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PC6:ニルダ

2018.07.25(00:55) 468

「また勝手なことを…」
 
 ハーフエルフの男、コールの同行という話を聞いて、バッツは渋い顔をさらに引きつらせた。
 
「そう言うな。
 
 船捜しも考えなきゃいけないって話だったし、条件は悪いものじゃない。
 それに、この人は恩人でもあるしな」
 
 オルフがなだめるように言うと、バッツは肩を落とした。
 
「こういうのは今に始まったことじゃないが…
 
 せめて相談してからにしてくれ。
 俺のほうにも都合があるからな」
 
 そしてハーフエルフの男に向き直る。
 
「すみませんね、コ-ルディンさん
 
 貴方の申し出に不満があるからじゃないんですよ。
 ただ、一緒に行動するならそれなりに他の仲間を重んじろってだけでして」
 
 言いつくろうようにバッツが言うと、ハーフエルフは唇の端を軽く吊り上げて、首を横に振った。
 
「私のことはコールで結構。
 
 貴方の言い分も確かに一理あります。
 しかし、状況からすれば、素直に喜んでいただけてもよかったと思いますよ。
 
 都合を考える立場であれば、それぐらいの機微を見せるべきでしょう。
 あなたの言葉に即すれば私もこれから同行する仲間ということになりますから、心得てもらえると幸いです」
 
 ハーフエルフ、コールの言葉に、バッツは一瞬怒りで表情を引きつらせた。
 
 鼻で笑う仕草…明らかにオルフやエルナに対する態度と違う。
 
(…この野郎、俺が盗賊だからなめてるな。
 
 性格悪そうなやつだ)
 
 何とかこらえて愛想笑いを浮かべるバッツ。
 
(…ふん。
 
 随分と軽薄そうな男ですね。
 こんな人と同行は御免ですが、父を納得させる手前。
 我慢するとしましょうか)
 
 二人は顔でこそ笑っていたが、眼光はぶつかり合っていた。

 世の中には、邂逅した瞬間から相性の悪い相手がいるものである。
 
 ぴりぴりした雰囲気に耐えられなくなったフィリは、早々に挨拶を済ませて部屋から退散してしまった。
 エルナはぼんやりと窓の外を眺めていて、場の雰囲気に気がついていない。
 
 所在無げにオルフは、大きな肩を揺らして眉間にしわを寄せた。
 
 
 フィリは今日泊まる宿近くの街道を、のんきに歩いていた。
 要領がよいのがこの娘の特技である。
 
(はぁ~。
 
 あの二人、絶対仲悪くなるよ。
 神経質そうなところとか、自分勝手そうなところとか、そっくりだよね。
 
 近親憎悪ってやつになりそう)
 
 首の後ろで腕を組み、足をぶらぶらさせながら歩く。
 
(それに、二人ともエルナさんに気があるの、見え見えだよね。
 
 そのエルナさんは、戻ってきてからなんだか上の空だし、どうしたのかな?
 …って、決まってるよね、これは。
 
 きっと助けてくれたっていう、噂の美形さんにほの字なんだ~
 
 くふふ、二人の男の心を掴みながら、その女の心は別の運命の男に一心に注がれていた…
 ロマンスだね~)
 
 自分がその場にいなかったことを残念に思いつつ、フィリは随分勝手なことを妄想して、楽しそうにほくそ笑んだ。
 
 
 エルナはその男のことを考えていた。
 フィリの言うような、恋心に悶える乙女としてではない。
 
(なんて寂しい目をした人。
 あの傷も、きっとあの人が持つ悲しい過去の一つ、なのだわ。
 
 どこか、お父様に似た人だった。
 
 あんなに調子が悪そうだったのに…一人で大丈夫かしら)
 
 エルナはこういう娘だった。
 昔から弱い者や傷ついた者を放っておけない。
 
 逃げる状況でも、本来は殺すべき追っ手を、オルフにしがみついて殺さないように頼んだ。
 
 その優しさが仇にならなければいいと、父も侍女のマーサも心配していたものだ。
 
 シグルトという青年の腕の傷痕を見たとき、あの青年がいかに壮絶な人生を歩んできたか少しだけ窺い知れた。
 きっと他にも、あのような傷を数多く負っているのだろう。

(あの髪と瞳…どう見ても【青黒の相】よね?
 統一帝様と全く同じ相をした方なんて、初めて見たわ。
 ラトリアなら貴族がこぞって養子縁組を持ちかけたでしょう。

 マルディアン帝国の“天剣の将”レグジードに発現したとは聞いているけれど)

 ラトリア王国やマルディアン帝国の全身、統一帝国を建国した建国帝は、青黒い髪と瞳の美しい男だったと伝えられている。
 その【青黒の相】は帝王の相とされ、ラダニール地方の貴族にはとりわけ珍重されるのだ。

(シグルト…名前の語尾にシグヴォルフ訛りがあったから、あの国の王族の方かしら?
 貴族年鑑の上位貴族には載っていなかった名前。
 
 ふふ、おかしなものね。
 今更貴族のことなんて。

 ラトリア王国はきっともう、元には戻れない。
 …お父様の〈思惑通り〉に。

 仮に勢力を盛り返して王都を奪還しても、正当な王家の血筋がセリニア様ただ御一人では。
 王族と貴族が、あまりに死に過ぎてしまったわ)

 冷静になって思い出す事実。

 エルナが南方に逃れようと考えた理由は、オルフに言った通り「父や教会に迷惑をかけたくない」ということが一番である。
 だが、それはすべてではない。
 
 聡明なエルナは。ラトリア王国の滅亡をずっと以前から予感していた。

 彼女にはかつて、親戚筋の婚約者がいた。
 侯爵家の嫡流で一人娘だったエルナは、ラトリア王国の〈貴族は男子相続〉という決まりによって、婿養子を迎えることが決まっていた。

 紹介された婚約者は線の細い少年で、母の従妹となる伯爵夫人の息子。
 生粋の貴族として育ったエルナにとって、政略結婚は貴顕の義務であったし、紹介された同い年の再従弟(はとこ)とは幼馴染として愛称を呼び合って育ち、決して結婚することが嫌ではなかった。

 ことが暗転したのは、エルナが十二歳の時。
 立太子した第一次王子が、美しく成長し社交界デビューしたエルナに懸想し、王太子妃に指名したのだ。

 父ワイルズ侯爵は、これを「一粒種で家督存続のため、嫁に出すのは不可能」と却下したのだが、王太子は諦めず、婚約が纏まらない鬱憤をエルナの婚約者へと向けた。
 婚約者の実家に無実の罪を着せて断絶に追い込み、婚約者の両親は処刑され、当人も行方不明となる。

 王太子は「婚約者がいないのであれば、自分との子供か王族から侯爵家の跡継ぎを出せばよい」と強硬な姿勢でエルナとの縁談をごり押しし、婚約者の実家や関係者を貶した。
 仲が良く姉妹同然の付き合いであった従妹を処刑され、実家の親戚筋を謂れの無い暴言で貶められた侯爵夫人…エルナの母は心労で倒れ、間も無く亡くなってしまった。

 妻を深く愛していたワイルズ侯爵は激怒し、エルナを修道院に逃すと「我が妻の親戚、娘の婚約者の家に瑕があったとおっしゃるならば、王太子に我が娘は〈不相応〉と存じます」とつっぱねた。
 この不相応とは〈侯爵令嬢に対し王太子の方が不相応〉という意味だと、宮廷ではもっぱらの噂となり、侯爵もあえて否定しなかった。

 当然身勝手な性格の王太子は怒り狂った。
 しかし、王国南部最大の貴族であるワイルズ侯爵は、国王に自領の独立をほのめかせて王太子の我儘を黙殺し、さらには「自分を陛下の貴下に置かんとするのならば、現王太子の王位継承はありえませぬ」とまで告げて、普段からはっきりとした反意を示すようになっていた。

 王名でワイルズ侯爵を謀反人にできれば話が早いのだが、ラトリア王国の軍部と食料の流通は侯爵が大半を掌握しており、現国王は圧政が目立つ暗君として人気も無かったため、国王派の王侯貴族たちは侯爵に連動して南部の貴族たちが一斉に反乱することを恐れ、王太子の望みは引き下げるしかなかったのである。

 国王と王太子はほぞを噛み渋々と引き下がったが、この時の屈辱をずっと恨んでおり、事あるごとにワイルズ侯爵に嫌がらせを行うようになっていた。

 この時すでに王家を見限っていたワイルズ侯爵は、自領の侯国化とラトリアからの独立・離反を半ば決意しており、きっかけがあれば決行すると、娘のエルナだけには告げていたのである。

 その実、王国一の知将とも謳われるワイルズ侯爵は、ギマール共和国侵攻の際に王太子の軍勢が自分の手柄をかすめ取って使い捨てにするため、侯爵軍の後ろに布陣していたことまで分かっていた。
 王太子をたきつけて王都に残っていた国王や王家の人間、貴族たちも、謀略を仕掛けてきた敵として見捨てる算段であった。
 そして、敵国にワスロー中将という水軍の名将がいて、ギーガー河を使った作戦を必ず使うと確信していて、わざと中将を王太子軍にぶつけるように、巧妙に深く南下して戦ったのである。

 侯爵は元々マルディアン帝国の南征も予見しており、王太子軍が配置していた場所は「危険地帯であり近づいてはならない」と警告していた。そう言えば王太子が反発すると見越して、である。
 侯爵の言葉を無視した王太子が勝手に破れたことは、自軍において敵軍の名将と戦い退けることに成功した侯爵の失態とはならなかった。

 その上で、苦渋の選択という形で兵の撤退を迅速に行い、戦争に駆り出されて不満を募らせていた南部貴族たちに王女と南部を守るという大義名分を掲げて行動したワイルズ侯爵は、見事に人心を掌握したのである。

 ギマール軍勝利後の鮮やかな南部への撤退、マルディアン帝国の王都侵攻後には迅速な臨時政府の樹立、同盟国としてエルトリア王国との交渉。
 事前に備え、計画していたからこそできたことだ。

 ワイルズ侯爵の最初の誤算は、王太子が予想外の愚行を犯し、愛する妻と親しい親族を失う羽目になったこと。
 侯爵は王族の暴虐を看過していたことを深く悔やみ、妻の墓前に復讐を誓っていた。

 その次の誤算は、あまりに早く別勢力となるマルディアン帝国が王都を陥落させてしまったこと。
 帝国がラダニール随一と呼ばれる傭兵の〈雪狼団〉を雇い、一気に南征してくることまでは読めなかった。
 王太子の戦士や捕虜化によって、ある程度混乱が生じてから攻めてくるだろうと考えていたのだ。

 最後の誤算が、進撃が早かったマルディアンの兵士の中に、戦時条約を無視して鬼畜な働きをする工作兵がいて、各地の修道院や村落が襲われてしまったこと。これは聖北教会を信仰する国家としてありえない蛮行だ。
 さらに、〈ギマール兵に偽装する〉という工作が、現場の正規兵たちが正義感からそれらの工作兵を討伐しようとしたことから露見してしまい、兵士同士に深刻な摩擦が生じてしまった。
 他の部隊の華々しい活躍に嫉妬し、功を焦る工作部隊指揮官の独断であり、大義名分を掲げて侵攻を開始したマルディアン帝国総司令部としては最悪の事態である。
 この事件が原因で、侯爵の手勢が保護するよりも早くエルナのいる修道院が襲われ、彼女はと他国に逃亡して現地では〈行方不明(死亡か誘拐)〉扱いとなっており、ワイルズ侯爵はマルディアン帝国の行いを非難して徹底抗戦を宣言する。

 〈雪狼団〉から事の次第を聞いた帝国軍総司令は、即座にそれらの工作兵たちと命令を下した司令官たちを裁判無しの極刑に処した。帝国側としても、エルナを人質にワイルズ侯爵と交渉する方が戦後処理に面倒がなかったはずなのだ。
 これに対して、工作の内容を暴露され、部下を殺された帝国軍工作部隊を率いる大貴族が、総司令官に対して抗議し、軍部が割れてしまった。

 まさに泥沼である。

 自分が原因で戦争の火種が大きくなってしまった。
 今父の元に戻れば、非難されていたマルディアン帝国側から「ワイルズ侯爵は娘を隠し、帝国を非難していた」と言われかねない。
 何しろ帝国は、言いがかり同然の宣戦布告で攻めてきたのだ。

 それに父の元にいれば、エルナは新しくできる侯国の跡継ぎとして、南部の有力貴族で父と一緒に逃れた者の誰かに嫁ぐこととなる。
 そうなった時、現在の旗印として保護された旧ラトリア王族のセリニア王女は、新興国の邪魔になるのだ。

 王女は、暴虐で愚か者が多いラトリア王族の中では優しい性格で、エルナとも仲が良かった。
 彼女をこれ以上過酷な運命に突き落としたくはない。

(優しかったお父様は、お母様の死で変わってしまった)

 オルフに救われた時、エルナは父の暴走を止められなかった自身は地獄に落ちるものと覚悟していた。
 共にあったマーサが死んだのも、自分が至らなかった故だ。

 あの時はせめて、貴族としての誇りに殉じようと思っていた。

 でもオルフに助けられた時、エルナは「殺された命」を背負ってしまう。

(私を救うために殺された人間がいる。
 マーサも、私を襲おうとした兵士たちも。

 なら、生き足掻かなければ、彼らの命は無駄になってしまう。
 
 私には、自ら命を絶つことも、運命に身を任せて諦めることも…もう許されない)

 故に誓う。
 それが自己満足であろうとも…
 自分が横死するまで、癒せる傷を癒し、救える命を救いたいと。
 
 エルナは、心の底からそれを願っていた。
 
 
 その頃、シグルトはイルファタルを後にしようとしていた。

 身体は痺れと苦痛で悲鳴を上げているが、彼は常人が狂気に陥るほどの苦痛を、ただ顔をしかめるだけで耐えていた。
 
 不意に彼の前を一陣の風が駆け抜ける。
 軽く目を閉じ、そして開くと、黒い外套を纏った老婆が立っていた。
 
「…ほほ、これなるは刃金の如き英雄か。
 
 絶望に心を犯されながら、愛する女への未練を捨てきれず、どこを彷徨う?」
 
 謎かけのような言葉に、シグルトは苦笑した。
 
「では、人ならぬ御老体は、俺のような女々しい男に何の用だ?
 
 からかうには、俺はあまりに落ちぶれている。
 その価値すら無いだろう」
 
 シグルトが驚きもせずに淡々と述べれば、老婆は肩を震わせて低く笑った。
 
「さすがはオルテンシア…青黒き姫が末裔よ。
 
 その本質はすでにわしを見抜いておったか。
 精霊や女神どもが惚れ込むのも、よくわかる。
 
 儂の選んだ精霊の担い手と交差する、運命の男よなぁ」
 
 突風が吹き荒れるが、シグルトは動ぜずに、砂埃が目に入らないよう外套で風を遮った。
 
 いつの間にか老婆は消えていた。
 ただ、きらきらと銀色に輝く大きな羽根が一枚、ふわりと落ちてくる。
 
「行くがよい、南の地へ。
 碧い海、清水の姫君が眠る地で、お前は我が風とまみえるだろう。
 
 その身に尽くす心があるのならば、お前は死すら乗り越え、神霊の領域に足を踏み入れる。
 
 風は誘い、お前が纏う道標となる。
 この地で邂逅した獅子は、お前のかけがいの無い未来の友。
 
 お前が持つ宿命は、英雄の道と慟哭の離別。
 そしてお前が至るのは、その二つ名が持つべき刃の名を冠する絶技。
 
 麗しき刃金よ。
 風のように歩む者となれ。
 
 旅と仲間がお前を立ち向かう運命へと導くだろう」
 
 甲高い鳥の鳴き声。
 稲光が一閃すると、静寂が訪れた。
 
「ほほほ。
 
 風の后(きさき)様に導かれるとは、幸運な若者じゃて」
 
 新しい声にシグルトが振り向くと、小柄な老人が先ほどの銀の羽根を拾い、目を細めていた。
 派手な刺繍の服、身体のあちこちに飾り帯を巻いている。
 羽根を持つ手の甲には銀色の刺青。
 
「…今日はよく話しかけられるな。
 
 俺に何か用でもあるのか?」
 
 シグルトが尋ねると、老婆はあいまいに笑った。
 
「何、お主との再会はいずれ訪れる。
 
 お主が風ならば、わしは嵐を砕く獅子の同胞(はらから)。
 いずれまた、南の地で見(まみ)えよう。
 
 此度はその前触れよ」
 
 老婆は謎めいた微笑を浮かべたまま、手をかざして聞いたことも無い言葉を唱える。
 その手が輝き、冷たい空気があたりに満ちる。
 
 空気を白く染め、日の光に反射して、小さな妖精がふわりと現れると、妖精がシグルトに手をかざした。
 粉雪が舞い、柔らかな光がシグルトに降りかかった。
 一瞬シグルトは、心も身体も凍りついたように動かなくなる。
 
 嫌な感触は無かった。
 身体の中の不快な何かが、すっと消えていくような心地。
 
「…お主の苦痛と身体の毒を凍結したのじゃ。
 
 この先少しは楽な旅になるじゃろうて。
 礼は、すでにわしの未来の同胞を救ってもらったでな。
 
 また会おうぞ、刃金の勇者殿」
 
 嘘のように消えた身体の不調。
 シグルトが声をかける前に、その不思議な老人は踵を返して去って行った。
 
「…今日は不思議な婆さんによく会うな」
 
 シグルトは苦笑すると、今度こそイルファタルを後にした。
 
 
「うはぁ、まず。
 
 道に迷ったかなぁ…」
 
 フィリは困り果てた顔で狭い道を歩いていた。
 エルナと噂の美形のことを考えながら、適当に歩いていたせいか、ごちゃごちゃしたイルファタルの路地に迷い込んでしまったのだ。
 
(…うう、帰りが遅くなるとまたバッツに嫌味言われるし。
 
 どこか大きな建物を探さなきゃ)
 
 本来、方向感覚はよいフィリである。
 高い場所から地形を把握すれば何とかなるだろう。

 イルファタルは森とは違って、実に地形や建物が混沌としている。
 裏通りの小道は、まるで立体的な迷路のようだ。
 
 心境は半泣きで、フィリが周囲をきょろきょろと見回していると…
 
「お嬢ちゃん。
 
 道に迷ったんだね?」
 
 そこにはいつの間にか、上品そうな顔立ちの老婆が立っていた。
 突然の接触に、思わずびくりとなる。
 
「あはは、おばあちゃん、誰?」
 
 引きつった笑みで、フィリは恐る恐る聞き返す。
 
「わしか?
 
