そのあるものは植物や虫からもそれは取れるのだが、微々たるものだった。

 おかげで心が荒むわ、飢えるわ、散々だった。
 ま、逞しくはなったけどね。

 香水の知識の多くは、そんな頃、歓楽街に来る行商人や消費者の女性たちから仕入れた。
 実は、脇の路地や壁の向こうで聞いてただけなんだけど。
 
 そう、香水の消費が最も多いのは、貴族の女性と夜の女なのだ。
 
 夜の女っていうのは、売春や風俗やってる女の人のこと。
 何時の世も、助平な男は後を絶たない。

 特に娼婦さんたちが、ばかすか香水を使う。
 事に及んだ後、嫌な臭いを消すためだ。
 香水は高いけど、相手が萎えてしまったら、お仕事にならない。
 所謂、商売道具である。

 本当はお風呂に入りたいんだろうけど、こういう大きな都市で水はとても貴重なのだ。
 歓楽街ともなれば、飲み水や生活用水まで澱んでいて生臭い。
 水桶にボウフラが泳いでいることなんて、日常茶飯事。

 だからお酒が沢山売れるし、染みついた生臭い悪臭を隠すために香水が大切になる。
 ものによっては虫除けを兼ねてるって、知ってる人は少ないだろう。

 高級な娼館には少ないけど、梅毒や淋病といった花柳病(性病)に苦しむ娼婦さんも多い。
 酷い話だが、病気で出た膿の悪臭を隠すために、香水を使う娼婦さんもいる。

 世知辛い世の中である。

 そんな苦しい生活の場の近くにいて、実用的にもなる香りぐらいは、楽しみたかった。
 悪臭を消すと、別世界に来たみたいで安心出来たし。
 
 買うお金なんて当然無いから、捨てられていた香水の瓶を集めて、残って無いか瓶をひっくり返し見てるうちに、もっと詳しくなってしまったわけだ。

 香水の瓶はお洒落で高価なので、ひびが入ってるとか割れてるのでなければ、再利用が普通。
 私のこの趣味は、瓶を原料に戻して売る人たちに恨まれるので困難を極めたけど、冷や冷やしながら結局続けていた。
 
 何の因果か、その時得た知識が、今の仕事ではすごく役立っている。

 『小さき希望亭』の娘であるクリスティアーネ…通称娘さんは、生粋のリューンっ子で、香水には詳しく、仲良くなるきっかけになった。
 働いてるお店では、お客さんに蘊蓄を披露すれば喜んで買ってくれるし、香水の話は楽しくて時間を忘れてしまう。

 まったく、世の中どう転ぶか分からない。

 腐ってた頃は、「もう死にたい」とか真面目に悩んでたけれど、今の私は結構幸せだった。


 食事をしていると、不意に隣に誰か座る気配がする。
 軟派野郎なら、隣に移るか毒の一つも吐こうとして、その人が〈彼〉であることに気付いた。

 同然そんな不遜な考えは、全部撤回。
 私が出来る最上の笑顔で話し掛ける。

「お早う、シグルト」

 彼は、何時もの様に苦笑して、「お早う」と返してくれた。

 …そう、彼こそ“風を纏う者”のリーダーにして、この宿の中心人物であるシグルト。
 
 名前が竜殺しの英雄と同じだが、それがこれほど似合う人も珍しい。
 背が高くて、凄く綺麗な顔立ちで、神秘的な瞳をしている素敵な男性だ。

 容貌も魅力的だが、天がここまで贔屓して贈り物をした人はいないだろう。
 強くて教養があって、医術の知識や魔法にまで通じている。
 
 軽い嫉妬とともに、誰からも注目される、そんな人。
 そして、私をあの掃き溜めの様な地獄から救ってくれた、大好きな人だ。

 …仕方ないでしょ?
 ただでさえこんなに格好良いのに、私を救ってくれた騎士様だったんだから。

 彼との出逢いは何というか…ええい、言ってしまおう。

 私はサキュバスで、最初は捕食者みたいなものだったのだ。

 サキュバス、というのは女淫魔のこと。
 ちょっと卑猥な種族名かもしれないが、本来のサキュバスは、何というか淫靡なイメージがある。

 まあ、男から精気(生気)を、交わって奪うから当然なのだが。
 
 私もそういうことしてたかって?
 いいえ、してません。(きっぱり)

 …ここからは身の上話になるのだが、私の場合はかなり特殊だったのだ。

 私は事に及ばなくても、触れれば精気を奪い取れるのである。
 だから、男の人とそういう関係になったことは一度も無い。

 本来この能力は、上位の淫魔でなければ使えないものだ。
 やり方としては、「精気を奪う見返りに快楽を与える」という淫魔の王道からは、邪道扱いされるらしい。
 さらに私の場合、飢えた状態でなければ力をコントロール出来るし、万全の時は生物以外の様々な物体からも、精気として力を吸収出来る。

 言ってみればサキュバスでも、超の付く異端だったわけ。
 旅するうちに、同族にも会ったけれど、思いっきり不良品扱いされた。

 相手に接触するために、魔法の鎖で相手を呪縛する呪術も使えるのだけど、これは旅で出会った同族に習った。
 でも、結局私をまともな同族として見てくれない彼らの元にもいられず、流れてこのリューンにやって来た。

 この都市はとても広くて、隠れる場所には事欠かなかったけれど、同時に官憲やら教会やら、私たちの天敵もうようよしていた。

 私は生きるために適当な獲物を見つけて精気を奪って気絶させ、何とか逃げ回っていたのだが、頻繁に食事するとやばい勢力に狙われるので、都市伝説に溶け込む程度に仕事を控えてやっていた。
 それに、こう言うと変かもしれないが、私は人から精気を奪うのがものすごく嫌。

 この〈吸精に対する嫌悪感〉こそ、私が同族と一緒に居られなかった一番の原因である。

 本来のサキュバスたちは、獲物の男性から精気を吸い尽して殺すことをなんとも思わない。
 快楽のうちに殺すのだから、感謝されてしかるべき、なんて考えてるのもいる。
 つまり、嬉々として食い殺すことが出来なければ、彼女たちの仲間にはなれなかったのだ。

 でも、空腹になった者は、人でもサキュバスでも関係なく、荒む。
 食事をするには嫌悪する力を使わねばならず、食事をしないと飢える。
 
 シグルトに出会った頃の私は、この矛盾に疲れきっていて、半ば自棄になっていた。

 最初にシグルトを見つけた時、私は容姿端麗な彼からなら力を吸い取っても平気かも知れないと思った。
 嫌悪する力でも、食事をしなければ七転八倒の苦しみだし、どうせやるなら誘惑に負けたって形にしたかった。
 体の好い言い訳を作ったわけね。

 サキュバスって種族は、所謂〈男好き〉のする物凄い美人(これは種族的進化だと思う)が多くて、大抵の男の人は、花に吸い寄せられる蝶の様にふらふら寄って来る。
 特に飢えてる時のサキュバスは、生存本能が働くのか、男を誘う魅力が全開になる。

 一度私の淫気に当てられて、振り切るまでひたすら追い掛けて来た男の人がいたけど、あれは完全に正気を失っていた。
 私の魅力全開で誘えなかった男の人は、今まで一人もいなかった。

 だがシグルトは、その魅惑にまったく、これっぽっちも靡かなかったのだ。
 挙句、お説教されました…

 結局私は、飢えに耐えきれず彼から精気を頂戴したのだけど(もちろん手を握って、楚々とやりましたよ)、彼に対して特別な執着を…要は私の方が魅了されてしまっていた。
 それに…別れ際の彼は、私と同じ様な孤独を分かる瞳をしていた。
 
 次の晩に会う約束を無理やりして…果たして、彼は来てくれた。
 しかも、律儀に私と決別をするためにだ。

 彼は、私の中に死んでしまった知り合いの女の子を見てたので、正体に気付きつつ優しくしてくれたらしい。
 でも、そういうのは私に失礼だからって、はっきりともう会わないって、別れを告げて来た。

 私は無我夢中で彼を引き止め様として、全開で彼から精気を吸ってしまった。
 
 気絶したシグルトを見て、私は殺してしまった~と、慌てたが、幸い彼は生きていた。
 彼はすでに私の正体を完璧に看破していて、対策を立てていたのだ。 

 無我夢中で隠れ家に彼を運んで、介抱して…起きた彼に、いつの間にか私は、溜まっていたものを吐き出す様に、身の上話をした。
 そうして、自分の節操の無い力にほとほと嫌気がさしていた私は、一通り身の上を告白した後、彼に殺してくれと頼んだ。

 シグルトはそこで、憐憫も敵意も無く、私を叱りつけた。
 いかに私が身勝手なことを言っているのか、激しい口調で叱咤し、そして私に生きる様に言ったのだ。

 もし私が少しでも生きる気があるのなら、自分が手を貸すからと。

 恥ずかしい話、私は泣いてしまった。
 ただの同情では無い、そんな優しい言葉をかけてくれたのは、彼が生まれて初めてだったからだ。

 後は彼に導かれるまま、『小さき希望亭』にやって来た。

 シグルトが凄かったのはここからで、何と私に近しい魔物の伝承から、精気の代わりに飢えを満たす代用品を見つけ出してくれたのだ。
 私もまさか、【柘榴酒】があんなに効くとは思いもしなかった。

 こうして私は、人並に生きる手段を得たのである。

 さらにシグルトは、私が生活出来る様に、様々な手を打ってくれた。

 さっき紹介したお店の仕事や、私の身元保証人を作る交渉、宿に冒険者として登録するための口添えや、後々市民権を取ることが出来るよう前準備。
 当面の生活費と宿代、武具や装備品(お下がりだけど)。
 冒険者として生きて行くための知識の伝授と、教育まで…

 彼は、道端で出会って命を奪おうとまでした私を、「約束したから」と一言で済ませて、救ってくれたのだ。

 私はシグルトに一目惚れし、励まされて惚れ直し、救ってもらって虜になった。
 完全に参ってしまった、というやつである。

 だが、シグルトのストイックさは化物だった。
 多分、淫魔の女王が魔力全開で裸で迫っても、失せろとばかりに睨み返して終わるだろう。

 私もここ数日で何度もモーションを掛けたが、惨敗だ。
 唯一の救いは、他の女性たちも尽く敗れ去っているので、彼が色恋沙汰で陥落する心配はまず無い、ということぐらい。

 つい先日も、なんと2人っきりで依頼をこなし(彼が私に冒険者のやり方を教導するという目的だったが)半日一緒にいたのだが、した話といえば、熊やら仕事のコツの話ばっかり。
 恋や色気なんて、どこの世界の話って雰囲気だった。

 親父さんなど「まあ、シグルトなら間違いは決して犯さんだろう」と断言していたし…
 2人っきりの状況をやっかんだ娘さんやゼナ、レシールに至っては、「どんな風に振られたの?」と、敗北前提で話を聞いてくる始末…ええぃ、駄目でしたともっ!

