Y字の交差路

 ここはY2つめがノリで作ったブログです。  カードワースを中心に、私が思ったことや考えたことを徒然なるままに書きたいと思います。

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『荒波を裂く風』

 “風を駆る者たち”と“風を纏う者”が『蒼の洞窟』に集結したのは、その日の夕方だった。
 
 まずレナータのもとに真っ先にニコロとエイリィが駆けつけ、彼女に事件の発端となる理由を聞きつつ、彼女を守っていた。
 
 そしてレイモンとオーベが『悠久の風亭』のマスターと到着。
 
 最後、日が傾いてきた頃にユーグとガリーナ、そしてシグルトを欠いた“風を纏う者”の4人が洞窟にやってきた。
 
 先に洞窟にいたメンバーは互いの情報を交換しながら励まし合い、士気を高めていた。
 だが、皆一様に何か胸騒ぎと不安を感じていた。
 突然アレトゥーザの臨む碧海が凪いでしまったこともその不安を強いものにしていた。
 ニコロやレナータには精霊たちが、塞ぎこんでしまったように感じられた。
 
 おそらくは今回レナータを生贄にしようとする魔女狩り騒動と、聖海保守派の動き、そして近海で蠢く海賊たちも関わっているのかもしれない。
 
 やっとユーグたちが到着した時、待っていた者たちはほっとしたのである。
 
「遅かったじゃないか!」
 
 ニコロが焦りと安堵が入り混じった顔で、ユーグとガリーナを迎えた。
 しかしやって来た2人は、ともに暗い表情である。
 
 レイモンは、一緒にやってきた“風を纏う者”のメンバーの悲壮な様子に驚いた。
 
「…シグルトはおらんのか?
 
 まぁ、あの身体では宿で休んでおった方がよいじゃろうがの」
 
 オーベががそういうと、やってきた者たちは一様にびくりと反応した。
 
「…あのね、オーベ。
 
 何というか、話し難いことなんだけど…」
 
 いつもはっきりものを言うガリーナがこのように言いよどむのは珍しい。
 他の面々も、ただ事ではないことが起起きたのだと推測できた。
 
「…シグルトはいないわ」
 
 意外にもレベッカがはっきり言った。
 彼女のやつれた様子に、“風を駆る者たち”のメンバーも息を飲む。
 
「どういうことですか?」
 
 レイモンは嫌な予感がしつつ、それでも聞いた。
 
「…シグルトは死んだわ。
 
 ジョドっていうレナータちゃんを襲った侍祭に殺されたの」
 
 死んだ、という一言で場が凍りついた。
 
「なっ、あのシグルトが死んだって?
 
 冗談にもほどがあるぞ、レベッカ!!!」
 
 いつもの大声で『悠久の風亭』のマスターががなる。
 だが、“風を纏う者”のメンバーの様子は側で見れば酷いものだった。
 
「う、嘘だ、そんなの嘘だっ!!」
 
 そう言ったニコロは、小さな風の動きを感じてそちらを見る。
 それは所在無げに“風を纏う者”の周囲を飛び回る風の精霊たちだった。
 
 ニコロやレナータには見覚えがある。
 
 その精霊たちは、いつもシグルトの側に居たがった風たちだ。
 特に、海風の強いアレトゥーザでは決してシグルトから離れずに側にいた。
 そして、その精霊たちは半分狂いつつあるのが分かる。
 
 精霊が狂うのは、依存していた主や寄り代を失った場合が最も多い。
 
「「なんだい、このシルフどもは狂いかけているじゃないか」」
 
 ニコロの側にいるナパイアスが鼻白む。
 
 ニコロは精霊たちの声を聞く。
 
「「居ない、居ない、シグルトが居ない。
 
 殺された、刺されて海に沈んだ。
 
 どこにも居ない。
 シグルトが居ない…」」
 
 普通は澄んでいる瞳が赤黒く濁り、風の精霊たちは呻きながらふわふわと飛び回っていた。
 
 そして、ニコロの目にはっきりとその映像が映る。
 
 澱んだ目で嗤い、短剣を振りかざすジョド。
 何度も刺され、血を吐いて、縛られたまま海に蹴り落とされるシグルト。
 刺された箇所の一箇所が胸の辺りで、致命傷であることがはっきりと分かった。
 
「っっ、ぃ、いやぁぁぁぁっ!!!!!」
 
 目を見開いたレナータが絶叫した。
 
 おそらくはニコロと同じく、精霊の記憶を垣間見たのだろう。
 風の知らせというぐらい、風の精霊は記憶や情報を精霊術師に伝えることがある。
 
「嫌、嫌、嫌ぁぁぁ!!!!」
 
 パニックを起こして叫ぶレナータを、マスターが慌てて抱き押さえる。
 
 ニコロは何も出来ず呆然としていた。
 そのくらい、風の精霊が見せた映像はショッキングで凄惨なものだった。
 
 レナータはマスターを振り切って水の精霊を召喚すると、シグルトを探すように頼む。
 特別水の精霊力が強い『蒼の洞窟』では、精霊の力を高め、情報を精霊に探らせることも出来るのだ。
 
 しかし、その水の精霊の言葉は残酷な真実を告げた。
 
「「その人は海の底。
 
 姫様のいる、海の底。
 
 血を流して沈んでいった。
 
 息吹も血潮の流れも、止まったまま沈んでいった。
 
 そのままずっと、海の底…」」
 
 ぺたりと、レナータは力が抜けたように座り込んだ。
 
 ニコロの前であれほど苛々していたレナータが、倒れそうな疲労の中で心の平静を取り戻していたのは、シグルトの言葉があったからだ。
 
 レナータはニコロたちに、洞窟でシグルトが励ましてくれたことを誇らしそうに話してくれた。
 自分に友として生きていてほしいのだと言ってくれたことを、大切な宝物のように。
 
 ソレント渓谷に行く前、ニコロを励ましてくれたシグルトの姿が浮かぶ。
 公正で優しくて、いつも苦笑していた少し年上の冒険者。
 沢山の悲しみを味わいながら、それでもしっかりとした意思で立つことを示し、ニコロの旅立ちを支持してくれたシグルト。
 
「畜生…こんな、こんなことって…」
 
 何も出来なかったことが悔しくて、ニコロは拳を痛いほどに握り締めた。
 
 レナータが誕生日にシグルトからもらったペンダントを握り締める。
 
「…嘘つき…
 
 待っていてくれって、言ったのに」
 
 レナータの碧い瞳から、涙が零れ落ちた。
 
 
「…起きろ、ルト」
 
 シグルトは懐かしい呼び方に、目を開けた。
 ルト。
 シグルトの幼馴染は、妹と同じ発音がある名前をそのまま呼ぶことを面倒くさがり、略してそう呼んだ。
 彼の妹のシグルーンも、ルーンと呼ばれていた。
 
 もう決して聞くことは出来ないと思っていた声。
 シグルトが声の主を探すと、くすんだブロンドの陽気そうな若者が悪戯っぽい笑みを浮かべて立っていた。
 
「…ワイス、か?」
 
 シグルトにワイスと呼ばれた若者はしっかりと頷いた。
 
「とうとうお前もここに来ちまったな。
 
 無茶ばっかりしやがってよ…」
 
 仕方ない奴だ、とワイスは肩をすくめた。
 
 そこは蒼い空と、清らかな川のある美しい場所だった。
 シグルトが起きた所は川辺の柔らかな草の上である。
 そしてワイスの後ろには大きな森が広がっていた。
 
「…そうか、俺は死んだのか」
 
 納得したように胸を撫でる。
 そこはまだ血で紅く染まっていた。
 
「…おかしなものだな。
 痛みも苦しみも無い。
 
 これが、死か…」
 
 ふわふわと浮いたような所在の無い感触に、シグルトは眉をひそめた。
 
「俺やエリスは教会に神の園へ入ることを神の言葉で否定されたから、まだここを彷徨っているんだ。
 
 ここは赤銅と青銅の魂の者たちが、その記憶が融ける前に訪れる、混沌の海へ続く死の川のほとりだ。
 生への執着が強いものや、俺やエリスのように信じた信仰の世界に否定された者が留まる場所でもある。
 
 エリスはお前の恋慕。
 俺はグールデンへの復讐。
 
 未練と執着があったのさ。
 
 そして、教会の名でエリスは自殺者としてその死を汚され、俺は聖職者に刃を向けた罪人としてここにいる。
 だが、狂わず、地獄に落ちず、死霊になって彷徨っていないのは…
 
 ルト、お前やルーンが俺たちのために泣いてくれたおかげなんだ。
 
 お前たちの祈りが俺たちを救ってくれた。
 
 グールデンの野郎は、死神がそのまま地獄に引っ張っていったけどな…」
 
 …ワイス。
 シグルトの幼馴染で、親友だった男である。
 がさつだが、陽気で気の好い男だった。
 
 かつてシグルトは国一番の美女と噂の貴族の娘ブリュンヒルデと恋仲だった。
 そして、そのことを嫉妬していた男がグールデンである。
 
 グールデンは何度もシグルトを貶めようとし、ついにはシグルトに想いをよせるワイスの妹のエリスを拉致し、数人の男たちで彼女に暴行をしたのである。
 悪漢に乱暴され、自慢の美しい金髪すら剃り落とされて、絶望したエリスが自殺すると、ワイスは激憤した。
 
 シグルトはそんなワイスに復讐を手伝ってくれと言われ、怒り狂うワイスを留めた。
 
 シグルトには守るべき妹と母がいた。
 だから慎重になり、そしてワイスは煮え切らないシグルトを罵って1人で復讐しようとしてグールデンに掴まり、なぶり殺しにされたのだ。
 
 シグルトの国の教会の権力は強く、同時に自殺者や聖職者への危害は重い罪に問われる。
 エリスは自殺者としての罰で首を切り落とされ、なます切りにされたワイスは死体を広場に晒された。
 シグルトは、墓に葬ることを許されなかった2人の遺体を、グールデンの目を盗んで取り返し、郊外の森に墓を作った。
 
 すべてはグールデンがシグルトに嫉妬して行った凶行から起こったこと。
 シグルトの大切な幼馴染の兄妹は死んでしまった。
 
 シグルトは2人を守れなかったことに嘆き、そして自分が原因であったことに苦しんだ。
 
 そして、ついには妹シグルーンをグールデンに攫われ、自身は捕まり、身体を切り刻まれた。
 遂には妹が暴行されそうになり、激昂したシグルトはぼろぼろになりながらグールデンを殴り殺した。
 
「…ワイス、すまない。
 
 俺はお前の力にもなれず、エリスを救うことも出来ず、結局お前たちを死なせてしまった。
 俺の側にいたせいで、お前たちは…」
 
 不意にシグルトの目から涙がこぼれた。
 
 シグルトにはずっと罪の意識があった。
 巻き込み、そして失ったことを忘れた日は無かった。
 大切な友を守れなかった己の不甲斐なさに、ずっとその悲嘆を抱えてきたのだ。
 
 膝を屈して謝るシグルトを、横からそっと起こす手がある。
 
「ルト兄ちゃんのせいじゃないよ。
 
 それに、ルト兄ちゃんを好きだったのは私の誇りだよ?」
 
 それは、そばかすの残る陽気そうな、美しい金髪の娘だった。
 
「エリス…?」
 
 金髪の娘はにっこりと笑って、シグルトの手を自分の手でそっと包む。
 
「強くて、優しくて、格好良くて。
 でも、人一倍頑張り屋さんで、いつも苦笑いしてるルト兄ちゃんが好き。
 
 ブリュンヒルデ様に、恋人の席はとられちゃったけど、今でもルト兄ちゃんを愛してるよ。
 
 そんなに自分を責めて泣かないで…」
 
 優しくエリスはシグルトの肩を撫でた。
 
「…ルト。
 
 俺たちは理不尽に膝を屈して死んでしまった。
 
 だけど、お前は嘆きながら、俺たちを忘れずにずっと戦ってくれた。
 俺たちが飲まれた理不尽と戦ってくれた。
 
 だから、とっくに許しているよ。
 
 それに、おまえの一番の親友だったのは俺の誇りなんだぜ?
 
 だから嘆かずに、もう休んでもいいんだよ」
 
 そう言ってワイスもシグルトの肩を抱く。
 
「…ワイス、エリス。
 
 ありがとう」
 
 シグルトは2人を抱き寄せた。
 その目から新しい涙がこぼれる。
 
「泣くなよ、お前らしくない」
 
 そう言ってワイスは晴れやかに笑った。
 
 
「…なぁ、ワイス、俺は死んだのか?」
 
 しばらくしてシグルトは落ち着くとそう聞いた。
 
「ああ。
 
 今、お前の身体は海の底に沈んでる。
 そしていつかは魚たちに食われるんだ。
 
 お前は精霊に愛されているから、今はネレイデスがお前の身体を守っているがな」
 
 シグルトは一度目を閉じ、そして立ち上がった。
 
「ワイス、エリス。
 話せてよかった。
 
 俺は行く。
 待たせている奴らがいるんだ」
 
 ワイスは肩をすくめた。
 
「死んだ身体に戻っても生きられないんだぞ?
 
 それでも留まろうとすれば、お前はアンデッドに堕ちる。
 摂理を歪めても生きたいのか?」
 
 シグルトは少し考えるように目を閉じ、そして頷いた。
 
「俺には残してきたものがある。
 果たしていない約束がある。
 
 そして失いたくないから足掻く。
 身体の一片が果てるまで、終えていないことをやり通すよ。
 
 生きてほしいと思った人がいる。
 大切な仲間がいる。
 
 だから、目的を果たすために行く、ただそれだけだ」
 
 迷いの無い目でシグルトはワイスを見返した。
 
「あのぼろぼろの身体でか?
 