 わしはただの婆ぁじゃ。 
 この街でつまらぬ術を使い、少しばかり人助けをして日銭を稼いでおる。
 
 まあ、人は【精霊術師】なんぞと呼ぶがの」
 
 フィリはさらに顔を引きつらせる。
 
 この街に最初に来たとき、似たような変な老人がバッツの服装にいちゃもんをつけ、二人して沢山の取り巻きに囲まれてわけの分からない言葉で説教されたのだ。
 この手の人物とは関わらないに限る、とフィリは逃げる算段を考え始めた。
 
「ほほ。
 
 前にここに滞在しとったころ、岩の爺さんに因縁をかけられた二人組みの片割れじゃろう?
 
 わしはあのボケ老人とは違うから、安心するがよい。
 無意義な説教なぞ、わしも苦手じゃよ」
 
 優しい笑みを浮かべて、老婆はフィリの思考を止めた。
 
 フィリは、なぜ自分が考えていたことが分かったのが、青い顔で老婆を見る。
 
「怖がらんでよい。
 
 長年、人の相談を受けておったから、普通の若造より多少物事の察しがつくだけよ。
 お嬢ちゃんたちのことも、あれだけ長い時間往来で騒いでおれば、見かけることもあるじゃろう?
 
 ただ、それだけのことじゃて…」
 
 ゆっくり頷きながら、諭すように老婆は言葉を紡ぐ。
 その柔らかな声は、聞いていると安心させられる何かがあった。
 
「だいたいの見当はついておるじゃろうが、お前さんのように道に聡い者でも、このイルファタルの裏道は歩きづらいはずじゃ。
 
 迷いを司る森の王に仕える連中もここに住んでおって、この近くで祈りを捧げておる。
 その霊験は、慣れぬ者の方向感覚を乱すのじゃよ。
 
 婆が案内してやるほどに、よければついておいで」
 
 フィリは直感でこの老婆を信じることにした。
 不思議な雰囲気を持っているが、悪意は感じない。
 
 老婆は、おそらくその昔はたいそう美しい女性だったのだろう。
 皺のある表情すら、まったく醜いと感じさせない
 腰や背筋もすっと真っ直ぐで整っている。
 
 老婆がゆっくり歩く後をつけていくと、すれ違う人の何人かがありがたそうに頭を下げて礼をする。
 それに老婆は軽く手をかざして応えていた。
 
「おばあちゃん、人気者なんだね」
 
 フィリが何気なく言うと、老婆はおかしそうに肩を揺らした。
 
「なぁに。
 
 連中はわしに敬意を示しておるのではない。
 ただ、わしの使う術がありがたいだけじゃよ。
 
 …頼るだけの連中も問題じゃて。
 わしら術師の中にも、自身が特別じゃと勘違いした馬鹿がおる。
 
 世はなるように、神も精霊も泰然と有り、すべてはただの事柄に過ぎぬというのに。
 迫害を忘れた者も、利益に目が眩む者も、何れは苦難に自ら挑まねばならぬのが世の常。
 
 わしの人気など、人の欲の上に生まれた偽りのそれがほとんどじゃなぁ…」
 
 歩きながら、老婆はどこか遠くを見つめるように言葉を紡いだ。
 
 
 老婆の案内でフィリが無事宿に着くと、二階から言い争う声がする。
 
「うわ…案の定、喧嘩してる」
 
 少し品の悪い口調と、甲高いヒステリックな声は、バッツとコールのものだ。
 
 それを止めようと、オルフがなだめる声もする。
 
「…おばあちゃん、案内ありがとね。
 
 少ないけど」
 
 銀貨を数枚差し出すと、老婆はいらないと首を振った。
 
「わしにもちょいと用がある。
 
 お嬢ちゃんのは、そのおまけにしといてあげるよ」
 
 にんまり笑うと、老婆はさっさと二階に上がって行く。
 フィリは、状況が理解できずに首をかしげて硬直した。
 
 
「…黙って聞いてりゃ、恩着せがましい野郎だなっ!
 
 俺はもともとあんたになんか頼んでない。
 それを、さっきからねちねちと嫌味ばっか言いやがって…
 
 だいたい、あんたの船じゃなくてあんたの親父の船だろうが。
 
 俺はお前の手下でも召使いでもないんだぞっ!!」
 
 怒りをあらわにするバッツにも言い分がある。
 
 先ほどからコールは、バッツが暴れ馬の騒動のときに現場にいなかったことをなじり、終いにはバッツの盗賊としての勘がないと侮辱したのだ。
 加えてコールは、態度が悪いだの、下品だのと難癖をつけて、バッツを見下げたように扱った。
 
 つい先ほど、皮肉げな嘲笑をあびて、我慢していたバッツはついに激昂して怒鳴り返したのだ。
 
「ふん、貴方を乗せるなど、私のほうも御免こうむりたいですね。
 
 下賎な盗賊まがいの輩は、何をするか分かりません。
 船の乗員名簿からは外しておきますから、お一人でリューンまで歩いて行ってください。
 
 荷物の心配をしなくて済む分、水夫たちも安心して仕事ができるでしょう」
 
 困り顔のオルフが二人をなだめるが、火に油を注ぐようなものだった。
 あげくはどっちの味方をするか問われ、閉口してこめかみをもんでいる。
 
 エルナは先ほど気分が優れないと言って休んでしまった。
 
 二人の抑止力がなくなって、その後は嫌味の言い合いになり、口論にまでなってしまったのである。
 
「…まったく、子供みたいに騒いでいるねぇ。
 
 しかも、お仲間を困らすなんて悪い子のすることじゃよ」
 
 突然乱入してきた声に、三人は部屋の入り口に目をやった。
 
 不思議な格好をした老婆が立っている。
 
「…何だ、婆さん?
 
 俺たちの話に首を突っ込むんじゃないっ!」
 
 バッツがそういうと、「無関係じゃないんだよ」、と老婆はコールの方を向いた。
 コールは硬直して青ざめている。
 
「…コール坊や。
 
 わしはいつも口をすっぱくして言ってきたね?
 大方、お前さんがその盗賊の坊やをけなしてことが起こったんじゃろう。
 
 そういう偏見はやめないと、学の妨げになると教えたはずだよ。
 自由なる賢者を目指す男が、情けないことだねぇ。
 
 バラルズの旦那がお前さんを心配するのは、その危なっかしい性格と身勝手な態度だと、そろそろ気づくべきじゃないのかい?」
 
 老婆の言葉に、コールはすっかり項垂れている。
 
「…話の腰を折ってすまないね。
 
 この坊やの母親とは旧知の仲なのさ。
 そのおしめを交換したこともある関係なのさね。
 
 この子に文字を教えたのもこのわしでねぇ。
 
 でも、言い返していた盗賊の坊やにも、非はあると思うよ。
 本当の大人は、この程度のことには動じないものさね。
 …そこの大きなのが困ってるじゃないか。
 
 馬鹿にされないだけの自制心も必要だよ」
 
 正論を言われて、バッツも黙ってしまった。
 この老婆には、逆らえない不思議な雰囲気がある。
 
「…さて。
 
 コール坊やがお目付け役としてあんたたちを見つけたってのは、察しがついてるよ。
 それにお前さんがたが船に便乗するのも、いいことじゃろう。
 
 実は、バラルズの旦那が納得するために、わしが一肌脱ぐことになっての。
 コール坊やのお目付け役として、わしもリューンまで同行することに決まったんじゃ。
 
 おまけでさっき、お前さんたちの仲間のお嬢ちゃんを拾ってきたけどね。
 
 コール坊やにはこれ以上馬鹿にさせないから、盗賊の坊やは安心して船にお乗り。
 まあ、乗らなくてもいいけど、あと二週間は他の船は出ないよ。
 情報じゃ、一緒のお嬢さんを追ってるらしい、傭兵風の三人組がいるらしいから、ゆっくりしない方が賢明じゃないかね」

 もたらされた情報に、オルフとバッツがはっとした表情になる。
 
「コール坊やは、断れないことは分かっているね?

 お前の親父さんに泣きつかれたのを、わしが説得したんじゃ。
 断るならリューン行きは無いよ」
 
 あれだけ騒がしかった二人をぴたりと黙らせて、老婆はオルフの方を向いた。
 
「そういうわけで、よろしくの、大きいの。
 
 もう一人のお嬢さんには後で自己紹介するとしよう」
 
 すっかり老婆のペースとなったが、かろうじてオルフは尋ねた。
 
「…婆さん、いったい何者だ?」
 
 老婆はにんまりと笑って、その部屋の窓を開ける。
 冷たい冬の風が入り込んできて、部屋にいた一同、目が冴える気持ちになった。
 
「わしはニルダ。
 
 このイルファタルの精霊術師で、雪の精霊術を使う者じゃよ。
 足手まといにはならんから、安心おし」
 
 悪戯っぽい表情を浮かべ、その老婆は楽しそうに肩を震わせた。



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PC5:コール

2018.07.23(23:03) 467

 グロザルム統一帝国。

 一般には統一帝国と呼ばれる。
 千年ほど前に滅びたが、グロザルム・ラダニール地方すべてを治めていた大帝国である。
 帝都はこの地方の聖北教会の教皇庁が置かれる、聖エンセルデル市国にあった。

 まだ現在の聖北教会が無かった頃、グロザルム統一帝がまつろわぬ蛮族を打倒し、種族を超えた国を建てた。
 非常に優秀な魔法技術があったとされ、現在の下水技術や特別な魔法建築と、亜人たちの優れた力を借りて建立した施設や設備を数多く有していた。それらは西方諸国にも技術的影響を与えたとされる。

 しかし、数百年後に統一帝の後継問題で国内が割れ、魔法兵器を使った内乱が勃発し、国は荒廃。
 その後、聖北教会の登場によって帝都に教会が築かれ、教皇庁を後援とした貴族議員たちによる共和制に移行する。

 強くなり過ぎた教会勢力の影響は、腐敗した貴族政治のもたらす選民主義を歪め、いつしか神に造られたのではない亜人たちを人間ではないと差別し、それに異を唱えた皇族が、異種族への偏見は統一帝の意思に背くとして国を離反。

 件の皇族…統一帝の嫡流である第一皇女は、その当時南部からやって来た異種族の技術集団〈鐵の部族〉の首長と結婚し、西南部にあった亜人・異種族や部族をまとめ上げ、現在のイルファタルの地を王都と定めて、「最初の地」を意味するエアトリア王国を建国。
 これが俗に〈鐵の王国〉と呼ばれる古代王国だ。

 引き続いて、内戦の魔法兵器使用によって虐殺されたその地の遺児を率い、エアトリア王国に連動して第一皇女と仲が良かった末の第六皇子が興した国がツェフトリア王国…〈銀の王国〉である。

 〈鐵の王国〉と〈銀の王国〉は協力し合って、統一帝国西部を平定。
 統一帝国の魔法兵器を破壊して、聖北教会に圧力をかけ、亜人差別をやめさせた。

 この時、内戦の混乱に乗じて俗にダルトリア(三番目の地)という国を作ったのが、〈鐵の王国〉女王の弟で、帝位継承権第一位を主張する統一帝国第一皇子である。
 彼は立太子していなかったが、姉である第一皇女を「下賎と交わって血を汚した」として、教会と結託し非難。
 自らの立てた国を〈真なる地〉を意味するラトリア王国と呼称した。

 この連鎖的な建国ブームに乗って、統一帝国は完全に離散。

 妾腹の第三皇子が建国したフィアトリア王国(四番目の地)。
 東の貴族に嫁いでいた第二皇女を奉じて建国されたフェフトリア王国(五番目の地)。
 先帝が立太子させたものの、謀略で流刑にされていた皇兄によって建国されたザクトリア王国(六番目の地)。
 貴族無き共和制を訴え、皇族を一度は辞めた皇妹が女王となったゼハトリア王国(七番目の地)。
 武断の第四皇子が、高潔な騎士の国として打ち建てたエルトリア王国(八番目の地)。
 魔法兵器を嫌い、親戚降下して北に引きこもった第五皇子が賢者の学び場として建国したナルトリア王国(九番目の地)。
 そして、野心的な皇弟が建国したデントリア王国(十番目の地)。

 十の王国が次々と現れ、時の皇帝は悲観して憤死する。(皇弟が行った毒殺だったともいわれる)

 〈十王国時代〉と呼ばれたその頃から、元統一帝国の地は大陸全土に対して旧グロザルム地方と呼称されたが、ラトリアの初代国王が「自分たちこそが正当なグロザルム統一帝国の後継者である」として、他の国が統一帝国の名を名乗ってはならないとしたことが、東西地名分裂のきっかけである。

 後継の諸国には統一帝国の名を継ぐ権利がある、と先に建国した〈鐵の王国〉と〈銀の王国〉は主張し、ラトリア王国側の主張を却下、西部地域は堂々とグロザルム地方を名乗るようになった。

 激怒したラトリア国王は、できたばかりのデントリア王国(のちのマルディアン帝国)を焚きつけて、東西での名称継承問題に発展。
 この〈統一帝国名称継承論争〉は、教会勢力を巻き込んで泥沼化し、これを理由にした東側諸国の西部侵攻が行われた。
 しかし、異種族や亜人の高い技術と地形を利用して侵入者を退け、勝利したのは西部の側である。
 聖北教会の調停を入れ、晴れて西部はグロザルム地方を名乗ることとなった。

 このことを不服として、ラトリア王国とデントリア王国は東部諸国一帯に同盟を持ちかけ、東部をラダニール…〈真なる光〉を意味する地名としたのである。

 こういった歴史から、西のグロザルム地方と東のラダニール地方は、長い間潜在的な敵同士であった。

 状況が変わったのは、デントリア王国で政変が起き、彼の国が帝国を称した時代からである。
 新生デントリアは、十番目を意味する国名を不服としてマルディアン帝国に改名。
 すべてのラダニール諸国は、帝国の名の下に服従すべきである、とした。

 当然ラダニール地方の各国はこれに反発。

 特に帝国から「たかが三番目の王国」と見下されたラトリアは、マルディアンを非難して「十番目の僭主国」と侮辱し返し、長い両国の確執が始まった。

 マルディアン帝国のラトリア侵攻には斯様な歴史的事情もあった。


 オルフ一行が、西のイルファタルを目指すことを決めてから、二週間が過ぎようとしていた。

 ラダニール地方とイルファタルのあるグロザルム地方は、険しい山地と森が境界となり互いを隔てている。
 ラトリア王国から西に向かってグロザルム地方に入るには、二つの急流と二つの山地を越えねばならなかった。
 
 この時期、川幅の狭い二つの急流…ルフト川・メナス川は、乾燥による水位の減少と凍結によって、浅瀬であれば比較的渡河がしやすい。
 フィリが手斧で杭を作成し素早いバッツが先行してロープを張ることで、上手く踏破する。

 山地では狩人の娘で、サバイバル能力に通じたフィリと、そのあたりの植生に詳しかった元農民のオルフのおかげで、食料や道の確保に成功し、マルディアン帝国軍を撒いてグロザルム地方に入ることができた。