 でも、私は諦めるつもりなど無い。
 例え、シグルトが何かとち狂ってこれから先恋人が出来たとしても、奪うか二号さんになってやる、ぐらいのつもりである。

 不良とはいえ、私はサキュバスだ。
 奪う恋は、その領分。

 だが、そんな決意を新たにしている私の横で、当のシグルトは幸せそうに朝食を頬張っていた。


「ね、シグルト。

 今日は私に付き合ってくれない?」

 健康のために良く噛んでしっかり食べるシグルトの、ちょっと長い食事が終わるのを待ち、私は切り出した。

「ふむ。

 どういったことをだ?」

 〈デート〉と言いたいところだが、冗談も本気も通じないだろうからとりあえず飲み込む。
 要は、誘うのが先決だ。

「引っ越し。

 前に住んでたところから、お気に入りの家具を持ち帰りたいの」

 言ってみて思わずにんまりする。
 私自身、この宿が帰る場所だと認識していることが、ちょっと嬉しい。

「もしからしたら、力仕事があるかもしれないし。

 …駄目?」

 シグルトは、こういう頼りかたをすれば、先約が無い限り引き受けてくれるはずだ。 
 
「…好いだろう。
 俺も、教導の続きを進めておきたかった。

 話しながらで良ければ引き受けよう。
 君の今後に関して、少し思うところもあったしな。

 だが、今日の仕事は休んだのだろう?
 明日は必ず店に出るんだぞ。

 あの店の店主さんは、時間が空いてる時だけでいいと言ってくれたが、あれほど好条件の仕事は中々無い。
 落ち着くまでは止めさせられない様に、励んでおけ」

 あ、おんなじこと考えてたんだ。
 ちょっと嬉しい。

「うん!」

 私は元気に返事をして、準備をするために、自室に向かった。


 現在、シグルトが私にやってくれている〈教導〉なるものがある。
 
 これば冒険者たちの伝統みたいなもので、後輩冒険者に先輩の冒険者が技術指導してくれることである。
 他の呼び方もあるらしいが、『小さき希望亭』ではこう呼ばれている。

 「冒険者なんて所詮ライバル同士なんだから、失敗しつつ覚えるべき。後輩なってほっとけ」…なんていう放任主義な宿もあるらしいけど、うちの宿は、主人も所属メンバーも、そういうのに真っ向から対抗する姿勢だ。

 宿に所属するメンバーの死や失敗は即宿の看板に泥を塗り、宿の冒険者全員の仕事にも影響する。
 冒険者は人気商売なのだから、この考えは正当だと思う。

 それに、冒険者の失敗は=死亡というシビアな一面だってよくあるのだ。
 同じ宿のメンバーが死ぬのって、気分も悪いよね?って話になる。
 
 有能な人材を育てつつ、宿の名声を高めて組織力強化していくことが、教導の目的である。
 それと、指導した後輩は先輩の意向を尊重して協力するし、後輩は先輩冒険者がこなし切れない仕事を紹介して貰える。

 まさに相互扶助。
 
 『小さき希望亭』は、〈相互扶助〉を特別重んじる宿として、小規模なのにもかかわらず、リューンでは一線を画している冒険者の宿なのだ。
 斬新と言ってもいい。

 実は、他の宿の場合、仕事…依頼の獲得って、ほとんどが「早い者勝ち」なのね。
 同じ宿の専属メンバー同士でも、仕事を取り合って喧嘩が起きることがある。

 ところが、うちの宿は基本的に「譲り合って恨まない」が原則。
 シグルトの属してる“風を纏う者”なんかは、この宿に来る彼ら目当ての仕事を吟味して、ほとんど後輩や宿のパーティに譲っちゃう。

 仕事が無ければ、出稼ぎやコネクションで仕事を探すか、先輩冒険者や宿の親父さんが、冒険者それぞれの技能で出来る仕事を見つけ斡旋する。
 特に、自分の名前で宿に紹介した冒険者の面倒は、紹介したも者が責任を持って見る、という規約まである。

 結果、このスタイルが大当たり。
 秩序がしっかりしてるって評価されて、公的機関から仕事を貰える様になった。 

 うちの基本になったこのスタイルの立役者は、『小さき希望亭』の親父さんとシグルト。
 2人とも、ほんと凄い。

 特にシグルトは、東方の難しい軍学書の知識があって、早いうちから無秩序な冒険者のスタイルに異を唱えていた。

 …冒険者って、場合により山賊やちんぴら扱いされてるの。

 まぁ一分の冒険者が、〈遺跡探索〉なんていう盗掘まがい(このため盗賊用語で冒険者は〈穴熊〉と呼ばれる)や、悪漢討伐にかこつけて乱闘騒ぎ起こしたり、自由=身勝手を勘違いして各地で問題起こしてるのがいるんだから、そういう評価も仕方ないんだけど。

 シグルトは、パーティ結成の頃から「自分たちの立場を守るために、規則や秩序はそれなりに必要だ」って主張して、自分たちの“風を纏う者”で実行し始めたのね。
 親父さんはそれを支持して、思い切って古株の不良冒険者に、「ルールを守るか、別に行くか」投げかけたの。
 
 この背景には、ある事件が関わっていた。

 うちのもう一つの主力パーティである“煌く炎立ち”が結成して間も無い頃のこと。
 そのメンバーであるゼナが、生意気な少し後輩冒険者と乱闘騒ぎを起こしてしまったのよ。

 話を聞いてみると、短気なゼナも悪いんだけど、その後輩たちのリーダーだった魔術師が、〈出し抜き契約〉っていう反則をやったことが原因だったらしい。
 
 〈出し抜き契約〉というのは、宿に来た依頼を、受けるはずの冒険者を出し抜いて、先んじて依頼主と契約を結んでしまうこと。
 今の『小さき希望亭』では、やれば即出入り禁止だ。

 “煌く炎立ち”は親父さんから確約貰ってたので、短気な性格から“炎の猛女”なんて呼ばれてたゼナの怒ること…
 その魔術師は、腕っ節の強い彼女を馬鹿にした次の瞬間、鼻を折られて寝込む羽目になった。

 そのまま乱闘になって、居合わせたマルスと駆け付けたシグルトで止めたんだけど、壊したもののツケで、暫くの間“煌く炎たち”は随分苦しい思いをしたらしい。

 不遜にも、その魔術師とそのパーティは、ゼナの宿追放を親父さんに迫ったのね。 
 ところが…親父さんはゼナを擁護して、魔術師の〈出し抜き契約〉を叱った。

 面子を潰された魔術師は、親父さんに暴言を吐いて、『小さき希望亭』の他のメンバーを先導したの。
 「そんなエコ贔屓するなら、俺たちにも考えがある」ってね。

 あわや、宿分裂ってところで、親父さんはそういった不良冒険者に、さっきの選択を迫った。
 それを機に、実力派だけど高飛車で乱暴だったのや、専属を止める冒険者が相次いで、うちの専属パーティは新米2つっきりになった。
 
 これは、シグルトたち“風を纏う者”の台頭が面白くなかった先輩同輩冒険者の嫌がらせや、元々厳しかった『小さき希望亭』の綺麗過ぎるスタイルに対する、抵抗でもあったみたい。
 ま、この事件が起きる直前に、宿の最強メンバーが相次いで引退してしまったので、『小さき希望亭』で活動するモチベーションが低下してたってこともあるんだけど。

 不良冒険者たちが一斉に宿を辞めたのが春季だったから、この事件〈春風騒動〉と呼ばれたわ。
 まあ、うちの宿はもともと小規模だったので、こんな呼び方や実際に事件があったことを知ってるのは、残ったメンバーくらい。
 
 そうやって傾きかけた『小さき希望亭』を、“風を纏う者”や“煌く炎立ち”のメンバーは必死に守ろうとした。

 『小さき希望亭』の根本になる規則や、後輩育成の綱要(マニュアル)、柵が無いからこそ出来る新しいコネクション、冒険者の家族に出来る孤児の引き取りから発展した孤児救済機関…
 親父さん、シグルト、専属で一番古株の“風を纏う者”のレベッカという人と、“煌く炎立ち”のリーダーであるマルスが中心になって、うちの宿の新基準がまとまったってわけ。

 それがつい最近のことだ。

 シグルトは、元々こういう組織編成の素質があったみたいで(聞いた話では、故郷で16歳の時に、民兵の自警組織作って盗賊討伐とかやってたらしい…凄!)、サポートしたレベッカって人がこれまた盗賊ギルドみたいな裏の組織に特別詳しい人だったの。
 
 数か月で、大改革をやっちゃったわけね。

 騒動の後、シグルトたち“風を纏う者”は、拠点をフォーチュン=ベルやアレトゥーザ中心で活動してたらしい。
 『小さき希望亭』経由の仕事が激減してたし、自分たち新人に対するやっかみの目をそらすこと、宿の名前の宣伝なんかも目的だったらしいんだけど…

 「“煌く炎立ち”に、汚名を雪ぐ機会をくれたんだ」と、マルスが言っていた。
 素敵な話よね。

 話を戻そう。
 
 うちの宿の〈教導〉は、こういった教訓を踏まえて、冒険者が問題を起こさないための規則や生き方を叩き込む。
 だから、〈教導〉なんて硬い呼び方するのね。

 私も、シグルトの生徒として〈教導〉を受けている。

 そしてつい先日、シグルトの実習第一号の生徒になる、という幸運に恵まれたの。
 その時のシグルトってば、とても初めて〈実習教導〉するとは思えないしっかりとした教育をしてくれた。
 
 スパルタだけど、とてもいい経験になったし、ちゃんと実戦も経験出来た。

 …私は今幸運である。
 シグルトという、師であり恩人であり好きな人と一緒にいられる。

 一緒に並んで歩きながら、また彼のことを考えていた。
 そんな時間さえ、とても愛おしかった。
 

 考え事しながらにやけている間に、目的地についていた。
 
 そこは、あの時のままだった。
 そりゃそうか、だって一週間も経ってないもの。

 あの頃の私に相応しい、寂しい部屋だ。
 微かに、私の香水の匂いが残っている。

 部屋を見廻して、覚悟を新たにする。

 …私はこの部屋に来ることを決めた時、ある決意をしていた。

 本当は、その気になれば、引っ越しなんてすぐに済む。
 私が持ち出そうとしているお気に入りのテーブルは小さくて、女でも軽々と持ちあがるからだ。

 私の本当の目的は別にあった。
 それは、彼…シグルトが一緒でなければ出来ないことだ。

 当のシグルトは、物珍しそうに、その部屋の壁画を見ていた。
 それは、ある聖人の物語の様である。
 
 身を犠牲にして殉教する聖人の姿はとてもシュールで、夢の中の話みたいだ。
 正直、ここまでする聖職者の気持ちは理解出来ない。

 身を犠牲に出来るっていうことは尊いのだろうけど、ここまでした聖人を救ってくれない神様は酷いと思う。
 そして、犠牲になることを美談にして騒ぎ立てる後の人たちも。
 それは、大衆や大義のために犠牲になることは、正当だといってる様だからだ。

 本人がその気ならば、それは尊いかもしれない。
 でも、犠牲を出して助かる側が、それを求めるのは間違ってると思う。

 だって、「必要なら生贄になれ」って言ってるのと同じでしょ? 

