Y字の交差路

 ここはY2つめがノリで作ったブログです。  カードワースを中心に、私が思ったことや考えたことを徒然なるままに書きたいと思います。

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『遠野の鬼姫』 伍

 そこには女が佇んでいた。
 いつも思い出す、お決まりの後姿だ。
 
 正行の母瑞葉(みずは)である。
 
 華奢な身体は、まるで十代の少女のようだ。
 雪のように白い肌も、風になびくと蒼い陰影を放つ長い黒髪が、対照的でありながら見事に調和していた。
 蒼穹を封じ込めたような、蒼く澄んだ瞳は、何もかもを見抜くのではないかと感じさせる。
 白い肌の中でただ一つ、丹を塗ったように紅い唇が鮮やかにあった。

 正行はたくましい体躯と野暮ったい格好から、男と分かるが、本来の地顔は中性的で秀麗だ。
 それは間違いなく、この美しい母の血筋と言えた。
 
 風を操る不思議な力を持ち、事の正邪をたちどころに見抜く、蒼い〈浄眼〉の異能者。
 旅を愛し、空を歌う旅の巫女。
 古の流離神(さすらいがみ)が、倭国の巫女と交わって生まれたという神秘の一族が末裔である。

 瑞葉は、旅をしながら技芸と異能を振るい、それで糧を得る事を生業にしていた。
 その美しさを見染め、そして力を求めていた正行の父である正長は、瑞葉を騙して監禁し、巫女の純潔を奪って妾とした。
 
 正長は、零落した一族に新たな力を、と渇望していた。
 神の力をその血に宿す瑞葉は、願っても無い存在だったのだ。
 
 全ては、一族の明日を担う異能者を生み出すために。
 
 正行の生まれた秋月とは、鬼や妖と人の身で渡り合うために存続してきた家だからだ。
 
 瑞葉は、正行を孕んだ時に様々なまじないを受け、そして大呪を浴びて生まれる正行に力を奪われた。
 そして、そのために二度と子を産めぬ身体となり、病弱になってしまった。
 
 彼女は本来、放浪する古い風神の血を引き、人の何倍も生きる存在である。
 だが、正行を産んでからたった5年で、息を引き取った。
 
 それも当然である。
 瑞葉は流離神の血を引く、旅の神仙。
 旅を奪い流れを留めれば、凪ぐ風に同じく消えてしまう。
 
 子供に力を奪われ、まじないで身体をぼろぼろにされ、存在意義である流離いの生活を奪われたのだ。
 空無き小部屋に幽閉された瑞葉は、水無くして萎れて行く花のようだった。
 
 だが、瑞葉は決して正行を疎まなかった。
 
 愛してもいない男の子供なのに、自分が旅して得た知識を楽しそうに話し、弱って痩せた手で力いっぱい抱きしめてくれた。
 自らの出生に嘆く正行をただ優しく抱いて、生まれてくる命に罪は無いのだと微笑んでくれる、暖かい女性だった。
 
 その瞳は、正行を愛でる以外ではいつも、座敷牢の外にある蒼い空を、寂しげに見上げていたのだ。
 そんな後ろ姿は、決まって今のように寂しげだった。
 
「…母様」
 
 父の目測通り、正行は古今稀に見る力を持って生まれる。
 神の血を引く故に、その天稟は群を抜いていた。
 
 熊を捩じ伏せるほどの怪力と、念じれば岩を砕き、風を操る不可思議な異能。
 
 正長は、望んだ子の誕生に狂喜し、この子供に英才教育を施す。
 そして正行は、愛されながらも、どこか歪んだ幼少期を過ごした。
 
 道具として生かされた正行と瑞葉。
 そして、弱り切った瑞葉が息を引き取ったのは、寒い月夜の晩である。
 
 瑞葉は、力無く横たわりながら、正行の手を握って言い残した。

「憎むよりも慈しみなさい。
 
 嵐でない風が、全てを愛でる微風であるように。
 曇りの無い空が、全てを優しく見守るように。
 
 貴方が鬼を殺すために生れたなら、悲しい鬼の気持ちを分かってあげなさい。
 
 鬼とは陰の気。
 陰と蔑まれることの悲しさは、貴方にはよく分かるはずよ。
 
 陰として忌まれることは寂しいこと。
 
 鬼のような陰の存在になるとは、その妄執が悲しいことだから。
 恐れられるのは、とてもつらいことだから。

 人が鬼に堕ちるのは、どうしようもない想いに身を焦がす為なのよ。
 
 鬼に堕ちた者にとって、食らうことが愛だと人は言うけれど…
 愛する人を食らえば失うのだから、それもまたとても悲しいことだわ。
 
 戦う時、屠る時…忘れずに覚えて居てあげなさい。
 
 悲しみは、望まれることではないけれど…
 それを分かって、悲しみを生まぬように願うことは出来るのだから…」

 最後まで瑞葉は、正長を慈しんでくれた。
 
 だから思う。
 自分は、父を憎んではいけないと。

 正長は正行に大きな期待をかけ、形の上では不自由なく育ててくれた。
 
 そんな正行を疎んで、正長の本妻が毒を盛った。
 血反吐を吐きながらも、正行は彼女を憎むことが出来なかった。
 
 だが、憎しみを返さず優しくあろうとした時、意外にもその本妻の子である異母弟が慕ってくれた。
 
 今思えば、母の言葉は正しかったのだろう。
 そして、行動を表す「行」を名につけたのも母だった。

「貴方は、正しいと思う道を行きなさい。
 それが、貴方の旅となるわ。
 
 私たち“風流れ”の血族は、旅こそがその本質。
 行いこそが生。
 
 貴方が、幸せでありますように…」
 
 微笑んで、母は逝った。
 
「…母様。
 私は頂いた名の如く、正しい道を歩んだのでしょうか。
 死に際してその背中を思い出すのは、今生における私の未練でありましょうか。

 この一生で殺しもし、憎みも致しました。
 それが一族のためであると、正しいと信じて歩んだつもりではありますが…
 
 今や母上も、そして守ると誓った美園たちさえ失いました。
 真に正しくあったか、今では分かりませぬ。
 
 斯様な私は、母上や美園たちがおる彼岸に行けるのでありましょうか…」
 
 届かぬと知りながら、正行は母の背に向けて手を伸ばした。
 その手を暖かな何かがそっと包む。
 
「…まだ死ぬでない。
 
 汝ほどの雄の子を育てた母が、何故子の死を許すというのだ?
 親とは、子が生きることこそ望むのだ。

 汝が母を敬うならば、ここで果てて、母を辱めるで無い。
 
 吾は汝の母を知らぬが、きっと、そういうものじゃ」
 
 不意に近くから聞こえたそれは、凛としているが、優しい声だった。
 
 あまりにその声が温かく心地好く。
 正行は、誘われるようにその声の主を探し求めていた…


 気付いた時、最初はとても眩しい光があった。
 
 見上げる先に、とても奇麗な白銀の波と、黄金の二つの眼。
 紅い唇が、綻ぶように微笑んでいた。
 
「…ぁ?」
 
 間の抜けた声を出した正行が、目を瞬いた。

「…目覚めたかぇ?
 