 大河に沿って森と山野を駆け抜ける、過酷な逃亡の旅は間も無く終わりを迎えようとしている。

「連邦に入って随分来たな。

 冒険者を装ったら、こんなにも簡単に越境できるなんて思いもよらなかったぜ」

 適当な岩に腰掛けると、オルフが一口水を飲みながら、額の汗を拭う。

「ラダニールって割と冒険者っていう職種がいないんだよね。
 そのせいで、国境警備の人は僕らが〈南の異邦人〉だって思ったみたい。
 出て行く分には問題ないって感じだったよ。

 あっちで冒険者の活動があるのは、東のアドルリア連邦やエルトリア王国ぐらいだし」

 フィリが不思議そうに首を傾げると、オルフがその理由を話す。

「ラダニールは昔から戦争が多いから、食い詰め者は兵士として徴兵されるか傭兵になるのが普通なんだ。
 魔物や山賊は軍隊や自警団が討伐する。

 マルディアン帝国の侵攻を、ラダニール諸国でも小国のクラウス公国が退けたんだが、それは公国があっちでも数少ない魔術師の育成機関を所有してて、特殊な戦力が得られたからだな。
 昔魔法兵器でドンパチして、グロザルム地方のクローネガルドにある〈魔の爪痕〉ってでっかい不毛の地ができたから、ラダニールは魔法使いに対して警戒心が強くて、魔術師や精霊術師の越境は厳しく制限されてるんだ。
 その分、魔法使い以外にはわりと緩い反応するのかもしれねぇ。
 俺のいたギマールは、少数の魔術師を取り込んで保護してて、だから強いってのもある。

 冒険者に偽装して出て行くやつらがいても、俺みたいなみすぼらしい格好のや、女(エルナ)に子供(フィリ)、戦士っぽくは見えない男(バッツ)の冒険者が流出しても、仮想敵国が弱体化するという意味で、諸侯国連邦にとっては歓迎されてんだろうな」

 フィリが持っていた通行証も、ちょうど四人組用のものであったことが幸運だった。
 まさか厳しい冬の川と山地を越えて、貴族や敗残兵が踏破してくるとは考えず、グロザルム地方の国境を守る兵士は、オルフたちが難民的な亡命でないこと、イルファタルに向かっていること、ちゃんとした冒険者が仲間にいたことを確認すると、驚くほど簡単に通してくれたのである。

 むろん、オルフとエルナは身元が割れそうな装備品を捨てて偽装していた。

 オルフは雪焼けで顔を汚していると、血の滲んだ包帯を顔に巻き(幾度かの戦闘で実際に負傷して本物の損傷は負っていた)、北方の気候に慣れてない様を装った。(この偽装方法はバッツの提案)
 エルナはバッツが調達してきた巡礼者用の衣装に着替え、無駄な装飾品は売って旅費に当てている。彼女の立場からすると、南にある父の治める領地か北の教会関連施設に行くのが筋であり、越境する理由を詮索されることは無かった。聖北教会の影響の強い北方諸国では、巡礼者には一定の敬意が払われるのも援けとなっているのだろう。

 二人が、冒険者が主に使う大陸公用語を読み書きできたことも、各国を旅して言語に明るい冒険者らしい、と受け取ってもらえた。

「エルナさんはともかく、あんたがバドリア語とギマール語、大陸公用語まで読み書きできるのは驚いたよ。最初に言ってくれればあそこまで反対しなかった。
 人が悪い話だぜ。

 貧農出身とか言ってるが、普通は字が読めないどころかまともに話せない農民だって多いんだ。
 どこの教養人だよ!」

 バッツが毒づく。
 彼がオルフを切り捨てようとした理由の一つが、下級兵士然とした教養を懸念したからだ。
 習得した言語や習慣はどんなに隠しても態度に出る。

 話してみると、オルフは言語以外にも算術や地理の知識、厳冬期の北方におけるサバイバル術に通じており、今回の逃亡で随分活躍していた。
 防寒に顔を覆うことも大切で、雪道で目を焼かれないように保護する方法や、寒気を一気に吸い込むと肺を傷めるのだと、戦場で野宿しつつ培った知識を披露する。
 力も強く、荷物運びの強力としても仲間を助けていた。

「まぁ、ラダニールの言葉はもともと統一帝国で使われてた北方なまりの公用語が元だからな。
 文法や単語がほとんど同じなんだよ。

 収監所で強制労働の最中は暇だったから、読み書きを教えて爺さんと単語の発音の練習をしながらツルハシ振るってた。
 やることが無くて二年近く毎日使ってりゃ、俺みたいなとんまでも案外言葉を憶えるってことだ。

 俺に読み書きや学問を教えてくれた爺さんは、ギマールにはよくいる政治犯ってやつで、収監所では知識人として尊敬されてた。
 爺さんが死んですぐに戦争に駆り出されたんだが、文字や算術がこんなに役立つ者とは思わなかったぜ。

 で話を戻すけど…あと一日も行けばイルファタルの国境だ。
 
 随分な強行軍だったが、なんとかなったな」
 
 今回の逃避行は、本業の冒険者である二人にも過酷だった。
 特に北方の冬は尋常ではなく寒い。
 
「…はは、寒さなんてものは嫌なだけなものだと思ってたけど、水がぬるくならないのはいいよね」
 
 フィリが泥と煤で汚れた顔を拭いながら、オルフと同じように体温で温めた水をゆっくりと飲んでいる。
 
「エルナさんが山道に文句を言わなかったのはありがたかったな。
 
 これだけ無茶をしたというのに…たいした方だ」
 
 バッツが周囲を警戒しながら、呟く。
 
「ああ。
 
 だがかなり無茶をさせた。
 これ以上急ぐと、野外慣れしてる俺やフィリも持たない。
 
 しばらくここで休憩しよう」
 
 そう言ってオルフは、毛布に包まって寝息を立てているエルナを眺めた。
 
 エルナは気丈な娘であった。
 オルフでもきついと感じる速度に、歯を食いしばって付いて来たのだ。
 仲間たちも彼女の意志の強さを心から賞賛していた。
 
 つらい旅も間もなく終わる。

 イルファタルは独立都市国家であり、他地方の軍装をした兵士が入ることはできない。
 その手の軍隊をひどく嫌う国柄なのだ。
 戦争より商売と交易を重んじる海の都である。
 
「イルファタルかぁ。
 
 あそこなら、おいしい肉料理を食べられるね。
 由緒正しい歴史があるけど、気候も穏やかだし、異民族や亜人にも寛容なんだよ。
 エルフやドワーフがあんなに見られる国って少ないんだよね」
 
 イルファタルは近くにウッドエルフの集落があり、衣料品や金属と森の幸の取引をしている。
 エルフ制の弓や薬は良質で、貴重だった。
 
 近しいツェーンツヴェルク連邦の山岳部にはドワーフたちが住み着いていて、よく交易に訪れる。
 彼らは優れた鉱山夫であり、良質の銀や鉄をイルファタルにもたらしていた。
 
 ラダニールやリューン近郊で強い影響がある聖北教会ではなく、イルファタルにある教会は聖海教会である。
 主に、西方南海で盛んに信仰される聖海教会だが、異国の神を聖人として取り入れるなどの柔軟性はイルファタルの気質にあっていた。
 加えてこの国は、癒しの秘蹟を多く残した聖海教会の聖女オルデンヌ縁の地だ。
 オルデンヌは、聖海で列聖された聖女であり、異教徒や異端的とされる精霊術師たち、さらには亜人との交流もあったとされる人物である。
 
 聖女の意思を引き継ぐ、というスタイルなのか、このイルファタルは異邦人や異種族にとりわけおおらかな国であった。
 独特の文化があり、旅人用の無料診療所や格安の宿、さらには異種族の職業斡旋を助ける組合などがある。
 他の地では聖北教会の影響で勢力の弱い精霊術師たちにも寛容で、彼らの聖地でもあった。
 
 イルファタルから海を渡った秘境の島にはアヴァロニアと呼ばれる場所があり、樹海の中に大きな淡水湖があるとされる。
 獅子の王が最後にいたった妖精郷に因んでいるとされ、多くの亜人や妖精が生息していた。
 そこでは、上位精霊“湖の貴婦人”モリガンと契約した大精霊術師であるアリエスがおり、水の精霊術師たちにとっては一大聖地である。
 アリエスは来る者を拒まず、出会えればその精霊術を授けてくれるという。
 
「争い無き、自由の国か。
 
 早く見てみたいものだな」
 
 オルフは空を仰ぎ、夢の都と聞いているイルファタルを思った。
 
「…ま、そんなにいい国でもないさ。
 
 あんまり期待すると肩透かしを食らうぞ。
 今じゃ人口が増えすぎて、人間と亜人の諍いがよく起きるし、精霊術師同士の主義の違いから小規模の小競り合いが起きることもある。
 
 イルファタルじゃ、シャーマン、つまり精霊術師は一種の特権階級さ。
 坊さんと同じように権力に固執する奴や、細かい儀式や主義を周囲に強制してあおる馬鹿もいる。
 さらには、魔法使いや呪術師がそれにからむからな。
 
 迷信深い国ってのも、考え物だよ」
 
 バッツは肩をすくめる。
 
「初めてあの国に入ったときは、俺が額に巻いてる布が悪い色だって、変な爺さんと取り巻きにつかまって訛りの強い言葉で一刻(二時間)も説教聞かされたしな。

 あれにはまいったよ」
 
 額のバンダナをなでながら、バッツがぼやくと、フィリが二へへと笑う。
 
「結局、あのときは途中で逃げちゃったんだよね。
 
 また捕まらないように、気をつけなきゃ」
 
 にぎやかに話しながら、一行は和やかに休息を終えた。
 
 
 さらに一週間後、一行は無事イルファタルの国境を越えることができ、国内をさらに西に進んでいた。
 
 この国の国土は狭い。
 しかし、様々な亜人や妖精の住む森や平原に面し、そういった独立した場所との同盟関係を勢力図にすれば、ち大国を凌ぐ広さになる。
 豊かな緑と、北方特有の寒冷な気候。
 様々な宗教や種族、文化の坩堝である。
 
 この国ではとりわけ魔術師や精霊術師が多い。
 妖精や亜人と共に精霊術を学び、自然と生きる者たちや、自由な国風に学問の自由を求めて集結した隠者たち。
 
 混沌としているが、束縛の無い場所である。
 
 だが、そういった文化圏ではならず者も多い。
 海賊まがいの蛮行で生計を立てる荒くれ者や、南で犯罪を犯し逃亡してきた者、外道の魔術に手を出して国を追放された呪術師。
 そういったものたちも流れてくる土地だった。
 
 北方の重要な港を持ち、解放された文化であるが故の弊害である。
 
 一行は文化の入り乱れる賑やかさに目移りしながら、今宵の宿を探していた。
 
「…聞きしに勝る盛況ぶりだな。
 
 こんな賑やかな街は初めてだ」
 
 感心したようにオルフが呟く。
 
「田舎者丸出しだぞ。
 
 リューンにいけばもっと華やかな場所もある。
 ま、ここほどごちゃごちゃした街じゃないがな」
 
 いつの間にか手に数本の肉串を持ち、仲間に配りながら、バッツが要所を説明してくれる。
 
「あそこが賢者の学院。
 
 西方のカルバチアにある魔道学院よりは小さいが、集まってる人材は一級だって話だ。
 噂じゃ、空から星を降らす術を習得した大魔術師がいたって話だがな。
 
 で、あれが精霊宮だ。
 この街の精霊宮はリューンより大きい。
 ま、精霊術師やエルフがたくさんいるから、当たり前なんだろうが。
 
 あっちがこの国で最大の聖海教会の聖堂だ。
 聖オルデンヌ教会って言うんだ。
 
 昔話があってな…
 ずっと昔にオルデンヌっていうすごい聖女様がいて、たくさんの人を救ったが、聖女様は若くして亡くなってしまうんだ。
 残った僧侶たちは聖女様から奇跡を戴こうと、その御遺体をめぐって言い争うんだが、突然大風と共に現れた妖術師が聖女様の御遺体を盗んでしまったんだ。
 困り果てた僧侶たちは、聖女様が纏っていた僧服を棺におさめて、このことを嘆いたんだが…
 その棺の下から突然水が湧き出し、その水は人の難病を癒したんだそうだ。
 後の人々は、聖女様の魂はここにとどまって人を守ってるんだと感動し、ここにあんな大聖堂を建てたってわけだ。
 
 残念ながら、湧き出した泉には聖域で入れないし、泉の水は万能の薬とかで教会が高い寄付金と交換に売ってくれるらしいけどな。
 
 なんでも聖女オルデンヌは聖海教会で、異教や精霊信仰とともに歩んでいくことを説いた穏健派では有名な聖女らしくてな。
 女だから、教会の派閥によっては列聖をどうするか諸説あるんだが、人気のある偉人らしいよ」
 
 オルフが感心して頷く。
 
「ふふん、知ってるんだよ~。
 
 バッツ、エルナさんにいいとこ見せようとして、徹夜で覚えたんだよね、それ」
 
 青筋を立てて怒るバッツから逃れ、フィリが舌を出してからかう。
 
「ふふ、それでもこれだけのことを一晩で調べるなんてすごいわ。
 
 聖女オルデンヌ。
 その行いの素晴らしさは聞いたことがある。
 
 聖北教会にも、彼女のような人物がいたら、歴史も変わっていたでしょうね」
 
 眩しそうに大きな聖堂を見上げながら、エルナは遠い目をした。
 
 
 しばらく行くと噴水に行き当たり、そこで一行は一休みすることにした。
 バッツとフィリは宿を探すといって、オルフとエルナをここで待たせている。
 
 噴水の縁には二人の先客が座っていた。
 
 一人は杖を持ち、複雑な刺繍の長衣を纏っている。
 淡いブロンドの髪と、尖った小さな耳。
 
(ありゃ、ハーフエルフってやつか?
 はじめて見たぞ…)
 
 その男は長衣から小さな本を取り出し、一心不乱に読んでいる。
 
 ハーフエルフとは亜人とも妖精とも言われるエルフという種族と人間の間に生まれる混血種である。
 エルフほど長命ではなく、人間ほどがっしりした体格ではない。
 二つの種族の特徴を中途半端に持っている。
 場合によっては鬼子として迫害されるが、このイルファタルでは普通に過ごしているのだろう。
 
 興味深げに観察していると、その男が不意に顔を上げて迷惑そうにオルフを睨んだ。
 神経質そうな顔立ちである。
 
 オルフはばつの悪そうな顔でごまかし笑いをすると、もう一人の男を観察することにした。
 見るとエルナは、じっとその男の方を見つめている。
 
 興味をそそられ、オルフが男に視線を移す。
 
(…こりゃまた。
 
 なんかやつれちゃいるが、すごい美男子だな)
 
 まるで噴水と一つになったように、泰然としているその男は、目の覚めるような美青年だった。
 
 無頓着な髪型だが、白い肌に映える青黒い髪。
 髪と同じ神秘的な深い色の瞳。
 すっと整った鼻梁、凛々しい口元の造形は端整で、女性もたじろくような美貌である。
 背が高く股下の足も長い。
 引き締まった筋肉と広い肩幅は美しさとは別に、この男をより男性らしく見せていた。
 
(ま、エルナも女の子ってことだな。
 
 あれだけ美形なら、若い娘は騒ぎ出すだろう)
 
 ほほえましい心持でエルナを見る。
 だが、エルナは見惚れてぼんやりしている様子はなく、どこか心配そうに男を眺めていた。
 
「…どうかしたのかエルナ?
 
 あの男にあやしい点でも…」
 
 オルフが小声で聞くと、エルナは首を横に振った。
 
「あの男の人、苦しそうだわ。
 
 額に脂汗をかいているし、マントで隠しているけど胸を押さえているの。
 顔も少し蒼白だし、どこか具合が悪いのかしら?」
 
 オルフはエルナの慈愛深さを見くびっていたことに反省し、あらためて男を見た。
 最初から美しさと一緒にやつれた印象のある青年だった。
 
 よく見れば男はただでさえ白い肌から、さらに血の気を失っている。
 唇は艶を失い、肩が小刻みに震えていた。
 よほどの苦痛を耐えているのか、噛み締めた唇から血がにじんでいる。
 
「ありゃ、そうとう悪そうだな。
 
 声をかけてみるか?」
 
 エルナが頷いて立ち上がる。
 彼女が青年に近づき、声をかけようとした、まさにその時…
 
「あ、暴れ馬だぁ~!!!」
 
 周囲がにわかに騒がしくなり、オルフとエルナは思わず騒ぎの起こっているほうに注目した。
 
 一頭の黒い馬が、よだれを垂らしながら全速力で走ってくる。
 周囲のものをことごとく踏み砕く、凄まじい勢いだ。
 向かう先は丁度、エルナがいる方角である。
 
(まずいっ!)
 
 あっけに取られた数秒、反応が遅れてしまった。
 エルナがはっとしたとき、すでに暴れ馬は彼女の間近に迫っていた。
 
(くそっ、間に合わねぇ!!!)
 