 それだけのことをしたって、お前に何が残るんだ?
 アンデッドになって、最後に無理やり聖北の坊主に、【亡者退散】で消されて終わりかもしれないんだぞ。
 
 勝って、生き返って、ハイ幸せでしたなんて奇跡、起きると思うのか?」
 
 ワイスが現実の厳しさを示唆する。
 だが、シグルトは爽やかにワイスに微笑んだ。
 
「奇跡が起きるかなんて分からない。
 
 でも、動かなければ、尽くさなければ結果は生まれない。
 俺は奇跡を待つような人間じゃないよ。
 
 それに、奇跡は起きるのをただ待つのではなく、自分で励み起こすものだ。
 
 必要なら、そうなるまでやるだけだ」
 
 こともなげに言って見せたシグルト。
 ワイスは額に手をやり、こういう奴だったよなぁ、と肩を落とした。
 黙ってエリスがワイスを見て、首を横に振る。
 
「…無茶な野郎だ。
 
 そして女泣かせだ。
 罪作りな親友だよ、お前は」
 
 寂しげな妹を見て、ワイスは深いため息をついた。 
 そしてシグルトの背後を指差す。
 
「この先に真っ直ぐ走れ。
 
 まぁ、やってみろ」
 
 シグルトは苦笑して頷いた。
 
「ルト兄ちゃん…
 
 ルト兄ちゃんはいつかまた苦しむことになるよ。
 この先に行くと…」
 
 そう言ってエリスはしかし、すぐに寂しそうに微笑んだ
 
「でも行くんだよね。
 
 じゃあ、お願い。
 ルト兄ちゃんが帰れて、迷いも消えたら、いつかブリュンヒルデ様やルーンにも会ってあげて。
 2人とも、ルト兄ちゃんを待ってるから…」
 
 2人の女性の名前の登場に、シグルトは驚いたようにエリスを見る。
 
 最愛の恋人だったブリュンヒルデ。
 自分の半身のように大切だった妹のシグルーン。
 
 やがてシグルトはしっかりと決意した顔になった。
 
「わかった。
 いつか、会おう。
 
 …約束だ」
 
 頷くと、シグルトはワイスとエリスに別れを告げ、後は振り返らずに走った。
 
 
「…行ったな。
 
 あいつは、本当に苦労性だよ」
 
 ワイスが言うと、エリスが頷く。
 
「ルト兄ちゃんは“鋼の魂”。
 
 死にそうになるたびに、挫けない意志があれば運命に打ち直されて生まれ変わる。
 
 私たちはルト兄ちゃんを鍛える薪なんだよ。
 だがら、その身を焦がして与えた熱さがルト兄ちゃんを強くして、その身と心に宿るの。
 
 私はここで見守ってるんだ。
 そして待ってる。
 いつかきっと、また逢えるから…」
 
 そう言って涙を流す妹の肩を兄は優しく抱いて、親友が走って行った先をいつまでも眺めていた。
 
 
 レナータが泣いていると、レベッカがその側に屈んだ。
 
「あなたがレナータちゃんね?
 
 私はレベッカ。
 シグルトの仲間よ。
 
 悲しいかもしれないけど、今はやらなきゃいけないことがあるわ。
 
 あなたが封じているっていう怪物ともう1匹をどうにかするの。
 
 悲しむのは後でも出来るわ。
 私も、ことが終わったらきっと泣くわ。
 
 でも、今は目の前のことをやらなくちゃ。
 
 あなたを犠牲にしたりしない。
 必ず助けるわ。
 
 私たちのシグルトがそう願ったのよ。
 
 だから、お願い…
 今はやることをやって、そして後で女同士で一緒に泣きましょう」
 
 悲しみと寂しさに囚われながら、それでも決意に満ちた目で、レベッカはしっかりとレナータの瞳を見つめた。
 レベッカの言葉にロマンがしっかりと頷き、ラムーナが胸に手を当ててじっとレナータを見る。
 
「…ジョドという男のしたことは、同じ聖海の徒としてわしが生涯懺悔しても足りぬことじゃ。
 そして、聖海の一部がお前さんを追い詰めてしまったことを、お詫びしたい。
 
 …すまぬ。
 
 じゃが、レナータさんや。
 すべての懺悔の前に、シグルトの望んだことをさせてほしいのじゃ。
 
 シグルトはわしの子も同然じゃった。
 
 その死を汲んでほしい。
 どうか、この老骨に免じて、あと少し堪えてくだされ」
 
 スピッキオは膝をつき、レナータに頭を下げた。
 
 レナータがシグルトを信頼していたように、彼女の目の前の“風を纏う者”の面々は、皆シグルトを愛し大切に思っていたのだ。
 本来なら、シグルトが死ぬ原因ともとれるレナータを、彼らは責めたりしなかった。
 “風を纏う者”が示す心。
 それはシグルトがレナータに向けてくれた親しみの感情と同じだった。
 
「どうか、お2人とも立って下さい。
 
 私は大丈夫です。
 シグルトさんが生きてくれって、言ってくれたんです。
 
 私、頑張りますから…」
 
 レナータは涙を拭うと強い意志を込めて一同を見返した。
 
「さぁ、そろそろ仕事にかかるわよ」

 それまで沈黙を守っていたガリーナが口を開いた。

「…レベッカのいうとおりだ。今は海蛇を倒さなくちゃな…」

 ユーグがぎり、と歯を噛みしめながら言葉を繋ぐ。
 頷く面々。
 
 そしてニコロとレベッカを先頭に奥へ進む。
 闇が深みを増していく中、マスターがぼそりと言葉を呟くと、周囲に明るさが広がった。

「【魔法の灯火】
 …へへ、俺にだってこれぐらいのことはできるぜぇ。
 
 おめぇらに無駄な力は使わせたくねぇからな…」
 
 一行は光を頼りに洞窟の奥に進み、そして中にあった威容に一同は息を飲んだ。
 
「…なんと大きいのじゃ…」
 
 その巨体に、オーベは息を呑んだ。
 
 てらてらと光る胴は巨木のように太く、体当たりされれば骨が砕けるだろう。
 金属片のような大きな鱗は、重装の鎧を連想させる。
 額の部分が大きく突起し、首周辺に無数の棘がある。
 
 その凶悪な外見はまさに“怪物”であった。
 
「いいかみんな、一斉に行くぞ!?」
 
 ニコロが言うと、皆戦闘の構えを取る。
 
 そしてガリーナが練り上げた【氷柱の槍】が海蛇の巨体を穿った。
 
「…ゥグガァァァァアアア!!!!!」
 
 驚いたように眠りから醒めた海蛇は咆哮し、そして怒り狂って襲い掛かってきた。
 
 近寄ってくる海蛇を待ち構えていた“風を駆る者たち”と“風を纏う者”。
 しかし、洞窟の海に通じる部分で何かが蠢いたのをレベッカが目ざとく見つける。
 
「あれはっ!!」
 
 ぬらりと巨体が水を裂いて出現した。
 
「ギィシェァァァァアアアアアアァッ!!!!!」
 
 新たに現れたそれは、水からその巨体を露にし、鎌首をもたげて凄まじい咆哮を上げた。
 
「…なんてことっ!
 
 あれは雄ですっ!!」
 
 レナータが叫ぶ。
 
「くそ、件のもう1匹が雌を守りに来たってわけかっ!
 
 とんだ騎士様ねっ!!」
 
 レベッカは素早く頭で次の行動を計算する。
 
「ロマン、ラムーナ、スピッキオ!
 私たちは雄を引き付けるわよっ!
 
 ユーグッ、そっちのデカブツはあんたたちが何とかしなさいよね!!」
 
 シグルトを欠いた状態で、しかしレベッカは迷い無く決断した。
 
「…分かったぜっ!
 
 すぐにこっちを片付けて行くから、持ちこたえろよ!!」
 
 応えるユーグに親指を突き出して不適に笑うと、レベッカは新たに現れた雄に向かって疾走した。
 
 その後ろで“風を駆る者たち”と大海蛇との壮絶な死闘が始まった。
 
 
 シグルトは闇をひたすらに駆けていた。
 そして、自分のおかれた状況がその脳裏に浮かぶ。
 縄で拘束されたまま、シグルトの身体は海に沈んでいた。
 その身体をネレイデスが取り囲んで魚たちから守っていた。
 
 すぐに場面が変わる。
 
 泣いているレナータの姿。
 項垂れるニコロの姿。
 
 そこは記憶が風となって吹き抜ける空間だった。
 
 シグルトは己の身体をイメージし、ひたすら走った。
 
 闇を振り切るつもりで速度を上げる。
 同時に胸の傷が痛み出す。
 
 それでも怯むことなく走るシグルト。
 
 やがて、大きく自分の身体が見えたとき、シグルトはそれに飛び込んだ。
 
 周囲に海の冷たさを感じ目を見開くが、死んだシグルトの目蓋は閉じたままだった。
 肉体に魂は戻っているのに、身体が生きていないのだ。
 冬の海に冷え切ったシグルトの身体は、猛烈な寒さをシグルトに感じさせた。
 
 歯を食いしばり、目を開こうとする。
 何度も何度も繰り返す。
 
 見える景色はシグルトの魂が見ている映像だった。
 目に感じる海水の違和感は無く、冷たいという事実のみが身体を凍えさせている。
 
(寒さを感じるのは、まだ魂と身体に接点があるからだ。
 
 このまま果てるものか…
 俺はレナータに待っていてくれと言ったんだ!)
 
 無為に見える行いをひたすらシグルトは繰り返す。
 
 やがてネレイデスが騒ぎ出す。
 見れば、一匹の巨大な鮫がやってくるのが分かる。
 
 あの巨体をネレイデスでは押さえきれないだろう。
 
 シグルトはその心の奥底で吼えた。
 
(食ってみろ!
 
 俺は、お前の身体を乗っ取っても、皆のところに行ってみせる!!!!!)
 
 次の瞬間、何かが光った。
 無心でそれを掴み振るうイメージ。
 
 シグルトを拘束していた縄が切れとんだ。
 
 海底を転がるシグルトの頬を、鮫の鑢(やすり)のような肌がこすり、擦過傷ができる。
 頬の皮をこそぐ痛み。
 
 同時にシグルトの身体の支配がほんの少しだけ戻る。
 体内にウンディーネが流れるのをイメージし、シグルトは掴んだ光を向かってきた鮫の目に突き立てた。
 
 激痛に暴れる鮫がシグルトの身体を吹き飛ばすが、シグルトは身体の鈍い痛みに耐え、次の一撃をイメージする。
 
 腹部に戻る痛み。
 まだ動かない心臓。
 
 ついに目もかっと見開く。
 
 シグルトは今、執念で体を動かしていた。
 思えば死ぬまでの間、普通ならまったく動かないはずの身体を、シグルトはこうやって動かしていたのだ。
 
 今のシグルトの身体は命の通わない死体である。
 そして痛みきったそれは常人が数度死ねる致命傷を負っている。
 心臓が動いても、呼吸が戻っても、シグルトはおそらくすぐに死ぬだろう。
 
 それでも目前の敵と対峙し、シグルトはがむしゃらに動いた。
 
 手に握った光はシグルトに応えるように、赤い燐光を放つ。
 
「「我が主。
 
 存分に戦われよ。
 私は貴方の剣。
 
 折れ果てるまでともにありましょう!」」
 
 手元の愛剣【アロンダイト】を握り締め、突進してくる鮫に向かって突き出す。
 シグルトはその魂の一念で鮫の眉間を貫いた。
 
 シグルトはぐったりとして流れていく鮫に見向きもせず岸を目指そうとして、折れた自分の左腕に気がつく。
 鮫との激しい格闘でシグルトの身体は擦り傷だらけだった。
 
 シグルトは愛剣をくわえると、まるで外れた部品をはめる様にねじ折れた腕を元の形に戻した。
 
 目的を遂げる一念で眉間によった厳しい皺と、瞳孔が開いたままの青黒い眼。
 歯を食いしばって足掻くシグルトは、さながら羅刹のような形相である。
  
 それは凄絶の一言に尽きる光景だった。
 今のシグルトはまさに動く屍である。
 
 だが、息をしなくて海中では都合がよい程度に己の状況を受け流し、シグルトは目的のために泳ごうとした。
 そして、不意にあたりに満ちる暖かな気配にふと、その顔に浮いていた鬼相を緩ませた。 

 シグルトの居る場所の水が奇妙な揺らぎを見せる。
 それは温度の違う水が混ざり合う時に生まれる、煙るような揺らぎである。
 海底で真水が湧き出しているのだ。
 
 真水は大きく揺らぐと、やがて1人の女性の姿を取った。
 
 半透明の身体。
 目を閉じたまま、柔らかな微笑を宿した神々しいほど美しい顔(かんばせ)。
 そして、何よりシグルトを絶句させるほどにすごい存在感がある。
 
(…なっ、上位精霊かっ?!)
 
 精霊とは本来は零落した神や地霊であるとも言われる。
 
 そして、精霊の中でも多神教の神に匹敵する高次元の存在を、上位精霊と呼ぶ。
 その力も存在も神に匹敵し、あるいは神そのものとして信仰さえされるのだ。
 
 上位精霊の顕現は地形を変え、天地の法則すらひっくり返ると言われている。
 
 まさに、それは奇跡の存在の現界(世界に現れること)であった。
 
 シグルトの心を、偉大な存在との邂逅による感動と畏怖が打ちのめした。
 
 唖然とするシグルトの前で、完全に姿を現した精霊はその碧い瞳をゆっくりと開き、じっとシグルトを見つめた。
 それだけで甘美な憧憬と、激しい慄きがシグルトの魂を刺激する。
 
「「…死しても戦う、鋼を魂に宿す人の子よ。
 
 貴方は何故、死した身で刃を振り続けるのですか?
 
