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『防具屋』

2018.05.30(14:07) 447

 アレトゥーザにある、古びた劇場の跡。
 苔生した石畳が、海から吹き付けてくる粘ついた風と燦々と降り注ぐ陽光を受け、白く光っている。

 この地方の劇場の舞台は、客席に囲まれて低い場所にある場合が多い。
 アレトゥーザにあるそれも、斜面を削って座席とし、海を背景に伴奏の楽団が配置する平土間があるオーソドックスなものだ。
 
 少女は座席から見下ろされる舞台の中央で、しなやかに舞っていた。
 
 鞭のようにしならせた脚で、頭上から落ちてくる布で巻いた木片を蹴り上げる。
 手に持った木剣が手前に置かれた木偶人形を叩き、そのまま一転して肘で落ちてきた木片を叩き飛ばした。
 
 小麦色の肌は汗に濡れ、呼吸はやや乱れている。

「そこよっ!
 
 踏み込みを躊躇ってはだめっ!!」
 
 観客席に腰掛けた黒人の女が、鋭く指示を出す。
 
 少女は、木偶人形に向かって疾走した。
 
 汗を散らせて少女…ラムーナは踏み込んでから高く跳躍する。
 その身が、彼女の背丈程までふわりと浮き上がった。
 
 腰を曲げ空中で下半身を振り上げて高さを稼ぐと、木偶人形の頭部を踏みつけ、その反動を利用してさらに高く跳ぶ。
 胸を中心にくるりと反転、逆しまの状態から手に持った木剣でさらに木偶の頭部を殴った。

 くるりと蜻蛉を切って着地。 
 ラムーナは学んだ歩法と動きで、鋭い突きを放つ。
 跳ねるように木剣の先端が、背後にあった木偶の胸板をガリリ、と削った。
 嵐のように凄まじい連続攻撃が、木偶人形の形を歪めていく…
 
 南方大陸より伝わった闘いの舞踏がある。
 
 時には奴隷として連れて来られた南方の黒い肌の民は、戦いを禁じられていた故に、舞踊の中に練り込んで戦いの技術を秘匿し、それを後世に伝えた。
 やがて南方の情熱的で激しい動きを取り込んで生まれた闘いの舞踊は、力と速さに分かれ武芸として昇華する。
 
 苛烈で華麗なそれを〈闘舞術〉という。
  
 ラムーナが学んでいるのは【連捷の蜂(れんしょうのはち)】。
 
 蜂が連携して敵を突き刺すが如く、流れるような連続攻撃を行う戦士の舞踏だ。
 流麗でありながら、優れた使い手が使うなら攻撃が2倍にも3倍にもなる。
  
 〈闘舞術〉は、南方大陸から〈倣獣術〉とともに伝わった闘いの舞踏である。
 獣の猛々しい様を倣った、徒手空拳と武器を用いた武芸である〈倣獣術〉は、アレトゥーザの片隅にある訓練場で、南方大陸出身の元船乗りが教えている。
 より実戦的で対人戦闘に向いた〈倣獣術〉は、アレトゥーザ出身の船乗りや傭兵の中で好んで使われるようになっていた。
 
 正規兵や、聖海教会の保守派に属する僧兵の類からは野蛮な異端の技として、〈闘舞術〉も〈倣獣術〉も忌み嫌われている。
 だが、実戦を重んじる冒険者の中には、わざわざアレトゥーザを訪れて技の伝授を請う者もいた。
 
 元々は〈倣獣術〉を学ぶつもりだったラムーナだが、シグルトに普通の武芸を習うことは止めた方がよいと言われていた。
 
〝ラムーナには、柔軟で身軽さを生かせる技が向いている。
 無理に力業や戦意を剥き出しにした技を身に付けたりすれば、余計な癖が出来て後の技の習得に障るかも知れない。
 
 それに身軽さを活かして籠手や身体を守る防具を身に着けないなら、徒手の技では身体を故障する恐れもある。
 特にラムーナは、戦士としての教養がほぼ無かったのだから、むしろ小柄な体格と才能を最大限生かせる技術を新しく探してみた方が好いだろう〟
 
 己も剣を持つのには慣れてなかったというシグルトであるが、短期間のうちに剣術向きの身体を作り、若手の冒険者では一目置かれるほどである。
 実際戦闘では初心者同様で、特攻的な飛翔技以外奥の手を持たないラムーナが、そこそこの戦士を相手取るほどの戦い方が出来るようになったのは、シグルトの助言に寄るところが大きい。
 
〝無理に複数の技を学ぶより、戦いに慣れるまでは一芸を磨いた方が迷わなくていい。
 
 だからこそ、最初に修得する必殺の技はよく考えて決めるんだぞ〟
 
 戦士として含蓄があるシグルトの言葉は説得力があった。
 彼は着実に基礎訓練を繰り返し、地道に身体を作り、今後修得する技のために準備をしている。
 その戦術観や訓練法は画期的で、若手の冒険者の中には真似る者も何人かいたが、悪い結果に出たとは聞いていない。
 
 アレトゥーザの〈倣獣術〉を学んではどうかとレベッカに勧められたこともあったが、シグルトは苦笑して断っていた。
 技の習練に必要な経費を節約する目的もあったようだが、何より適当な気持ちで技を習得して技に溺れるようなことがないように、とのことだった。
 
 目的のためにとことんストイックになれるシグルトの姿は、ラムーナにとって理想的な戦士に見えたのである。
 
「―――ィァァアアアッッッ!!!」
 
 止めとばかりに放った回転斬りが、終に木偶人形の頭部を吹き飛ばした。
 
「…そこまで。
 
 十分よ、ラムーナちゃん」
 
 ラムーナが、次の技に備えて振り上げていた踵をゆっくりと地面に下ろす。
 
 張り詰めていた太腿と臀部の筋肉が緩んでいく感触。
 静かに息を吐くと優雅に踵を地面に置き、ラムーナは舞踏を踊り終えたことを告げるため軽く一礼した。
 
 元々舞踏として発展した闘舞術は、芸術として人を魅せる礼法や技術も内包している。
 師の前ではこの小さな演舞用の作法でさえ、忘れれば大目玉だ。

 激しい舞踏を演目の間ずっと続ける舞踏家の身体能力は凄まじい。
 体力も跳躍力も、攻撃の時に繰り出される瞬発力も、下手な本業戦士を凌駕している。
 各国を渡り歩く専業戦士の傭兵や武芸者には、〈舞踏家とは喧嘩するな〉などという戒めの言葉もあるぐらいだ。
 酒場の踊り子に欲情した傭兵が強靱な脚力で蹴り倒されて腰の骨を折り、再起不能になったなどという話も、時折酒場の酔っ払いがする馬鹿話にまことしやかに出るほど。

 ラムーナはもともとあった舞踏家の素養を、徹底的な基礎を学ぶことによってさらに発展させることができた。
 今は戦士としても十分な素養を持ち合わせている。
 
 パチパチ…

 上機嫌で手を叩き、観客席に座っていた女性が立ち上がった。
 
 南海の太陽を受けて、黒曜石のように黒くその肌が輝いている。
 陽気に白い歯を見せて笑う様は、まるで自分のことを喜んでいるかのようだ。
 
 女性の名はアデイ。
 アレトゥーザに住む女性で、元は南にある大陸から渡って来た黒い肌の民である。
 
 アデイが闘いの舞踏を教えることは、あまり知られていない。
 腰を患い舞踏そのものをもう踊れないというアデイは、おおっぴらに技術を伝えようとはしなかった。
 
 アデイと同じ黒き肌の民である、訓練場の元船乗りの紹介でも無い限りは、その技術を学ぶことは難しい。
 
 黒き肌の民は、高い身体能力と屈強な身体を持っていた。
 一部の心無い者は、黒い肌を悪魔のものとして忌み嫌った。
 外見の違いや文化の違いは、曲解されれば差別の種となる。
 南征のための口実と結びつけば、人の欲望と敵意を喰らって巨大な悪意が生まれる。
 
 奴隷同様の扱いを受ける黒き肌の民は、未だ多かった。
 比較的移民が多いこのアレトゥーザでも…いや、多数の民族が集まる場所だからこそ、露骨な差別が起きるのだ。
 
 都市に住む者は、総じて知性が高い傾向にある。
 人口の多さとともに、自然と他者とのコミュニケーションを取り、そうやって他人から知識を吸収するからだ。
 
 それは他者に影響されやすいということでもある。
 差別という行為が大多数のものになった時、それは常識となって迫害を行うための口実となる。
 
 黒き肌の民は、そうやって行われる迫害をよく被っていた。
 それ故にアデイは、迫害されないよう目立つことを避けているのだろう。
 
 アデイの黒い瞳は、どこかしか、いつも哀愁を湛えていた。
 
 ラムーナは、初めてアデイに出逢った時のことを思い出す。
 レベッカと雑貨屋に買い物をしに行き、悪漢に絡まれていたアデイを助けたのが縁だ。

 その後、フィーリングが合ったラムーナとアデイは親交を深め、ラムーナの舞踏家の才能を知ったアデイが「闘舞術を学んでみないか?」と勧めてくれた。

 仲間に許可を取って、滞在費と授業料を獲得したラムーナは、喜び勇んでアデイに会いに行った。

 ラムーナは聡い娘である。
 自分が、仲間に比べてどこか中途半端であるとずっと感じていたのだ。

 そも、“風を纏う者”のメンバーは全員が頭一つ抜けて優秀だった。

 リーダーのシグルトは振り回す武器が何度も壊れるほどの剛腕で、賢く統率力に優れる。
 盗賊のレベッカは技術も優秀だが、狡猾さと交渉力に長けている。
 魔術師のロマンは生き字引のように博学で、子供なのに優れた魔術の使い手でもある。
 司祭のスピッキオはちゃんとした地位を持つ聖職者で、稀少な秘蹟を扱うことができる。

 勢いでこのパーティに加わったラムーナには、踊り子としての素養以外何もなかった。
 力がほしいと切実に望んでいたから、アデイの誘いは渡りに船だったのである。

 ラムーナが大急ぎで向かうと、身動き一つせずにずっと南海を眺め、アデイは人目を避けるように一人ぽつんと大運河の桟橋に腰を下ろしていた。
 
 それは、かつて奴隷船から逃れた後、途方に暮れていた自分を思い出させるものだった。
 共感を覚えたラムーナは自然とアデイに近づき、隣に腰を下ろしていた。
 
 しばらくはその格好で、一緒にただ碧い海原を眺めた。
 やがて目が合った時、何気なく話をする。
 
 互いに遠く離れた地の出身で、同性同士。
 
 弾む会話の中で、ラムーナが舞踏を習いに来たことを告げると、アデイは子供のように目を輝かせた。
 嬉しそうに故郷の舞踏のことを話してくれるアデイ。
 
 ラムーナは、本格的な舞踏を知らなかった。
 
 彼女にとって舞踏とは、日々の糧を得るために他人のそれを真似て適当にやっていたものだ。
 それに、ラムーナの知る舞踏は人の目を引くための、どこか卑屈に媚びたものでしかなかった。

 ラムーナは、東方にあるグルカという貧しい小国の出身である。
 
 他国に囲まれ、貿易の中継点でもあるグルカは、地の利から求められ、絶えず戦火にまきこまれていた。
 
 グルカの民は驚異的な身体能力を持つ者が多く、男の多くが戦争に関わる戦闘民族である。
 そして、本質的に残虐で利己的だった。
 
 武勇で名を残したグルカ出身の傭兵や軍人は数多い。
 繰り返し戦争に関わった国柄故か、国民は奪われることに慣れ、多くの国民たちは心が病んでいた。
 
 国には厳しい身分制度があり、特に男尊女卑の傾向が強い。
 親の権力が強く、家長には逆らえない。
 
 そんなグルカの民の中でも、ラムーナの父親は酒癖が悪く、平気で女子供に暴力を振るい寄生虫のように子供たちの稼ぎにたかるろくでなしだった。
 ラムーナの母は美しかったが、蹂躙されることに慣れてしまった、消極的な女性だった。
 
 兄2人と姉が1人。
 自分の下に、大きな身体の末の弟。
 他にも兄弟姉妹はいたらしいが、死産であるか、口減らしのために名前をつけられることもなく捨てられて野犬の餌になったようだ。
 
 生活は貧しくて、虫の湧いたものや腐りかけたものでも、食べられればよい方だった。
 グルカの貧民層で、食中りで死ぬ子供は間引いて捨てられる子供よりもはるかに多い。
 
 後に判ったことだが、ラムーナは父の実の娘ではないらしい。
 父の話では、美しい容貌の母親が兵士に乱暴されてラムーナを身籠もったという。
 
 一番母親に似ていた美しい姉に比べ、ラムーナはやせっぽちで、度重なる父親の虐待で酷い猫背だった。
 乳歯が抜け替わるまでは乱杭歯で、周りからは醜い子供だと思われていたようだ。
 
 奴隷として売られるまでは、父親から受ける虐待を恐れていつも顔を伏せていたし、人前では父親に殴られた痕を隠すために面を被ったり、滑稽な表情を浮かべていた。
 愚か者の振りをするのも、身を守るための処世術だったのだ。
 ラムーナの行動がどこか道化じみて戯けているのは、そういった背景がある。
 最近になって愛らしい母似の顔立ちになってきた彼女が故国に残っていたなら、春を売ることになっただろう。
 
 戦場で戦うことが出来ないとされた女は、生まれても疎まれた。
 グルカやその近隣諸国で、女はまるで〈負債〉扱いである。
 
 ただでさえ出生に曰くのあったラムーナは殺されるはずだったが、姉が庇ってくれて命を長らえることが出来た。
 他の弟妹たちが間引かれて死んだのを知っていたラムーナの姉は、ラムーナが生まれるやいなや、すぐに匿ってくれたのだ。
 
 他の家族が冷たかったり乱暴だったのに対し、姉だけは可愛がってくれた。
 ラムーナの性格が歪まなかったのは、姉から受けた愛情の結果である。
 
 〈ラムーナ〉という名前は、西方に来て名乗るようになった名前だ。
 故郷の彼女は名前され与えられず、ただ〈いらない子〉という意味の蔑称で呼ばれていた。
 
 父は、ラムーナが人として名乗ることを許さなかった。
 優しい姉は、ラムーナに普通の名前をつけようとして、奥歯が折れる程殴られたことがある。
 
 母は父に従順で、ラムーナとは目を合わせようとしなかった。
 一番上の兄は威張ってばかりで、父親に似て暴力的だったが、煽てれば殴ったりはしなかったので、まだましだった。
 二番目の兄は姑息な上狡猾で、父親そっくりだった。
 弟は愚図で図体が大きかったが、とても貪欲で、よく家族の食べ物を奪っては父にぶたれていた。
 
 ラムーナの姉は近所でも評判の美しい娘だったが、子供のうちから父親に強制されて春を売っていた。
 姉を助けるのために、ラムーナは客寄せのための舞踏を踊り、ひたすら人に媚びた笑いを浮かべる。 
 
 愛想笑いを浮かべ、地面ばかり見る毎日。
 酒に酔った父親が理不尽な暴力を振るえば、謝罪の言葉を言って身体を丸くする。
 背中は痛みが残るけれど、腹を蹴られるよりは安全だ。
 そうやって歪んだ姿勢を取り続けた代償がその猫背だ。 

 それでも、要領がよかったラムーナはまだましだ。 
 親に蹴られて内蔵が破れ、死んだ子供の話など日常茶飯事だった。
 
 子供が産めなくなった娘たちもいたが、売春させても子が出来ないから面倒がないと喜ぶ親さえいた。
 
 貧民の中には、物乞いをする時に同情を誘うため、親が子の手足を千切ることもある。
 痛みで泣く声が五月蠅いと、喉を潰された幼なじみもいた。
 
 泣けなくなった子供に代わって大げさに親が騒ぎ立て、そうやって恵んで貰ったわずかな金はろくでなしのその親が酒代に変える。
 
 貧しさと荒んだ生活は、暴虐の免罪符になっていた。
 親が子を生きるための糧にする…
 
 ラムーナが育ったのは、そんな地獄だった。
 姉が庇ってくれなければ、十日も生きられなかっただろう。
 
 皮肉にもラムーナの身体から父親の暴力によって出来た青痣が絶えたのは、奴隷として売られた後だった。
 足の爪を逃亡防止のために刺し貫かれたけれど、一日一食の食事が与えられ飢えることはなかった。
 故郷では日に一度でも、何か食べられれば幸運だったからだ。
 
 十五才になるラムーナだが、この国の娘たちに比べれば頭半分以上背が低い。
 それは成長期に栄養不足だったことが最大の理由であろう。
 
 故郷では同世代のほとんどの子供たちが、虐待や病気より栄養失調と飢え、あるいは腐った物を食べたことで腹を壊し死んでいった。
 
 度重なる戦争の兵役と重税が重くのし掛かり、一冬越すごとに子供の数は減っていく。
 ラムーナが五歳の春を迎えた時、二十人以上いた同世代の幼馴染みは半数に減っていた。
 無事に二桁の誕生日を迎えられたのは、ラムーナを含めたった三人だけ。

 人口が減らないのは、生まれる赤ん坊が多いから。
 不義の子、娼婦の子、そして強姦によって生まれるラムーナのような望まれない子供。

 軽んじられる命が湧き出る端から刈り取られている、病んだ国であった。
 その故国は数年前、強硬な隣国によって宣戦布告された。
 
 絶えない戦争で鍛えられたグルカの精兵は、残忍さと驚異的な身体能力から善戦したが、敵国との国力差が致命的だった。
 グルカの骨のある男たちは皆殺しにされ、後には卑屈でろくでなしの父親のような人物たちしか残らなかった。
 ラムーナの長兄は国土防衛の戦いで戦死した。
 
 国が戦争に負けた後、国の環境はもっと酷くなった。
 殺されるか飢えて死んだ人間が腐った臭いと、飛び回る蝿の羽音が途切れたことはなかった。
 
 器量の良く春を売って糧を得ていた姉は、乱暴な兵士たちの慰み者にされた。
 その上に父親に労働を迫られ、過労から喀血して死んでしまった。
 
 ラムーナは男性が恐ろしかった。
 彼女の知る男たちは皆酒臭くて、女に暴力を奮うことを何とも思わない連中ばかり。
 数少ない例外は、文字を教えてくれたクレメント司祭と、姉の婚約者だった男ぐらいだ。
 
 だが、シグルトを初めて見た時、ラムーナが持つ男性への恐怖感は無くなっていた。
 ロマンを助けたシグルトから、大好きだった姉のような優しさを感じたのだ。
 
 仲間になってからただの一度さえ、シグルトはラムーナをぶたなかった。
 
 自他共に厳しい性格だが、理不尽な暴力は決してしない。
 よくやれば優しい声で褒めてくれた。
 戦闘でラムーナがシグルトを庇った時は、傷跡が残らないかとても心配してくれた。
 
 シグルトは、ラムーナの姉に何となく雰囲気が似ていた。
 
 底知れない不幸を経験してきた者が持つ哀愁と、不幸を噛みしめて尚も懸命に生きようとする強さを持っていること。
 だから、ラムーナは死んだ本当の兄よりもシグルトを慕っていた。
 
 レベッカは貪欲なので弟を思い出させたが、遙かに要領がよくて理不尽なことはしない。
 面倒見がよくて、ラムーナにはとても優しかった。
 悪賢くて、冒険者としては一番経験豊富だ。 
 
 少女のように美しい容貌をしたロマンは、ひねくれ者だった。
 真面目で落ち着いているし、彼が使う魔術はとても頼りになる。
 何かを聞けば大抵のことは知っているし、教えることと学ぶことには真摯な態度で好感が持てた。
 
 スピッキオは、優しくて大きい、という印象が強い。
 秘蹟で何度も傷を癒して貰ったし、説教臭いけれどその話は面白い。
 宗教的な物語も、信仰抜きで聞く分にはとても楽しいものだった。

 ラムーナがいる場所は、今では地獄ではない。
 決して楽な稼業とは言えないが、日々の糧をちゃんと得られるし、何より謂れのない暴力を振るわれなかった。
 
 仲間たちはラムーナを信頼し、ラムーナも心から仲間を信頼している。
 
 だから、ラムーナは何としても仲間に応えられる力が欲しかった。
 再び役立たずと断じられ、やっと得られた自分の居場所を失うのことがとても怖かった。
 
 生まれた時から家族に尽くすことを教えられて育ち、献身的で優しい姉を見て成長した。
 孤独の辛さを知っており、愛し愛されることに傾向している。
 
 誰よりも気を張って仲間のために尽くす…
 ラムーナにとって、仲間たちは彼女の拠り所だったから。
 
 彼女は楽観的な反面、意外にも…とても繊細だ。
 脳天気に見えるのは、生きるためにそうならざるを得なかったからである。

 ラムーナが、今までに出来ることはとても少なかった。
 役に立てない、という劣等感が彼女の中で燻っている。
 
(強くなって、絶対役に立つんだっ!!!)
 
 技を習得しようというラムーナの瞳には、強い決意が宿っていた。
  
「…凄いわ。
 
 躍動的で変則的なこの舞踏は、修得そのものは容易いけれど、上手に踊るのは難しいのよ。
 素晴らしい柔軟性と、繊細な表現力っ!
 
 ラムーナちゃんは、才能があるわ」
 
 舞踏を教える時とは打って変わって、手放しで褒める。
 アデイはラムーナの上達を、まるで自分のことのように喜んでいた。
  
「憶えておいてね。
 
 【連捷の蜂】はあらゆる動きに繋げる、その発展性と可能性こそが要なの。
 あるときは次の一撃に、あるときは必殺技の予備動作に、あるときは敵陣を切り払う。
 
 基本に組み、そして応用的にも使える優れた術よ」
 
 アデイは、丁寧にその動作を説明してくれた。

「ねえ、先生。
 
 これで私もみんなの役に立てるかな?」
 
 非力で体格の無いラムーナは、戦士として仲間の内にありながらずっと、どんな風に自分が貢献できるか悩んできた。
 
 相手の急所を貫く鋭い一撃は得意な方だが、レベッカには劣るし、力技ではまったくシグルトに適わない。
 自分が必要とされているのか、ラムーナはいつも不安だった。
 
 この少女にとって、無能と断じられることはとても怖い。
 仲間足手纏いになることがたまらなく恐ろしかった。
 かつてラムーナは、見限られて親に売られたのだ。
 
 役に立ちたい、そして仲間たちの側にいたい…
 
 もしラムーナの本心を知ったら、仲間たちは怒るか、笑い飛ばすか、抱きしめただろう。
 ラムーナが家族としての絆を仲間たちと育もうと必死に悩んでいるとき、彼らは心の中でラムーナを大切なパーティの一員として認めていたのだから。
 
 まだわずかに幼さの残る少女を見つめ、アデイは柔らかに微笑んで、とても強く頷いた。


 アレトゥーザに滞在中、ロマンは相も変わらず賢者の塔の図書室に通い続けていた。
 少女のように美しい少年が、時間いっぱいまで図書館で読書に勤しむ姿は最近の風物詩だ。

 ロマンは機械仕掛けのように正確な速読を行うため、傍で見ていると異様なのである。

 数日読書に励んだ後は、貸出で不足している本を率先的に写本して(内容を一字一句、誤字誤植まですべて記憶しているため、ロマンの書いたほうが、内容が正確になるというおまけ付き)納め、賢者の塔を利用する魔術師としての奉仕活動と滞在費の捻出に当てている。

 書籍というものは、実際は材料や表装代こそが高価であり、筆記を行うだけであれば翻訳作業や書写の賃金はあまり貰えない。
 写本の賃金はインクなどの道具代込というのが普通であるので、その場合の賃金はかなり高くなる。

 ロマンが賢者の塔で写本する時は、誤字誤植を行った時はかかった費用を徴収するという条件で、インク・紙・表装代などの材料費・製本代は賢者の塔持ちである。
 図書室や書写台(インクで汚れないように、写本をする時は専用の場所でやるのが規則である)の使用に関する場所金、材料費や製本代の前借りでさらに担保金が発生するのだが、ロマンは滞在費として預かっていたお金から最初にそれらを捻出して、技能だけで重宝がられるようになって賢者の塔から金を出させ、それらで経費を賄うようにまでしてしまった。

 正確なロマンの写本は需要があり、一日に数冊を書き上げる速度から〈本来は渋られる〉備品の使用と貸出しが特別に許されていた。

 賢者の塔を使う場合、魔術師学連などに所属する魔術師は一定の奉仕や労働を要求される場合がある。
 これは高位の魔術師から指名されれば断れないが、あまりに頻繁にそれを強いることも会則で禁止されているため、魔術師側は断ることもできる。

 優秀な奉仕活動には報奨金が出ることもあり、魔術師たちは獲得した報奨金を賢者の塔に預けて、学連の年会費や雑費、施設使用における諸経費を引いて貰うシステムがあった。
 とはいえ報奨金は本当に雀の涙であり、ほとんどの魔術師は日々の生活費のために最低限の奉仕活動に止める。

 写本で稼ぐ場合、きちんとした製本ギルドに所属する写本師にならない限りは難しい。そういった技師は囲い込みをされるし、冒険者の副業として行う場合は発生する税金や要求される強制的なノルマなどからもデメリットのほうが大きいのである。

 ロマンは例外で、図書館の使用時間がとても長い分まめに写本をして報奨金を発生させ、賢者の塔に貯金した預り金は結構な額になっていた。
 ノルマを高速でこなし、誤字脱字や誤植を全くしないという芸当があるからだ。

 ならば預かり金を給金のように引き出せばよいとなるのだが、申請してからかなりの時間がかかる上に引き出す金額に応じて賢者の塔経由での税金や手数料が結構な額引かれるため、賢明な魔術師はそれらの手間と費用が発生しない仕事で稼いで生活し、預り金は極力使わない。
 学連・協会・門派など正式な魔術師の組織に所属していない者や在野の魔術師はシステム自体を使えない上、このやり方を理解していない魔術師のほうが多いぐらいだ。
 幼くしてリューン大学に出入りを許されたロマンは、いわば特待生的な立ち位置であり、高名な師匠からもらった紹介状もあって預り金制度を利用することができている。
 
 金の引き出しに手間と費用がかかるのは、賢者の塔から財貨が流出することを防ぐための対策でもある。
 そういう立て前、預り金の現金としての引き出しは好ましくなく、真面目に預り金ができるほどの奉仕活動を行う魔術師も少ない。

 例外的にロマンは今回の都市滞在に必要な賃金だけを最低限引き出し、ラムーナと同じ宿を使用することによって経費を抑えてはいた。
 このおかげで滞在費用として預かった銀貨二百枚は財布の中にある。
 本心から言えば、パーティから借りているお金は極力使いたくない。無駄遣いをすればレベッカに嫌味を言われるのがおちだからだ。

