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『碧海の都アレトゥーザ』 午後の余暇

2018.11.27(15:12) 485

 南海はアレトゥーザ。
 そこにある〈鼠〉の巣穴…すなわち盗賊ギルド。

 〈鼠〉とは盗賊のことだ。
 人間の生活圏に混じって、利潤をかっさらう。
 ある賢者が言った…人間が消え去った後、真っ先に滅ぶのは、人間の生活に寄生しきった鼠たちだと。

 暗がりのドブ、粘着いた悪臭のする泥水の中を、連中は走り回る。
 旨い物=いい話は無いものかと。

「…まだ坊主の真似事やってやがるの?
 敬虔な振りをするのは腹いっぱいだわ。
 胸糞が悪くなるぐらいに。

 うちの年寄り〈羊飼い〉の、説教は鬱陶しいのよ。
 たまにはしゃれた酒屋で上等なラム肉のソテーでも食べながら、背徳的な美酒を煽りたいものね」

 教会近くにある盗賊ギルドの連絡所に案内されながら、レベッカはアレトゥーザで盗賊ギルドの幹部を任されている隻眼の男…ファビオに毒づいていた。
 羊肉を所望する当り、相当に皮肉を込めている。

「まったくだ。
 ボスの考える謁見作法にはうんざりだぜ。
 〈鼠〉に信心深い振りなんぞさせても、ミミズみてぇな尻尾で汚水を跳ね上げて、くだらねぇと連呼するのがオチなのによ。
 下っ端に餌探しを押し付けて、どこぞの人妻を寝取ろうとでかい腹揺らしながら飲んだくれてる様子が目に浮かびやがる。

 〈子羊〉だって、薄ら冷たい四角い目だ。
 坊主の真似事なんぞしてると、そのうち俺の目ん玉まで角が立ちそうだぜ」

 〈羊〉や〈子羊〉は教会信徒のことを指し示す符丁である。
 〈羊飼い〉は聖職者のことだ。

 大半の盗賊は不心得者が多い。
 半ば犯罪者と言える盗賊は、その立場に至るまでに様々な苦労をしている。
 戒律を守り、清らかに生活するなど不可能。
 そういう過程でバッサリと信仰心を失うのだ。

「ま、他所様んとこで作法の良し悪し話しても腹は膨れないわ。
 本題に行きましょうか。

 結局、今の〈鮫〉騒ぎで、どんだけ〈漁師〉が駆り出されてるのよ?」

 アジトにつくと、レベッカはストレートに「いま海賊騒ぎで冒険者が駆り出されている状況」を尋ねた。

「ここいらじゃ〈家族総出〉だ。
 残ったのは毛も生えてねぇ〈餓鬼んちょ〉か、耄碌した〈年寄り〉、後は〈流れ者〉ぐらいさ。

 〈鮫〉の方が群れてて獰猛でな。
 狡賢い野郎が混じってるんだよ」

 〈漁師〉とは、〈鮫〉…すなわち海賊を狩る側の人間で、今回のような場合は冒険者のことを指す。
 〈家族総出〉はパーティのほとんどという意味である。
 〈餓鬼んちょ〉は新人、〈年寄り〉は怪我人や引退した冒険者、〈流れ者〉はこの都市以外の冒険者をそのまま指す。

 ファビオは、実質アレトゥーザの冒険者はパーティ単位で動けないと言っているのだ。

「ふぅん。
 なら、私らがちょっくらここの河岸で魚を釣っても、地元の連中とはもめないかしらね。

 お魚の群れに〈田舎者〉(ホブゴブリン)がいるって話なんだけど、〈領主〉とか〈英雄〉が交じってるようなやばい噂は無いわよね?」

 〈領主〉はゴブリンロード、〈英雄〉はゴブリンチャンピオンと呼ばれる変異種だ。
 敵勢力の情報は命にに係わることだ。

 レベッカは外様の自分たちにゴブリン退治の依頼が来る時点で、盗賊ギルドの方も多少動いていると見ていた。

 本来盗賊ギルドとしては、都市外の冒険者が地元の依頼をすることをあまり好まない。
 何れ出て行く冒険者が、討伐のような実入りの良い仕事をするということは、すなわちその都市の人材が不足しているという情報そのものになるのだ。
 勢力的にどこかのコミュニティが弱体化すると、影響を真っ先に受けるのが、情報を統制する裏の組織である。
 外の人間に弱みを見せたくないため、外様の冒険者が仕事を受ける場合は何らかの印象操作、情報操作をすることも多い。