 ここは私の分霊(精霊や神の魂の分身)が眠る褥(しとね)。
 水の娘たちが踊る安らぎの地。
 
 貴方の流す血潮と鬼気に、私の眷属が怯えています。
 
 事と次第によっては、争いを嫌う私でも貴方を外海まで追い払いますよ…」」
 
 少したしなめるような雰囲気の声だった。
 
 シグルトは言葉を出そうとして、初めて海中でそれが叶わぬことに気がつく。
 
 どう自分の伝えるか考え込んだシグルトに、その上位精霊はあきれたように眉をひそめた。
 
「「…本当に驚いた人間ですね。
 
 普通なら、己が死んでいることに気付いて狂うか混乱し、歪んで不死の魔性に身を落とすか消えてしまうものですよ。
 貴方は己の死体を魂の力で操りながら、なお邪悪な歪みを持っていない。
 
 むしろ、己の霊性を開花させ、半分精霊になりかけていると言うべきでしょうか。
 
 何が貴方をそこまで駆り立てるのかは知りませんが、そのまま肉体に固執すれば、己の肉体が死の理によって腐りゆく様を見ながら何れ狂ってしまいます。
 肉を捨てて新たな精霊となるか、昇華して貴方の信じる冥府の世界へ旅立つか。
 どちらかを選びなさい。
 
 その輝く強い魂に免じて、私が手助けしてあげましょう」」
 
 上位精霊がそう言うと、シグルトは首を横に振り、海面を仰ぎ見た。
 そして、なんとなくこうすれば通じるだろうと、魂を震わせて声を放った。
 
「「俺は行かなくてはならない。
 
 戻ると約束した。
 この身が果て、擦り切れるとしても、理不尽と戦っているあの娘を救うために。
 
 貴女の寝所を汚してすまないが、俺は死んだままでも行くつもりだ。
 
 あの海蛇を倒し、彼女を理不尽の頚木から解放するまで。
 彼女を生かすために俺は行く」」
 
 シグルトの強い言葉に、上位精霊はさらに驚いた表情になった。
 そしてシグルトに問う。
 
「「気骨ある人の子よ。
 
 それは貴方の命よりも大切なのですか?」」
 
 シグルトは頷いた。
 
「「命は大切だ。
 
 だが、その命を賭しても守りたいものがある。
 俺は後悔しないようにしたいだけだ。
 
 その結果で滅びても構わない。
 
 今、俺がすべきことを、できることをやりたいだけなんだ」」
 
 そう言って、シグルトは折れた腕に【アロンダイト】の鞘で添え木をし、自分を拘束していた縄で縛る。
 上手く動かないその腕を振るい、シグルトは海面を目指そうともがく。
 
 シグルトの瞳は真摯に海面の一点を見上げていた。
 
「「…そうまでして助けたい者とは誰ですか?」」
 
 シグルトの背後から上位精霊の声がする。
 
「「…レナータ。
 
 俺の友の精霊術師だ。
 彼女と、約束したんだ。
 
 戻ると、助けると。
 
 それを果たしていないのに、おめおめ死んでいられるものか」」
 
 そしてシグルトは強い意志を胸に、上位精霊を見つめた。
 
「「俺は誓った。
 
 死んでいった友たちに。
 彼らのような理不尽な悲しみを持つ者を、必ず助けると」」
 
 上位精霊はシグルトのそんな瞳を見て、やがて優しく微笑んだ。
 
「「レナータ。
 私の眷属たちの主ですね。
 
 そして貴方の言う海蛇は、近海を悩ます魔物。
 
 私の褥を荒らすのは貴方だけではなかったようです。
 あの魔物は、海の恵みを受けるにはいささか貪欲。
 
 それに引き換え、貴方は死んでも精霊に愛されている様子。
 そして私の眷属の主を救うというのですね?
 
 ならば、私は水を司るものとして成しましょう」」
 
 美しい上位精霊は居住まいを正し、謳う様に言葉を紡ぐ。
 
「「聞きなさい、人の子よ。
 
 私は湧き出でる原初の清水。
 混じる物無き清らかなる水。
 水の娘たちを束ねる泉の主。
 
 私の“水姫”の御名をもって、貴方に力を授けましょう。
 
 レナータという娘と、私の眠る碧海の都を護ると言うのならば…」」
 
 そう言って上位精霊は手を差し伸べた。
 彼女の両手の間に、美しい花弁の花が咲く。
 
「「貴方が望むなら契約をします。
 
 貴方が目的を成せるように、私が貴方の肉体を再生しましょう。
 
 汚れぬ精霊となるほどの魂。
 貴方ならば、蘇生はたやすいはず。
 
 海蛇を討ち、レナータという娘を助けなさい。
 
 それを成せば、蘇生し生き返ったその身は貴方のもの。
 ことを成せねばまた骸に戻り、その魂は海の藻屑と消えるでしょう。
 
 私の条件を聞き入れて、戦いますか?」」
 
 シグルトは迷わず頷いた。
 
「「たとえ、貴女の助けが無くとも。
 
 必ず護ろう…レナータも、この都のまだ見ぬ親しくなるべき人々も。
 
 そして結果的であれ、この美しい碧海の都を救うというなら、本望だ」」
 
 シグルトの言葉に、上位精霊は満足そうに頷いた。
 
「「契約は成りました。
 
 “水姫”アレトゥーザの名において、貴方に清水の癒しと祝福を」」
 
 上位精霊…アレトゥーザは手に出した花をシグルトの胸に押し込んだ。
 花から滾々と湧き出でる力が見る間にシグルトの身体を再生していく。
 皮膚が戻り、骨が繋がり、断裂しかけた腱も神経も再生していく。
 
 シグルトの脳も身体も、海中に落ちたショックで心臓が止まり、血流が完全に止まっていた。
 冷たい冬の海はシグルトの身体の劣化を防いでいたのだ。
 
 水難事故にあっておぼれたものが、水の冷たさのショックで心臓が止まり血管が収縮していると、長時間経っていても障害無く蘇生することもあるという。
 
 水の精霊の守りもあったシグルトは見る間にその身を癒し終えた。
 身体に戻り、水中の息苦しさを感じた瞬間、ドクンと血が流れ出し心臓が動き出す。
 
 アレトゥーザに伝わる、全てを癒す水の伝説がある。
 これはその伝説が真実であったことを証明していた。
 
 アレトゥーザの加護でもたらされた空気を再生した肺にいっぱいに吸い込むと、シグルトはアレトゥーザに一礼し、海面を目指して浮かび上がっていった。
 
「「何れまた逢いましょう、人の子よ。
 
 貴方の歩む道に多くの幸があらんことを…」」
 
 “水姫”アレトゥーザはシグルトの武運を祈るように目を閉じ、碧海に融けるように還って行った。
 
 
 大海蛇の雌と“風を駆る者たち”が戦う向こうで、“風を纏う者”は絶望的な戦いに挑もうとしていた。
 
 主力の戦士を欠きたった4人、獰猛で巨大なこの海蛇の雄と戦わねばならないのだ。
 レナータも“風を纏う者”と“風を駆る者たち”の間に立って精霊術の準備をしている。
 
「やるしかない…
 
 ユーグたちが勝つまでは粘るわよっ!」
 
 レベッカは利き腕に短剣を持ち、逆腕に絞殺紐を用意する。
 
「…絞め殺すにはその首は太いけど、そのでかい口ぐらいは黙らせてやるわ!」
 
 レベッカの後ろでロマンが魔導書を用いて、呪力高め魔術を準備している。
 そして、聖印を手にスピッキオが祈る。
 
 ラムーナが囮になるように防御の体制を取り、“風を纏う者”は迫り来る海蛇と対峙した。
 
 だが、突然海の水から人間の手が現れ、海蛇の背びれの突起を引っつかむ。
 
 驚いた海蛇が暴れる寸前、海水を割って彼は現れた。
 突起を踏み台に大きく跳び、赤い燐光を放つ魔法の剣を振り下ろす。
 硬い鱗が砕け、海蛇の血が飛び散った。
 
 現れた男は“風を纏う者”の前に、身体から落ちる水と一緒に着地する。
 濡れた髪を払って水気を切り、男はいつものように苦笑して言った。
 
「すまない皆。
 
 遅くなった…」
 
 それは冷静なレベッカがぽかんとするほど、鮮烈な登場だった。
 
「…シグルトっ!!!」
 
 ロマンが歓喜の声を上げた。
 
「話は後だ。
 こっちを倒す。
 
 スピッキオ、防御の秘蹟を。
 レベッカはアイツを撹乱しながら援護してくれ。
 ラムーナは俺と交互に攻める。
 ロマン、魔法を撃ちながらあいつの動きをおさえてくれ。
 
 行くぞっ!!!」
 
 走り出したシグルトに、一同が頷いた。
 
「この、馬鹿!
 
 後できっちり説明しなさいよねっ!!」
 
 レベッカが短剣を絞殺紐に持ち替えて走った。
 
 その横でラムーナが大きく跳躍した。
 宙返りをしながら海蛇の頭を蹴り飛ばす。
 
「…まずは勝とう!」
 
 空中でラムーナが微笑む。
 
 そしてロマンが【魔法の矢】を撃つ。
 
「納得する説明をしてもらうよ、シグルトっ!」
 
 そう言って嬉し涙を拭うロマン。
 
 スピッキオが祈りの言葉を唱える。
 
「…これぞまさに奇跡。
 
 主よ、感謝します」
 
 そしてレベッカが見事に絞殺紐で海蛇の口と牙を封じた。
 同時に吹き飛ばされるが、その隙をシグルトが剣で穿つ。
 
「…いつつ、こんにゃろうっ!」
 
 痛みと嬉しさに、レベッカは少しだけ泣いた。
 
「シグルトさんっ!!」
 
 駆け寄ってきたレナータに、シグルトは1つ頷いて微笑んだ。
 レナータも頷いて、ナイアド召喚しロマンを援護する。
 
 ラムーナの華麗な連続攻撃がみるみる敵の体力を奪っていく。
 倒れたレベッカをスピッキオが癒し、ロマンが呪縛で海蛇の動きを削ぐ。
 
「いくら怪力で引きちぎっても、一瞬の隙くらいは出来るんだっ!」
 
 シグルトがその隙に乗じて素早く海蛇を剣で斬る。
 
(…腱や筋もほぼ完治しているな。
 
 身体の不調の頃の感覚がまだ残っいて慣れるまでは少しかかりそうだが、痛まずに動くのは好い)
 
 その動きは実に巧みで素早かった。
 シグルトは身体を慣らすように、堅実な技で相手の体力を削いでいく。
 
「《岩をも穿つ、呪いを刻めっ!!》」
 
 ラムーナがまじないの剣舞で海蛇の防御を砕き、そこにシグルトの鋭い突きが決まる。
 
 海蛇は体力を奪われ、攻撃をレベッカの撹乱やロマンの魔法にそらされて苛立つと、間近にいたシグルトを襲う。
 しかし、シグルトの姿は突如かき消えた。
 
 岩に激突した海蛇の脇腹を、シグルトの剣が大きく抉る。
 シグルトの得意技、【影走り】であった。
 
「グァァゴゥォォォォオオッ!!!!!」
 
 海蛇は身体に走る激痛にのたうつ。
 
「今だっ!」
 
 ロマンが再び呪縛の魔法で動きを削ぐ、その瞬間。
 
 シグルトを緩やかに取り巻いていた風の精霊が、突風に姿を変え剣を被い尽くす。
 
「ハァァァァアアアアッ!!!」
 
 気合とともにシグルトはその斬撃を海蛇に打ち込んだ。
 アロンダイトが巨体を切り裂いた瞬間、剣から解き放たれた風の精霊が刃になって、血飛沫を巻き上げながら飛び立っていった。
 
 これが止めと放ったシグルトの秘剣【縮影閃】。
 
 風の精霊が削ぎ落とした血肉の奥に海蛇の白い骨が見えた一瞬の後、さらに大量の血を吹いてその巨体は海水に倒れ伏した。
 
 ザパァァァン!!
 
 血の混じった赤い海水が盛大に弾け飛ぶ。
 
 舞い戻って来る風の精霊に感謝の言葉を告げ、シグルトが振り向く。
 向こうからレナータと、戦いを今終えた“風を駆る者たち”、そして仲間たちが走ってくるのが見えた。
 
 シグルトは微笑むと、張り詰めていた糸が切れたように海水に倒れ伏した。
 水の冷たさでほてった身体を冷やしながら、シグルトは生き返ったことを実感していた。
 
 
 水に倒れたシグルトに駆け寄ったレベッカは、シグルトの胸が規則正しく動いていることを確認し、ほっと息を吐く。
 だが、胸と腹部に血の跡を見つけて、念入りに調べ、シグルトの傷が消えていることを確認して驚く。
 そればかりか、目に見える腕や身体の古い傷までもが消えてしまっていた。
 
 一瞬偽者ではないか、と考え、それがありえないことを即座に確認する。
 シグルトの衣服や持ち物、そして彼とレベッカしか知らない装備を、シグルトはちゃんとしていたのである。
 
「…疲れて眠ってるだけよ。
 
 本当に、困ったリーダーだわ」
 
 レベッカが苦笑すると、集まってきた皆は安心したように胸を撫で下ろした。
 
「…微かですが、とてつもなく高次元の精霊の力の形跡を感じます。
 
 おそらく、上位の精霊と何らかの関わりを持って、その力で回復したのだと思います」
 
 レナータの推測をニコロが頷いて肯定する。
 
「「…とんでもない男だね、こいつ。
 
 魂が半ば精霊に変化してる」」
 
 ナパイアスがレナータとニコロにしか聞こえない声で呟いた。
 
「どういうことだ、ナパイアス?」
 
 ニコロが訪ねると、ナパイアスは腕を組んで話し始めた。
 レナータがその会話を皆に通訳する。
 
「「精霊ってのは、もともと自然の精…力の結晶みたいなものが霊気をもつ意思ある存在になることなんだよ。
 
 だから、似たような状態にさえなれば精霊は生まれる。
 
 人間なんかも、英霊様とかで奉られると、人の信仰の念で精霊や神になるのさ。
 
 この男は、自身で魂をこの状態まで昇華させたみたいだね。
 もっと高い次元まで魂を成長させれば死んだ後には神様として信仰されるかもしれないし、生きたまま魂を神域まで高めたなら神仙(ディヴァイン)って呼ばれる高次元の存在になれるかも知れない。
 
 神仙は上位精霊や多神教の主神、準主神と同等の存在さ。
 
 東の国に、“仏”になろうって連中がいるらしいけど、そいつらも魂を昇華して精霊や神霊を超えた高次元の存在になろうとしているんじゃないか?