 必死で駆け寄ろうとするが、すでに遅かった。
 暴れ馬は前半身を振り上げ、邪魔なエルナを蹴り倒そうとした。
 
 反射的に目を閉じるエルナ。
 誰が見ても手遅れだった。
 
 馬の蹄が振り下ろされ、もうもうと土埃が舞う。
 
「《眠りをもたらす白雲よ、抱いて沈めまどろみの底に…眠れっ!!!》 」
 
 少し高い男の声。
 土煙の中から現れた黒馬は、よたよたと数歩進んで崩れるように倒れた。
 
「エルナァッッッ!!!」
 
 絶望的だと知りつつ、オルフは纏った襤褸で土煙を払いながらエルナのいた場所に駆け寄った。
 周囲の者たちも騒ぎを聞きつけて走ってくる。
 
 数人が馬を取り押さえ、他の者たちがオルフに続いた。
 
 
 エルナは目を閉じた瞬間、大きな何かに包まれたような気がした。
 
 いつまでたっても襲ってこない痛み。
 とても力強い、暖かな感触。
 土の匂いの混ざった、どこか安心できる薫り。
 
(お父様…)
 
 小さな頃によく抱き上げてくれた、大きな腕。
 父の抱擁を受けているような安堵感。
 
 エルナはその安らぎの元を知ろうとして、目を開けた。
 
 彼女はしっかりと抱きかかえられていた。
 決して不快ではない汗の臭いと、顔の触れている皮の外套の感触。
 
 彼女が顔を上げると、先ほど苦しそうにしていたあの青年が、心配そうにエルナを見下ろしていた。
 
 ポタリ…
 粘ついた赤いものがエルナの頬を濡らした。
 
 青年の額が浅く裂け、血が頬を伝わりエルナに降りかかったのだ。
 
「…すまない。
 
 顔を汚してしまった」
 
 青年は苦笑いすると、そっとエルナを立たせてくれる。
 そして、いささか乱暴に自身の額の傷を手ぬぐいで拭くと、さっとそれを巻き、服のすそでエルナの頬に付いた血を拭いてくれた。
 
「…あっ」
 
 エルナが何か言おうとする前に、青年はそれを制するように言葉を発した。
 
「ああいう時、目を閉じてはいけない。
 
 賑やかなところほど、馬による事故は多いからな。
 女でも子供でも、巻き込まれることだから、気をつけたほうがいい」
 
 青黒い瞳の青年は、優しげに微笑むと踵をかえした。
 
「待ってくれっ!」
 
 そこに、事情を察したオルフが駆け寄ってくる。
 そのときには、土埃はたいがい晴れていた。
 
「すまねぇ。
 
 連れが助けられたな。
 恩に着る。
 
 …怪我したのか?」
 
 オルフは簡素だが心から礼を言い、あらためて青年が血の滲んだ手拭を額に巻いていることに気がついた。
 
「大した傷じゃない。
 
 まず、その女性に怪我が無いか確認したほうがいい。
 どこか打ち身でもあれば、後で腫れる。
 
 それに、礼を言うのは俺だけでは不足だ。
 後ろの御仁が魔術を使ってくれなかったら、もっと惨事になっていたかもしれんからな」
 
 そう言って、青年は、先ほど【眠りの雲】の魔術を用いて暴れ馬を眠らせた、ハーフエルフの男に軽く会釈をした。
 
「…大事にならなくてよかったです。
 
 そちらの女性は大丈夫ですか?」
 
 紳士的で上品な口調だった。
 少し顔が上気しているのは、エルナの美しさを目の当たりにしたからだろうか。
 
「はい、私は平気です。
 
 助けてくださって有難う御座います」
 
 エルナが頭を下げると、ハーフエルフの男は、白い顔を真っ赤にしてしどろもどろに、当然のことをしたまでです、と答えていた。
 
「ありがとうよ。
 
 正直、あの馬が前足を振り上げたときはだめかと思ったぜ」
 
 オルフも頭を下げて礼を言う。
 
「いや、無事で何よりです。
 
 それより、そこの方は怪我をされたようですが…」
 
 ハーフエルフの男は照れ隠しか、話題を青年の方に振った。
 
 先ほどの傷は塞がっていないらしく、手拭いに滲んだ血の染みが広がっている。
 
 青年がまた大丈夫だと言おうとした時、エルナが側により、聖句を唱えて手を青年の傷痕にかざした。
 痛みが引いたことに少し驚いた青年は、手拭いを取る。
 額の裂傷は綺麗に消えていた。
 
 さらにエルナは聖句を唱え、そっと青年の胸に触れる。
 少し青ざめていた青年の顔に、血色が戻ってきた。
 
「…感謝する。
 随分楽になった」
 
 今度は青年が礼を言った。
 
「あんた、さっきから調子が悪そうだったが、病気か?」
 
 オルフが尋ねると、青年は苦笑して首を横に振った。
 
「己がいたらなかった代償だ。
 
 寒さがどうもいけないな。
 いつもは休んでいればおさまるんだが」
 
 はらりと青年の腕から何かが落ちた。
 黄ばんだ木綿の布だ。
 両腕にそれを巻いていたのだが、片方がさっきの衝撃で切れてしまったのだろう。
 
 そして覗いた青年の地肌。
 
 エルナは衝撃を受けて両手を握り締めた。
 
(…こりゃ、ひでぇ)
 
 オルフも思わず顔をしかめた。
 
 うじゃじゃけた傷痕。
 肉が盛り上がって治りかけてはいるが、一生その傷痕は消えないだろう。
 ケロイド状に腕を抉っているそれは、縄のようなものが肌に食い込んで化膿した痕だ。
 
「すまない。
 
 見苦しいものを見せてしまった」
 
 また苦笑して、傷痕を隠す。
 青年はあらためて自身の不調まで治してくれたことに感謝の意を示し、エルナに礼を言うと立ち去ろうとした。
 
「待ってくれ。
 
 俺はオルフ、ラインドの子、オルフだ。
 名を尋ねてもかまわないか?」
 
 オルフが呼び止めると、青年は振り返って、少し考えるように天を仰いだ。
 そして、まっすぐにオルフを見据え直す。
 
「シグルト。
 
 俺には分不相応だが、親から貰った名前だ」
 
 男は伝説の龍殺しと同じ名を名乗り、一礼して去って行った。
 
「…絵になる方ですね。
 
 ああいうのを勇者と言うのでしょうか」
 
 ハーフエルフの男がため息混じりに呟いた。
 
「…あんたにも名を尋ねていいかな?
 
 もう一度名乗れといえば、あらためて名乗るが?」
 
 オルフがそういうと、男は名乗りは不要だと首を振った。
 
「私はコールディン・バラルズ。
 
 このイルファタルで商人をしている者の息子です。
 もっとも、私は商人の道ではなく、知識を求める賢者を志していますが。
 
 見ての通り、エルフの血を引いています。
 
 どうやら先ほどの不躾な視線は、差別の目ではなかったようだ。
 貴方の礼節に免じて、あの無礼は許しましょう」
 
 やや高慢な言葉であるが、品のある態度であった。
 
「すまねぇ。
 
 何分田舎者だから、エルフやハーフエルフを見るのは初めてだったんだ。
 俺は東の出身なんだが、あっちは妖精とか魔法とかは珍しいんだよ。
 
 俺に字を教えてくれた人が、エルフもハーフエルフも魔術師もおんなじ地上に生を受けた命だから、偏見を持つなって教えられてたが、物珍しいって気持ちはどうにもならなくてな。
 
 気分を悪くしたなら謝るよ」
 
 オルフのような大男が、頭をかきながら謝ると実に滑稽だった。
 男は愉快そうに微笑むと、許します、と頷いた。
 
「ところで、あなた方はなぜこんなところに?
 
 随分前からこの噴水にいたようですが…」
 
 男の問いに、オルフは宿を探しにいった仲間を待っていると答えた。
 そして、東からわけあって流れてきたことと、南のリューンを目指していることを告げる。
 
 男は興味深そうに聞いていた。
 
「なるほど。
 
 そうなると、船を探さねばならないでしょう。
 私の父の商会はリューンとの交易に関わっています。
 もしよかったら、私が間に立って差し上げましょう。
 
 知り合った以上、最後まで義理を尽くすことが私の母から受けた教えなのです。
 御婦人には親切にすることも。
 遠慮は要りませんよ」
 
 渡りに船の話に、オルフは感激して何度も礼を言った。
 エルナも感謝の言葉を述べる。
 
「待ってください。
 
 その代わりといってはなんですが、私も貴方たちにお願いしたいことがあるのです」
 
 交換条件を提示されて、オルフとエルナは顔を見合わせた。
 
「何、難しいことではありません。
 
 私もリューンに行きたいのです。
 あの都市はこのイルファタル以上に大きく、大きな図書館もあるとか。
 何かの機会に、リューンに行けるように父に頼んでいたのですが、一人ではだめだと頑固でしてね。
 
 同行者として船に乗っていただく…それが条件です。
 貴方のような立派な体格の男性が一緒なら、父も納得するでしょう。
 
 成人して随分立つのですが、父の過保護ぶりにはいささか閉口しているのです。
 私は新しい知識を求め、新しい世界に旅立ちたいと日々願っているのですが」
 
 そう言って男は空を見上げた。
 
「私のことはコールと呼んでください。
 
 よろしくお願いします」
 
 再び視線を二人に戻し、男は自身の尖った耳の先を軽く撫でた。



⇒PC5:コールの続きを読む

Y字の交差路


タイトル画像

PC4:バッツ

2018.07.23(15:21) 466

 フィリの案内で、オルフとエルナはラトリアの国境を目指していた。
 
 陽気でおしゃべりなフィリという少女、小さい見かけによらずタフで、野外生活においては高度な技能を持つ人物であった。
 鈍感で楽天的な部分もあるのだが、優れた感性も備えており、狩人の娘というだけはある。
 
 十二歳の平均身長から見れば、女子でも低いほうだろう。
 しかし、意外な膂力を持つことは、邪魔な茂みを手斧で軽々と薙ぎ払う様子から感じ取れた。
 
「フィリは、力があるな。
 
 この手の草木はかなり硬いだろに」
 
 オルフが感心したように言うと、ニカッと笑ってフィリは力瘤をつくった。
 
「これでも、父さんが取ってきた獣の皮を剥いだり、薪作ってたからね。
 
 あと、使ってるのが手斧だからさ。
 
 この手斧はその頃から愛用してるんだけど、便利だよ。
 ボクみたいに身体が小さくても、得物自体が重いと威力も増すし。

 今は得意な弓の弦が切れちゃって…ボクの頼れる相棒はこれだけだよ。
 
 短剣やナイフもほしいんだけど、ちょっと財布が寂しいからね。
 お兄さんも、すぐ折れる剣や槍より、斧にしてみたら?
 その体格なら、両手持ちの斧でも軽々と振り回せるでしょ?」
 
 オルフは立派な体格をしている。
 背丈は二メートル近い。
 十分、大男の部類に入るだろう。
 
「…まぁな。
 
 俺は元農民だったから、斧よりは鍬か鎌の方が使い慣れてる。
 人を殺すためには使いたくないけどな。
 
 剣を使ってるのは、俺に武術を教えてくれた旅の戦士が剣術使いだったからだ。
 といっても、技を一つ習っただけだがよ。
 
 正直言って、剣はまともな道具にもならねぇし、槍に比べりゃ短ぇな。
 斧みたいに頑丈でも無し、ナイフみたいに小回りも利かねぇ。
 …それでも剣を使う奴が多いのは、戦いにおいて最も汎用性のある形、だからだそうだ。

 支給される武器っていや、剣か槍だったしなぁ。
 
 どんな状況でも、使い手の技がありゃ、いろんな使い方ができる。
 槍は狭いところじゃ使えないし、斧は敵にぶち当てるのが少しばかり難しい。
 かといって、ナイフみたいな小せぇ得物は、敵を倒すにゃ小さすぎる。
 けど、難しい御託なんて言っても様にならねぇよな、俺じゃ。
 
 とどのつまり、俺が剣を使ってるのは、このがたいと腕っ節でも簡単に扱える〈平凡〉な武器だからさ。
 
 聖北の坊さんが言うにゃ、剣は形が聖印に似てるから持ってると落ち着くんだそうだがな。
 
 俺は…効果的な武器をとっかえひっかえするほど慣れたくねぇ。
 殺傷する武器は、手に一本ありゃ十分だよ。
 
 だから結局、武器も戦う技ってのも、生き残るためにこいつが扱えりゃそれでいいのさ」
 
 オルフは腰に下げた剣を、かちゃん、と軽く叩いた。
 
 
「これは…
 
 間違いありません、エルネード様のお側付き侍女、マーサです」
 
 アレクセイは、転がっていた死体でただ一人だけ外套で覆われていた老婆の顔を確認し、白い貌をさらに青白くして言った。
 
「…ということは、カーティンの姫様は生きてるってことだな。
 
 それに、この婆さんを殺したのはここに転がってる兵士どもだ。
 婆さんは正面から斬られた口だが、兵士どもは剣も抜けずに後ろから殺られてる奴がいる。
 典型的な不意討ちだな。
 
 殺された兵士どもの死体は、どれも力任せなやり方で殺されているが、存外いい筋をした奴だ。
 特に、この隊長格を鎧ごと袈裟斬りにした技…“焔紡ぎ”の【担ぎ颪】かもしれねぇ」
 
 死体を検分していたナルグは、苦い顔をして言った。
 
「…“焔紡ぎ”?」
 
 アレクセイが聞くと、ああ、とナルグが頷く。
 
「“焔紡ぎ”ワディム。
 
 北方の戦場じゃ、知らねぇ奴は笑われるぜ。
 
 俺も若い頃、南の方の戦場で会ったことがあったけどよ…
 腕っ節は、俺より上だった。
 今でも正直、勝てるかわからねぇな。
 
 最近じゃめっきり名前を聞かねぇが、北方じゃうちらの団長と並び称されるほどの剣豪だ。
 
 戦争が無い時は、少しの間同じ場所に留まって、駆け出しの将兵に技を指南して銭をもらうような副業もしてたからな。
 あの男の弟子なら、こんなお粗末な腕じゃねぇだろうが。
 技を聞きかじった程度の奴かもしれねぇ。

 まぁ、油断はするなよ」
 
 アレクセイは目を丸くした。
 ナルグは強い。
 その剣術はラダニールでも一流といえるだろう。
 
 〈雪狼団〉で最強なのは団長のビュリカだというが、実際にアレクセイが見た最強の男はナルグである。
 その男にここまで言わせる“焔紡ぎ”と、その剣士の技を使う者。
 
 ぶるり、とアレクセイは身体を振るわせた。
 頬は少し引きつっている。
 
(…そんな荒くれがエルネード様と?
 
 く、こうしては!!!)
 
 駆け出そうと、マーサの死体の側から立ち上がったアレクセイをナルグが引き止める。
 
「だが、解せねぇこともある。
 
 何でこの婆さんだけ、丁寧に扱っていたかだ。
 まずマルディアンの連中で無いことは判ってるが…
 俺たち傭兵やギマールの鉄血兵どもにゃ、こんなしゃれた甘いことをする奴はいねぇはずだ。
 
 かけてあった小汚ねぇ襤褸だが、多分元はギマールの歩兵が持つ厚手の外套だ。
 こんな状況で身の回りの物を使うなんて、足が付く。
 よっぽどの甘ちゃんか、度の過ぎた阿呆か、戦場を知らねぇ素人だろう。
 
 物を取ってるが根こそぎじゃねぇ。
 必要最低限、小銭と携帯食だ。
 金目のロザリオとか、この連中が修道院から盗んだものには手をつけてねぇから、欲じゃなく必要に迫られてやった口だ。
 物取りとして盗んだ物からバレないように考えてるならそれなりに頭の良い奴だろうが…無いな。
 他の痕跡が分かり易い。
 
 やったのは一人だ。
 足跡がでかいし歩幅があるから、がたいはかなりのもんだな。

 奇襲された最初の兵士は健が折れてるな。
 やっすい剣使ってたんだろうよ。
 みろよ、まるで鋳物だぜこれ。

 こりゃあひでぇ、剣が骨にめり込んで止まってやがる。
 緊張してたんだか、たぶん刃筋が寝てたな。

 やり合いのセンスはいいが素人臭がしやがる。 
 この程度の太刀筋で、武器はしょぼい襤褸着てた食い詰めの兵卒が、物取りで兵士五人を敵にするなんてのはドのつく間抜けな話だ。
 
 怪我もしたみてぇだな。
 途中で血痕が無くなってるから、治療したんだろうが…
 これだけの出血をする怪我をして、娘一人連れて逃げるなんてできねぇぞ?」
 
 少ない情報でこれだけのことを予測したナルグは、さすがは歴戦の傭兵だけはある。
 
「…そういえば、エルネード様は司教様もお認めになるほどの信仰心と不思議な力を使うそうです。
 
 癒しの秘蹟、【癒身の法】でしたか。
 ラダニールでは聖なる奇跡を起こせる聖職者自体、数が少ないそうですから。
 エルネード様は将来、女性でこの辺りでは最初の上位聖職者になれるのではと噂されていたほどです。
 
 その力を使って傷を手当したのなら…」
 
 アレクセイの言葉に、ナルグはさらに渋い顔をした。
 
「そうだとしたら、もっと解からねぇ。
 
 …お姫さんはその男を治したのか?
 ギマール人なら敵国の輩だぞ?
 