 …壁画で派手に飾っているけど、此処はがらんどう。
 描かれた絵の様に現実感が無くて、空虚で、拠り所が無い。

 だから、この場に彼が必要だった。

「…目的の物は、このテーブルだったな。

 この程度なら、すぐに梱包出来るだろう」

 慣れた様子でシグルトは、毛布にテーブルを包んでいく。
 
「この包み方は、家具類全般に使えるから、覚えておくといい」

 「わかったわ」と頷きつつ、横で私は微笑んでいる。

 こういう彼も好きだ。
 何時でも師の様に私を導いてくれるから。

 側で見ていると、シグルトは手際良く作業を進めて行く。
 コツを丁寧に説明している彼の横顔は、とても奇麗だ。

 でも、その美貌には似合わないほど、その手は胼胝と傷にまみれている。
 彼が、毎朝激しい鍛錬で刻んで来た強さの証。

「あ、そうやってクッションにするのね?」

 丁寧に、慎重に、彼はテーブルを包んでくれる。
 まるで私の思い出を包もうとしてくれてるみたいだ。
 彼の優しさは、言葉よりも行動にある。
 少し不器用な、彼らしい。

「…案外、ロープはこういった木製の品を傷つけるからな」

 そうして何時もの苦笑。
 彼は何時も、こんな風に苦しげに笑う。
 まるで、心の底から笑うことを戒めているかの様に、つらそうに。

 数日シグルトを観察していて、気付いたことがある。

 彼は、研ぎ澄まされた刃物の様に鋭くて、綺麗で、どこか武骨で…とても儚い。
 その生命の迸りも、燃え尽きる前の炎の様に激しくて、弱々しいのだ。

 だから信じられる。

 彼は、弱さを持ち、弱さを知り、だから強くなれた人だと思うから。
 深い深い闇を抱え、それでも生きることを選び、同じ様に生きる道を私に示してくれたから。

 私は旅をする中で、虚栄に満ちた人たちを沢山見て来た。
 生きる者は、何かしら弱さや背徳を抱えている。

 それを自分から認めて、背負って行く人はとても少ない。
 言い訳をしたり、偽善に満ちた正義感を振るったり…醜悪な姿が満ちている。

 でも彼は、そういった自分の中の醜さと向き合って、だからこそ高潔になろうと努力している。
 彼の見つめる先はとても高い所で、至るために身を律し、進むことが出来る強い人だ。

 …本当は、テーブルのことはあんまり大切じゃなかった。
 こんな風に一生懸舞いな彼には悪いのだけれど、彼とだから踏み出せるきっかけが欲しかったのだ。

「…よし。

 こんなものだろう」

 シグルトが梱包を終えたことを告げた。

「…ん。

 じゃあ、ちょっとだけ待ってて」

 私はおもむろに、彼の後ろにあった棚に近づく。
 そこには、木製の小さな箱が置かれていた。

 【音聞き箱】と呼ばれる機械仕掛けだ。
 捻子を捲き、蓋を開けると曲が鳴る。
 ドワーフの細工師ぐらいしか作れない、高価な品だ。

 それを高く、両手で持ち上げる。
 頭を超える位置まで掲げ…そして床に叩きつけた。
 
 飛び散った木片が服を叩き、跳ねた釘が頬をかすめていった。

「…ふう」

 溜息とともに、ずっと昔の記憶が溢れ、思い返された。


 私の生まれた場所。
 
 それは、山奥の名も無い小さな村だった。

 父は最初からおらず、ただとても奇麗な母が側にいた。
 何時もその美しさに見とれ、見上げていた様に思う。

 私が15歳になった頃、私は他の人間とは違っている自分に気がついた。
 その力を知ったのはもっと前だけれど、それがとても危険で嫌な力であると気付いたのは、悲しい思いをした後だ。

 その日、夕食の魚を獲ろうと、私と母は村近くの浅い川に来ていた。

 海老や魚を取る小さな網を用意している母の横で、彼女が喜んでくれると信じて、私は「効率の良い方法がある」と、川に手を突っ込んだ。
 そして、水の中から精気を奪い取る。
 
 すると、虫や蛙と一緒に、ぷかぷかと沢山魚が浮いて来た。

 「ね?」と自慢げに振り向くと、美しい母の顔は見る影もなく恐怖に歪んでいた。
 そのまま、母は逃げ去って家の扉を閉め、私が泣いて懇願しても、扉を開けてくれなかった。

 不意に窓から、小さな旅行鞄が投げられ、私の横に転がった。
 すぐに、雨戸まで閉められる。

 鞄の中には、幾許かの銀貨と食べ物、そしてこの【音聞き箱】が入っていた。

 私は、箱から流れる音色がとても好きだった。
 珍しい品なので誰も持っていなかったし、もの心付く頃からずっと、寝る時は子守唄代わりにその音色を聞いていたのだ。

 茫然として、導かれる様に箱を持ち上げると、中に手紙が入っていた。

 母からの別離を告げる、簡素な言葉。
 そして、人間のいる町で暮らせと締めくくっていた。

 今思えば、母もサキュバスだったのだろう。
 母は何かに脅え、そして力を隠し、村にいたのだ。
 そして、私が異端の力に目覚めたから、村人に殺される前に追放しようとしたのだ。

 手紙には、沢山の新しい涙の痕があった。


 シグルトは、壊れた箱の前で立ち尽くす私を、静かに、でも優しい目で見つめていた。
 そして、不意に私の頭を撫でる。

「…この箱ね、故郷を追い出される時に母親から渡されたものなの。

 開けるとね、綺麗な音が鳴る仕掛けがしてあって、子守唄代わりに何時も流れる曲を聴いていたわ。
 そうすると、ぐっすり眠れたから」

 その続きを言う前に、シグルトは少し強く頭を撫でた。

「過去との決別は、出来たか?」

 染み入る様な優しい声で、彼が聞いた。
 彼は、分かっていたのだ。

「…過去を壊しても投げ捨てても、自分という過去までは捨てられない。
 
 でも、何かの象徴を捨て去ることは、進み出すきっかけになる。
 俺も、そうだったからな」

 言葉に滲むシグルトの本音に、私は思わず彼を見上げる。
 彼は優しい目のまま、一度だけ強く頷いてくれた。

 私の中のわだかまりは、その笑顔を見ただけで木端微塵に消し飛んだ。
 そこに転がってる箱の残骸の様に。

「…ん。

 帰ろうか」

 私がそう言うと、シグルトは頷いて、包んだテーブルを持ち上げた。

「ね、手、繋いでもいい?」

 甘えてみると、シグルトは撫でていた手を拳にして、軽く私の頭を小突いた。

「あたっ!」

 実はそんなに痛くないが、思いっきりおどけて見せると、シグルトは深いため息一つ。

「…調子に乗るな」

 何時もの仏頂面に戻ったシグルトは、私を置いて部屋を後にする。
 
 …何?
 こんなところまでスパルタ?
 
 もう、私、頑張ったのよ!
 過去を捨てるのって、凄く怖くて、大変なことなんだから…

 むっとした私が追いかけようとすると、彼は外で立ち止まり空を仰いでいた。
 待っていてくれたらしい。

 …ちっ、仕方無い。
 今回はこれで妥協しておくか。

 私は、彼の背中に向けて走り出す。

 外はすっかり昼の日差しになっている。
 部屋に入って少ししか時間が経っていないはずなのに、随分時間が経っていた様に思う。

 追いついた時、シグルトはまた歩き出した。
 彼の長い又下は驚異的な歩幅を約束している…足早っ!

「ねぇ~、待ってよぅっ!!」

 悪魔を捨てた〈私〉。
 人間になった〈私〉。
 
 でも、彼のことでは小悪魔に戻る。
 それは、シグルトという好い男を捕まえたい〈私〉の本能かもしれない。

 とても彼は難敵だけれど。
 何時の日か振り向かせたいから、頑張り続けてみよう。

 
 …しばらく拗ねた調子で言いたてて、彼の周りを歩いていると、彼は宿に行く方とは違う場所に向かった。

 どこに行くのだろう、とついて行く。
 荷物はシグルトが持ってくれてるから楽ちんだし、彼と歩く時間が増えるのは嬉しい。
 
 そうして、しばらく行くと…
 その先には、薔薇の花が一面に咲き乱れる庭園があった。

「うわぁ…」

 リューンにこんな綺麗なところがあったとは、知らなかった。
 シグルトって、ちょっとミステリアスなところがあるけど、人が知らないその一面を垣間見た気がする。

 薔薇園には、庭師らしいお爺さんと、此処の主らしい優しそうな貴婦人が立っていた。
 シグルトは、老人にお金の入った袋を渡すと、薔薇の活けられた凄く小さな鉢を貰い、婦人に頭を下げる。

 2人は顔見知りの様で、婦人はにこにこ笑って、姿勢を直す様に勧めていた。
 シグルトは言葉に甘え、私に軽く目くばせする。

 彼の意図を汲んで、私も一礼した。
 婦人は優雅に会釈して返すと、老人を伴って去って行った。

 婦人を見送った後、シグルトは側までやって来て、その可愛らしい鉢を私に差し出す。
 手乗りサイズの小さな鉢の上で、可愛らしい赤い薔薇が一輪、咲いていた。

「新しい門出のために。

 辛いこともあるが、この薔薇の様に気高く咲ける様、励むといい」

 ええ、私に?
 プレゼントって奴?

 うう、スパルタの後、これは反則…

 私は、思いっきりにやけそうになる頬を何とか保っている。
 やばい、泣きそう。

「…薔薇の花は、薬にも香水の原料にもなる。
 君はクリス嬢(宿の娘さん)とよく香水の話題で盛り上がっていたからな。

 鉢植えなら持って歩けるから、冒険者として旅立つ準備が出来るまで、育ててみるといい。
 育て方は、話を通しておいたから、さっきの老人に聞けば教えてくれる。

 その鉢は魔法の品でな…少し値は張るが、大地の精霊力が薔薇に活力を与え、生かしている。  

 それに、この薔薇はちょっと特殊だ。
 慈しんで育てた花には、彼女たちが宿る。
 
 君には、見えないか?」

 …え?
 
 シグルトの言葉に従って、私がよくその薔薇を見てみる。

 何とそこには葉っぱで出来た服を着て、掌に乗れるサイズの可愛らしい姿の女の子が座っていて、私をにこにこと見つめていた。
 彼女は私の視線に気付くと、ぺこりとお辞儀をした。

 うわ、可愛いっ!
 何これ?