 金策に煩わされたくはない。
 雑事に有限の時間を割くことは、賢者として疎むべきことだ。

 冒険者として仕事をしている時は良いのだ。
 今まで培った知識が活きるし、成功すれば報酬も入る。
 仲間たちとあれこれ相談して難問に立ち向かうと、お互いに出し合う知恵から新たな発見があって、得るものもたくさんある。
 現場での経験というものは、大いにロマンの知的探究心を満たしてくれる。

 読書をする手は全くぶれず、ロマンはそんなことを同時に悩む余裕があった。

 不意にその手が止まり…本に息がかからないように大きな溜め息が漏れた。

 周囲の者たちが、何事かとロマンを見る。
 そのぐらい、読書中の彼は静謐で規則的なのだ。

 ロマンの目は右手の指に注がれていた。
 彼の愛用する手袋の中指部分に穴が空いている。
 
 本の頁をめくる時は摩擦抵抗を利用する。
 新品の頃、羊皮紙はつるつるしているのだが、同じ本が何度も利用されれば自然と汚れるし毛羽立ってくる。
 中には唾を付けてめくるマナーのない読者もいるため、ロマンは本の作者と管理者に対する最低限の礼儀として絹の手袋を愛用していた。
 摩擦による負担も当然手袋に蓄積する。

 長く使った書籍は消耗するものだ。
 汚れや摩耗があり、それを補修するのも司書の仕事だ。
 障り無く読書するために陰で力を尽くす人がいるのだから、配慮して綺麗に使うのが正しい賢者の挟持。
 それが知恵ある者の品格であり教養であると師からを教わって、ロマンは真摯に続けてきた。

 並列的に考えることはできるが、流石に手袋がくたびれていることまで配慮できておらず、破れてしまったことが落ち度。
 だから漏れた溜め息であった。

 酷使してきた絹の手袋の指先はインクと他人の手垢で薄汚れ、酷く毛羽立っている。
 読む時の取っ掛かりは良くなったが、こんな破れ手袋を使うなど恥ずべきことだ。

 ロマンは名残惜しそうに本を閉じると、それを司書に返却して図書室を出る。

 使っていた絹の手袋は、その昔報奨金で最初に購入したものだ。
 絹製品は高価である。安物でも銀貨百枚は下らないだろう。

 よく見れば長年使ったせいでかなり傷んでいる。
 親指と人差し指の部分には、本をめくりやすくするために特別な革の滑り止めがついている。
 革部分は手袋と同じ白色に塗装されていたのだが、本を傷めないために毛羽立つと高価な白い革で軽く磨いて磨き粉を刷り込み、いつもつるつるにしていた。
 磨くのに革を使うのは羊皮紙に近い材質を使って本を痛めないためだ。

 革部分もかなり摩耗して黒くなっていた。
 何度か修繕に出して張り替えているが革部分は減るのが早いのだ。
 ロマンは写本の時は書写台(図書室にはインクをこぼしてもいいように、磨いた石畳の上に防水性の強い加工がされた机を置いた専用のスペースが有る)で行うし、そこでこの手袋は使わない。この汚れは他人が本につけたものであろう。

 単純な長時間使用という酷使であって、決して乱暴な使い方もしていない。
 本のめくり方は丁寧にやっていたし、力も強くない。

 最初の頃は知識には余分として親に手袋を買ってもらえなかったので、木綿の手袋を使っていた。
 引っかかりはいいが、木綿のザラザラ感は本に優しくない。
 全革製の手袋は分厚くて蒸れるし、感触がないので力加減を誤りやすく論外だ。

 やはり薄く頑丈な正絹の手袋がいい。
 磨いた滑り止めは慣れればまったく滑らないし、汗が出ないため書籍に汚れが伝染らない。
 指先につける滑り止めの加工賃がそれなりにするのだが、そこに吝ん坊なことをすれば長く使えない。

 不幸中の幸い、都市生活のためにいくらか計画的な金を用意している。
 手袋のオーダーメイドをこの都市にもある、魔術師御用達の服飾専門店に頼むことはできるだろう。

 問題は使った資金の補填と、手袋を使えない間の学習時間である。

(この間ラムーナと話した時は、もうすぐ技を習得できそうだって言ってたよね。
 他の仲間も戻ってるかもだし、服飾のお店に寄ってから『悠久の風亭』に行って見よう。

 二人だけでもできる仕事があるかもしれないし、何もなければ宿で張り紙の代筆をすれば時間と宿代ぐらいにはなるよね)

 先日料理の準備と宿の管理で、慣れていても張り紙を書くのが大変なのだとラウラが嘆いていた。
 いかに識字率が高い冒険者たちの宿で経営をしているとはいえ、文章や書式の扱いがうまいとは限らないのだ。
 張り紙の代筆は、字が綺麗で理路整然とした書式と筆使いのロマンにとって得意な分野である。

 今後の行動予定の目処がたった少年は、背筋を伸ばすと足早に歩き出した。


 燦々と眩しいアレトゥーザの太陽を見上げ、シグルトは眉根をしかめつつも柔らかな微笑を浮かべていた。
 南海から吹き付ける湿った潮風の香りが、ここからは見下ろせないが、美しい碧海を想起させる。
 
 アレトゥーザに到着したシグルトは『蒼の洞窟』を目指していた。
 石畳を叩く靴音は、心持ち軽い。
 知った者に間もなく再会する安堵感からであろうか。
 
 ちょっとした冒険を終え、シグルトが『悠久の風亭』に到着したのは今日の昼過ぎである。

 この都市にいる“風を纏う者”の仲間たちはそれぞれ出かけていておらず、夕方には集うだろうと聞き、それまで暇を潰すことにしたのだ。
 ここでシグルトが知り合いと言えるのは、『悠久の風亭』の主人とその妻ラウラ、そして精霊術師のレナータぐらいしかいない。

 遠く北方からやって来たシグルトは、まだ冒険者としての経験も浅く、コネクションも少ない。
 すでにその技量を認められつつあるものの、深い部分ではまだ駆け出しであった。
 
 旅先で縁を作るのも、冒険者にとっては重要なことである。
 冒険中に困った時、最終的にはその土地でのコネが最後の切り札になるからだ。
 
 アレトゥーザでレナータという知り合いが出来たことは、シグルトにとって有り難いことであった。
 
 それにレナータは、きつい訛りのある生粋のアレトゥーザ市民たちとは違い、きちんとした交易語で会話が出来る。
 西方の共通語として広く広がっている交易語以外にも、故国の北方語系列の言葉をいくつか流暢に話せるシグルトだが、南海近くで話される訛りの強い言葉は少し苦手だった。
 澄んだレナータの言葉は訛りが少ないし、彼女はお喋りではない。
 自身も普段はやや寡黙な傾向のシグルトにとって、付き合いやすい人物であった。

 やがて見えてきた洞窟の入り口をくぐり声をかけると、すぐにレナータが出迎えてくれた。 
 
 シグルトは土産代わりに、『悠久の風亭』の女将さんがもたせてくれた焼菓子と、旅先の市で手に入れた新しい陶器のカップをいくつかレナータに手渡した。
 神経質な妹と、資産家でロマンティストな恋人を持っていたシグルトは、意外にも土産や贈り物などで細やかな気遣いが出来る。
 基本的には鈍感で武骨なのだが、知人を大切にする誠実でお人好しな本質はこういったところで表れるのだ。

 安物で悪いな、と言うシグルトに、レナータは思い切り首を横に振って嬉しそうに器を抱きしめていた。
 
 そしてお礼にと、レナータが煎れてくれる香草茶を飲むことになった。
 新しいカップが早速役立つと、レナータは白い肌を喜びに上気させて洞窟の奧に消えていく。
 
 シグルトは適当な岩を選んで腰掛けると、爽やかな洞窟の涼気に身を任せていた。

 戻ってきたレナータにお茶を注いで貰い、その熱さと香りを楽しみながら、ゆっくりとカップを揺らす。
 
 二人静かに、洞窟に光を反射させる美しい水面を眺めてお茶を飲むだけ。
 しかしそれは、シグルトのような闘争に身を置く冒険者にとって、かけがいのない安らぐ時間だった。
 
 またここに来ることが出来たことを尊び、知人との再会を喜び、静寂の優しさを味わう。
 普段簡単に手に入るそれは、実はとても素晴らしくて大切なものなのだとシグルトは思う。
 何故なら、そういったものの多くをシグルトは一度失ってしまったから。

 故郷の妹や愛した女性、友を思い出し、シグルトは少しだけ憂いのある表情を浮かべて昔を懐かしんでいた。

 シグルトが回顧に浸る中、レナータは少し雰囲気の変わったシグルトをぼうっと眺めている。
 原因はよく分かっている…シグルトの周囲を忙しなく飛び回っている精霊のせいだ。 

「…今日は可愛らしいお嬢さんを連れていますね」
 
 過去を思い目を閉じていたシグルトの周囲を、彼の関心を誘うかのようにふわりと風が舞った時、レナータは興味深そうに語りかけた。

「ああ、〈トリアムール〉のことか」
 
 半眼に目を開いたシグルトがさらりと言葉にした名前から、その意味を感じ取ったレナータは目を丸くした。
 
「その名前の韻…強い言霊を感じます。
 
 もしかして精霊に名を贈ったんですか?」
 
 シグルトが軽く頷くと、レナータはなるほどと虚空に目をやった。
 おそらくそこに〈トリアムール〉がいるのだろう。
 
「初めてお逢いした時からシグルトさんには、精霊術師の才能があると思っていました。
 貴方は精霊たちを強く惹き付ける何かを持っています。
 何れは精霊と交信を持つのではないかと…
 
 でも、この娘は普通の風の精霊じゃありませんね?
 まだとても若いけれど、格が高い…
 かなり上位の精霊の、直接の眷属か化身、あるいは分霊でしょうか…
 
 名を与えたということは、契約した精霊なのでしょうが。
 でもその様子では、まだこの子のことが見えないのでは?」
 
 シグルトは頷く。
 
「俺の目は精霊を捉えることは出来ないし、この耳はその言葉を聞くことはかなわない。
 一度、精霊と似たような状態になったことがあって、その時はできたんだけどな。
 
 見たり聞いたりは無理だが、昔から不思議と精霊の存在は感じ取れた。
 
 母の話ではずっと昔、物心つく前には精霊の言葉を聞き、見ることが出来ていたようだ。
 何故か、ふつりとそういった力がなくなってしまった。
 まあ、霊感の強い子供の時分が終わると、こういった力は失いやすいらしいが。
 
 俺が精霊の存在を五感の全てで捉えらなくなったのも、俺が純粋さを失ったせいかもしれない。
 
 いつの間にか戦士として敵を殺傷する感触に馴染み、感受性を捨て、精霊の嫌うという鉄の武具を振るうようになった。
 少なくとも、幼い頃の純粋さを懐かしむぐらいには時を経てしまったと思う。
 
 子供の頃、いろんなことを教えてくれたまじない師の婆さんがいたんだが、よく精霊の話をせがんで聞いた。
 聖北の教えよりも、地に着いた古い神々や精霊の話の方が、あの頃の俺にとって興味深かった。
 
 俺の故郷は聖北教会の勢力が強くて、その教義も聖海とは比べものにならないくらい過激で保守的なんだ。
 坊主たちには、前に君にちょっかいをかけていた助祭のような連中がごろごろしていた。
 異種族はドワーフ以外の入国を認めなかったし、異端として処刑される人間も多かった。
 
 だから、おいそれとまじないや精霊のことを口には出来なかったが、昔から精霊の存在には全く違和感を覚えなかったな。
 俺の母は戯曲や物語が好きで、父は他国の神話や伝承に造詣が深くそういった文化に寛容な人だったから、幻想的な存在の話をよく聞いた。
 …そのためかもしれない。
 
 精霊と強い絆を持ってみると、今になって見過ごしていた多くの存在を強く感じるし、失った感性を惜しむ気になる。
 
 だが、過ぎ去った時は戻らない。
 今俺に出来ることは、精霊術師どころか魔術師や聖職者にも劣るだろう」

 昔を思い出していたからか、少し饒舌になったシグルトを眩しそうに見つめながら、レナータは「そんなことはありませんよ」と優しく声にした。

「シグルトさんは不思議な人です。
 
 きっと戦っている時は炎のように苛烈で、荒ぶる風のように勇敢なのでしょうけど…
 こうやって話している時は、時を経た隠者のように思慮を感じます。
 
 感性を惜しめる人には、それを持っているからこそ惜しめるんですよ。
 精霊術師にもっとも必要となる、〈観る〉力は、そこから始まるんです。
 感じようとする意思こそが、精霊と交信し繋がるための礎なのですから…」

 そうかな、とシグルトは遠い目をした。
 こんな時のシグルトは、老人のような奥深い印象を周囲に与える。
 
「俺が出来ることと言えば、今は覚え始めたばかりのにわか剣術と、〈トリアムール〉の力を身に宿すぐらいだ。
 新しい力を得たばかりの身で、さらなる力を求めるのは貪欲だろうか?
 それとも、力を貸してくれる〈トリアムール〉に失礼かもしれないが。

 戦士の性分だな…得た力の先にさらなる力があるか、つい考えてしまう。
 そして、精霊術師のように、もっと精霊のことを深く知りたいと思う」
 
 シグルトは軽く肩をすくめて、そのあと「愚痴を言うようで悪いな」と謝った。
 
 だが、レナータはシグルトの言葉に小首を傾げていた。
 
「精霊を身に宿す?
 …もしかしてシグルトさんが使うのは〈憑精術〉なんですか?

 精霊術師は普通、精霊を召喚して行動させる〈召喚〉か、精霊の司る精気を現象として振るう〈霊験〉と呼ばれる力から習得します。
 私は師の影響で古典的な精霊術師の呪法である〈召喚〉を主に使い、〈霊験〉や〈憑精術〉を学ぶ機会は無かったのですが。
 
 精霊術の中でも、降霊や憑依はほとんどが高等技術なんです。
 精霊を身に降ろし、霊気を同調させて自らの力として振るう〈憑精術〉は制御が難しく、術者にかかる負担も大きい…何より身に宿す精霊との強い共感が必要になります。
 
 いきなりそんな術を修得出来るなんて…

 見えていないのに見えない存在を認めることってとても難しいことなんです。
 よほど精霊と信頼関係を結ばなければ、誇り高い精霊は術者には宿りません。
 
 …ずっと前から少し不思議だったんです

 シグルトさんからは精霊術師の才能は感じていました。
 戦士としての資質が強いから、その道には進まなかったのでしょうけど、他に何か…
 精霊たちに愛されながらも、どこか精霊たちが距離を取っているような。
 
 その性質…そして雰囲気。
 貴方は精霊を魅了しながら、同時に退けている。
 そんな雰囲気を持つ術師に、一つだけ心当たりがあります。

 貴方からは、微かに鐵(てつ)の精霊の気配がするんです。
 鉄の武器を振るう戦士だからかもしれませんが。
 
 孤高を司る戦士の精霊。
 そして、高貴を司る金属の気質。

 魔の雲に乗ってやって来た神が片腕を失った時、義手である銀の腕に入り込んで肉を食らい病ませた金気の霊虫ダルヴ・ダオルや、魔力を喰い荒らす鐵の蟲。
 異形にして心無き虫の姿をした精霊たち。
 
 しかも、精霊の最上位たる…」
 
 そこでレナータは口籠もり、ぶるりと身を震わせた。
 
「…シグルトさん。
 貴方は滅多に生まれない〈刃金の精霊術師〉になる素質があるかもしれません。
 
 屈強なる戦士であり、同時に精霊術師の才能。
 代償を厭わない勇気と、力を磨く意志。
 そんな者だけが最奥に至れるだろうという、謎の多い特別な精霊の術師。
 
 でももし、その機会が巡ってくるとしても気をつけて下さい…」
 
 不安そうにレナータは呟いた。
 
「…〈刃金の精霊術師〉?
 
 もしかして、それは〈ダナ〉の力を使う戦士のことか?」
 
 レナータの顔が、シグルトの言葉に引きつる。
 
 精霊や神々の名前には、強い言霊が宿っているのだ。
 シグルトが口にした神名には、周囲を凍て付かせるほどの神威を持っていた。
 
 レナータは感じ取っていた。
 シグルトの近くから、何かとてつもなく強大な存在がうっすらと眼を開き、レナータを睨み据えるのを。
 
 トリアムールと、『蒼の洞窟』に存在する精霊の全てが、畏怖から一斉に身をすくませた。
 
「シグルトさん…
 
 精霊たちや精霊術師の前で、その名を軽々しく口にしてはいけません。
 …いいえ、それだけではなく、あらゆる場所で。
 
 その神名は、とてつもない言霊を持ちます。
 開闢の母、創造の母とされる大女神…女神の中の女神と謳われる存在。

 教会が信奉する地上の主、罪を購った神の子の聖母には、彼の女神の別名を持つ母がいたと云われます。
 あらゆる命と魂が生まれ出でる大地を子宮とし、世界を変革するために魔の雲に乗って現れた神々の母。
 女神や聖母として誰かが母性を意識する時、記憶の根源にある混沌にして黒き女神。

 貴方の精霊も、この洞窟の精霊たちもこんなに怯えている…
 
 彼の大女神は、生み出し奪い去る恐るべき者。
 様々な伝承の中でその本質が語られず、ただ〈母〉として太古から畏怖される最上位の精霊です。
 
 その力は海を割り、山を砕き、天を落とし、同種の神魔を滅ぼすことすら出来るとか。
 
 おそらく、聖北の神に匹敵する神格を持った数少ない女神なのです。
 聖北、聖海といった一神教の信仰が強いこの西方で、未だに川や大地にその名を残すほどの。
 
 彼の大女神と微睡で邂逅した者は、恐るべき力を得る変わり、そのために多くの犠牲を捧げる必要があると聞きます。
 女神の子供たちが神としての威勢を振るった時、それに通じるまじないにおいて最高の供物だったものは生贄と犠牲でした。
 
 名前すら力の代償に奪われる…名を奪われれば存在すらも残らず、その者は消えてしまうのです。 
 全てを奪う故に、最後には畏怖しか残らない…彼の女神はそれほど恐れられているのです」
 
 蒼白な顔で言葉にするレナータ。
 彼女の忠告に、シグルトは強く頷いた。
 
「肝に銘じよう。
 
 まともな術師でもない俺が、神名を口にするのは軽率だったな」

 困ったように頭を掻くシグルトに、レナータは少し表情を緩めて頷いた。

「鉄は、かつて偉大な聖戒の王が神殿を建てる時、その使用を嫌ったとされるものだ。 
 南海の古い神話では、鉄を意味する民は殺戮を好む戦闘民族で、滅ぼされたのだという。
 妖精は鉄を嫌い、精霊は鉄の前に力を失って正体を顕すという。
 かつて天空を不能にし、ある英雄が怪物から首を叩き落とした鎌は、アダマス…神鉄で出来ていた。

 きっと俺が口にした精霊には、そんな力があるのだろうな」
 
 はい、とレナータが肯定する。

「孤高にして蛮勇なる戦士の精霊。
 
 最初に西方に鉄をもたらしたという民が崇めていたのが、彼の女神の子供たちなのです。
 あらゆる精霊や妖精は、その女神の子供たちが姿を変えたのだという話もあります。
 
 鍛冶の神としてドワーフたちからも畏怖され、同時に母…つまり生み出す者として発明と利器の象徴とされました。
 それは金属を、富をもたらす大地そのものであり、錆び朽ちる死と荒廃そのもの。
 発展する文明の理解者であり、代償に滅びを与えるという栄枯盛衰、叡智と技術の果てに全てを収穫する周期の終(つい)、滅びそのもの。
 
 そういった、古い古い女神であると聞いています。
 
 きっとシグルトさんは、彼の女神に見初められた戦士なのかも知れません。
 彼の女神は、何かを成せるだけの強く眩い魂と意思を、ことさらに好むと聞きますから」
 
 レナータはまた一つ頷くと、シグルトの瞳をじっと見つめた。
 青黒く深いシグルトの瞳には、深海を思わせる神秘的な魅力がある。
 
「シグルトさんが訪れる時、風や水の精霊たちがはしゃぐんです。
 
 私の師が教えてくれたのですが…
 時々人の器に生まれるのに、精霊のような魂を持った者が生まれることがあるそうです。
 
 多くのそういった人たちは、関わってくる精霊や大きな存在に運命を掻き乱されて、不遇の人生を過ごすそうですが…
 時折、それらの逆境さえ力に換えて大成する人物がいると。
 
 それが〈英雄〉と呼ばれる存在になるのだそうです。
 シグルトさんは、きっとそんな人。
 
 ここを訪れる人の中には、時々シグルトさんのような人がいます。
 可能性と一緒に、精霊たちの様々な期待を背負った人が…」

 レナータは、ここに尋ねてくるたくさんの教え子を思い浮かべた。
 
 ある精霊術師の青年は、その行いと情熱に人を惹き付ける不思議な魅力があった。
 この間レナータを心配して訪れた女性には、迫害に負けない意思を感じた。
 精霊の術は使えずとも、理解を示してくれた屈強の戦士がいた。

 シグルトからも、彼が何か強力な運命のようなものを背負っているように感じられる。
 
 シグルトは優秀でとても強いはずだが、それ以上に危うげな儚い印象も受けるので、レナータは心配だった。
 彼の放つ静かな雰囲気ですら、死を受け入れて待つ老人のようにも感じられて、傍にいると不安になるのだ。
 
 出逢って間もないが、レナータはシグルトに対して強い親しみを感じている。
 だから、力になりたいと思う。
 この若者が、周りを顧みずに迷わず危機に陥った自分を助けてくれたように、レナータもシグルトを救いたいと願うのだ。
 
 いつの間にかじっとシグルトを見つめていたことに気付き、気まずくなって上を見上げると、シグルトの風の精霊〈トリアムール〉が頬を膨らましてレナータを睨んでいた。
 
(大概精霊というものは、純粋で、どこか押しつけがましくて、その上嫉妬深いもの、ね…)
 
 微笑ましそうに〈トリアムール〉を見上げ、心の中で呟く。
 そしてレナータは嫉妬深い風の娘に微笑みかけながら、真新しいカップに残った、やや冷めたお茶を啜るのだった。 
 

 シグルト、ロマン、ラムーナが『悠久の風亭』に集結したのは、奇しくも同じ黄昏時であった。
 久しぶりに見るリーダーに、二人は駆け寄るように近づいた。

「どちらも元気そうだな。

 レベッカとは俺の私用の関係で別れたんだが、何れこちらに合流するだろう。
 スピッキオは教会の事務手続きがあって、もう数日かかると連絡があったそうだ。

 俺は用事も終わったし、わずかばかりの稼ぎもあるから合流しに来たんだが…
 ラムーナは技の習得は終わっているのか?」

 シグルトの問いに、ラムーナが満面の笑みをして頷く。

「アデイ先生からはお墨付きを貰えたよ。
 舞踏家としての技能も合格ラインだから、そう名乗っていいって。

 臨戦態勢なんだよ!」

 両拳をぎゅっと握ってガッツポーズをする。
 今なら足手纏いにはならないという自信が漲って見えた。

「それなら、レベッカとスピッキオが戻るまでに三人で一仕事したいかな。
 読書用の手袋が破れちゃって、新しいのができるまでしばらく暇なんだ。

 ここの女将さんがいつも出してる依頼の潮干狩りに行ってもいいけど、三人組ならいくらかまともな依頼を受けられるよね?」

 強気なロマンの言葉に、シグルトは首を横に振った。

「今の構成でまともな依頼など論外だ。

 先日リューンにほど近い村でレベッカと一仕事したんだが…その時は案内役に治癒術を使える者がいるという破格の条件があった。
 俺が私用で滞在していたペルージュで、目の前で盗賊行為が行われるという〈緊急事態〉が起きて盗賊と戦闘になったが、あの時は俺自身が傷を塞ぐ手段を持ち、近い場所に知人の優れた医者がいた。
 
 ロマン、賢いお前なら俺が踏み切れた〈条件〉がわかるな?」

 見つめるシグルトに、ロマンは派口をへの字に結んで黙り込む。
 
「…回復手段だよね?」

 ラムーナが代わりに応えると、シグルトは頷いた。

「俺たち駆け出し冒険者が死ぬ一番の理由は、無謀だとか経験が無いからだとよく言われる。
 それは間接的に間違いではない。

 だが、最大の理由は負傷した時に回復が間に合わないことだ。

 怪我をしても手持ちの手段で生命を維持できない。
 金銭不足で回復薬が持てない。
 重装備をする余裕がなく、大きな怪我を負いやすくなる。
 稀少な治癒術を使う仲間がパーティに存在しない。
 
 俺は自前の体術といくらかの医療知識があるが、それでは不測の事態が起きた時に可能なはずの対処できない。
 体格に優れていないロマンやラムーナは少しの出血が命取りになる。加えてお前たちは各々の戦闘スタイルから軽装だ。
 敵の戦力を仲間に振れない少数の構成では、敵の攻撃が誰かに集中するから、何らかの防御手段がほしい。

 今、俺が傷薬を一つ持っているが、残りの傷薬と解毒薬はレベッカが持っている。
 無駄遣いもできないから、仲間が全員揃うまで荒事をすべきではないというのが俺の考えだ」

 一度言葉を止めると、シグルトはラムーナの頭に手を乗せて軽く撫でる。

「…新しい技を、特に戦いの術を学んだ直後は高揚するものだ。
 試してみたくなるだろう?
 それは分かる。

 だから、俺は止めるんだ。
 慢心も怖いが、高揚に引きずられると失敗した時は反動が大きい。
 自分のできるはずのことを、ほんのちょっとの誤差でしくじった時、生まれた隙で命を落としやすい。

 焦らなくてもいい。
 お前の習得した技は、これから長く戦い続けるためにあるのだから」

 シグルトのゆっくりした声には、深い含みがあった。
 
「いい機会だ。
 戦いでも依頼でもないが、二人とも暇潰しに明日は俺に付き合え。

 学んでほしいことがある。
 
 仕事に関してはそれが終わってから考えてくれ。
 …構わないな?」

 続けて、ロマンの瞳を見つめて問いかける。

(シグルトは、必要でないと思ったことは言葉にしない。

 僕たちに学んでほしいこと?
 知的好奇心が刺激されるね。

 いったいなんだろう?)
 
