Y字の交差路

 ここはY2つめがノリで作ったブログです。  カードワースを中心に、私が思ったことや考えたことを徒然なるままに書きたいと思います。

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『旅の空』

 ウェーベル村での仕事を終え、シグルトはジゼルを連れて、ロマンの待つヴィスマールに帰還した。
 
 ロマンは、シグルトがジゼルを伴って帰ると目を丸くしたが、詳しい事情を聴くと納得した様に同行を認める。
 毒舌家ではあるが根は謙虚で生真面目なので、理が通れば文句を言わない…そんな少年だとジゼルは評価した。

 シグルトの美しさにもびっくりしたが、ロマンの中性的な美しさも群を抜いている。

 柔らかな銀髪に、金褐色の瞳は黄昏の光を閉じ込めた様。
 女性も羨みそうになる程白く、肌理細やかな肌。
 まだ声変わりをしていない高い声を聞くと、少女だと言っても信じるだろう。

 だが、女性が苦手なのか、ジゼルには近寄りたがらない。
 それが少し寂しく感じられた。

 ジゼルが持前の好奇心でロマンを眺めていると、その横ではシグルトが繕い物をしていた。
 
「…上手ね。

 男の人でもそういうことするんだ?」

 新進的な考え方はするが、それでもジゼルはこの時代の女性である。
 男が裁縫をすること自体が異様に感じられるのは、田舎の山中で「それが当たり前」として育ったためもあるだろう。

 実家での裁縫事は、器用なこともあいまって、ジゼルが一手に引き受けていた。 
 見た限りでは、シグルトの裁縫技術は「普通の主婦」程度に手慣れている。

「…冒険者をやっていれば、自然とこの手の手仕事は増える。

 道無き道を行き、怪物と切った張ったをすれば、ほつれや鉤裂きは付きものだからな」

 そう言いつつ、すでに愛用の外套を縫い終えた様だ。
 目立たぬ様に上手に縫い目を隠し、繰り返し丁寧に縫って頑丈にしてある。

 針を片付けるため、シグルトが革製の針刺しを手に取った。
 そこに、見慣れない形の針が数本差してあるのを、眼の良いジゼルは目ざとく見つけ出した。
 すぐに別の好奇心が首をもたげる。

「…この返しのついた小さいのは、釣り針よね。

 でもこっちの弧を描いた針はあまり見ないわ。
 職人が絨毯を縫う大きな針に似てるけど…しかも銀製?」

 細工物の様に細く、銀で出来た不思議な針を見つける。

 この手の針が弧を描いているのは、平坦な動かせないものを縫うためだ。
 用途も、形を縫い易く変えられない物のために使うのだろう。

「ああ、この弧針(こしん)のことか。

 特注の品だからな」

 丁寧に磨かれ、薄く油を塗付したそれは、装飾品の様に美しい。

「でも、銀じゃ硬いものを縫う時折れちゃうでしょ?
 
 何に使うの、これ?」

 首を傾げるジゼル。

 シグルトは苦笑してその針を取った。

「これは傷を縫うための、医療針だ。

 見た目より柔軟で、曲がってもすぐ折れたりしない。
 銀製なのは、血に触れても錆び難く、錆の毒で身体を害さないためだ。

 弧を描いてるのは、手早く肉を縫うためであり、また片手で縫うことを容易にする工夫だな。
 真っ直ぐの針は、肉の弾力で押し戻されるし、血脂で滑ってしまう」

 実演する様に、指の腹に曲がった針を掛ける。
 それを巻き込む感じでくるりと回す。
 繕いものをするより、随分手慣れていた。

 生々しい話を聞いて、ジゼルの顔が引き攣る。
 
「…鋭利な刀剣による裂傷は、包帯で巻いても傷が癒着し難いし、すぐに開いてしまう。

 手っ取り早いのは、昔からの方法で縫うことだ。
 直針など使えば、縫い難く患者は痛い思いをする。
 下手をすれば、折れた針先が肉に残って危ない。
 針が弧を描いているのは、刺した先端が肉の外に出るという、その特性を考えているんだ。
 
 傷口はある程度深く縫わないと、糸で肉が裂けて傷を広げかねない。
 膿んだ傷口を縫う時は特にな…腐った肉が削げない様に、より深く縫う必要がある。
 
 だから、こういった専門の針を使う。

 傷の縫合は、医療的にとても大切な技術だ。
 応急処置でも基本的なことだから、生肉や皮を使って近い感触を確認しながら縫う練習をしておくことも大切だ。

 矢傷や血管からの大量出血を、血管の桔索で止めることも出来る。
 止血には、洗濯挟みの様なもので出血点を挟むのも手っ取り早い。
 紐や帯で止血すると、どうしても組織上部分の止血になって、下部が壊死を起こし易くなるからな。 

 専門の知識と技術は必要だが、こういったことが出来るなら、誰かの命を繋げることもあるだろう。

 獣の牙や爪で肉を抉られたり、戦場で腐った手足を切り落とすことになっても、手当の仕方と道具があれば生き残る可能性は高くなる。
 死ぬ者がいる時は、傷が深過ぎるか治療手段が分からない時がほとんどだ。
 
 俺は戦士だから刀傷や裂傷が絶えないが、治癒の秘蹟で何時も直してもらえるとは限らない。
 有限のそういった力では、すべてを手当てしきれない状況に出くわすこともある。

 …一番嫌な用途だが、死体を見目良くする時にも役に立つ。

 備えあれば憂い無し、ということだ」

 その針は、実際に使ったための摩耗や変色が見受けられた。
 シグルトの言う用途も、随分と具体的だ。

 つまり経験があるということだろう。

 話を逸らそうとして、ジゼルは咄嗟にもう一つの針を取った。

「…こっちの、穴の空いた筒みたいな奴は?」

 まるで見たことの無い形状のそれは、一言で言ってまさに筒だ。
 先端が尖っているから、針の一種なのだろうが。

「それは穿孔刺。

 膿を抜いたり、気道…喉が詰まった時や、肺が打撃の衝撃で潰れて肺が膨らまなくなった時、溜まった血や空気を抜くのに使う。
 この膨らんだ部分は、深く入り過ぎない様に肉に掛かる部分だ。

 内出血が酷い時には、適切な応急処置が出来るから重宝する。
 俺が学んだ医者は、腫瘍が腐った患者の膿を出したり、打撲で頭に血が溜まった患者の治療にも使っていた」

 シグルトが話す言葉の中には、高度な外科の医療知識が含まれていた。

 だが、傍から聞いていれば異質で痛々しい話である。
 ジゼルは聞いたことを少し後悔していた。

「他にもこの薄い尖った剃刀は、切開のためのものだ。
 今は、糸切りに使っているが、本来は簡単な手術に使う。
 俺は使うのが下手だから、精々鏃の摘出や鬱血の切開にしか使わないが。
 
 …こういった切開手術は、腐ったら切り落とすのが当然の今の医療では、異端とされるものだ。

 だが、手足と泣き別れしたくない時は、異質と呼ばれても頼る必要がある。
 まあ、俺は祈って秘蹟が起きるほど、敬虔ではないのでな。

 こういった罰当たりをするのにも、抵抗は無い」

 腐敗した患部を蛆に食わせることが、一番優れた壊疽の治療法だと教えたら、目の前の娘はどんな顔をするだろう?
 シグルトは筒状の医療針を弄びながら、肩をすくめた。  


「…それでシグルト、これからどうしよう?