 この男を、精霊としての格付けで言うなら、中のちょっと前くらいだね。
 まあ、私ほどじゃないけど、たいしたもんだよ。
 
 たぶん、それだけのことをやって見せたから、このあたりの主である“水姫”様が気まぐれに力を貸したんだろう」」
 
 傍若無人なナパイアスが敬称をつけたので、ニコロが首をかしげた。
 
「「なんだいっ、私をそこいらのお馬鹿なネレイデスやウンディーネどもと一緒にするんじゃないよ。
 
 “水姫”アレトゥーザ様は、このあたりの水の精霊の最高峰。
 
 この地はあの方が精霊になられた聖地でもあるんだ。
 己の領域でこそ、その力を余すこと無く発揮できるのさね。
 
 上位精霊…その絶大な力から、時に神として崇拝される。
 
 ナイアドやウンディーネの上に居られる大精霊様さ。
 
 水の初源、清水の主。
 浄化と癒しを司り、生命を愛する慈悲深いお方だよ。
 ナイアドの大ボスみたいなものだね。
 
 昔、ある精霊術師の志を支持なさって、この地を清めて緑豊かな大地に変えたのも“水姫”様なんだよ。
 
 このあたりの生まれの精霊術師が水の精霊を好むのも、生まれたときから“水姫”様の霊気を含んだ水で育つ…つまり恩恵を受けているからさ」」
 
 意外なナパイアスの博学ぶりである。
 
「「この男は、いわば〝生まれ変わった〟んだろうね。
 
 一度肉体から魂が外れて、それが半精霊の高い次元になり、“水姫”様が再生させた器に戻って蘇生したというわけさ。
 まぁ、今は見てくれも力も普通の人間と大差は無いだろうが。
 細かいことを言うなら、魂の関してはもう人じゃなくて高等の妖精や妖魔に近いね。
 
 私も、こんなとんでもない男は見たことも聞いたこともないよ」」
 
 感心を通り越して半ばあきれているナパイアスの話に、皆押し黙る。
 
 だが周りの心も知らずに、シグルトは安らかな寝息を立てていた。
 
「お~い、大丈夫かっ!」
 
 洞窟の入り口に少数の人の気配がする。
 
「…って、もう終わってるじゃねぇかっ!」
 
 大剣を肩に担いだ冒険者である。
 
「グィードじゃねぇかっ!」
 
 『悠久の風亭』を中心に活躍する冒険者で、“風を纏う者”も“風を駆る者たち”も面識があった。
 
「くそ、またやり損ねたぜ。
 
 いや、盗賊ギルドからアレトゥーザ中の冒険者の宿に依頼が出回ってよ。
 何でも、でかい蛇を退治するっていう仕事らしいんだが、あっちにあるでかい2匹の死体だろ?
 
 銀貨二千枚の仕事だって言うから急いできたのに、くたびれ儲けだったぜ」
 
 他の数人の冒険者も落胆した感じだった。
 
「いや、仕事はまだあるぜ。
 
 お初にお目にかかりやす。
 あっしはバッコってぇケチな野郎で、盗賊ギルドで世話になっておりやすが…
 
 レベッカの姐御やユーグの兄貴の噂はうかがっておりやす」
 
 それはごつい顔をした小柄な盗賊風の男だった。
 
「“風を纏う者”と“風を駆る者たち”には、聖海教会から異端に手を貸したとかいう嫌疑がかかっておりやして、今都市の中では危険。
 
 あっしが明日早くに、抜け道を使って皆さんを外に案内いたしやすから、それまで『悠久の風亭』近くにあるギルドのアジトの1つで皆さんをお護り致しやす。
 ほとぼりがさめるまで、レナータさんも御一緒にリューンあたりにいらっしゃるとよろしいでしょう。
 
 なぁに、1月もすれば盗賊ギルドの情報操作で、姐御たちは蛇退治の英雄になっておりやすので、それまで御辛抱を…」
 
 そう言ってバッコと名乗った男は頭を下げると、グィードたちに向き直った。
 
「グィードさん方は、蛇の死体を解体するのをお願いしやす。
 
 蛇の首2つは、官憲どもに姐御たちの名誉の回復をしてもらうよう持ち込みますんで丁重に扱ってくだせぇ。
 聖海の保守派連中に死体が渡ると、あいつらの手柄にされちまいますから、手早く塵も残さずお願いしやすぜ。
 
 お1人銀貨百枚ぐらいは出しやす。
 お嫌なら、本当にくたびれ儲けになりやすね。
 
 あと、もしレナータさんや“風を纏う者”、“風を駆る者たち”の方々のことを情報を含めて売るような方がいらしたら、盗賊ギルドを敵に回しますんで御承知くだせぇ」
 
 アレトゥーザ冒険者たちが海蛇の巨体を見て、うんざりした顔になるが、仕方ないと死体の解体作業を始める。
 
「さぁて、じゃあ皆さんはあっしについて来てくだせぇ…」
 
 
 バッコにしたがって身を隠した“風を纏う者”と“風を駆る者たち”は、アジトに着くと勝利の宴などやる気力もなく、『悠久の風亭』のマスターとラウラの差し入れてくれた食事を食べると、泥のように朝まで眠った。
 
 次の日、シグルトが眼を覚ますと、彼の側の椅子に腰掛けたままレナータが眠っていた。
 そっとその髪のほつれを直すと、周囲に仲間たちが肩を寄せ合って眠っている姿が見えた。
 
(…ワイス、エリス。
 
 今の俺には護りたい仲間がある。
 そっちにはいつか行くだろうが、きっともっと先だろう。
 
 俺はこの命を後悔の無い様に使いたい。
 
 だから、それまでお別れだ)
 
 そっと眼を閉じて、友を想う。
 
「…うぅん…」
 
 レナータが身じろぎする。
 そして目覚めた彼女に、シグルトは穏やかな微笑を浮かべて言った。
 
「ただいま、レナータ。
 
 遅くなってすまなかった」
 
 
 起きた後のシグルトは皆の質問攻めにあい、1つずつ律儀に答えていった。
 
 自分が一度死んだこと。
 死後の世界らしきところで亡くした幼馴染に再会したこと。
 海中で死体に戻って行った鮫との格闘。
 そして“水姫”アレトゥーザとの邂逅。
 遂になしえた蘇生。
 
 シグルトは健全な若者としての肉体を取り戻していたが、戦いのスタイルを変え筋肉も違う形についてしまったため、昔の強さにはまだ及ばなかった。
 しかし、もはや身体の不調に悩まされることはないことも感じていた。
 
 シグルトの腕のうじゃじゃけた傷痕も、歪に繋がった骨や腱も今の肉体にあわせて綺麗に治っている。
 
「…うん、シグルトの雰囲気変わってる!」
 
 ラムーナがそう言うと、レナータとニコロが頷いた。
 
「ナパイアスの言ったとおり、魂が高い次元に昇華したからだと思います。
 
 今のシグルトさんはどこか、精霊のようです」
 
 シグルトからは清廉で涼しげな霊気が発せられている。
 レナータやニコロには、それが凛とした白銀色の力として見える。
 
「僕には雰囲気が変わったというより、前から感じてたものが強くなったように感じるよ」
 
 シグルトは、出会った当初から俗人とはちょっと違う不思議な雰囲気を持っていた。
 
「俺自身は何も特別な感じは無いんだが…」
 
 そうシグルトが言うと、ラムーナが微笑む。
 
「シグルト、いつもより笑い方が綺麗になったんだよ」
 
 ラムーナの言葉に、皆はっとなる。
 
 シグルトは微笑むときも、いつもどこか悲壮な感じがあった。
 それが《苦笑》のような形になっていたのだ。
 
 今のシグルトは憑き物が落ちたように、雰囲気が穏やかなのだ。
 
「〝泰然たる静けさを持ちて、功は極まる〟か…」
 
 シグルトが何気なく言った言葉に、皆が首をかしげる。
 
「昔、俺が武術を習った師がおっしゃっていた言葉だ。
 
 穏やかに自然体でいられるならば、目指すべき技巧を習得する、というような意味だな。
 
 俺は張り詰めすぎていたのかもしれん。
 今なら、師の言葉がなんとなく分かる…」
 
 そう言って、シグルトは穏やかに微笑んだ。
 
「…おう、その様子は生きてるな。
 
 また逢えて嬉しいぜ、シグルト」
 
 そこに現れたのはファビオだった。
 まだ包帯が痛々しいが、その眼はいつものように油断無く鋭い。
 
「ファビオ、あんた動いて大丈夫なの?」
 
 レベッカが訪ねると、ファビオは軽く首肯した。
 
「外回りはもう少し休むがな。
 
 重要な仕事だけは俺自身でやっとかないと気持ち悪いんだよ」
 
 そう言うとファビオはズシリとした銀貨の袋を2つと、小さな銀貨の袋を2つ、それらを“風を纏う者”と“風を駆る者たち”に等分して渡す。
 
「今回の報酬だ。
 
 でかい方はどっちも銀貨千枚。
 五百枚が盗賊ギルド、もう五百枚が正式なこの都市からの報酬ってことになる。
 もう三百枚は『悠久の扉亭』からの六百枚を三百枚ずつ折半って形だ。
 
 全部で銀貨千三百枚ずつ。
 
 あのでかい声のマスターが、何でも自分で払うって言ったが、あの宿にいきなり二千六百枚もの銀貨を出させるのは酷だし、あんたたちも《正式に都市から依頼されて報酬をもらった》ことになりゃ、後々面倒がないだろ?
 うちのギルドのボスがすげぇお偉いさんと会談して決めたことだ。
 ま、ギルドの方からは《善意の市民》からの報酬って、形の上ではなってるけどな。
 
 これならマスター1人で責任云々にゃ、ならねぇだろ?」
 
 盗賊ギルドの粋な計らいであった。
 
「それから、お前さん方は『悠久の扉亭』ではただで宿泊出来るってことになったみたいだぜ。
 あのマスターは外見も気風も太っ腹って奴だよな。
 
 1月もすりゃ、あんたたちやレナータの嬢ちゃんは大手を振ってこの都市を歩けるようにしておく。
 
 ただ、『蒼の洞窟』は新しい司教が動いて聖海のものになった。
 あの司教、かなりのやり手だ。
 この手の仕手戦で盗賊ギルドが後れを取ったのは久しいから、ボスが嘆いていたぜ。
 ま、近海の鮫…海賊どもに目がいってる隙にやられた感じだな。
 
 この借りは、そのうち返すけどな…」
 
 借りを返す、の部分でファビオの眼がギラリと光る。
 
「まぁ、そこなレナータ嬢ちゃんの身柄を聖海保守派は血眼になって探してるぜ。
 
 あんたらを捕まえられなきゃ、何人か坊さんが職を解かれて左遷になるらしい。
 
 …安心しろよ、一端聖北教会の縄張りまで逃げりゃ、大丈夫だ。
 あんたたちは坊さんたちの首がすげ変わったら、堂々と戻ってくりゃいい。
 
 外までは昨日のバッコが案内する。
 あと一刻(2時間)もしたら脱出だから、準備しておいてくれ。
 
 シグルト。
 あんたにはいつか借りを返すよ。
 
 レベッカ。
 約束の酒は今度な。
 今は傷にしみて付き合えねぇからよ。
 
 ユーグ。
 あの技をマスターしたからってサボるなよ。
 身体は正直だからすぐ鈍る。
 
 じゃ、俺は他の仕事があるから行くぜ。
 
 …またな」
 
 ファビオは一同を見回すと、軽く手を振り去って行った。
 
 
 その後“風を纏う者”と“風を駆る者たち”は、やってきたバッコについて、アレトゥーザの1つの噴水に通じる地下水道を通り、郊外の泉に出た。
 そこはアレトゥーザの立役者となった偉大な精霊術師が、“水姫”の力を借りて湧き出させた泉であり、今でも清浄な水が湧き出している。
 
 感じられるいくつかのナイアドの気配に、ニコロが少し感傷的な顔で立ち止まると、レナータが側に寄ってきた。
 
「…ニコロさん、水の精霊術についてもっと学びたいですか?」
 
 レナータの言葉に、少し考えたニコロは頷いた。
 
「私に精霊術を教えてくれた恩師、“水の詠い手”レティ-シャ先生なら、きっと貴方の精霊術に必要なことを教えてくださるでしょう。
 
 風の噂に、先生がここから遥か西北の山脈の向こうにある、ラグリアという国にいると聞いています。
 先生には、詩聖と呼ばれ、かつてともに冒険者だったという吟遊詩人にして歌い手の御友人がいらっしゃいますから、エイリィさんにも行く価値はあると思います。
 
 北方の精霊術には風と水の両方の力を宿す、雪や氷の精霊と関わるものもあるとか。
 
 ラダニール地方のエルトリア王国には雪の女王と契約を結んだ、“時を凍結せし”リャニエンという獣人の大精霊使い。
 北の大樹海アレウローディアには森の精霊術の奥義を知る翔精(フェアリー)の女王“新緑の主”オフェーリア。
 その西に広がる麗しき湖の孤島には“水姫”と並ぶ水の上位精霊“水の貴婦人”モルガンの契約者、“悠久の灑ぎ手”アリエス。
 