 今少し、そのまま休んでおれ。
 吾も、汝も、血を流し過ぎたのじゃ」
 
 そのあまりに美しい女性は、慈母のように黄金の眼を細め、そっと正行の頭を撫でる。
 
 自分が頭の下に敷いているのがその女性の膝だと気付き、正行は眼を見開いて狼狽する。
 女性は、その仕草を呵々と笑う。

「何じゃ、汝…照れておるのかや?
 
 吾と分けたほどの武士が、何とも可愛いことよ」
 
 澄み渡った空のように、あどけない笑顔だった。
 それは、とこまでも澄んだ母の瞳を思い出させた。
 
 躊躇うより、驚くより、その笑顔をもっと見たいと…
 正行は、眩しそうに見上げる。

「その醜態に免じ、先の無礼は許してやろう。
 
 今少しそれを見せて、吾を楽しませるが好い」
 
 女性…綾の媛神は、また呵々と笑った。
 
 
 半刻(一時間)もして、正行はなんとか起きれるほどになった。
 本当は、無理をすればこの半分ほどの時刻で起きることも出来たが、心地好いのとあまりに媛神が面白がるので、そのままにしていたのだ。
 
 日が陰って来るのに気付き、ようやく正行は起き上がった。
 失血のため、軽い眩暈と倦怠感を感じる。
 
 折れた骨は、媛神が小器用に接いでくれた。
 最も、微塵に砕けたそれがすぐに治るはずも無く、今は添え木替わりに板を一枚、サラシで巻いている。
 この板も、媛神が倒れた大木を爪で一撫でして作ったものだ。

 この女神は実に多才で様々な事柄に通じていた。
 
 骨を接ぐ医療の心得と手先の器用さ。
 媛神が作ったという霊薬で、細かい傷はたちどころに治ってしまった。
 治療の際に何気なく話す、豊富な知識と巧みな話術。
 何より、気後れを全くしない気質が、その存在を輝く様に魅せている。
  
 正行は居住まいを正し、媛神に面と向き合う。
 
 改めて思うが、媛神は本当に美しい。
 特に笑っている時などは、景色が一緒にほころんでしまうかと錯覚させられる。

「…相済みませぬ。
 
 本来ならば、貴女様に仇を成した私を、救う道理もありませぬものを…」
 
 畏まる正行に、媛神は止めよとばかり、ぞんざいにひらひらと手を振った。
 
「卑しむのは止めるがよい。
 
 汝は、己の矜持と信ずる道理のために、吾の強さを知りながらも尚挑んだ。
 況して、吾を地に這わせた最初の武士じゃ。
 
 勝負を分けたまま死なれては、あまりに惜しいから助けた、それまでのこと。
 強きを惜しむのは、強きを好む吾の性である。

 吾は誇り高いが、自惚れる阿呆ではない。 
 今は吾にそうまで言わせる、汝の武勇を誇るべきじゃ」
 
 小気味の好い言葉で、媛神は宣う。
 
 正行との戦闘で、着ていた狩衣はあちこちが鉤裂きになり、滲んだ血潮が斑に飾っている。
 血とともに染みついた泥汚れは払って落ちるものではなく、衣の破れに入り込んだ木の葉の切れ端が所々に見えていた。
 
 だが、媛神の泰然とした様と存在感は少しも揺るぎない。
 むしろ、戦う前よりも自信に溢れ、金色の双眸は太陽のように生き生きと煌いていた。
 
 正行は胡坐をかき、両拳を地につけて丁寧に一礼して、媛神の言葉に返す。

「感謝致します。
 なれば、無礼のついでにもう一つ。

 此度の暴挙は私の一存にて、秋月一党には関わりの無き事。
 出来ますならば、一門を根絶やしにとおっしゃられたお言葉、御容赦下さいませぬか?」
 
 正行は一族の長である。
 だからこそ、このことだけはきちんと言葉で確約する必要があった。
 
 媛神は気高く、清廉誠実な人物だと聞いている。
 今の話しぶりからも、こう切り出せば答えは分かっているようなものだった。
 最も、正行は秋月の屋敷を出る時に、今度の騒動に関する一切が己の責任で終わるよう、遺書と約定を幾重に備え、特別な手立ても用意してはいたが。
 
「…うむ、許そう。
 まずは一族の安泰を願い出るあたり、実に好い。
 
 この一件、吾は一切罪と問わぬ。
 遠野が鎮守の名に懸けて、約束しよう。

 これで善いな?」

 爽やかに微笑んで、媛神は鷹揚に頷く。

「…有難う御座います」
 
 もう一度深く、正行は頭を下げた。
 
「…さて、継いで次いでにもう一つ。
 汝がここに吾を訪ねて来たことじゃが…
 
 汝が申す吾の眷族たちの話、信じてやろう。
 吾自ら事を納める故、安心致せ。
 
 吾も少しばかり鎮守の生業を怠ったようじゃからな。
 今の遠野を良く見るも、また善い機会よ」

 いざ動くと決めれば、その決断力は速い。
 かつてその伝承に、畏れを抱く者もあれば、感服する者もあったという綾の媛神。
 情が深く聡明で、故に慕われもする鬼神なのだ。
 
「吾は今、実に心地が好い。
 此の処、鬱屈と籠って居った憂さが晴れたわ。
 
 この国に汝ほどの武士が居ったと知らず、無為にあった幾年は何とも惜しいぞ。
 
 吾がこの玉の肌を裂かれ、血汗を流し、壌(つち)に伏すなど、初めてのことじゃ。
 
 闘争とは、滾り無くして楽しめぬ。
 こうも暴れたのは、覚えが無い。
 
 坊主どもは、戦は修羅よ、瞋恚(しんに…怒りのこと)は地獄の炎と謳いよるが…
 吾は鬼神なれば、地獄の閻魔か阿傍羅刹(あぼうらせつ…地獄の獄卒のこと)とばかり、猛って躍るが相応しかろう。
 
 うむ、実に愉快っ!」

 不遜な言葉であるが、何ともそれが様になる女傑である。
 その美しさも、苛烈なその気質があってこそ、爛々と輝くのだ。
 
「重ね重ね、有り難く…」
 
 また礼を言い、頭を下げようとすると、媛神がすっと正行の顎を掴んでそれを制した。
 
「吾は遠野の鎮守である。
 吾が役目たる行いに、汝が頭を下げるでない。
 
 汝は、武を持って吾の不徳を諌めた武士ぞ。
 あの時、吾を腑抜けの年寄り扱いした気概はどこにいやった?

 吾は最初に言ったはずじゃぞ、卑しむなと。
 自身を賎するは、汝を認めた吾を卑しめると知れ」
 
 真っ直ぐに見詰める媛神には、後ろ暗いものが無い。
 この女神は、豪快苛烈だが、何より誇り高くとても純粋なのだ。
 
(ああ、だからこんなにも輝いて美しいのだな…)
 
 見惚れる正行に、媛神は小首を傾げて、「何じゃ?」と問うた。

「ああ、いや何と申し上げましょうか。
 
 私は粗忽者故、自分を卑しむなと言われましても、どうしたものか」
 
 媛神に見惚れてぽかんとしていたとは言えず、歯切れの悪い答えを返す。
 
「…そんなことか。 
 至極簡単じゃぞ?
 