「そうさな…〈まじない師〉も交じってなかった様子だが、ちょいと〈田舎者〉と下っ端ばかりにしちゃ、統制が取れてたみたいだ。
 上位種がいなくてこういうパターンだと、まず〈黒兎〉や〈山羊〉が混じってやがるかもだ。

 あんたらが受けてくれるならありがてぇ。
 名が知れてる分、義侠心で受けた流れで噂を流せるからよ。
 そん時は俺がケツを持つ。
 気を付けてやってくれ」

 〈まじない師〉はゴブリンシャーマンのこと。
 〈黒兎〉はダークエルフ、〈山羊〉は悪魔崇拝者や邪教徒を意味する。

「げぇ…マジ?
 〈黒兎〉が混じってたら、倍は貰わないと話にならないじゃない!

 もし野郎の黒い耳を掴んだらくれてやるから、あんたたちの方からも増額しなさいよね」

 ダークエルフ。
 邪悪な行いに染まった黒い肌のエルフである。

 エルフ、というのはこの世界に人間同様に存在する亜人種のことだ。
 基本的に人型で、人間に近い知性を持ち交渉が可能なものを亜人、まともな交流ができないものは妖魔として扱われる。

 エルフは精霊を祖とする妖精の末裔であり、森を拠点に活動するウッドエルフや砂漠を放浪するデザートエルフ、高度な文明を築いたハイエルフ…
 様々な種類が存在する。

 そして、闇の精霊や邪教と深く関わり、肌の色が黒く変わったものをダークエルフと呼んでいた。

 ダークエルフは、そもそも存在自体が異端とされ教会組織からは忌み嫌われており、普通のエルフたちからも不倶戴天の敵とみなされていた。
 加えるなら、そのように扱われてしかるべき行動をするものが多く、ダークエルフと言えば犯罪者や反社会主義者であるということも珍しくない。

 レベッカの言う黒い耳とは、ダークエルフ関連の情報を示し、別の犯罪組織がその後援にいる場合はアレトゥーザの盗賊ギルドでも重要な情報となるからだ。
 得意海賊が暴れまわっている時に連動しているため、妙にきな臭いと感じていた。

 優れたダークエルフは、持った力を背景にゴブリンなどの下級妖魔を統率して度々問題を起こし、実力は中級冒険者を凌ぐこともある。
 もしダークエルフが首魁となる討伐であれば、銀貨千枚ぐらいは貰い受けるものだ。
 ついでに報酬を増額するために手を打つ、ということである。

「ま、しゃあない。
 ちょうどいい〈網〉(手段…この場合は技能のこと)も手に入れてるし、うちのリーダーに話しておくわ。

 他には何かない?」

 前渡しで情報料代わりのネタはは渡してある。
 それで手に入る限りの情報を、とレベッカが促すと、ファビオはここで真顔になった。

「…ちょいと噂なんだがな。
 この間お前んとこの色男に尻雑巾させられた坊主だが、“獣(ベスティア)”と接触を取ろうとしてるみたいだな。
 提示した報酬が安くて、今回は野良犬を飼うのが精いっぱいだったみたいだが。
 “獣(ベスティア)”は最近、南海で仕事してる素手の格闘術を芸にした凄腕の用心棒だ。