 暇潰しに誘う、という行動自体が稀なリーダーだ。
 休日は各自のプライベートを重んじてくれるし、拘束もしない。

 ロマンとラムーナは、珍しいシグルトの誘いに、一も二も無く頷いた。


 次の日、シグルトが二人を連れて訪れたのは、鎧や盾を扱う『防具屋』であった。

 港があり、交易の要所にもあるアレトゥーザにも、武具を扱う店は多い。
 魔法の品のような特別な品は無いが、堅実な品物を揃えた老舗である。

「ロマン、お前はこういう店にはなかなか縁がないだろう?

 使わなくても、防具については戦いや依頼のために知っておく必要がある。
 特に、護衛の依頼や拠点防衛、討伐の依頼に関してはな。

 賢者という職業は、自分に関係ないことに対して疎い知識もある。
 脳筋の連中が扱う防具のことなど、歴史や流通に関してぐらいしかわからないのではないか?

 知ってみると、びっくりすることが沢山あるはずだ。
 まずは先入観を取っ払ったつもりで聞いてほしい」

 そう言うと、シグルトは試着用の鎧を手に取った。

「防具は、身を護るために装備するものだ。
 では、それはただ着て身を守ることか?

 そうではない。
 〈使用して身を護る利器〉だ。

 防具は道具であり、ただ身に着けて殺傷力を低下させるのではなく、能動的に使って身を護る。
 鎧を着ていながら〈使わない〉のでは、その効用が半減する。

 より防具の頑丈な部分で受け、あるいは阻み、生身では絶対できない〈受け身〉をとる。
 時には攻撃用の武器に使い、時には自分の扱う武器にぶつけたり添えて効果的に扱う。

 防具を装備していない者は、それだけできる選択肢が減る。
 無論、重いし手入れに手間がかかるし消耗して金もかかる上、身を拘束したりとデメリットもあるのだが…

 扱い方を知っていれば敵の弱点を探すときにも役立ち、自分の防衛のために応用できる技術も多数ある。

 守ってもらうことが多い立場だと、防御のやり方が疎かになり、だからこそ狙われることになるんだ。
 これから集団戦が増えれば、【眠りの雲】を使えるお前は敵の脅威だ。魔術が使えると敵に知れた途端、真っ先狙われるようになるだろう。
 その時に、お前自身が身を守る手段を持たなければ、そこから仲間の連携が崩れる。

 だからまず、防具を見て、その使い方を学んで、自分なりの防衛術を考えておくんだ。
 
 主人、材質は何か、どんな種類があるか、どれぐらい重くてどんな場所で扱い難いか、ロマンの質問に答えてほしい。
 こいつは見聞きすれば、それから本質を知ることができる。
 そこから、俺の言いたいことを学び取ってくれるはずだ」

 最初『防具屋』という自分には関係なさそうな場所に連れてこられて鼻白んでいたロマンだったが、シグルトが前振りで語ってくれた言葉を聞いて考えを改めた。
 彼の言う防具と防御の扱い方とは、立派な〈知識〉である。
 さすがだとも思った…普通のパーティで戦士が魔術師に防具の講釈を行うことなどまずありえないからだ。
 昨日聞いた、〈死にやすさ〉の対策そのものでもある。

 魔術師が冒険者になれば、生存術の基本として防御手段は重要だ。
 シグルトは、狙われやすい子供で魔術師という立場のロマンに危機感を持たせ、現状で必要な防御手段を考えさせ、同時に知的好奇心まで満足させるという高度な教導をやってみせたのである。

 後にシグルトは、自分の学んだ知識や技術を求める後輩に教導するようになるのだが、その人間の立場や視野に合わせて例え話や必要性を説き、必要性を喚起させて学ぶための興味と集中力を発揮させることをよく行うようになる。
 分かり易く面白いと評判になるのだが、まだ先のことであった。

 閑話休題。

 シグルトは次にラムーナを連れて盾を扱っている棚に移動する。

「舞踏家は身動きを拘束する重い鎧とは相性が悪いだろう。
 柔軟で丈夫な魔法の糸を編み込んだ特別な戦闘服なども、噂にはあると聞くが、まだ駆け出しの俺たちには手が届かない。

 必然的にラムーナにあっていると思ったのは、この盾だ」

 金属製の小さな盾を商品棚から取り出すと、シグルトはその中央にある丸いカップを指さした。

「これは【バックラー】と言ってな。
 この握り部分の半円カップが【ボス】と言って、この言葉が使われた地方の【Bocle】や【Boucle】にちなんでバックラーと呼ばれるようになった、なんて話がある。

 盾とは身を護るために使うものだが、これは攻撃にも活用できる。
 このカップ部分で殴りつけたり、縁の金属部分を叩きつけて使えば立派な鈍器になるはずだ。

 ラムーナは蹴りや肘を使った格闘の技を戦いの流れに取り入れていただろう?

 この盾の先祖になる円形小盾を使った体術は昔人気があったが、喧嘩で多用されて為政者が嫌って習うのを制限したり、この盾の名称の【バックラー】が暴漢という意味合いで使われている書物もある。
 傭兵や冒険者だけではなく、山賊や盗賊野も愛用されていたということなんだが、それだけ扱いやすい武具だったんだ。

 これから防具を持った敵や、鱗の頑丈なモンスターを相手に素手での攻撃をするのは怪我の原因になる。
 
 この盾の特徴はカップの裏側に拳で握れる程度の取っ手がついていて、工夫すれば革のスリングをつけて背負うこともできる。

 金属製だが、機動性を損なわないために軽戦士でも使えるように軽い構造になっている。
 耐久力は矢を遮蔽できる中型以上の盾に比べればささやかなものだが、子供や女性でも問題なく使えるはずだ。
 これに比べて、料理人の使う鉄鍋の方がよほど重い。

 そして、この盾の最大の特徴は、敵の攻撃を殴りつけて威力を低下させたり逸らす〈能動的防御〉にある。
 扱いの基本は〈身体よりも小さいこの盾で、全身を覆う〉だ。
 正面に突き出して敵の攻撃線をいつでも遮蔽できる、弓を引き絞ったような構えで、利き手の武器は縦横自在に飛ぶ近距離専用の矢のように意識する。
 その身体と培った技が弦がわりだ。

 盾に敵の攻撃を見せるように遮れば、攻撃は弾かれ、流され、阻まれる。
 これより大型の盾は受け止めるんだが、この盾は〈逸らす、受け流す〉ために角度を用いた防御が大切で、回避の補助にするのが理想だ。
 矢のように突き出して攻撃を殴れば、最大の威力を発揮する前に撃ち落とせる。

 敵の攻撃に備えれば打撃力を軽減できるし、呪文による攻撃や眠りの雲のようなものまで弾き遮蔽して、効果を緩和することもできるだろう。

 軽戦士の武器は軽いものが多い。
 今使っている小剣(ショートソード)は、剣舞で使うのには向いているがあまり武器を受けられないだろう?

 受けに関する動作を盾に割けば、カウンターで斬撃や突きも出しやすくなる。
 二刀流という手もあるんだが、ラムーナは右利きだったな?
 片手武器を使うなら、逆手で重し代わりに持つとバランスがとれるぞ。
 その上で跳躍や走駆を妨げないぎりぎりの重さやサイズだ。
 
 バックラーは小さいから扱うには小器用さも必要なんだが、お前は身体能力に優れていて相性は良い。

 お前の良さでもあり悪さでもある大胆さは、防御を疎かにしがちだ。
 迷い無く吶喊できる速さで敵に先んじれば優位にも立てるが、ゴブリンや狼のような自分と同程度か小さい体格の敵とぶつかり合うのであれば軽い打ち身で済むとしても、ガタイの良い相手が出てきたら必ず圧し負ける

 武器の重量で自重を少し増やし、体当たりをしても平気な堅牢なる当たり部分に活用して、体力面を補える点もこいつの強みだ」

 シグルトはラムーナに分かり易いように、細かく利点を挙げて振り方や扱い方を教える。
 目を輝かせて聞いていいたラムーナだが、値札を見てショックを受けたように硬直した。

「これ、銀貨四百枚もするよ…他のも高いし。
 あ、この木のやつなら私の手持ちでも買えるかな?

 防具って高価なんだねぇ」

 並んだ商品の一つ一つがちょっとした技能書より高いことに、ラムーナはちょっぴり及び腰である。
 不意に思い出すのは目を三角にして怒るレベッカだ。

 手に取った一番安い木製のバックラーは銀貨五十枚。

「木製のはやめておいた方がいい。
 軽くて扱いやすいし安価ではあるが、すぐ壊れて使い物にならなくなる。

 金属製なら金属部分を打ち直して歪みを均してもらえば長く使えるし、攻撃を食い止める防御性能も優秀だぞ。

 安価な品物にはそれなりの理由があるものだ。
 〈安い買い物は財布からお金を引き出す(Bon marche tire l'argent de la bourse.)〉という先人の言葉に従えば、今金を使っても良いものを買うべきだ。

 今回は俺の話に付き合わせたのだから、この盾には俺が金を出そう。
 ロマンにも何か奢るべきなのだろうが、あっちは思った以上に得るものがあったようだからな」

 シグルトの視線が眺める先を見れば、興奮したようにロマンが店主を質問攻めにしていた。
 子供に防具のことを語るのが好ましいのが、主人もまんざらではない様子だ。

「私は、やっぱりいいよ。

 シグルトこそ防具を買わないの?
 戦いで一番攻撃が来るのは、リーダーで戦闘指揮を担当してる方も同じだよ?」

 〈欲しがりはいけない〉という気質を持つラムーナは、金を使うことに遠慮をする。
 献身的な姉が無理をして自分を救ってくれ、家族のために無茶をさせられた姉は死んでしまった。そのことが心的外傷になっているのだ。
 まして、先日技能を学ぶために貴重な資金を出してもらったばかりである。

「確かに、俺も軽量の鎧か鎖帷子、あるいは籠手のような物がほしいとは思っている。
 革製ではなく金属の奴だ。
 だが、俺の今の手持ちでは少々及ばなくてな。

 実はお前たちと別れてからやった仕事で、結構な額を稼ぐことができた。俺が持っている金はその時の分け前と自分で稼いだ分のあまりなんだが…
 俺の防具の方は額がもっと大きいから、レベッカと合流してから相談しよう。

 お前が心配しなくても、俺は防御のやり方は心得ているし、旅先で得た新しい力もある。
 その新しい力に関して、ジンクス程度なんだが…普通の鉄製の鎧とは相性が悪い。
 両手で剣を振るうタイプの俺は、盾の方は常用として装備することには向いていないから、そっちも保留だ。

 お前に盾を勧めるのは、戦闘指揮担当としての俺の要望でもある。
 同じ前衛として、ラムーナに防御力を強化して貰えば俺の負担が減るからだ。

 ちゃんと考えて、必要だと思って金を出すわけだから、遠慮はするな」

 ラムーナは「それなら」とシグルトの厚意を受けることにする。

 誠実な性格のシグルトは、本当にそう思った言葉を口にする。
 仲間に対して配慮もするが、実利を踏まえて「必要だから」と彼が言った場合、深い配慮がされていることを、"風を纏う者"の誰しもが知っていた。

 生まれから卑屈にならざるを得なかったラムーナは、ずっと遠慮をしてきた。
 自分が役立たずになることがとても怖かった。そう断じられて親に捨てられたから。

 シグルトは、生きる術を示し与えて役を振り、ラムーナのそういった不安を払拭してくれる。

 シグルトが鉄製の鎧を避けているのは、最近習得した精霊術への配慮からだ。
 精霊は嗜好として鉄を嫌う。鉄の精霊は魔力や他の精霊を食らうと言われ、妖精の悪戯を避けるまじないや魔除けに使われていた。

 トリアムールならば気にはしないだろうし、精霊術を振るえるほどの絆ができた精霊はその程度で術者を見限ったりはしないだろう。
 それでもこだわるのは、配慮を尽くすのが自分に力を貸してくれる精霊への礼節だと思っているからだ。

 自然から転じて生まれた精霊は、何気ない純粋な気配や気遣いに敏感である。
 レナータが「精霊たちを強く惹き付ける」と評価したが、精霊に向ける好意や感性が備わっていてそれに精霊が共感を示してくれるのも、シグルトの目に見えない才能だ。

 悪意や無遠慮な態度は人間同士でも感じ合うもの。
 人間の想念や信仰の影響を受け、長い年月をかけて生まれた精霊は、より精神性が強く、それ故に感情に敏感だ。

 深い慈愛と、疑い無く役目を委任し、決定の責任から逃げない強い信頼。
 彼が持つ強さでも美しさでも知恵でもない…自然に内から溢れる高潔な精神と情愛こそが、後に彼が〈英雄の気質〉と評価される根本であった。

「ねぇシグルト、あれは?
 高価な鎧の中でもとっても安いよ!」

 バックラーを購入することに決め、店主に品物を差し出す途中で見かけた表面積がとても小さい鎧を、ラムーナが指差す。
 ロマンがそれを何気なく確認し、瞬時に頬を赤く染めた。

「ああ、あれか。

 やめておいた方がいい」

 シグルトはちらりと見てから、論外という風に首を横に振った。
 盾を受け取った店の主人が、何とも残念そうに舌打ちする。

「どうして?
 私みたいな軽戦士の人がよく着けてるよ。

 じゅようがあるなら、何か意味があるんだよね?」

 購入を決めた金属盾の半額の値段である。
 特に、ごく軽装の女戦士が好んで身に着けているのを見かけた。
 素肌に直接つけて、胸部だけを覆うのに使っている。
 動きやすそうなので見かける度、気にはなっていたのだ。

「…あれはな、ラムーナ。
 色仕掛けをするための鎧だ。

 女性が際どい服装をしていると、一部の男は感情を乱される時がある。

 そういう〈女の武器〉を使うというのも、戦術ではあるのだろうが…防具としての守備力は着けるだけ無駄かもしれん。
 お前が〈女の武器〉の使い方を学ぶとしたらレベッカが適任だろうが、たぶんあいつなら"まだ早い"と言うだろう。

 あんな薄い鎧を使って防御するぐらいなら、最初から攻撃を避けたほうが良い」

 ラムーナが手に持った【乳鎧】について、きちんと説明してくれた。聞かれたことは誤魔化さないあたり、実にシグルトらしい。
 その目は何故か「絶対に止めろ!」と無言の圧力を発しているが。

 異様な目力に、ちょっとだけラムーナは引いた。

 ロマンは何かを想像したのか、頭から湯気を立てたように真っ赤になって鼻の頭を押さえている。

 店主は盛大に溜息を吐いた…「男の浪漫なのに」とぼそりと呟いて。

「そう?じゃあ、やめるね…」

 賢明なラムーナは自分の好奇心を押し殺し、薄っぺらい鎧をそっと商品棚に戻すのだった。


⇒『防具屋』の続きを読む
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Y字の交差路


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『Guillotine』

2018.05.18(23:54) 446

 このシナリオは15禁です。
 
 このリプレイも基準に従って15歳未満は閲覧禁止とさせて頂きます。
 
 グロテスクでダークな描写があります。
 憂鬱になりそうな内容もあります。
 
 条件を満たす方で、続きを読む場合は、各自の責任でお読み下さいね。

⇒『Guillotine』の続きを読む

Y字の交差路


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『魂の色』

2018.05.17(19:36) 445

 男は動けずに倒れていた。
 
 眼前には、薄気味悪い黒衣の女。
 唇とそれを舐める舌だけが、やけに紅い。
 
 近寄ってくる女は、艶めかしく、そしてとてつもなく恐ろしかった。
 だが、絶望した男にとって、もうどうでもよいことだった。
 
 妹同様だった少女は、暴行を受けて自殺した。
 親友は、全身を切り刻まれて死んだ。
 父は、男の身代わりに復讐されて殺された。
 母と妹は、父の死を嘆き修道院に入った。
 最愛の女性は、男の元を去った。
 
 今残っているのは、痩せ衰えてまともに立つことも出来ない身体が一つ。
 
「うふふっ、美味しそうね。
 
 神々が見いだし、鍛えられた鋼のような魂が、絶望に曇るその姿。
 それでも世を憎まない、貴方の気高さ。
 美しい存在が、堕ちて地に伏すこの不条理。
 
 ああ…唾を飲み、熟すのを待った甲斐があったわ」
 
 歪に女は笑う。
 その手にはどす黒い、血に濡れたような色艶の凶悪な大鎌。
 
「でも、もう少し調味料を加えましょう。
 
 …知っていた?
 
 貴方の影を囓って貶めたのは、この私。
 あの矮小な男の欲望を強め、そそのかしたのはこの私。
 復讐を耳元で囁き、貴方の父を殺させたのもこの私。
 王の嫉妬を駆り立て、貴方の庇護者たる姫君を幽閉させたのもこの私。
 
 うふふ、今目を見開いたわね?

 何て、何て綺麗。 
 高潔なその魂が、驚きと憎しみに黒くなるその瞬間。
 
 …私が憎いでしょう?
 貴方から全てを奪う、この私が。
 
 だって、私は“貪り”。
 貪欲の化身たる、死神ですもの。
 
 神と精霊に祝福された貴方から、奪い尽くすのは楽しかったわ。
 人々に愛される美しい貴方を、穢すのは心地好かったわ。
 
 選ばれた希少な存在を握り潰す、この背徳。
 ああ、たまらない…」
 
 歓喜に身を震わせ、女は地を滑るように近づいて来る。
 
「もっと私を憎んで、その魂を昂ぶらせて。
 
 貴方は綺麗なのに、今は滑稽で何て無様。
 
 この理不尽に嘆きながら、私に食べられてね。
 足掻いて貰わなければ、躍り食いにならないもの。
 喉の奥で、貴方の抗いを感じるのが楽しみだわ。
 
 …うふふ、その絶望と苦しみは終わらないのよ。
 私に食べられて、永遠になるの。
 
 貴方は私の中で、絶望にのたうちまわりながら、嘆き続ける。
 狂ったまま、美しい声で叫ぶのでしょう。
 
 囓った貴方の影は、希望に満ちていて青臭かったわ。
 甘い絶望に熟した今度は、残さずに食べてあげる。
 
 あら、泣いているの?
 
 とっても、素敵…悔しいのね?
 貴方、本当に美味しそうだわ」
 
 女は男の顎をつまみ、ぐいと上向かせる。
 真っ赤な長い舌で、また舌なめずりし、歯を剥いて嘲笑った。
 
 男は怒りに狂いそうになりながら、女を掴んで殴ろうとした。
 そして空しく空を掴む。
 よろよろと振るった拳が、女の顔に触れそうになって、すり抜けた。
 
 それを見た女はことさら楽しそうに、耳障りな声で甲高く嗤う。
 
 何も出来ない歯痒さに、男は地に伏し、大声で泣いた。


「…ょ、勇者よ、起きて下さい!」

 呼び声によってもたらされた唐突な覚醒に、シグルトは目を瞬いた。

 眼前には白銀に輝く甲冑姿の、見目麗しい女騎士が立っている。
 羽根飾りのついた面の無い兜、籠手と履いた鉄靴には精緻な模様が描かれ、纏った純白の外套が揺らぐ度に全身が七色の光を放っていた。

「―――お前は…死神か?」

 問うたシグルトに、その女は白銀の兜を脱ぐと、雪のような白髪を払って一礼した。

「さすがは、神々と精霊に祝福されし英傑殿。
 目前の神秘に畏れぬ豪胆は誉とするべきでしょう。

 ですが単純に〈死神か〉と問われれば、否とお答え致します。

 わたくしの名はスナーフヴィート。
 死者の魂を選定する乙女たち、ヴァルキュリユルの一柱です。

 勇者様はまだ死んではおりません。
 輝かしいその魂をヴァルハラにお連れできるのであれば何よりですが、気高いあなた様はそれを良しとはなされないでしょう」

 甲冑女の慇懃な喋り方に、シグルトが渋い茶を一気飲みでもしたように眉を顰める。
 スナーフヴィートは嫣然と微笑んで「お気に障りましたらお許しください」と再度頭を下げた。

「では、この状況は一体どういうことなのだ?」

 シグルトが聞き返すと、スナーフヴィートは芝居がかった態度で指を一本突き出した。

「現在勇者様は、所謂仮死状態…あの世とこの世の狭間にいらっしゃる状態です。
 本当は、適当な方を探し、椅子でも引き抜いてこの状態にしようと思っていたのですが、勇者様は寝た状態からここに入り込んだ御様子。
 手間が省けました。

 勇者様は途方も無く〈死〉に近いのです。

 今は野宿のために入った廃屋の中で、死んだように眠っています」

 ヴァルキュリア…戦乙女がその艶めかしい薔薇色の唇から、現状を語る。
 
「ならば、この闇の世界はあの世とこの世の狭間…〈幽世(かくりよ)〉か?」
 
 戦乙女が頷いた。
 
 〈幽世〉とは、異界と現実世界の混じり合う境だという。
 狭くは〈妖精界〉や〈隠れ里〉とも呼ばれ、そこは時も死も混沌とした場所である。
 死者の魂が彷徨い、神霊が住処とする、現実の世界と少しずれた場所。
 
 精霊や神霊は〈幽世〉に住み、〈幽世〉の存在だからこそ、普通には触れられず、見ることが出来ない。
 精霊を召喚する術法は、〈幽世〉に干渉する手段を用いて、現世にその力を顕現、召喚するのだ。
 
 死者もまた、己の信じる世界、あるいはその者を求める力に引き寄せられ、〈幽世〉を通って死後の世界に逝くという。
 〈幽世〉から漏れ出した彷徨える死者は、不死者(アンデッド)である。
 そして、現実世界と冥界との狭間である〈幽世〉を彷徨う霊魂は、幽霊(ゴースト)と呼ばれる。
 
 唯一神の世界から〈幽世〉を通って現れた御使いは、聖霊にして使徒。
 堕ちた奈落から〈幽世〉を通って這いずり出でたのは、悪霊にして悪魔。
 魔に淀んだ場所からは、〈幽世〉を通って魔神や鬼の類が現れるという。
 
 そこは夢想と、現実が混じり合った狭間の世界。
 あり得ないものがあり、あり得ないことが起きる神秘と現実の緩衝地帯。 
 
 シグルトは、昔学んだ老婆から、そう教えられていた。 
 
 
「実は、わたくしの仕事を手伝って戴きたいのです…」
 
 この丁寧な口調の戦乙女がシグルトに干渉してきたのは、彼女では解決できない問題を抱えていたからである。
 自分が死んだわけではない、と知ったシグルトは少し安堵した表情になる。
 そして、まずは話を聞こう、と切り出した。
 
 急ぐから、という戦乙女は移動しながら話すというので、シグルトは彼と一緒に空を飛ぶこととなった。
  
 千里の道を一晩で駆ける、という飛翔術だった。
 急に目の前が開け、先ほどの闇とは打って変わった景色を見下ろす形となる。
 眼前に見下ろす山や森を、瞬く間に飛び越す感触に驚きながら、シグルトと戦乙女は簡単に互いの自己紹介を済ませた。
 
「…わたくしは生前人間でした。
 
 〈戦乙女〉になる者は、生前とは違う名を名乗ります。
 スナーフヴィートはこの姿から先達がつけて下さった名。

 ただ、長くて呼び難いのでしたら…わたくしたちヴァルキュリユルがとる仮の姿の一つ…スヴァン(白鳥)とでもお呼びください。

 多忙な他のヴァルキュリユルに遭遇することも無いでしょうから」
 
 シグルトは、ふむと頷くと、自分も名を名乗った。
 
「…さっきからどうにも不可思議な気分です。
 
 勇者様…シグルト様は、驚きも恐れもしませんが、わたくしたちのことを御存じなのですか?」
 
 戦乙女の問いに、シグルトは「多少な…」と苦笑した。
 
「昔、死神に命を狙われたことがある。
 お前ほど御丁寧ではなかったが、そいつは邪悪だった。
 
 “貪り”と名乗っていたが…」
 
 戦乙女の持っていた兜がぽろりと落ちた。
 大口を開いて、驚いたらしい。
 
「…あまりにとんでもない名をお出しになるから、驚いて兜を落としてしまったではありませんかっ!」
 
 落ちた兜を拾いながら、戦乙女がぶるりと身を震わせた。
 
「“貪り”を知っているのか?」
 
 シグルトが問うと、戦乙女は、ぶんぶんと頷いた。
 
「…名付きの〈死神〉は、大抵大物です。
 なりたての死神はただ【死】と呼ばれるか、番号や記号で呼ばれています。

 私たちヴァルキュリユルが戦場や戦死者…冒険者などの戦う者たち専門の死神のようなものだとすれば、彼らは寿命や事故によって亡くなる人間の刈り手。
 
 中でも七つの大罪の一つ、〈暴食(フレッセライ)〉…“大食らい”あるいは“貪り”って呼ばれてる女の死神は、生まれた時からの生粋の死の神。
 わたくしたちのような、元人間とは次元が違います。
 冥府の神であるプルートーなどに迫る、恐るべき者たち。
 死をもたらす神…古龍や上位精霊と肩を並べるような存在です。
 
 “貪り”は、英雄や聖人の素質のある者に過剰な試練を与えて成長を促し、最後には破滅させて、その魂を食らう邪神の類。
 狂って普通ではなくなった死神の、中でも一番逸脱した者の一柱。
 姿を見られた人間は、魂を食われる…
 有名な英雄や聖人を殺すのに、人間に名前が知られてないのは、この死神に遭遇して生きてた人間が少ないからなのですよ。
 
 勇者様、よく生き延びましたね…今は仮死状態の御様子ですが」
 
 驚かないわけだ、と感心する戦乙女。
 
「俺も食われかけていたんだがな。
 灰色の髪の男が現れて、その死神を殺したおかげで助かった。
 
 “貪り”がその男を見て、随分狼狽していた。
 “神狩りの灰”と呼んでいたが、死神にも死神がいるのか?」
 
 戦乙女が、再び兜を落とした。
 
「―――あっ、羽根飾りが!
 
 …もう、なんて名前を出すんですか!
  
 勇者様はとんでもない存在に関わり過ぎです!
 “神狩りの灰”といえば、邪神や魔神のような、手の付けようの無い理不尽を振り撒く悪神を専門に殺す〈神殺し〉ではないですかっ!
 