 ただ、吾と対等に話せば好い。
 
 汝は、武勇随一と誉れを受けた吾に、その武で分けた豪傑。
 先ほど不遜に挑んで来た、あの調子で話してみよ。
 
 斯様に認めた汝なれば、特別に許す。
 …善いな?」

 倒れて砕けた大木に腰を下ろし、媛神が促した。
 粉砕した木々や岩が、かしずくかの様に、その周囲に転がっている。
 それらは媛神が、腕の一薙ぎ、一度の恫喝で吹き飛ばしたものばかりだ。
 
 相手は古今無双の戦神(いくさかみ)。
 自分がいかに無謀な戦いをしていたか改めて思い知り、正行は二の句が告げない。
 
 それでもなんとか媛神に言上しようと舌を震わせると、悪戯っ子のような意地悪な笑みを浮かべ、媛神はぴしゃりと宣言した。

「謙(へりくだ)るな、秋月の当代よ。

 汝は、これより吾と対等に話せ。 
 これは、吾の命であり願いである。
 
 …善いな?」

 有無を言わせぬ決定句。
 
 正行は、一つ深呼吸して肩の力を抜いた。

「承知した、媛神殿」
 
 ぴくり、と媛神の眉が跳ねる。
 突然不機嫌そうに眼を座らせて睥睨するので、正行は何事かと眼を瞬いた。

「言葉が足りなかった様じゃな。
 うむ、ではきちと形を取り交わしておこう。

 …汝、まさゆきと申したな?
 
 汝の名、どのような文字で綴るのじゃ?」
 
 自分の名前を問われているようである。

「…名?

 字の綴りは正しく行うと…」
 
 媛神は強く頷いた。

「相応しき名じゃ。
  
 では汝のことは、〈正行〉と呼ぶ。

 吾のことは、〈綾〉と呼べ。
 対等に故、〈殿〉はつけるなよ?」
 
 どうして媛神が不機嫌な顔をしたのか理解し、正行は困ったように頭を掻いた。

「〈綾〉とは、世の理を繋ぐ事(こと)であり、言(こと)であり、異(こと)である。
 万物の緒(お)であり、結(むすび)であり、要(かなめ)なのだ。

 それを司る女神(めかみ)の吾は、故に“綾の媛神”と呼ばれるのじゃ。
 
 吾に並ぶ武勇を持つ汝故に、正しき言霊で吾を呼ぶことを許す。
 敬語と言えど、余計なものをつけて、吾の真名(まな)が言霊を濁らすは我慢ならぬ。
 
 だから、〈綾〉とだけ呼べ。
 …良いな?」

 自慢げに金色の瞳を輝かせて、名を誇る媛神。
 
 その姿があまりにも眩しくて。
 正行は目を細めて、ただ頷くしか無かった。



 お久しぶりの小説です。
 いや、すっかり文章力が衰えてます…はぁ。
 
 今回は正行の出生が明かされますが、化け物じみて強いのは、そういう風に生れた上で、努力したからです。
 
 媛神の性格は、本来こんなかんじというのも紹介できたかなぁと思います。
 なんというか、気持ち好い威張りん坊って、好きなんです。
 悪びれず、正しいこと、そう思うことを黒くならずにずけずけ言うのって、憧れます。
 それだけ私が黒いということなのかもしれませんが。
 
 こんな感じで、ごくたまに文章も書きますので、これからも生暖かく見守って下さいね。
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鬼媛傳(おにひめつたえ) | コメント:0 | トラックバック:0 |

『遠野の鬼姫』 肆

 不適に笑みを浮かべ、美貌の鬼神と黒衣の武士(もののふ)は対峙していた。
 
 両者の放つ気合で空気は振るえ、眼光はぶつかり合って火花を散らす。
 
 不敗の伝説を持つ綾の媛神は湧き起こる高ぶりに心を躍らせていた。
 かつてこの媛神にこれほどの高揚を与えたものはいない。
 相手は水干に武骨な太刀だけの身なりだが、その武勇の凄まじさはわずかの時間渡り合った中でひしひしと感じていた。
 
「久しいかな…
 
 いや、これほど心躍るは初めてのことよ。
 汝(なれ)の剛勇、実に見事。
 
 楽しい、実に楽しいぞ、秋月の当主よ…
 もっとじゃ、もっと吾をたぎらせるがよいっ!!!」
 
 媛神は胸を躍らせる戦いに、くははっ、と楽しそうに哄笑した。
 
 それに応える様に、秋月の当主正行は太刀を上段に構え、応、と頷く。
 
 両者の居場所がぼやけると、互いの間にぶつかり合った一撃で稲光のような火花が散った。
 
 信じられない速度で弾き合う媛神の鉤爪と正行の太刀は、爆音と突風を起こし、互いの踏み込みと呼気が大地を揺るがした。
 
 これはすでに魔境の勝負。
 互いに一歩も譲らない壮絶な戦いであった。
 
 媛神の爪は半数に減り、正行の太刀は欠け散った刃が歪で無残な有様である。
 
 パキィィィィィイン!!!
 
 ついに媛神の鬼爪が砕け散り、正行の太刀もへし折れた。
 
 ばっと離れた互いの周囲は、竜巻と地震の跡の様に無残な地肌をむき出している。
 
 両者、荒い息を吐き出し、その肌を血の混じった汗が滑り落ちる。
 
 媛神と正行の一騎討ちは半時に及んでいた。
 
 互いに底なしの体力は連夜の戦いを可能にするほどでありながら、あまりに2人の攻撃は重く凄烈である。
 削りあって満身創痍。
 むしろ、ここに両者が立っているのが奇跡であった。
 
 得物を失いながら、媛神は拳を握り無造作に距離をつめる。
 
「ふふふ、まだ終わりではあるまい?
 
 その身があればまだ闘えるぞ…
 さあ、その武のすべてを振るうがよい。
 
 ともに武芸の極み、舞い踊ろうぞ!!!」
 
 正行も掌を突き出し組打(素手での格闘のこと)の構えを取った。
 青痣の浮いたその腕はまだ揺ぎ無い。
 
「この精果てるまで、お応え致そう!!!」
 
 互いに踏み込みで血潮の紅い霧を作り、立ち向かった。
 
「はあああああああ!!!」
 
「くおおおおおおお!!!」

 
 腹の底から叫ぶ。
 その拳、その蹴りで猛烈な打ち合いとなった。
 
 野蛮で武骨で荒々しいそれは、しかしとても美しい闘いであった。
 
 風に波打つ媛神と正行の、銀と黒の髪が互いの舞の衣装のようだ。
 豪奢な媛神の金色の眼(まなこ)が、蒼く輝く正行のそれと戦いの悦びを語り合う。
 飛び散る汗と血潮は互いに降りかかり、肌を熱くさせる。
 
 まさに命を懸けた舞踏であった。
 
「ふっ!!!」
 
 正行は伸ばされた媛神の腕をむんずと掴んで投げた。
 
「ぬぅ!!!」
 
 しかし媛神は絶妙の投げに逆らわずクルリと回りながら掌で正行の胸を殴打していた。
 
 ベキベキベキベキィッ!!!!!
 