「…やはり見えるな。
 君には、精霊術師の資質がある。

 薔薇は、香りを司る精霊が宿るとされ、珍重されて来た。
 君は香りに詳しいみたいだし、彼女たちとの相性がよかろうと思ってな。

 それに君は、人ならぬものの気持ちが分かるだろう。
 稀有で、尊い才能だ」

 そう言うと、シグルトは私の頭の上に薔薇の葉っぱをちょこんと置いた。

 「彼らしくない悪戯だ」と困惑しつつ、ふと私は、香水関係から何時の間にか覚えた、花言葉を思い出す。
 薔薇の葉の花言葉は…「頑張れ」あるいは「希望あり」。

 私が言い知れぬ感激で震えていると、シグルトは「では帰ろうか」と何時もの調子で歩き出した。
 
 そうか。
 シグルトはもうすぐ仲間の元に還る。
 だから、私が寂しくない様に、この花をくれたのだ。

 同時に、頑張ろうな、という意味。

 …うん、頑張るよ!
 私はそう心で返事をして、彼の広い背中を追いかけた。



 シグルトの珍道中、外伝的な位置づけになった『甘い香り』の後日談、『私』。

 アンジュの独白風に話が進む、いつもとは違う文体でのお届けです。
 このあたりはタイトルを意識しています。

 ちょっと宿の裏事情やら、感性豊かな女の子の視線を描いてみましたが…
 正直男の私が、女の子の繊細な心理描写が出来たかどうか。
 ちょっとチャレンジャーだったかな、と書きつつ戸惑ってました。

 異性の心理は描くのが難しいですね。
 特にアンジュの様な、深い内面を持ってる女の子って。

 
 作者の楓さんには悪いと思いつつ、アンジュの立場や趣味を勝手に設定してしまいました。
 Y2つのリプレイ仕様ということでお許し下さい。

 香水が趣味、というのは前作のタイトルと、アンジュの住んでた場所、そして種族的にマッチングしたものかな、と思ったので。
 それに、リューンはフランスの一都市をモデルにしているので、本場かなぁと。
 こっそり拙作も登場させてたりしますが、そこは著作権の関係で扱い易かったからですね。
 よかったら、プレイしてみて下さい。

 ほんのりとぼかしてありますが、Y2つ仕様では、「アンジュは人間に交じって生活しているサキュバスの子供で、旅の途中で同族に出逢ったが、合わずにまた分かれて一人でいた」みたいな扱いにしてあります。
 楓さんの公式設定では、もしかしたら「サキュバス村出身」ということなのかもしれませんが、呪縛スキルを習ったエピソードを入れておきかったので。

 私のリプレイで、連れ込んだNPCはちゃんと活動します。
 その話限りって寂しいですし、同時に新しい人間関係が膨らんでいくのって楽しいでしょう?

 まあ、師であるシグルトはかなりスパルタで、このシナリオの甘々な雰囲気と比べると、イメージが違ってると思いますが。
 それでも、私なりにかなり冒険した表現を使っています。

 私の文章はくどくていけないのですが、詳細な描写ぐらいしか得意分野が無いので…困ったものです。
 たまに、それも大ポカやりますし。

 ともあれ、恋する女の子のアンジュが、上手く描写出来てることを祈るばかり。
 
 実は、菅野よう子のバンド「シートベルツ」の『SPACE BIO CHARGE』に収録された『I do』という曲を聴きながら、イラリア・グラツィアーノの美声に酔いしれて書いてました。
 タイトルを直訳すると、「私はそうする」。
 音楽は偉大ですね~、乗って書けました。
 歌詞が分かってないですが。


 最後のプレゼントですが、シグルトが600SP出して、拙作『風鎧う刃金の技』から【芳しき薔薇】という召喚術を買って手渡した扱いです。
 薔薇の葉っぱの「頑張れ」という花言葉と、アンジュに匂い系のスキルを持たせたかった、私の個人的な意図が働いてます。
 丁度、適性はアンジュ向きですし、純精霊術師で無くても使えるのがポイントです。

 ついでにスキルを一個ずつ残して、後は売って800SP作ってもう一個スキル(【茨食む口吻】)を買い、残った200SPを『ある日森の中』の報酬800SPと加えてアンジュの所持金を1000SPにし、シグルトから独立させました。

 私は同一スキルを何枚も持たせるスタイルが苦手で、多少弱くなっても「多彩に」装備させようとします。
 アンジュの改造計画は、『甘い香り』のタイトルから、いつかやろうと思っていたのですが、お金に余裕があったので一気にやってみたのですが、悪いチョイスでは無かったと思います。

 シグルトの所持金はちょっと減りましたが、面倒をちゃんと見ている表現になったかと。
 彼の所持金は、現在2555SP。
 まだ十分あります。

 えらく細かいことやってますね…

 このシナリオは心理描写がとても繊細です。
 アンジュを連れ込んでいるなら、是非やってみて下さい。

 私は個人的に、テーブルを横で眺めて相槌うってるアンジュが微笑ましくて好きです。


〈著作情報〉2009年07月24日現在

 『私』は楓さんのプライベートシナリオです。現時点で下記サイトで配布されています。
 シナリオの著作権は、楓さんにあります。
  
・楓さんサイト『Fleur de cerisier』
 アドレス: ■ttp://blog.goo.ne.jp/kaede_015/(■をhに)
 
 カードワースはgroupAskに著作権があり、カードワースの管理、バージョンアップ、オフィシャルな情報等はgroupAsk official fansiteにて、カードワース愛護協会の皆さんがなさっています。
 このリプレイは各シナリオをプレイした上で、その結果を小説風リプレイとしてY2つが書いたものです。
 書かれた記事、書かれる記事は、特定のシナリオの名前が出たときは、そのシナリオの著作権はすべてそのシナリオの作者さんにあります。
 
 また、リプレイ中に使われる内容には、各シナリオで手に入れたスキルやアイテム、各シナリオに関連した情報等が扱われることがあります。
 それらの著作権は、それぞれのシナリオの作者さんにあります。
 またカード絵等の素材に関しては、シナリオ付属の著作情報等を参考にして下さい。
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『ある日森の中』

 その日、アンジュはとても御機嫌だった。
 シグルトが一対一で、冒険者としての教導をしてくれることになったのだ。

 2日ほど急な仕事で飛び回っていたというシグルトは、彼を目当てにしていた新米冒険者たちの目を搔い潜って、かなり大きな仕事を達成したらしい。
 銀貨がどっさり入った袋を三つほど(一つ一つに銀貨五百枚ぐらい入っていた様だ)持って帰ったので、その時宿にいた他の冒険者たちも目を丸くしていた。

 現在、シグルトが属する“風を纏う者”は一時解散中で、それぞれが技術修練中だというが、シグルトはその修練を終えてたった一人で仕事をしている。
 技術の習得には、教えてくれる師に数回分の依頼に匹敵する謝礼を支払わねばならないが、シグルトは最近使った分を一人で稼いでしまった様だ。

 シグルトが非凡な冒険者であることは、アンジュが宿に来て数日で嫌というほど耳にすることになった。
 武勇譚も物凄いが、彼の人徳や人気が飛びぬけているからだ。

 シグルトは、後輩の指導が上手く、依頼人をとても大切にしている。
 仕事が出来るが驕らず、いつも聡明博識で、その上で人一倍努力する。

(こんな小さな冒険者の宿に、納まる器じゃないわよね…)

 騎士仕官の話や、貴族の相談役としての勧誘まである上、仕事の依頼もまた多い。
 おかげで、シグルトが受け切れな仕事のお零れに預かっているこの宿の冒険者たちは、結構稼いでいた。

 シグルトが歩けば、女たちはその美貌に目を奪われるし、男たちの中には嫉妬する連中もいるものの、そのなりを知る古株たちは皆彼に一目置いている。

 彼に直接連れてこられたということで、アンジュは随分、宿の女性冒険者やシグルト目当てに宿に訪れる女性たちにやっかまれた。
 シグルトがそういう態度をことさらに嫌うので、もちろん隠れた場所でだが。

 シグルトがこの宿に来た頃、宿の実力派だった専属冒険者が相次いで止めていた。
 そのせいで、この宿の評判は下がり気味だったらしいのだが、今ではこの宿専属になりたがる冒険者も多いという。

 しかし、宿の主人ギュスターヴは、冒険者としてのプロ意識に五月蠅いので、最近は宿への入居を保留にされる者が増えて来た。
 話によると、この宿のメンバーの紹介を得ない限りは入居を認められなくなったそうだ。

 アンジュも、シグルトの紹介でなければ宿の一員として認めてもらうのは難しかったはずだ。
 この宿で看板とも言える彼の発言力は大きく、シグルトの「頼む」の一言で、ギュスターヴ他皆首を縦に振った。

 最近賑やかになって部屋が足りなくなったため、宿の拡張工事を始めたそうで、もうしばらくすれば宿のメンバーを増やせるそうだ。

 『小さき希望亭』の許容人数は20名ぐらいだが、“風を纏う者”を含める2パーティの専属と、個別活動する冒険者で部屋はほぼ満員。
 そんな中で、アンジュはやや特別扱いになっている。
 
 一応専属として登録も終え、一部屋個室を確保している単独冒険者扱いだが、副業として小物を販売するお店の店員も始めた。
 冒険者としての技術を習得し、仲間を見つけるまで安穏に生活出来る場は出来たのである。

 当然アンジュは、シグルトのと同じパーティに入りたいと希望した。
 頭の回転には自信があったし、サキュバスとしての能力は戦闘に役立つと踏んでいたのである。

 だが、シグルトは「他の仲間次第だが、おそらく無理」とすげない返答をして来た。

 アンジュもショックだったが、それを他の宿のメンバーも意外と思ったらしい。
 彼女の面倒を親身に見ようとしている、シグルトらしくないと感じたからである。

 だが、シグルトは「アンジュの技能は“風を纏う者”では必要ない」とまで断言した。
 あまりの評価に、言葉を失ったアンジュばかりでなく、宿の娘クリスティアーヌや他の女性メンバーも彼女を擁護する側に回った。

 だが、シグルトはその後にこう続けた。

「俺たちは冒険者という仕事を、遊びでやっているわけではない。

 必要とする技能を持っていないのに、アンジュを仲間にするということはパーティの均衡を崩すことになる。
 シビアで命懸けの仕事もあるからこそ、アンジュと個人的に親しいという俺の私情を優先するわけにはいかない。