 相変わらず湾は渡れそうにないよ。
 悪天候じゃないんだけど、海が時化て漁にも出られない有様なんだって。
 
 暫くは、状況も変わりそうにないみたい」

 ジゼルが青褪めて硬直している中、横からロマンが現状を切り出した。
 針を手早く仕舞い、しばし思案するシグルト。

「…予定通り、湾沿いの街道を通ることにしよう。

 ジゼルのことを、『小さき希望亭』の親父さんに紹介しておきたいところだし…
 そのルートなら、リューンやポートリオンを経路に入れられるはずだ。

 彼女は乗馬が出来るから、ロマンと一緒に馬に乗って行くと良い。
 俺は途中から後を追おう。

 ヴィスマール近郊の森を抜けるまでは、一緒がいいだろう。
 林道を抜け見通しが良くなれば、盗賊に襲われる心配も無くなるはずだ」

 ジゼルと一緒に、という部分でロマンは複雑な顔をした。
 しがしシグルトの提案に、渋々頷く。

 ロマンの歩く速度はシグルトに遠く及ばないし、ジゼルは女性でしかも病を患っている(実際に心臓は完治しているが)。
 シグルトの提案が最も効率的なのである。

「まぁ、シグルトの足なら待たされることは無いからね」

 真面目な顔をしてロマンが応えると、そう励もう、とシグルトは頷いた。

 ジゼルは首を傾げる。

 二人乗りで歩かせることが多くなるとはいえ、馬での移動は徒歩より速いのだ。
 確かにシグルトは歩く速度も速く、ジゼルも後を追うのに必死になったが、馬の速度ほどでは無かったと思う。

 だが、ジゼルの予想は大きく裏切られることになった。


「…し、信じられない!

 どうして追いつけるの?!」

 ヴィスマール近郊の林道を抜けるまで、一行は同じ速度で移動した。
 シグルトの要望で、かなり早めである。

 最初ジゼルは、ヴィスマールまでの過程で感じていた欝憤を晴らすが如く、かなりの速度で馬を歩かせた。
 足の速いシグルトに対する、ちょっとした悪戯心である。
 
 しかし、シグルトは涼しい顔をして、ぴたりとその後ろをついてくる。
 人間なら早足に近い速度を、まるで風に乗るかの様にだ。

 林道を抜け、先に行くことになっても、ちょっと馬を休ませる間にシグルトは追いついてしまう。
 むきになったなったジゼルは、試す様に「もう少し飛ばしていい?」と尋ねると、シグルトは当然という風に頷いた。
 ロマンなどは、含み笑いをしている。

 かくして、引き離すぐらいの速度で馬を走らせてみたが、シグルトは歩きながら信じられない速度で後ろをついて来た。
 さらに、馬を疲れさせない程度にもっと早く駆けさせてみる。

 今騎乗している乗用馬は、甲冑を着た騎士が乗ることもある大型種である。
 ウェーベル村でジゼルが乗っていたホーリーに比べれば、最高速度は遅いが、持久力や馬力ははるかに上だ。
 本気で走らせても数時間は大丈夫である。

 シグルトは、その速度に息も切らさず追いついて来た。
 引き離したと思っても、休むために馬を歩かせていると、何時の間にか追いついている。

「…凄いでしょ?

 なんでも、東洋の呼吸法を使ってるんだって。
 シグルトの歩き方は、全速力の馬ほどでは無いけど、とても速いんだ。

 しかもほとんど休まないから、実際には馬に匹敵するぐらいの速度で移動出来るんだよ」

 自慢げに言うロマンの横で、ジゼルは文字通り目を丸くしていた。
 追いついたシグルトは、脇から付け足す様に解説する。

「俺が最初に学んだ武術の師は、とりわけ歩法と呼吸の仕方を重視する方だった。

 歩法は、身体のバランスを保ち間合を支配するのに必要となる。
 呼吸は、体力の維持と爆発的な力を発揮する時に大切だ。

 この二つを鍛えておけば、長く力強く行動し続けることが出来る。
 師は、遠く東の地でそれを学んだと言っていた。

 俺の使う歩法は、それに加えて鉄板を脛に巻き、砂入りの袋を背負って鍛錬する高速移動術だ。
 〈飛毛脚〉という東方の武術家が使うものを、応用したものらしい。

 10歳から、5年間ほぼ毎日一刻(二時間)ずつこの鍛錬をして来た。
 雪中の強行軍でも、倒れず早く動ける様になりたかったのでな。
 今は重宝している…苦労した価値はあった、ということだ。

 西方武術の悪口を言うわけでは無いが…こと体術の鍛錬に関しては東方武術に軍配が上がるだろう。

 〈氣〉や〈経絡〉という、血肉に加えてそれを動かす力と器官に着目した技術体系は、素晴らしいものだ。
 筋肉痛や体組織の疲弊を食餌で補いつつ、身体を内部から鍛えていく鍛錬法は、西方には滅多に見られない。

 これらの技術で基本になることは、健康維持にも応用出来る。
 ジゼルにも、機会があったら教えよう」

 シグルトがかつて学んだ槍の師ハイデンは、古から伝わる技法に、東方武術の〈内功〉を積むやり方…すなわち鍛錬法に内部からの肉体改造を組み込み、優れた武術を完成させた。

 西洋武術にも、呼吸や精神といった内面を重んじる部分はもちろんある。
 しかし東方武術と比べる場合、内臓や呼吸、氣や精神といった専門的な鍛練では、どうしても一歩劣るのだ。

 剣士であれ槍使いであれ、「武器にこだわった戦い方しか出来ない」傾向もある。
 剣士が蹴りや拳による殴打を行うのは邪道であるとか、槍使いが頭突きをするのは珍妙であるとか。

 そういった「礼節を重んじる綺麗な戦い方」を、ハイデンは嘲笑した。
 彼の技は「槍を使う戦い方」であり、「槍に使われる戦い方」では無かったからだ。

 シグルトが最初にさせられた鍛錬法は、徹底的な歩法と呼吸法の套路(型)を反復することだった。

 実際の反射神経や感覚を研ぎ澄まし、痛みに慣れるために、槍を模した硬い棒で殴り合う乱取りもやらされる。
 寸止めなど許されず、実戦同様に殴り殺す覚悟で打ち合い、青痣で済めばまだ良い。
 骨折や打撲は当たり前で、武術の出来ない身体にされる者や、生死を彷徨った弟子も多数いた。

 もともとシグルトの応急処置に関する医療知識は、実際の戦いよりも、鍛錬による故障を治療するために学ぶ様になった。
 シグルトの身体にも、兄弟子に打たれて裂けた傷を縫った傷痕が数か所ある。

 そんな鍛錬を5年以上続け、多くの同門が挫折する中で、シグルトはハイデンの一番弟子となった。

 彼が後輩に教える時は、師程極端に厳しくは無かったが、自身は師の教えをよく守った。
 実戦同様の鍛錬で磨いたひり付く様な戦闘感覚は、今でもシグルトを助けている。

 また呼吸の仕方と氣の導引、発勁(力の制御)、食事と肉体酷使を繰り返すことによる内臓や血管の強化、武術向きの骨格への肉体改造といった、徹底的な内外を変えていく鍛練も積む。
 やり方は、怪我が絶えない殴り合いより、もっと過酷だ。

 長時間同じ格好で静止して、骨格や下半身を虐める練法は、凄まじい激痛を伴う。
 臓腑を鍛えるため、独特の方法で内臓を揺すり身体を外部から打擲する。
 普通使わない内部の筋肉や骨を、重りを付けた屈伸や柔軟運動で徹底的に酷使し、筋肉痛や疲労骨折並の苦痛を毎日の様に味わう。
 敵の攻撃で気絶しない様に、脳を傷つけない程度に何度も脳震盪を起こして慣れて行く。
 夏場は雪解けの冷たい川に身を沈め、呼吸を止めて、少ない酸素で長時間活動し、冷たさに耐える能力を養う。

 気を抜けは、心臓が止まり、あるいは半身不随になる様な内容である。

 延々と精神をすり減らし、我慢強さを磨き上げていく。
 涙や鼻水を流すのはもちろん、血反吐と胃液を吐き、酷い時には失禁して糞尿を垂れ流す。
 そうやって無様を晒すことに慣れ、戦いに必要の無い驕慢を叩き壊すのだ。

 師に従って終いまで続けられたのは、何時もシグルトだけだった。
 そういった極限状態を体験し修めて来たシグルトは、鋼鉄の様な忍耐力を持つに至る。
 シグルトの持つ、修行僧の様な禁欲さは鍛錬の賜物なのだ。

 厳しい修行の最後には、戦術の教練と冷酷さを養う精神鍛錬を受けて、奥義を習得し免許皆伝となる。

 殺すこと、悩みに捉われないこと、極限で何をするか判断出来ること…
 身体が目的のために反応で動く様、徹底的な自己暗示と反復運動をする。
 気絶しても無意識に戦い、折れた腕すら振り回せる様に痛みを忘れる術を叩き込む。
 自分の思考より早く一撃が出せる様に、心理的な常識を破壊し、心技一体の境地を目指す。