 正行が旋回しながら背後にあった生木をへし折りながら吹き飛んでいく。
 
 だが媛神も地に叩きつけられながらごろりと一転し、よろめいて立ち上がった。
 
 歯を食いしばって立ち上がる正行の口と鼻からだらりと血があふれ出る。
 濁った咳を吐きながら、打たれた胸を押さえて庇い、ふらつきながら口と鼻の血を、ぐいとぬぐう。
 
 立ち上がった媛神も脇腹を押さえ、艶やかな朱色の唇から喀血した。
 しかしその目は正行から外していない。
  
(あやつ…
 
 突きをやる前に踵を入れてきたか。
 骨が砕けておるわ。
 
 すべて癒すにはしばらくかかるであろうなぁ…)
 
 媛神は大量に血の混じった唾を、吹くように吐き捨てる。
 
(しまったな…
 
 投げられながらなんとえげつない突きだ。
 腹の臓腑まで裂けている。
 
 いや、あれだけの一撃を喰らって生きておるのが僥倖か…)
 
 正行は呼吸を落ち着けて咳を止める。
 
 互いに動こうとするが、その身に負った傷はことのほか重かった。
 
(あれだけ吹き飛んで、よくも立てるものよ)
 
 媛神は口に残った自分の血を飲み下し、感嘆の目で正行を眺めていた。
 この武士は媛神を追い詰めているのだ。
 千の兵をたった一人で退けた倭国の伝説の武神を、である。
 
(渾身の踏み落としも、及ばぬか)
 
 正行の視野は少し霞んでいる。
 立っているのもつらい。
 震える足を何とか気力で支えていた。
 
 見れば媛神の朱い唇はまだ楽しそうに笑っていた。
 
(ふふふ。
 
 この吾が、冷や汗など…かくこともあるのじゃなぁ)
 
 ふらりと正行が片膝をついた。
 媛神も感覚のおぼつかない手で倒れた巨木を支えに立っていた。
 
 2人の間を風が駆ける。
 互いにこれが最後の一撃と、眼に乾坤一擲の覚悟が宿る。
 
 跳ね上がるように媛神と正行は踏み出し、互いに脱力した下半身のせいで、もつれる様に絡み、渾身の一撃を外して倒れ伏した。
 媛神と正行の意識はふつり、と途切れていった。
 
 
 最初に気がついたのは媛神であった。
 起き上がろうとして痛みに眉をひそめる。
 
「っふぅ、はあぁっ。
 
 …なんと、吾が地べたに伏しておるのか?
 く、くはははっ。
 
 片膝すらついたことがない吾が…」
 
 あきれたような微笑であった。
 
 媛神の目が自分に絡むように倒れている男を見る。
 まだ息があるが、媛神同様に虫の息だ。
 
「…目前のこやつに止めを刺す力もない。
 
 引き分けじゃな、この勝負は」
 
 指一本動かすのも辛いが、懐中から包み紙を取り出し、中の金色の丸薬を一粒口に入れ噛み砕く。
 血と混じった不快な苦味が広がるが、それを何とか飲み下した。
 しばらくすると痛みがすっと引いていく。
 
「人に授ける以外、使う道などないと思っていたのだがな。
 
 まさかこの霊薬を吾が飲むことになろうとは。
 …確かに不味いわ、これは」
 
 ぼやくように呟き、そっと自分に絡んだ正行の腕を外そうとして、媛神は目を見開いた。
 正行は気を失ってもなお、媛神の狩衣の緒をしっかりと掴んでいたのである。
 
「この倭国にこれほどの武士がおったとは。
 
 誇るがよい。
 汝は、この綾と武で分けたのだぞ…」
 
 愛おしそうにその頭を撫でる。
 血と汗と土埃でごわごわになった黒い髪。
 その肌は血の気を失って冷たくなりつつあった。
 
「…もう、聞こえぬか。
 
 ふむ、吾のようにはいかぬのだな」
 
 正行はすでに息をしていなかった。
 媛神すら死にかけていたのだ。
 人の身でここまで戦ったこの武士が常識はずれなのである。
 
「これほどの男、このまま逝かせてはもったいない。
 
 だが、吾の霊薬を飲み下すことはもはや無理か…」
 
 媛神は迷わず丸薬を口に含んで噛み砕き、正行におおいかぶさっていった。

鬼媛傳(おにひめつたえ) | コメント:0 | トラックバック:0 |

『遠野の鬼姫』 参

 男は伝説の媛神の前にいた。
 
 前にこの山に入ったという愚か者から数えて百年以上たっているという。
 しかもここは貴澄山の奥深く。
 ここまで常人ならば人里から二日はかかる場所である。
 
 そこで出あった異形の鬼神。
 数々の武勲を持つという、この絶世の美女は尊大な態度で面白そうに腕を組んでいる。
 
 楽しそうに嗤っていた媛神だが、不意に見下すような嗤いを止めた。
 
「…武士よ、その肝の太さは大したものよ。
 
 吾と向かってそこまで涼やかに立っておるのだからな。

 しかも、吾が名を聞いて震えもせぬ。
 
 さて…人を見ぬようになって随分経つが、汝の耳に届かぬほど、吾が名は忘れ去られておるのかや?」
 
 首をかしげるようにした媛神は、好奇の声で男に問うた。
 
 もちろん“不敗の鬼神”を知らぬわけはない。
 それに男は、この媛神に会いにやって来たのだ。
 
 男はすっと胡坐になって両拳を地につけると、頭を下げた。
 
「御名はよく存じております。
 
 先に名乗らせてしまいました我が無礼、お許しください。
 
 我が家名において貴女様の名を知らぬはずはありませぬ。
 御尊顔を拝するのはこの度が初めてなれば、伝えにしか御身を知らず、憶えなきと頷きましてございます。
 
 私は秋月一郎正行(あきづきのいちろうまさゆき)と申す者。
 
 貴女様が憶えておられましたなら、秋月正成(あきづきのまさなり)が直末と申せばお判りいただけましょうか?」
 
 男の名乗りにくっと媛神の眼が見開かれる。
 
「なんとっ!
 
 汝は“鬼斬(おにきり)”秋月のものか?」
 
 媛神が驚いたのは2つの意味で、である。
 
 一つはこの男が縁あってよく知る人間の子孫だからである。
 
 秋月正成とは倭国でも有名な鬼殺しの英傑である。
 そして媛神にとってはその天稟(てんびん…もって生まれた才能のこと)を見込んで武芸を教えた数少ない人間であった。
  
 もう一つはこの男が“鬼斬”と呼ばれる有名な一族の姓を名乗ったからだ。
 
 “鬼斬”とは簡単に言えば鬼の天敵である。
 人の身でありながら、体格も力もはるかに優れる鬼を屠る武芸や術を身につけた者たちなのだ。
 
「はい、巷ではそう呼ばれております秋月でごさいます。
 
 私はその当代。
 
 使いをよこして訪ねるのが道理でありましょうが、この媛神様が禁域を知るものは使いも畏れて役を受けぬものばかりにて、ましては我等が一門は名の如く、媛神様の鬼の眷属には嫌われ者なれば、私自ら参りましてございます。
 
 数々の非礼、御容赦下さい」
 
 媛神はふむ、と頷く。
 
「先ほど、尋常ならぬ疾さでこの貴澄に入ってくる輩がいると気付いて、やって来てみたが…」
 
 一息吐き、媛神はからかうような目で正行と名乗った男を見据えた。

「あの豪傑、正成の血族か。

 遠野が千余の鬼の眷属を統べる吾、鬼斬においてこそ悪名高かろうに…
 畏れずにおるそなたは、武勇に奢れる若造か、死を急ぐ馬鹿者か、それともよっぽどの大物であるのか。