 アンジュには才能があるが、それはこれから磨く必要と余地があるし、技術や心構えが〈肩を並べて認められるもの〉でないうちは、どちらにも悪影響でしかないはずだ」

 とさらに厳しい返答をした。

 そして、最後にこう加えた。

「誇りを傷つけるかもしれんが、あえて言わせてもらう。
 今のアンジュは、俺にとって〈保護対象〉であり導く〈後輩〉でしかない。

 俺たち“風を纏う者”と活動したいなら、並んで文句を言わせない冒険者になってくれ。 
 もしそういった目標を持って鍛錬し学ぶ気があるなら、時間が許す時、俺も様々なことを教えよう。

 仲間とは、実力を含めて信頼し合い、補い合える存在のことだ。

 きつい時に頼るのはいい。
 だが、必要なことが出来ないうちや、互いの関係に甘えて縋るだけなら、仲間には出来ない」

 これは公私のけじめにことさら厳しい、シグルトの性格を裏付ける話となった。

 シグルトはアンジュに対し「救うために努力する」とは言ったが「仲間にする」とは言わなかった。
 彼に悪気は無く、アンジュに生活していくための道を付けるために、あえて厳しい態度をとっている。

 シグルトが後輩指導に厳しいことは元々有名で、半泣きになって冒険者の道を諦めた者もいるくらいだ。
 彼は、安易な妥協や容赦を決してしなかった。
 
 落ち込んだアンジュであるが、自分が冒険者という仕事を舐めてかかっていたことも感じていた。
 そして、「いつかシグルトに認められる」という目標を持ったのである。

 シグルトは夜遅くまでアンジュのために駆け回ってくれたし、彼女の手を掴んでくれた時の優しさは変わり無かった。
 もし、「冒険者以外の仕事を探す」と言えば、シグルトはそのために間違いなく奔走してくれるだろう。

 それら一連の騒動を乗り越え、それでもアンジュは冒険者の道を選んだ。


 その日の朝、アンジュは彼女の個室で、シグルトと二人きりになっていた。
 しかし、話の内容は色気も浪漫も全く無い、仕事の話である。

「アンジュ。

 君の能力は、短時間の間接攻撃が可能な呪縛と、魔法的な接触型の精気吸収の能力を使えるということで、間違いはないな?」

 シグルトは、まずアンジュが使える能力を尋ねた。
 彼女の冒険者としての役割を見極めるためである。

「そうよ。

 特に精気の吸収は命綱だったけど、【柘榴酒】と並の食事で、今は無理に使わなくても何とかなる感じ。
 力が落ち着いたおかげで、今ならゴーレムとか生物以外の魔力を吸収したりも出来るわよ。

 そうすれば、相手はしおしおね」

 こんな能力なかなかないでしょ、と胸を張ると、シグルトは首を左右に振った。

「能力的に希少でも、問題は〈どういう役割に役立つか〉だ。

 話してみて感じたが、君は、賢者か精霊術師としての資質は十分ありそうだ。
 だが、魔術師になるにはいかんせん、組織的なつてが無い。

 冒険者としての魔術師は、案外、学連や特定の私塾似通ったという、印可が重要になるんだ。
 にわか魔術師には自警団が目を付けるから、真面目に師を持って数年修行し印可を受けるつもりがなければ、この道はあきらめた方がいい。
 必要になる、時間というコストが大き過ぎる。

 習う気があるなら、俺の使えるつてを使えば出来ないことは無いが、魔術師の類は、君の様な希少な種族を人と思わず、実験対象扱いする連中も多い。
 その特殊な出自を考えるならば、大事をとって連中と距離を置くべきだろう。

 賢者としての道は、多少何かに博識なのは強みになるが、専業では、冒険者として少し物足りないと評価される。
 何か副業としての能力を習得していればいいが、そうでない者が知識だけで生き残れるほど、冒険者の世界は甘くない。
 
 ここで、君の正体を大声で職業として名乗れればいいのだが、そんなことが出来たのなら、歓楽街でその日の糧に困ることにはならなかったはずだ。
 この都市は聖北を中心として、教会勢力の影響が強いから、サキュバスというその性質が知れれば、過激な連中に追い回されて火焙りにされかねん。

 ともすれば、その優れた霊的資質から精霊術師か、あるいは召喚師の様な職業を目指すのも良いだろうが…これらも結局偏見を受けるからな。
 知り合いの精霊術師など、魔女扱いされて随分苦労している。

 俺の様に、本業では無い精霊術使い程度ならば、使える術は制限されるが、多少は扱いもましになるかもしれん。
 ただ、俺の場合は戦士という本業で補っているからな。

 そう言った前提を考えた上で、今のところお勧めは、呪歌や呪曲を奏でる吟遊詩人だが…君は楽器演奏は出来るか?」

 「うっ」と詰まるアンジュ。
 どちらかというと、手先は不器用だった。

「それならば、歌だけを使う歌手になるのも手だ。

 呪歌は歌えるし、街頭で歌えば生活も出来るからな。
 こういった芸で稼ぐ時は、地区を管理する組織に許可を取ってないと、風当たりも強いから、挨拶回りをする必要がある。
 その時使う金銭や贈り物で、資金が圧迫されるから、あまりあてにしてはいけないがな。

 それに、伴奏を誰かに頼まねばならないというデメリットもある。

 ふむ、まずは職業に縛られずにやってみるか。
 これから数日、俺が教導を行いつつ、君の才能を吟味しよう。

 君が成りたい役割を見つければ、後はその技術を伸ばせばいい。

 俺の仲間ラムーナも、最初は戦士をしつつ適業を探し、舞踏家と軽戦士を兼業する今のスタイルに落ち着いたからな。

 自分に何が向いているのか、意識して探してみてくれ」

 自分がどんな適性を持ち、どういう技術を得意にするかは、即冒険者としての仕事に直結する。
 パーティとして役割分担をする場合、どんな専門技術を持つのかが、パーティにおける自分の位置を決定するのだ。

 職業的な自覚の無い冒険者も中にはいるが、大抵は器用貧乏でうだつが上がらないか、食いつめ者になってしまう。

 シグルトの様に、戦士、賢者、精霊術師、軍師といった多岐に渡る技術を発揮出来る天才肌の冒険者は至極希なのである。
 それに、シグルトは戦士という領分を、専門家として高い次元で維持しているので、器用貧乏に陥ることが無い。
 
 一つでも役割として担える才能が見つかれば、後はそれを必要にするパーティに所属して、磨けば良いと、シグルトは言う。

「君の資質は、完全な術者(キャスター)向きだな。
 
 そういった才能は稀有なのものだから、俺たち戦士の様に腕っ節だけでありふれた才能より需要がある。
 君の持つ大きな優位性と言っていい。

 それが活かせる技術を、探してみよう」

 厳しいことも言うが、褒めたり認めることも忘れないシグルトである。
 アンジュは頷いて、自分の適性を思い浮かべてみた。

「この話は、とりあえずここまでとしよう。

 次からは、実際の仕事を通して、冒険者としての心構えや基礎知識を教えていく。
 君の足りない部分、得意な部分を確認しながら、出来る仕事を探してみるとしよう。

 初めての仕事で、まだ仲間のいない君を一人放り出すのは危なっかしい。
 特にこれからすぐに仲間が揃わなければ、俺が近くにいる間は、教導しつつ一緒に仕事をしよう。

 君は、俺から学べるもの、盗めるものを吸収して自分を磨くといい。

 それと…サキュバスの力は、心の知れた仲間や、君の正体を教えても構わない人物の前以外では遠慮して使うんだぞ。
 自分の力の危険性を理解出来ない者は、必ずそのしっぺ返しを受けることになる」

 この話を聞いて、アンジュは内心躍り上がりそうだった。
 教育とはいえ、シグルトが直接一緒に仕事をしてくれるというのである。

 この事実を知れば、シグルトの教えを受けたい他の冒険者にはかなりやっかまれるだろうが、お釣りが来る。
 普段忙しい彼がそこまでしてくれることは、滅多にないのだ。

「まずは君の武具を見つくろうか。
 確か、今着けてる指輪が優れた魔法の品だったな。
 
 先輩が『小さき希望亭』に残して行った護身用の短剣があるから、武器はそれでよかろう。

 君の華奢な身体に重装備は無理だ。
 鎧の類、盾の類は持たなくてもいいが、となれば、戦闘時は後衛からの支援を意識してくれ。

 こうして見ると、君が使える吸収の力は、案外扱いが難しいな。
 接近してからしか使えないのは、敵に近づくリスクを冒すことになる。

 あまり公に使えるものでも無し、伸ばさずに最低限の力に封印して、別の術を磨くのも良いだろう」

 シグルトは、アンジュに軽量の短剣を用意してくれた。
 鍔が大きく、護身に優れた形状である。

 自身も手頃な短剣を選び身に着ける。
 今シグルトは、愛用の武器を持っていないのだ。

「日用品はそのうち、君が前に住んでいた場所から持ってこよう。
 前準備はこんなところか。

 では、時間があるうちにやれることを進めておくぞ。
 店に出て、張り紙を見つつ、仕事の選び方を教える。

 もし可能な仕事があったら、前倒しで仕事をするのもいいだろう」

 始終このペースで、部屋に二人っきり、という時間は終わってしまった。


 2人が降りてくると、店のカウンターで宿の親父ギュスターヴが、いつもの日課とばかりに食器を磨いていた。
 
「お、講義はもう終わりか?

 …その顔だと、しっかり絞られたなアンジュ」

 「ええ…」と力無く苦笑するアンジュ。

 もの覚えは良い方だが、シグルトが矢継ぎ早に教えてくれる知識は、とてもすぐに覚えきれるものではない。 
 それは、本来数週間かけて教えて貰う内容だ。

 教えるのが上手なシグルトだからこそ、半日で数日分の知識を得ることが出来るのである。
 その分、頭の疲労も大きなものになったが。

「いろいろ覚え過ぎて、知恵熱が出そうよ。

 充実してるんだけどね」

 こんな風に誰かから物を学ぶのは、久しぶりのことだ。
 彼女は勤勉なほどではないが、学ぶことには、確実に自分を高める充実感がある。

 アンジュは、その日の糧を得る危機感に追われていた時には無かった、喜びを感じていた。

「時間は惜しい。

 アンジュ、張り紙を見て、出来そうな仕事を見つくろってみろ。
 当てずっぽうや、報酬の多さで決めるんじゃないぞ。

 自分の実力や、持った知識の範囲で、それが可能か吟味して選ぶんだ」

 シグルトはそう言って、椅子に腰かけると、アンジュの出方を待った。
 これが、能力を試す試験であることは、あらかじめ聞いている。

 アンジュは、よく吟味した上で、3つほど張り紙を選び、剥がしてシグルトの前に置いた。

「まずは『鉱山のコボルト退治』。

 報酬は銀貨四百枚と少ないけど、場所はリューンからほど近いし、大体五匹ぐらいだって情報が書いてあるわ。
 討伐モノでは、なかなかのものでしょ?」

 するとシグルトの容赦ない添削が始まった。

「不合格だ。

 まず、少人数で仕事をこなす時は、〈討伐〉を避けるのがセオリーだ。

 自分の装備を見ろ。
 同行する俺の装備は?