 これらの精霊術師たちは伝説とされる存在ですが、北方に行き、その足跡を追えば、あるいは貴方が求めるものに出会えるかもしれません。
 
 私がニコロさんに教えてあげることはもうすべて伝えました。
 恐れから私でもその力を使えないと思っていたナパイアスですら、貴方は従えています。
 
 きっと、貴方も私も新しい道を歩くときが来たのです」
 
 そこまで言うとレナータは、その碧い瞳で優しくニコロを見つめた。
 
「水は流れるうちに川となって別れ、違う道を歩んでいきます。
 私たちも、師弟という1つの流れから分かれるときが来たのです。
  
 水と風の精霊の担い手は、その精霊の気質から旅人が多いそうです。
 行くべき道を、お互い探すことになるでしょう。
 
 だから、もうすぐお別れです。
 
 でも、水はまた海で交わるのです。
 再会の時も生きていればきっとあるでしょう」
 
 その言葉は2人の別離の兆しであった。
 
 ニコロはレナータに何かを伝えようとして、しかし黙ってしまった。
 同じ系統の精霊術師は冒険者として一緒にいることはまずありえない。
 
 それに、レナータはニコロを一人前の精霊術師として認めてくれたのだ。
 側にいたいというのは甘えになる。
 
「…考えてみます」
 
 ようやく言えたのはそれだけだった。
 
 
「我々はここから別々に行くべきだと思います」
 
 レイモンのその提案に、シグルトが頷いた。
 
「この人数では目立ち過ぎるからな。
 
 バッコの案内も此処までだし、どちらかがレナータを連れてリューンを目指すのが妥当だろう」
 
 シグルトは何故か眼を閉じると、少し何かを考え、そしてレナータに向き直った。
 
「これはさっきレベッカたちとも話し合ったんだが…
 
 レナータ、冒険者になる気はないか?」
 
 シグルトの言葉に、レナータが眼を丸くする。
 
「本来、冒険者は6人で組むことが理想とされている。
 
 俺たちは今まで5人でやってきた。
 だが、やはり冒険中に困難を感じることもある。
 
 特に、うちはスピッキオに癒しを頼り切っているが、万全を期すなら癒し手は2人置くべきなんだ。
 それに、俺たちには毒を癒せる力が無い。
 今回の海蛇との戦いで感じたが、他の術も含めて君の精霊術は、俺たちにはありがたい能力だ。
 
 君さえよければだが、俺たちと来ないか?」
 
 突然の申し出にレナータは黙り込んだ。
 
「レナータちゃんなら、私たちは歓迎するわ。
 
 それに、うちのリーダーは不器用だから言わないけど、側にいるほうが護れるっていうのが本音なのよ。
 私たちなら協力して好いパーティになれると思う。
 
 それに、女が3人になると男と3人ずつで切りも好いし。
 
 うちのパーティはノリが家族だから、これでも人選にはうるさいのよ。
 人格、能力…いろんな意味で考えて、私たちが決めたことだから、あとは貴女次第。
 
 でも冒険者は、あの海蛇と戦ったときのような危険なことが沢山あるわ。
 女の私が感じてることだけど、女の冒険者って時と場合で扱いが酷かったりもする。
 食べ物や飲み物だって、場合によっては何日も草の根を齧り、露で喉を潤すようなこともありえる。
 女には環境だって不潔だし、辛いことも多いわ。
 とても過酷な仕事よ。
 
 だから無理は言えない。
 
 そのかわり、パーティに入ってくれたら、私が貴女の面倒を見るわ。
 女の冒険者としての知識、生き方、戦い方…
 私が全部教えてあげる。
 
 答えはリューンについてからで構わないわ。
 考えてもらえると嬉しい…」
 
 レナータには特に行くあても無い。
 この提案は彼女にとって何も無かったところに湧いた身の振り方の1つである。
 
 世間を生きていく以上、就職は重要な問題である。
 
 この時代、一人旅は何かと物騒なことが多い。
 何かのグループに属すことは、この時代の人間にとっては生きるために重要な処世術であった。
 
 それに“風を纏う者”にはレベッカという優れた女性冒険者の先輩がいる。
 歳の近い同性の先輩がいることはレナータにとってもメリットは大きい。
 
 もう遠くに見えるアレトゥーザを一度振り返り、レナータは考え込む。
 
 海風の戻った碧海の都は、冬の眩しい日差しを浴びて輝いているだけだった。
 
 今、道が分かれようとしていた。
 激しい戦いの後に、訪れた選択。
 
 天を見れば美しい蒼穹がある。
 
 レナータは碧い瞳に空を映し、未来へと思いを馳せた… 

 
 
 お待たせしました。
 レナータ編の後編です。
 
 シグルトファンの方は、前回かなりはらはらしたと思いますが、結果はこんな形になりました。
 
 一応、答えは《半精霊と化し生まれ変わった》になるのですが、これもお約束っぽいですね。
 
 死後の世界とか、“水姫”様登場とか、伝説の人物とか、スケールの大きな話も出しちゃいました。
 今回は気合が入っていた感じです。
 
 今回、シグルトが本来かなりホットな奴であることがはっきり分かったと思います。
 コイツ、生きる死ぬより、誠実であろうとする兄ちゃんです。
 
 神仙(ディヴァイン)についてですが、高い次元の魂を宿した高等存在で、古龍や神様級の存在という考えです。
 レベルが二桁に行った、高次元の超越者みたいなイメージです。
 シグルトは精霊化した魂が肉体という入れ物に宿っている、言わば受肉した精霊のような感じです。
 死んでそのまま普通に復活というのは芸がないかな、と思って、人外に行ってしまいました。
 でも、《人》とか《神》の境とは何なのでしょう?
 ファンタジーっぽい哲学をここで使ってみました。
 
 少なくとも、シグルトは別の存在になっても、心は人であろうとしています。
 シグルトは変質していく自分の魂に悩むことになるでしょう。
 
 今回登場したワイスとエリス兄妹ですが、彼らはまた番外編みたいな形でその生前を描きたいと思ってます。
 槍使いだったシグルトのストーリー、書きかけがあったりしますが。
 
 次回はリューンでレナータ編のエピローグです。
 最終回が近づいた“風を駆る者たち”の冒険も見逃せません。
 最終的にはこっちのブログに移りますが、それまではMartさんのブログにも御注目下さいね。
 今回はそっちを読んでないと分からないこともあったりしますし。
 
 では、また次回を…御期待いただければ幸いです。(ペコリ)
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『凪』

 コツコツコツ…
 
 明け方のことである。
 
 眠そうな半眼にいらついた表情で、レベッカは『悠久の風亭』のカウンター席に腰掛け、指でカウンターをノックしていた。
 
 シグルトの帰りを待って、結局徹夜してしまったのだ。
 もしかしたら、シグルトはレナータという精霊術師のところに泊まったのかも知れない。
 無理に起きて待つ必要も無かったのだが、レベッカは眠ることが出来なかった。
 
 昨日の夕方、盗賊ギルドを訪ねるとファビオはおらず、訓練場の仮眠室で痣だらけのユーグがぐっすりと眠りこけていた。
 いつもなら顔に悪戯描きの1つもするのだが、その日のレベッカにはそういういつもの余裕が無かった。
 
 “風を纏う者”のメンバーは皆調子が悪かった。
 
 個性的で才能豊かなメンバーを束ねていたシグルトというリーダーの存在の大きさを、一同は改めて感じていた。
 おそらく、彼らをレベッカではまとめ切れない。
 シグルトという大きな存在の裏方に回ってこそ、レベッカの策略も技も冴えていたのだ。
 
 だが、ついにやってきたリーダーの故障。
 
 レベッカにはシグルトの状態がどれほど悪いかよくわかっていた。
 人体の器官や生理について、レベッカは師であるユベールに一番最初に叩き込まれたものだ。
 暗殺、潜入、尾行、脱出…
 盗賊の多くの技術は、身体のあらゆる機能を知らなければ使えないのだ。
 
 そのレベッカをして、シグルトの身体を診断した結果…
 さじを投げて溜息しか出ない。
 
 シグルトの身体はぼろぼろだった。
 
 まず、筋や腱ががまともに機能していない。
 シグルトは器用に動かせない身体を、他の部分の運動エネルギーを利用することで動かしているのだ。
 もしシグルトにまともな筋肉と腱が備わっているなら、おそらくは西方でも指折りの戦士になっていただろう。
 
 そしてあちこちの骨に歪がある。
 歪な動きのし過ぎで姿勢が少しずつ歪んできたのだ。
 老人の曲がった腰のように、動くたびに激痛が走るだろう。
 
 触れて分かった臓器の異常。
 消化と呼吸の器官がまともに機能しなくなってきている。
 長時間の運動は呼吸不全を起こすだろう。
 
 体温調整がまともに働いていない。
 周囲の温度に身体がついていけなくなっている。
 冬の寒さで冷えていってしまう。
 
 心肺機能も弱っている。
 心不全が起きる恐れもある。
 
 腎臓肝臓が弱っている。
 ちょっとした毒素も大きなダメージになるし、他の臓器に負担にもなるだろう。
 
(本当、あれだけ動くのが不思議なくらいだわ…)
 
 おそらくシグルトは無意識に体内に精霊を宿して、その一部の機能を肩代わりさせているのだろう。
 そうでもなければ動くことの説明がつかない。
 それほどにシグルトは危険な状態だった。
 老衰で死ぬ寸前の老人のような状態を連想させる。
 
(あの身体じゃ、もう冒険者なんて続けられるわけない。
 
 …でも、シグルトを失ったら私たちの結束も無くなるわ。
 
 アイツの行動力と度胸、そして戦士としての戦力。
 リーダーとしての公正さと決断力の速さ。
 
 うちのパーティの連携はあいつが半分作ったようなものよ。
 
 私は慣れてるけど、シグルトの欠落はロマンやラムーナには酷ね。
 
 シグルトが治るまで、パーティを1回解散すべきかもしれないわ…
 アイツが治る可能性が無いのは、皆薄々気がついてる。
 だけど、いつかは治るかもしれないと一端現実から目を背けたほうが、まだ若い2人には結果的に良いかもしれない。
 
 忘却もまた最良の治療法だから。
 
 後の身の振り方は、ラムーナを私が引き取って、ロマンは大学なり家なりに帰還。
 スピッキオの爺さんは教会に転がり込めばいいわね。
 
 …やっぱり憂鬱だわ。
 
 どんな状況も予想して動くのが盗賊ってものだけど、こんな消極的なこと考えるのは…)
 
 レベッカにとって、シグルトは自慢の弟のような存在だ。
 彼女が出会ってきた誰より信頼している。
 おそらく、シグルトと別れて新しくパーティを組むとしても、レベッカは長くそこにはいられないと感じていた。
 
(畜生…
 
 アイツが隣にいないとこんなに頼りないなんて、私はいつからこんな甘ちゃんになったのよ!
 
 何度も私は1人になったはずなのに…)
 
 そしてレベッカは師であるユベールの言葉を思い出す。
 
〝仲間は掛買いの無い宝だぞ、レベッカ。
 信頼できること、信頼させること、信頼し合うことが最高の得物になる。
 
 盗賊という仕事は自分も他人も信頼出来ない職業だ。
 だが、《間違いない》切札と《予想外のとき》に助けてくれる仲間は何より有難いものだ。
 
 真に信頼できる仲間を得るために、汚れても邪(よこしま)になるな。
 
 売った信頼は後で返ってくるものだ。
 だが、それ以上に信頼を無償で生む人間関係こそが、黄金に勝る。
 
 盗賊が義理や掟を重んじるのは、最終的にそのことを理解できた奴が優れた首領になるからだ。
 
 無一文になったとき、お前が信頼でき信頼してもらえる仲間って奴が残っていたなら、それは儲けものなんだよ〟
 
 1人でやっていた頃、この言葉は理解が出来なかった。
 
(今なら分かるよ、お父ちゃん。
 
 アイツのためなら、この都市の全部の黄金だって惜しくない。
 私の大切な仲間のためなら、国を売る事だって惜しくない。
 
 仲間って、そういうものなんだね…)
 
 レベッカは、シグルトを愛しているのだと思う。
 だが、それは他の仲間に対して持っている感情に近い。
 家族愛とでも言おうか。
 
 だが、レベッカがここまで執着した仲間は今までいなかった。
 
(…私、馬鹿ね。
 
 何とかなるように考えるのが私の《お姉ちゃん》としての役目じゃない。
 そうと決まれば、またファビオを探して名医や癒しに優れた聖者様の噂でも見つけてもらいましょう)
 
 そう考えたレベッカは、眠気覚ましに辛い酒を一杯やると、盗賊ギルドに向けて出立した。
 
 
 レベッカがいつものように路地をうろついていると、ふと嗅ぎ慣れた臭いがした。
 
 鉄のような錆びた臭い。
 血臭である。
 
 臭いの元を注意深く探ったレベッカは、路地の壁に寄りかかって喘いでいる人物を見つけ、目を見開いた。
 
「…ファビオッ!」
 
 髪が濡れたまま放置したようにぼさぼさで、潮と泥の混じったような異臭を放っている。
 服は生渇きで、応急処置に巻いた血止めらしい布が乾いた血で黒く染まっていた。
 
「…ぐ、レベッカか?
 
 はは、ようやくツキが巡ってきたみてぇだ」
 
 目を閉じたまま、ファビオは何とか吐き出すように言葉を紡ぐ。
 
「…あんたほどのやり手を、ここまで追い込むなんて。
 
 とにかく、話は後で聞くわ。
 
 肩を貸す?
 それともギルドの三下どもを連れて来る?
 
 まずは治療をしないと…」
 
 レベッカがそう言いながら駆け寄ると、ファビオは首を横に振った。
 
「さっき、仲間を呼ぶ笛を鳴らした。
 直に来るから、俺の事はいい。
 
 それより、シグルトは昨日戻ったか?」
 
 ファビオは眩しそうに目を開くとレベッカに問うた。
 
「…昨日夜を明かして待ってたけれど、戻らなかったわ。
 
 あのレナータって娘のところにいるんじゃないかしら?」
 
 レベッカの応えに、ファビオは舌打ちした。
 
「く、じゃあ戻ってないのか…
 
 掴まっちまったようだな、シグルトの奴」
 
 ぐい、とレベッカがファビオの服を掴んだ。
 
「…何があったの?
 