 そなたの血族には、吾に挑んで勇名を成そうというものも幾らかおったが…
 
 その涼しげな立ち振る舞い、かの猪のように阿呆な輩とは違うようじゃの。
  
 用件を申すがよい。
 吾としては、この血をたぎらせる話であることを期待するぞ。
 
 退屈だった近頃のこと、少しは余興ともなろう故」
 
 尊大な物言いであったが、苛烈高慢で気まぐれなことが有名なこの媛神らしいともいえる。
 まして麗しい顔を期待に緩ましている様は子供のようだと、無礼なことを考えつつも正行は居住まいを正した。
 
「では、畏れながら。
 
 実は近頃、遠野近くの村落で女子供を襲う鬼がおるという話にございます。
 貧しい村人の蓄えを奪い悪辣極まりない行いだと。
 
 話の筋を追えばそれは媛神様が眷属との噂。
 鬼を討つ我が一族の頭として、媛神様にお訊ねしたきことはその真偽にございます」
 
 ほう、と媛神は幾分残念そうな様子で頷いた。
 
「…吾が眷属がそのような仕打ちをしたと?
 
 鬼斬を名乗る汝ならば存じていようが、吾は眷属に力なき民を虐げることは許しておらぬ。
 そのようなことをして吾の名を名乗るものがおるとすれば偽者であろうな。
 
 汝ら鬼斬の業をもって存分に討つがよかろう。
 
 つまらぬ話じゃな。
 そんなことを吾に話すためにきたのか?」
 
 媛神は期待を裏切られたという顔で言った。
 
 正行は少しむっとしたような顔になる。
 
「貴女様の眷属を名乗っている鬼でも知らぬと?
 女子供が貴女様の名で虐げられたかも知れぬというのに、《つまらぬ》と?
 
 鎮守を名乗る貴女様が、近頃は貴澄の館に引きこもっておいでだと伺っておりましたが…
 あまりの言葉ではありませぬか?
 
 もしも貴女の威徳を敬う民ならば、貴女様の御名を聞けば従うほかはないというのに」
 
 明らかに責める口調に、媛神の顔がさらに不機嫌そうなものになる。
 空気が軋むような威圧感が正行を襲うが、動じた様子は無い。
 
「仮に吾が眷属の所業だとして、それを討つのは構わぬぞ。
 そのような痴れ者を討つのに吾が許しはいらぬし、責めもせぬ。
 
 人の及ばぬことを成す…そのための鬼斬秋月じゃろう?」
 
 いかにも面倒くさそうに媛神は言う。
 
「私どもが動くのは容易いこと。
 されど貴女様の眷属を討ったとなれば“遠野の三鬼将”も黙ってはおりますまい。
 
 そうなれば人と鬼の争いともなりましょう。
 直接かの三鬼将に私が頼みに行ってもかまいませぬが、媛神様のとりなし無くしては吾らが彼らの住処に入ることは争いの火種にしかなりませぬ。
 我等秋月、鬼には毒虫のように嫌われております故。
 
 どうか彼の眷属のこと、媛神様の御威光を振るってはくださいませぬか?」
 
 ふん、と媛神は見下げるように正行を嘲った。
 
「何を言うかと思えば、益体も無いことよ。
 
 汝、吾に泣きつくつもりかえ?
 …そのような下らぬ話を吾にするために来たのか、そなた?
 
 彼の鬼斬も堕ちたものよ。
 汝の先達はもう少し骨があったぞ」
 
 正行はこの物言いに思わず面を上げた。
 そこには憤りの様がある。
 
「…下らぬ、と?
 
 貴女様は遠野の鎮守では無いのですか?」
 
 正行の眼差しには曇りがなかった。
 真っ直ぐな眼で媛神を見ている。
 
「…人とは、都合の好い時だけ吾らを神だの鎮守だのと申すなぁ。
 
 吾を悪鬼と攻め入って来た勇ましい頃もあったが…
 近頃の人の益体の無さには、呆れ果てたわ。
 
 人ごときの、しかも遠野の外で起きた騒動のために何故吾が動かねばならんのだ?
 まったく、人など…弱く、醜く、つまらぬ。
 猛逸(たけはや)る鬼どもの方がよほど吾を楽しませてくれるぞ」
 
 媛神は癇に障ったのか、むっとした顔で言い放った。
 
「遠野近郊で媛神様を知らぬものはありません。
 聞けば媛神様を祀る社もある村々のございます。
 
 これはあなたを敬う人を苦しめる出来事でございます。
 
 それを人ごとき、と見捨てなさるのですか?
 鬼の暴虐で明日をもしれぬ女子供を…」
 
 相手が伝説の鬼神であるにもかかわらず、正行は全く引かない。
 
「ふん。
 
 数ばかり増える人の数人、食われて減ったとて何だというのだ?
 おぬしらも獣や鳥を食らうであろうに。
 本来の鬼もそれと同じことをしておるだけ。
 何故それを止める必要があろう?
 
 吾に人を護れと申すなら、護るにふさわしき気概をみせるがよい。
 汝ら人がなせる励みを見せるがよい。
 
 何もせず吾を頼るでない。
 
 もう問答は止めじゃ。
 
 吾を責めるその目、生意気ではあるが…
 今は無礼の仕打ちをする気も起きぬ。
 
 お前のような情けないことを申す男の一人、手を下すだけで吾が名を損なうわ。
 
 特別に此度は見逃してやる故、吾が“庭”より早々に去(い)ぬるがよい」

 媛神はいかにも失望した…楽しみにしていた期待を裏切られた子供のように溜息を吐くと、正行を追い払うかのように邪険に下がれと手を振った。
 
 媛神も鬼に襲われるその人間たちは可哀想とも思っている。
 後で配下の鬼にそれとなく聞いてみようか、と思いつつも、やってきた正行という男には興味も湧かなくなっていた。
  
 媛神は他力本願な者が嫌いである。
 力を持ちながらそれを振るわず他に頼るのは毛嫌いしている。

(下種な行いをする鬼など、鬼斬の武で討ち果たしてくれば、いくらでも三鬼将なりにとりなしてやるものを…)
 
 媛神には本来鎮守として鬼の頭目として、遠野の鬼の行いを見張る役目があるのだが、最近は館に引きこもってないがしろになっていたのかもしれない。
 
(それもこれもこの退屈がいかぬのだ…)
 
 媛神は闘争を好む激しい気性の女神である。
 
 配下の鬼たちが見せる相撲なども昔は楽しんでいたが、強きを求めてやってくる武士と戦ったり、遠野の支配権を狙って攻めてきた妖怪などを打ち倒す高揚を思えばじきに飽きてしまう。
 
 長い時存在してきた最強の女神には、満足できる高ぶりが最近は全く得られなかったのだ。
 
 それ故に、誰も恐れて入ってこない貴澄山に堂々と入ってきたこの正行という男には、何とはなしに期待していたのである。
 この男なら吾の退屈を終わらせてくれるのではないか、と。
 
 だが実際は、胆力もあり礼節もそれなりに尽くしてくれたが、用件といえば自分を頼っての泣き言のようなものだったのだ。
 
 楽しみにしていた祭りが雨で中止になったような気持ちで、媛神はすっかりしらけてしまったのである。
 勝手な期待をしていたことを棚に上げている、とも言えるのだが。
  
 結局媛神は、正行などもう眼中にない、という風に踵を返し去ろうとした。
 
 正行はさっと立ち上がり足に付いた土埃を払うと、去ろうとする媛神に向けて失望したように呟いた。
 
「遠野の主が聞いてあきれる。
 
 館にこもって腑抜け、眷属の尻拭いも出来ぬ能無しになったのか」
 
 媛神は歩みを止めた。
 凍りついたような表情で振り返る。
 
「…汝今何と、申した?」
 
 ぞっとするような凄まじい、大気が震えるような怒気があたりを包む。
 並みの人間ならその一睨みで心臓が止まってしまうだろう。
 
 しかし正行は口元に確かな侮蔑を浮かべた。
 
「腑抜けて能無しになったのか?と言ったのだ」
 
 その鬼気をものともせず、正行は平然とのたまった。
 
「…空耳かえ?
 