 野良犬の中に一匹結構やんちゃのがいる。
 血に飢えてる奴だから気を付けてな。

 あと、とんでもねぇ〈虎〉がもう一匹南海に住み着いた。
 “紅き月”が南海にいるってのは聞いてるか?」

 レベッカが後の方に聞いた二つ名に、ばっと顔を上げた。
 冷たい汗が滴る。

 暗殺業に身を置いたこともあるレベッカは、同じ業界の実力者のことを聞き知っていた。
 彼女の知る限り、殺し屋や暴力を生業にする者たちの中で台頭した新参者では、最高峰の一人。

「…“紅き月”って“血塗れの暴龍”とか“鉄の鱗”とか、複数の二つ名で呼ばれてる仕事請負人よね?
 ここ何年かで大暴れして、業界の新人では化け物って言われてる…

 白昼堂々、護衛に囲まれてた要人の首を刎ねて逃走したとか、山ほど矢を撃ち込まれたのに避けもせずに跳ね返して十人斬り殺したって馬鹿みたいなことやってのけたって聞くわ。

 ほとんど情報が入ってこないんだけど、最近組織を一つ潰したって噂があるわね」

 ファビオが頷く。

「…噂じゃねぇ。

 この間フォルトゥーナの悪党の巣窟に、たった一人で殴り込んで皆殺しにしたのかそいつだ。
 数で脅して引き込もうとした暗黒街のボスをぶった斬ったらしい。
 十人以上いるそれなりの護衛を、単身で突っ切ってな。

 子供を殺すのと盗み以外は、金次第で要人暗殺から用心棒まで荒事専門で請け負うそうだ。
 律義だが、敵には容赦しない徹底した仕事っぷり。
 アンデッドも真っ青ってぐらいタフで、三階から壁を駆け下り、泥濘で飛び跳ね、橋の欄干の上を走って追っ手を撒いたんだとか。
 多分、野伏どもが使うような悪所の踏破術をマスターしてやがるんだろう。

 俺の所の情報じゃ、東宝系の名を名乗ってるらしい。

 やばい奴だから、関わらないように気を付けてな」

 レベッカは、「心するわ」と眉根を寄せた。


 賢者の塔に寄ったロマンは、図書室に行きたいのを我慢して、今日アレトゥーザに戻ってきた旨を報告した。
 一応は派閥に属する魔術師学院連盟…学連にも籍を置く魔術師だからだ。

 面白い講義を開かないかチェックし、図書室が閉まっている日や、著名な魔術師の滞在等を調べ、同門を見かけたらできれば声をかけるつもりだった。

 めぼしい情報が無かったため、つまらなそうにしていると眼鏡をかけた魔術師…エルネストが声をかけてくる。

「ロマン君、久しぶりですね。
 
 今はアレトゥーザ中の魔術師が海賊退治の関係で海軍に駆り出されていますから、ろくな講義が無いでしょう?」

 何度かと種室に通ううち、ロマンはエルネストと懇意になっていた。
 この魔術師は優秀で、南方大陸から渡ってきた魔術の講義なども行っている。

「お久しぶりです、エルネスト師。
 ついこの間までフォーチュン=ベルの方にいたのです。

 調合術の方を少しばかり齧ってきました」

 そういって、道具袋から【知恵の果実】や【若返りの雫】を取り出す。
 いつもは無表情なエルネストの眉がピクリと動いた。
 ロマンの出したそれらが高品質であることを見抜いたからだ。

「これは…。

 君なら奥義と言われた【エリクサー】や、伝説の【賢者の石】に手が届くかもしれませんね」

 過分な評価に、今度はロマンの方が困ったような表情になった。

「実はこれらは失敗作なんです。
 効果自体は一般のものより高いけど、それ以降に材料として用いようとしても調合ができません。

 推測ですが、【エリクサー】に至るにはもっと振り幅がある普遍的な品質の方が良いのかも。
 次に機会があれば、試してみるつもりです」

 ロマンの出した答えに、エルネストは「なるほど」と興味深そうに頷いた。

「…これらの調合ができることは、あまり公けにしない方が良いでしょう。
 調合法を悪用すれば、莫大な富を生み出せます。
 賢明なロマン君はそのような愚かなことはしないでしょうが、あなたのような年齢の者がそういった力を持っていれば、取り込もうとする輩も必ず現れます。