 シグルトが関わってるっていうの?!
 あいつ、今戦える状態じゃ…」
 
 そこまで言って、苦しそうなファビオに気付き、慌てて手を緩める。
 
「…余談抜きだ。
 
 シグルトは昨日、俺とこのアレトゥーザの危機に関わる話をしていた。
 ところがその最中に、この間レナータって精霊術師を襲った奴らが用心棒を雇って仕返しに来やがった。
 
 俺はシグルトが隙を作ってくれたから何とかこうやって逃げ延びた。
 …この様だがな。
 
 レベッカ、お前はシグルトを仲間たちと助けに行け。
 東にある岬の上の廃教会だ。
 俺は、シグルトとの約束を守らなきゃならねぇ。
 
 後で回せる連中がいたら、そっちに回すから急げ。
 
 シグルトには借りを返さなきゃならねえんだ。
 必ず助けろよ。
 
 いいか、ザハっていう緑の服の仮面野郎と、ヒギンっていう魔術師風の男に気をつけろ。
 あいつら、多分アレトゥーザでも最強の冒険者“海風を薙ぐ者達”の連中に次ぐ一級の腕前だ。
 
 ザハって奴は闘舞術と南方の体術を使う格闘家だ。
 全身が武器みてぇな野郎だ。
 
 ヒギンはこのアレトゥーザで導師をしてたこともある魔術師だ。
 堅実で地味だが、嫌な防御の魔法を使いやがる。
 賢者の塔のすかした魔術師の兄ちゃんをライバル視してたが、それぐらいの実力はある野郎だ。
 噂じゃ竜巻の魔法を使えるらしい。
 俺の背中もこのおっさんにやられたが、剣を飛ばす魔法も使うから注意しろよ。
 
 あと、前にシグルトと闘ったバドゥーリって傭兵崩れは腕が立つ。
 ロネって腕の長い盗賊野郎は腕もそこそこだが、汚い手をよく使う。
 
 注意しろよ…」
 
 そこまで一気に言ったファビオは、息を吸いすぎて派手にむせた。
 その背を撫でながら、レベッカはこれからすべきことを頭の中で整理していく。
 
「…分かったわ。
 
 私は仲間を集めつつ、岬の廃教会を目指す。
 そしてシグルトを助けるわ。
 
 その後は?」
 
 仲間がいる場所を思い浮かべながら、ファビオの応急手当をするレベッカ。
 
「ことが片付いたら、そのまま『蒼の洞窟』を目指してくれ。
 そこに、もう1つ問題ごとがある。
 
 かなりやばい怪物がこのアレトゥーザの近海にいるらしい。
 2匹のでかい海蛇だ。
 1匹はレナータが封じ込めてるらしいが、もう1匹はどこにいるかわからねぇ。
 話じゃ、体長15mになる特大サイズらしいな。
 こんなのが暴れたら、海に近い場所の住人や漁師たちにかなり死人が出るだろう。
 
 そいつらの退治が仕事だ。
 
 俺はこの様で動けねぇから、ボスに掛け合ってあんたたちの報酬を都合つけておく。
 ただ働きにはしねぇから、頼む。
 
 あと、“風を駆る者たち”にも手伝うよう伝えてくれ。
 1パーティじゃ手に余る仕事だからな。
 シグルトが闘えないんじゃ、余計に戦力が必要だ。
 
 俺も出来るだけ声はかけてみるが、拙いことに、最近“鮫(海賊のこと)”の動きが盛んで、ギルドの連中が出払ってる。
 何とか手を回してみるが…
 
 たぶん出せる報酬は、全部で銀貨二千枚ぐらいだ。
 “風を駆る者たち”の連中と組むなら山分けってことになる。
  
 この件の解決はレナータって娘を救うことに繋がるし、シグルトも望んでることだ。
 
 …正直、時間が無ぇ。
 無茶な依頼だが、何とか仲間を説得してやってくれ。
 
 必ずこの借りは返すからよ…頼む」
 
 レベッカはしっかり頷く。
 
「わかったわ。
 
 その傷が治ったら、あんたの奢りで高級酒1本。
 それでチャラにしてあげる。
 
 私はもう行くわ。
 あんたは…」
 
 見るとファビオは気が抜けたのが意識が無い。
 
 レベッカは苦笑すると、ファビオのいる場所を知らせるために、その路地の入り口にある木の壁に小型ナイフを突き立て、その柄に彼の衣服の切れ端を特殊な結び方で結わえておいた。
 
 こちらに向かってくる数人の気配がするが、歩き方が素人ではない者もいるようだ。
 笛に気付いた盗賊ギルドの者たちだろう。
 ファビオは彼らが回収するはずだ。
 
「…さて、行くか」
 
 そう呟くと、レベッカは疾風のように走り出した。
 
 
 ザザ…
 
 波の音が聞こえ、シグルトは目を覚ました。
 全身が軋むように痛む。
 
 身体に巻かれた感触は治療のための布の他に、拘束するための縄の感触もあった。
 
(…生きてはいるが、掴まったわけか)
 
 縄の感触は初めてではない。
 冷たい石の床の感触も。
 
 あの時は嫌らしい笑いを浮かべた男たちがいて、妹が拘束されていた。
 
(…ファビオは、いないみたいだな。
 
 なら、何れ助けが来る。
 俺は耐えて待てばいいだけだ。
 
 あのときに比べれば、かなりましだな)
 
 そう思って目を開けると、そこは日の光が差し込む窓のすぐ側だった。
 海が近いのだろう、潮騒の音が聞こえる。
 窓から吹き込んでくる風は、すでに冬の冷たさを含んでいる。
 
「…ドウヤラ、気ガ付イタヨウダナ」
 
 くぐもった独特の発音の声だった。
 
 確認すると、シグルトの意識を奪った緑衣に仮面の人物が、シグルトを見下ろしていた。
 
(ザハ、とかファビオが言っていたな)
 
 闘って分かったが、かなりの使い手だった。
 おそらく、総合的な技量ではシグルトに勝るかもしれない。
 
「…マァ、私ト慣レ合イナドシタクハ無イダロウガ、オ前サエ暴レナイナラ、手ハ出サナイ。
 
 依頼主ハ、ワカランガナ」
 
 そう言うと仮面は縛られて動けないシグルトの横に腰を下ろした。
 
「…オ前ガコレカラドウナルカハ知ラナイガ、何カ起コル前ニ、伝エテオキタイ。
 
 オ前ハ偉大ナ戦士ダ。
 ソノ武勇、讃エヨウ。
 
 オ前ノヨウナ戦士ト闘エタコトト、ソノ闘争ヲ我ガ手デ終ワラセタコトヲ、私ハ誇ル」
 
 そう言うと、仮面はシグルトがつけた緑衣の裂け目の修復痕を指差した。
 
「アノ見エナイ剣モ、風ノ剣モ素晴ラシイ。
 
 久シクナカッタ、甘美ナ勝負ダッタ。
 敵ニコノヨウニ言ワレテモ、嬉シクナドナカロウガ、コレダケ言イタカッタ」
 
 そう言って、仮面は小首をかしげた。
 
「…あんたは女か?」
 
 シグルトはその小さな動作で、その性別を見破った。
 
「ソノ通リダ。
 
 コンナ格好デモシナケレバ、南方出身ノ黒イ肌ノ元奴隷女ガ、男ニ混ジッテ仕事ヲスルノハ難シイ。
 ソレニ、コノ格好ハ正体ヲ隠スニハ最適ダ」
 
 仮面はその面に手をかけ、外す。
 
 道化の仮面の下から現れたのは、黒い瞳の、20代後半ぐらいの女性だった。
 黒曜石のように黒い肌は磨かれたように光っている。
 厚い唇は笑みの形に結ばれていた。
 
「俺に見せても大丈夫なのか?」
 
 そうシグルトが言うと、女…ザハはニッと笑った。
 
「少ナクトモ、今ノ依頼主タチニ見セルツモリハ無イガ、オ前ハ見セルニ値スル。
 
 ソノボロボロノ身体デ私ヲアソコマデ追イ詰メタ。
 私ノ故郷デハ、強ク、ソレ以上ニ勇猛デ誇リアル者ニハ、最大ノ礼ヲ尽クス」
 
 ザハは無愛想な仮面には似つかわしくないほど、感情豊かな顔で、胸を張って言った。
 
「…そうか」
 
 少し苦笑すると、シグルトは黙った。
 
「…私ガ何故アノ男タチニ従ウノカ、聞カナイノカ?」
 
 やがてザハの方から話しかけてきた。
 
「人には色々な理由や考えがある。
 その全てを理解することは俺には出来ないが、金にしろ人にしろその理由が命をかけるほど大切なら、俺がどうこう言うまでもない。
 
 あんたは戦士なんだろう?
 闘う理由はそれだけで事足りる。
 
 あいつらに従う理由があんたの中にあるなら、それで十分だろう」
 
 聞くのは野暮なことだ、とシグルトは苦笑した。
 
「…ソウイウモノカ?」
 
 また小首をかしげたザハに、シグルトは苦笑して頷いた。
 
 そのとき、石の床を歩く硬い靴音が聞こえてきた。
 
「…依頼主ノオ出マシノヨウダ。
 私ハモウ行ク。
 
 …サラバダ」
 
 元のように仮面をつけ、ザハは流れるような動作で去っていった。
 
 その後すぐ、部屋に2人の男が入って来た。
 
「…よぉ、芋虫みたいな格好だな。
 
 気分はどうだい?」
 
 傭兵崩れの男、バドゥーリである。
 
「…最悪だな。
 
 床の冷たさが心地よかったが、あんたたちの顔を見たら吐き気がしてきた」
 
 憎まれ口で返すシグルト。
 
「へっ、言うね。
 
 むかつくのを通り越して、気持ち好いぐらいだ。
 そういうてめぇを見下ろすのもな」
 
 下品な顔で笑うバドゥーリ。
 
「…余計な話はしないで下さい。
 
 用件があるのは私なのです」
 
 もう1人の男はジョドというレナータをバドゥーリたちに襲わせた侍祭だった。
 
「今回もあんたが黒幕か?
 
 うちの司祭の爺さんが嘆きそうだ。
 いつから、聖海の徒はこんな下種になったのかってな」
 
 ガスッ!
 
 鈍い音とともにシグルトの身体が転がった。
 
「…黙りなさい、魔女の手先の分際でっ!」
 
 目を吊り上げるジョド。
 
 シグルトは咳き込んだ後、哀れむような目でジョドを見返した。
 
「…何ですか、その目は!」
 
 ガスッ!!
 
 もう一度ジョドがシグルトを蹴り飛ばす。
 だが、シグルトは歯を食いしばって転がらず、黙ってそれを身体で受け止めた。
 
「…あんたと同じ目をした奴を、俺は知っている。
 
 権勢や組織の威を自分の都合のいいように解釈して、狂信に走った壊れた奴の目だ。
 
 縛られていて残念だよ。
 殺さない程度にぶん殴ってやれないからな」
 
 低い声でシグルトははっきりと言った。
 
「な、なにぃ!」
 
 怒り狂ったジョドが、さらに暴力を振るおうと構えたわずかな呼吸のとき、シグルトはくっと睨みつけた。
 
「…いい加減にしろっ!!!」
 
 そして一喝。
 
 驚いたジョドは体勢を崩して尻餅をついた。
 
「…邪悪な奴は今のお前の方だ。
 
 そうやって、正義のためだと1人の女の子を悪人に仕立てるのか?
 聖海の教えは異国の神すら改宗させて列聖させたんだろう?
 
 自分たちと違うから、レナータを悪にするのか?
 
 俺は坊主じゃないから、あんたの言う御大層な魔女だの悪魔だのという話は理解できん。
 
 だが、心を救い、魂を救うのが宗教じゃないのか?
 
 抵抗しないものをいたぶって、それを正義とほざくお前はその辺の害獣よりよほどたちが悪い。
 
 都合よく作り上げた使命感や、誰かを不幸にする大儀を掲げても、俺には醜い行いにしか見えない。
 誰かを貶めることに固執して、何の正義があるって言うんだ?
 
 …お前の中で俺が魔女の使徒なら、それでもかまわん。
 お前と同類扱いされるよりは、よほど居心地がいいだろう」
 
 迷い無い瞳で、迷い無い言葉でシグルトはジョドを貫いた。
 
「…だまれぇぇぇえっ!!!!!」
 
 逆上したジョドはシグルトの顔面を蹴り飛ばした。
 
「私が、私が怯むとでも思っているのかっ!
 
 異教徒の分際で、魔女の下僕の分際で、よくも、よくも、よくもぉぉぉっ!!!」
 
 狂ったようにジョドはシグルトを蹴り続けた。
 
 やがて、疲れて動きを止めたジョドを、シグルトはまた哀れむような目で見つめた。
 
「…きっと、お前の狂信は俺が殴っても治らないんだろうな」
 
 何か言い返そうとしたジョドは、荒い呼吸しかできなかった。
 
「がははっ!
 
 痛快だったぜ、シグルトさんよ。
 
 けどよぉ、あんたは人質なんだぜ?
 そんなにのん気に、坊さんに説教してていいのかぁ?」
 
 バドゥーリが下品に嗤いながらシグルトを見下ろした。
 
「…こんなときでもなければ説教も出来まい。
 
 お前らはいつも問答無用で襲い掛かってきたからな」
 
 シグルトの泰然とした態度に、バドゥーリが鼻白む。
 
「丁度、休暇の予定だったからな。
 …存分に説教してやるぞ。
 
 人質なんて三流の悪役のようなことを続けていれば、そのうちにボロが出る。
 
 俺といた男は逃がしたみたいだな?
 のん気なのはお前たちの方じゃないのか?」
 
 バドゥーリは押し黙った。
 シグルトにはどんな脅しも無駄だと分かったからだろう。
 
 だが、バドゥーリの後ろでゆらりとジョドが立ち上がった。
 
「………」
 
 ジョドの目は狂気に犯されていた。
 
「バドゥーリ、この男を立たせなさい」
 
 何をする気だ、と聞こうとしたバドゥーリをジョドが睨む。
 
「…へいへい。
 
 三下は辛いねぇ」
 
 バドゥーリはシグルトの縄を掴んで立ち上がらせた。
 
「なぁ、旦那。
 
 何するつもりだ?」
 
 ジョドは黙って短剣を抜くとシグルトの右手の掌を刺した。
 
「…っ!」
 
 焼けるような痛みに対し、シグルトは歯を食いしばって耐えた。
 
「おいおい、治療するのは俺たちなんだぜ?
 