 吾を、遠野の統べる吾を能無しとほざいたか?」
 
 あまりの暴言に呆然と、そしてわなわなと震えながら媛神は正行を睨んでいる。
 これほどの侮辱の言葉を媛神は受けたことがなかった。
 
(この無礼な男を生かしては返さぬ。
 
 だが、本当に自分をここまで罵った者がいるのか確かめねば…)
 
 怒りのあまり、思考が混乱いていたほどだ。
 
 だが正行は万人を殺せそうな媛神の激憤を、先ほどの礼節など忘れたように涼しげに受けている。
 
「…言いなおそう。
 
 遠野の鬼姫は能無しの上、耳が悪い。
 二度も聞くなどもはや腑抜けどころではない。
 まるで呆けた年寄だ」
 
 ズガッァァァン!!!!!
 
 天地が逆転するような轟音とともに、周りの木々が数本、まとめてへし折れた。
 
「…ほざきおったな、下郎!!!」
 
 怒髪天を衝く。
 
 銀の髪は逆立ち、その瞳は稲妻のように光を放っている。
 突風があたりの草木を残らず薙ぎ倒していく。
 
 媛神の怒りはそれほど苛烈だった。
 
「…まるで駄々っ子だな」
 
 周囲の異常な空気を気にとめた風でもなく、正行は平然と異形を睨み返した。
 
「…許さぬ、許さぬ、許さぬっ!
 
 人の分際でぬけぬけと申したその暴言、秋月を名乗る一族郎党を全て引き裂き贖わせてやるわぁぁあっ!!!」
 
 正行が先ほどまで立っていた場所が陥没する。
 媛神の怒りは無尽蔵な力とすさまじい速度で、彼の後を追ってあたりを破壊していく。
 
「痴れ者が、逃すものかっ!
 
 その愚かな言葉をこぼす腐った口ごと、欠片も残さず消し炭にしてやるわ!!!」
 
 異形の眼前に巨大な光の珠が浮かぶ。
 
 稲妻を圧縮して塊にしたようなそれは、ばりばりと周囲に電光を迸らせ、一直線に正行の元へ飛んで行く。
 しかし、正行は太刀の柄に手を掛けると掛け声一息、抜きざまにそれを斬って捨てた。
 
「ぬっ?」
 
 これには媛神も眼を見開く。
 
 この正行という男、常人ならば三度は消し飛ぶ妖術を斬ったのである。
 太刀で妖術が切れるなど、聞いたことも無い。
 二つに断たれた光の珠は、正行の太刀から緩やかに立ち上る旋風に分かたれて大気に散っていった。
 
 すうっ、と空気を撫でる様に太刀を横に構えた正行は、滑るように一歩媛神へと踏み出した。
 
「…参るっ!」
 
 掛け声一声。
 
 媛神が息を呑む。
 それは神速の踏み込みだった。
 
 ガッシィィィィィイン!!!
 
 正行の一太刀は、媛神の無造作に突き出した素手…そこから一尺ほど伸びた鉤爪に受け止められていた。
 ぼとり、ぼとりと何かが落ちる。
 
「…何と!?」
 
 それは断たれた媛神の鉤爪二本である。
 壮絶な一刀を防ぎきれなかったのだ。
 
 怒り狂っていた媛神のの口元がくっと吊り上る…今度は笑みの形に。
 それは闘争を好む修羅が、戦うべき相手を見つけてたぎるような歓喜の表情であった。
 
 媛神は心の中で、無礼はとりあえず許してやろう、と思った。
 今までの鬱屈とした気分も怒りも、すべて消えてしまうような喜びを覚えていたからだ。
 
 だがこれほどの好敵手、逃せはしない。
 
 かつて大陸から渡って来た大妖すら媛神の爪を切り落とすなどといった芸当はできなかったのに、この男は簡単にやってみせた。
 しかも、神器名剣の類ではない武骨な普通の太刀で、である。
 
 ほとんどの場合、敵が一方的に媛神の武威に押しつぶされて勝負がつく。
 だが正行は一瞬、媛神を退けてみせたのだ。

 …この武勇だけで自分を退屈させ、侮辱して怒らせたことなど忘れてお釣りがくる。
 
「…面白い」
 
 くっく、と媛神は愉快そうに笑っていた。
 そこに先ほどの怒気はなく、かわりに無邪気で凶暴な気配を背負って口元を吊り上げている。
 
「…面白いぞ、汝。
 
 吾と戦うがよい。
 吾を楽しませたならば、無礼は許してくれる。
 生き残れば、じゃがなぁ。
 
 さあ…その力、存分に吾に魅せよ!」
 
 媛神がさっと手をかざすと稲妻が辺りを穿っていく。
 しかし正行の周りに不思議な風が吹き、稲妻を悉く跳ね返した。
 
 正行は媛神との間合いをぐっと詰め、一刀を浴びせる。
 
 カッ、と媛神がそれを払う。
 
 それでも正行は引かずに太刀を振るい、相手の鉤爪を削る凄まじい斬撃を放ち続ける。
 打ち合うこと十数。
 蝿でも打ち落とすかのように、媛神は大きく正行の太刀を薙いだ。
 
「ぬるいわ!」
 
 逆手のうなるような反撃の一薙ぎは、正行の水干を掠めて後ろの大木を断ち割った。
 
 ドスゥゥン!
 
 同時に鈍い音が響いた。
 
「ぐぅっ!!!」
 
 太刀の間合いでは間に合わないと知った上で、変則的に放った正行の肘打ちである。
 体当たりを兼ねた重い肘は媛神の胸を抉るはずであった。
 しかし、胸半寸手前で媛神の妖力が壁となり、辛うじてその一撃を止めていた。
 
「ふん!!!」
 
 媛神は強引に踏みとどまり、無造作に腕で正行を押しやった。
 そこで追い討ちを掛けるように鉤爪で薙ぐ。
 
 パキィィィイン!!!
 