 特に老害とも言える魔術師たちには。
 金は実権や地位を得るために役立ち、若返りや万能の薬は彼らに邪な時間を与えるでしょうから」

 不意にエルネストがそのような忠告をする。
 ロマンは「わかっている」というふうに頷き返した。

「そのあたりは大丈夫です。
 最近僕のパーティのリーダーが、貴族と懇意になりましたから。

 “風を纏う者”は伯爵家の御用冒険者というわけです。
 その手の老害は、狡賢いですから手は出せないでしょう。

 僕がエルネスト師に話すのも、半分は僕らにちょっかいをかけるなと知らしめるためです。
 知識と技術があることを示して興味を持たせ、背後を調べさせて身を引かせる。

 こういう情報の使い方は、師の方が心得てらっしゃるでしょうから」

 実力を示し、権力を背後にちらつかせる。
 黒い手段だが、有象無象の欲深な人間を退けるのには手っ取り早いのだ。

 人の好い様子をさらしていればむしり取られる…だから力を示して遠回しに周りを威圧するのは、魔術師が良く行う社交術である。
 
「君のような少年が、〈畏怖の外交〉を使うのですか。
 末恐ろしいですね。

 賢者の塔は君を決して軽んじないでしょう。

 ただ、先日ちょっかいをかけてきたような輩もいますので、油断はしないように。
 彼の御仁は先日人体実験をして学連から追放され、素行の良くない人々と付き合っているようですから」

 ロマンは、前に難癖をつけてきたヒギンという魔術師の濃い髭面を思い出し、げんなりとした。 


 ラムーナとジゼルは連れだって、アデイを訪ねようとしていた。

 ラムーナは、しばらく依頼で出かけることを報告するため。
 ジゼルは、本格的な舞踏を学ぶためである。

 アデイは、大運河の側にある劇場跡で海を眺めていた。

「なるほど。
 事情は分かったわ。
 私は身体が不自由だから、踊って教えることはできないけれど、あなたの舞踏家になりたいって夢は全力で応援するわね。
 その気持ち、とってもわかるから。

 ジゼリッタさんだったかしら?
 まずは体力をつけないといけないわね。

 舞踏の基礎は、最後まで踊り切ること。
 あなたは動作に関しての才能はあるけれど、姿勢を長時間維持したりするのは苦手そうね。

 まずは体臭を消し、筋が角ばって見えないようにできるだけ内部の筋肉を鍛えて、徹底した柔軟さを得るための食生活をしないと。
 そのために、アレトゥーザの海産物と南海地方の果物をたくさん食べてね。
 体力を維持するためにものすごく動くから、肥える心配は全くないわ。

 身体の柔軟運動はそれなりにできるみたいだけど、まだ硬そうね。
 きっと躍動的な踊りではなく、舞のようなゆったりとしたものが素地になってるのでしょう?

 大都市で開かれる舞踏の大会では、躍動感と流麗さの両方ができて初めて及第点。
 両方できるように技能を磨いて行きましょうか」

 話を聞いたアデイは快諾して、ややフライング気味に今後の方針を話し始めた。
 新しい弟子ができたことが嬉しいのか、黒曜石のような瞳がキラキラしている。

 ラムーナは芸能として舞踏を極めるつもりが無いのだそうで、アデイは「せっかく才能が」と残念に思っていたのだという。
 舞踏家であれば、大抵の者は披露する場を求め、その道で成功することを夢見るのにだ。

「う~ん、私って冒険者だから、仲間と一緒にいられて生活できればいいんだ。
 闘舞術も、私に一番合ってる戦いの技術だったから。

 私は舞踏家だけど、第一に戦士なんだよ」

 元々最底辺の生活だったラムーナにとって、優先すべきは生活に役立つ技術であり、仲間に貢献することだ。
 愛する姉を病で失い、親に売られたラムーナは、手に入れた“風を纏う者”という居場所を失うことが最も恐ろしかった。
 冒険者として経験を積む上で、自分に求められる役割は何かちゃんと自覚している。