 あんまり血が出るやり方はしねぇでくれよ」
 
 バドゥーリがうんざりしたように言う。
 
「無用ですよ、手当てなど。
 
 処刑すればいいのですから」
 
 恍惚の表情を浮かべてジョドが嗤う。
 
 バドゥーリが止めるまもなく、ジョドはシグルトの腹を短剣で貫いた。
 引き抜き、すぐにその胸も刺す。
 肺腑を刺されたシグルトは小さく咳き込んで吐血した。
 
 そしてよろめくシグルトを、ジョドは教会の窓から海に向かって蹴り落とした。
 
「…旦那?」
 
 少し青ざめてバドゥーリがジョドを見る。
 
「…悪の1つはこれで滅びました。
 
 次は魔女ですよ、バドゥーリ」
 
 光の無い狂信の目で微笑むジョドに、バドゥーリの背筋を冷たい汗が滑り落ちた。
 
「あと、悪魔の武器は危険ですね。
 
 大いなる海に委ねましょう」
 
 そしてジョドは、バドゥーリが持っていたシグルトの愛剣【アロンダイト】も、ゴミを放るように海に投げ捨てた。
 
 
 シグルトは落ちていた。
 
 教会の窓の下は崖だった。
 その下は海である。
 
 身体を動かそうとして喀血し、そして激しい衝撃が身体を襲った。
 
 高所から落ちると、水面すら岩のような硬さを持つ。
 まともに身体の動かせなかったシグルトは、海面に叩きつけられたのだ。
 
 全身の血肉が逆流するような感触。
 跳ね上がる大量の水飛沫。
 
 見る間にシグルトの血が、碧い海水に紅い帯を引いた。
 
 シグルトの意識はそこで途切れ、筋肉質の重い身体はゆっくりと海に沈んでいった。

 
 ビュオォォォォォッ!!!!!
 
 風が一度大きく逆巻くと、碧海を望む都の風は突然止んだ。
 同時にアレトゥーザの臨む碧海の潮騒も波も、ぴたりと静まる。
 
 突然の凪(なぎ)であった。
 
 船の出入りが多いアレトゥーザにとっては大きな問題である。
 
(…何なんだ、この凪は?
 
 まるで風も水も塞ぎこんでるようだ。
 
 それに、このどす黒い不安はいったい…)
 
 ニコロが眉間に皺を寄せていると、エイリィが心配そうに見つめてきた。
 
「ああ、ごめん。
 
 なんだかすごく嫌な凪だから」
 
 そういうニコロにエイリィも頷く。
 
「…私もそう思う。
 
 孤児院で仲のよかった子が死んじゃった朝、こんな不安な気持ちになったわ。
 皆、大丈夫かな?」
 
 不安そうなエイリィの肩を、ニコロは優しく叩いた。
 
「大丈夫だよ。
 
 皆も、レナータさんも、シグルトさんもきっと」
 
 ニコロとエイリィは『蒼の洞窟』へと急いでいた。
 
 “風を駆る者たち”は3グループに分かれて別行動をとっていた。
 時間を節約するために、レイモンが提案した案である。
 
 レイモンとオーベは教会に。
 ガリーナとユーグは盗賊ギルドに。
 
 事の起こりは、『悠久の風亭』のマスターの依頼である。
 
 聖地である『蒼の洞窟』を巡って、聖海教会の保守派がレナータへの迫害を強め、洞窟からの立ち退きを勧告しはじめたのだ。
 それに対して首を縦に振らないレナータを、教会の保守派は近く行われる《ネプトゥヌスの祝祭》で魔女として裁く予定だという。
 
 レナータを師として慕うニコロが、これに黙っているはずがない。
 “風を纏う者”もシグルトの故障でまともに動けないだろうと、マスターは“風を駆る者たち”にレナータが立ち退かない理由の調査と、彼女の保護を依頼したのだ。
 
(…今行くよ、レナータさん!)
 
 ニコロは焦る気持ちを必死に抑えながら、足を速めていた。
 
 
 “風を纏う者”の面子は、レベッカの行動で集まっていた。
 
 そして、そのまますぐに岬の廃教会をめざしていた。
 仲間が揃い、“風を駆る者たち”に増援を頼もうしていた時、突然顔色を青くしたラムーナが先に行くといって駆け出してしまったからだ。
 
「…変なの。
 
 ものすごく嫌な予感がする」
 
 走り出す途中で、ラムーナは一度立ち止まり空を仰いだ。
 
「…風が止んだ?」
 
 いつも海から吹き上げる潮風は、大きな一吹きの後にぴたりと止んでいた。
 同時に周囲の海も沈黙する。
 
「…凪ね。
 
 でも、この場所でこの時期におかしいわ」
 
 ラムーナは自分の肩を抱き、震えていた。
 
「ラムーナ?」
 
 レベッカがその表情を伺う。
 
「…怖い。
 
 よくないことが起きてる」
 
 こんなラムーナを見たのは初めてだった。
 足の遅いロマンやスピッキオがようやく追いつく。
 
「…はぁ、はぁ。
 
 2人とも足、速すぎるよ」
 
 ロマンが荒い息で言う。
 
「…まったくじゃ。
 
 年寄にこの坂を走らせるのは、酷というものじゃよ」
 
 汗を拭いながら杖で身体を支えるスピッキオ。
 
 2人がラムーナを見ると、蒼白な顔でレベッカに支えられている。
 
「…お姉ちゃんが死んだときと同じ…
 
 あの日も風が止んじゃった…
 
 だめ…急がなきゃ、急がなきゃっ!!」
 
 ラムーナはまた走り出す。
 
 ロマンとスピッキオがそれを見て、仕方ないという風にまた足を速める。
 
 なぜかもう不満の声は出なかった。
 
(…くそ、私も嫌な予感がするわ。
 
 何だっていうのよ、この不安な気持ちは)
 
 レベッカも怠惰な彼女には珍しく、真剣な顔で走るのだった。
 
 
 走り通しだった“風を纏う者”は、昼には廃教会の前までやってきていた。
  
「今回は相手が強いわ。
 
 相手の主力は4人。
 戦士が2人に、魔法使いが1人、盗賊が1人。
 
 どうやら秘蹟を少しばかり使うボス猿がいるみたいだけど、白兵戦はからっきしみたいだから、まずは主力を一気に潰す。
 
 目標はシグルトの救出よ。
 お互い無理はしない。
 
 いいわね?」
 
 一同は黙って頷いた。
 
 本来は彼らをまとめるシグルトがいない。
 しかし、シグルトのためという意識が強い連帯感を生んでいた。
 
「OK。
 
 じゃあ、いくわよ!」
 
 レベッカが廃教会の壊れかけた窓から忍び込んで、正面の戸を開け、一気に侵入する。
 そこには、昔礼拝堂だったらしい場所で、数人の男が酒を飲み交わしていた。
 
 その中に腕の長いチンピラ風の男、ロネもいる。
 
 レベッカが1人の男を刺し殺し、ロマンの【眠りの雲】の呪文で半数が無力化する。
 ラムーナは即座に2人の傭兵を蹴り倒していた。
 
 慌てたロネが叫びながら、逃げていく。
 
 おそらく連中はシグルトを盾にしてくるだろう。
 そう思っていたレベッカは、逆にその時にシグルトを救出する腹だった。
 
 しかし、一行が奥の広間にたどり着くと、そこには5人の敵がいるだけだった。
 
 ジョドという侍祭を囲み、仮面に魔術師、そして傭兵と盗賊。
 
 敵の1人、ザハという仮面が前に出て来た。
 
「…シグルトはどこ?」
 
 レベッカは恫喝するように、低い声で言った。
 
 一瞬仮面がちらりと窓の方を見た。
 その先には、南海の強い日差しが差し込むだけだ。
 
「さぁて、なぁ。
 
 知りたきゃ、俺らを倒すんだなっ!」
 
 傭兵…バドゥーリが剣を抜く。
 
 そしてザハから動いた。
 
 ラムーナがザハの拳をひらりとかわすと、鋭い蹴りを見舞い、即座に体勢を整える。
 両名の激しい攻防が行われるが、どちらも高い回避力でまったく互いの攻撃が当たらない。
 
 【幻惑の蝶】と呼ばれる回避術。
 
 素早い闘舞術の使い手が使うと、そのフットワークは驚異的なディフェンスとなる。
 
「《…穿て!》」
 
 一方ロマンは【魔法の矢】を撃つ。
 
「こしゃくな小僧めっ!」

 接近してきたバドゥーリが【魔法の矢】の直撃を食らって転倒するが、相手の魔術師はロマンに対するように複雑な印を結ぶ。
 そして東方の発音を含んだ独特の詠唱。
  
「《砂塵が装束、猛る輪舞を踊れ妖霊ぃ!》
 
 《叫べ、竜鳴く風の暴虐を!!!》」
 
 ロマンの顔色が青くなる。
 
「気をつけてっ、【砂の旋風】だ!!!」
 
 廃教会の壁を裂きながら巻き起こった竜巻。

 巻き込まれたレベッカたちは、風に裂かれ壁や床に叩きつけられて傷ついた身体を庇い、後ろに引いた。
 アレトゥーザでも伝授されるこの魔法は集団に大きな打撃と、深刻な能力低下を招く。
 
 砂の混じった風は目を霞ませ、身体を大きく切り裂くのだ。
 
「…主よ!
 
 我が主よ!
 
 我等に祝福を与えたまえ!」
 
 スピッキオの祈りの声が柔らかく仲間を包む。
 そして即座にスピッキオは【癒しの奇跡】を用いて仲間を癒した。
 
 敵は【魔法の鎧】による補助で堅牢であるが、“風を纏う者”もスピッキオの【聖別の法】で守られている。
 しかも、スピッキオの唱える【祝福】の言葉が、“風を纏う者”の能力を高めていた。
 
 砂塵による行動の阻害が【祝福】によって洗い流され、“風を纏う者”は奮い立つ。
 
「!!!」
 
 激闘の末、レベッカが絞殺紐でロネを絞め落とした。
 回復の援護の無い敵側は、スピッキオの回復の秘蹟を破れずに一方的に疲弊していった。
 
「《刃の精霊、剣の主よ、斬り裂け、断ち斬れ、血潮を出だせ…》
 
 《岩をも穿つ咒(のろ)いを刻め!》」
 
 ラムーナがザハとの膠着状態から隙をついてその頭上を跳び越し、ヒギンを襲った。
 
 空中で舞われるまじないの剣舞。
 
 相手の防御を紙同然にする【咒刻の剣】である。
 ラムーナが新しく習得したこの技が、【魔法の鎧】の防御を無力化して大きな傷を与える。
 
 着地と同時に紫色のまじないが、ヒギンを袈裟斬りにした。
 
「ぐぅぅ、このようなまじないもどきに…」
 
 あふれる己の鮮血を押さえ、ヒギンは呻いた。
 
 この世界の法則では、常に防御の魔力は塗り変えられる。
 ラムーナの剣は、鉄のような防御の魔法を打ち破り、その上でさらに防御を奪ったのである。
 
 そしてザハが庇いに入る前に、ラムーナの鋭い突きがヒギンに止めを刺した。
 
 直後に対峙する2人の舞い手。
 闘舞術の使い手同士の激しい戦闘がまた始まる。
 
 レベッカは綱を構えながら、バドゥーリと激しくせめぎ合う。
 
 ジョドの唱える【聖なる矢】にロマンが【魔法の矢】で返し、腕を貫かれたジョドは慌てて遮蔽物の後ろに隠れた。
 
 舞い手同士の凄まじい攻防は、目まぐるしい動きで続いていた。
 
 ザハが不意に不自然に顔を向け、瞬間ラムーナが石の様に硬直する。
 即座に【幻惑の蝶】の【幻蝶舞踏】の動作で、ラムーナは間一髪でザハの拳を避ける。
 
「…知ってるはず。
 
 呪縛や緊縛に対して、その脱出は闘舞術の基本だよ」
 
 ラムーナは相手を威圧するように言う。
 
 南方大陸から伝わった戦いのダンス《闘舞術》。
 足場の悪い場所や拘束された状態から脱出して闘うその技法。
 一説には、その舞踏を生み出した先達には奴隷階級だった者もいたという。
 
 一方、ザハの使った《倣獣術》も南方大陸から伝わった武芸だ。
 相手を即座に硬直させる【妖狐の呪眼】。
 邪眼(イビルアイ)の1つとして恐れられる金縛りの瞳術(どうじゅつ…目や視線を使った技術)である。
 
 身体能力を高め、非力な舞い手が体重や遠心力で力を得られる《闘舞術》。
 相手の体勢を崩し、身体の躍動で恐るべき破壊力を生む《倣獣術》。
 
 この2つは相反する部分と共通する部分を持つ武芸であり、両方を揃って使いこなしたときこそ、恐ろしい効果が生まれるとされる。
 その典型であるザハは強い。
 しかし、一芸を磨いてきたラムーナも強かった。
 
 だが、【妖狐の呪眼】受けた直後のラムーナの行動は守備に徹している。
 
「…我ガ瞳術ノ封ジルハ、身体ダケデハナイ。
 
 闘ウベキ心ヲ奪ワレタ者ニハ、敗北アルノミダ」
 
 【妖狐の呪眼】の恐ろしいところは、相手の心に恐怖や慎重さを刻み付けて、防戦一方に追いやる効果にある。
 
 目に見えてラムーナが押され始めた。
 
「《…眠れ、穏やかに》」
 
 その背後から不意に響くロマンの詠唱。
 
「…ヌカッ…タ」
 
 奇襲で放たれた【眠りの雲】の起こす激しい睡魔に体勢を崩すザハ。
 ラムーナは準備していた【連捷の蜂】の初動作でザハの延髄を蹴る。
 挫けそうな心を叱咤し、次の攻撃を放つ。
 それは目覚めたザハにかわされたが、即座に【咒刻の剣】の構えを取った。
 
「《…縛れ!》」
 
 ロマンの呪縛の呪文が相手の動きを一瞬縛る。
 
「…グッ!!!」
 
 呪縛を解こうとする直前のわずかな隙。
 
「《岩をも穿つ咒いを刻め!!!》」
 
 ザハが【蜘蛛の糸】を解く前に、わずかに速かったラムーナの剣がザハの防御を破りその身を穿った。
 
「…潮時カ」
 
 何とかその攻撃に耐えたザハは、呪縛を破ると傷を押さえながら窓の外を見る。
 
「契約変更ノ時間ダガ 、私ハ人質ヲ激昂シテ殺スヨウナ依頼主ニハ、コレ以上ツイテイケヌ。
 
 私ノ仕事ハココマデダ」
 
 あっさりとザハは逃走する。
 
「ま、待ちなさい!
 