 状況に乱されず場を支配する意思と行動力が必要だとして、武器への執着や技術への偏りは消し去って行く。
 機械の様な緻密さと着実さを得ながらも、その実は氣魂で支配し、深淵にして天衣無縫な様へと至るのである。

 行為は冷たく精巧に、思考は意より早く、発揮する力は火山の様に激烈になること。
 敵ならば女子供も殺し、かつ殺戮の快感に酔って隙を作ってもならない。
 賢者の如く聡明に、征服者の如く圧倒的に、己を抑え目的を成す戦士となる…

 ハイデンは、戦場で戦いながら武術を昇華した武人であり、戦場で命を掛けて殺し合う世界を渡り歩いて来た。
 即ち、戦いこそが目的であり、生き残ることが勝利という世界である。

 彼に言わせれば、騎士道精神から生まれた剣術など〈お遊戯〉なのだ。

 シグルトは、師程に他門の武術を悪し様に言う気にはなれない。
 実戦云々や実用性はともかく、費やされた時間や哲学には、学ぶべきものもあるからだ。

 でも、実際の戦い方で言うなら、ハイデンの教えは的を射ていた。

 余程の状況でない限り、シグルトは激昂しない。
 たった一度だけ我を忘れて怒り狂った時は、大切なものを全て失う羽目になった。

 現在の故障だらけの身体で動き回れるのも、鍛え抜いた心身と、学んだ技術おかげだった。 
 足の腱を抉られ、全身が故障だらけのシグルトは、ハイデンに学んだ徹底的な〈内功〉のおかげで、常人を凌ぐ力が出せる。

 中でも一番特殊な技術は、〈氣〉の作用を用いて、である。

 アフマドに作って貰った添え木に、〈氣〉を流して腱の代わりにするのだ。
 さらに鍛え上げた歩法で、並の人間を凌ぐ行動を可能にしている。
 
 人体の常識を無視する動きになれるには、数か月を要した。
 違和感と激痛に悩まされながら、途方もない時間を費やして、今の動きが出来る様になった。
 耐える心を持っていなければ、此処までのことは出来なかったはずである。

 精神と肉体を極限まで鍛えた場合、多くの人間はそれで満足してしまうだろう。
 だが、ハイデンの教えにはその先があった。

 〈氣〉と〈魂〉の鍛練である。
 
 人間の肉体には限度があった。
 鍛えるのも、酷使するのもだ。

 〈氣〉を利用した肉体の運用は、そういった限界を超える可能性がある。
 数倍の膂力を発揮し、人外の反動を受ける肉体を守ることが可能となるのだ。

 〈氣〉を剣に込めれば鋼を両断し、布の一片が刃や棍棒の如く振るえる。

 通常の人間は、〈氣〉という神秘的力に出逢うと、発揮される怪力や威力、或いは実態無き存在に届く効果に注意が向く。
 だが、それは一番大切なことではない。

 武術において〈氣〉の運用をする場合、「振るう怪力に耐えられない肉体を支持する」ことこそ、一番の命題なのだ。

 〈氣〉を用いなくても、力学を知り鍛練を繰り返せば、人間は数倍の力を発揮出来る。
 …大抵はその強化や力学に、肉体の方が故障してしまうのだが。

 肉体が力を発揮するには、力の支点となる強い肉体が必要である。
 現に、大きくて太い柱ほど大きな屋根を支えるではないか。

 怪力で振るえば、弱い武器はへし折れてしまう。
 冒険者になった頃、剣の扱いに慣れてなかったシグルトがまさにそうだ。

 岩を殴った場合、砕けるのは拳である。
 剣で岩は斬れない…刃が欠けてしまうだろう。

 武術の力用において、耐久力こそ隠れた基礎である。

 多くの武術では、軸足の強さを重んじる。
 素手で戦う者は、肉体を凶器に変えるか、硬い部分を武器に使う。
 獣の爪や牙が太いのは、折れないためだ。

 〈氣〉の付与は、無茶な力の使用で肉体が破壊されない様、守るために使うべきなのだ。

 付与すれば、刃や身体の間接へ跳ね返る負担を緩衝する。
 鍛え上げた肉体にそれを行えば、さらなる限界の突破が可能となる。

 大人一人分の肉体は、かなりの重さがある。
 例えば、50kgの棍棒を想像してみるといい。
 そんなもので殴られれば、相手はひしゃげるだろう。

 人間がその分の力を出せないのは…いや、出さないのは、肉体を壊さないためなのである。

 武術においては、そういった肉体の安全機構を、徐々に攻撃に傾かせていく。
 肉体が鍛えられるか、衝撃を流す技術が巧みになるほど、より強い力が出せる。

 極限までアソビを無くした行動は、ゆったりと見えても、発揮される力は凄まじい。

 シグルトは、こういった技術を〈発勁〉という言葉で学んでいる。
 〈氣〉の運用を含めた、総合的な力の出し方だ。

 〈氣〉の作用は凄まじい。
 でも、それだけでは〈付け焼き刃〉である。

 鍛え上げた基があり、それに〈氣〉を用い、バランスを取る。
 
 肉体を外的力とすれば、〈氣〉や技術は内的力。
 それらを集合し、全て運用することが〈発勁〉の妙であった。

 内臓や骨格を鍛える鍛錬も、総合力を高める大切な要素だ。
 骨を切り裂く膂力がもたらす反動は、常人の腕が衝撃で痺れさせてしまう。
 鍛錬の足りない者は、骨折してしまうだろう。

 〈内外合一〉。

 優れた武術家は、技術と身体を鍛え、研ぎ澄ますほど体格も美しくなってくる。
 それは、バランスがとれた機能美なのである。

 その上、シグルトは医術を学んでいる。
 どの様に〈氣〉を使い、どこを補強すれば効率的に身体を使えるかなんとなく分かるのである。

 この時必要なのは、技術同士の矛盾では無く調和だ。
 有りえないとされることを調和させ、超えられない領域に踏み入る。

 持った技術や知識を統合し、最大限に無駄無く効果を発揮すること…
 シグルトの強さと賢さ…その秘密は、その応用力と集合力にあった。

 実際にシグルトが、こういった概念やそれを応用した技術を他人に話す事は、めったに無い。
 分からない概念を話したところで、それを理解など出来ないからだ。
 変人扱いされる結果で終わるだろう。

 必要な者が機に応じて体得する…
 しかし、求め無くばそれは成らない。
 求めぬ者は求めず、求める者は励むべし。

 これは、シグルトが至った一つの真理である。

 ジゼルに関しては、一部でもそういった理を教えるべきだと感じていた。
 彼女は、教えを求めるだけの障害を負っているからだ。

 本来心臓が悪い者は、同時に腎臓を病む。
 循環系に異常を持つ者が多いのだ。

 心臓は、酸素や栄養を込めた血液を送り出すポンプである。
 それが病めば、他の臓器や器官も病んで来る。

 ジゼルは森神の力で〈心臓だけ〉は治っているかもしれない。
 でも、他の臓器はどうだろうか?
 
 森神は、ジゼルが〈心臓を患っていた時間〉まで消してくれたわけでは無い。
 実際に彼女は心臓を患っていたことを覚えているし、格段に良くなったとはいえ、ジゼルは根本的な体力に欠ける。

 神や精霊の行う神秘とは誠実で、それ以上でもそれ以下でも無い。
 ならば、ジゼルには楽観よりも現実を直視することを教え、体力が足りるうちに悪所を見極め、それを改善させる必要がある。

 補う方法を教えてやればよいのだ。

 きっと人は神経質であるとか、細やかだと評価するだろう。
 あるいは迷惑がるかもしれない。
 それでもシグルトは構わなかった。

 自身はすでに満足な身体では無い…だからこそ、あるべきものを尊び備えることを訴える。
 それで親しい者が一人でも救われる可能性があるなら、無駄では無いのだ。

 ジゼルに部分的でも〈内功〉の鍛錬を教えれば、弱っている内臓や血流を操作し、人並の健康を得ることも出来るだろう。
 アフマドに診療して貰い、悪い部分を明らかにすれば、より効率的な方法が教えられるはずである。