 冒険者をしながら舞踏で成功することを夢見て、二足の草鞋を履こうとしているジゼルは考えが甘い。

 でも生々しい話でジゼルの夢を貶めるのはあまりに無遠慮。
 天真爛漫に見えて、ラムーナは周囲の空気を読む女の子なのだ。

 妬ましいほどに、ジゼルには才能がある。

 ラムーナは自身の才能をよく自覚していた。
 身体は軟らかいし俊敏ではあるが、自分の才能はあくまでも常人より優れているライン。
 決して天才の類ではない。

 対して、ラムーナの周囲にいる仲間たちは天賦の才能を持った者ばかりだ。

 リーダーのシグルトは、英雄となりうる器と期待され、結果を出し続けている。
 レベッカの器用さと狡猾さは盗賊として最高峰だ。
 ロマンは子供でありながら大人の学者を論破するほど頭が良い。
 スピッキオは聖職者としての地位を持ち、治癒の神聖術を使いこなせる。

 貧民出身で奴隷身分を経験し、春を売る姉を見て両親に虐待されながら育った。
 生まれた時から「いらない存在」と親に断じられ、姉に依存するしか生きられなかった少女時代を過ごしたラムーナは、自分が役立たずになって捨てられることが何より恐ろしいのだ。

 シグルトたちは絶対に自分を見捨てないと分かっているし、信頼してもいる。
 それでも、冒険者は〈険しきを冒す者〉。
 いつどこで誰から野垂れ死ぬか分からない…だから、ラムーナの中には過分な夢を持つのは贅沢だと思っている。

 多くの人間は、現実的なことを少しでも言葉にすれば、そんなことは無いと怒りだす。
 平等と人権を謳う思想家が実際はただの働かない借金魔だったり、自分は実はお姫様で運命の王子様が迎えに来てくれると信じている頭がお花畑の小娘は気が付けば薹が立っている。

 かつて戦で負傷し退役させられた父が、自慢げに何人の敵を殺したか語っていたが、「なぜ軍隊に戻って兵隊をしないの?」と聞いた弟は、普段ラムーナよりも可愛がられていたにもかかわらず歯が抜けて顔を血塗れにするほど父に殴られた…自分が同じ言葉を口にしてたなら殺されていただろう。

 作り笑いをしながら、今の自分は嫌な目をしているのだろうと自己嫌悪する。

「私、実は心臓の病気なんです。
 最近は調子がいいけど、そのせいで小さい頃から激しい運動をさせてもらえなかったので。

 こんな私でもちゃんとした舞踏家になれるでしょうか?」

 ラムーナの考えに気付きもせず、アデイに体力の無さを指摘されたジゼルは、不安そうに問うた。

 「心臓の病気なの…」とアデイは少し暗い表情になった。

 昔から心臓を病んでいた人間は多い。
 運動をする者にとって大変な妨げになることも知られていた。
 心臓移植などの技術が無い時代、この類の病気はほぼ不治の病でもある。

「…あのね、ジゼルさんは病気以前に呼吸の仕方が悪いんだってシグルトが言ってたよ。

 心臓病の人は動悸のせいで呼吸が切れ切れになるから、肺に残った息を全部吐いて新しい空気を吸い込まないといけないんだって。
 古い空気が肺に入ったまま次の呼吸をすると、疲れやドキドキが治まらないし、心臓を締め付けた状態が続いて良くないの。
 急激な呼吸は心臓を締めることがあるし、病気によっては深呼吸が逆効果になる人もいるらしいけど、ジゼルさんの病気には呼吸とそのために使う筋肉の鍛錬がとっても大切みたいだよ。
 そういった身体の中の筋肉を鍛えることで、心臓の筋肉にかかる負担も少なくできるんだって。

 舞踏家って、踊りの間に的確に呼吸をして、その空気でメリハリのある動作をするから、まず呼吸のための姿勢と正しい呼吸の仕方をマスターすればいいんじゃないかな?