 ぶるり…道を誤り、摂理から外れて殺戮をする〈神〉は、因果律すら両断する、あの〈神殺し〉に狩られるという話です。
 わたくしは摂理に従って亡くなった勇者様をヴァルハラに導く、極まっとうな戦乙女。
 
 存在まで消し去る〈神殺し〉に殺し尽くされるなんで、考えただけで恐ろしい。
 …彼、ここにひょっこり現れたりしませんよね?」
 
 怯える戦乙女…完全に本来の構図が逆転している。
 
「―――“神狩りの灰”は、精霊や神と名の付く輩にとって忌み名なのです。
 
 暴風のように現れて、自分の主観だけで判断して神や精霊、悪魔を殺し尽くす。
 そのためには何が犠牲になろうと構わない…という。
 
 “神狩りの灰”が都市一つを囮にして、満腹した邪神を不意討ちで殺した話もあります。
 
 勇者様、あのような存在と関わってよく、平気な顔してられますね…」
 
 恐怖に震え甲冑を鳴らす戦乙女に、シグルトは少し昔を思い出した。
 脳裏に、燻るような色あせた記憶が次々と呼び起こされる。
  
 かつてシグルトは、国の次世代を背負うと期待された若者だった。
 
 王国一の剣豪と呼ばれた騎士を父に。
 絶世の美女と謳われた、王家縁の名門貴族に生まれた女性を母に持つ。
 
 数多くの専門家から学ぶ機会を得、力も心も技も備えていたシグルトの未来は、輝いたものになるはずだった。
 
 だがシグルトの生は、恐ろしい〈死神〉によって歪められてしまった。
 シグルトは、“貪り”の暗躍によって破滅寸前まで追い詰められたのだ。
 
 神々に祝福されたシグルトは、常人に無い魂の持ち主だった。
 その魂を欲した“貪り”は、最も彼女が好む破滅して絶望した魂に、シグルトを堕として食らおうとした。
  
 “貪り”は、ただシグルトの魂を破滅させることを純粋に楽しんでいた。
 
 あれほど歪み邪な存在を、シグルトは後にも先にも見たことが無い。
 剛胆と言われるシグルトだが、斯様な理不尽に出遭えば、他にある大概のことは恐ろしくなくなるものだ。
 
 自分を見下ろして舌なめずりをしていた黒衣の女を思い出し、シグルトもぶるりと肩を震わせた。
 
 次々に自分の大切にしていた世界が壊れ、毟り取られていく喪失感。
 最初は、ただ自身が至らないのだと唇を噛みしめていた。
 降りかかる不幸は、運命なのだと。
 
 自身の不甲斐無さを恥じ、嘆くしか出来なかった。
 無力感に打ちのめされ、惨めに涙を流した。
 
 シグルトの不幸は仕組まれていた。
 おぞましい、女の死神によって。
 
 自慢げに、いかにしてシグルトから幸せを奪ったか、とうとうと話す“貪り”。
 シグルトに悪意を持つ貴族をそそのかし、支援者の妨害を行って、友人の兄妹が破滅するよう仕組んでシグルトを誘き出した、と。

 全てを奪われた憎しみから、シグルトは“貪り”に殴りかかった。
 
 肉体もぼろぼろだったが、それでもシグルトは狂ったように拳を振るい…そしてかすることも出来なかった。
 超常の存在であるその死に神には、人が触れることなど出来なかったのだ。
 
 自身の無力さに、シグルトは恥も外聞もなく泣き叫んだ。
 
 あの時感じた、地獄の底を覗いたような絶望。
 
 シグルトが今の若さで老人のように泰然としていられる理由は、“貪り”に与えられた恐怖と憤怒があまりに強かったためだ。
 人間は、どうしようもない理不尽に心を裂かれ、立ち直ることができた時にはとてつもない心の強さを得る。
 その奥底に、深い闇を抱えることにもなるのだが。
 
 過去という逃げられない鎖に縛られ、後悔という古傷の痛みに心の中で難度も慟哭し、それでも今生きいる。
 もう一つの理不尽を見たからだ。
 
 シグルトが絶望に嘆いていた時、彼は現れた。

 灰色の髪に、酷薄な表情。
 全ての理不尽を憎み、それを壊す歓喜に壮絶な笑みを浮かべていたその男。
 
 男は、狼狽する“貪り”をあまりにあっけなくその剣で切り裂いた。
 
 シグルトが為す術もなかった相手を容易く殺した男は、シグルトを見下ろし冷笑した。
 
〝…まだ生きていやがるのか?
 
 死にかけの人間なんぞに関わる気はねぇんだが…
 お前は、あの大物を誘き出すための好い囮になってくれたからな。
 
 死にたいなら、言え。
 ついでに殺してやるぞ…〟
 
 シグルトはその言葉を聞いて、狂ったように殴りかかった。
 ただ目の前にある理不尽な存在が全て憎かった。
 この男には、復讐するべき相手すら奪われてしまったからだ。
 
 男は手足の不調でよろめきながら振るわれた拳を、避けもせず顔に受けると、邪魔な虫でも払うかのようにシグルトを殴り飛ばした。
 口の端から血を流し、吹き飛ばされる感覚。
 意識がぐらり、と反転しかかる。
 
 地に倒れ鼻血に咽せて咳き込むシグルトに、男は冷たい声で言った。
 
〝殴りかかる気概ぐらいは残っていやがるのか。
 血がそんなにも赤い…どうしようもなく無力な人間のくせに。

 この期に及んで生きる死ぬも選べないお前は、俺と同じ穴の狢だ。
 
 理不尽が憎いなら、自分で立て。
 そして人間をやめて復讐するんだな。
 
 少なくとも、何かをやってる間は、失った空しさを忘れられるぜ〟
 
 男はそう言い残し、シグルトを置き去りにして去っていった。
 
「―――“神狩りの灰”は、悪魔の王が戯れに人間を孕ませて生まれた半悪魔。
 子供の頃から不幸と理不尽に振り回されて、最後には理不尽の全てに復讐するために、〈神殺し〉になったという話です。
 
 世の中、どうしようもない理不尽が生まれれば、それを殺せる理不尽が生まれるのですから、不思議ですね。
 
 “神狩りの灰”のおかげで、理不尽によって犠牲になる人間は減ったのですが、彼のやり方もまた理不尽です。
 目的のために、手段は選ばないのですから。
 
 わたくしたち神霊にとって、触れてはならない禁忌の存在。
 “神狩りの灰”は、殺せないはずのものを殺す存在です。
 
 御安心くださいね。
 わたくしはあのような理不尽ではありませんから。

 ―――お話を戻しましょうか。

 これから、『ロダン』という村に行って、アーリ…この地ではエーグルと名乗っている男性の魂を、父祖の契約に基づいて刈り取るのがわたくしの仕事です。
 エーグルは昔受けた戦傷から、死の床にあるのですが、大きな悩みごとがあるために死ねないでいます。
 〝それが解決するまで待ってくれ〟と申していまして。

 この世に未練や気掛かりを残したまま死ぬと、魂の緒が刈り難くなります。
 中途半端に刈られた魂は、あの世に行けずに彷徨って、最悪〈不死者(アンデッド)〉に堕ちてしまうのです。

 彼は優れた武人でしたから〈亡霊騎士(アンデッドナイト)〉あたりでしょうか。
 そういった上位アンデッドが一体出現すれば、ロダンのように小さな村は壊滅してしまいます。
 仮に、勇者様のような英傑が倒したとして…滅ぼされたアンデッドの魂は、救われることもあの世に逝くことも出来ずに消滅してしまいます。

 英雄の魂をヴァルハラに導くのがわたくしたちの使命。
 誇り高い死を迎えさせてあげられるように、力を貸していただけませんか?」

 白い戦乙女は、熱心に語った。
 
「なるほど。
 
 俺の役目は、その男の悩みを解決するということか」
 
 シグルトに、頷き戦乙女が続けようとすると、別の方から声がかかる。

「その悩みってのは、娘の結婚相手を見つけることだそうだ。

 血生臭い戦場の専門の戦乙女が出る幕じゃないってな」

 暗闇から湧き出るように現れたのは、典型的な外套に髑髏姿の死神。

「…出ましたね、骨風情が!」

 穏やかに話していた戦乙女の眉が急激につり上がり、死神を睨みつける。
 不倶戴天の相手を見つけたように。

「けっ、戦場を飛び回る禿鷲女がっ!
 寿命で死のうとしてる野郎の魂を扱うのは、俺たち死神様の領分だぜ。

 事故死専門の糞鴉と一緒に、キーレでも飛び回ってりゃいいんだ」

 現れた死神も負けてはいない。
 髑髏の顎が激しく噛み合い、ガツガツと音を立てていた。
 
「エーグルは戦場で受けた戦傷が元で命を落とす勇者。
 寿命と言って魂を刈り取り、人を殺した者たちに同じ死神をさせる事で罪滅ぼしとやらを強制する白骨など、お呼びではありません。

 勇猛に戦った戦士には、ヴァルハラこそが相応しいのです」

 ぐぬぬ、と向かい合う戦乙女と死神に、シグルトは呆れたように肩をすくめた。
 どうやら縄張り争いというやつらしい。

「死んだ後の行き先は、本人に決めさせればいいだろう。
 醜い言い争いをする時間があったら、当人の問題を解決するのに使うべきだ。

 双方、それでいいな?」

 シグルトの正論に、戦乙女と死神は「ごもっとも」とばかりにあっさり争いをやめた。


「で、死神の方…俺はシグルトというのだが、お前は?」

 言い争いを調停したシグルトは、髑髏面の死神に尋ねた。

「おう、俺は死神でいいぜ。
 オレたちは名付の大物でもない限りは記号や数字で呼ばれるんだ。
 【110-105】なんて呼び難いだろ?

 ま、俺のお仕事もエーグルって男の魂が目的だ。

 安らかな臨終を迎えるように、あと万一あの男がアンデッド化した場合は同輩を呼んで始末をつけるようにな。
 見てる限り、荒事の必要はなさそうな相手なんだけどよ。

 でもあんたが来てくれて助かったぜ。
 
 …何が悲しくて、死神が〈縁結び〉なんかしなくちゃならねぇんだ?
 オレの柄じゃねぇ」
 
 表情の無い髑髏顔を傾けて、死神は大きな溜息を吐いた。
 
「…それは俺も同様だ。
 
 戦士だぞ、俺は。
 妹には、いつも色恋に鈍感だと言われてきたし、な。
 
 確かにお前の顔を考えれば、俺の方が幾分話を聞いてもらえるかもしれないが」
 
 肩を落としてシグルトは苦笑する。
 
 死神は憤慨したように胸を張った。
 
「お前ほど男前じゃねぇが、これでも死ぬ前は結構色男だったんだぜ」
 
 肋の軋む音がちょっと寂しげだった。
 
「…では、何故死神になった?
 
 他に、死後の行き先は無かったのか?」
 
 シグルトは気になったことを、ふと訪ねてみた。
 不意に死後の世界を知りたくなったのだ。
 そして頭をよぎるのは、死んでしまった友や父たちのこと。 
 
「ま、色々あるのさ。
 
 …生前にそれなりの能力を持っていれば、修行期間を経て死神になれる。
 そこの白いのが言ってるように、生前に自衛や生存のため以外の殺しをやってたりすると、オレたちみたいな【刈り手】に選ばれることがあるんだけどな。
 
 死神だけじゃなくて、精霊とか、土地神とかにもなれるみたいだ。
 中には生きてるまま英雄とか勇者って呼ばれるとこまで行って、その先に不老の神仙とか超越存在になっちまう奴もいる。
 思うに、お前はきっとその口だな。
 
 お前は、命がけでとある村を救って、死んだ後土地神になった奴に雰囲気が似てやがる。
 もしかしたら、精霊や神になる素質があるかもしれないぜ。
 
 オレが死神になったのは、生前の職業の…っと、これ以上は秘密だった。
 すまねぇな。
 
 オレは十数年程度だが、数百年死神やってる奴もいる。
 
 ま、あんたが言うみたいに死ぬ前に身の振り方考えるのは、止めといた方がいいぜ。
 大概はロクな死に方にならねぇ。
 
 命は大切に、な…」
 
 シグルトが、そうだな、と頷く頃、『ロダン』の村が見えてきた。
 
 
「…言い忘れてた。
 
 オレたちは生きてる奴らの目には写らねぇ。
 触れることも出来ねぇんだ。
 あと、生きた奴がその身に直接着けた物、服なんかは、生気が移ってるから触れないんだ。
 
 例外として、霊感の強い奴や、死期近づいた人間なんかには姿が見えるし、話も出来る。
 触れる場合もあるな。
 
 その類の霊媒師や精霊術師なんかとは話せるかもしれないが、この村にはそういう奴はいないみたいだな。
 お前は、結構その手の才能があるかもしれないぜ。
 
 ま、つまりは、直接干渉はできねぇんだが…植物や家具、あとは今のオレらみたいな霊的な存在には触れたり話したり出来るんだ。
 
 この村は、浮遊霊とかいねぇから静かなものだぜ。
 
 …っと、あの村外れの建物がエーグルの家だ。
 まずはそいつに会って、話をしよう」
 
 シグルトは死神の言葉に頷くと、死神の指さす家に向かった。

 どうやら戦乙女の方は、自分のセリフを取られてご機嫌斜めのようである。
 兜をかぶって白髪を納めると、鼻から上を隠す鉄仮面をかぶって黙ったままだ。
 
 目的となる家の玄関脇や窓際には、綺麗に手入れされた鉢植が飾られている。
 周囲には爽やかな花の香りが漂っていた。
 
 シグルトは死神にならって家の扉をすり抜ける。
 触れる、と意識しなければ、無機物にも触れられないらしい。
 
 珍妙な感触を確かめながら、シグルトは死神に続いてもう一つの扉をくぐり、その部屋に入った。
 
 窓際のベッドに、やつれた様子の初老の男が横になっている。
 男はすぐにシグルトたちの存在に気付き、上体を起こした。
 
(…隙があるようで、全く無いな。
 人を安心させるために、作られた仕草だ。
 
 柔和に見えて、目つきも鋭い。
 戦士か武人の類だな…)
 
 シグルトは僅かな動作から、その男が一般人ではないと感じた。
 むしろ、常人よりも危険に身を置いている冒険者に近い存在ではないかと推察する。
 
「…こいつがエーグルだ」
 
 死神の言葉に、初老の男…エーグルは少し首を傾げた。
 
「…ほほう、美しい方だ。
 
 そちらの方は、戦乙女殿と死神殿のお仲間かね?」
 
 シグルトは一歩進み出ると、軽く会釈した。
 
「俺はシグルト。
 
 この戦乙女と死神に、貴方の悩みを解決するよう依頼された冒険者だ」
 
 ふぅむ、と感慨深げにエーグルが頷く。
 
「冒険者を雇うとは…
 
 いや、失敬。
 それだけ私の願いが、困難なことだったということですね。
 
 明日をも知れぬ、このような老いぼれのために、とんだ迷惑をかけてしまいました」
 
 礼儀正しく頭を下げるエーグル。
 
 シグルトは、気にするなと言うように、軽く首を振って応えた。
 
「それが俺のすべきことならば、するだけだ。
 
 行いの結果は、自身に返る。
 今ここに俺が居るということは、俺にとっても必要だからだろう」
 
 エーグルは感心したように目を細めた。
 
「これは、頼もしい。
 私も様々な人間を見てきましたが、貴方のような方ならば安心です。
 
 …死神殿から、ある程度の話は聞かれていると思いますが、何からお話ししましょうか」
 
 そしてエーグルは、ぽつりぽつりと話を始めた。
 
 
 要約すればエーグルの願いは、愛娘アネットを託せる、その夫となるものが決まってほしい、というものだった。
 
 エーグルとアネットの親子は、2人きりの家族だ。
 エーグルが死んでしまえば、アネットはただ1人になってしまう。
 
 娘には普通の幸せを、とアネットは言う。
 
「―――アネットは、私の実の娘ではありません。
 
 巫女をしていた妹が引き取って育てていた、長兄の遺児なのです…」
 
 語られたアネットの出生とエーグルの過去は、壮絶なものだった。
 
 エーグルはもともと北方でとある部族の戦士長をしていたという。
 彼の所属していた部族はヴァイキングの流れをくむ海洋民族で、北方の厳しい気候のせいで食料が不足すると周辺部族と戦いながら海賊行為で略奪を行っていた。
 若くして戦士長となった彼は、情け容赦なく人を殺す仕事をいくつもこなしてきたという。
 
 ある秋、飢饉によって略奪行為を行うこととなったが、利を求めて大きな強奪を企てる部族長たちに一族の巫女をしていたエーグルの妹がまったをかけた。
 目標とする小都市には聖北教会の軍隊がいて、確実に敗北すると。

 その言葉を侮辱と取った部族長は、巫女の助言に従わず小都市を攻め敗北して戦死。
 報復によってエーグルの部族のいる集落は滅ぼされた。

 エーグルもよく戦ったが、戦闘中に矢傷を受けて海に転落。
 船の縁で頭を強打して意識を失ってしまった。

 意識を取り戻した時には、集落は破壊されており、女子供のすべてが殺し尽くされた。
 巫女である妹も乱暴狼藉を働いた兵士の耳に食らいつき、槍と剣でめった刺しにされて殺されてしまった。
 虚ろな目のまま敵の耳と血泡を口にして、血溜まりに臥す妹を見て、エーグルは復讐による玉砕を覚悟するが、巫女が薬草をしまう地下の貯蔵庫から聞こえる赤子の泣き声にはっとする。

 妹は、長兄の遺児を命を懸けて守り通したのだ。
 まるでエーグルが来ることが分かっていたかのように、そこにはまとまった財宝、旅のための装備と食料が置かれていた。
 「敵を恨まず、この子を育て、一族の血を残してください」と妹の文字で書かれた木板を発見して、エーグルはその遺言を守ることにしたという。

 その後は開拓村だったロダンまで流れてやってくると、男手一つで娘を育てた。

「その娘こそ、アネットなのです。
 
 私は遺言を守って、彼女を育てました。
 
 最初は部族を守れなかった罪滅ぼしのつもりでした…
 しかし、今では彼女が何より愛おしい。
 
 あの娘は私の宝です。
 だから、彼女には幸せに、普通に暮らしてほしいのです。
 
 海賊の子供であることを知らぬまま、普通の娘としての幸せを謳歌して…」
 
 エーグルの切なる願いを、シグルトは快く請け負った。
 死という理不尽を受け入れながら、愛する娘を想うエーグルを見て、何かしてやりたいと感じたからだ。
 自身もまた多くの理不尽に嘆いてきたからこそ、シグルトは親身になって依頼を受けたのだった。
 
 そして、アネットの後を任せてもよいとエーグルが考える若者のことを聞き出した。
 調べるうちに、アネットがシャルルというパン職人の青年と両想いであることを突き止める。
 
 初々しく話すアネットとシャルルを、シグルトは優しい目で見つめていた。
 
「お前、そんな顔ができるんだな。
 
 その顔を見せりゃ、女なんてイチコロだろうぜ」
 
 冗談めかして死神が言うと、シグルトは少し寂しそうに笑った。
 
「…想い人でない相手に偽りの愛を騙るなど、このまま死んでも御免だ。
 肉欲や番の立場がほしい男ならともかく、俺はそこまで恋愛に耽溺したいとは思わん。
 
 俺もその昔は恋人に愛欲を覚えたこともあるから、男であればそういう見境の無い考えがあるのを否定はせん。
 誰かの心を汚してまで恋をすることに対して嫌悪感はあるが、恋慕の情は簡単に歯止めができるものでは無いし、己の想いだけは自由だからな。
 
 そういう色恋にうつつを抜かすには、いろんなものを失い過ぎてしまった。
 俺は一度、心の底から恋をして、失敗したばかりなんだ。
 
 だが、この2人は幸せになるべきだと思う。
 互いに想い合っているんだ。
 
 俺には出来なかったことだから、なおさらそう思うのかも知れないが」
 
 アネットを見つめながら、シグルトは故郷で別れた恋人のことを思い出していた。
 
「何だお前、ふられたのか?」
 
 死神がからかうように言う。
 
 シグルトは、そんなところだ、と何かを懐かしむように苦笑した。

 話をしながらアネッタを追って村の道を歩いていると、シグルトは嫌な気配を感じてそちらを見た。
 
 少し先行していた戦乙女が、冷たい殺気を漲らせてひとつ頷いた。
 死神も仰ぐように一点を見て、骨の手をぐっと握り締めている。

 ねっとりとしたいくつもの視線が、アネットの背中を見つめていた。
 黒い霞の中にいくつもの顔が浮かび、怨嗟の声を上げている。

"なぜだ、なぜアーリの娘だけが聖北の地で生きている!
 我らを殺し、集落を破壊せしめ、女子供のすべてを根絶やしにした異教の元で!
 なぜ、聖北に復讐せぬ!

 許さぬ!
 許せぬ!
 許すものかっ!

 我らの憎しみ。
 この恨み。

 はらさずでおくべきか!!"

 吹き散らす瘴気が、触れた草花を枯らしていく。
 
「…誇りある死を迎えず、憎悪による復讐に魂を腐らせた死霊たちです。
 わたくしの真の依頼は、あれらの討伐。

 なんて愚かな。
 巫女の神託に逆らって呼び寄せた自業自得の災厄を、敵ではなく同胞の血族に憑いて障るとは。

 あの邪霊たちに、ヴァルハラの扉は決して開かれないでしょう」

 いつの間にかその手に顕現した、白銀の槍を構える戦乙女。

「シグルト…あれが邪な死霊、怨霊ってやつだ。
 この世に恨みでとどまって死や災いを振り撒き、正しい寿命による静謐な死を汚す、オレたち死神の滅ぼすべき怨敵。

 なるほど、戦乙女が出てきたのはこっちの討伐が本命か。
 戦乙女が武装してんのは、人が手を下せないああいった理不尽なものを密かに狩るためだ。

 戦いで死んだ奴らなんて、たいていはあの手のアンデッドになりやがるのさ」

 憤る死神。

"死の乙女だ。
 死の狩り手たちがいる!

 復讐を果たすまで。
 復讐を果たさせるまで。

 まだ往けぬ。
 まだ逝けぬ!"

 戦乙女の威圧に恐れをなして逃げ去ろうとする死霊たち。

 霞のように大地に消えた怨霊を睨み続け、シグルトは一波乱起こりそうな苦い予感を噛みしめていた。
 
 
 数時間後、シグルトたちはエーグル邸に戻っていた。 

「…答えは出たな。
 アネットとシャルルが結婚すれば、ことは解決するはずだ。
 
 だが、シャルルは近日中にリューンに行くかも知れない。
 今の状態でアネットは、エーグルを置いてシャルルについて行くことはあり得ないだろう。
 
 エーグルに2人を呼んでもらい、結婚の話をまとめることが一番無難だな。
 今の俺では、気付いてもらうことさえ困難だ。
 
 明日、早速エーグルに話してみよう」
 
 一日の経過をエーグルに報告した頃には、とっぷりと日が暮れていた。
 
 シグルトは一日アネットや、他の人間たちの動向を観察し、自分からは干渉しなかった。
 いらいらとした様子の死神に、「俺たちが無理に何かをしても話をこじらすだけだ」と取り合わなかった。
 
 むしろシグルトは、別のことを気にしていた。
 昼間現れた怨霊たちがアネットを襲わないよう、戦乙女と見張っていたのだ。
 
「…ああ、もう歯痒いぜ。
 
 話せれば、がば~っとくっつかせるのによっ!」
 
 死神の言葉に、シグルトは首を横に振った。
 
「ことを急くのは分かる。
 あまり時間がないからな。
 
 だが、男と女の恋愛は無理強いして解決することではない。
 
 むしろ、アネットにシャルルという想い人がいたことは幸運だった。
 エーグルとの死別は悲しいことだが、彼女にはシャルルがいる。
 
 2人の努力次第だが、きっと幸せになれるだろう」
 
 そうだな、と死神が頷いた。
 
「やっぱり、アネットの幸せは、好きな男結婚して平和に暮らすことだろうな。
 生きる死ぬの、世界じゃなくてよ。
 
 お前もそう思うだろ?」
 
 死神はシグルトに同意を求めるように、聞いた。
 シグルトは少し考えた様子だったが、また首を横に振った。
 
「人の幸せは、それぞれの人のものだ。
 
 周りの者が騒いだところで、誰かが本人に代われる訳じゃない。
 幸福を金勘定のように計ることも、できはしないんだ。
 
 アネットの幸せは、彼女にしか分からない。
 俺たちには、それがどんなことか想像する程度が関の山さ」
 
 シグルトの言葉に、死に神はカチリと歯を鳴らした。
 言葉を飲み込んだのだろうか?。
 
「…願わくば、エーグルの願いとアネットの幸せが少しでも同じものであるよう、祈るばかりだな。
 
 そうでないと、俺たちではどうしようもない」
 
 頼りねぇなぁとぼやく死神。
 
「俺みたいな唐変木に、色恋の相談をされても困る。
 あっちの戦乙女に聞いた方がいくらかましだぞ。
 故郷でも、女心に疎いとよく言われた口だ。
 
 次に相談する必要ができたのなら、もう少し恋愛巧者を選んでくれ」
 
 ああそうするよ、と死神は歯を鳴らした。
 まるで、苦笑しているようだった。
 
 
 次の日、シグルトは幾分早く目覚めた。
 
「アネットでしたら、村外れに花を摘みにいっております。
 
 いつも欠かさず、家の花を換えてくれるのですよ」
 
 エーグルの顔色は、昨日にもまして悪い。

 彼の受けた矢傷は古く、返しのついた鏃がそのまま体内に残っている。
 鉄の鏃を包むように瘤ができているが、開拓村に来た時の労働と老化による衰えで患部が悪性の腫瘍となり汚染した体液や膿が溜まって、おそらくは瘤が破れて毒素が漏れ出している。
 腎臓が毒でやられて身体がむくみ、近しい心臓も弱くなって筋力が衰え肥大化していた。

 治療には解毒術を使えるものが毒を抜き、癒着した鏃を除去、汚染した肉瘤を外科的に撤去して傷口を洗浄し、悪い風…破傷風を防ぐためにしばらくは解毒を続けなければならない。
 そのためには解毒に通じた水の精霊術師や、解毒術を使える聖職者に頼る必要があるのだが、田舎の開拓村にそのような専門家がいるわけも無く…
 鏃を除こうにも動脈や神経が近くて外科的な処置は難しい上、老化と病で疲弊した身体が手術に耐えられない。

 戦士という職業柄、特に金創に詳しいシグルトの知識からエーグルはどう見て目ても末期の患者だ。
 しかし、愛娘を自慢する彼の様子は誇らしげである。
 
 シグルトはその言葉に頷くと、アネットが活けた白い霞草をしばらく見つめる。
 そして、静かに決意を新たにすると踵を返し、エーグル邸を出て村外れに速足で歩き出す。
 
「おいおい、どうしたんだよ、そんなに急いで…」
 
 追いかけてきた戦乙女と死神に、シグルトは渋い顔で言った。
 
「どうも嫌な予感がするんだ。
 …昨日の怨霊のことが気になって、仕方がない。
 
 未だ何も起きてないことを考えると、無性に、な」
 
 そうだったな、と死神も歩みを早めた。

「昼間はアンデッドの活動が衰えるはずなのですが、昨日は昼間に出現していたのを見ると油断もできませんね。

 戦闘ともなれば、わたくしが【魂魄の槍】で場に縫い付けて攻撃できるように致します。そうしなければ、あの手の怪物には攻撃が届きません。
 多数の怨霊を縫い止める術の使用には集中力を要しますので、わたくしはおそらく戦うことができなくなるでしょう。

 勇者様はわたくしがあれを抑えている間に、全力であの怨霊を打ちのめしてください」

 手に白銀の槍を顕現させ、戦乙女が作戦を告げる。

「なるほど。
 それで俺が必要だったわけか。

 そういう荒事は。俺たち冒険者の得意分野だ。
 普通にこの剣で斬れれば問題ない。

 請け負おう」

 本来霊体となったシグルトは、同格の霊体に対してであれば攻撃が届く。
 ただ姿形があやふやな悪意の集合体である怨霊は、存在を固定しないと攻撃しても霧散するだけなのだ。
 直接殴れるようにする…それは幽世に通じた戦乙女や死神の領分である。

「んじゃ、オレは一緒に殴るぜ。

 怨霊を倒すまでは共闘だ。
 それでいよな?」

 死神の申し出に、戦乙女は「御勝手にどうぞ」と返した。

 
 村外れには岩場があり、アネットが花を摘んでいた。
 彼女の無事な様子に、死神が肋骨を撫で下ろす。
 
「どうやら、無事だな。
 
 だが、あの怨霊が狙うとしたら、絶好の場所だ。
 何か手を打っておきたいが…」
 
 シグルトはざっと周囲を見回すが、岩ばかりである。
 さわさわと、風が草花を揺らしていた。
 
「手を打つって言ってもよ…
 
 周囲を周回してみるか?」
 
 死神の言葉を聞きながら、シグルトは岩場を見上げた。
 ちょっとした崖になっており、すぐに崩れる様子は無かったが、そうなれば危険だろう。
 
「せめて、何か飛び道具…
 
 風だっ、その手があったかっ!!」
 
 シグルトは何かに気がついた様子で、周囲を見る。
 
「ここならば大丈夫だろうな…
 来てくれれば、良いんだが。
 
 《来い…トリアムールっ!!》」
 
 突然何かを呼ぶような言葉を発したシグルトを見て、戦乙女が首を傾げた。
 
「…身体が離れているから、無理か?
 