 爪から放たれた妖力を、正行は突き出した太刀でそらすように弾いた。
 正行の髪数本を掠めとった一撃は後ろの大岩を五つに分断し大地を割っている。
 
 2人はさっと距離をとり睨み合った。
 
「………」
 
 媛神の粉砕した木や岩が今になって崩れ落ちる。
 
 たらり、と正行の頬から血の雫が流れ落ちた。
 
「ふふふふふ…」
 
 媛神が楽しそうな笑みを浮かべている。
 
「ははははは…」
 
 何時の間にか正行も笑っていた。
 互いに不敵な笑いである。
 
 
(ふ、肘打ちで吾が妖力の護りを破りおった。
 
 臓腑に染み入る一撃とは、侮っておったの)
 
 軋む身体を悠然と立たせながらも、内心媛神は驚いていた。
 
 媛神の纏う妖力の壁は鉄壁である。
 実際肘は止めきったのだ。
 だが、妖力を徹って重い衝撃が媛神の内臓を震わせていた。
 軽い吐き気を気力で押さえ込む。
 
 かつて媛神に不快なほどの一撃を加えることができたものは一人もいない。
 彼女と同類の神格や、異国の大妖でもだ。
 
 先ほどの薙ぎもわずかにずれた。
 あと少しで正行の頬肉ごと後頭部をごっそり抉り取っていただろうに。
 
 いや、攻撃を弾かれた鉤爪の一本に小さな裂け目がある。
 もう少し強い攻撃だったならこちらの爪が折れていたかもしれない。
 

(腕が痺れるほどとは。
 
 鬼神とはいえ何という薙ぎだ。
 無造作なようだが、通力を込めた太刀で受けねば頭が無くなっていたな)
 
 正行にとって先ほどの肘打ちは奥義の一つである。
 当てた大岩の後ろだけ砂粒に変えるほどの威力があるはずだが、完璧に入れたはずが効果を抑えられて二割の威力も出せなかった。
 媛神の鉄壁の防御に舌を巻く。
 
 逆に反撃を受け、それを流した太刀を握る腕がびりびりと痺れている。
 流しきれるはずだったのに、現実は紙一枚分歪んだ太刀と重い腕の痛みである。
 
 引きつるような頬の裂傷は、冷や汗が染込んでかすかな痛みを告げていた。
 
 
 互いに半分は痩せ我慢をしつつ、媛神と正行は、内から湧き上がる闘争への高揚に酔う。
 
 大木が崩れ落ちて巻き上がった木の葉が、そよぐ微風と一緒に2人の間を駆け抜けていった。

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『遠野の鬼姫』 弐

 大陸の東の果て、海を渡ってさらに東。
 小さな島国がある。
 名を倭国(わこく)という。
 その国の民は倭(やまと)と呼んだ。
 
 その国に古い書物がある。
 『倭國異神記(やまとのくにことかみのしるし)』と題されたそれには、この国の異形の神や魔物の神話、伝説を記したものだ。
 その中に一柱の鬼神の伝説が記されている。
 
《この国の北に遠野という土地あり、獣多く木々茂りて人の入れぬ山数多。
 霊峰そびえ立つ中、その最も美しく高き峰は貴澄という。
 
 この地には古き代より一柱の媛神(ひめかみ)ありこの地を治さめる。
 能く(よく)妖術をなし千の鬼を統べる鬼神なり。
 
 その性、猛々しくありながら風雅。
 酒を好み、強きを好み、美しきを好む貴人なり。
 
 その姿、異形なれど雅にして麗し。
 白銀(しろがね)の長き御髪は輝く絹糸。
 眼(まなこ)は黄金色にて日輪の如く。
 肌は北国の白雪に似たり。
 その唇は丹の朱色、奏でる声は鈴の音。
 美しきにおいても人にあらず。
 
 雷(いかずち)を手繰り、風を纏い、空を震わす。
 それは天地(あめつち)の宿めを握るがごとく、常ならざる力を為す。
 世が理(ことわり)の糸を巧みに手繰る由(よし)、“綾”を編む如きなれば、名を“綾の媛神(あやのひめかみ)”と呼ばれしが、人は恐れて“遠野の鬼媛(とおののおにひめ)”と称す。
 
 一睨みされれば死に至り、その一喝は魂魄をも震わすという。
 
 千の兵もその武威に適うことなし。
 あまりに強く、戦うにあっては敗れるを知らず。
 数多の強者(つわもの)挑みて並ぶものなし。
 
 強きものには頂なれば、本朝の武臣も恐れ崇めたり》
 
 
 “不敗(まけず)の鬼神”。
 
 この美しく恐ろしい女神の伝説は倭国の隅々に広まるほどであった。
 
 
 ある時代、時の朝廷が貴澄に兵を差し向けて、彼の女神の聖域を蹂躙しようとした。
 
 新しい社殿を建てるための材木を求めてのことだったが、労働力として遠野にひっそりと暮らす山の民や森の民も徴用する考えだった。
 朝廷がこの地の民に従うよう一方的な物言いで、朝廷への服従の証として貴澄山で一番立派な木を採るよう命じたのである。
 媛神を恐れる遠野の民はそろってそれを断り、山や森に引きこもってしまった。
 これに怒った朝廷は壱千の兵をもって遠野を攻めようとしたのである。
 
 そして軍が遠野の入り口に差し掛かった折、率いる武将の馬が動かなくなってしまった。
 にわかに空が曇り、雷が轟くと兵たちの前に異形の女があらわれた…綾の媛神である。
 媛神の恐るべき気配に兵の多くが腰を抜かし、半数が逃げ出す始末であった。
 兵を率いていた武将は面目を保つため、媛神に切りかかろうとしたが、媛神の一喝で倒れ伏した。
 兵が連れ帰ったその武将は、都に着いたときは髪が真っ白になり、眼は白く濁って廃人の様だったという。
 
 綾の媛神は、たった一人で千の兵を退けてしまった。
 そして都にやってくると、遠野征伐を命じた朝廷の武官と将軍の館に稲妻と風で大穴をあけ、これ以上の狼藉があれば朝廷も同じになるだろう、と脅して去っていった。
 
 時の帝はあまりのことに寝込んでしまい、面目を潰された武官と将軍は免職されて流罪になった。
 朝廷は貴澄山と遠野には触れてはいけないといって、綾の媛神を“阿夜訶志貴守比売(あやかしのたかすひめ)”という古からある女神として遠野に社を設けて奉ったのである。
 
 綾の媛神が鬼の神として祀られるようになったのはそれより後である。
 
 いつしか鬼が山野に現れるようになった頃、牙王(がおう)という鬼の大将がたくさんの鬼を引き連れて遠野近郊を荒らしまわった。
 朝廷が築いた遠野の入り口にある阿夜訶志貴守比売の社も壊され、遠野の民は苦しんだ。
 これに心を痛めた女神たちがいた。
 遠野の森を守護する“朱衣掛小媛(すいかけのこひめ)”と“蒼葉着小媛(あおはつきのこひめ)”と呼ばれた双子の女神である。
 彼女たちは朝廷の兵を倒した綾の媛神の武勇を頼り、救いを求めた。
 綾の媛神はそれに応え、牙王以下多くの鬼をあっというまに打ち倒してしまった。
 牙王は綾の媛神の強さに感服し、進んで媛神の配下になったのである。
 牙王は“牙王丸(がおうまる)”と名乗り、綾の媛神にとって最初の鬼の眷属となった。
 
 当時朝廷によって退治されるばかりだった鬼たちは、綾の媛神をたよって続々と眷属となり、いつしかこの女神は鬼を支配する鬼神として恐れられるようになる。
 牙王丸は貴澄山の近郊に広がる“九弦谷(くげや)”という谷の洞窟を住処として与えられ、“九弦谷の牙王丸”と呼ばれるようになった。
 ほかに同じような鬼として“信太河(しだがわ)の紗霧(さぎり)”と“焼威沢(やいさわ)の猛盛(たけもり)”がおり、牙王丸と併せて“遠野の三鬼将(さんきしょう)”と呼ばれるようになった。
 