 私、冒険者になりたての頃は猫背で姿勢が悪くて、上手く呼吸ができなくて今の半分も体力が持たなかったんだ。
 シグルトに言われて、アデイ先生に体幹を矯正する姿勢の取り方を習って、上手に息が吸えるように呼吸筋っていう筋肉を鍛えたら、私の心臓もドキドキするの抑えられるようになったから。

 私もジゼルさんの先輩冒険者として、主に生存術(サバイバル)と養生術(健康法)の教育担当になってるから、一緒にいる時にやり方を教えるね」

 昼食の時の相談で、シグルトが一般的な冒険者の知識と護身術の指導、レベッカが斥候の技術と地形踏破のやり方を、ロマンが主要言語と怪物や動植物の知識教育、スピッキオが宗教と法律に商業知識などを教導する算段になっていた。
 ラムーナは生活や生存にに関わることの指導になっていた。

 無茶をするはずの冒険者になぜ養生術が関係するのかというと、実は生水を飲んで腹を壊した後の回復の仕方や、攻撃によってダメージを受けた場合に身体に歪みを残さず回復することも、生き残るために大切な要因だからだ。
 意外と知られていないが、傷薬の飲み過ぎで引退後に光を忌避するようになったり、骨折の後遺症で歩けなくなる冒険者は多い。
 骨接ぎの仕方や、怪我をした時に破傷風にならないための応急処置、傷の縫い方、一般的な薬草の知識など、憶えることは多岐にわたる。

 “風を纏う者”の中でこういったことの第一人者は、間違いなく医術に通じたシグルトなのだが、  彼は〈同性〉のラムーナにそれを任せた。
 養生術には、女性特有の生理現象や野外生活における着替え方などのノウハウも含まれており、ラムーナはそれらをレベッカに教わっている。

 「お手柔らかにお願いね」とジゼルが上目遣いで見返すと、ラムーナは俺はそれはいい笑顔で「うちの方針はスパルタだよ~」と切り返すのだった。


 スピッキオは教会でマルコ司祭に旅立つ挨拶をしていた。

「そうですか。ゴブリン討伐に。
 確かに海賊の活動が活発で、怪物の討伐依頼が疎かになっていますからね。

 議会制のアレトゥーザは、君主制の国家よりはそういった討伐にも援助金を出すのですが、融通の利かない性質もありますから」

 先日船の衝突事故で多数の死傷者が出た時、新しい神聖術を習得したスピッキオが多くの人間を救ったことで、教会の穏健派に属する聖職者はスピッキオに敬意を払うようになっていた。
 アレトゥーザの教会で多くの聖務を任されるマルコ司祭もその一人である。

 マルコ司祭は、アレトゥーザの聖海教会では穏健派の筆頭として知られていた。

 聖海教会は今、大きく分けて三つの派閥がある。

 一つ目が保守派と呼ばれる原理主義者たちで、精霊信仰や土着信仰を排斥し、厳しい異端弾圧と正義を重んじる派閥。
 二つ目が穏健派と呼ばれる平和主義者たちで、土着の信仰や異教・異文化との折衝を行い共存をするべきとする派閥。
 三つ目が中立派あるいは修道派と呼ばれる者たちで、事なかれ主義か俗世の些事に関わるべきではないと考える派閥である。

 スピッキオは元は修道派の修道士であり、修道院を追われて聖職者となり、巡礼を経て穏健派になった過程がある。
 そも中立派は派閥などを意識していない者が多く、紛らわしいことにスピッキオが修道院にいた時は「修道院の中の派閥」で凌ぎ合っていた。

 現在のアレトゥーザにおける教会事情は、保守派の方が多いものの、穏健派として教会の若手におけるまとめ役のマルコ神父とアレトゥーザの市長が穏健派であるため、勢力が均衡している状態だ。