 でも、霊体には干渉できると聞いていたが」
 
 何を、と死神が言いかけた時、にわかに強い風が吹いてシグルトの周囲を旋風が取り巻いた。
 
「お、おい、何だその風…」
 
 死神が骨だけの指で、旋風を指さす。
 その旋風は、やがてくるくると収束し、少女の姿を取った。
 髪の毛に当たる部分が周囲の景色に溶け込み、身体も透けている。
 
「…ぅわぁぁあんっ、シグルト~!!」
 
 その少女は、急に涙目になると、シグルトにガバッとしがみついた。
 
「…???
 
 なんだ、そのちんまいのは?」
 
 確かに小さい。
 人間で言えば13歳前後ぐらいの外見だが、身体のサイズは人間の3分の2程度だ。
 特徴といえば豪勢な巻き毛で、それが螺旋状にさわさわと渦巻いている。
 
 少女はぐい、と振り向くと、ふわりと浮かび上がって死神を見下ろした。
 
「失礼な骨ねっ!
 
 私は、誇り高き西風の娘っ!!
 この優美な姿を見て、〈ちんまい〉とは何よぅっ、〈ちんまい〉とはっ!!」
 
 柳眉を逆立てていた少女は、すぐにニヘッと相好を崩し、口元に手をやると馬鹿にしたように死神を見下ろした。
 
「…あははっ♪
 
 そっか~、骨だもんね。
 頭空っぽだから、馬鹿なんだ~♪
 
 や~い、骨っ、がらんどう、すっとこどっこいっ♪
 
 隙間風が吹きそうだね、ヒューヒュー♪」
 
 捲し立てる少女に、死神はどうしていいのか分からず、ぽかんとしていた。
 目があったなら、丸くなっていたかも知れない。

 笑いのツボにはまったのか、戦乙女は顔を背けて肩を震わせている。
 
「俺に力を貸してくれる精霊、トリアムールだ。
 
 彼女は、旋風の精霊なんだよ」
 
 シグルトが説明すると、旋風の少女…トリアムールは、またシグルトにしがみついた。
 
「心配したよ~
 シグルト、昨日から急に動かなくなっちゃうんだもん。
 
 死臭がしないから、生きてるってことはわかったんだけど、ずっと目を覚まさないし、息してないし。
 シグルトは寝てるともの凄く生気が薄くなるから、いつもみたいなのかなぁと思ったんだけど、今日起きなかったら私が見える人連れてこようかと思ってたんだ。
 
 …って、おおっ!
 
 触れるっ!
 見えてるっ!
 話せてるっ!!
 
 これは、す・ご・い~♪」
 
 ぺたぺたとシグルトに触れながら、しきりに感心しているトリアムールの頭を撫でるシグルト。
 
「…確かに凄い。
 
 お前がそんな姿で、こんなにお喋りだと、初めて知ったよ」
 
 シグルトの表情は優しく、年下の弟妹を見るそれだ。
 
 死神は、惚けたようにしばらくトリアムールの起こす風に、骨を鳴らしていた。
 
 
 トリアムールは、『風繰り嶺』でポダルゲから預かった旋風の精霊である。
 
 シグルトは精霊を視認したり、その声を聞いたり話す能力は無い。
 せいぜい気配を感じ取ることぐらいしか出来ないのだが、それでも、この旋風の精霊がずっと側にいることは知っていた。
 
 半分が〈幽世〉の存在である精霊は、現界(現実世界に現れていること)しているのでない限り、普通は見ることも触れることも出来ない。
 精霊とは、事象の〈精(元素…エレメント)〉が意思を持つ霊としてある様をいう。
 
 精霊術師とは、霊と通じる感覚を持って、〈幽世〉から精霊の力を引き出すことが出来る者だ。
 そうしなければ、精霊は現実世界と違う存在故に、顕現することは適わない。

 もっとも、上位精霊のような強大な存在は、仮に現身(うつしみ)を現実世界に作ることで、自ら現れることも可能だという。
 あるいは、自分の力が強く表れる支配領域に〈幽世〉を滲み出させて、現れる精霊も存在する。
 
 己の力を媒介に、精霊という〈幽世〉の一部をそのまま顕現させるのが、〈精霊召喚〉。
 力の一部を事象として顕すのは〈霊験〉。
 術者そのものを媒介に、その身に〈精〉を憑依あるいは宿すことを〈憑精〉という。
 
 術師によって定義がまるで違うこともあるが、シグルトは精霊術がそういうものであると聞いている。
 
 トリアムールの力を借りて、シグルトが行使するのは〈憑精〉である。
 風を纏い、その身に宿すことで力を得る術だ。
 瞬間的に感覚が鋭くなり、力も増す上、旋風を放って敵を切り裂く。
 
 〈憑精〉とは〈精(エレメント)〉の宿り。
 〈精〉、すなわち精霊の力そのものを身に憑依させてその力を振るう、顕現の術(すべ)。
 優れた精霊術師のみが使える精霊術の高等技術である。
 
 トリアムールを身に纏うように宿す〈憑精〉の術、【飄纏う勇姿(つむじまとうゆうし)】。
 
 この精霊術は、精霊と交感する心の力ではなく、宿主の身体能力を源とする。
 
 まだ若い精霊で、それほど強大な存在ではないトリアムールは、己の〈精〉である旋風のコントロールが上手くない。
 だから、この〈憑精〉も精霊術としては、比較的簡単なものに属する。
 
 旋風は、本来奔放に吹くものだ。
 力任せに宿主の動作に乗って、風を放つ。
 加えて宿主の身体能力を、感覚とともに高めてくれる。
 
 特別術師としての素養が無くても使え、まさにシグルトのような戦士にこそ適する術だった。
 
 トリアムールとの同調で研ぎ澄まされた感覚。
 シグルトはその状態で周囲を伺う。
 
「…誰か来る」
 
 気配に気付いたシグルトの横で、馬鹿にされたことに憤然と抗議している死神と、シグルトを勝手に連れ出したことを怒っているトリアムール。
 言い争っている2人に、たしなめるようにシグルトが声をかけた。
 
 
「お早う、アネット」
 
 それは村長の娘であるアンナだった。
 アネットの姉のような存在であるらしい。
 
 情報を集めて村を探る中で、シグルトはこの青年の言葉からアネットとシャルルの関係を知ることが出来た。
 
「あっ、お早うアンナ。
 
 朝のお散歩?」
 
 親しく声を交わす姿は、まるで本当の姉妹のようだ。
 シグルトは2人を見つめながら故郷に残してきた妹を思い出し、目を細める。
 
 アネットとアンナは、摘んでいる霞草という花の話題で談笑していた。
 霞草はエーグルが好む花で、この場所にアネットが撒いたのだという。
 
「霞草か…」
 
 戦乙女が目を細めてそれを見ていた。
 
「知っていますか?
 
 霞草には、〈幸福〉って花言葉があります。
 エーグルの故郷に咲く花です」
 
 誰に話すともなく戦乙女が言う。

「オレのお勧めはやっぱ蓮華草だな!

 こっちの花言葉は〈私の幸福〉ってな。
 似たような花言葉って結構あるんだな~」

 死神が意外な知識を披露する。
 
「…ぷ、ぶははははっ!!
 
 骨が、骨が花言葉~♪
 似合わな~いっ!!!」
 
 トリアムールが思いっきり吹き出して、からかうと、死神が激昂した。
 
「だぁ~っ!!
 
 何なんだよ、このちび精霊っ!
 人がせっかくシリアスで格好良い台詞をだな…」
 
 トリアムールは、ふふん、と鼻で笑った。
 
「だ~って骨でしょ。
 人じゃないでしょ。
 
 シリアスとかロマンスとか、言ってても似合わないもん。
 
 あと、私はちびじゃないのっ!
 立派なレディなんだからねっ!!」
 
 賑やかにまた言い争いを始める死神とトリアムールの声を呆れて聞きながら、シグルトはアネットとアンナの動向を見守っていた。
 
 どうやらアネットとシャルルの将来を心配していたアンナが、アネッタにエーグルと話し合うよう切り出してくれたようだ。
 今夜みんなで話し合いましょう、と話をてきぱきと纏めていくアンナ。
 
「どうやら、このまま行けば解決しそうな雰囲気だな。
 
 …ん?」
 
 ぱらぱらと降ってくる小石に気付き、シグルトの表情が一変した。
 崖の上で、昨日の怨霊が大きな岩を落とそうと集まっていたのだ。
 
「奴だ…!」
 
 剣を抜き、鋭く言い放つ。
 
「…っ!!!
 
 あんの糞怨霊ぅ!
 2人に向かって岩を落とす気だ!」
 
 息巻く死神。
 
「…ここからあそこまで俺を飛ばせるか?」
 
 シグルトに、応よっ!と死神が力を発する。
 千里の道を一晩で飛ぶという、あの力をだ。
 
「来い、トリアムールっ!
 
 奴を斃す」
 
 そう言って怨霊を睨み、トリアムールに手を差し出すシグルト。
 
「…うんっ!!!」
 
 トリアムールは一陣の風に変わり、巻き付くようにシグルトに身体に絡みついた。
 
 染みこんでくる風の霊気。
 冴え渡る感覚。
 漲る力。
 
「一気に飛ぶぜ、シグルトっ!!!」
 
 死神の飛翔術で、一気に距離を詰め、シグルトは怨霊の前に躍り出た。
 同時に体当たりを敢行し、岩を落とせないよう後ろに追いやる。
 
"お、おのれぇ、何の真似だっ…

 部外者め!
 異教徒め!
 
 我らの邪魔をするなっっ!!!"
 
 怒りで身を震わせ、怨霊たちが恫喝してくる。
 
「…救いようがないですね。

 故意に寿命のある人間を、起こした災禍で殺すのは摂理に反すること。
 水が高いところから低いところに流れるように、摂理を捻じ曲げようとしても無意味なだけですのに。

 蛮勇で大きな都市へ強奪に向かい、返り討ちにあって一族郎党死に絶えたのをお忘れですか?」
 
 追いついた戦乙女が、アネッタたちに怨霊たちを近づけないよう、槍をかざして道を阻む。
 
「…俺はこれから起きる理不尽を見逃すことは出来ない。
 
 あの娘の幸せを願う親に、俺は依頼を受けた。
 その願いを守るのも、俺の仕事だ。
 
 させん…」
 
 シグルトの雰囲気が研ぎ澄ました刃のように、武人のそれに変わる。
 う…と気圧されした怨霊たちが後ろに退く。
 
「勇者様、手はず通りに。

 〈力よ!〉」

 戦乙女が槍に矢印のようなルーンを描き、輝いたそれを矢のように投げつける。
 
"ぎゃぁあ~!!!"
 
 槍は岩場に怨霊たちを縫い止めた。
 白い輝きが場を満たすと、その影の色が濃くなった。

"おのれ、おのれ~"
 
 怨霊たちが黒い瘴気を放つ。
 
((気をつけてっ!
 
 防御力を低下させる呪詛だよっ!!!))
 
 警告しつつ、トリアムールは自らが起こす風で怨霊たちを打ち据えた。
 よろめく怨霊たちに、シグルトの斬撃と死神の拳が決まる。
 
"く、魔法を使うのかっ!!"
 
 怯んだ怨霊たちは、次の旋風をその瘴気で遮った。
 
「あんにゃろう…魔封じの結界を使いやがったっ!!」
 
 トリアムールの旋風が、結界に遮られる。
 
 それでも、シグルトの勢いは収まらない。
 力に任せ、瘴気の上から、怨霊たちの凝る闇を振り下ろす一撃で粉砕する。
 
"が、があぁっ!!"
 
 瘴気がごっそりと削れ、苦痛に蠢く怨霊たち。
 
「…おらぁぁっっ!!」
 
 止めとばかりに死神が骨の拳で、敵を砕いていた。
 吹っ飛んだ怨霊たちは、火花のように瘴気を散らして地に落ちる。
 
"おのれ…オノレェ~!"
 
 消えゆく怨霊たちは。最後まで恨みの言葉を口にする。
 
「へっ!
 
 お前らには地獄の業火がお似合いだぜ。
 汚れたタールみたいに、地の底に飲まれちまいな!!!」
 
 死神の声を支持するように、シグルトも剣を構えて怨霊たちを睨む。
 
"貴様らに、災いあれ…災いあれ!"
 
 怨霊たちは、空気に溶けるように消えていった。
 
 気付ばトリアムールはシグルトの肩に寄りかかり、眠っているようだった。
 初めて使った術のため、張り切って大量の力を消耗したせいだろう。
 シグルトは、そっとトリアムールを背負うと、周囲の様子を伺う。
 
「ふう、下の2人も帰ったみたいだな。
 
 俺たちも戻ろうぜ」
 
 死神の言葉に、剣を鞘に収めながらシグルトは頷いた。
 
 
(…おのれっ!おのれっ!
 
 あの冒険者めっ!!!
 見てろ…死体を見つけて生き返れないようにしてくれるっ!!)
 
 歪んだ小さな瘴気がふわふわと飛んでいた。
 エーグルたちを扇動し、集落を滅びに導いた部族長のなれの果てである。
 戦乙女と死神がそろっていると知り、まともに戦って勝てないと感じたこの怨霊は、攻撃のさなかに分離して存在を長らえていた。
 
 生き返れないと知ったとき、あの冒険者はどんな顔をするのだろう?
 それを考えれば、この憤りも少しは愉快なものにかわるというものだ。
 
 怨霊は嫌らしい笑みを浮かべる。
 
"…お待ちなさい。
 
 あなた、とてもよい香りね"
 
 えっ…と振り向いた瞬間、部族長の怨霊は悲鳴を上げる間もなくその口に飲み込まれた。
 
"…うふふ、とても美味。
 凝った悪意、卑賎な憎悪。
 たまにはゲテモノを食べるのも悪くないわね。
 
 それにしてもあの子、生霊になって人助けとは。
 鼻水を垂らして泣き喚いていたあの子が…うふふ、やっぱり泳がせておくのが正解だわ。
 
 理不尽に囚われて、絶望という淵から這い上ががる度に魂はどんどん熟成される。
 あなたが理不尽に立ち向かうほど、魂は美味になる。 
 
 忌まわしいあの灰に消し飛ばされたこの身が戻ったなら、お迎えに行くわ。
 また逢いましょう、愛しい刃金の英雄様…」
 
 暗い、黒い頃をも纏った女がその妖艶な唇を下でぺろりと舐め、シグルトの去った方角をねっとりと見つめていた。
 
「這い上がっていらっしゃい、坊や。
 あなたは、もっともっと世界の悪意に苛まれる。
 
 理不尽に見初められ、理不尽に振り回され、理不尽に打ちのめされ…
 足掻き、砂を噛み、なおも立とうとするその気概。
 
 磨かれたあなたはどんな味がするのでしょう?
 
 考えると涎がでてしまいそう」
 
 そう言って女…“貪り”は楽しそうに白い歯を剥きだして凶悪な笑みを浮かべた。
 
 
 結局、エーグルの願いは無事に叶った。
 その日の夜に話し合った末、シャルルにアネットの将来を託したエーグルは、幸せそうに逝った。
 
 シグルトたちはエーグルの願いで彼の魂を連れ、村の南にある丘に向かう。
 その丘には霞草の咲き乱れる小さな墓地があった。
 
「ここは妹たちの墓です。
 
 霞草は、雪のような白髪をしていた妹が〈自分に似ている〉と好んだ故郷の花なんです。
 私がここに墓を建て、花も咲かせました…
 
 私が死んだ以上、もう訪れる者はいないでしょうから、最後に立ち寄ろうと思ったのです」
 
 そう言って、エーグルは一輪の霞草を摘むと、墓に供えた。
 
「じゃあ、そろそろ行こうかヘルカ」
 
 エーグルの言葉に、戦乙女が顔を覆っていた仮面を外すと兜を脱いだ。
 
「…気が付いていたのですか、兄さん?」

 雪のように白い髪が、滝のように流れ出る。

「もちろん。
 私がお前の背格好を見間違うものか。

 戦乙女になってまで、ずっと見守っていてくれたのだろう?」

 戦場ではない場所に戦乙女がいることには、シグルトも死神も違和感を覚えていた。
 だが、彼女がエーグルの実の妹だとしたら?

「死神が元人間であるように、戦乙女も生前の才能と行いを神々に認められると神霊になることがあります。
 生きた状態から神霊になるのを昇神、わたくしのように死んでから神や仙人になることを尸解と呼び、英霊として神霊になる多くは尸解によるもの。
 
 わたくしたちは、神霊に昇華するための呪術的素養が無い勇者の魂を英霊(エインヘリャル)へと尸解させる神霊。
 そして同姓の女傑と認めた者であれば、同じ戦乙女にすることができます。
 この身は父祖たちの守護者たる戦乙女の先達様に、生前の行いと巫女の資質を認められて、死後尸解致しました。

 戦乙女や英霊も、今回のような不死者や悪神との戦いで消耗し消えてしまうため、わたくしたちは常にこのように幽世を共に渡り戦ってくれる勇者の魂を探している、というわけです。
 実を言えば、今ある神の宮(ヴァルハラ)とは、神々の黄昏によって既に消え去ったそれに代わって、わたくしたち戦乙女たちと英霊たちが集う神霊の集団を指します。
 もう神々の黄昏は無く、アンデッドや悪神たちと戦う…いわば世界の浄化装置の一つなのですが。

 もっとも、最近は聖北とその使徒たる天使とやらに、随分と圧され気味なのですがね。

 神や精霊が注目し、後に必ず偉大な勇者となるでしょうシグルト様に接触することと、かなうならば武勇に優れて高潔だったアーリ兄さんをわたくしの世界に招くことが今回の目的の一つだったのですが…
 アーリ兄さんはすっかり平和にほだされた異教徒になってしまいましたね。
 これでは何年も張り付いていた甲斐がありません。

 兄さんの魂は、そこの死神に譲ってあげます」

 戦乙女は、そう告げると肩をすくめた。
 それは兄を自分の様な争いの世界に巻き込みたくないという、妹の情でもあるのだろう。

「シグルト様…今回手を貸していただいたお礼に、死後わたくしを呼び英霊となる権利と、情報を差し上げます。

 あなた様を破滅寸前に追い込んだ死神“貪り”はまだ滅んでいません。
 影を身代わりにして逃げ延び、暗躍しながら力を蓄えているのでしょう。

 我々神霊も、あれの被害で多くの同胞を失い、行方を追っています。
 “神狩りの灰”も、たばかられたことに気が付いて彼女を狙っているので、表立ってあの死神があなたに干渉することはしばらくないでしょう。

 もう一つ、“大いなる母”もいずれはあなたに接触を試みてくるでしょう。
 おいそれとその神名を口にはできませんが、あれは古くそして恐ろしい存在です。

 どうかお気を付けて。

 わたくしの助力が必要であれば、我が神名【スナーフヴィート】をお呼びください。
 願わくば、我らが勇者としてともに戦ってくれる未来を切に願います。

 では…これにて」

 そう言うと、戦乙女はエーグルの魂に一言二言告げ、その姿を白鳥に変えるとオーロラの軌跡を残して飛び去った。

「なんか、とんでもないのに目をつけられて大変だなシグルト。
 ま、お前なら何があってもどうにかできるさ。

 逢えて本当に好かったよ、シグルト。
 
 …ありがとよ」
 
 死神に気にするな、とシグルトは微笑んだ。
 
「あとはお前の霊脈が、身体に戻してくれるぜ。
 
 疲れて寝ちまった、お前のちんまい相棒にもよろしく伝えてくれ。
 
 じゃあな、シグルト。
 くれぐれも命は大切にしろよ。
 
 時期が来たら、オレが迎えに行ってやらぁ…」
 
 死神の軽口に、シグルトは「それは御免だな」と肩をすくめる。
 
「では、お元気で。
 
 本当に有難う御座いました」
 
 死神によって魂を刈り取られたエーグルは再び礼を延べ、満足そうに微笑んだ。
 
 そうして、死神たちは去っていった。
 
 
 数日後、シグルトはロダン村に立ち寄り、アネットとシャルルの結婚式を眺めていた。
 そして、祝福される2人に、エーグルの墓地に咲いていた霞草で花束を作り渡す。
 
 場違いな美しいこの冒険者の登場に、村人たちは目を白黒させていた。
 
「あ、あの…貴方は?」
 
 尋ねるアネットに、シグルトは優しく微笑んだ。
 
「君の〈お父さんたち〉の知り合いだ。
 
 彼らの代わりに、これを渡したくてな。
 この花は〈幸福〉という意味があるそうだな。
 
 〈お父さんたち〉にとって君の幸福が、自身の幸福だったと俺は思う。
 そして君たちのさらなる幸せを、望んでいるはずだ。
 
 だから、きっと幸せになってくれ…」
 
 彼の暖かい言葉に、アネットは感動したのか、泣き崩れた。
 
 シグルトの〈お父さんたち〉という言葉は違う意味であったが、アネットたちはシグルトが両親の知り合いだと思ったのだろう。
 大人びたシグルトの雰囲気は、もっと年を経たようにも感じさせる。
 
 アネットとシャルルは席を設けて、もてなそうと言った。
 だが、シグルトは急ぐ先があると言って断り、その場を去ろうとする。
 
「ま、待って下さい。
 
 貴方はシグルトさんですよね?
 父の遺言で、生前とてもお世話になったからお礼をするようにと、お金と手紙が残っていました。
 
 後日リューンに行く予定だったので、その時にお渡ししようと思っていたんですが…」
 
 シャルルが、件の報酬の入った袋を持って走ってくる。
 
「そうか…では、有り難く受け取るよ。
 
 そう言えば、リューンでパン屋をやるそうだな。
 場所が決まったのなら時間がある時でいい、リューン郊外の『小さき希望亭』という冒険者の宿の主人か娘さんに、場所を教えておいてくれ。
 
 今度、仲間たちと伺うよ」
 
 優しい瞳で、シグルトはふわりと笑った。
 傍で見ていた村娘たちが、一斉に頬を赤らめる。
 
 死神が「女なんてイチコロ」と評した笑みを残し、シグルトはアネットから銀貨の袋を受け取ると、満足そうな足取りで踵を返し旅立つ。
 
 その傍で風の精霊トリアムールは、日差しに照らされて透けるシグルトの魂を眺めながらついて行く。
 シグルトの魂の色は、理不尽に立ち向かい道を切り開く、清浄な白い鋼色。
 トリアムールには、2人の男の願いを叶えた充実感から、その魂がシグルトの喜びで優しく気高く輝いているようにも見える。
 
 自身も誇らしい気持ちで胸を満たしてシグルトの後を追いかけながら、トリアムールは爽やかな一陣の微風を吹かせるのだった。
 

 …余談であるがシャルルは数年後に、自分と似た境遇の弟子を取ることとなる。
 その甥っ子の名前はカールと言い、ともにやって来た恋人の名はアネットであった。

 世の中には似た様な名前で同様な境遇の者が、案外いるものである。



⇒『魂の色』の続きを読む

Y字の交差路


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『風たちがもたらすもの』

2018.05.09(00:25) 429

 このシナリオは、Y2つがMartさんとのクロス企画リプレイのPCたちのパワーアップ用などに書き下ろしたスキルを、そのまま店シナリオにしてしまったものです。
 Y2つめの趣味が爆発しているシナリオですが、まあ使っていただければ幸いです。
 
 このシナリオ製作でMartさんにとてもお世話になりました。
 シナリオの提供場所からUP、果てはスキル絵まで。
 感謝致します。
 
 また、我がカードワースの半身Djinnさん。
 テストで修正や編集を手伝ってくださいました。
 感謝いたします。
 彼と企画中の合作に使おうか~とか思って考えたシステムを、いくつかテスト的に導入しています。
 いくつかDjinnさんとのシナリオのクロスオーバーがあります。
 Djinnさん、頑張りましょうね~
 
 それから、素材をお借りした全ての著作者の方々へ。
 著作権に関しての情報はこのシナリオと同じフォルダにある『#著作情報』というテキストに詳しく書かれています。
 御協力、有難う御座いました。
 
 このシナリオの絵とかは著作権が別にあるので、勝手に使っちゃダメですよ~
 
 このシナリオのスキル、アイテム、召喚獣のデータは、ほとんどは私の作ったものですが、インポート等のものもありますので、シナリオでインポートして使いたい場合は著作権に注意して下さい。
 著作情報に載ってないスキルは私のお手製です。
 私の作ったデータに関しては、御自由に使っていただいてもいいのですが、御一報くださると嬉しいです。
 