 しかも、マルディアンより先に戦争吹っかけてきて、王政や貴族制を何より忌み嫌う国だ。
 生粋のラトリア貴族にとっちゃ、マルディアンより憎たらしい敵のはずだぜ」

 あっ、とアレクセイもそのことに気がつく。
 
「〈政教分離〉を唱え、唯一ラダニールで聖北教会の権力を排斥し、法王庁から破門されたあのギマールだ。
 
 俺たちがマルディアンについたのだって、お前らガチガチの聖北教徒どもがギマールの仕事を嫌ったから、団長が気ぃきかしたんだぞ。
 そんな奴らに、お姫さんが素直に従うと思うか?」
 
 ギマール共和国は軍事拡張において、ラダニールで影響力の強い聖北教会の干渉を退け、聖職者という職業を無くしてしまった。
 それはあくまでも、聖職者からその地位と資格と特権を取り上げ、信仰そのものを排斥したものではなかったが、周囲の国家にとってそれは驚愕の事件であった。
 
 ギマールは他にも貴族や王侯の存在を否定し、軍隊の階級以外の身分制度も全て廃止している。
 貴族、加えて聖北教徒であるカーティン侯爵家にとっては忌むべき国のはずだ。 
 
「し、しかし、エルネード様はお優しい方です。
 
 きっと慈悲の気持ちで治したのでは?」
 
 アレクセイの言葉に、ナルグは首を横に振る。
 
「あのワイルズ将軍の娘が、そんなに浅はかとは思えねぇが…
 ま、仮にそうだとして、だ。
 
 一緒に行動する理由はなんだ?
 
 たとえ命の恩人が相手でも、敵国に素直に捕まるようなことはしないんじゃねえか?
 エルネード姫は聡明で思慮深い人物だと聞いている。
 
 その姫さんが素直に従ったってことが…助けた奴の腕の素人加減と、臆病な兵卒がとるような行動と噛み合わねぇ。
 姫さんを助けるために、ギマールに忍び込んだ将兵なら、腕はもっと立つはずだ。
  
 姫さんは自分を助けてくれて、この婆さんに外套をかけた奴を信頼してついていったってことか?
 怪我した、ギマールの一兵士に?
 
 どっちも分かれて行動すべきだろうに、取られた水袋や食料は二人分。
 
 なんで二人で行動する必要がある?
 
 そこが、解からねぇ。

 …考えられんのは、傷を手当した姫さんを人質としてかっさらったか、美人だったからかっさらった…
 っておい、予想なんだからそんな俺を殺しそうな勢いで、鼻息荒くするなっ!
 
 ったく。
 お前、お袋さんと信仰と姫さんのことになると、とたんに暴れ馬になりやがる。
 
 今の予測は当てはまらねぇから、安心しろ。
 下種が、五人相手取って姫さんを助けるわけねぇだろ?
 そこんところが解せねぇんだからよ」
 
 腕を払って駆け出そうとしたアレクセイをなだめ、ナルグは続ける。
 
「だが、もしギマールの脱走兵なら、少しは話も通じるな。
 殿押し付けられて、こっちに取り残された奴らの一人か。
 
 線としちゃそれが堅い。
 どうして助けたのかはわからねぇが、この兵士どもを殺した奴は、姫さんを助けて共同で逃げることにしたんだろう。
 
 その野郎、おそらくはギマールの恩赦兵…元犯罪人か旧敵国の兵士が恩赦を餌に無理やり戦争に駆り出されていた口だろうな。
 もしそうだとしたら、機を見るのが上手い奴だ。
 
 ふん、なるほど…助けて自分を売り込んだとすりゃ、話は通じるな。
 
 だとしたら、姫さんは金のなる木だ。
 その野郎も乱暴はしねぇだろ」
 
 アレクセイは少し力を抜いた。
 
「ま、貞操は保障できねぇけどな。
 
 男と女、しかも命がけで逃亡するとくりゃ、けっこう女の方が男に参っちまう。
 心細いから人肌が恋しくなるし、世間知らずで年頃の姫さんなら案外今頃しっぽりと…
 
 って、お~い…
 
 行っちまった。
 冗談だったんだけどな」
 
 目を血走らせて全力疾走するアレクセイの背を見つめ、ナルグは人の悪そうな笑みを浮かべた。
 
 
 ガキィィンッ!!!
 
 オルフは敵の剣を受け止め、エルナを背後に庇った。
 
「くそっ!
 
 先行していたマルディアン兵か…」
 
 相手は三人の兵士である。
 しかも、今相手にしている兵士は正規兵らしく、厚手の立派な革鎧を着ている。
 
 北方の冬の戦場では金属の鎧を着る者は少ない。
 寒さで冷えた鎧が体力を奪うからだ。
 
「…そこの娘、カーティン家の御令嬢だな?
 
 おとなしく剣を引け。
 さもなくば―――なんだと?!」
 
 にじり寄っていた一人の兵士が、足を切られて転倒する。
 
「…そこ、血の筋だよ。
 
 手当てしないと、出血して、冷えて死んじゃうかもね」
 
 手斧を構え、不適に笑うのはフィリであった。
 
「ぐ、小僧!!!」
 
 もう一人の兵士をいなし、今度は重い攻撃で反撃するフィリ。
 手斧はその兵士の手の甲を粉砕した。
 
 激痛に膝を突いた兵士は、フィリが振るった手斧の背で頭を強打され、失神する。
 
 オルフを相手にしていた兵士が、フィリに注意を取られて隙をみせた。
 わずかなものであるが、オルフは迷わず踏み込んで敵の膝を斬った。
 
「ぐぅわあぁぁぁ!!!」
 
 よろめいた兵士は、何時の間にか接近したフィリの一撃で昏倒させられていた。
 
「…ふう。
 
 助かったぜ」
 
 オルフが敵を縛り上げると、エルナが簡単に止血をする。
 フィリは小銭と手頃な剣を一本奪う。
 
「はい。
 
 この隊長格の剣は使えると思うよ。
 あと、いいナイフ持ってるやつがいたから、これももらっておこうよ。
 
 命の代金と思えば、安いよね?」
 
 なかなかにフィリという少女は抜け目がなかった。
 
「お前、結構腕が立つな。
 
 大人の兵士二人を相手に、たいしたものだ」
 
 フィリはニカッと笑った。
 
「弓を修理すれば、もう少し役に立つんだけどね」
 
 この少女、特別俊敏ではなかったが、それなりの膂力があり、何より斧の扱いが実に巧みである。
 剛柔あわせ持つ戦い方は、子供とは思えなかった。
 
「ボクみたいな女の子は、多少力があっても体格負けしちゃうから、手数と小技で責めるんだ。
 
 必要なら人を殺すぐらいはやれるよ。
 そうしなきゃ、子供が戦場で生き残ることなんてできないもん」
 
 少しだけ無理をした笑顔だった。
 
「父さんを殺した兵士、ボクがこの斧で殺したんだ。
 
 獣をあわせれば、ボクの方がお兄さんより殺してるかもしれないよ。
 ふふ、あっ…」
 
 フィリを、後ろからエルナが抱きしめた。
 オルフもその頭を、わっしわっしと撫でる。
 
 二人とも、この少女の肩が震えていたことには気がついていた。
 
「無理するな。
 
 人間斬るのなんて、お前みたいな娘が慣れていいことじゃねぇ」
 
 苦笑いしたフィリは、少の間泣きそうな顔になった。
 
「ありがとな。
 
 さぁ、他のやつらがこねぇうちに、逃げるぞ」
 
 拘束した兵士たちを茂みに隠し、
 オルフは回収した剣に持ちかえると、荷物を担ぎ歩き出した。
 
「…お姉さんは言うまでも無いけど、お兄さんも好い人だね。
 
 ボクの相棒なんて、ガサツだのガキは色気が無いだの言うくせに、助けられても小言ばっかり。
 しかも、自分の都合が悪くなるとすぅぐ女扱いだもん。
 
 そのくせ、美人に弱いし、軽いし…
 
 ほんと、組むほうは大変だよ。
 
 仲間になるなら、誠実な人がいいよね~」
 
 フィリのおしゃべりを黙って聞くオルフ。
 
「…そうね。
 
 オルフは、私も助けてくれたわ」
 
 フィリの言葉に頷きながら、エルナは優しげな笑みを浮かべていた。
 
「お嬢ちゃん。
 
 あんたの仲間との合流場所は、まだ遠いのか?」
 
 頭を掻きつつ、照れ隠しでオルフが聞く。
 
「…どうやら、合流地点まで行く必要ないみたい。
 
 アイツと私で交わした符号があったよ。
 この木、刃でつけたささくれがあるでしょ?
 
 ぴったり二つだから、こっちの方角に二十歩で…
 
 ――――――十九、二十と、あった。
 
 ここからしばらく行った先にいるみたい。
 川の音がするから、その辺で休んでるかもね」
 
 フィリの注意力はたいしたものだった。
 何気ない木々の傷や、枝の先をしっかりと観察していたのである。
 
「…バッツ~、いるんでしょ?
 
 ボクだよ、フィリだよ~。
 
 お~いっ!
 いたら…あたっ!」
 
 飛んできた小石が頭を直撃し、フィリは涙目で呻いた。
 
「…ど阿呆!
 
 でかい声だすなっての。
 この辺、武装した兵士が何人もうろついてんだぞ」
 
 小声で、しかしかなり激昂した様子の声が木の上から聞こえてきた。
 
「いた~い。
 
 ヒドイよバッツ。
 何も石を投げなくても…」
 
 頭をさすっているフィリの前に、バンダナで額を巻いた若い男が飛び降りた。
 身軽な動作である。
 
 年の頃はオルフと同じぐらい。
 くすんだ色の柔らかそうなブロンドは丁寧に手入れされていた。
 少し軽薄そうな服装をしているが、フィリを睨む眼は鋭い。
 
「…なんだこいつらは?
 
 俺はこんな知り合いがいるなんて聞いてないぞ?」
 
 腕を組んだ男は、オルフを睨み、エルナまで目が行って硬直した。
 
「あ、いや、何というか…
 
 俺、コイツの保護者みたいなもんで、ああ、そうそう。
 つまり仲間なんですよっ!」
 
 突然態度が変わった男を、一同が注視する。
 
「…なるほど。
 
 わかりやすい奴だな」
 
 視線をエルナに釘付けにしたまま、鼻の下を伸ばしてあたふたと言い訳をしている男に、オルフは苦笑した。
 
 
「…な、なんだって!
 
 じゃあ、この綺麗な女性(ひと)はラトリア大将軍の御息女なのか?!」
 
 とりあえず、追われる立場の四人は歩きながら現状を確認し合っていた。
 
 エルナの身分を知って、男…バッツは目を丸くする。
 
「そっ。
 しかも【癒身の法】が使えるという、ボクら冒険者的には超仲間にほしい人材なの。
 こっちのお兄さんも、なかなか強いよ。
 
 今って、国境抜けしそうな他国人は女子供関係なくみんな捕まってるでしょ?

 ボク一人で兵士たちの包囲を突破するには、ちょっと辛かったから、この人たちが逃げたいっていう西方に行く道を教えて案内するかわりに組んだってわけ」
 
 バッツはぎっとフィリを睨む。
 
「どうしてお前はそういうことを簡単に決めやがるんだっ!
 
 身勝手な奴だよ、まったく…」
 
 金やら、身分証やらとぼやいているバッツは、随分と神経質な性格らしい。
 
「すまないな。
 彼女には随分と助けてもらった。
 
 なんとか南に…いやイルファタルまででいい。
 協力してもらえねぇか?」
 
 バッツはぎろりと、今度はオルフを睨んだ。
 
「迷惑だと思うなら、これで別れてくれ。
 
 あんた、聞けばギマールの脱走兵だって言うじゃないか。
 あの国は逃亡兵は死刑か無期懲役だろ?
 
 恩赦での兵役で逃亡なんて、死刑確定じゃないか。
 側にいたら命がいくらあっても足りない。
 
 マルディアンの兵士何人も殺してるとか、どのはずれたバカか?
 あんたは、ギマールとマルディアンの二国と敵対したってことなんだぞ」
 
 うっ、と言葉につまるオルフ。
 
「しかも、殺さずにふん縛った兵士がいる、だって?
 中途半端なことしやがって…

 フィリ、お前もだっ!
 ったく、顔を見られてるから、指名手配だぞお前たち」
 
 一息おき、バッツは厳しい言葉で宣言した。
 
「フィリはもともと仲間だし、な。
 女らしい格好でもさせれば大丈夫だろう。

 カーティン家のお姫様は、変装するか貌を汚すかすれば何とかなる。
 いざって時は、俺と夫婦だって言って、フィリを子役か俺の妹にでも役付ければいい。
 
 だが、あんたはダメだ。
 どう見ても、刀傷だらけのその面は堅気じゃない。
 そんなでっかい身体じゃ、一緒にいるだけで旗振って宣伝するようなものだ。
 
 俺はあんたとは行けない」
 
 バッツの言葉は最もだった。
 オルフは溜息をついて頷いた。
 
「…分かった。
 
 もう少し行ったら別の道を行こう」
 
 冷徹にバッツは首肯した。
 
 別れを告げようと、オルフが他の二人に向き直ろうとした時、エルナがすっと歩み出た。
 
「…では、私もオルフと行くわ。
 
 お別れね、フィリちゃん」
 
 エルナの突然の言葉に、オルフは思わず振り返った。
 
「な、何言っているんですか?!
 
 こんな男といたら、逃げられるものも逃げられなくなってしまいますよ!!」
 
 随分慌ててバッツがエルナを止めようとする。
 エルナは静かに首を横に振った。
 
「オルフが追われる理由の多くは、私を助けたからよ。
 その人を、犠牲になんてできない。
 
 それに、兵士たちの命を助けるように頼んで、手当てをしたのは私。
 彼に非は無いわ」
 
 凛とした言葉で、エルナは断言した。
 
「…俺と一緒に掴まっちまったら、婆さんの犠牲も無駄になるんだぞ?
 
 それが分かってるのか?」
 
 低い声でオルフがたしなめると、エルナは強く首肯した。
 
「なら、何をしたらいいのか分かるはずだぜ。
 
 つまらない貴族の見栄や、同情ならいらねぇ。
 俺は俺の意思でお姫さんを助けた。
 恩なんて感じなくていい。
 
 あんたはフィリたちと行くんだ」
 
 言い含めるようにゆっくりと言葉にするオルフ。
 エルナは、頑なに首を横に振る。
 
「貴方の意思があるように、私にも意思があるわ。
 
 貴族として、同情して選んだことじゃないの。
 これは私の〈人〉としての誇りよ。
 
 もしこの尊厳を失うのなら、貴族である前に〈私〉ではなくなってしまう。
 ここで貴方と別れたなら、私は必ず後悔するわ。
 
 貴方に助かってほしいというのは、私の希望。
 貴方と一緒に行くというのは、私の我侭。
 だから、見栄でも同情でもない。
 
 それに、私はマーサが守ってくれた〈私〉でいたい。
 そのために、貴方と一緒に行きたいのよ」
 
 蒼い双眸がオルフを見つめる。
 高潔な意思を感じさせる、澄んだ瞳だった。
 
(…ああ、そうか。
 
 この姫さんは、根っからの貴族なんだな)
 
 なぜ貴族が貴いのか。
 
 オルフは今まで貴族という存在を疎ましいと思っていた。
 偉そうに上から命令するだけの、略奪者。
 
 しかし、エルナはきっと本当の貴族、貴い人間なのだと素直に感じていた。
 
「…それで貴方が私を足手まといと感じたのなら、捨てて行ってくれてかまわないわ。
 
 私の考える貴方なら、きっとそんなことはしないと思うのだけれど」
 
 くすり、と微笑むエルナ。
 
「…分かった。
 
 勝手にしろ」
 
 少し呆れた顔で、オルフは苦笑しながら頷いた。
 
「…うん!
 
 じゃぁ、ボクもこんな鬼畜野郎じゃなく、オルフたちと行くね。
 バッツは一人でどこにでも行けば?
 