 逃げたら、後金は払いませんよ!!」
 
 ジョドが必死に呼び止めるが、ザハは入り口で立ち止まり振り向かずに手を振った。
 
「…結構ダ。
 最低限ノ仁義ヲ守レヌ奴ニ、後金ナド期待シナイ。
 
 今マデ闘ッタノハ、キチントシタ契約デ前金をモラッテイタカラナ」
 
 実にクールなしぐさでジョドを黙らせる。
 
「…シグルト。
 
 アノ男ハ、真ノ戦士ダッタ。
 私ハ、戦士ノ死ヲ軽ンジル者ハ信用シナイ」
 
 そう言い残し、ザハは去って行った。
 
「…あ~あ、こりゃ俺らの負けだわ」
 
 バドゥーリが剣を投げ捨てる。
 降参の構えか、両手を大きく万歳の形で上げる。
 
「…待ちなさい!
 
 今の仮面野郎の言ってたことってっ!!」
 
 レベッカが目を剥く。
 普段冷静沈着な彼女が焦った様子だった。
 
「…言葉通りだよ。
 
 俺らの依頼主は、切れて縛られたままのシグルトをぶっ刺して海に投げ落としちまった。
 
 この辺は鮫が多いし、傷の1つは肺のあたりだった。
 おまけに船はこの凪で通らねぇだろうし、泳ぎついで這い登れる岸も近くに無いからな。
 
 死んだのは間違いねぇだろ」
 
 そう言うとバドゥーリは疲れたような顔で苦笑した。
 
「う、嘘だ!
 
 シグルトが、シグルトが死ぬはずないよっ!!」
 
 ロマンが取り乱して否定する。
 
「あの野郎とは、剣で決着をつけたかったぜ。
 多分勝てなかっただろうがな。
 
 つまらねぇ話だ。
 
 あんなに強くて、憎たらしいぐらい男前だったのによ。
 死ぬときは、あっけなかったぜ。
 
 世の中ってやつは、いっつも理不尽だ」
 
 バドゥーリは頭をぼりぼりと掻きながら、海を眺めた。
 
「…戦争がなくなりゃ、俺たち傭兵はお払い箱だ。
 
 ちんけな野郎について、酒飲んで、盗んで、女犯して、人殺してよ。
 でも、な~んも感動が残らねぇ。
 
 シグルトの野郎、縛られて蹴飛ばされても真っ直ぐな目で居やがった。
 あんなに理不尽に死んじまう時まで、あの目のまんまだった。
 
 …すげぇよなぁ」
 
 それはとても疲れた男の目だった。
 戦場で戦い、修羅場を何度も経験して戻れなくなった男。
 
 そんな彼は心の隙を埋めるために、魔女狩りという大儀に半信半疑で加担したのだ。
 
 戦場では腕利きとされた彼は、平和な世界では鼻つまみ者だった。
 そして、彼が選んだ道は悪人の道だった。
 
「にわか正義はだめってことだな。 
 
 俺も、こんな奴につくのは止めるぜ。
 
 …戦場で死んでりゃ、よかったな。
 
 官憲に身柄がいきゃ、余罪で縛り首だからなぁ。
 こんなちんけな野郎の側じゃ、どうせ神の国なんて、いけねぇだろうしなぁ。
 地獄行き決定だわな。
 
 …俺も逝くわ。
 無様に晒されるよりゃ、いくらかましだろ。
 
 んじゃ、バ~イって、な」
 
 バドゥーリは走り出すと窓から海に飛び込んだ。
 冷たい水音の前に、一度岩で身体がひしゃげる鈍い音が鳴った。
 
 だがシグルトの死というショックに、一同は動けないままだった。
 
 数秒後、レベッカだけはジョドの隠れる場所に向かっていく。
 そこで震えていたジョドを蹴り倒し、仰向けにして馬乗りになる。
 
「ひぃ、止めろ!
 
 私は、私は聖海の…」
 
 暴れる邪魔なジョドの腕を止めるために、レベッカは能面のように無表情な顔でジョドの肩の腱を断ち切った。
 
「うぎゃぁぁぁ!!!!」
 
 凄まじい絶叫があたりに響く。
 
 グシャッ!!
 
 騒がしい叫びを止めさせるため、レベッカは短剣の柄で、ジョドの鼻っ柱を粉砕した。
 
 ジョドがくぐもった呻き声しか上げられなくなると、レベッカはその胸倉を掴む。
 
「…あんたがシグルトを殺したの?」
 
 ひぃひぃと言うだけのジョドの頬を強く張る。
 
「返事をしないなら、耳を削ぐわ」
 
 短剣をその耳に当てられたジョドは、失禁しながら何度も頷く。
 
「…縛ったまま刺して海に落としたって、本当?」
 
 ジョドは必死に頷くだけだった。
 
「…そう」
 
 レベッカはそう言うと、ジョドの喉笛を短剣で掻き切った。
 
 ひゅう、ひゅう…
 
 気管から空気の抜ける音。
 ジョドが泣きながらレベッカを見つめる。
 
「…あんたの神様に祈ったら?
 
 無理か。
 もう喋れないもんね。
 
 その腕じゃ、十字も切れないし、地獄行きね」
 
 冷たい目でレベッカは一瞥して立ち上がった。
 
 ジョドは白目を剥き、そしてこと切れた。
 
「…畜生」
 
 レベッカはそう言って寝転がってるロネのところに行く。
 
 冷たい目のままレベッカは、ロネが目を覚ます前に止めを刺した。
 
 凄惨な殺人を冷たい表情で行うレベッカに、スピッキオは動けなくなっていた。
 怠惰だが、陽気で情に厚いレベッカとは思えない行動だった。
 
「…いけね。
 
 あんたたちがいたんだよね」
 
 その暗い瞳は、奈落を目に映した亡者のようだ。
 
 だが、ロマンはそれにも気付かずにシグルトの姿を探している。
 
「嘘だ、嘘だ、嘘だ…」
 
 うろうろとシグルトを探し続けるロマンの瞳もまた暗い。
 
 そして、ラムーナは脱力したように座り込んで海を眺めていた。
 
「…主よ。
 
 かくも慕われる若者を、何ゆえ召された?」
 
 しかし、スピッキオの言葉に応えるものは無く、静かな風の無い海が陽光を反射して輝くだけだった。
 
 
「くそ、4人だけで向かうなんて、無茶しやがって」
 
 “風を駆る者たち”のユーグとガリーナは、“風を纏う者”と合流するため、岬の廃教会を目指していた。
 
「無駄口叩かずに走る!」
 
 ガリーナはユーグの俊足について走っている。
 ユーグのお姫様は見た目より健脚だった。
 
 やがて廃教会につくと、入ってすぐの礼拝堂跡には激しい戦いの後が残っていた。
 
「この人数をシグルト抜きの4人で突破したのか…」
 
 倒れた傭兵たちを見て、ユーグはその鮮やかな手並みに感心する。
 
「…私たちと同格って言われてるんだから、この程度は当たり前よ」
 
 ガリーナは冷静な顔で奥をめざす。
 
 そして奥の広場。
 
「…うわぁ、こりゃ何があったんだ?
 
 柱がぼろぼろじゃねぇか」
 
 そう言うユーグの横で、屈んだガリーナは床を指で撫でる。
 
「【砂の旋風】よ。
 
 使った奴はかなりの実力ね。
 この惨状…私やロマンより格上かもしれないわ」
 
 ガリーナは立ち上がって歩き出そうとして、立ち止まった。
 
 さめざめと泣いている子供がいた。
 柱に寄りかかって呆けている娘がいた。
 娘を抱きかかえてぼんやりしている女がいた。
 そして小さな血の染みの前で、静かに祈る老人がいた。
 
「お、皆無事だった…ムグッ」
 
 じゃべり出そうとするユーグの口を塞ぐガリーナ。
 
「な、何を…」
 
 目を剥くユーグをガリーナが睨む。
 
「場を察しなさい。
 
 こんなのおかしいでしょう?」
 
 ユーグも、あらためてその異様さに気付く。
 
「…何があったんだ?」
 
 その呟きに、ラムーナを抱いて撫でていたレベッカが立ち上がった。
 
「…ユーグ、来たんだ。
 
 戦いは終わったわよ、無駄足になっちゃったけど」
 
 その瞳を見て、ユーグは背筋が震えた。
 
(…こんな濁ったドブみたいな目しやがって、何があったんだ?)
 
 ユーグを押しのけ、ガリーナが核心を言葉にする。
 
「ねぇ、《シグルト》はどこ?」
 
 《シグルト》という言葉に、“風を纏う者”の一行がびくりとする。
 その行為で、ユーグも事情を推測できた。
 だがその推測が外れていてほしいと、ユーグは思う。
 
 レベッカがすっと凪いだ碧海を見つめる。
 
「たぶん、あそこ。
 
 刺されて、海に投げ込まれたんだってさ。
 手足を縛られて…
 
 アイツ、もう手足もろくに動かせなかったのに」
 
 その言葉にまたロマンが泣き始めた。
 
「…嘘だろ?
 
 あのシグルトが、死んだって言うのか?」
 
 ユーグが呆然とした様子で言うと、レベッカは壊れた機械のように小首をかしげた。
 
「…嘘だとよかったんだけどね。
 
 そこにあいつの血糊が残ってるのよ」
 
 スピッキオが、飛び散った血の跡に向かって祈りの言葉を捧げていた。
 
 ユーグは何か言おうとするが、言葉にならなかった。
 ガリーナも黙ったままだ。
 
 しばしの沈黙の後、レベッカは軽く首を振り、少しだけ生気を取り戻した瞳になった。
 
「…さて休憩終わり。
 
 レナータちゃん、助けに行こう」
 
 レベッカがラムーナの肩を叩く。
 
「お前ら、そんな状態で…」
 
 そう言ったユーグに、レベッカは潤んだ瞳で苦笑した。
 
「アイツが望んだ仕事よ。
 アイツの言葉が生きているの。
 
 だから、私たちがやらなきゃ、ね」
 
 スピッキオが立ち上がる。
 
「悲しむのは後じゃ。
 
 シグルトの意志を全うするのが、今のわしらに出来ることじゃよ」
 
 涙をこすって拭き取ると、ロマンも頷く。
 
「僕たちのリーダーが決めたことだから、やらなきゃ」
 
 最後にラムーナが立ち上がる。
 
「これ以上、悲しいことはダメだよ」
 
 傷つき、疲れ、失った“風を纏う者”はともに手をとって歩き出した。
 
 ユーグはどうしていいか分からずにガリーナを見た。
 
 唇を噛み締めながら、ガリーナは吐き出すように呟いた。
 
「…ニコロたちに何て言えばいいのよ…」
 
 その呟きも、凪いだ南海の静寂(しじま)に融けて消えていくのだった。

 
 
 ようやくお届けします、レナータ編の中です。
 
 シグルト、逝きました。
 心臓止まってます。
 
 カードワースは3~6レベルぐらいが一番スリリングで面白い頃です。
 召喚獣が2種類セット可能になり、スキルカードも4~5枚とバリエーションが豊富になります。
 今回の敵、ザハやヒギンもかなり高レベルらしい闘い方をしていました。
 ヒギンは【魔法の鎧】を使い、ザハは【幻惑の蝶】を使っていました。
 実際のシナリオで、NPC側がこういうやや健全なドーピングをしていることは少なく、反則的なドーピング(能力改造とか)の方が多いような気がします。
 能力をUPし、堅実な勝利を狙うのは5レベル前後のベテランであれば当然のことだと思います。
 敵も味方もどっちもです。
 
 私はMartさんにアレトゥーザの新スキル案をデザインして送ったとき、利点と欠点を含めた傾向を作ってみました。
 
 《闘舞術》は能力向上があり、決定的な破壊力は無いものの、能力低下や呪縛に強い仕様。
 《倣獣術》は能力低下と破壊力が高く、直接的な効果の変わりに単体では呪縛や能力低下に弱い仕様。
 《盗賊術》は威力ではなく嫌らしさや狡さを強調したトリッキーな仕様。
 実は三つとも、非実体や、まともな血肉と精神を持たない連中が苦手になるようになっています。
 《闘舞術》はいくらか補えますが、もともとの破壊力の低さから考えるとやっぱり苦手が残ります。
 
 私は利点を活かし、いかに欠点を補うかを考えることが、プレイヤーとしてのやりがいに繋がると思っています。
 
 アレトゥーザのサブシナリオは、このあたりを考えてデザインしてらっしゃるので、何度もやりたくなります。
 
 《闘舞術》のダンスは面白い特性があって、能力ダウンを受けたら、それから即座に体勢を立て直す瞬発力があります。
 回避ダウンが毎ラウンドイベントで起こるシナリオで【幻惑の蝶】を使うとかなり痛快です。
 
 スキルの効果や使われた状況をイメージしつつ、リプレイを読んでいただくと、また味わいが違うかと思います。
 私の文章では美味しくないかもしれませんが…
 
 
 雑談が過ぎました。
 
 今度はいよいよレナータ編最終話です。
 
 Martさんがレナータ編最終話の後に、リプレイのブログを閉鎖するに当たり、それに花を添える話にしたいものですが…
 
 なお、Martさんの“風を駆る者たち”のリプレイはうちのブログに引っ越す予定です。
 今準備をしていますので、また読めます。
 
 詳しくは別の記事にて書きますので。
 
 私の方のブログはゆっくりマイペースに続けるつもりですので、今後ともよろしくお願い致します。
 
 これからも沢山の人が愛せるカードワースでありますように。
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