 この媛神、大変気まぐれではあったが、自分の守る遠野の民には寛容で慈悲深い女神でもあった。
 貧しい山野の民に恵みをあたえたり、流行り病があればどの薬草が利くかを教え、森に迷った子供を助けたりもした。
 歌や舞を好み、遠野の民にそれらと祭りを教えたのもこの媛神である。
 故に遠野の民は恐れと一緒に“あやさま”とか“おひいさま”と親しんで呼び、崇めていた。
 
 鬼の騒動の折、綾の媛神に助けを求めた“朱衣掛小媛”と“蒼葉着小媛”も、綾の媛神を慕ってその眷族となった。
 この二神は“すいさま”、“はづきさま”と呼ばれ、綾の媛神とともに遠野で信仰されることになる。

 綾の媛神…この恐るべき鬼神に挑み、名を上げようとする恐れ知らずの武芸者や豪傑もいたが、一人として綾の媛神に及ぶものはいなかったという。

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『遠野の鬼姫』 壱

 蒸せるような暑い日であった。
 
 匂い立つ様な萌える緑。
 初夏も終わろうとする森は、虫や鳥の鳴く声にあふれ、絡みつくような湿気と土の香りに満ちている。
 
 獣もよろめきそうな細い獣道。
 木々の鋭い枝を避け、歩むものがいる。
 
 色あせた墨染の水干を纏い、冠もなく無造作にその黒髪を束ね、腰には武骨な一本の太刀。
 背は五尺五寸を越えるほどあるが、筋骨隆々というほどではない。
 しなやかでどこか優美な身体つき。
 秀麗な顔立ちと、漆黒の深さの中、よく見ればわずかに蒼い輝きを宿した神秘的な双眸。
 粗雑な出で立ちでありながら、見たものがはっとするような美丈夫である。
 
 その男、歩き方からして尋常ではなかった。
 
 まず歩みが速い。
 走っているわけでもないのに、一歩で常人の五歩、十歩を見る間に踏破していく。
 
 これだけ草木が茂っている中、枝に触れることも葉を落とすことも無い。
 進むたびに枝や葉が勝手に避けていくのである。
 
 そしてただ無造作に歩いているだけであるのに、滑るように音一つしない。
 
 山の民の長老でもこうはいかないだろう。
 
 不意に開けた場所に出ると、男はふわり、と立ち止まった。
 
「もはや、彼の御方の庭に入ったはずだが…」
 
 1人呟いたその声は深くよく通る。
 
 周りを静かに見回すとまた歩みだそうとして、ぴたりと止まる。
 
 …虫も鳥も鳴くのを止めていた。
 風さえそよぐのを止め、そこには不気味な凪がある。
 
 男はすう、と一息丹田の下に力を込めて呼吸する。
 男の涼しげな顔。
 その頬を冷たい汗が伝わり、落ちた。
 
(…凄まじい威圧感だ。
 
 先ほどまで気配も無かったが、姿も見えぬのにこの有様か。
 噂通りの御方よな)
 
 男は完全に歩みを止め、目を見開く。
 
 びゅぉぅ、と風が舞う。
 
 そして瞬きする間もなく、目前にそれは立っていた。
 
 思わず退きそうになった男は、く、と腹に力を入れて、しっかりとそれを見た。
 
 ファサリ、と白銀(しろがね)の滝が波打った。
 瞳を閉じ、雪のような白い面に丹を塗ったような紅い唇が浮き立つように生える壮絶な美貌。
 藍染の狩衣を纏い、大木の下に立ちながら、その木よりも大きな気配を持つ女であった。
 見ればその輝く髪から横に大きく二本の異物…角のようだ。
 
 …異形である。
 
 腰は徳利のようにくびれ、胸と臀(しり)は程よくでて艶のある身体であるが、女人にしては背が高い…五尺三寸(175cm以上)はあるだろう。
 腰よりも長い絹のような髪がしゃらり、しゃらりと女を取り巻く光に交わって揺れていた。
 
 長く流麗な睫毛の奥、その眼がゆっくりと開かれる。
 黄金(こがね)が流れ出すように、輝くばかりの金色の瞳が顕われ、男に向けられた。
 
 男はごくりと唾を飲み込む。
 
 女は男がするように腕を組み、尊大そうに立派な胸を張り、自分よりも背の高い男を見下ろすように見やった。
 女の周囲はそれだけですべてが凍結したように静まる。
 
 しかしそれほどのものを、男は目をそらすことなく見据え先に言葉を発した。
 
「貴女様がこの貴澄山(たかすみやま)、遠野(とおの)の主殿でありましょうか?」
 
 どもることもなく、臆することもない涼やかな問いであった。
 
 女の美貌が興味深げな笑みの形に変わる。
 その艶やかな唇が、白く輝くような歯が、謳うように言葉を紡いだ。
 
「…近頃は吾(われ)を畏れ、人は誰もが近寄らぬこの山深く。
 
 のうのうと入って来たそなた、憶えなく吾(われ)を問うのか?」
 
 咲いた椿を思わせる深紅の唇から生まれ出る、鈴を鳴らしたような美声。
 聞くだけで魂が絞めつけられるような威圧感がある。
 
 そして、くくっ、と女は嗤った。
 
 男は恐れのない顔でしっかりと頷いたからである。
 しかし男の脇の下にはじっとりとした冷たい汗が伝い落ちた。
 
(…並の人ならば、睨まれるだけで死に、その一言で魂を奪われるという言い伝え。
 
 これならば偽りとはいえぬな)
 
 表情には出さず、心の奥で男は戦慄していた。
 しかしそれ以上に女の姿に見惚れている。
 
(…恐ろしい以上に、何と美しいのだろう。
 
 これが人ならぬ者が持つ、完成された美貌というものか)
 
「……………」
 
 男と異形の女は、しばらくの間押し黙って互いを見詰め合った。
 
 やがて女がまた嗤う。
 すうっ、とその陽の光を飲み込んだような黄金の双眸が男を真っ直ぐ見据えた。
 
「くく、吾の目をこうも長く見返した人なぞ、絶えて久しい。
 
 汝(なれ)の強き心に免じて応えてやろう」
 
 一歩、女は男の方へと進んだ。
 大気が揺らぐような威圧感と圧倒的な存在感が嵐のようにのしかかって来る。
 
 辛うじて男は下がらなかった。
 
「…吾こそはこの遠野が鎮守の女神(めかみ)。
 
 古(いにしえ)には“綾の姫神(あやのひめかみ)”なぞと謳われもしたが、数多の鬼を統べるが故に人間どもにはこうも呼ばれておるな…」
 
 にたりと嗤って女は続けた。
 
「“遠野の鬼姫”と」
 
 美しい鬼の女神は忌み名であろうそれを、面白そうに口にした。
 興味深げに目を細めて男を見つめる。
 そして胸を張り、誇らしげに付け加えた。
 
「吾にここまで語らせるほど忍んだ、汝の胆力を誇るが善い。

 そう、あえて吾を名乗るなら“綾(あや)”である。
 畏まって呼ぶが良い、武士(もののふ)よ」
 
 異形の女は心底可笑しそうに、口元を吊り上げた。

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