 すぐ人を切り捨てるやつの側にいたら、ボクも切り捨てられちゃうかもしれないからね。
 …後をついてくるのは勝手だけど、邪魔しないでよね」
 
 そう言ってフィリはエルナに駆け寄る。
 バッツは開いた口が塞がらない様子で、呆然としていた。
 
 オルフには、バッツが哀れに感じられた。
 仲間のことを考えるなら、バッツの出した結論も正しいからだ。
 
「…ではバッツさん。
 
 せっかく御縁があったのに、残念です」
 
 エルナは微笑んで、悪意無く止めを刺した。
 
(…痛ってぇ。
 
 あいつ、〈背中が煙突みたいに煤けて〉やがる)

 〈背中が煙突みたいに煤ける〉は、まっすぐ突っ立って火(酷い言葉や事実)にさらされると煤に塗れて口から煙を吐く煙突のように、呆然と突っ立って開いた口が塞がらないという意味で、女に振られたり金策が失敗して愕然となる人間に使う、北方人独特の比喩だ。
 
 すでにエルナとフィリは歩き出していた。
 オルフもそれに従う。
 
「あわわ、ま、待てよっ!!!」
 
 バッツは情けない声を上げ、慌ててオルフたちの後を追った。



⇒PC4:バッツの続きを読む

Y字の交差路


タイトル画像

PC3:フィリ

2018.07.22(20:04) 465

 マルディアン帝国とギマール共和国によるラトリア王国侵攻は、収束へと向かっていた。 

 隙をついて電撃戦を行ったマルディアン帝国軍がラトリア王国の王都を奪い、ギマール共和国軍は敗走。
 現在は、マルディアン帝国軍によるラトリア王国の残党とギマール共和国の敗残兵の掃討戦が行われている。

 帝国の側で、一際派手に戦う男がいた。 

 一見痩せたその男は、見た目に似合わない十字を象った美しい大剣で、近寄ってくる兵士を薙ぎ払った。
 たった一撃で、斬り伏せられた兵士は声も上げす絶命する。
 
 病的なまでに白く血の気の無い顔立ちは中性的で美しく、どこか退廃的な雰囲気を纏っている。
 口元に浮かべた冷たい笑みは、戦場では敵を恐怖させる不気味な迫力をかもし出していた。
 
 派手な刺繍をした、しかし全体的には質素な紺色の上着を着ている。
 それはどこか僧服に似た作りであった。
 首からさげた聖印や持った剣からも、敬虔な聖北教徒であることが見て取れる。
 
 他の兵士が簡素でも鎧姿なのに対し、随分と浮いた格好ではあったのだが…
 
 男が振るう剣は、一撃一撃が必殺。
 兜の上から頭を叩き割られ、また一人兵士が倒れる。
 
「芸のないことですね。
 
 罪深き略奪の輩は、業火に焼かれるのがお似合いです。
 婦女子のいる修道院を襲うなど、許されることではありません。
 
 主の怒りを知りなさい…外道ども」
 
 首を刎ねられ、血を吹いて兵士が倒れ伏す。
 
「ひ、ひぃ…
 
 お、俺は上の命令でやっただけだっ!
 それに、偽装しちゃいるが本当は味方なんだぜ?
 あんたたちを雇ったのは、今回は俺たちマルディアンの方…ぐぎゃぁっ!」
 
 全てを語らせる前に、男は喋りだした兵士の頭蓋を割った。
 
「ここには、光り輝く聖女様がおられたのです。
 
 聖域を汚した貴方たちは、死すら生ぬるい。
 悪魔のいる地獄がお似合いですよ」

 淡々と惨殺して行くその姿は、男の味方たちすら震え上がる迫力だった。
 彼は、修道院を襲ったマルディアンの兵二十名ほどのうち、すでに半数をただ一人で斬り殺していた。
 
「や、やべぇよ…
 
 いくらなんでも、味方を…」
 
 優男の部下らしい男が、引きつった顔でおそるおそる声をかけた。
 
「…おかしいですね?
 私は常日頃から侵攻を態度で示し、〈修道院や教会への狼藉は決して許さない。私の目の前で行ったのならば、味方であっても殺す〉と宣言していました。
 召喚が集まる場所で、他の傭兵団やギマール将兵にもはっきり告げたはずです。

 それに、ここを襲ったのは〈敵国ギマールの兵士〉だったはずです。
 私たちは悪辣な逆賊を退治して、神聖なる園に蔓延る穢れを掃ったに過ぎません。
 
 なのに、私の殺したのは味方だと?

 無抵抗の者から聖印を奪い、修道女に乱暴を働いた下種どもが、味方?
 貴方の目は腐っているのですか?
 
 …それとも、貴方もこの輩と同じ悪の手先だとでも言うのですか?」
 
 優男は剣を振るって、剣についた血をビシャリと払う。
 飛んできた血を浴び、優男に話しかけていた男は、ひぃ、となさけない声を上げた。
 
「…違うというなら、ほら。
 頑張って主の怨敵を屠りなさい。
 まだ少し残っていますよ。
 
 貴方にその大役をまかせましょう」
 
 返り血を拭いつつ、ニコニコと笑う優男。
 壊れた人形のようにコクコクと頷くと、その男は走り去った。
 
「…えげつねぇな、ジョージ。
 
 やる以上は徹底的にやるってのは俺も賛成なんだがな。
 団長が許可した略奪以外は絶対やらねぇのが、俺たち〈雪狼団〉の掟だ。

 友軍として一緒に行動するなら、俺たち雪狼の誇りに誓って、下種には従わねぇし鬼畜の所業は許さねぇ…それも言ってあったはずだが、無視しやがったのは殺された連中だ。
 ま、聖北の札をぶら下げたお前の前で教会の関係施設を襲うなんざ、大馬鹿としか言いようが言いようがねぇ。

 とはいえ、やりすぎだ。
 ちっと落ち着けや。

 全く貧乏くじだぜ、お前のお守りはよ」
 
 髭面のたくましい男が歩いてきた。
 優男をなだめつつも、手に持った剣は血に染まっている。
 
「…ナルグさん、いつも言っていますが、私の名はアレクセイです。
 
 聖名を呼ぶならゲオルグ。
 適当に呼ばないで下さいよ」
 
 拗ねたように口を尖らすと、優男は大剣を背負った。
 
「いいじゃねえか。
 ゲオルグってのは有名な竜退治の聖ジョージのことだろ?
 
 …呼びやすいしよっ」
 
 がはは、と笑う髭面。
 優男、アレクセイは大きな溜息を吐いた。
 
「ま、疲れた顔するのも、問答も後だ。
 
 まだ本物のギマールの敗残兵どもも、いるようだしな。
 まとめてしっかり〈敵〉は狩らねぇといけねぇ…」
 
 歯をむき出して、髭面は下品に笑った。
 
 アレクセイという優男と、ナルグというこの髭面の男は〈雪狼団〉という傭兵団に属す将兵である。 
 
 この度のラトリア侵攻において、勝者がマルディアン帝国になったのは〈雪狼団〉の迅速な活躍故であった。
 “魔狼”の異名をとる隻眼の猛将ビュリカが率いる傭兵〈雪狼団〉の武勇はラダニールで知らぬ者はいない。

 ビュリカは船足の早い小型船を用意してゼセルダ湖を南下し、南のギマール軍に戦力を割かれて手薄になっていたラトリア北端の砦を、即座に攻め落とした。
 後に続いて森を強行軍で抜けたマルディアン帝国の英雄レグジードが、本隊をもって王都を陥落させたのである。
 
 戦争の多いラダニールで、傭兵は花形であった。
 
 〈雪狼団〉の団長ビュリカは、早くから傭兵として大成し、ラダニールの戦場を巡って走り回り、敗戦で生まれた元軍人の浪人や荒くれ者、戦災孤児を集めて数千からなる傭兵団を組織した。
 戦場で生き残り、磨かれ、屈強の精鋭となった戦の申し子たちは、ビュリカという王狼の元、戦いという狩りに酔いしれていた。
 
 〈雪狼団〉。
 ラダニール最強の傭兵団として知られ、団長のビュリカはその武勇と男ぶりから、〈ラダニール五雄〉の一人と呼ばれた。
 
 マルディアン帝国の若き剣聖、“天剣の将”レグジード。
 エルトリア王国の大将軍、“銀髪の猛虎”カーライル。
 ギマール共和国の元首、“静寂の暴君”ジュナス。
 ギマールの大将、“黒龍将”ガダウス。
 そして国無き傭兵団首領、“魔狼”ビュリカ。
 
 五雄以外にも名の知られた英雄たちはたくさんいる。
 ラダニールは群雄割拠の時代であった。
 
 ナルグは〈雪狼団〉の副団長で、実質ナンバー2だ。
 “銀刃の牙”と恐れられる屈強の剣豪である。
 
 アレクセイは、まだ十代後半という若さで小隊を任されている。
 ナルグが拾い、そして育てた秘蔵っ子であった。
 蛮勇の傭兵たちに在って、その剛勇は“裁断者”という二つ名とともに知られ始めていた。
 
「…で、お前のお姫様がこの修道院にいたってことだな?」
 
 ナルグは周囲を警戒しながらアレクセイに問う。
 
 アレクセイはラトリア王国伯爵家の生まれながら、王太子の謀略による家の没落で身を男娼に落とし、その後殺人罪を犯して逃亡。
 戦場で彷徨っていたところをナルグに拾われた、という壮絶な過去を持つ。
 
 今回のラトリア侵攻で、アレクセイの土地勘は〈雪狼団〉に大きく貢献した。
 
 加えてアレクセイはラトリア総大将ワイルズ侯爵の親戚である。
 アレクセイの母は、ラトリア国王の異母妹であるエルナの母親とは父方の従姉妹同士で、アレクセイはエルナの婚約者候補だった。
 幼少の折には一緒に遊んだ記憶もある。 
 
「…“私の”とは恐れ多いのですが。
 
 大切な方です。
 そう、私にとって聖女様なのです」
 
 熱に浮かれたように、アレクセイは拳を握り締めて天を仰いでいる。
 それを見てナルグは口端を引きつらせた。
 
「あいもかわらず、臭ぇこというな、お前。
 
 俺にはできねぇぜ、《私にとって…》、うげ、鳥肌立ってきやがった」
 
 ナルグの失礼な言い草も気にせず、アレクセイは自分の世界に浸っている。
 
「そう、あれは忘れもしない。
 
 私が六歳の頃…
 初めて逢ったあの方は、その白雪のような頬を紅く染めて微笑み、私をアレクと呼んで…」
 
 ナルグは本気で耳を塞ごうとして、しかし急に鋭い目をした。
 
「ふ、副だんちょぉおおおお!!!」
 
 叫んで走ってくる男がいた。
 ナルグたちの仲間である傭兵だ。
 
「どうした?
 
 イエティにでも出くわしたような面しやがって…」
 
 至極冷静にナルグは聞く。
 アレクセイも押し黙った。
 
「そ、それが…
 
 先行していたマルディアンの下種どもが、殺されてやがるんです。
 あと、殺された婆さんが一人。
 
 見てくれからいって、死体の兵士どもは三流っぽいですが、五人もだ。
 
 かなりの使い手かもしれねぇ」
 
 アレクセイは即座に走り出した。
 それにナルグも続く。
 
「…お前の言うカーティン家のお姫様関係か?
 
 ギマールの連中に攫われたとしたら、痛いぜ。
 なにしろ、ラトリアの残党を束ねる総大将の娘だ。
 
 なんとか俺たちが確保しねぇとな」
 
 走りながらナルグが言うと、アレクセイは苛立ったように奥歯をぎりりと噛み締める。
 
「あの方を人質や政治の道具のように言う、ナルグさんの言葉には癪ですが…
 それはまた後で話しましょう。
 急がなければ…
 
 あの方を保護し守るのは、この私の役目。
 ギマールの悪漢などに指一本触れさせるものですかっ!!!」
 
 アレクセイは秀麗な顔を強張らせ、八重歯をむき出して疾走した。
 
 
 その頃…
 オルフとエルナは休息を終え、これからの対策を練っているところだった。
 
「俺はこのまま西に行って、ギーガー河沿いに下りイルファタルを目指すつもりだ。
 
 イルファタルの港からなら陸路でも海路でも南に行けるし、聖海教会の影響が強い独立都市国家で、周囲にグロザルム地方の有力な国が散ってるあの辺までだと、そうそう追ってくる連中もいねぇだろうしな。
 こっからあの森を越えて隣国に出ちまえば同盟結んだ連邦の中だから、おいそれとでかい軍隊は入り込めねぇ。
 
 水賊に注意して上手く行きゃあ、水運を使って難所越えもできる。
 河の道は、海側に出る時に限っては、わりと楽だって話だぜ」
 
 オルフの言う連邦とは、アルトヴァルト諸侯国連邦と呼ばれる連合国家群である。
 大国に対抗するため、〈古の森(アルトヴァルト)〉という広大な森林に網目のような道を作って乱立している小さな国の集まりで、各国そのものの力は弱いが、どこか一つが侵略されたのならば一丸となって攻め込んだ国に対抗する、という盟約がある。

 元はマルディアン帝国に対してできた同盟であり、ラトリア王国とは一応の友好関係であったため、マルディアンに敵対しギマールに捨てられた敗残の恩赦兵としての立場なら、割合亡命はたやすいと踏んでいる。
 敵の敵は味方というわけだ。
 手土産は、敵国の新しい情報でよいだろう。
  
「お姫さんは、何とか河を渡って南のカーティン侯爵領に行くか、近くの教会に保護してもらって、エンセルデルの法王庁まで行けばいい。
 
 カーティンの家柄なら、あの国は無下にはしないだろうからな」
 
 オルフは簡単な地図を描いて説明する。
 各国の分布と簡単に河と湖を書き込んだものだが、エルナは感心したように頷いていた。
 
「…驚いたわ。
 
 バドリアは、普通の民が字を書けるの?
 それに随分正確な地理を知っているのね」
 
 場違いな質問であるが、もっともなことである。
 
 学問は、思想を産み争いの火種となるため、貴族たちは平民が学問を学ぶことを嫌うのだ。
 オルフの出身国バドリアも貴族主義の国だったのだが、オルフのような貧農の識字率は皆無といってよかった。
 
「…バドリアが負けた後、戦争犯罪人扱いで掴まっててな。
 何年かギマールの捕虜収監所で強制労働させられていたんだが…
 
 政治犯って罪状で掴まってた相部屋の爺さんが、夜中にこっそり字や地理を教えてくれたんだよ。
 俺みたいな賎民出の阿呆にも、分け隔てなく接してくれた。
 好い人だったな…
 
 俺は落ちこぼれだったが、学問は面白かったから寝るのを惜しんで教えてもらった。
 よく寝不足で、爺さんと一緒に監守にどやされてたぜ」
 
 余談であるが、オルフが学んだ老人は“共和の父”と呼ばれる北方の革命家サギーニである。
 彼は若き頃、ギマール共和国樹立に貢献したが、軍事国家に変容するギマール政府を非難して政治犯として囚われ、オルフがその最期を看取ったのだ。
 
 オルフが戦場で生き残ってこれたのは、サギーニに学んだ学問のおかげでもある。
 
 ギマールと言えば、かつては学問と自由の国であった。
 
 統一帝国で敷かれたかつての共和制から学び、この閉鎖的なラダニールに新しい文化の一石を投じたとも言われている。
 西のアドルリア連邦樹立の父ハースや、神学に革命をもたらしたガレグリオ枢機卿。
 大国マルディアンを相手に、失われた領土を取り戻したクラウスの摂政“北の麗賢”エルデリーダの師、大賢者グリーデンも、軍事主義に変わる前のギマールの学徒であった。
 
「…ま、こんな話は置いておいてだ。
 
 お姫さん、あんたはどうするんだ?」
 
 話を戻したオルフ。
 エルナは強い意志を宿した瞳でじっとオルフを見返した。
 
「…私も一緒に南に行きたい」
 
 信じられないという顔で驚くオルフに、エルナは弱々しく微笑んで話を続ける。
 
「これから私の父は残ったラトリアの者たちをまとめ、第三王女セリニア殿下を奉じてラトリアの復旧活動を始めるでしょう。
 
 間違いなくマルディアンに、反乱分子として狙われることになるわ。
 そんな時、娘の私がこのラダニールに存在すれば、政治の道具として狙われ、掴まれば父たちにも迷惑をかけることになるでしょう。
 それに、冬のギーガー河を越えるのは無理そうね。

 このあたりの教会も、修道院同様に襲われれば、教会の関係者に迷惑がかかるでしょう。 
 法王庁にも、各国の影響は強いわ。
 ラトリアを滅ぼしたマルディアン出身の枢機卿もいる。
 
 すでにラダニールは私の安住の地足りえず、私という存在は争いの火種になりかねない。
 
 マーサは親戚の貴族を頼って、エンセルデルの法王庁に行くべきだと言っていたけれど…
 私は、ラトリア王都が陥落したのであれば、ラダニール地方から出ようと考えていたの。
 でも結局、行くあても無くて迷っていた。
 
 …そんな時、貴方に逢ったわ。
 
 貴族育ちの私に、できることなんて少ないでしょう。
 けれど、私は利用されるだけの道具にも、親しかった人たちの荷物にもなりたくない。
 だから、その…
 
 オルフと一緒に、南に行くのは、ダメかしら?」
 
 腕を組んでオルフは考え込む。
 やがて、吐き出すように低い声で答えた。
 
「…正直、俺も行くあてなんて無ぇ。
 戻る国も無いし、ギマールに戻ってもたぶん戦争三昧で終わっちまう。
 
 だから、とりあえず南に行くだけだ。
 
 どこで野たれ死ぬかもわからねぇ。
 この国を出るのだって、ほんとはできるかあやしいところだ。
 
 …それでも俺についてくる気か?」
 
 エルナは強く頷いた。
 
「―――貴方が許してくれるなら。
 
 それに、お互い何も無いなら、二人でならできることもあるかもしれないわ。
 迷惑をかけることに、なるかも知れないけど」
 
 オルフは正直なエルナの言葉に苦笑いする。
 
 エルナとは、何れ別れると考えていた。
 しかし、長い間孤独だったオルフは、どこか妹に似ているエルナと別れることを寂しくも思っていた。
 
「…《麦の穂は茎があって実る》か」
 
 頼るもの無くして物は存在できない。
 人も協力して生きるべきである、という意味の故郷の言葉。
 
「…おぉ、いい言葉。
 
 兄さん博識だねぇ」
 
 突然かけられた声に、即座にオルフは剣を構えた。
 エルナも緊張したように、声のした方角を見る。
 
「待った待ったっ!
 