 分からないことは私に聞いて下さい。
(メールを送るか、ブログに書き込んでください)
 
 皆さんの、PCの役に立てば幸いです。

 『防具屋』ん歩システム対応につき、いくつかデータを変更しました。
 あと最新バージョンが何故かアップされて無くてすみませんでした。
 御報告有難う御座います。


ダウンロード場所は Y字の交差路別院


■御利用の相談やバグ・問題報告はブログのコメントか、メールにて。
 
・Y2つめの所在
◇メール:waiwai542●gmail.com
◇ブログ:Y字の交差路
 アドレス:■://aradia.blog69.fc2.com/ 
 ●を@

《更新履歴》
2006/07/28 Ver0.90完成
2006/07/28  Ver0.91、店内の使い勝手、スキルの説明文一部変更
2006/08/01  Ver0.92、Djinnさんが修正を手伝ってくださいました。
        多数のバグ修正、バランス調整。
2006/08/03  Ver0.93、バグ修正、スキル4つ、アイテム1つ追加。
2006/08/04  Ver0.94、バグ修正、スキル4つ追加。
2006/08/04  Ver0.95、バグ修正、スキル1つ、アイテム1つ追加。
        バランス調整。
2006/08/10  Ver0.96、バグ修正、解説テキスト追加
        正式公開版一応完成
2006/08/11  Ver0.97、著作情報になかった糸魚さんのサイトを追加。
        申し訳御座いません。
2006/08/11  Ver0.98、召喚獣【荒れる竜巻】、【ナパイアス】バグ修正。
        アイテム【交霊の異能】キーコード修正。
        ブリックさん、バグ報告有難う御座いました。
        シナリオ内の文章を一部修正。
        著作情報になかった蜥蜴さんのサイトを追加。申し訳御座いません。
2006/08/17  Ver0.99、聖句3つに【無属性】キーコードを追加。
        【天の恩恵】、【信実の喚輝】、【麗しの門】。
        これで無属性をカチ~ンしたい人はキーコード無効化が可。
        スキルの特質上、無属性以外にはできません。悪しからず。
        詳しくはシナリオフォルダ内の解説テキスト、「※無属性について」
        を御確認下さい。
        召喚獣【風の翼】の説明文修正。
        スキル【焔熱の仕手】説明文修正。
        超絶奥義スキル2つ追加。(無属性スキルです。キーコード有り)
        バロアイテム追加。アイテム追加。消耗品等追加。
        バグ等修正。これで打ち止めになればいいのですが。
2006/08/21  Ver0.99A、スキル【風の翼】、【怒涛の破斧】、【蹂躙の災禍】
        アイテム【言葉の飲薬】、【魅惑の香り】バグ修正。
        ブリックさん他バグ報告有難う御座いました。
        微妙に付属テキストを修正。
        バグがまだ残ってました…
2006/08/21  Ver0.99B、微妙にテキストの間違いを修正。
        報告感謝です。
2006/09/19  Ver0.99C、スキル、召喚獣の絵の修正。
        売り物大量に追加。
        【銀獅子の鎧】のバグ修正。
        【魔導の昇華】、【魔力の晶石】修正。
        バグ修正と一緒にスキル回復が選べるように。
~2006/09/25  Ver0.99D、スキルやら武具やら沢山追加。
        テキスト更新。
        便利になりました。
        テスト版完成?
2006/09/25  Ver0.99E、バグ修正。
        hirosuzuさん、愛・舞・魅さん、白笹さん、らっこあらさん
        バグ報告有難う御座いました。
        召喚関連のあるスキルに無効音防止処置実施。
        煩くなくなりました。
        【無属性】キーコードを特殊な4つに変えました。
        以後これはY2つめが提唱する特殊なキーコードです。
        このキーコードに関しては解説テキストをお読み下さい。
        ※無属性用のキーコードです。
        【銀獅子の鎧】、【神龍の御力】を魔法物理属性に。
        【祈祷の聖典】を魔法属性にし、【無属性】キーコード破棄。
        【駆ける渓流】、【巨熊の暴乱】最初から能力強化セット。
        来店ゴシップ移動。
        スキル【不死鳥の灯】追加。
2006/09/28  Ver0.99F、【雪娘】、【雪の魔女】、【神龍の御力】バグ修正。
        【雪精の輪舞】、【氷花の棘】バグ修正。
        愛・舞・魅さん、ブリックさん、
        バグ報告有難う御座いました。
        【魔導の昇華】、【魔力の晶石】使用イベント修正。
2006/09/29   少しバグ修正。
        スキル【魔錬の深淵】、【遍く救う寵み】追加。
        魔力制御系スキルあわせてちょっと修正。
        【蹂躙の災禍】関係の召喚獣キーコード変更。
        加えて裏技追加。
        【護光の戦斧】メニュー画像変更。
        Martさん有難う御座いました。
2006/09/30  Ver0.99G、アイテム【氷花の棘】、【魔弾の法杖】バグ修正。
        【雅勇の王】のゴシップバグ修正。
        スキル【嵐竜の飛翔】召喚時に他召喚獣除去効果を追加。
        スキル【遍く救う寵み】バグ修正。
        愛・舞・魅さん、バグ報告有難う御座いました。
        このテキストのスペルミス修正。
        テキストの内容修正。
        Martさん、バグ報告有難う御座いました。
        【魔力の晶石】のアイテム・メニュー絵変更。
2006/09/30  Ver0.99G´、テキスト#解説の誤字修正。
        スキル【迅速の隼】、召喚獣【隼の円陣】修正。
        スキル【駆ける渓流】、召喚獣【激流の威勢】修正。
        スキル【嵐竜の飛翔】、召喚獣【嵐呼ぶ飛竜】修正。
        行動不能時の反応をリアルにしました。
        スキル【遍く救う寵み】、
        召喚獣【安息の寵み】、【暖かき寵み】バグ修正。
        スキル【巨熊の暴乱】、召喚獣【狂乱の戦士】バグ修正。
~2006/10/05 Ver0.99H、具現術追加、憑精術1つ追加。
        魔術礼装シリーズ追加、スキル【魔導の昇華】改造。
        細かい修正。
         Ver0.99H´、スキル【遍く救う寵み】バグ修正。
        召喚獣【優しき寵み】バグ修正。
        スキル【悪辣なる剣】バグ修正。ちょっと威力低下。
        愛・舞・魅さん、バグ報告有難う御座いました。
2006/10/06  Ver0.99I、スキル【戦鎧の乙女】キーコードバグ修正。
        スキル【大樹の調】キーコード修正。
        スキル【神話の器械】攻撃モーション複数に変更。
        hirosuzuさん、バグ報告有難う御座いました。
         Ver0.99I´、スキル【悪辣なる剣】バグ修正。
        アイテム【言葉の飲薬】使用回数UP。
        アイテム【破魔の護符】値段UP。
        バグ報告等有難う御座いました。
       Ver0.99J、アイテム【交霊の異能】販売表示バグ修正。
2006/10/07   スキル【龍王の破勁】ふりがな修正。
        スキル【不死鳥の灯】、召喚獣【燃える羽根】バグ修正。
        スキル【妖精の護環】、召喚獣【妖精の護光】キーコード修正。
        ブリックさん、バグ報告等有難う御座いました。
2006/10/09  Ver0.99K、アイテム【交霊の異能】変更。
        同アイテム販売表示バグ修正。
        アイテム【祈祷の聖典】変更。
        【交霊の異能】と【祈祷の聖典】の内容が変わりました。
        バグ修正もされています。
        スキル【龍皇の破勁】販売表示バグ修正。
        アイテム【魔泉の霊石】バグ修正。
        愛・舞・魅さん、バグ報告有難う御座いました。
        アイテム【集魔の指輪】無効化音消去処理。
        スキル【樹精の抱擁】、召喚獣【樹精の揺籠】バグ修正。
        きわめて眠りにくい状態を修正。
2006/10/09  Ver0.99K´、魔術礼装発動時間を調整。
2006/10/16  Ver0.99L、スキル【悪辣なる剣】バグ修正。
        召喚獣【鋼鐵の女神】バグ修正。
        Djinnさんバグ報告有難う御座いました。
2006/10/17   テキスト微妙に変更、追加。
       Ver0.99L´、アイテム【氷冷の魔石】、【地鳴の魔石】バグ修正。
        バグ報告有難う御座いました。
2006/10/21  Ver0.99M、スキル【氷結の君主】バグ修正。
        hirosuzuさん、バグ報告有難う御座いました。
        テキスト#著作情報、※匈歌ハトリさんについて等追加。
2006/10/23   魔術礼装説明文変更。
        魔術礼装【叡智の魔石】、【封扉の魔石】追加。
        『隠者の庵』キーコード強化です。
2006/10/24  Ver0.99M´、【封扉の魔石】購入メッセージ、バグ修正
        召喚獣【鋼鐵の女神】バグ修正。
        愛・舞・魅さん、バグ報告有難う御座いました。
        スキル【鹿蹄の乱打】バグ修正。
        アイテム【魔泉の霊石】価格変更。
        Djinnさん、バグ報告有難う御座いました。
2006/10/25   魔術礼装バグ修正。魔力貯蓄系修正。
        全ての魔力貯蓄で魔力飽和が可能になりました。
        愛・舞・魅さん、バグ報告有難う御座いました。
        【蹂躙の災禍】、【焔熱の仕手】以外は魔術礼装及び
       【魔導の昇華】関係の魔術は取替えをお勧めします。
        申し訳ありません。
       Ver0.99N、テキスト変更。
        チーム ARA-DDIN(アラ・ジン)『シンバットの洞窟』に
        このシナリオのスキル登場。宣伝。
2006/10/26  Ver0.99N´、アイテム【叡智の魔石】、【封扉の魔石】バグ修正。
        愛・舞・魅さん、バグ報告有難う御座いました。
        テキストの誤植修正、内容追加。
        『シンバットの冒険』→『シンバットの洞窟』等。
        申し訳御座いません。
2006/10/27  Ver0.99O、【封扉の魔石】関係誤字修正。
        【開錠の魔力】→【解錠の魔力】に。
        hirosuzuさん、報告有難う御座いました。
        指摘のあったものを中心に、説明文修正。
        御報告有難う御座います。
        【紅蓮の魔弓】に関することをテキスト♯解説にて紹介。
        このバランスになった詳細です。
2006/11/15  Ver0.99P、商人の解説変更。文章修正。
        付属テキスト微妙に修正。
        Martさん、指摘有難う御座いました。
2006/11/19  Ver1.00、スキル【風呼ぶ翼】、召喚獣【風の翼】修正。
        浮遊キーコード追加。
        これより完成版と致します。
~2007/01/30  Ver1.01、バグ修正及び防御無視スキルのバランス見直し等。
        アイテム【童子斬安綱】、キーコード修正(【追儺】→【鬼殺し】)
        アイテム【干将】、【莫耶】バグ修正。
        シズさん、バグ報告有難う御座いました。
        付帯能力【猫の業】バグ修正。
        ばぶるさん、バグ報告有難う御座いました。
        《暴露》&《暴露解除》の意味をこのテキストに追加。(最後の方)
        アーティさん、技術不足で申し訳ありません。
        付帯能力【神龍の御力】バグ修正。
        アーティさん、バグ報告有難う御座いました。
        スキル【神殺しの剣】、【魂散る閃き】、【既往の的中】修正。
        バランスを見直しました。
        詳しくは同じフォルダ内の『♯解説』テキストを見てください。
        スキル【雪精の輪舞】スキル絵枠修正。
        スキル【盗賊の閃き】関連商品をこのスキルの購入ツリーに移動。
        商人の言葉の誤字を修正。
        スキル【業火の巨人】追加。
2007/05/30  Ver1.01SP、配布用に修正、テキスト、画像多数変更。
2007/06/01  Ver1.01SP´、召喚獣【飛翔の旋風】の誤字修正、
        スキル【旋風の乗手】修正
        スキル【魂散る閃き】バグ修正。
        バグ報告有難う御座いました。
2007/06/19  Ver1.01SP´α、アイテム【紅蓮の魔弓】バグ修正。
        バグ報告有難う御座いました。
2007/06/22  Ver1.01SP´β、付帯能力【猫の業】バグ修正。
        バグ報告有難う御座いました。
2007/07/09  Ver1.01SP´β2、スキル【悪辣なる剣】バグ修正。
        バグ報告有難う御座いました。
        召喚獣【雷光の鉄鎚】、スキル【蹂躙の災禍】バグ修正。
        愛・舞・魅さん、バグ報告有難う御座いました。
2007/10/26  Ver1.02、キーコードの不具合修正。
        申し訳ありませんが、キーコードの配置がだいぶ変更になりました。
        魔術礼装関と盗賊道具関係のキーコードが変わっています。
        交換することをお勧めします。
2007/11/01   アイテム【空裂く死神】、【猛毒の処方】追加。
        盗賊アイテム、バランスの見直し等。
2009/08/26  Ver1.03、アイテム【紫電の魔石】のバグ修正。
        氷羽さん、バグ報告有難う御座いました。
2017/05/24  Ver1.04、召喚獣【隕石群】【小隕石群】誤字修正、【蹂躙の災禍】に入れ直し。
        連絡メールアドレスの変更。
#著作情報テキストの連絡先を最新版に変更。
2017/12/16  Ver1.05、#著作情報テキストにインポートについて記載。
        アイテム【銀獅子の鎧】【魔鏡の大盾】を拙作『防具屋』の仕様に変換。

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『風繰り嶺』 風纏いて疾る男

2018.05.03(22:45) 444

 ポートリオンから街道を北に、幾つかの村と町を経由して数日かかる場所。
 そこに宗教都市ペルージュがある。
 所謂教会の門前町だ。
 聖北教会の影響が強いそこは、同じような宗教都市であるラーデックとともに西方における聖北信仰の要となっていた。
 
 ペルージュは、接する近隣諸国において聖北教会に関わる法政を担当する宗教的司法機関でもある。
 宗教裁判や異端審問等を行う場所、と言ったらよいだろうか。
 
 魔女狩り等で残虐なイメージのある異端審問だが、実際には教会の勢力が及ぶ範囲で、宗教的な問題を解決するために行われるのが常だ。
 信仰とは時に人を、歯止めのない暴走へと駆り立てることがある。
 異端審問とは、宗教内における倫理や規律、慣習によって暴走を食い止め、裁くためのものなのだ。
 
 ペルージュには、西方諸国でも中心的な異端審問の拠点がある。
 常時数人の異端審問官…そのほとんどが司教クラスの権限を持つ…がおり、国家クラスの宗教問題にも対応し、貴族感や国家における宗教問題の調停や宗教的な刑の執行を行っている。
 
 シグルトは、異端審問の中で異教徒の問題を扱う部署に来ていた。
 
 ペルージュには小さな教会がたくさんあり、本部とも言える大聖堂を囲むように点在している。
 訪れた部署は、そんな教会の一つであった。
 
 ヴェルヌー伯爵の紹介だと紹介状を提示して告げると、教会側は意外にもすんなりとシグルトを迎え入れてくれた。

 伯爵家は聖北教会篤信の貴族であり、毎年多額の寄進を行っている。
 女伯からの早馬として、先日の聖遺物問題に関する書状の提出も頼まれていたため、現在のシグルトはヴェルヌー伯の使者という肩書も持っている。
 彼の貴族的作法を見た聖職者たちは、丁寧に扱うと決めたようだ。
 
「お前の言うアフマドという異教徒は、確かにこの教会の預かりとなっている。
 
 罪状は、まじないや怪しい呪術とあるが…
 昨今の魔術師の方が、よほどそれらしいことをしている。
 まったく、困ったものだ。
 
 調べたところ、この異教徒は病で苦しむ貧民を治療しただけのようだな。
 
 聖典教徒どもの医学は、我々の行う神の秘蹟とはまた違った、優れた知識と技術によるものだ。
 
 私は聖地へ巡礼した折、聖典教徒と語り合う機会を得ている。
 彼らは悪魔の使徒などではなく、ただ素晴らしい聖北の教えと出会えなかっただけの子羊なのだ。
 改心させ、聖北の教えを遍く世界に広めることこそ、我ら聖職者の役目であると思うのだが。
 
 失敬。
 件の聖典教徒のことだったな?
 
 まず罪状だが…

 一つ目は、〈腹を裂いて子供を取り上げた〉とあるが、これは母子を救うための治療法だったらしい。
 子供が逆子で、手の着けようがなかったからだそうだ。
 母親も子供も、今でも元気で夫は随分感謝していた。
 
 次の、〈頭に鑿で穴を開けた〉とあるが、それによって昏睡状態だった男が元気になった。
 妖術を使ったのだと言うが、聖典教徒の世界でも行える者は限られる高度な技術であるものの、ただの医療行為のようだ。
 
 〈腕の肉を削り取った〉ともあるが、これは患部にできた腫瘍の切除だ。
 私も、その治療法で腕を切り取られずに済んだ者を見たことがある。
 
 〈怪しげな薬草を鍋で煮詰めていた〉…薬草を大量に煎じるとき、大鍋を使うのはあたりまえのことだろう。
 
 告訴したのは、この男の活躍によって高額で薬が売れなくなったという商人だな。
 どう見ても、その商人が考えた冤罪であることは明白だ。
 彼は教会に対する虚言の罪で重い罰金刑となる。
 
 加えてこの聖典教徒は、シグヴォルフ王国の貴族からその縁の者であるという許証を与えられて所持し、通行証も正規のものだった。
 旅の目的は故郷に帰るためで、たまたま立ち寄った先で宿を貸してくれた貧民街の者たちに恩を返しただけ、というわけだ。
 罪らしい罪は無いと言っていい。
 
 教会側としては、この西方においてその身を証明してくれる保護者が現れ、一定の金を支払えばすぐにでも釈放するつもりだ。
 
 ああ、何と言うべきか…この金というやつは、異教徒を何の咎めもなく釈放することに反対する者を黙らせるためのものだな。
 〈異教徒には、すでに罰金を科した〉とでもすれば、保守派の連中の面子が保たれるというわけだ。
 その金は半分教会から免罪を与えるための寄付に、半分は聖典教徒を傷つけず保留した時の食費及び経費というわけだ。
 
 …異教の信仰を罪とするのは面白くないかね?
 建前の上でも異教徒が聖北教会の支配圏で活動するには、譲歩が必要なのだよ。
 君たち冒険者は、考え方が柔軟だと思っていたんだがね。
 
 まあ何分、問題が起こったのがこの宗教都市ペルージュの管理する教区でのことだったので、異教徒の扱いは実に繊細なのだよ。
 
 私としては、屁理屈など言わずに釈放するよう手続きを急いでいるのだが、保守派の連中が「異教徒をただ放免などとんでもない!」と意地になっているようで手がつけられない。
 即時釈放が未だできないのは、そういうわけなのだ」
 
 ジルベールというこの異端審問官は、広い肩をすくめてシグルトに説明してくれた。
 話によると、彼は異種族や異文化が関わる異端審問が専門なのだそうだ。
 触ると刺さりそうな硬い鬚と、鉄の盾を連想させる胸板。
 聖職者と言うよりは、騎士か戦士の様な風体である。
 
「他にも、やらなければならない異端審問は数多い。
 
 私としては、現在それほど険悪ではない東の事情を考えるに、彼を何事もなく釈放して故郷に帰せばよいと思っている。
 今の聖地は、聖北、聖東、穏健派が中心に聖典教徒との融和がある程度保たれているのだから、情勢を考えるに火種を作る必要はない。
 
 教区内の問題の処理で手一杯なのだから、余計な議題を増やすのは手間の無駄だ。
 まったく、保守派の石頭どものことを考えると頭が痛いのだよ。
 
 幸いこの聖典教徒のことを任されたのは私と、公正な審問をされることで知られたシェンデルフェール殿だ。
 
 異端審問官が、魔女を焼き異教徒を殺すための審問をするものばかり、というのは大きな誤解だ。
 我々は、公正に神の教えを守り、聖北の信仰を広めることこそ使命なのだよ。
 
 …釈放のための金について話さねばならなかったな?
 
 これはシェンデルフェール殿が、聖典教徒の維持は無駄として葬ろうとする保守派どもを止めるために考えた案だ。
 誰かが金を「寄進として出す」ことで、異教徒に恩赦が与えられる。「無駄ではない」ということだね。
 あの方の信仰心には、まことに頭が下がる思いだ。
 
 今、なぜ知恵があると素直に言わないか、と考えたかね?
 知恵は人を堕落させるものだ…たてまえの上ではね。
 閃きは神から与えられる〈霊感〉なのだよ。
 小賢しい悪魔の、〈悪知恵〉とは違うのだ。
 
 …そう眉をひそめるな。
 
 このまま君のような関係者が現れなければ、あの聖典教徒の身柄は保守派に渡り闇に葬られたかもしれん。
 本来、我ら聖北の徒が異教徒に慈悲を持って庇うことなど、限られた正直者が己の正義感を満足させるために行う偽善行為なのだ。
 
 彼の聖典教徒も、素直に話を聞かなかったから話がこじれたわけであるし、な。
 
 大体、保守派の司祭に向かって〈話のわからぬ愚物〉とはっきり言うのはどうかと思うぞ。
 まあ、私も内心で喝采した評価ではあったが」
 
 シグルトは疲れたような顔をすると、「釈放に必要な金は幾らなんだ?」と率直に聞いた。
 このままこの豪傑のような審問官の長話に付き合っていたなら、いつまでたっても本題に入れないと思ったからだ。
 
「ふむ。
 
 それは銀貨千枚だ。
 冒険者には高額かもしれんがね。
 
 あと、君があの聖典教徒の保護者として、後の責任を取る念書を書いてもらう。
 
 これで滞りなく釈放出来るだろう」
 
 シグルトは頷くと、ジルベールが差し出した書類にしっかりと目を通し、あやふやなところは質問する。
 法律に詳しいシグルトの質問は理路整然としていて容赦が無い。
 後で約束を反故にされないように、担当者としてジルベールのサイン入り念書まで要求し、西方でも外科的技術を用いた治療行為を行える免状を出すようにねじ込んだ。
 聖典教徒との停戦協定と宗教条約のいくつかから違反に見える部分、貴族の出した赦免状の無視と教会の規定違反を巧みに出して、所持品と通行証の返還も求める。

 得意のおしゃべりで場を濁そうとしたジルベールに

「被害者はシグヴォルフの名誉市民権と彼の祖国の高等医官の地位もあり、後援者である伯爵家がその身分を保証している。
 かつて西方で禁止されているはずの奴隷扱いをされていた上に、何の咎も無いのに異民族の異教徒というだけで再び彼の自由民を教会が害したとすれば、停戦条約の捕虜の待遇に関して重大な違反になるはずだ。彼は一度後援者による保釈金によって助け出されているのだからな。教会側の要求はそれに加えて今回の保釈金を寄付金としてよこせというから、どう見ても過払いだと思うのだが…貴方がたの顔を立ててその分の理由付けを示しているのだぞ?
 提示された保釈金がそれらをともなわないなら、違法すれすれだ。いかにも【救われる】という話だが…俺に言わせれば、こんなことを保険もせずにすれば足を【掬われる】方に見えるな。

 彼を『一刻も早く虜囚の状態から救出する』という名目あっての支払いであることを、忘れないでほしい。

 別義で当然だが所持品の返還が無ければ、それを保管する機関の略奪行為と認定される。
 それらの失態が教皇庁と彼の祖国に露見すれば、停戦条約を揺るがして現在東方に移住した貴族たちから厳しい突き上げがあるだろう」

 と、一歩も引かない口調でシグルトは切って捨てた。
 貴族や教会関係の聖職者は論法でけむに巻く者も多い。毒を込めつつ容赦なく正論で追い詰める。

 蒼白な顔でよろめくジルベールに、「釈放は一刻も早く、だ。拘束期間は正確に報告されるぞ」と止めを刺す。
 提示させた書類をしっかり吟味してサインし、銀貨を千枚取り出して渡すと、ジルベールは降参したとばかりに溜息を吐いた。
 
「…ふう、確かに千枚。
 この金の領収書と、この度の問題について始末書を作成するから、隣の控え室で待ちたまえ。
 
 例の聖典教徒は、世話をしていたクリストフという者に連れてこさせよう」
 
 シグルトは頷くと、異端審問官の執務室を後にした。
 今度は安堵したような溜息が聞こえるのだった。
 
 
 次の日の朝、浅黒い肌の老人を連れて若い僧侶がシグルトの元を訪ねてきた。
 その僧侶は、シグルトに老人の身柄を渡すと丁寧に会釈して去って行った。
 
「…久しいな、アフマド」
 
 シグルトは、ほっとしたような顔で浅黒い肌の老人に声をかけた。
 
「ふむ。
 
 いらぬ手間をかけたようだな。
 こうしてお前に再び巡り合えたことも、神の導きだろう。
 
 神は偉大なり、だ」
 
 尊大な態度で、老人…アフマドは強く頷いた。

 「聖北の地で聖典の祈りとは…あいかわらずだな」、と苦笑する。
 シグルトは、この老人が素直に感謝する姿を見たことが無かった。
 
「昨日のうちに、お前の所持品を返して貰った。
 
 新しい通行証もある。 
 異国を通過するために必要なものだから、無用とは言わないでくれ。
 
 貴方はひねくれ者だからな…」
 
 肩をすくめたシグルトに、アフマドは苦虫を噛み潰したように口端を歪める。
 
 ――聖典教徒と呼ばれる者たちがいる。
 元は聖北教会と同じ聖典を基とするが、時代の変遷で全く違う文化と教義をもって発展した東の国の人間たちだ。
 
 彼らはその信仰を広め、時を経て全く違う文化を持つ聖北教会と再会する。
 考えの違う宗教同士は、互いを正しいと主張して戦いを起こした。
 
 その戦いには、聖地を巡る対立や、教会と結託した権力者たちの思惑を内包して複雑化し、血塗られた歴史を作り上げて両者の間には埋めようのない深い溝ができていた。
 
 宗教に多く見られることがある。
 己の信じる者が最上とする場合、違う最上を否定するのだ。
 一神教の神も然り。
 元は同じ神であるのに、争う勢力同士は互いの唯一の神を否定し、戦いは泥沼に変わった。
 
 多くの血が流れてから、争っていた宗教同士は強力な指導者が和解をすることで、その関係をとりあえず友好的なものにした。
 建前の上では。
 
 未だに互いへの憎しみや偏見から、小さな紛争は絶えない。
 このアフマドという老人は、そういった戦によって虜囚となった。
 義勇兵として参加したアフマドは、軍医として従軍していたが、ある時制海権を巡る小競り合いで所属していた軍が敗北したのである。
 
 捕まったアフマドは、長い年月各地を違法な奴隷として連れまわされ、最後に遥か北の地へ送られた。
 寒冷な北方の気候と、過酷な長年の労働による過労で彼は倒れてしまう。
 
 そんなアフマドを、ある貴族が身代金を払って引き取り、人並の身分を与えてくれたのだ。
 件の貴族とは、シグルトの元婚約者ブリュンヒルデの父親である。
 アフマドの身を救うよう頼んだのは、まだ幼かったブリュンヒルデであった。
 
 恩義を感じたアフマドは、数十年をその貴族の下で過ごした。
 
 ブリュンヒルデはアフマドを師として古今の学問を学び、その知識は国でも五指に入るほどだった。
 アフマドは賢者であり、優れた医者なのだ。
 
 この時代、医術に最も長じていたのは聖典教徒である。
 脳腫瘍の手術から、心臓病の治療まで、その技術は先進的で多岐に渡っていた。
 使う道具も、最高の鉄を用いた最先端の品ばかり。
 さらには、東の華国の膨大な薬草学をも吸収し、習得した技術は西方諸国のものよりも、数世紀進んだものだ。
 
 アフマドは、聖典教徒の医者たちの中で知識も技術も、その最高峰に若くして昇りつめた。
 年齢が若過ぎてなれなかったが、後には帝王たちの御殿医になれるとも噂されていたほどである。
 
 悪漢によって両足の筋を断たれ、傷の重さから生死を彷徨ったシグルトは、アフマドの医術によって命を取り留めた。
 アフマドは、神業とも思える天才的な外科手術でシグルトの断たれた筋を繋ぎ合わせ、シグルトが今用いている両足の添え木も、この老人が考案し作ってくれたものだった。
 
「…お前のしぶとさには感心させられる。
 
 よくもあれだけの状態から、立って歩けるようになったものだな。
 常人ならば、杖を用いて歩けるかどうかなのだが。
 
 …見せてみろ」
 
 黙ってシグルトは腰かけると、足に巻いた布を解き、添え木を外す。
 
 だらりと垂れたシグルトの足を、アフマドは慎重に観察し大きく息を吐いた。
 
「…無茶をしおって。
 
 儂の作ってやった添え木もかなり傷んでいるぞ。
 ちょうど改良した添え木があるから、お前に合わせてやる。
 
 これで貸し借りは無しだ」
 
 アフマドは自分の手荷物から、シグルトが着けている添え木に紐のような物がぶら下がったものを取り出した。
 
「主要部の関節部分に馬の腱を使ったものだ。
 合成弓などで、よく使われる技術の応用だな。
 
 革を膠を使って巻き、真綿で足に負担がつかぬようにアソビを入れてある。
 
 前に使っていた添え木の傷み具合からどこに負担がかかるかは分かったから、そこも直しておいてやろう。
 格段に動きやすくなるはずだ」
 
 アフマドは、若い頃から既存の道具を嫌っていた。
 より合理的な道具を、自身で考案、改良して使っている。
 
 腰かけたままシグルトは一つ首肯して、アフマドの作業を眺めていた。
 
「…お嬢様のことは、聞かぬのだな?」
 
 シグルトの足首に合わせて添え木を削りながら、アフマドがぽつりと呟く。
 
「…聞いて変わることはあるのか?
 