 こんな貧相な装備で、戦いを前提とした依頼を受けるなど、先が思いやられるぞ。

 それから、報酬の項目を見ろ。
 これは〈成功報酬〉の依頼だ。

 つまり、失敗して逃げ帰って来た時は、ただ働きになる。
 そのリスクを背負うほど、君の懐は暖かいのか?

 加えて、場所。
 洞窟で、しかも鉱山だぞ。

 灯りの準備は出来ているのか?
 油は案外高価な品だ。

 誰がその明りを持つ?
 俺たちは今二人きりだ。
 まともに剣を取って戦える者は、一人ということになるな。
 
 鉱山の規模は、依頼の張り紙から予測出来るか?
 近いというだけで、どの鉱山か明記されていない。

 それと、コボルトの危険性を話しておこう。

 こいつらは世間一般では雑魚とされるが、狡猾で、よく落とし穴や毒針を仕掛ける。
 闇にあって彼らに襲われると、多数で囲まれ、玄人の冒険者でも死ぬことがあるんだ。
 戦闘力は低いが、集団で一人を攪乱し、一気に襲いかかる意外な戦術巧者だ。

 それに鉱山では、〈腐れ銀(コバルト)〉と呼ばれる鉱石が見つかるほどだ。
 つまりコボルトは、鉱山の坑道に生息しやすいとされる妖魔なんだ。

 こういった敵の庭に向かうには、専門の技術を持った先導役が必要になる。
 鉱山に詳しいドワーフか、罠を発見する能力に長けた盗賊がな」

 ギュスターヴが肩をすくめた。
 つまりシグルトは、これだけのことを視野に入れて依頼を受けていた、ということである。

「うう、分かったわよ。

 でも、次は自信あるわよ。 
 まず戦闘は無いはずだわ。

 ずばり『猫を探して下さい』よ!」

 シグルトはその貼り紙をしばらく見て、大きな溜息を吐いた。

「…不合格。

 広い都市部で探索する…しかも生き物探しに一番必要なのは、手数だ。
 その次に必要なのは、探す技術。
 さらに、情報を入手するためのつて。

 君はそれらが、今の俺たちに恵まれていると思うのか?

 この手の依頼は、失敗することが多い。
 捜査対象が自分の意思で動くからだ。

 それから、探す対象がいなくなった期間を確認しろ。
 件の猫が居なくなったのは、一月以上前だぞ。

 失せ物探し、行方不明者の探索は、紛失あるいは行方不明が出た瞬間からの経過時間がポイントになる。
 一週間以上経っていたり、探して貰ったことがあると注意書きがある依頼は、よほどの装備があっても見つからない可能性が高い。
 
 依頼主が子供だからという同情もあるだろうが、かえって希望を裏切るはめになる。

 老いた猫は死に場所を探すが、人目につかない場所で死ぬという。
 飼い慣らされた猫は、生き残るために殺し合いすらする野良猫の世界では、生きていけない。

 例え見つけることが出来ても、悲劇的な結果になることも多いんだ。

 一月以上飼い主を離れた猫は、生き残っていれば野生を取り戻している。
 再び主に懐くかは疑問だ。

 逃げられて、探し直す羽目になることもある。

 あと、捕獲の難しさもあるな。
 アンジュは、動物を捕まえるのは得意か?

 上手く君の力で呪縛出来ればいいが、猫は鼠を捕まえるほどに素早く、頭蓋骨が通る場所ならどこでも潜れるほど身体が柔らかい。 
 高所から飛び降りるのも得意で、人間が登れない木の上にだってあっという間に駆け上がる。

 これだけのデメリットがあるのに、まだやってみる気はあるか?」

 はたり、とアンジュは机に突っ伏した。
 噂には聞いていたが、シグルトの教導は本当に容赦が無い。

「じゃ、これ。
 『蜂蜜の輸送』。

 馬車があるって話だから、私たちの人数で丁度ぐらいだと思うし、やることが決まってるから、確実性もあるわ」

 きっといろんな突っ込みがあるだろう、と予想したアンジュであるが、シグルトはここで微笑んだ。

「ぎりぎり及第点だ。

 〈輸送〉を選んだのは大したものだ。
 初心者は粋がって、この手の依頼を受けたがらないが、大抵は目的に戦闘が含まれないため、安全に行える。

 成功すればまた頼む、という新たな依頼に繋がる可能性も高い。

 馬車に目を付けたのも評価しよう。

 移動が容易で、体力も温存出来る上、少人数で出来る環境だ。

 今みたいな夏場の徒歩は、なかなか重労働だからな。
 荷物だって、直接持たずに済む。

 期間も半日~一日と短いし、馬車という休む場所もある。
 見張りは交代で出来るし、日陰になるから熱射病で倒れる恐れも少ない。

 ただ、この〈熊が出る可能性がある〉というのと〈成功報酬〉であることは大きなマイナス面だ。
 
 後の方は交渉次第だが、〈輸送〉という依頼形式の達成し易さから考えれば、大きな問題にはなるまい。

 問題は熊の方だ。
 俺がこの依頼を認めたもう一つの要素があるが、何だと思う?」

 突然の意地悪な問いに、アンジュは悩む。
 そして、半ば自棄になって答えた。

「んぅもう、分かんないわよ。

 夏の日差しが暑くて熊は出ないとか?」

 すると、シグルトは頷いた。

「やや当てずっぽうだが、一応は正解だ。
 熊の生態が関わっている、というのが正しい答えだな。

 毛皮が厚い熊みたいな動物は、日中涼しい川や森の中での行動を好む。
 カンカン照りの道に出てくる可能性は、かなり低い。
 馬車の通る露出した道は、照り返しで暑いしな。

 絶対ではないから、注意は必要だが。

 そしてこの季節、熊が食べるものが、山森に溢れている。
 虫や木の実、川には魚。
 リスクを冒してまで、人間を襲うことは少ない。

 熊の多くは本来臆病な獣で、特に自分より大きな動物は襲わないんだ。
 縄張りを木に爪で刻む習性があるんだが、一説では〈爪の高さ〉=〈身体の大きさ〉で支配力が決まると言われている。
 
 テリトリーを荒らされると、熊は逆上する場合があるから、覚えておくといい。

 話を戻すが、馬車の様な巨大で動く物には、まず怖がって近寄ってこないはずだ。
 車輪の音も大きいしな。

 熊除けの鈴でもぶら下げて走れば、熊の方から避けてくれるだろう。

 後は、馬車の走行中に木の枝を折ったりして、熊のマーキングを荒らさないことだ。
 まあ、通り過ぎた後なら、馬車の速度に追いつかれる可能性の方が低いだろう。

 熊は一日数十キロを踏破することもあるから、縄張りはかなり広いと言われている。

 …さらなる注意が必要なのは、夏の熊が強いということだ。
 春先に穴籠りから目覚めたばかりの奴と違い、餌を食って体格も良くなっている。

 実際に戦闘ともなればかなりの危険も伴うから、万が一の時に備えて対抗手段を吟味しておくべきだろう」

 シグルトが語る熊の知識に、アンジュは「ほえ~」と感心した様に唸った。

「こういった知識は、時に生に繋がる大切な情報になりうる。
 ある偉大な冒険者が、〝含蓄は旅人を助ける〟という金言も残しているしな。

 俺も、小さい頃に学んだ伝承や、習った医術で幸運を拾ったことは、一度や二度では無い。
 君の【柘榴酒】だって、そうだ。

 君は頭が良いし、記憶力もある。
 それらを生かし、学ぶ機会があるなら疎かにしない様にな」

 シグルトの博学ぶりは、もう説明する必要もないだろう。
 単に知識の広さで言えば、ロマンの方が優れているが、一部の専門知識と実用知識の深さではシグルトに分が上がる程だ。

 彼の知識の豊富さは、勤勉さ故である。

 シグルトが酒に酔って遊んでいた姿とか、ごろ寝をして休日を過ごす姿を見た者は誰もいない。
 平時は誰かにものを教えているか、武芸の鍛錬をしているか、読書をしている。

 その読書量は、『小さき希望亭』ではロマンに次ぐ。
 人との会話からもかなりの知識を仕入れており、専門知識を持つ者との交流も広い。
 好事家や隠者、知的好奇心が強い貴族とも話が合い、気に入られることも度々だ。

 シグルトの多才さは、彼が並外れた努力家であるためなのだ。

 見る者が見れば、「何と無駄の無い生活をしているのだろう」と思うだろう。

 彼は、風呂や用を足す時間すら、哲学する時間に用いる。 
 生徒となる後輩に物事を教えている時は、その中で感じた自省で自分を高めていた。

 この様な彼が、洗練されないはずが無い。

 アンジュは、人間観察が得意である。
 人の精気を通して、その力の迸り…オーラの様なものが分かるのだ。
 
 彼女から見るシグルトは、与えられた生の一時一時を、本当に大切に生きている様に見える。

 冷たさと熱さ、剛と柔、光と闇…背反するそれらを内包し、その上でどちらに染まっているわけでもなく、純粋だった。
 その老人の様に静かで、若者の様に熱い彼の内面の知る度、外見以上に魅力的に感じてしまう。

(彼の外見だけしか見られない人は、もったいないわよね。

 シグルトの魂は、決して聖者の様な純白ではないけれど、まるで磨かれた金属の様に気高くて、綺麗だわ)

 霊的なものが視認出来る多くの精霊術師や霊能者は、シグルトに対しアンジュと同じ様な印象を受ける。
 それは、〈刃金の相〉と呼ばれる魂の形だった。

 彼らに共通するのは、失うことを嘆きながらも覚悟し、自らを鍛え道を切り開く心を持った、業を背負う挑戦者である、ということだ。
 刃物が持つ実用的で鋭利な美しさにも似た、危うさと猛々しさが他者を魅了して止まない、英雄の相である。

 同時に〈刃金の相〉を持つ者は、英雄の多くがそうである様に、波乱万丈を天命としていた。
 彼らの多くは、自らが欠け果てるまで挑戦し、多くは夭折する宿命である。

 そんな深い人相までは知らなかったが、アンジュはシグルトの持つ儚さの様なものに気付き始めていた。

 アンジュがぼんやりとシグルトを見つめていると、彼は呆れた様に苦笑する。
 そして、張り紙から依頼人の住む家を確認すると、アンジュにその依頼を受ける意思があるか確認したのであった。


 依頼人から馬車を預かり、シグルトが御者となって、2人は運ぶための蜂蜜を受け取るために、養蜂場に向けて林道を進んでいた。

 依頼人との交渉は自分でやれとばかりに口を出さないシグルトの前で、アンジュは初めて冒険者としての交渉を行った。

 結果は惨敗だった(そもそも、報酬を払う人物に品物を渡さないとお金が出ないようになっていた)が、今後『小さき希望亭』に優先的に仕事を回して貰える約束をしてもらったので、シグルトは「及第点」をくれた。