 シグルトが、自分の体験からそこまで大層な目標を立てているとは知らず、ジゼルは「面白そうね」と微笑んでいた。


 しばらく道中を進み、一行は街道に設けられた休憩所で休むことになった。

 ジゼルは、汗を拭くシグルトを横目で眺めている。
 不意に、そこにいるはずのシグルトが、景色に溶けてしまう様な、不思議な感覚を覚えた。

 目を瞬くと、そこには確かにシグルトがいる。
 だが、この美しくとてつもない才能を秘めた青年は、時折その存在感が希薄になるのだ。
 こんなにも人を惹きつけて止まないのに、である。

 シグルトは空を見上げていた。
 そこには澄み渡った蒼穹がある。

 ジゼルも空を見上げて、不意に悟った。

 そう、シグルトが見ているのは空と同じ。
 決して人が届かない、何かの高みなのだ。

 神秘的な青黒い瞳は、果てしない空を映している。

 人の弱さを、欲を知り、受け入れることが出来る理知の光。
 でも、その瞳が至るべき高みとして捉えているのは、とても高い空の向こう。

 人は可能性というものを持ちながら、その限りを設けている。
 それは寿命であり、妥協であり、敗北である。

 例えるなら、自分の足で登れる山の頂だ。

 シグルトは、人が頂とするそういった限界を理解している。
 限りのある人の一生を、強さも弱さも、とても尊んでいる。

 なのに、見つめているのは頂を超えた、空の様な場所なのだ。
 
 矛盾を内包し、それを背負って試練の道を歩むその覚悟。
 果てしない道のりが、その先にある。
 それでも、歩むことを決めた改革者。
 
(…なんて、遠いんだろう…)

 そう、シグルトのその意思は、側にいる者に弱さを思い出させる。
 人が否定しなければ思い出してしまう、行くべき道に生い茂った茨の棘を。

 だから、人はシグルトを勇者に祭り上げ、違う次元に置いて評価する。
 自分たちが、茨の水戸を歩まぬために。
 高みに置かれた、シグルトのいる場所は、感じ取れず他人事になるのだ。
 
(ああ、そうだわ。

 これが、英雄なんだ)

 それがどんなに無謀でも、どんなに望まぬとしても。
 至る場所が、常人が至らぬ頂の先にある者。

 上り詰めるが故に、可能性を超える奇跡を起こす、超越者。
 儚い限られたその一生を歩む時、凡人が避けるであろう辛苦の道を選ぶ、受難者。

 シグルトの美しさも、そして能力も、彼の本質ではない。
 ただ、人より優れ、期待されることによって己を鍛えるきっかけ。

 あの空の様な場所に至るための、ただの布石なのだ。

 ジゼルは、シグルトに惹かれている自分を感じている。
 でも、今はとても一緒に歩むだけの自信が無い。
 近付けば近付くほど、そら恐ろしい何かを感じずにはいられない。

 …何と孤高な生き様だろう。

 彼は、その孤独をすでに背負う覚悟をしている。
 だから、シグルトの双眸は空よりも深いのだ。

 しかし、そんな青黒い瞳が何時の間にか自分を眺めていることに気付き、ジゼルは首筋まで赤くなった。

(み、見透かされたりしてない、よね?)

 焦ったジゼルを見るシグルトは、何時もの苦笑。
 沢山の人に愛されながらも、内には深い孤独を持ち、心の底から笑えない寂しげなその表情。

 ジゼルは、そのまま見つめられることに耐えられず、視線を空にそらした。

「…空が綺麗よね」

 不意に口から、そんな言葉が出る。
 シグルトは頷き、そのまままた空を見た。

「…そうだな。

 あの蒼天はとても高くて、綺麗だ。
 無理だと言われても、いつか掴んでみたい…そんな風に憧れる。

 この身で出来ぬことであっても、せめてこの心だけはあの空を掴んでみたいと、そう思う」

 それは、シグルトが漏らした本音だった。
 見通しの良い澄んだ空は、彼のそんな心を映したのだろうか。

 ただ涼しげな秋の風が、二人の間を駆け抜けていった。



 リプレイクロスまでの中継ぎとして描いたエピソードです。

 クロスする前に、シグルトのスタイルを少し。
 教導クロスをやりたい人は、参考にして下さい。

 金成の苦労人なんです。
 外伝でも書いてるけど。

 シグルトとジゼルの距離に関しては、いずれ続編で買いますが、シグルトは後輩扱い。ジゼルは憧れって感じですね。

 シグルトの医療知識は中世レベルではなく、19世紀~20世紀近い時代のものもあります。
 師のアフマドがそれだけ優秀だった、ということです。
 リプレイ中の医者では、最高レベルの医療技術があるとしています。
 脳外科や神経接合までやるからなぁ。

 ただ、シグルトは医療知識はあるけど、上手ではありません。

 武術に関しては、相当深いものを持ってます。
 某マンガを参考にしました。
 
 シグルトの武術が華国(中国)武術の流れをくむのは、槍もそっちの技術が高いからです。
 気功や食餌、内臓の鍛練は近代の格闘術にはありますが、中世では、インドかそっちにしかなかったと思うので。
 
 気功を身体の保護に使うスタイルは、シグルトの後のスキルにも影響してきます。
 シグルトが、防御を高めたままの鋭い技を使う、攻防一体のスキルを好むことからも、わかるでしょう。

 飛毛脚というと、某格闘ゲームを思い出す方も多いでしょう。
 わたしゃやったこと無いですけどね。
 ただ、影走りの高速習得の下地にはなるでしょう?

 シグルトの持つ孤高の雰囲気、今回は説明できたかなって思います。
 ま、生まれから「天を掴もうとした」という設定ですから。

 人が至れない高み、というのは、私の英雄観にかかわることでもあります。
 ちょっとしたエピソードですが、しっかりY2つ節(説明くどくど)もありましたし、ぼちぼちいろいろ書かねばなぁ。

 筆遅いのは、どうか御勘弁を。 


〈著作情報〉2009年10月29日現在
・今回活躍した連れ込みPCジゼルは、楓さんのシナリオから連れ込んだものです。
 著作情報等、リプレイRの『ジゼリッタ』を御覧下さい。
 
 カードワースはgroupAskに著作権があり、カードワースの管理、バージョンアップ、オフィシャルな情報等はgroupAsk official fansiteにて、カードワース愛護協会の皆さ

んがなさっています。
 このリプレイは各シナリオをプレイした上で、その結果を小説風リプレイとしてY2つが書いたものです。
 書かれた記事、書かれる記事は、特定のシナリオの名前が出たときは、そのシナリオの著作権はすべてそのシナリオの作者さんにあります。
 
 また、リプレイ中に使われる内容には、各シナリオで手に入れたスキルやアイテム、各シナリオに関連した情報等が扱われることがあります。
 それらの著作権は、それぞれのシナリオの作者さんにあります。
 またカード絵等の素材に関しては、シナリオ付属の著作情報等を参考にして下さい。
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※現状報告

 長らく更新が停滞して、申し訳ありません。

 何もしていなかったわけでは決してなく、リプレイクロス共に、亀の様に遅いものの、少しずつ詰めているところです。

 今一番手がかかっているには、クロスに際して使いたい店シナリオを二つ三つ作りたいので、その調整です。

 特に、大きな山場を越えた、調整しているシナリオがあります。
 告知した『微睡む刃金』より早く皆さんに渡せるだろう、その名も『魔術師の四阿』です。

 魔術師学連のリューン支部で、リプレイRのロマンの師匠であるアレグリウス導師から、スキルを買ったり、ちょっとした魔術実験につきあったりする内容になります。
 リューンの画像差し替えスキルを一部(賢者の塔のスキルのみ)と、さまざまなスキル、魔術師と賢者と魔術師学連所属店という称号の付与(隠蔽称号はなし)、魔術師に称号を加えながら使える能力を増やしていく拡張型の魔導書、アイテムで能力を召喚する使い魔など、構想しています。

 あとは使い魔を作ってスキルの数を増やしつつ店品として調整していく段階までこぎつけました。

 なんとか来月には発表し、クロスまでもっていきたいなと思っています。
 遅い更新で申し訳ありませんが、もうしばらくお待ち下さい。
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『シグルーン』