 敵じゃないっての。
 とりあえず話をさせてよぅ…」
 
 そういって近くの茂みからひょっこりと現れたのは、驚いたことに子供の上半身だった。
 
 年の頃は十二、三か。
 発育不良のようで、背は低い。
 頭巾でくすんだアッシュブロンドを覆っていた。
 灰色の瞳はどこか人懐っこい光を宿している。 
 背には弓を背負っているが、弦は張っていない。
 腰に手斧を吊り、動きやすそうな服と革製の簡易防具を身につけている。
 
 子供は愛想笑いを浮かべつつ、慎重に近くの茂みから這い出してきた。
 
「ボクのことはフィリって呼んでね。
 
 西方諸国…というか、ここからだと南になるのかな。
 あっちの方から仲間と旅してきてたんだけど、戦争に巻き込まれてはぐれちゃってね~
 
 この国での目的は果たしたんだけど、一人でほっぽり出されて困ってたんだ。
 
 さっきなんか、血走った目をした兵隊どもが走り回ってて、慌ててここに隠れたんだけど…
 疲れて寝てたら、お兄さんたちが話をしててさ。
 
 そしたら、ここから逃げようって相談してて。
 なんだが仲間になれそうな人たちみたいに感じてね。

 しかも、都合よく南に行こうって話しじゃない。
 
 いや~、天の助けというか、運命だねこれって」
 
 馴れ馴れしくまくし立てる子供に、オルフとエルナはぽかんとした顔になった。
 
「この辺の地理は弱いけど、イルファタルから西方諸国に行くルートは知ってるよ。

 連邦で使える国境の通行証も、先日まで同行者がいたから…じゃじゃ~ん!
 四人まで大丈夫ってのを携帯してる。
 
 お兄さん強そうだし、もし協力してくれるならボクも手を貸す。
 突然な話なんだけど、西方諸国に着くまで仲間にならない?」
 
 待て、とオルフは落ち着こうとして子供の言葉を遮る。
 
「降って湧いた話で、訳がわからん。
 
 フィリだっけか?
 坊主、お前…」
 
 途端、子供はぐいとオルフに近寄って指を突きつけた。
 
「お兄さん、レディに対して坊主は失礼だよ。
 
 ボクは女の子。
 レミ村のフィランヌ。

 ぴっちぴちの十二歳だよ」
 
 よく見れば線の細さや微妙に腰の丸みから、この子供が女であろうと分かる。
 
「この格好は、世知辛い旅で、血の気の多い狼さんたちから身を守る処世術ってやつなんだよ。
 
 女の子だと、こんなつるぺたんな小娘にすら鼻息が荒くなる変態さんもいるしね。
 いたいけな少女に乱暴するなんて、ほんと悪い人たちだよ。
 
 そういうわけで、ま、間違われるのは仕方ないんだけどね~」
 
 すっかり相手のペースに飲まれ、オルフとエルナは顔を見合わせた。
 やがて、エルナが恐る恐る話しかける。
 
「あのね、フィリちゃん。
 
 それで、あなたはとりあえず私たちと一緒にイルファタルに向かいたい、ということなのよね?」
 
 エルナの問いに大きく頷くと、フィリと名乗ったボーイッシュな少女はニカリ、と笑った。
 
「贅沢を言えば、はぐれた仲間と合流して帰れれば嬉しいけどね。
 
 そいつ…バッツて奴なんだけど、根性無いかわりに女の名前覚えるのと逃げるのは得意なんだ。
 アイツの力を借りれば、さらに逃亡しやすくなると思うよ。
 
 気難しい奴だけど、お姉さんがちょっと目を潤ませて〈お願い〉すれば、楽勝、楽勝。
 
 はぐれた時はラトリアの西の国境線にある森で落ち合うことになってるから、そこに向かえばきっと会えるよ。
 二人より三人、三人よりは四人、ってね。
 
 それに、さっきの様子からすると行くあても職のあてもないんでしょ?
 
 ボクたちが来た西方諸国の、リューンていう交易都市にいけば、職の一つぐらいは何とかできると思うよ。
 このあたりより戦争が少なくて楽しいところだってことは、保障するし。
 
 ねっ、ねっ、手を組もうよ~」
 
 オルフとエルナは互いに肩をすくめると、頷き合って苦笑した。
 
 
 その後、オルフ、エルナ、フィリの三人は西に向けて出発した。
 始終賑やかに喋っているフィリは、旅慣れた様子であった。
 
 話の内容は、このラダニールに来てから見た場所や、戦争についてが主である。
 
「…というわけで、南のエルトリア王国はいい国だったのよ~
 さすがは名君“雪原の獅子”が治めてるだけあるよね。
 
 知ってる?
 あの国って、平民出身でも強くて頭さえよければ軍学を学べる、修士館という学校があるんだって。
 最近、修士館を出たあの国の王女様が、上位の軍職に推挙されるって話だよ。
 女の仕官が認められているんだ。
 
 女性の権利が確立されてるなんて、進んでるよね~
 このあたりって、女性差別する国が多いでしょ。
 ボクも子供で女だからって、随分酷い態度を取られてるんだよね」
 
 フィリの賑やかさに辟易しつつも、この少女の陽気さは二人の心を慰めていた。
 
 話によると、フィリはこの年で冒険者という職業に就いているのだという。
 
「いや~、故郷が黒死病にやられてさぁ。
 街ごと燃やされちゃったんだ。
 
 ボクは父さんが町外れに住む狩人だったから、病気には罹らなかったんだけど、街を焼く兵士に怒って抗議した父さんはあっけなく殺されちゃってね。
 母さんはボクが小さい頃に死んじゃったから、天涯孤独になっちゃったの。
 仕方なくリューンに流れていって、そこで子供でもなれる冒険者って職業を見つけて就職したというわけ。
 
 今回の旅は初仕事で、イルファタルまで相棒と荷物を届けるだけだったんだけど、荷物をスリにやられてこんなところまで追いかけて来たんだよ。
 そのスリが、荷物を渡す相手の敵対組織の連中で、何とかこの国のウェイデンの街で捕まえたんだけど、見事に戦争に巻き込まれちゃったんだ。
 
 ところで…お兄さんはギマール軍の兵装だから兵士として、美人のお姉さんはお坊さん?
 それにしてはちょっと服装が違うみたいだけど…」
 
 エルナの衣装は修道服ではあるが、刺繍などの細かい部分が違う。
 全体的にもかなり良質のものだ。
 
「私は…」
 
 自分のことを正直に話そうとするエルナを、慌ててオルフが止める。
 エルナは微笑んで首を横に振った。
 
「仲間に隠し事はいけないわ、オルフ。
 
 …ごめんなさいね、彼に悪気はないの。
 私の出自は、下手に話すと危険を伴うから。
 
 あのね、フィリちゃん…

 エルネード・マリア・カーティンというのが私の本当の名前。
 ラトリア軍の大将軍、ワイルズ・アントニヌス・カーティンの娘よ。
 
 父はこの国の南にあるウェールハインの領主で、侯爵の名誉を戴いているの」
 
 フィリが驚きで目を見開いて硬直する。
 
「え、え~、えぇっ、えっ?!
 
 カ、カーティンって、もしかしてあの“白銀の勇将”ワイルズ将軍?
 ラトリア最強の英雄で有名な?」
 
 ワイルズ将軍といえば、北方では国際的な英雄である。
 彼をラダニール十傑という枠に数える者もいるぐらいだ。
 高潔で民を大切にする気質は多くの支持者を得、人はワイルズを名君と評している。
 また貴族に伝わる古い剣術の使い手で、ある意味、今のカーティン侯爵家はワイルズの武勲と共に語られるほどだ。
 
「そ、それじゃあ、マルディアンの兵士たちが血眼になって探してるラトリア軍総大将の一人娘って、お姉さん?
 
 す、凄い大人物じゃないっ!!!」
 
 そんなことないわ、とエルナが微笑むが、フィリは興奮した様子だった。
 
「わ、わかった。
 
 絶対、秘密にする。
 ボク、約束は守るから。
 
 信頼してくれて話してくれたんだもん」
 
 フィリの言葉に、エルナは嬉しそうにその手を取る。
 照れくさそうに笑うフィリ。
 その横でオルフは安堵したように、ぶはっと息を吐いた。



⇒PC3:フィリの続きを読む

Y字の交差路


タイトル画像

PC2:エルナ

2018.07.22(00:27) 464

 現在オルフは、ラトリア王国の西を目指して逃亡していた。

 ラトリア王国の歴史は古い。
 古代にこの地方を支配していたグロザルム統一帝国が、聖北教会を国教として共和政になった後のこと。

 南方からやって来た鐵の民の首長が、内戦によって逃亡した帝国の第一皇女(統一帝国建国帝の嫡流)と結婚して鐵の王国と呼ばれる国ができると、十王国と呼ばれる十の国が次々と建国されて行くのだが…ラトリアは統一帝国の皇族が三番目に建国した国だ。

 帝国の象徴たる、大いなるゼセルダ湖に面していたため、「我らこそ統一帝国の真の後継である」として、【真なる地】を意味するラトリアと名乗ったのである。

 十番目にできた北のマルディアン帝国とは、常に統一帝国後継の正当性を争い、聖地エンセルデルを挟んで小競り合いを続けていたが、ラトリア王国は貴族の腐敗が酷く、この年に起きた蝗害によって飢えた国民から搾取を行い、農民の小規模な反乱が勃発する。

 これに乗じて「腐敗した貴族政治の撤廃と、領民の救済」を名目に東のギマール共和国が、ダズウェル王国北にある森を抜けてラトリアに侵攻。

 英明で有名な王国総大将のワイルズ侯爵は、マルディアン帝国の南征を警戒し、国の南方を一端放棄して大河を盾にした防衛戦を提案するが、国王がこれを却下。
 王侯貴族たちは南征によるギマール軍撃破にこだわった。

 王命に従いワイルズ侯爵は大河を渡って西に進み、ギマール軍のロタリオ中将の率いる精鋭を戦力に劣る騎士団を率いて激戦の果てに破り後退させるが、水軍を扱ったらギマール一と名高いワスロー中将の率いる別動隊が、ゼセルダ湖から海へと続く大河ギーガーを遡って、侯爵軍の背後に隠れていた王太子軍を急襲し、やすやすと撃破して無能な王太子の首級を上げた。
 このラトリア軍の大敗に乗じて、侯爵の予想通り北からマルディアン帝国が突然の宣戦布告によって侵攻、電撃戦で王都を陥落させ、国王以下王都にいた王族と貴族は皆殺しにされてしまった。

 勝ち戦だったはずのギマール軍は、状況がひっくり返り、慌てて退却を始めた。

 この時、ラトリアの司令官であるワイルズ侯爵は即座に前線を放棄し、背後に回ったギマール軍の目前を川沿いに逃れ、馬を捨てて山地を強行軍で突破。
 ただ一人ワイルズ将軍の警告に従って南に避難していた王族の第三王女セリニアを救出、彼女を奉じて南の自領に逃亡した。
 そこで臨時政府を樹立すると、南方のエルトリア王国に同盟を持ち掛け、突破が難しいイオニスの大森林を背にギーガー河を使った堅牢な防衛陣を敷いていた。

 現在旧ラトリア王国領では、混乱に乗じて王都を奪ったマルディアン帝国軍が大義名分を振るって、ギマール共和国軍を掃討しているところであった。

 ギマールとしてはこれ以上戦うわけにもいかず、ギーガー河を渡った南東部まで引き返してそこに防衛陣を引いた。
 そこは南のエルトリア王国とダズウェル王国の国境も近く、長く陣を張るのは難しいだろう。
 
 現在は、卑劣なマルディアンの奇襲にギマールが抗議文を送り、両国が睨み合っている。
 オルフのような敗残兵は、大河を背に川向うに放置され、自力で敵の領地を突っ切って逃亡するしかない。

 このような状態になっているとは知らなかったが、オルフは迷わず逃亡兵になることを選んでいた。 


 周囲に大勢の人の気配があり、甲冑や武器が擦れる金属音がせわしく響いてくる。
 人の気配のする方角から距離を取りつつ、オルフは足早に夜道を歩いていた。
 
(…マルディアンの兵士だな。
 
 この近くで、誰か偉いやつでも追ってるんだろう。
 
 たぶんさっき見た、炎上していた修道院の関係ってとこか。
 修道院には、偉い貴族の子女が居たりするからな)
 
 修道院を燃やしたのは、マルディアン帝国の兵士のようだ。
 帝国は古代、大陸に君臨していた統一帝国の真の後継を謳う大国で、北方ラダニール諸国の中で最大の軍事国家であり、近年は侵略による国土拡張でさらに領土を広めつつある。
 
 オルフの属していたギマール共和国も大国であり、ラダニールの覇権を争って、長い間マルディアンと小競り合いが続いている。
 ギマールとマルディアンが直接戦争に及んでいなかったのは、両国が互いに別の国と戦争中だからだ。
 
 ギマールはダズウェル王国という小国家と緊張状態にある。
 ダズウェルは、隣国エルトリア王国と戦争していたが、今はギマールを警戒して停戦中だった。
 
 マルディアンは、ラダニールで唯一の魔術師育成機関があるクラウス公国と戦争中であったが、クラウスの若き摂政にして“北の麗賢”と呼ばれる公女エルデリーダの登場で戦況は覆り、占領していた領土は全て奪還されていた。
 
 停滞した状況を好転させるため、近年、とりあえず弱い国を滅ぼして敵国を牽制しようという理由でギマールとマルディアンは盛んに周辺の小国や自治都市の侵略を繰り返していた。
 それに脅威を覚えた小国群がアドルリア連邦を樹立して対抗し、さらなる膠着状態となる。
 
 そんな大国に挟まれていたラトリア王国は、特別優れた産業もない歴史だけの小さな国だ。
 貴族による腐敗した政治のせいで、すでに黄昏の時代だった。
 敗戦で、間も無くその古い青史も終わろうとしている。
  
 今回のように二つの国が一国を争奪する戦いでは、謀略も大いに使われ、ライバル国の人気を落とすために虐殺や略奪が容認される場合もある。
 非道な行為を働いて、ライバルの国の仕業だと噂を流し、罪を押し付けるだ。

 自国の民の啓蒙と、大義名分をもっているのだということを兵士に刷り込ませるために、いつしか専門の汚れ役が生まれていた。
 
 こういった仕事を率先して行う、野盗同然の部隊。
 捕虜を奴隷として人身売買し、裕福な家や僧院を襲ってその蓄えを奪う。
 戦争を言い訳に略奪三昧を行い、それを楽しんでさえいる下種である。
 
 先ほどの修道院は、そういった者の暴虐にさらされたのだろう。
 
 ラダニール地方の人間は多くが聖北の徒であるが、異国人であれば異教徒ととこじつけもするし、統制の取れていない下級の将兵にとって、戦時のどさくさにまぎれての略奪は当たり前だった。
 加えて、オルフが見た修道院は、おそらく女性のためのものだろう。
 
 下劣な下級の兵が集団で略奪者に豹変し、身勝手な正義をかざして修道女に狼藉を働いたのだ。
 
 神に純潔を捧げた世間知らずの美しい女たちがいると聞いただけで、好色そうに舌なめずりしていた者を、オルフは見たことがある。
 噂ではその男が、ある村の教会を襲い、修道女や村娘をなぶり殺しにしたという。
 
 このような鬼畜が現れても、戦場では弱い者が虐げられるだけだ。
 
 燃える修道院と、近くで死んでいた裸の女性。
 略奪を受けて装飾の引き剥がされた壁や、ロザリオ一つ着けず惨殺されている老いた修道女たち。
 
 湧き上がる不快感に眉をひそめ、オルフは足を速めた。
 
 
 しばらく行くと、人の気配や喧騒からだいぶ離れることができたようだった。
 オルフは近くの茂みに身を潜めると、大きく息を吐く。
 緊張した状態で走るのはなかなかに骨が折れた。
 
 息を整え、また逃亡に移ろうと思案する。
 
 …不意に近くで人の気配がした。
 どこか争うような声も聞こえる。
 
 様子を探るため、オルフは茂みの間から声のした先を覗き見た。
 
 白いものが髪に混ざる上品そうな修道女姿の老婆と、フードを目深に被った背格好から女らしい人物が兵士たちに囲まれていた。
 老婆は女を後ろに庇い、じりじりとこちらの茂みに後ずさっている。
 
(まずいな。
 
 このままだと、俺が隠れていることがばれる…)
 
 オルフは剣の柄に手をかけ、いつでも飛び出して反撃できるように構えを取った。
 
 一方、老婆は毅然と兵士たちを睨み、甲高い声で叫んでいる。
 兵士たちはニヤニヤと笑いながら距離をつめていた。
 
 下品な兵士たちの態度が頭に来たのだろう。
 老婆が歩み出て兵士たちの歩を止める。
 
「…無礼者っ!
 