 俺は、彼女を妻にできなかった。
 国を出た時、俺には彼女を守るだけの力も、養うだけの力も無くなっていた。
 
 彼女は他の男の妻になり、冒険者になった俺が此処にいる。
 一度は夢破れて放浪し、やっとすべきことを見つけて何とか進んでいるのが今の俺だ。
 
 彼女がもし望んでくれるのなら、今からでも何かで応えたいとは思うがな。
 力を尽くしたいと願う心も、まだ俺の胸の中にある。
 だが、彼女に許されない限り、開放してはならないものだとも思う。
 
 俺は自身の無力に押し潰されて、彼女の元を去ったのだからな」
 
 アフマドは驚いた顔をした。
 
「女々しいままかと思えば、すでに道は定めていたか。
 やはり、お嬢様が惚れた男だけはあるか。
 
 すべてに絶望し、生きることを捨ててしまったあの時のお前とはまるで違う。
 今のお前は、このアフマドが認めたシグルトのようだな。
 
 だが、お前は〈あの事〉を知っているのか?
 お嬢様が何故、お前と共に国を出なかったのかを」
 
 今度はシグルトが驚いた顔をした。
 
「彼女は何かが無ければ俺と国を出るつもりだったのか?
 彼女の心は領地とともにあるのだとずっと思っていた。
 それが貴族であり、彼女の素晴らしい部分であったことも知っている。
 
 最後に言葉を交わした時、彼女は俺と一緒にはなれないと言った。
 彼女には、国に残って守らねばならぬものがあると。
 それに病気がちのお父上を置いてはいけないとも。
 
 …領土について、いつも心にある夢を語ってくれた。
 
 俺はあの時、力無く絶望した抜け殻でしかなかった。
 だから、互いに違う道を行くべきと決めて、そして別れた。
 
 その事実以外に、何かあるのか?」
 
 黙して目を閉じ、何かを考えていたアフマドは、やがて決意したようにシグルトを見据える。
 
「お嬢様が言わなかったのならば、考えがあってのことだろう。
 別離するのに納得できる状況だった。それは間違いあるまい。
 
 儂の口からは話さぬ。
 
 かわりに、お前には別の真実を伝えよう。
 
 お前の異母兄はお嬢様と結婚し、亡くなられた伯爵の位と土地を継いだ。
 そうしなければお嬢様の伯爵家は守れなかったのだ。 
 
 だが、お嬢様は今でもお前を愛している。
 お前を愛する故に、お嬢様は私情を捨てたのだ。
 
 真実を知りたいならば、時が来る前に…
 一年の追放刑が終わったならば、すぐにあの国に向かえ。
 お前には、それをする資格と責務がある。
 真実は目にすれば理解できよう。
 
 時間も…限られているだろう」
 
 謎めいた言葉に、シグルトは首を傾げたが、アフマドはそれ以上何も言わなかった。
 
 
 そこは遠く離れた北方の小国シグヴォルフ。
 
 石造りの城のベランダから大地を見下ろし、女…ブリュンヒルデは物憂げな顔で溜息を漏らしていた。
 
 とても美しい女である。
 
 悪神ロキが嫉妬して盗んだという雷神の妻シフのそれのように、輝く黄金の巻毛。
 磨いたエメラルドに命を吹き込んだように神秘的な瞳は、知性と意志を宿し、煌いている。
 黒子一つ無い白い顔には、形の良い鼻梁。
 薔薇の花弁を思わせる、艶やかな紅い唇。
 
「…もう半年以上経つのね。
 
 この大地のどこに、貴方は立っているのかしら?」
 
 女は、今も愛して止まない男を想い切なげにその長い睫を伏せる。
 美しい女が物憂げにいるだけで、今は暗い空さえも彼女に合わせて曇ったように感じさせる。
 
「…シグルト…」
 
 女は、応える筈も無い、愛しい男の名を呼んだ。
 
「グウェンダが羨ましいわ。
 
 貴女は、全てを捨てて彼を追いかけることができる。
 私には、彼との思い出。
 そして、彼の残してくれた大切な宝物。
 
 でも、私には…ッ!!!」
 
 女は眩暈に襲われ、石畳に膝を突く。
 よく見れば、女の美貌は病的なまでに青白い。
 込み上がる吐き気に、ブリュンヒルデは何かを守るように己の身体をかき抱いた。
 
「…っ…!
 
 ぁっ!
 っぅぁ、はぁ…」
 
 込み上がる苦しみから、必死に何かを守ろうとする様子で、女はその手を強く握りしめた。
 そこには、黄金の小さな指輪。
 愛する男から、結婚の約束をする時に貰った彼女の宝物だ。
 
「…ぅう、はぁっ。
 
 ふ、うふふ…。
 ねぇ、シグルト。
 私、頑張っているのよ。
 
 守ると誓ったから…
 あの時、貴方と別れても守ると誓ったから…」
 
 何もない遠く離れた大地に、手を伸ばす。
 顔を蒼白にしながら、喘ぎながら。
 
「…シグルト…
 
 貴方に逢いたい…」
 
 女は痛苦を耐えながら滲んだ涙を拭こうともせず、霞む大地に向かって、愛しい男の名を呼び続ける。
 零れた涙は、その女の願い。
 しかし虚しく石畳の上で弾け、散った。
 
「また、夢でもいいの。
 
 貴方に、抱かれて眠りたい。
 シグルト…」
 
 朦朧とする意識の中で、逞しかった愛する男の腕を想い、女は静かに泣いた。


 次の日、アフマドはシグルトを伴い、その小さな教会に向かった。
 
「…具合はどうだ?
 
 窮屈な部分はまだ残っているか?」
 
 アフマドが、シグルトの足を見ながら聞く。
 
「いや、快適だ。
 
 確かに前のものより柔軟性があって、歩くときには違和感すら無い。
 これなら、普通に走ることもたやすいな」
 
 シグルトは地面を力強く蹴りながら、アフマドが調整してくれた添え木の調子を確かめた。
 
「ふん、顔も歪めずにおるお前ならば、足を裂き塩水につけても平然としているだろうな。
 
 普通は添え木との接触面が締め付けられて、耐えられん。
 万力で絞められたような圧迫感。
 
 それを涼しく〝走る〟などと言うのだ。
 鈍感だとは思っていたが、お前のそれは馬鹿げておるわ」
 
 シグルトは懐かしむような苦笑をした。
 この老人の毒舌は、かつて慣れるほどに聞いたものだった。
 
「…それで、用事とは何だ?
 
 教会に、といっても、異教の教会に祈りに行くわけではないのだろう?」
 
 ああそんなことか、とアフマドは教会付属の宿舎を指差した。
 
「昨日儂を、お前のいる宿に連れて行った若い坊主がおっただろう?
 
 クリストフというのだが、牢に拘留されておる間、世話になってな。
 お節介だが、聖北の坊主にしては勤勉で人の話を素直に聞く。
 
 施療院で薬学を学んでおるとかで、儂の国の技術を学ぼうと通って来てな。
 優秀とは言えんが、技術に偏見を持たぬから、まあ及第点といったところか」
 
 アフマドは弟子を自慢するように、上機嫌だ。
 この老人はひねくれ者だが、人にものを教えることが上手く、またそれを好む。
 厳しい言葉を使うが、教育には真摯に、智を求めるものを拒まない。
 
「貴方がそれだけ評価するなら、その僧侶は大成するかもしれないな」
 
 アフマドが手放しに誉める生徒、と言えば故郷では一人だけだった。
 聡明で美しかったその女を思い出し、シグルトは頬を緩める。
 
 アフマドが認める優秀な生徒にはシグルトも含まれていた。
 記憶力や解析力は常人より多少優れる程度だが、勤勉で何より応用力があり、知識に偏見を持たないシグルトは、アフマドを含め、彼に関わった師のすべてを感心させた。
 特にシグルトの持つ古今東西の伝承知識と、驚異的な戦術観は故郷の誰もが及ばなかった。
 
 パーティの知恵袋であるロマンは、シグルトが酒の席で語った数十の神話の異説に書物には無い口伝を見つけ、随分と興奮していたこともある。
 
 シグルトは王国最強と呼ばれた武術の師、そして精霊の物語やまじないについての師を持っていた。
 母親は戯曲や歌曲に優れ、父親は剣術と神話の知識は類希、恋人だった女は国でも有数の知識人で教養と礼法を極めていた。
 アフマドは医術と天文、暦を修めた賢者で、様々な異国の言葉を習得している。
 
 多くの人間は、シグルトの幅広い知識に触れると驚く。
 
 知識とは、持つ者に出会えなければ学べない。
 様々な知識の専門家から学ぶ機会を得たシグルトは、大変恵まれていたと言える。
 
 アフマドから見れば、自身の知識や才能に納得して向上心を失った天才よりも、常に学ぼうとする凡人の方が教え甲斐がある。
 彼に言わせると、向上心と探究心こそ、最高の才能なのだという。
 学ぶ機会を活かし知識を修めることが出来る者を、アフマドは好ましく思っていた。
 
「あ、アフマドさん」
 
 その若い僧侶は、人の好さそうな優しい笑顔でアフマドとシグルトを迎えてくれた。
 
「ぅぁ?
 
 …ぁぅえ?」
 
 奥から聞こえたくぐもった女の声に、シグルトとアフマドは顔を見合わせる。
 
 若い僧侶…クリストフは、部屋の奥に向けて喋らずに何か身振りをした。
 
「…手話か。
 
 この喋り方は、聾唖(ろうあ)のようだな」
 
 聾唖とは聴覚障害を持ち、同時に音が分からないので、上手く言葉を発音できず言葉も不自由な者のことだ。
 
「すみません、まさか本当に訪ねて下さるとは。
 
 とても光栄です。
 アフマドさん。
 
 貴方はシグルトさんでしたよね?
 何も無い狭い所ですが、どうぞお入り下さい」
 
 2人を部屋に招き入れると、クリストフは2人に椅子を勧める。
 同時にあらわれた15、6の娘がぺこりとお辞儀をした。
 瞳の大きな、素朴な印象の少女である。
 
 シグルトも軽く一礼し、そして手で何かをする。
 それを見た娘は、嬉しそうに自分も同じ動作を行う。
 
 シグルトは、「はじめまして」という所作を行ったのだ。
 
「ほほう、お前いつの間に手話を覚えた?」
 
 アフマドが興味深そうに、シグルトの所作を見る。
 
「使えるといっても、基本ぐらいだ。
 
 冒険者という職業をやっていると、離れた仲間と交信したり、言葉が話せない状況も考えておく必要があるのでな。
 仲間の一人が教えてくれたんだが、なかなか重宝する」
 
 そう言いながら娘に向けて、「手話は便利だな」と伝えて微笑むシグルトを、クリストフは尊敬の眼差しで見つめていた。
 シグルトの使う所作は分かりやすい大きなゆっくりとしたもので、内容も高度なものである。
 しかもこういう話をしたんだよ、とアフマド喋りながら、同時に娘に説明している。
 
「…助かります。
 
 彼女を置き去りにしないで済みます」
 
 クリストフは、同じく手話に切り替えて自己紹介するアフマドを指差して、「彼は怖くない。好い人だ」と説明するシグルトに頭を下げた。
 
 4人は言葉から手話に切り替え、しばらく話すことになった。
 
 
「彼女…レノールには、今日文字を教える約束をしていたのです」
 
 音の理解できない者に文字を教えるのは、困難だ。
 人は五感を使うことで理解を深め、言葉とは音と形でコミュニケーションを取るための技術である。
 だから、今日のクリストフのようにマンツーマンで教える必要があるのだろう。
 
「…なるほどな。
 
 それで、お前は頻繁に耳の治療法を訪ねたのだな?」
 
 皆の飲み物の用意をしているレノールという名の少女を、ちらりと見るとアフマドが納得したように頷いた。
 
「彼女は小さい頃に高熱を出して、それ以来耳を…
 それなのに明るくて、現状を悲観しない強い心を持っています。
 
 私は、彼女のように身体に障害を持っている人の助けになる、そんな仕事がしたいのです」
 
 アフマドと医術のことを熱心に語るクリストフ。
 シグルトは柔らかな表情で彼を眺めていた。
 
「ふむ、先天的なものでなければ、時間をかければ治る可能性もある。
 
 シグルトよ、儂はしばらくこの都市に留まって、この生徒を教えながらレノールを治療しよう。
 
 故郷を離れて数十年。
 今更帰国が数か月遅れたところで、たいして変わらんからな」
 
 皮肉屋で素直では無いが、アフマドは献身的で弱者を放っておけない義の男である。
 
「それなら、私がアフマドさんの身を保護する名目の書類を申請してみます。
 聖職の私が彼の身を保証するなら、周囲も納得するでしょうし。
 
 お恥ずかしい話ですが、アフマドさんを解放するよう尽したものの、なかなか保釈金が工面できなくて。
 私のような仕事をする者は、教会に属することで衣食住は保障されますが、建前の上で私財というものは持てない決まりなのです。
 特に私のように修行中の僧侶は。
 
 何とか銀貨八百枚ほど貯めたのですが、これは医学を教えて下さるアフマドさんに謝礼として…」
 
 するとアフマドはそんなものいらん、とレノールが用意してくれたハーブティーを啜った。
 
「お前には、牢にいる間随分世話になった。
 それに、これからしばらく厄介になるのだ。
 厚かましくはなれん。
 
 その金は、できればこのシグルトに渡してはくれぬか?
 こ奴には貸しはあったが、それにしては高い出費をさせてしまったからな」
 
 シグルトは、話を振られて苦笑した。
 
「…気にするな。
 
 貴方のおかげで、とても足が楽になった。
 俺も、厚かましくはないつもりだぞ。
 
 そうだな、その金はレノールのために使えば好い。
 君にとって、大切な娘なんだろう?」
 
 微笑まれたクリストフは、顔を真っ赤にして硬直してしまった。
 
「ふむ、色恋にとことん鈍感だったお前が、なぁ。
 
 これから大雨にならねばよいが…」
 
 しみじみと毒を吐くアフマドに、シグルトは「色恋に関してもお前の弟子に鍛えられたからな」と、少し寂しげにまた苦笑した。
 
 
 その日の午後、シグルトはクリストフと一緒にペルージュの露店を廻っていた。
 
 午前中、レノールのためにお金を使えば好い、という話になった。
 クリストフがいつも身の回りの世話くれるお礼として何か贈り物を、ということに決まる。
 
 女性に贈り物などしたことがない、というクリストフは困り果ててしまい、アフマドがレノールの耳を診療する間に2人で買い物をすることになったのだ。
 
 意外かもしれないが、シグルトはこういった買い物には慣れている。
 年の近い妹がいたし、恋人のための贈り物を何にするか悩んだこともあるからだ。
 
 ふと、金銀の細工をする露天商を見つめながら、シグルトは恋人に贈った婚約指輪のことを思い出していた。
 
 シグルトが選んだ婚約指輪は、小さな黄金の簡素な物だ。
 貴族の平均的な品からすれば随分貧相だったが、シグルトは身分を隠し平民に混じって労働し、本職の給金に得た金を加えてそれを買った。
 親の財産で買った物は、自分が用意する物にはならないと思ったからだ。
 
 黄金の指輪を買うということは、容易では無い。
 特にシグルトの国は貧しく、得られる金などたかが知れている。
 
 その指輪を用意するのに三か月。
 過酷だが地味な仕事を沢山こなして、やっと買った品だった。
 
 こんなものですまないと言ったシグルトに、どうやって買ったのか知った恋人は感涙して喜ぶと、大切にいつも身に着けていた。
 
 小さな指輪を嘲笑って、豪華な宝石のついた指輪や首飾りを見せ、その美しい恋人に心変わりを迫った貴族がいた。
 恋人は見向きもせず、シグルトの指輪を胸を張って見せつけると、こう言った。
 
〝私のこの指輪は、愛する人が私への想いを満たして送ってくれた物。
 
 見た目が豪華なだけの物と、比べられたくはないわ〟
 
 誇り高く物の本質を大切にするその恋人を、シグルトは一面で尊敬さえしていた。
 
 〈絶世〉と称される程に、彼女は美しかった。
 だが、シグルトが彼女に心惹かれたのは、その心が高潔で、その夢が素朴で愛らしかったからだ。
 
 労働する農夫の姿を立派だと称え、赤切れたその農夫の妻の手を美しいと褒める、そんな女性だった。
 貴族というより庶民派だったシグルトのことを、周囲の誰よりも理解してくれた。
 夢見がちで、思い込みが強くて…そんな彼女を、シグルトは心から愛し、離別した今でもやはり愛している。
 
 年老いて白髪になっても、暖炉の傍で孫子に囲まれながら、日々穏やかに過ごしたい…
 ささやかな未来を願って、語り合った過去の思い出。
 
(…未練だな)
 
 恋人のことを思い出す度、自分にとってどれほど大切だったかを思い知らされる。
 
 ペルージュからから見上げるようにそびえ立つ、高い嶺から吹き下ろす風。
 空の向こうにいる女を想い、シグルトは目を細めて過去を懐かしんだ。
 
 
 ペルージュは教会施設が数多く存在し、それに関わる職業の人間が在住し、巡礼にやってくる者も多い。
 必然、聖印や宗教物の小物を扱う土産屋も多く、客の要求に合わせて細工物を扱う職人も数多くいる。

 立ち寄った露店の細工師は、まだ若い男だった。
 
 昨日生まれた初めての子供のことを自慢げに話し、家庭のために頑張らねばならないと張り切る姿は微笑ましかった。
 
 クリストフのことを話すと、店主は作りかけの聖母像を模った大理石のカメオを取りだした。
 
「これなら、坊さんが娘に渡しても変じゃないだろ?
 
 周りに何か言われたら、信仰のために贈ったと答えればいい」
 
 もっと高いもののはずだが、店主は「子供が生まれたお祝いさ」と言値でカメオを売ってくれることになった。
 サービスでレノールの名前も彫ってくれるという。
 
 そわそわと、露店の近くで品物が完成するのを待つクリストフ。
 シグルトも壁に寄りかかりながら付き合うことにした。
 
「…ん?
 
 あんたらも何か必要なのかい?
 今仕事中だから、また…って、それは売る相手が決まってる奴だ。
 今包んでるところ…がぁっ!!」
 
 物凄い音がした。
 
 シグルトは不穏な空気に、さっきの露店の方に近づく。
 
 血溜まりに、露天商が倒れている。
 腹を刺されたのか、激痛に呻いてはいるが、致命傷では無い。
 
「…ぐぅ、金と商品を…
 
 あいつら、きっと『風繰り嶺』の、ならず者だ…」
 
 見れば、門番を蹴倒して都市の外に逃走する数人の男たち。
 
 昼日中、堂々と窃盗するとは誰も思わなかったのだろう。
 しかもここは庶民の住む地域で、衛兵は蹴倒されて気絶している門番一人しかいない。
 
 ペルージュに面する険しい『風繰り嶺』は天然の要害で、そちらに面した門は警備も手薄だ。
 盗賊は、だからこそこちらから脱出する道を考えたのだろう。
 
 シグルトは、おそらくこの都市の衛兵が真面目に犯人を追うことは無いと、直感的に理解した。
 
 税金など最低限しか払えないから露店を開いて、こんなところで仕事をする商人。
 被害届を出したところで、その頃には盗賊たちが証拠となる品をどこかに隠してしまうだろう。
 
 盗賊たちは、それも見越してこのような犯罪を行ったのだ。
 
「クリストフ、この人に応急処置を。
 致命傷では無いが、出血が多いと危ない。
 
 医術の心得のある貴方になら、後は任せて大丈夫だな?
 
 俺はあいつらを追いかけて品物を取り戻す」
 
 驚いて狼狽するクリストフに、こういう荒事は専門だと腰の剣を軽く叩き、シグルトは走り始めた。
 
(よし、いけるっ!)
 
 アフマドに直してもらった添え木は、調子よく足に馴染む。
 すでに随分小さくなった姿を見失わないように盗賊たちの背を睨み、シグルトは疾走した。
 
 
 霊峰『風繰り嶺』。
 
 今では盗賊の根城にもなっているこの嶺は、かつては精霊信仰があり、精霊術師たちがこの山に籠って修業をしていたこともあるという。
 しかし、聖北教会の勢力が急速に拡大し、そういった精霊術師は嶺を追われ、精霊信仰は姿を消した。
 
 荒々しく吹く山の風は、この季節のものにしては冷たい。
 
 逆巻く風の中で、薄汚れた襤褸を着た一人の老婆が立っている。
 不思議なことに、その襤褸は風になびくことがない。
 
 老婆は、先ほどからずっと切り立った崖の上にいて、遥か下を眺めていた。
 
「…ほほ、やっと来たか、あの刃金が」
 
 不気味な笑みを浮かべ、老婆は身体を揺らした。
 襤褸の被り物の下から覗いた瞳が、一瞬だけ猛禽のような黄金の輝きを宿す。
 
「…む。
 
 お前たちも、奴が見たいのかえ?」
 
 老婆は吹き抜ける風に向かって語りかけると、口端を狡猾な笑みの形に歪め、一つ頷いた。
 
「…では、行くとしようかの。
 
 〈風を纏うべき英雄〉を迎えに、な」
 
 一陣の強い風が吹く。
 そして老婆の姿は次の瞬間、忽然と消えた。
 老婆のいた場所には、銀色の美しい羽がひらひらと風に舞い、地面に落ちる前、融けるように宙に消える。
 
 何かの到来を喜んでいるのか、賑やかに風音を鳴らし、旋風がいつまでも踊っていた。


 シグルトは疾っていた。
 
 細工師を襲った盗賊たちは、度々この逃走ルートを使うのだろう。
 駆ける速度もかなり速い。
 
 だが、シグルトは足に障害があるにもかかわらず、徐々に距離を詰めていく。
 
 山岳修行者が一本歯の下駄で疾走する技術があるが、シグルトの疾走はそれの応用に近い。
 重心を前に傾け、リズムをつけて、次に足を置く場所を選びながら軽快に進む。
 
 武術に長け、肉体のコントールに優れるシグルトは、身体に負担をかけずに動くことを常に心掛けていた。
 むしろアフマドにもらった添え木についた馬の腱を利用さえして疲労を抑え、並の身体能力を凌ぐ。
 
 シグルトの育った国は標高が高い山地である。
 幼少の頃は足場の悪い山や森が遊び場で、武術の修業時代は崖を駆け登って足腰を鍛えた。
 
 意図して鍛え、要領を覚えたシグルトと盗賊では、実力に大きな開きがあったのだろう。
 四半時近い追跡で、シグルトは盗賊のすぐ背後まで迫っていた。
 
「な、何て野郎だっ!
 
 この俺たちに追いつくなんて…」
 
 急な坂道を越えると緩やかな丘陵になっていた。
 
 息を切らし、逃走していた盗賊たちは驚愕の表情でシグルトを見ている。
 ぜぇぜぇと荒い呼吸の盗賊たちに比べ、シグルトの呼吸は軽く走った程度の乱れだ。
 
「…さぁ、盗んだ物を返せ」
 
 へたり込んだ盗賊たちを見下ろし、シグルトが強い言葉を放つ。
 
「…ふん、仕方ねぇな。
 
 まあ、ここまで他の奴は追ってこれねぇだろ」
 
 盗賊たちのリーダー格らしい男が腰に下げていた剣を抜き放つと、周りの者たちもそれに従って自分の得物を構える。
 
「しつこい野郎だぜ…
 こんな場所まで追いかけてくるなんて、な。
 
 ま、足が速いのは分かったがよ。
 お前、この人数に勝つつもりか?
 