 建国祭は最高潮に盛り上がっていた。
 そんな祭の熱気にやや疲れた様子で、シグルトは妹のシグルーンを探して城を歩き回っている。

 先ほど国王に拝したばかりだが、謁見による挨拶は別件の公務で貴族としての責務だ。
 国王に貴族として謁見するには、身内に夫婦なり姉妹なりの男女がいる場合、男女同伴が一応の決まりである。
 それに、謁見する予定は2人と連絡してあるので、どちらかが欠けても駄目なのだ。 

 何としても見つけなければならないパートナーだが、待ち合わせ場所にはすでにいなかった。

 シグルトは、いざという時のために合流場所を伝えていた。
 こう言うことには抜かりが無いのだが、諸般の事情に巻き込まれたために、遅れてしまったのだ。
 
 歩く最中に聞いた話では、シグルトが離宮に迷い込むといった不手際の間に、親切な騎士がシグルーンをエスコートしたらしい。
 その時、シグルーンは随分蒼い顔をしていて、とても放っておけなかったと、その騎士は言っていた。
 
 ミハエルというその騎士は、異母兄ベーオウルフの部下で、誠実な男である。
 シグルトと同じ16歳にして、間もなく騎士隊長に抜擢されると噂されているほどだ。

 年代的にはシグルトもミハエルも、かなり若い。
 しかし、厳しい場所に生まれ育った場合、若者の成長は早い。
 そうしなければ、生きることも台頭することも出来ないからだ。

 高潔なミハエルに誘導されたと聞いて、シグルトは少しだけ安堵している。
 グールデンの様な輩が徘徊している王宮で、面倒事に巻き込まれた様子が無いことは幸運だったと思う。

 だが、このままでは謁見が出来そうにない。

 ミハエルは、何なら自分が事情を上に伝えつつ謁見を済ませ兄を待ったらと持ちかけたが、シグルーンは兄を待つと言って断ったらしい。
 事情は兄に恥をかかせないため、だそうである。

 結局、蒼い顔をして奥に消えたと言うから、シグルトを探しに行ったのだろう。
 冷静な判断が出来ていない…来る前に飲んだガルツの酔いが相当回っていた様だ。

 シグルトは困った様子で、妹の姿を探した。
 
 シグルトもそうだが、金髪や淡い色が多い中で、シグルーンの髪はこの地方には珍しい黒色である。
 目立つのですぐに見つかるだろうと思っていたが、思う様にはいかなかった。
 
「さて、どうしたものか。
 
 酔っ払って、周りに迷惑をかけていなければいいが」
 
 渋い顔をして、シグルトは城の形を思い出しながら、探してない場所を割り出して行った。

 
 その頃シグルーンは痛む頭を抑えながら、兄の姿を探していた。
 
 無理に飲んだ酒のせいで気持ち悪くなり休んでいた所、寝過して待ち合わせ場所に遅れてしまった。
 しかし、待てどもシグルトは来る様子が無い。
 
 待つ間に気分が悪くなり、倒れそうになっていたところを、親切な知り合いの騎士に助けられ、休める場所までエスコートしてもらった。
 兄を待つつもりだったが、あまりに気分が悪いので風に当ろうと窓を探すうち、迷ってしまったのだ。

(…あんな粗悪なお酒をがぶ飲みするんだから、兄さんたちって絶対おかしいわ)

 祭りで市民に振舞われるガルツは、水で薄めて増やした上に辛さと苦みを強くして飲み難くし、その刺激の強さで酔ったと錯覚させる物凄い代物だ。
 さらには、入れた薬草の効果で悪酔いを引き起こし、少ない量で酔える(つぶれる)ための細工がされている。
 美味い酒は皆が大量に飲んでしまうため、あっという間に無くなってしまい、ほろ酔いで酒が切れたりすれば振る舞われた方はかえって激昂してしまう。
 だから、安作りで不味く悪酔いする酒を出すのだ。
 
 しかし、こんな代物でさえ男たちは浴びる様に飲む。
 思う存分酒が飲める時など、祭りの時しか機会が無いからである。

 シグヴォルフは貧しい。

 幼少の頃、比較的裕福だったシグルーンの家庭でさえ、匂いのきつい魚の塩漬けと酸になりかけた葡萄酒しか飲めなかった時期があった。
 幼かったシグルーンはひもじさによく泣いて、兄に迷惑をかけた。
 優しい兄は、いつも自分の分の美味しい物があれば、全てシグルーンに与えてくれた。
 
 冬は雪深く、国土は作物の育たない荒地ばかり。
 特産物など無く、鉱物と実の成らない針葉樹があるぐらい。
 主な産業といえば植物性の織物や染物、樹木を切り出して作る家具と細工物ぐらいだ。

 農民はいつも赤貧に喘ぎ、餓死者の無い年は無い。

 水を飲むににも、冬には雪を溶かすために薪がいる。
 凍えて冬を越せない者は、餓死よりもっと多いのだ。
 
 そして、国は北方諸国の例外に漏れず、戦争をよく行う。
 戦争が無い時でも、戦災によって様々な弊害が残っていた。

 山野には半ば山賊と化した暴徒や敗残の兵士たちが蔓延り、国内では過激な聖北教会の聖職者たちが我が物顔で闊歩している。
 貴族たちは自分の権力を拡張するために、私兵団を残したまま武装を解除せず国内で頻繁に小競り合いを繰り返し、不作が起これば搾取によってさらに飢えた貧農が何人も凍え死ぬ。
 王は暴君ではないものの、決して名君ではなく、そういった苦しむ民を救うことも出来ていない。
 異母兄ベーオウルフが属す騎士団は、気難しい者たちが揃っており、王宮守護を理由に出兵せず、実際は悪人討伐よりは自身の強さと矜持を保つために動くばかりだ。

(…噂では隣国が宣戦布告してくるという噂があるもの。
 
 酔いたい人は、皆不安なのよね)

 この所は外交政策が上手く行き、大きな戦争は起きていない。
 国内でも貴族の反乱など絶えて久しく、最近は作物の不作が起こっていないので、十年ばかりは比較的平和と言えた。

 だが最近になって、シグヴォルフの宿敵である隣国クローネガルドが軍事増強を活発にしている。
 その仮想敵国はシグヴォルフより食糧事情が悪く、年間の餓死者はシグヴォルフの数倍だという。

 領土拡大は、北方のどの国もが抱く野望であった。

 戦争が起これば、兄も国の男たちも皆戦に赴くだろう。
 聡明なシグルトは、幼少からそれを見越して武芸に没頭して来た。

 克己心が強く禁欲的なシグルトは、成長が速い北方の若者において、とりわけ貫禄がある。
 16歳なのに、その考え方や行動は老人の様に深淵だと評価される程だ。
 
 才能に恵まれていたシグルトは、自身の能力に驕ることなく、他人以上に努力を惜しまず研鑚を重ねた故に、国で屈指の戦士となった。
 
 秀麗な顔のシグルトであるが、身体には鍛錬で負った無数の傷跡があり、何度も血豆を磨り潰した手の平は武骨で硬い。
 シグルトが愛用する肌着は、元は白かったが、泥と自身が流した血で黒く染まっている。
 
 顔色一つ変えず黙々と汗を流し、人が10日で習得することを1日で習得する兄。
 12歳で槍の奥義を受け、しから総伝(全ての奥義の伝授)を受けるのも、20代前にするだろうと噂されている。

 そこまでシグルトが励むのは、家族や大切な者を守るためだ。

 シグルトは大切な者を守るためなら、自分がいかに傷ついても構わない。
 幼少の折、狼に襲われられた時には、泣き叫ぶ子供たちにあって、たった一人で立ち向かった。
 無愛想なシグルトが、シグルーンや母を守るために、身を粉にして励んできたことを、シグルーンは誰よりも知っていた。

 そんな心配性の兄のことだ。
 きっと今でも自分を探しているだろう。
 
(一度入口を聞いて、戻るべきかしら?)
 
 そんな風に考えて、周囲を見回すと、ちょっとした人だかりが出来ていた。
 よく見れば、その中央にいるのは見知った顔だ。
 
「…ブリュンヒルデ様、グウェンドリン様?
 