 この方をどなたと…」
 
 全てを言う前に、その老いた修道女は斬り伏せられた。
 老婆の細い身体は腹まで袈裟斬りにされ、大量の血潮が噴出し、力なく大地に倒れ伏す。
 
「マーサッ!」
 
 フードを被った女が、悲痛な声で叫んだ。
 
「…あ、あぁ、姫様。
 
 どうか、ど、うか、逃げ…て…」
 
 そう言って動かなくなった修道女を抱きかかえ、女は癒しの聖句を必死に紡ぐ。
 教会の聖職者が良く用いる癒しの秘蹟【癒身の法】である。
 
 だが、虚ろに目を見開いたまま、老いた修道女はもう動かなかった。
 
「おお、姫様だと。
 
 俺ら、もしかして大物を見つけたっぽいなっ!」
 
 修道女を斬り殺した剣の平で、肩をぽんぽんと叩きながら、兵士らしい男が得意そうに口の端を吊り上げた。
 装備は皮製の粗末な物。
 いかにも寄せ集めの兵士の一人、という感じだった。
 
 オルフと同じように徴兵された兵士であろうが…自分たちの立場を最大限に利用し、悪行も平気でするタイプの者たちのようだ。
 略奪を好み、殺人を楽しみ、女と見れば乱暴を働く。
 子供や老人を平気で殺す、戦乱が産んだ悪漢たちであった。
 
「あれだ、確かラトリア王家縁の貴族の一つ、カーティン侯爵家の御令嬢。
 
 さっきの修道院って、カーティン家の隠居所の一つだったからな。
 噂じゃあ、侯爵の一人娘が花嫁修業中だったはずだぜ」
 
 もう一人の兵士が顎に手をやりながら、老修道女を抱いている女を見下ろした。
 その兵士は金属製の鎧を着ている。
 装備品から見て隊長格であろうか。
 
「ひゅうっ♪
 カーティンっていやぁ、あのワイルズ将軍が当主だろ?
 王族から臣籍降下した超名門のお姫様じゃねぇかっ!
 
 大手柄だぜ、俺たち」
 
 兵士の一人が興奮して下品に唾を飛ばす。
 
 女はそっと修道女の身体を地に横たえさせると、毅然と兵士たちを見返す。
 
「私が目的ならば、何故修道院を燃やし、人を殺すような狼藉を行ったですか。
 
 皆、優しくて好い人たちだったのに…」
 
 そう言って女は俯いた。
 泣いているのだろう。
 
「あはは、【狼藉】だってよ~
 
 お姫様は言葉が違うよなぁ」
 
 がはは、と笑い、剣を持った兵士は女に近寄ると被っていたフードを引き剥がした。
 
 美しいブロンドの柔らかな髪が、はらりとこぼれ出る。
 
 兵士は目を見張った。
 周囲の兵士たちも同様だった。
 
 北方人らしい白い肌。
 まだ涙に濡れる長い睫毛の先からのぞく、青く澄んだ瞳。
 悲しげに結ばれた艶やかな唇。
 
「…うひゃぁ。
 
 俺、こんな美人みたことないぜ…」
 
 兵士たちは、驚いて、すぐに好色そうな顔になる。
 
「…なぁ。
 
 貴族の娘には死体でも賞金が出るんだろ?」
 
 先ほど修道女を斬り殺した男が、周囲の兵士たちを見回してにやりと嗤う。
 
「ば~か。
 
 こんな上物、殺すより売った方が儲かるだろ?
 …もちろん、俺たちが楽しんだ後で、でもだ」
 
 にじり寄る男たちを、ブロンドの娘は悲しげに見つめていた。
 
 
(…何やってんだ、あの女はっ!)
 
 オルフは、忌々しそうに唇を噛んだ。
 あれでは女を逃がそうとした修道女が無駄死にである。
 
 苛々するオルフの心など届くはずも無く、女は跪き、目を閉じて冥福の祈りなどを口にしている。
 逃げも怯えもしない女の態度はたいしたものだが、それで改心する兵士たちではない。
 オルフは蹂躙されるであろう、娘の未来を思い、唇を噛んだ。
 
 オルフの脳裏に、熱にうなされながら、天国にいけるように祈っていた妹の姿が思い出された。
 食べる者も無く、いつも痩せていた妹は、信心深くいつも祈っていた。
 
(…あいつが生きていれば、あのぐらいの歳か)
 
 流行り病で死んでしまった妹も、この娘のように美しいブロンドだった。
 オルフの妹は神様が与えてくれた宝物だと、大切そうに髪を撫でながら頬のこけた顔で微笑んでいた。
 
 病に侵され、瞳から光の無くなっていく妹の手を、オルフはただ握ることしかできなかった。
 妹が死に逝く時、オルフはまだ無力な子供でしかなかった。
 
 荒れた唇の鉄臭い血の味を噛み締め、女の方を見る。 
 血走った目をして、女の服に手をかける兵士。
 
「…糞がっ!!!」
 
 オルフは飛び出して突進する。
 迷わず剣を振るった。
 なまくら同然の剣は、女の服に手をかけていた兵士の肺と心臓に半ばめり込んでへし折れる。
 
「…こぉぼぼ、あ?」
 
 肺から血と一緒に空気が出て行く音。
 何が起きたか理解できずに、その兵士は倒れて動かなくなった。
 
「…なっ?
 
 てめ…ごばぁっ!」
 
 折れた剣を金属鎧を着た兵士の口に突っ込み、痙攣するその兵士を蹴り倒すと、剣をぶんどる。
 
(…残りは、三人!)
 
 そこに居た兵士たちは五人。
 奇襲で二人を倒し、前の剣よりは切れそうな得物を手に入れている。
 
(あと一人ぐらいは…!)
 
 担ぐような構えから振り下ろす重い一撃。
 オルフが戦場でとある剣士から学んだ【担ぎ颪】という技である。
 
 ビョウゥゥッ!!!
 
 空気も一緒に両断するような音…
 
 凄まじい斬撃に肩当から腹まで割られた兵士は、言葉も無く絶命した。
 
 骨に引っかかって抜けなくなった剣をあきらめ、オルフは襲い掛かってくる兵士を殴る。
 敵の反撃を受けて脇腹に走った激痛をこらえ、無造作に敵の剣を掴んで、その股間を蹴り上げた。
 嫌な感触が、兵士を男として終わらせたことを教えてくれた。
 しばらくは起き上がれまい。

 少し切れたが、農業で鍛えられた彼の掌は血が滲む程度。
 
「ひ、ひぃぃぃ!!!」
 
 泡を吹いて昏倒する兵士から武器を奪って、最後の一人を睨む。
 四人を瞬く間に倒して返り血を浴び、髪を振り乱したオルフは、さながら食人鬼のように迫力があった。
 
 慌てふためく最後の兵士が、やけになったように剣を振り回す。
 オルフはゆっくりと剣を振り上げ、容赦なくその兵士の頭蓋を叩き割った。
 
 
「…はぁ、ぐっ。
 
 くそ、一発もらっちまったか」
 
 脇腹を押さえ、傷の程度を調べる。
 
(…大丈夫だ。
 
 はらわたまでは、届いてねぇ)
 
 べったりと手についた血を、倒れている兵士の服で拭う。
 布を裂き、脇腹に当てて手で押さえた。
 そして、呆然としている娘を睨みつける。
 
「…この阿呆がっ!
 
 お前、婆さんの行為を無駄にするのかよっ!!」
 
 怒鳴りつけられた娘はビクリ、と震える。
 
「…ったく。
 
 ああ、もう、糞っ!
 これで俺も完全なお訪ね者じゃねぇかっ!!!」
 
 転がっていた兜を蹴り飛ばし、忌々しそうにオルフは唾を吐き捨てた。
 溜息を吐き、灰色の空を見上げる。
 
 かつて剣術の手ほどきをしてくれた、ある戦士の言葉を思い出す。
 よく「お前はお人好しだ」と言っていた。
 
「…《麦を踏んだら霜も踏め》だ…畜生めっ!」

 故郷で、冬の麦を踏んで強くし、ついでに霜の害も忘れずに対策を一緒にやれ…やりかけたことは責任をもって最後までやれという古い言葉を思い出し、オルフは諦めたように返り血を拭った。
 
 そして娘の手を掴むと、引きずるように場を後にしようとして、思い出したように立ち止まった。
 自分が纏っていた襤褸を脱いで老婆に被せると、倒れた兵士から外套を剥ぎ取る。
 
「これで追い剥ぎかよ。
 
 もう、お袋に顔向けできねぇな…」
 
 苦々しい表情で呟き、先ほど受けた傷を押さえて呻く。
 女が近寄ってきてオルフの脇腹に軽く手を添えた。
 
「おい、何を…」
 
 眉をしかめたオルフを手で制し、女は澄んだ声で聖なる言葉を紡ぐ。
 同時に傷の痛みが、すっと引いた。
 
 オルフは、ばつが悪くなって頭をかくと、一番ましそうな剣と携帯品を兵士の死体から奪うと、黙ったまま女を引っ張って、その場を後にした。
 
 
 …どれほど歩いただろうか。
 
 半日近い間、オルフと女は黙々と歩いていた。
 大柄なオルフの足についてくる女の根性も、大したものである。
 
「…少し休むか」
 
 オルフはどっかりとその場に座り込んだ。
 額から汗がこぼれ落ちる。
 
 女もへたり込むように座り込む。
 一言も喋らなかったが、疲労はしているらしい。
 
「今時の貴族は山歩きもするのか?
 
 俺みたいに田舎育ちについてこれるんだから、感心したもんだぜ」
 
 オルフが褒めると、女は首をかしげ、やがて弱々しく微笑んだ。
 
「修道院生活が長かったからだわ。
 
 山中の修道院で労働して過ごせば、このぐらいはできるようになるはずよ」
 
 そんなもんか、とオルフが言うと、そんなものねと女が返す。
 
「…さっきはごめんなさい。
 助けてくれたのにお礼も言わないで。
 
 有難う。
 
 あと、マーサを弔ってくれたことも」
 
 女は深々と頭を下げた。
 
「ああ、いや、俺も強く言い過ぎたかもしれねぇ。
 傷も治してもらったしな。
 
 …あの婆さん、知り合いだよな?」
 
 女は頷く。
 
「私のお目付け役で、小さな頃からずっと一緒だったわ。
 
 修道院にも一緒に来てくれて、二人で司祭様の祝福を受けたの。
 私の、家族同然だった」
 
 女は少し寂しそうに、しかし毅然とした態度で話した。
 
「…もう少しでマーサの行為を無駄にしてしまうところだったわ。
 
 私があの兵士たちに乱暴されて売られたり殺されたりしたら、マーサの死を冒涜してしまうわよね。
 そうなっていたなら、確かに阿呆だわ…」
 
 無理に微笑んでいると分かる顔だった。
 
「俺は貴族って奴は、もっと我侭で身勝手な奴だと思ってたよ。
 あと、肝心なところで屁っぴり腰になって泣き出すような感じだな。
 
 …あんたは違った。
 度胸はたいしたもんだよ」
 
 オルフは女の気丈さに、心底感心していた。
 自分のような一介の兵士に対しても謙虚な態度で接する部分には、好感も覚えている。
 
「死んだ母の口癖だったの。
 
 人の上に立つ貴族は、人の何倍も責任が伴うのだと。
 
 我侭を言うだけなら、子供にもできるわ。
 自制と節度をもって人を導くのが、本当の貴族なんだって。
 
 それに、貴族は生まれが偉いのではなく、己の血を貶めない行為こそが尊ばれるのだと父が言っていた。
 
 でも、私は普通の人よ。
 貴方と同じ、赤い血が流れているもの」
 
 はにかんで微笑むと、女はオルフに向き直る。
 ごく普通の口調だが、仕草は洗練され優雅だった。
 
「まだ名乗っていなかったわね。
 
 私はエルネード。
 カーティン侯爵家の娘、エルネード・マリア。
 
 勇敢な貴方の行いに、感謝を…」
 
 あらためて名乗り、女は頭を下げる。
 
 この地方で、姓を持つ者はそれなりの家柄である。
 
 一介の農民出身であるオルフも、ラトリアの名家カーティンの名は知っていた。
 
 その先祖は、この地をかつて治めていた統一帝国グロザルムが十王国と呼ばれる国に分裂した時代までさかのぼり、同じ北方にあるシグヴォルフ王国やマルディアン帝国同様、統一帝国の皇族を先祖に持つラトリア王家の王族が臣籍降下してできた由緒正しい家だ。
 王家と公爵家に次ぐ名門である。
 王族の血も入っているため、歴史の長いラトリアでは、カーティン家の血を引く王が輩出されたこともある。
 
 現カーティン侯爵ワイルズは武勇でも知られる名君で、善政で領地を治め、ラトリアにあって一番優秀で聡明な貴族だと言われていた。
 他国にその名声が聞こえるほどである。
 
 カーティン家は、ラダニール地方の聖北教会にとって総本山である聖地エンセルデルに縁が深い、熱心な聖北教徒でもあった。
 
 エルネードのセカンドネーム〈マリア〉は洗礼名である。
 聖北教会を国教とするラトリアでは大抵、有名な聖人や聖女、天使や聖職者の名前を洗礼名としてもらう。
 きちんとした洗礼を受けた、教会信徒である証だった。 
 
「…俺はラインドの息子、オルフだ」
 
 オルフも名乗る。
 先に名乗る礼節を尽くした相手には、それに名乗って応えるのが誇り高い北方男の礼儀であった。
 
 女は小さく頷いた。
 
「オルフ…
 
 その訛りはバドリア公国の人でしょう?
 オルフって、獅子という意味だったかしら…強そうな名前だわ」
 
 北方の平民はよく、「~の子」という名乗り方をする。
 西方の文化が聖北教会の伝道とともに入ってきたラダニールでは、西方の公用語が平準になりつつあるが、名前に関しては昔ながらということも多い。
 
「…正しくは狼や獅子みたいな強い〈獣〉ってような意味だな。
 北方男はどこでもそうだが、バドリアじゃ、男は強くってのが普通だったからよ。
 
 でも、生まれは〈賎民農奴〉…下賎の出ってやつさ」
 
 オルフの故国である旧バドリア公国は、大公が治める厳しい身分制度のある国だった。
 彼は卑しいとされる最下級の貧農出身である。
 
(バドリアは滅んじまったし、故郷は焼かれてもうねぇが…
 
 あんな国、滅んでも悲しむのはきっと偉くて幸せだった奴らだけだ。
 生き残った俺は、〈獣〉よか、野良犬みたいなもんだな)
 
 祖国を滅ぼしたギマール共和国は嫌いだったが、かつてオルフが育った祖国も、決して良い国ではなかったと思う。
 搾取されることに慣れ、磨り減っていく生活をしていたオルフにとって、そんな感慨しか湧かないのだ。
 
「あんたの名前、エルネードか。
 
 長くて呼びにくいな」
 
 オルフの故郷では、長い名前は略される。
 いちいち憶え難い名前を呼んでいたのでは、仕事でのコミニュケーションで呼び合うとき不便なのだ。
 
「そうね。
 
 それにこの名前を名乗るのは、きっと危険でしょうし…
 エルナでいいわ。
 
 母はそう呼んでくれていたの」
 
 娘、エルナは風で乱れた美しいブロンドを手櫛ですくと、柔らかな微笑を浮かべた。 



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Y字の交差路


CW:リプレイ2PyDS
  1. PC6:ニルダ(07/25)
  2. PC5:コール(07/23)
  3. PC4:バッツ(07/23)
  4. PC3:フィリ(07/22)
  5. PC2:エルナ(07/22)
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