 その後、シグルトはアンジュを補う様に、依頼人に森の情報を確認していた。

 彼は「森でクマに襲われた者がいるか」と聞いた程度だった。
 襲われた者は誰もいない、と聞いて、シグルトは何かを確認し終えたのか、それ以上は尋ねなかった。

「ねぇ、シグルト。

 もっと熊の情報とか、出現ポイントとか、聞かなくて大丈夫だったの?」

 依頼人の前を辞した後アンジュが聞くと、シグルトは肩をすくめて溜息を吐いた。

「それは君がすべきことだったんだぞ。

 俺はあくまでも、行動を共にしているが、教導側だ。
 減点だな」

 思わず返答に詰まるアンジュ。
 
「…まぁ、初の仕事だから、大目に見てやろう。
 良い質問をしたことだしな。

 聞くことは大切だ。
 情報はやって来るものではなく、自分で集めるものだ。
 覚えておくんだぞ。

 …俺が熊のことを聞いたのは、出現した熊が〈人食い熊〉か確認するためだ。
 もしそうなら、依頼を断らせていた」

 シグルトは少し言葉を切り、思い出すように空を仰ぐ。

「…熊は〈手負い〉、〈穴持たず〉、〈腹ぺこ〉、〈物狂い〉、〈人食い〉は危険だ。
 一切、普通に伝えられている常識が通じなくなる。

 この何れかに類する熊がいる場合、即討伐に依頼変更する羽目になると、覚悟しておいた方がいい。

 〈手負い〉は分かるな?
 怪我をした獣は気が立っているから、感情的になって暴れる。
 痛みで我を忘れ、何をするか分からない。

 〈穴持たず〉は、冬籠りしそこなったり、何かをきっかけで冬籠りを止めてしまった熊のことだ。
 冬季には餌が無いから、飢えて、目に付く生き物を食べ様と襲いかかって来る。

 〈穴持たず〉にも関連するが、〈腹ぺこ〉は、食事にありつけず飢えている熊だ。
 森の無計画な伐採や、森の食べ物が不作の時にもこうなることがある。
 やはり、目に付く生き物を食べ物にしようとするから、襲われやすい。

 〈物狂い〉は、病気や、出会い頭で驚かされ、興奮したり、狂乱している奴。
 暴れるし、目につく者に八つ当たりすることもあるから、とても危険だ。

 最後は〈人食い〉。
 一度でも人肉を食ったことがある熊のことだ。
 こいつは、最も危険と言える。

 熊は、人を食うと狂うと言われている。
 これは、半分間違いで、半分当たりだ。
 人間にとって、恐ろしい存在になることは確かだがな。

 人間は、他の獣に比べて体毛が少なく肉が柔らかいから、熊にとって御馳走なんだ。
 他の獣の様に素早くないし、鋭い爪を持ってるわけでもない。
 その上、大きな獲物だから腹も膨れるし、埋めておけばしばらく食べられる。
 
 熊は腐りかけの肉が大好物で、墓を掘り起こして死体を食らうこともある。
 味をしめた熊は、率先して人を襲う様になるんだ。

 そうなった熊は、何故かとても狡猾になる。
 ある賢者の話では〈人の知恵も食らうから〉らしいが」

 恐ろしい話に、アンジュの顔が青ざめる。
 彼女の頭の中では、リアルに死体を貪り食う熊の姿が浮かんでいた。

「…前に、故郷で一度〈人食いの穴持たず〉を相手にしたことがある。
 俺が熊の生態に詳しくなったのは、それが理由だ。

 有志を募って、二十人がかりで、村一つ壊滅させたその羆を追った。

 だが、ろくな知識も無く冬山に入った討伐隊のうち三人が食い殺され、半数以上が大小の怪我を負うという散々な結果になった。
 逃げだすメンバーもいて、雪山がそいつらの血で斑になった。

 雪に隠れ、地形を利用し、足跡を使って人を騙す熊を相手に、俺は半日かけてそいつを追い詰めた。
 なんとか倒した時も、化けて出そうな形相で目を剥き出し、唸っていた姿を思い出す…」

 シグルトの話す昔話に、半泣きの様子で周囲を見渡すアンジュ。
 欝蒼と茂った森は、いかにも熊が出そうな雰囲気である。

「…少しは安心して良いぞ、油断はいかんがな。

 聞いた話から推測すれば、この森に〈人食い熊〉は出ないはずだ。
 そう言う噂も聞かない。

 …そうだ、アンジュ。
 熊の対処法は知っているか?」

 唐突に聞かれて、アンジュはびくっとした。

「ええと、確か睨みつけて牽制するのよね?
 
 死んだ振りしてると、熊の好奇心で遊ばれて大怪我したり、齧られたり…」

 シグルトは御名答と頷いた。

「そうだ。

 決して背を見せず、じりじりと距離を取ること。
 焦って逃げようものなら、ほぼ確実に追いかけてくるし、人の足では逃げ切れん。

 四足で駆ける獣は、まっすぐ走る時に、もの凄い速度を出せる。
 もし咄嗟に逃げてしまって、追いかけられているなら、ジグザグに障害物の間を縫う様にして、熊の進行を止めながら振り切ることだ。

 熊の重い突進を食らえば、内臓破裂や骨折で無力化され、熊の胃袋に収まることになるだろう

 熊が立ち上がって威嚇して来たら、立ちすくんだりせず、とにかくその腕の届かない横方向から、熊の背後に大きくい回り込む様に走る。
 横殴りの一撃は、大人の頭骸骨が粉砕する破壊力を持つから、喰らわない様にな。

 相手がまた四足に戻ったら、繰り返し障害物にひっかけて距離を取る。

 熊を飽きさせるか、疲れさせることが出来れば、逃げ切ることも出来るかもしれん。
 大概は体力切れで、人間の負けだろう。

 熊の鉤爪に捕まったり、抱すくめられたら、一巻の終わりだ。

 奴らは器用で怪力だ。
 民家に侵入した熊が、驚いて湯を掛けた老婆を逆さ吊りにして、股裂きに殺した事例がある。

 木登りもダメだぞ。
 熊は高い木に登って蜂の巣や木の実を採る。

 火で追い払うのも危険だ。
 返って怒らせてしまうし、気性の激しい熊は火の燃えるキャンプを襲ったりもする」

 「救い様が無いじゃない…」とぼやくアンジュに、シグルトは首を横に振った。
 それでは駄目だと言う風に。

「だから備える必要がある。

 仕事とは、依頼を受けてから始まるわけでは無いんだ
 仕事そのもに関わる瞬間まで、どれだけの下積みをしているか。

 〈だって〉、〈仕方ない〉…そんな言い訳を言う度に、それは敗北と同意義になるだろう。

 愚痴が言えるうちは、まだ幸せかもしれない。
 くよくよ悩めるのは、余裕があるということだ」

 シグルトの言葉には実感がこもっていた。
 彼は実際にそうやって、数々の成功をおさめて来たのだ。

「とにかく、死ぬまで挫けないことだ。
 何があっても、挫折しなければ、まだ終わっていない。

 実際に熊に襲われた時、ただ震えているよりは、どう動くか、どう逃げるか、どう倒すかを常に考えるんだ。
 それは、襲われる前から覚悟し、心構えが出来ていた時に、初めて出来る。
 出来ない、起きないと準備を怠った者は、動けないまま食われる末路になるだろう。

 常に備え、常に挑め。
 それはどんな道であっても、活路になる。

 熊を倒す時は、その動きを止めて斧や鉈の様な硬く重い武器で眉間を割るか、喉を貫くか、心臓を一突きにしなければならない。
 体力がある熊は、多少の傷を負っても怒り狂う一方で逃げないからな。

 熊が立っている時はそういった急所を晒すが、位置が高く長い武器でなければ仕留められないだろう。
 致命的な一撃を放つには、屈強な力も必要とする。
 必殺が叶わないなら、下手に攻撃することはかえって危険だ。

 手負いの熊は執念深く、執拗に追いかけてくる。

 さあ、またこれで少し詳しくなっただろう?
 要は、それを続けて慣れて行けばいい。

 習うより慣れ、学ぶより真似るんだ。
 俺や、他師の助言が常にあるわけではないのだからな。

 〈黙念師容〉(言葉ではなく師の見様見真似で体得すること)。
 君自身で自分を磨いて、浅きより深きに入れ。

 答えは常に今にある。
 何をして来たか、何をするべきか。

 どうなるかは、君次第だ」

 馬車の速度を弛めて、栗鼠の横断を見守りながら、シグルトは言い含める様に締めくくった。


 森の中の養蜂場は、修道士風の男が一人いて、巣箱と蜂蜜の番をしていた。
 熊の話をすると、養蜂場を荒らして困ると苦笑する。

 この時代、養蜂は労働を美徳とする修道士たちの仕事である。
 蝋燭の原料となる蜜蝋の収集も盛んであった。

 砂糖と果物以外で、甘味となるものは蜂蜜ぐらいである。
 高い栄養価を持ち、腐敗せず、美味な蜂蜜はとても高く取引された。

 果物を漬ける蜂蜜漬けや、蜂蜜酒(ミード)を作るのにも必要で、女性用の化粧品として使われる場合もあり、需要が高い。
 何時も品薄だと、その修道士はぼやいていた。

 シグルトは、約束の蜂蜜を受け取る他に、手持ちの塩や香辛料を対価にして、蜂蜜を少し分けて貰っていた。

「蜂蜜ば、何の食料も無くなった時、持っていれば素晴らしい携帯食になる。
 そのまま舐めるのはもちろん、食べ物に塗って好し、湯や茶に混ぜて好し。
 腐らないから、保存が容易なのが有難いな。
 ただ、寒い場所では、固まると瓶から出なくなるぐらいか。

 未開地では物々交換する時に重宝するし、病気で倒れた時には滋養強壮にも使えるんだ。

 使用の注意としては、決して赤ん坊に与えないこと。
 知ってる者はとても少ないんだが、乳幼児は蜂蜜に当たる場合がある。
 加熱しても効果が無く、身体が麻痺して死ぬこともあるから、乳離れするまで絶対禁止だと、この知識を教えてくれた人が言っていた。

 それと、自然界で蜂蜜を見つけた時は、近くに毒草がないか確認した方がいい。
 トリカブトの周囲で採った蜂蜜に、当たった奴がいたと聞いたことがある」

 自らも蜂蜜を愛用するシグルトは、荷物を馬車に積み込みながら、そんな説明をしてくれた。
 知らない知識に興味をそそられ、アンジュも真面目に聞いている。

 女の子の例に漏れず、アンジュもお菓子や甘いものは好きな方だ。
 蜂蜜菓子の話に話題が逸れた頃、荷物の積み込みは終わっていた。


 帰りは、アンジュが馬車の御者になった。
 来る途中の会話の中で、シグルトが馬車の簡単な操り方を教えてくれたので、それに従って手綱を操る。

「乗り物の操作法は、一通り習得しておくといい。

 特にボートや筏(いかだ)、馬、馬車は良く使う乗り物だから、乗れないと沢山の仕事を逃すことになる。
 同時に移動手段、という選択肢が狭くなるから、並には使える様になっておくんだぞ。

 冬場、機会があったら、そりの扱い方も教えよう」

 シグルトは、質問すれば丁寧に教えてくれる優秀な教師だった。
 小さなコツや逸話を交えての教導は、時に厳しいが分かり易く面白い。

 そうして、馬車の操縦に夢中になり、帰り路も後半に差し掛かった頃である。
 
 森の奥から、何かがやって来る気配がした。
 さらに聞こえる木々がへし折れる音と、無気味な唸り声。

「く、熊?