 ああ、やっぱりっ!!」
 
 シグルーンは、豪奢を絵に描いたような美貌のブリュンヒルデと、戦乙女の如き凛々しさのグウェンダの姿を見つけ、嬉しそうに駆け寄った。
 
 この地方の貴族には、年頃になる前の娘を数年間修道院に預けて、花嫁修業をさせる時期があるが、シグルーンもまた数年を修道院で過ごした。
 2人はその頃に、修道院の中心的な人物として活躍していた者たちである。
 シグルーンは珍しい色の髪のせいか、謂れのない迫害を受けることになったが、そんな中で庇い目をかけてくれたのだ。
 
 近寄るシグルーンの姿を見つけると、青年貴族たちに囲まれて辟易していたブリュンヒルデが、相好を崩して手招きした。
 横に護衛の様に付き添っていたグウェンダも、細い目をさらに細めて強く頷く。

 ほぼ1年ぶりに再会する2人は、一層その美しさを開花させ、魅力的になっていた。
 やや痩せていて貧相な体格のシグルーンに比べ、ブリュンヒルデは丸みと艶を増し、グウェンダはまた背が伸びている。
 
 内心劣等感に恐縮しながら2人の前に立つと、シグルーンはスカートの裾を摘んで優雅に頭を下げた。

「お久し振りで御座います、ブリュンヒルデ様、グウェンドリン様。
 
 御壮健そうで、何よりですわ」
 
 ブリュンヒルデもより上品に応え、グウェンダは胸に手を置いて簡略の挨拶を済ませる。
 
「久しぶりね、シグルーン。 
 貴女とこうやって再会出来る日が、とても待ち遠しかったのよ。

 同じシグヴォルフの出身だとは聞いていたけれど… 
 3人また揃うことは難しと思っていたから、嬉しいわ」
 
 この2人は、ことさら家柄の威を借ることを嫌っていた。
 ブリュンヒルデは才能至上主義であり、グウェンダは武勇こそ誇る女傑である。
 
 貴族の子女としては珍しいが、だからこそ仲良くなれたと言えた。
 
 貴族の庶子として日陰の生活していた過去を持つシグルーンは、家柄を公然と名乗ることを控えていた。
 それが生意気にとられたのか、一部の貴族の子女から目の敵にされたのだが、シグルーンの謙虚で素直な性格を気に入ったブリュンヒルデが側に置いて守ってくれたのだ。
 
 ブリュンヒルデは互いに家名の威は借りるまい、とただの娘として付き合ってくれた。
 彼女の親友であるグウェンダとは、互いの敬虔さで共感し合い、すぐに仲良くなった。
 2人の武勇譚の一緒に、その出自は噂ですぐに知れたのだが。
 
 ブリュンヒルデとグウェンダには人を従える気品と魅力が備わっており、地味な雰囲気のシグルーンは、その傍にいると随分浮いていたと思う。
 だが、特別な人物が身近にいたシグルーンは、上手に合わせ2人を立てることで身を守ることが出来たのである。
 
 概ね3人の修道院での生活は、楽しいものだった。
 向学心の強いシグルーンは、求める者に教えることを好むブリュンヒルデから、多くのことを学んだ。

 最後まで自分の家を名乗らなかったシグルーンだが、2人は彼女を差別したりしなかった。
 そんな中で修道院の生活を終えて故郷に帰る時、今度3人で再会した時には貴族として名を名乗ろうとも約束していた。
 
「さあ、一緒に話しましょう。
 
 では、皆様。
 私たちは待ち人が来ましたので、これにて失礼致しますわ。
 御機嫌よう…」
 
 ブリュンヒルデは素早く取り巻きから抜け出すと、シグルーンの手を取って近くの小部屋に移動する。
 慌てて取り巻きたち…ブリュンヒルデへ求婚しようと集まっていた若者たちが後を追おうとするが、グウェンダに一睨みされるとすごすごと退散した。

(ふふ、相変わらず…)

 気丈な2人の様子に昔を思い出しながら、シグルーンは2人の後についていった。
 
 
 部屋に入ると、ブリュンヒルデは嬉しそうに両の手でシグルーンの手を握った。

「本当に嬉しいわ、シグルーン。
 
 貴女の家がどこか分からないから、お手紙も出せなくて。
 グウェンダが使節として来る噂を聞いた貴女が、私に使いを寄こしてくれた時は夢かと思ったのよ。
 お別れしてから、貴女やグウェンダのことを想わない日は無かったわ。
 
 あの時連絡方法ぐらい、決めておくべきだったわね」
 
 今度再会する時は、互いに貴族として社交場で会うつもりだった。
 しかしながら、連絡がまったく出来ない状態となり、再会は伸び伸びとなっていた。
 
「ブリュンヒルデ様にこの様に話してもらえるだけでも、光栄です。
 理由があって、中々社交の場に出ることが出来ずおりました

 私の母は、男爵家に後添えで入った者なのです。
 お恥ずかしながら、それまでは平民として暮らしていたほどで。
 
 でも、今宵お2人がお揃いと噂に聞きつけ、何としてもと…不精な兄に頼んで参った次第です。
 今はその兄を探していたのですが…先にお会い出来て、一番の目的を果たしてしまいました」
 
 少し緊張して喋るシグルーンを優しい目で見つめ、ブリュンヒルデが頷く。
 そして、ふとブリュンヒルデが羽織っている外套に目をやったシグルーンは、目を丸くした。

「それは兄さんの…
 
 どうしてそれを、ブリュンヒルデ様がお着けなのですか?」
 
 えっ?とブリュンヒルデが首をかしげる。
 
「すみません…
 ブリュンヒルデ様が羽織っている外套が、私の兄の物にそっくりだったので。

 いえ…やっぱりそれは兄の物です。
 飾り紐の縛り癖、兄に何度言っても直さない武人の結び方…
 
 それは私の兄シグルトが…」
 
 シグルーンが兄の名を出すと、ブリュンヒルデは目を見開いた。
 
「シグルト様?
 
 では、シグルーンはあの方の妹なのですか?!」
 
 ブリュンヒルデの頬は高潮し、まるで薔薇の花が綻ぶ様に喜色に染まった。
 それは、多くの金持ち貴族たちが望んでも成し得なかったことだ。

「…ブリュンヒルデ様は、兄を知っているのですか?」
 
 少し表情を硬くして、シグルーンが聞く。 
 胸がどこかもやもやする…それが嫉妬だとすぐに気がついた。
 
 シグルーンにとって、シグルトは母と並んで一番大切な、血を分けた肉親だ。
 自分が兄に強く依存してしまうことは、彼女の悩みの一つである。
 
 その兄のことで、知らないことがあるのは嫌だった。
 
「…先ほどまで、そのシグルト殿のことを散々聞かされて辟易していたところだ。
 ブリューネが悪漢に絡まれていた所を、颯爽と助けてくれたそうでな…
 
 なるほど、シグルーンの兄上だったとは、面白い偶然だな」
  
 貴族たちを追い払ったグウェンダが部屋に入って、開口一番にそう言った。
 
(…またなのね、兄さん。
 
 しかも、よりによってブリュンヒルデ様に…)
 
 シグルーンは状況がすぐに飲み込めた。
 
 お人好しで面倒見の良いシグルトは、困った婦女子を放っておけない。
 特にこの国では社会的弱者とも言える、女性や子供に対する義務感は、過剰とも感じさせるほどだ。
 
 そうやって人助けをして、相手が妙齢な女性だった場合は、十中八九相手の方が恋をする。
 無理も無い…シグルトは美しく、加えて北方の男の見本になる誠実な好漢だ。
 
 鈍感でまったく自覚の無いシグルトだが、そうやって乙女の心を虜にしたことは数知れない。
 
(まったく…人が好いんだから。
 
 でも外套を渡してしまうなんて、いくらベーオウルフお兄様が嫌いだからって…
 ロマンティストなブリュンヒルデ様には致命的だわ。
 
 この様子だと…手遅れよね、やっぱり)
 
 すっかり恋する乙女になったブリュンヒルデを見て、シグルーンは溜息を吐いた。
 
 シグルトに恋をする女たちは、それこそ枚挙に暇が無い。
 女性と見紛う美貌ながら男らしい性格のシグルトは、幼少から年頃の娘たちを、恋の虜にした。
 幼馴染で一番仲の良い友達のエリスさえ、シグルトに惚れているのが見え見えである。 
 他の女友達の間では、一回シグルトに振られるのが通過儀礼だ、と言われていたほどだ。