 …死ぬぜっ!」
 
 盗賊のリーダーが凄むが、シグルトは涼しい表情だ。
 すでに彼の呼吸は完全に落ち着いている。
 
「欲を出し過ぎたな。
 
 大荷物を担いで、速く走ることは出来んぞ。
 逃がすつもりも無い。
 
 俺の注意を引いて、後ろの…隠れている奴に俺を襲わせるつもりか?
 
 人数は把握しているぞ」
 
 シグルトは、奪われていた機制を取り戻すかの様に、剣を鞘払う。
 
 改心の策を見破られ、盗賊のリーダーが焦りの表情を見せる。
 
「…くそぅ、仕方ねぇ。
 
 てめぇら…囲んで殺るぞ。
 この優男野郎、ぶち倒してねぐらに帰るぜっ!」
 
 その声に呼応して、さっとシグルトを囲む盗賊たち。
 
(…この地形で、包囲とは、な)
 
 シグルトは呆れたように眉をしかめた。
 狭い足場での包囲は、よほど地形に慣れた者しかしてはならないのだ。
 むしろ挟み込むように2人で包囲し、その背後にさらに1人ずつ配置して逃げ道を塞ぐ方が合理的だ。
 1人の人間を一度に包囲するとき、5人で囲むなど、槍のように長い得物で横との距離を取れる状況で行うべきだ。
 振り回すことを主とする剣では、隣同士で邪魔になってしまう。
 足場が悪く道幅の無い坂道では、愚策となることもしばしばだ。
 
「ぬぅぅおぉりゃぁぁぁっ!!!」
 
 一人が襲い掛かってくるが、その攻撃をひらりと避けたシグルトは素早くその足を払う。
 よろめいた盗賊は勢いを落とせず反対側にいた男に突進し、互いにバランスを崩す。
 
 シグルトは刃の半ばを握り、上段に構える【王冠】の構えだ。
 そのまま前に低く踏み込んで、柄で一人の鳩尾を抉るように突き上げる。
 刃物を振るう相手に容赦はしない。今ので肋骨を砕いたので半死半生の状態だろう。
 
 交差した時首領の剣が背を掠め、じわりと痛みが走るが…シグルトは構わずに一転、鋭い呼気で筋肉を絞める。
 流れていた血が止まり、シグルトの筋肉がパンと膨らんで止めをと狙う斬撃を弾いた。【堅牢】である。
 かつて武術の基礎として学んだものを、剣術を学び直す際に思い出して再び使えるようにした武技だ。
 他の攻撃は受けるまでも無く、すべてかわす。

 剣の平でもう一人の鼻の少し上を殴打した。
 急所を殴打された賊は激痛で吹っ飛び、崖にぶら下がるように昏倒する。
 
 敵を押し遣った勢いで向きを変え、絡まってもがいている盗賊に向かう。 
 起き上がろうと焦る2人の敵を、一人は踏みつけて顎を蹴り、最後の一人は柄頭で延髄を強打して気絶させる。

 斬り殺さないのは、流した血で足を滑らせたくないから。
 野盗は捕まえずに殺すのが王道だ。
 情けをかけて反撃されるつもりもない。殴る時は殺す気でやっている。
 
(…背中の傷が、少し深いか)
 
 じくじくと痛む背の傷。
 だがその痛みをおくびにも出さず、シグルトは最後に残った盗賊の首領と対峙した。
 
 シグルトの腕にはさらに小さな裂傷。
 先程目の前の盗賊につけられたものだ。
 本来ならばもっと出血するはずの傷も、【堅牢】の発動で臼皮一枚が裂けた程度。
 
「く、糞っ!!!」
 
 盗賊は構えを低く取り、牽制するように小刻みに剣を繰り出してくる。
 シグルトは敵が一撃放つ度にそれを払い、腕を、足を剣の平で殴打して弱らせていく。
 
「ぬぅうあぁぁぁっっっ!!!」
 
 盗賊がやけになって突っ込んで来た瞬間、シグルトは交差の瞬間にその眉間を剣の鍔で殴り、気絶させていた。
 
(――…っ、はぁ。
 
 さすがに…5人相手では、厳しかったな)
 
 大きく一度息を吐き、呼吸を整えるシグルト。
 すぐに背の傷を、持っていた清潔な布で覆うと、帯を外しそれで縛って応急処置を済ませる。
 
 シグルトは、普段から常に帯を2本巻いていた。
 一本は細く、普通の帯に隠れてしまう物。
 これは戦いのさなか服が緩まないようにするためであり、あるいはこのように使うためだ。
 
 傷の手当てをしながら、シグルトはまだ油断ない様子で周囲を見回した。
 
 一人が多人数を相手にする場合、リーダー格を先に倒し、敵の戦意を挫くという戦い方がある。
 シグルトはそうせずに、首領が他の盗賊たちとほぼ同格の実力と見るや、その他から倒して追い詰める戦い方に切り替えた。
 
 実力が近しい敵の場合、無理にリーダーを倒しても、敵を激昂させて逆効果になる場合がある。
 リーダーを先に倒すのが効果的なのは、敵たちが戦術や実力でそのリーダーに依存していないと効果が無い。
 烏合の衆が相手ならば、手数を減らしたほうが良い。
 真剣勝負とは、そういった駆け引きを制し、心理戦で負けないことも必要だ。
 
 今回はシグルト単独で、仲間のバックアップは皆無。
 盗賊たちを追撃で疲労させていなければ、シグルトでも危なかっただろう。
 実際手傷も負っている。
 
 しかし、シグルトの修業時代に兄弟弟子と行った、槍を模した長い棍で殴り合う鍛練の方がよほど厳しかった。
 その訓練は痛みに慣れ、怪我をした状態でも冷静に戦うために行う。
 
 形式化した武術は大概が寸止めや防具を用いるが、それでは強い一撃を受けた後に、負傷に気を取られてたたみ掛けられてしまう。
 身体で痛みを知り、実戦の緊張感に慣れるその鍛錬は、シグルトの武術の師が元々は戦場で鍛えたことの名残である。
 
 先程背に傷を受けた時、シグルトは背筋に力を込めて受けた。
 常人ならば大怪我をしていただろうが、まんべんなく鍛えられたシグルトの強靭な筋肉は、多少の攻撃には耐えられる。
 
 野蛮とも言える戦い方であるが、実戦とは殺し合いであり、荒っぽいものなのだ。
 
 自身の手当を終えたシグルトは、気絶した盗賊たちを縛り上げていく。
 道具は盗賊たちの帯と服。
 髪の長い盗賊を選んで、その髪をひと房切ると、それを使って後ろ手に拘束した状態で盗賊たちの親指と小指も縛る。
 こうすれば力が入らず、逃げられることは無い。
 欝血しない程度にきつく、使う髪は切れないように常に数本。
 
 野盗は可能なら殺さずに捕まえたほうが見せしめになる。
 一撃一撃は殺しても仕方ない威力で放っていた。足元に血を流さない意図もある。
 
 善意で殺さなかったのではない。
 
 官憲に引き渡された後の盗賊の末路は、大概悲惨なものだ。
 犯罪者が処罰されれば、その恐怖が犯罪を抑制する。
 生きた犯罪者は、助かるために他の仲間のことやその手口を話すだろう。
 
 実際に倒すべき対象が定まれば、軍隊というものは迅速だ。
 盗賊のアジトが分かっていれば、動く兵士たちもいるはずだ。
 そのすべてがいなくなるわけではないが、少しは被害が減るかもしれない。
 
 シグルトが4人目を縛り終えた時、気配の動きに振り向くと、先ほど倒したはずの盗賊のリーダーがいない。
 
(あの殴打を受けて、動いたのか?
 
 まだ身体が痺れてそれほど動けないはずだ)
 
 倒れていた位置から逃げられるルート、隠れられる場所の予測を始める。
 
(む…北か?
 それとも、東側の崖か?
 
 どちらを探す?)
 
 シグルトが思案している時、不意に柔らかな風が吹いた。
 撫でるように暖かい、不思議な風だ。
 
「「…こっちだよ」」
 
 心に直接触れるような、不思議な風。
 シグルトは即断し、風が導く方に走った。
 
 
「な、何でっ!!!」
 
 北側に生えている枯れた木の後ろに隠れていた盗賊は、何の迷いもなく走ってくるシグルトを認めてその身をさらしてしまう。
 
「逃がしはしないっ!」
 
 鋭い声で盗賊を恫喝し、距離を詰める。
 盗賊はなおも逃げようと、シグルトに背を向けた。
 
 シュバッ!!!
 
 瞬間、不思議な突風が吹いた。
 脇腹を裂かれて盗賊は転倒し、地面に額を強打すると動かなくなった。
 
 盗賊のすぐ近くで草木を巻き上げながら、ひゅるひゅると風が渦巻いている。
 珍妙な旋風に、シグルトは首を傾げた。
 どう見ても自然の風では無い。
 
「…ほほ、恵まれた男じゃて。
 
 風の方から力を貸すとは、の」
 
 盗賊が隠れていた木の後ろから、ぬっとその老婆は現れた。
 薄汚れた襤褸を纏い、眼光だけは底知れぬ何かを秘めている。
 
「…あの時の婆さんか?」
 
‭ 国を追われ何をすべきか分からずに彷徨っていた頃、イルファタルという国で、シグルトはこの老婆に逢っている。
 老婆はシグルトの未来を予言し、西方に向かうことを促した。
 
「久しぶりじゃの、オルテンシアの末裔よ。
 
 …また逢ったの」
 
 老婆の言葉に、シグルトは頷き返した。
 
「貴女は、あの時から俺のことを知っていたようだな。
 
 俺は名乗る必要があるか?」
 
 老婆はいらぬ、と首をゆっくり横に振った。
 
「お主のことは、小さい時より知っておる。
 
 金床に登って玉鋼(ぎょくこう)の女神に祝福され、天地の霊母(あめつちのはは)に頭(こうべ)を撫でられて空に手を伸ばした、その時からの。
 生まれながらに選ばれる英雄…それを我らは、愛おしみ、あるいは憎むものじゃ」
 
 謎めいた老婆の言葉。
 
 シグルトは、生まれて這い這いが出来るようになった頃、国の伝統である儀式をさせられたことがある。
 周囲に生活用品を置き、最初に子供が手に取った物を育て方の参考にするのだ。
 手に取った物に関わる職業に就く、と信じられていたからである。
 
 だが、シグルトは品物の数合わせで置かれていた、窓際の陰にあった金床に上り、窓から天に向けて手を伸ばしたのである。
 不思議な行為に、周囲の者はこの子供が特別な人物になると語り合ったという。
 
 今の老婆の言葉は、そのことを指すのだろう。
 
「ほほ、それにお主の名前の由来も知っておる。
 
 北方一の鍛冶師に祝福された、幸運な者であることもな」
 
 シグルトは呆れたような顔になった。
 そこまで詳しく知られていると知り、怒るより感心しさえしている。
 
 シグルトの父親アルフレトは、国で最強と呼ばれた剣豪であった。
 持っていた剣は、王より賜った名剣である。
 【ティゲル(虎)】と名付けられた、美しい縞の波紋のあるその剣を打ったのは、北方でも名の知られるドワーフの鍛冶師マクラホンだ。
 
 シグルトが生まれた日、薄汚れた旅のドワーフがシグルトの生家を訪れた。
 一晩の宿を、と望んだのである。
 
 この珍客を、家中の誰もが反対する中、シグルトの母オルトリンデだけは迎え入れて持て成す様に言った。
 当時は家の主人であったオルトリンデの命で、ドワーフは食事と酒を振舞われた。
 
 シグルトを身籠っていたオルトリンデは、身重のまま食事を作り、ドワーフと話す間に産気づいてシグルトを出産した。
 駆け付けた父アルフレトは、子の出産に立ち会ったドワーフが誰なのか知って、大変驚いた。
 彼こそ、アルフレトの愛剣を打った名工マクラホンであったからだ。
 
 アルフレトは古今の英雄譚が好きで、長子にも北方の英雄の名を贈っている。
 彼は鍛冶師に関係がある名前ということで、幼小に鍛冶屋に育てられたという竜殺しの英雄シグルトの名を生まれた男の子につけたのである。
 
 アルフレトはマクラホンに礼として、国にいる間使ってもらえるようにと、小さな鍛冶場と小屋を提供した。
 そこにしばらく留まって数々の剣を打ったマクラホンは、誰にも見せなかった鍛冶場をシグルトだけには見せ、シグルトも鉄を打つい音が響く間は上機嫌で眠ったという。
 
 マクラホンは儀式で金床に乗った姿を見て、シグルトが鉄の守護者とも呼ばれる竃の女神ブリジットと女神ダナに祝福を受けたと、すぐに理解した。
 後にシグルトが槍の道を志すと、一本の見事な槍を鍛えた。
 シグルトが9歳で狼を殺した勇気と罪を覚えておけと、マクラホンは厳つい顔で微笑み、狼を模した【ヴォルフ】という青黒いその槍を残してまた旅立ったのである。
 
 マクラホンは剣しか打たない鍛冶師だったが、唯一シグルトにだけはその槍を贈っている。
 彼の打った刀剣は“獣の銘”と呼ばれ、現在でも北方の剣士たちには垂涎の品だ。
 
 シグルトの、この由縁を知る者はあまりいない。
 彼は自分から話す方ではないし、鍛冶師マクラホンは謎めいた人物で、鍛える武具が業物という以外は居場所も性格も分からないと言われているのだ。
 
「お主は、玉鋼の女神ダナ、天地の霊母イルマタルと契約した神仙、大精霊術師オルテンシアが末裔よ。
 
 出生はダナが祝福し、イルマタルが言祝いだ。
 そう、神々が英雄となることを期待したのじゃ。
 お前の魂は、磨いた鉄のように輝いておる。
 
 神と精霊に愛された、選ばれし男、というわけじゃ」
 
 老婆はゆっくりとシグルトに近づいてくる。
 
「名を残すであろう英雄のお主とともに、自らの名を歴史に刻むことこそが、お前を見染めた神々や精霊の望み。
 英雄と関わって名を高めることは、霊格を高め、より偉大な存在になれるからの。
 
 同時にお主の力強き魂を奪わんとする者もおる。
 黄昏の後にも狂って魂を刈る戦乙女や、魂を喰らう悪神、死神どもじゃ。
 
 お主が地を這う痛苦と悲しみを味わったのは、そういた悪神の一柱、悪辣なる魂喰い“貪り”に影の一部を食われた故。
 同時に、“貪り”を屠った神仙“神狩りの灰”に出会い、不老の呪いを浴びた英雄“不折の刃”に命を救われ、諭されたお主。
 なにより、全ての神々の母…あの知られざる魔の混沌、女神ダナがお前を見初めた。
  
 その英雄性を、どれだけの神や悪魔…〈超越者〉が注目しておるのか、今のお主は分かるまいの。
 
 お主の道は、茨の道よ。
 
 傲慢なる聖北は、お主を助けることはなかった。
 だが、お主を憐れみ、力を貸す神々もおる。
 
 ゆめ、忘れるな。
 
 お主は、常に精霊と古き神々に祝福され、狙われておる」
 
 言い聞かせるような言葉だった。

 ねっとりとした妄執と、渇望する悲願の成就。
 
 老婆の眼光から感じるそれらに、シグルトは冷たい汗が脇の下を伝わるのを感じていた。
 それでも取り乱しはしない。
 
 シグルトが動じない性格なのは、この精霊が言うようにとんでもない存在に関わってきたからである。
 
 建国王の母とされる神仙に志を学び、命を恐ろしい死神に狙われたり、死神すら殺す神仙に助けられた。
 シグルトが尊敬するとある英雄は、絶望し死にかけたシグルトを救い、生きる意味を教えてくれた。
 
 超常の存在らと数多く邂逅すれば、肝も太くなる。
 
「…と、まあ、脅してみれば大して動ぜぬか。
 
 重畳、重畳。
 この程度の建前…
 有頂天になる馬鹿や、言葉の重みに狂う弱者など、このワシが認める筈もない。
 
 その泰然こそ、そしてあの若造らの〈新しさ〉も。
 お主らは、やはり面白い」
 
 くく、と老婆は笑い、やがてシグルトの目の前に立った。
 
「ワシはポダルゲ。
 神話に詳しきお主ならば、何者か分かろうな?
 
 今日は、再会と冒険者になったお主を祝い、贈り物をしよう」
 
 ポダルゲ、と名乗った老婆は、すっとしわがれた手でシグルトを指差した。
 
「旋風の娘が、お主を気に入ったようじゃ。
 
 精霊の方から力を与えて貰えるお主は、果報者よ」
 
 シグルトの周囲を、先ほどと同じ柔らかな風が包んでいく。
 
「風を纏い、戦う憑精の術。
 【飄纏う勇姿(つむじまとうゆうし)】と呼ばれる精霊降ろしよ。
 
 先程、そこな賊の居場所を教え、倒した旋風の娘。
 随分とお主を気に入っておるようじゃ」
 
 ポダルゲの声を肯定するかのように、風はシグルトの周囲を強く吹いた。
 
「その娘は名無しじゃ。
 
 名の無い精霊は、主と決めた者から名付けられることを好む。
 助けられたのじゃから、その礼と思って、名を考えるのだ」
 
 意地悪そうな笑みを浮かべたポダルゲ。
 急かす様に、旋風が舞う。
 
「…状況が理解できないが、とにかくこの恩人に名を贈れば良いんだな?」
 
 シグルトは手をかざし、風に触れるような仕種をした。
 
 シグルトに、精霊のことを教えてくれた老婆がいた。
 老婆は、シグルトに精霊術師の素質があると言っている。
 
 シグルトには精霊を見ることは出来なかったが、その息吹や存在を感じ取る能力があった。
 精霊たちはポダルゲの言うように、多くがシグルトに対して好意的だった。
 
 特に風の精霊は、シグルトにとって親しく感じられる精霊である。
 
 北方の冷たい風の精霊も、シグルトの周囲を吹く時は優しかった。
 傷つき彷徨って西方に流れて来た時、支えてくれた微風があった。
 アレトゥーザを訪れた時、南洋の海風はいつも歓迎してくれた。
 
 シグルトは自身に精霊術師の資質があることを、あまり言わず、また表に出すこともなかった。
 彼の故国は厳しい聖北教会の教えが浸透する国で、精霊信仰は教会によって禁じられていたからだ。
 自身の才能を開花させることなく、シグルトはずっとその力を隠してきた。
 
 だが、シグルトはいつでも精霊の存在を疑わず、そして受け入れていた。
 見えず、言葉が交わせずとも、そこにあるものを信じ受け入れられるシグルト。
 そんな彼に、精霊たちはいつも優しかったのだ。
 
「俺には精霊の姿を見る力は無い。
 だが、お前の導きは感じていた。
 
 先程は助かった。
 とても感謝している。
 
 俺はあまりこういうことは得意では無いんだが…
 恩人が望むならば、考えてみよう。
 
 そう…俺には見えない娘だから、〈トリアムール〉ではどうだ?
 
 偉大なる獅子王に仕えたロンファールには、妖精の恋人がいた。
 彼女はとても美しく、賢く、ロンファールにしか見えなかった。
 
 ロンファールの栄光は、この見えない恋人と共にあったという。
 
 お前が美しく、そして偉大な風であるように。
 
 〈トリアムール〉の名を贈ろう」
 
 旋風は喜びを現す様に、空に向かって吹き昇った。
 そして寄り添うように、シグルトを優しく風が取り巻く。
 
「ほっほ。
 
 精霊が契約で求める名に、〈トリアムール〉…〈愛を全うする〉とは、なぁ。
 まるで求婚のように、甘い囁きじゃの。
 
 旋風の娘は、すっかり虜になってしまったぞ」
 
 シグルトは、分からないという風に首を傾げた。
 
「…契約?
 
 名を贈れと言ったから、思いついたものを言っただけだが?」
 
 ポダルゲは、肩を震わせて噴き出した。
 
「精霊が名をくれ、というのは、親や相方になってくれという意味なのじゃ。
 
 それは、その精霊を名で支配する力を得る、ということ。
 つまりは、契約が成立したということじゃ。
 
 お主の贈った名を受け取ったその精霊は、偉大なる西風の娘。
 纏うことを許されるお主は、間違いなく勇者よのう」
 
 貴方の側を離れないわ、という風に旋風がシグルトに纏わりついて、その髪を撫でていた。
 
 困ったように、シグルトは風で乱れた髪を直しながら溜息を吐いた。
 
「…ポダルゲ、か。
 
 西風ゼピュロスの妻で、ハルピュイアイ(ハルピュイアの複数形)三姉妹、あるいは四姉妹の一人と聞いている。
 今伝わっている神話ではハルピュイアが醜い魔物にされてしまっているが、本来ハルピュイアは有翼の風の神かその眷属だ。
 
 貴女はつまり、その風の神たるポダルゲということだな?」
 
 ほほほ、と笑いながら、老婆は頷く。
 
「貴女がいるなら、このあたりの様子も理解できる。
 
 花一輪、咲いていないわけだ」
 
 散々笑われたシグルトは、ここで反撃に出た。
 ポダルゲは、不機嫌そうな顔になり、そっぽを向く。
 
 ポダルゲの夫、西風ゼピュロス、あるいはゼファーと呼ばれた風神は好色で有名である。
 その愛妾の一人には花の女神であるフローラもいて、ポダルゲとは仲が悪い、というわけだ。
 
 伝説では、ハルピュイアは花一つ咲かない毒の沼地に出現するとある。
 あるいは荒れ地や岩場の荒々しい風を象徴するのが、彼女たちだ。
 
 シグルトの聞いた話では、ポダルゲが植物の女神の筆頭のフローラを嫌ってのことだという。
 
「ふん、罰当たりな奴じゃ。
 
 神との邂逅に物怖じもせず、さっそくにも笑われたことの仕返しをするなど…
 儂の知る神にならば、殺されておるぞ」
 
 たしなめるポダルゲに、気をつけよう、とシグルトは苦笑して返した。
 
「しかし、〈ポダルゲ(足の速い女)〉という名に恥じない移動力だな。
 
 ここから貴方と逢ったイルファタルまで、数か月かかる距離だ。
 風の精霊術には、そんな術もあるのか?」
 
 シグルトの質問に、ポダルゲは頷く。
 
「知らぬだけで、すべての者は大気に触れておる。
 風とはその大気の流れじゃ。
 
 なれば、風を掌握した者は誰よりも早く、誰よりも見事に動ける。
 武芸の達人ともなれば、最後に行き着くのは、武具を振う時に風の抵抗をいかに少なくするかを考えよう。
 
 あるいは空を飛ぶ術。
 竜巻はかつて神々の乗り物であった。
 
 お主の纏うべき旋風の娘も、お主の不自由な足や身体を支えてくれるじゃろう」
 
 ポダルゲの言葉に呼応するかのように、シグルトの周囲の風がふわりと動いた。
 

「…そろそろ俺はペルージュに戻る。
 
 旅の道具もすべて置いてきてしまったからな。
 血は止まったようだが、しっかり傷の手当てもしたいし、転がっている盗賊どものことも官憲に知らせる必要があるな。
 
 トリアムール、本当に俺についてくる気か?」
 
 シグルトが風に向けて問うと、その旋風はシグルトの周囲をくるくると回った。
 今更何を、と怒っている様子である。
 
「往生際の悪い奴じゃ。
 
 風の目からは、何処におっても逃れられぬと知れ」
 
 ポダルゲの言葉に、シグルトは苦笑して頷いた。
 
「ならば、よろしく頼むとしよう。
 
 これから力を借りるぞ、トリアムール」
 
 旋風トリアムールは、まかせて頂戴、とばかりに強く吹いた。
 
「ではな、ポダルゲ。
 
 といっても、風が吹く処、貴女はどこかで見ているのだろうが」
 
 ポダルゲは、ただ皺だらけの顔を少しほころばせて、風に吹かれていた。
 
 シグルトは彼女を一瞥すると、ペルージュへ続く坂道を下り始める。
 去って行くシグルトの背中を見つめ、ポダルゲはしわがれた声でぼそりと呟く。
 
「…ワシの娘を、よろしくな…」
 
 その言葉はすぐに空に融け、後には荒々しい風だけが吹いていた。
 
 
 ペルージュに戻ったシグルトは、取り戻した装飾品を細工師に返し、役人に盗賊たちがどこで縛られているかを伝えた。
 役人たちは、門番を害されたことを重く見たのか迅速に動いてくれ、盗賊たちはすぐに捕縛される。
 
 シグルトは背の傷をアフマドに診てもらい、数日をクリストフの教会で過ごした。
 背の傷には悪い風が傷から入らないように、近くの炭焼きからもらった木タールを使う。北方では代表的な治療法で、木タールは「体の真ん中を真っ二つに切られた傷でさえ癒やす」と言われていた。
 木タールには高い抗菌作用があり、現代では発がん物質が含まれるなどと言われるが…アルコールのようにすぐ揮発しないため薬草などに混ぜた場合は傷薬として重宝されていた。
 シグルトに塗られたのは、アフマドと一緒にシグルトが開発した薬草入りの希釈木タールで、切り傷にはすこぶるよく効く。

 治療の間にペルージュの役人から盗賊を捕まえた報酬として、銀貨三百枚を貰う。
 
 一方、クリストフは聖母のカメオをレノールに贈ることができ、レノールはとても感激したそうだ。
 アフマドの見立てだとレノールの耳は、彼の考案する治療法ならば完全に治るまではいかないものの、難聴程度にまでは回復できるだろうとのことで、補聴器を付ければ人並の聴覚が得られるかもしれないとのことである。
 
 シグルトは背中の傷が塞がると安心したように、アフマドのその後をクリストフに任せて旅立つことにした。
 
「またペルージュに来ることがあったら、寄ろう。
 
 元気でな、アフマド」
 
 不精髭の生えた顎を撫でながら、お前もな、とアフマドが薄く笑う。
 
「いつでも此処に寄ってください」
 
 クリストフの言葉に頷き、シグルトは一緒に見送ってくれるレノールを見た。
 彼女の胸元には、真新しい聖母のカメオが輝いている。
 
 シグルトは、レノールに「治療、頑張れ」と手話で伝えると、ペルージュを後にする。
 彼に寄り添う旋風トリアムールが、柔らかな微風を起こして街道の草木を優しく撫でて行った。 



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2018年05月
  1. 『防具屋』(05/30)
  2. 『Guillotine』(05/18)
  3. 『魂の色』(05/17)
  4. 『風たちがもたらすもの』(05/09)
  5. 『風繰り嶺』 風纏いて疾る男(05/03)