 出たの?!」

 焦ったアンジュが思わず手綱を引きそうになるのを、シグルトが止めた。
 
「ゆっくり引いて、馬を驚かせない様に。

 あれは熊じゃない、多分猪だ」
 
 上手く馬車を止めさせると、シグルトは馬車を降りて、注意深く周囲を観察する。
 その時、100m程先に、森の中から躍り出た灰色の巨体があった。

 〈ワイルドボア〉と呼ばれる猪の一種である。
 好戦的で知られ、人里近くにも頻繁に現れる害獣であることから、よく冒険者にも駆除の依頼が来る。

「で、でかっ!」

 アンジュの第一印象の通り、その〈ワイルドボア〉はとてつもない巨体だった。

 苛ついた様に地を蹄で蹴り、砂埃を上げている。
 それは、威嚇の姿勢だ。
 
「ね、何かやばくない?

 こっち睨んでるよ…」

 不安そうにアンジュが聞くと、シグルトがゆっくり頷いた。

「…拙いな、あの猪は、手負いだ。

 アンジュ、臨戦態勢を…アンジュ?」

 恐怖心で完全に身がすくんでいた。

 背筋を流れる冷たい汗が気持ち悪い。
 あの鋭い牙で突かれたら、命は無いだろう。

 明確な敵意を受け、死を感じた時、それはとてつもない恐怖に変わる。

 だが、不意に視界が遮られた。
 アンジュの両頬を、力強い手が挟む。

「…しっかりしろ!」
 
 目前から睨み、シグルトが手に力を入れる。
 不意に襲った痛みに我に返ると、力が弛み、シグルトが強く頷いた。

「呆けるな、対処するんだ。

 その心構えは、して来たはずだろう?」

 強くゆっくりと、シグルトに言われ、アンジュは正気を取り戻した。
 必死に頷いて返す。

「そう、焦らなくていい。
 こんな時のために俺がついて来たんだ。

 いいか、俺があの猪の気を逸らすから、君は呪縛の力であの猪の動きを止めろ。
 よく狙えよ。

 出来る出来ないと考えるな、必ず〈やれ〉!」

 指示を出すと、シグルトは励ます様にアンジュの肩を叩き、すぐに離れて馬車を降りた。
 そのまま、恐れる様子もなく大猪を睨み据える。

 怒りをぶつける目標を見つけたためか、その獣は目を血走らせ、泡を吹きながら駆けて来る。
 
 シグルトは、大猪を馬車から引き離す様に、斜め前に歩み出た。
 そちらに大猪の注意が向き、進行方向も変わる。

 アンジュはその頼もしい背中を見つめながら、すべきことのために集中した。

 シグルトは、必ず〈やれ〉と命じた。
 それが出来なければ、彼が死ぬかも知れない。

(絶対嫌よ、そんなの!)

 高らかに唱えられた、サキュバスに伝わるまじないの言葉。
 元々、確実に接触して精気を吸える様に、サキュバスが体得するものである。

 大猪が射程に入った瞬間、アンジュの手から鈍色に輝く幾条もの魔法の鎖が発せられる。
 鎖に雁字搦めにされた大猪は、大きく転倒して地面を転がった。
 
 だが、この呪縛は長く続かない。
 躱すのが困難な分、維持が難しく魔力が分散してしまうのだ。

 しかし、出来た隙をシグルトが見逃すはず無かった。
 大猪の急所に二度、正確に短剣を突き刺す。

 魔法の鎖が光の塵に変わり、空気に分散した時、大猪は弱い痙攣を一度して絶命した。
 動かなくなった大猪を、しばらく観察していたシグルトは、完全な相手の死を再度確認すると、馬車に戻って来た。

「や、殺ったの?」

 シグルトが頷くと、アンジュの力がふにゃりと抜ける。
 へたったアンジュを置き、シグルトはまた大猪の方に向かうと、足を掴んで森まで引っ張って行った。

 暫くしてシグルトが森から出てくる。

「…死体を片付けてたの?」

 何とか落ち着いたアンジュが聞くと、シグルトは軽く頷いた。

「血抜きと腸を抜いて、蔦で手頃な木に吊るしておいた。

 帰ったら、手の空いてる奴に取りに来させよう。
 獣を殺したら、せめて有効活用してやらねば浮かばれまい。

 知り合いの猟師に処理を頼んで、毛皮は報酬の足しにしよう」

 ちゃっかりしたシグルトの言葉に、アンジュは驚いて瞬きした。
 
「…信じられない。

 私が震えてる時に、猪の解体作業やってたの?!」

 やや怒りを込めてアンジュが言うと、シグルトはしっかりと頷いた。

「血抜きは早い方が肉を傷ませないからな。
 こういった解体で血生臭くなった手は、乾燥した灰や土で拭って落とし、その後水で洗って、消臭の香草があれば最後の後処理をすると理想だ。

 こいつに怪我を負わせた熊の死体も見つけて来た。

 牡の若い熊だから、仔はいまい。
 熊騒動も、これで解決したかもしれん。

 …驚いたか?
 だが、冒険者をやるなら、これぐらいは図太くならんとな。
 
 日々の糧は、金で贖うのがほとんどだが、それ以外の手段を持っていれば節約も出来る。

 俺たち“風を纏う者”が冒険を始めた頃は、資金不足で、この手の稼ぎ方をよくやったものだ。
 レベッカという交渉上手がいたおかげで、裕福とまではいかなくても、その日の糧には困らずにすんだよ。

 君も飢えた時のひもじさを経験しているだろう?
 せめて、鳥一匹をしめるやり方ぐらいは、覚えておいた方がいい」

 アンジュはもう怒る気持ちも萎んでいた。
 心の中で、頭の下がる思いだった。

(シグルトも、苦労してたのねぇ)


 こうして、シグルトによるアンジュの実習教導は終わる。
 まずまずの成果に、多少説教したものの、シグルトは褒めてくれた。

 シグルト2人きりだったと言う話で、他の女冒険者やクリスが騒いでいたが、猪の解体云々の話をすると、逆に同情されてしまった。
 こうしてシグルトの伝説は、また一つ増えたのである。
 
 報酬の銀貨八百枚は、そのままアンジュの資金としてもらうことが出来、シグルトは猪と熊の毛皮や肉を処分して、それを報酬代わりにする。
 そうして手に入れた金や肉は、彼が関わった孤児や知り合いに配ったらしい。

 『小さき希望亭』の晩の献立は、猪肉である。

 ちょっとだけ臭みのあるそれは、アンジュの初仕事の味がした。



 シグルトの珍道中4、アンジュ教導編1、いかがだったでしょうか。

 連れ込んだPCを題材に、シグルトが後輩冒険者を教育する話は、どっかでやろうと思っていました。
 色気0なシグルトの教育ぶりが、いかんなく発揮してたと思います。

 今までも何度か紹介してきましたが、シグルトは中世世界では最高レベルの医療知識と、多彩な伝承に通じた賢者タイプの剣士です。
 蜂蜜の乳児ボツリヌス症をしっていたり、熊の生態に詳しかったのは、それを知るきっかけがあったからですが。

 倒した猪からちゃっかりと資金を生み出すあたり、レベッカの影響もあるでしょうね。

 シグルトは生徒としても優秀で、先輩から学んだことをほぼ確実にものにしてきました。
 冒険者として、アンジュに教えている知識は、彼が経験から学んだものや、先輩から学んだことの受け売りです。

 
 レベル的にはシグルトと同等のアンジュですが、スキルが冒険者向きでは無いとシグルトは仲間として認めてくれません。
 戦闘力がそこそこでも、サキュバスとしての黒いスキルの乱用は、彼女を危険にさらす恐れがあると危惧してもいます。

 シグルトは、過激な教会勢力を悪用した者たちに、友人を殺されていますし、レナータを救った過程もあるので、いかんせん慎重になっています。
 アンジュも、本来は自分の異端性で人に溶け込めて無かった過程で、歓楽街に隠れてましたから、シグルトの配慮は的外れではないかと思います。

 保身を臆病という人もいますが、シグルトは「仲間を含めて立場を守るための保身」と「ただの臆病」はきっちり区別して考えるでしょう。
 まずは本質を捉えようと考えるのが、シグルトの行動パターンです。

 最後の猪戦ですが、「キャンセル」→「眠りや呪縛といった無力化キーコード」で完全勝利出来ます。
 アンジュの呪縛、早速役に立ちました。

 
 今回800SPを報酬として得ましたが、これはずべてアンジュのスキルアップのために使います。
 シグルトの報酬は0ですが、食費やら諸費用は猪を使って埋め合わせています。

 何か、だんだん所帯じみてきてますね。


〈著作情報〉2009年07月20日現在

 『ある日森の中』はぐすたふさんのシナリオです。現時点でオフィシャルファンサイトのギルドにも登録され、下記サイトで配布されています。
 シナリオの著作権は、ぐすたふさんにあります。
  
・ぐすたふさんのサイト『Gustav's Homepage_CW』
 アドレス: ■ttp://gustaf.hp.infoseek.co.jp/CardWirth.html(■をhに)

・今回活躍した連れ込みPCアンジュは、楓さんのシナリオから連れ込んだものです。
 著作情報等、リプレイRの『甘い香り』を御覧下さい。
 
 カードワースはgroupAskに著作権があり、カードワースの管理、バージョンアップ、オフィシャルな情報等はgroupAsk official fansiteにて、カードワース愛護協会の皆さ

んがなさっています。
 このリプレイは各シナリオをプレイした上で、その結果を小説風リプレイとしてY2つが書いたものです。
 書かれた記事、書かれる記事は、特定のシナリオの名前が出たときは、そのシナリオの著作権はすべてそのシナリオの作者さんにあります。
 
 また、リプレイ中に使われる内容には、各シナリオで手に入れたスキルやアイテム、各シナリオに関連した情報等が扱われることがあります。
 それらの著作権は、それぞれのシナリオの作者さんにあります。
 またカード絵等の素材に関しては、シナリオ付属の著作情報等を参考にして下さい。
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