 そんな兄とブリュンヒルデを比較してみる。

 才能も美貌だけとれば、とてもお似合いだった。
 むしろ、この国で兄に相応しい才能と美貌を持つのは、この女性ぐらいだろう。

 元々ブリュンヒルデは自身も向上心が強いためか、伴侶としての相手に求める理想がとてつもなく高い。
 「容貌や地位は二の次」と言ってはばからないが、教養はもとより、武勇と自制心、優しさ、決断力…
 内面に求めるものには妥協が無かった。

 搾取すること、傲慢であることを当たり前とする貴族社会で、そんな要望を満たす貴族がどれほどいるだろうか。
 何より優しくて決断力がある男、というのが難しかった。

 貴族のほとんどは日和見主義であり、優しさは優柔不断である、と公言する者がほとんどである。
 決断力があるとする場合、苛烈断行を善しとして、さらに優しさとは正反対のタイプになてしまう。
 地位がある分極端な性質になりやすい貴族は、優しさと武徳を備えた人物など、皆無に等しかった。

 もし、ブリュンヒルデの求める厳しい理想を備えた人物がいるとすれば、シグルーンには2人しか心当たりがない。
 それは、シグルーンの父であるアルフレトと、シグルトだ。
 
 英雄と呼ばれる父アルフレトは、剣豪の誉れ高く勇敢な人物として語られている。
 だが、実際は領民からの搾取を嫌い、普段は書庫で各地の伝承を読みながらお茶を飲んでいるのが好きな、穏やかな人である。
 詩作好きの母とは夫婦仲がとてもよく、一緒に戯曲や伝説の話をしながら、のんびり過ごすのが何よりも幸せだと言っていた。
 
 シグルーンは父に怒られた記憶がほとんど無い。
 小さな頃、母と平民として暮らしていた時はめったに訪ねて来なかったが、希に人形や玩具を持って、照れくさそうに玄関先をうろうろしていた父の姿を覚えている。
 
 山野を駆け回っていることが多かった兄は滅多に遊んだ記憶が無いらしいが、シグルーンには父親に愛してもらった記憶が沢山あった。
 優しくて口下手で、その細い瞳が可愛らしいと感じられる…そんな男性だと感じていた。

 貴族として男爵家に迎え入れられてからも、アルフレトはきつい言葉でシグルーンを叱ったことは、一度も無い。
 シグルーンが過ちを犯せば、なぜそうなったか聞くだけ。
 もうしないと約束さえすれば、信じていると微笑んでくれた。
 
 だが、そんな父の中に勇敢で激しい一面があることも知っている。

 数年前、父と母、シグルーンが乗った馬車を賊が襲撃したことがあった。
 その時のアルフレトは、一度だけ賊に警告しただけで、後は躊躇うことなく一瞬で、全ての賊を斬り捨てた。
 片腕と足が不自由なはずだが、まるでそんな様子も無く、剣を納めた後に賊が倒れるほどの早業でである。
 
 アルフレトは、怯えるシグルーンを抱きしめて優しく撫でて言った。

〝彼らは、私の大切なお前たちを傷つけようとした。

 たとえこの残忍な姿を見せてお前に嫌われるとしても、私はそれを許せなかったのだよ〟
 
 大切なものを守るためなら、躊躇わない。
 そういった決断力が父にあることを、初めて知った事件である。

 父の気質は、兄にも色濃く受け継がれていた。

 シグルトは父親から武勇と決断力を、母親から優しさと美貌と聡明さを受け継いでいた。 
 考えてみれば、やや武骨者ではあるものの、シグルトはブリュンヒルデの理想を満たす人物だと言える。
 美形で英雄の子供だという分、凌駕していると言って良い。
 
 だが、シグルトの心を射止めた女性は、今の今まで皆無である。
 
 シグルトは、恋よりも槍を振り回していることを選ぶ男だ。
 彼に恋し、後にすぐ失恋して泣いた女性のなんと多いことか。
 
(絶世の美女と名高いブリュンヒルデ様でも…やっぱり無理よね。
 
 この間、この王都の商家で一番の美人と名高いマティルダさんを、「その気は無い」の一言であっさり振った兄さんだもの。
 まったく、難しいことになってしまったわ)
 
 すでにブリュンヒルデが振られたと想定して、難しい顔をするシグルーン。

 どんな美人にも、シグルトはなびかないだろう。

(それに兄さんは、今でも…)

 シグルトが何故女性を愛さないか。
 それには大きな理由がもう一つある。

 シグルトの槍の師は厳しい人で、シグルトが12歳で弟子の中で最も優れているい言われた時、一番弟子だった先輩と殺し合いをさせたのだ。
 とりわけ、武術に厳しい面を持つ武人の世界では、よくあることである。

 武人たちは誇りや名誉を重んじ、一番長じるためなら身内や同門の兄弟弟子すら殺す。
 内輪の恥となるため隠蔽されることが多いが、武人が事故死や病で夭逝した中には、口外出来ない死を隠蔽した場合も多かった。

 師から免許皆伝には殺し合いに勝った者に与えると聞かされたシグルトは、最初敬する兄弟子の立場を守るため「自分の負けでいい」と辞退したという。

 シグルトは、最強に拘っていたわけでは無い。
 ただ大切な存在を守れる力が欲しいのだと、何時も言っていた。

 だが、相手の兄弟子は違った。

 倍近く年下のシグルトに一番弟子の名誉を奪われそうであり、とりわけ虚栄心が強かった。
 また、シグルトの辞退を「名誉を傷つけられた」と怒っていたという。

 そして、すぐにも免許皆伝が欲しいとばかりに、シグルトを襲ったのだ。

 兄弟子はシグルトに強い劣等感を持っていた。
 20歳を超えて、まだ免許皆伝に至らぬ自分と…わずか12歳で天才と言われ、自身に切迫する実力を持つシグルト。
 その殺し合いの数日前まで、兄弟子は酒浸りで、シグルトへの憎悪を隠そうともしなかった。

 だから免許皆伝を得るという理由を背に、妬ましい生意気な弟弟子を殺すつもりだったのである。

 無精で多少衰えているとはいえ、シグルトとともに同門で首席を争う人物である。
 手加減して勝てる相手では無かった。
 
 シグルトは奥義を尽し、その兄弟子の頚骨を粉砕して殺したそうである。

 12歳で初めて人を殺し、しかもそれが同門の兄弟子だった…
 師と対戦相手が認めた正式な試合だったとしても、優しいシグルトにとって驚天動地の出来事だったに違いない。

 その頃から、シグルトは何時も瞳の奥に静かな闇を持つ様になった。

〝なればこそ、その死を背負わねばならない…〟

 シグルトは、さらに努力した。
 何度も挑み、一度だけだが師を地に伏せる偉業を成し得ると、陰惨な免許皆伝の儀式を師に止めさせる約束を取り付けたのである。

 師の名誉を守るため、シグルトはこのことを口外しない。
 けれど、側にいれば真実の噂は耳にする様になる。
 事実、シグルトの師ハイデンは、殺し合いによる免許皆伝を止めた。

 シグルトの愛用する槍の石突は、殺した兄弟子のものを貰ったものだ。
 言葉にせず血涙を心で流し、背負うことを選んだ…シグルーンの兄はそういう男である。

 今、シグルトは武芸を究めるつもりでいる。
 その道に、恋愛をする余地はまだ無いのだ。
 
 黙り込んでしまったシグルーンを見て、ブリュンヒルデとグウェンダは顔を見合わせた。


 突然黙ったことを詫びたシグルーンに、ブリュンヒルデはならばとばかり、いろいろなことを尋ねて来た。

「そう…シグルト様の妹君ということは、シグルーンは、あのオルトリンデ様とアルフレト様が御両親なのね?」

 ブリュンヒルデは、訥々と語られる言葉の中から、即座にシグルーンがを取り巻く家庭の事情を理解した。
 
「だから、あんなに頑なになって家名を明かさなかったのね。 
 無理もないわ。

 アルフレト様と言えば、男爵家ではあるけれど、救国の英雄と名高い方。
 そしてワルトのオルトリンデ様と言えば、本来は五貴族筆頭の御家柄だった方ですもの。

 取り巻く事情の複雑さをもってすれば、詰まらない自尊心ばかり膨れた貴族の子女たちに事情を知られていたなら、きっと大騒ぎになっていた。
 貴女が聡明な娘だということは知っていたけれど、改めて見直したわ。

 このことは、これからも気をつけなければいけないわね。
 貴女の血筋は、形式上無くなったとはいえ王族に連なるものですもの。
 
 アルフレト様の御活躍で公家の名誉は回復され、今オルトリンデ様は貴族の地位を再び得ることが出来た。
 事と次第によっては貴女やお兄様はワルト…王家の親戚であるヴァイスシュピーゲルを名乗ることになるかもしれないわ。
 
 そうなれば、貴女の血筋を利用せんと暗躍する輩も出てくるでしょう」
 
 優れた洞察力を持つブリュンヒルデは、その様に言葉にして、最後に優しく微笑んだ。
 シグルーンが蒼白な顔のまま黙り込んだ様子から、心配したのだろう。
 
 シグルーンは「無骨な兄が失礼をしたのではないか心配だから」と慌てて付け加えた。
 さすがに、蒼い顔をしているのは粗悪な酒を飲んで酔った後遺症で、その上ブリュンヒルデが兄に振られる様子を考えていたとは言えなかったからだ。
 
 「そうなの」と、そこですぐにシグルーンを気遣うブリュンヒルデもまた、兄同様のお人好しである。
 
 身内がブリュンヒルデを失恋させることを予想し、シグルーンは罪悪感を覚えて表情を翳らせた。
 
 シグルトとブリュンヒルデが結ばれる可能性は、まず無理だからという結論からである。
 武術云々のことや、兄のトウヘンボクぶりももちろんあるが…最大の理由は身分の違いであった。

 血筋こそ特別だか、所詮は男爵家の後添えの息子でしかも次男、騎士にはなれず槍の道を選んだ兄なのだ。
 生粋の貴族の子女であり、五貴族と呼ばれる名門の伯爵家において一粒種であるブリュンヒルデとは、住む世界が違う。
 
 この恋は、早く終わる方が傷が少ないだろう…だからこそ、シグルーンは傷が浅いうちにどうやったら兄を諦めてくれるのか、思案していた。
 
 適当に話す中、なし崩しで、シグルトやシグルーンがどうやって貴族になったかを話すことにもなった。
 
 突き詰めればシグルトもシグルーンも、公爵家の血を受け継いではいる。
 それはシグルーンの血筋が、王族の親戚筋にあたると言うことであり、実際にそういう目的で声をかけられたり、拉致されそうになったことさえある。
 何時も兄が守ってくれたのだが。
 
 公爵家の領土とされていたワルト領の別名ヴァイスシュピーゲルとは、王家の血筋を受け継いでいることを白い鏡に例えて与えられた地名である。
 同時にヴァイスは白エルフの血筋を引くことも意味し、王家の鏡…王族のスペアであることを暗に示した名でもあった。

 だが、家門断絶の汚名を雪ぐことは出来ていない。
 結局シグルトもシグルーンも罪人の孫であり、その事実は消えないのだ。
 
 ブリュンヒルデは、貴族がいかに血や名誉に汚いかを、骨身にしみて知っている。
 だから、シグルーンが持つ複雑な事情に理解を示し、とても同情的だった。
 
 シグルーンにとって、ワルトの名は重荷でしかない。
 今まで家柄のことを知られると、他の貴族の娘たちには悉く嫉妬された。
 母から受け継いだワルト領公爵家の血は、それだけ強力なブランドであり、影響力があるのだ。

 だからこそ、シグルーンは家のことを話したがらない。 
 シグルーンの血筋を知った上で、態度を変えないブリュンヒルデやグウェンダの反応は、心休まるものだった。
 
 ブリュンヒルデは、そういった心の高潔さも含めてとても魅力的だ。
 これほど清廉で美しい貴族の子女は、この国では、他にいないだろう。
 増して、姉の様にも慕う人物である。
 
 シグルーンは、そんなブリュンヒルデに内心を隠していること、そして暗く燻る嫉妬心で複雑な心境だ。
 
「何ともシグルーンの兄上とは、話題に事欠かない人物の様だな。
 
 私も先ほどから他の貴族どもに、悪口と賛嘆を含めて様々な話を聞いたが…
 まるで、どこぞの伝承にいる英傑の様だ。
 
 確かに、夢見がちなブリューネなら夢中にもなるだろう」
 
 からかう様なグウェンダの言葉に、拗ねた様にブリュンヒルデはそっぽを向いた。
 
 シグルーンも、兄のことを思い出すとグウェンダの言葉に頷きそうになる。

 それなりに美人ではあるが、父親に似てどこか地味で平凡なシグルーンと違い、シグルトは容貌も才能も飛び抜けて優れていた。
 この国で兄ほど特別な男は、他にいないとさえ思う。
 
 シグルーンはそんな兄のことを考えると、肉親であることの劣等感と優越感に、いつも複雑な気持ちになる。
 同時に、そんな兄と他の男性を見比べてしまい、今まで恋することも出来なかった。
 
(…はぁ。
 
 まったく、兄さんには悩まされてばかりだわ。
 勝手に乙女心を虜にしてしまうんだもの。
 その事後処理は、いつも私がすることになるんだから、少しは気付いて労ってほしいなぁ…)
 
 兄の世話を焼く事が、すっかり板についているシグルーン。
 しかし、その口元には幸せそうな笑みが浮かぶ。
 
 とまれ、シグルーンは筋金入りのブラザーコンプレックスであった。



 大分間が空いてしまったシグルト外伝です。
 
 今回は、シグルトの妹シグルーンについてのお話。

 シグルーンは地味な感じの美少女ですが、兄があまりに飛び抜けた人物だった故に、常にコンプレックスを抱えてきました。
 同時にシグルトはそんなシグルーンに特別愛情を注いでいます。

 シグルトの世話好き気質は、妹の面倒を見るうちに養われたもので、シグルトの自立心の強さの背景にもなっています。
 大切な家族や妹を守るため、兄であるシグルトは我慢し、耐え、己を磨いてきたわけです。

 反面シグルーンは、そんな兄に憧れ、強い依存性があります。
 同年代の異性に見向きもしませんが、シグルトと比べられる異性は、身内の贔屓目を加えて評価されたら、シグルトに勝てようはずがありません。
 ただでさえ、北方の貧しい国で、周囲には擦り切れた様な人物たちばかりなのですから。

 ですが、シグルーンはそんな兄の足を引っ張る自分を嫌悪しています。
 悲観的で神経質で、繊細な感性を持ったごく普通の娘であり、その内面の弱さが彼女を苦しめているのです。

 シグルーンという名前は、アルフレト(シグルト父)が戦乙女の名から付けたものです。
 マイナーな戦乙女ですが、ヘルギという英雄が出逢った一番美人の戦乙女だった、ということで、この名を授けられたのです。
 ヘルギは原典のサガに出てくる英雄シグルズと兄弟にあたる血縁がありますから、ある意味で義理の兄妹の関係が成立してたりします。

 シグヴォルフでは戦乙女にちなんだ名は「高貴で犯され難い誇り」の代名詞として、貴族の女性につけられることが多いのです。
 本来公爵家の直系であるシグルーンは、母と同じくオルトを冠した名になったはずですが、彼女の名はそういう柵に苦しまない様に、強く気高くあれ、というアルフレトの願いが込められています。


 話は変わりますが、今回はシグルトの過去について少し興味深い話があったと思います。
 兄弟子との殺し合いですね。

 シグルトの張りつめた厳しさは、こういった悲しい経験に依ることもあります。
 シグルトが槍を捨てた背景にも少し影響しています。
 「兄弟子を殺してまで究めようとした技を活かせなかった自分には、資格が無いのかもしれない」という感傷的な一面があります。シグルトは、こういう女々しいことは決して口にしないでしょうが。

 シグルーンは後々、シグルトを絶望につき落とす要因の一つとなります。
 ある意味、多くの戦乙女との恋愛が、英雄を不幸にしたのと同じように、シグルーンという名前は、どこか悲劇を内包したキーワードだったのかもしれません。
 ま、北欧のサガは、悲劇的で刹那的なほど、語られてるような気もするのですが。

 元々戦乙女って、戦士の死神ですからね。
シグルト外伝 『青黒い稲妻』 | コメント:0 | トラックバック:0 |
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