 スピッキオ自身は自分の立場に頓着していないが、実際のところはマルコ神父に次ぐ穏健派の中核的な聖職者として認知されつつある。
 実家は南海でも有力な商会であり、会頭である兄はスピッキオの教会に多大な援助をしてくれる立場にあった。
 シグルトを通じて、西方貴族との縁を取り結ぶこともしたため、交易を行う立場の商人たちも穏健派に加わり始めた。

 保守派を信奉するのは、原理的な教会崇拝者や、精霊術師が精霊宮を放棄したことで災害による被害を受け逆恨みをした人間に多く、古い権威にこだわるアレトゥーザの議員や、交易によって仕事を奪われた者、貧しい民なども加わっている。
 悲しい話だが、生活苦に喘ぐ者は何かを憎むか信仰に縋ることで精神の均衡を保つ者が少なくない。
 交易品の輸入で仕事を失った職人や、土地の汚染で食物の栽培が難しくなった貧しい農夫たちは、ことさら精霊術師を目の敵にしている。

 南海における保守派の指導者は、現在法王庁において法王選定会議(コンクラーベ)で法王候補として挙げられているマツォーニ枢機卿である。
 貧民の救済を掲げる潔癖な人物だが、あまりに潔癖な性格がたたり、法王選定会議では不利という話であった。

 保守派の中にも賢人はいる。
 しかし、現在は一部の原理主義者が暴走して、精霊術師や異教、女性を差別する過激派が勢力を持ち、暴力で攻撃する事件が増えていた。
 マルコ司祭やスピッキオも、ミサを妨害されたり、説教の最中にヤジを飛ばされることは頻繁にあり、神聖術の【聖なる矢】で演台を破壊されるといった事態まで起きている。

 スピッキオとしては、ゴブリン退治や他の都市に行くということで、一旦アレトゥーザを離れるのは都合の良い。
 彼がいることで保守派の心情を逆なですれば、周囲の人間が被害に及ぶかも知れない。

 幸い保守派の側にも過激派の暴力を苦々しく思っている者たちがおり、距離を置いて頭を冷やせば、彼らが暴走を鎮めてくれる可能性が高い。

 シグルトの提案でペルージュに行くという話も、有難い話であった。
 
 ぺルージュの司教座に属す知人の教会が、風繰り嶺の側に広がる荒野にあった。
 修道士として修業する頃に後輩として世話を焼いた縁があり、特別な才能を見込まれて修道士から退魔師となって聖北教会に即すようになってからも、ずっと手紙をやり取りする仲であった。
 その人物は今は司祭位になり、教会の異端裁判によって生まれた孤児や、悪魔の憑依によって人生を狂わされた子供たちを引き取り、人の行き来が少ない荒野に教会を建てて子供たちを育てているという。

 縁が無くなかなか彼の教会を訪ねられなかったが、この機会に訪問して一晩信仰について語り明かすのも悪くない。

 挨拶を終えたスピッキオが神に祈ってから、一足先に宿に帰還しようと礼拝堂に入ると、祈りの姿勢でロザリオの珠を繰りながら祈る信徒の姿を目にした。
 澱みの無い神聖語の祈りの言葉は、聖典に書かれたものをそのまま丁寧に読み続けたからこそできる、熟練したものだった。

 関心関心と側に近づくと、その人物はスピッキオに気が付いたように祈りを止め、無言で頭を下げた。

「これは失礼した。
 祈りを遮るつもりはなかったのじゃ。

 どうぞ続けなされ」

 スピッキオに促されると、その人物はもう一度頭を下げ、祈りへと戻った。

 まだ若い。
 ラムーナと同じぐらいの年頃だろうか。

 紺色の質素な服に腰には剣を佩き、背丈は高くも低くも無い。
 中性的な外見で肌は雪のように白い。
 扁平な造形ではないが、東洋系のエキゾジックさを感じさせる顔立ち。
 伸ばした曲の無い黒髪と神秘的で深い色の瞳は、西方ではあまり見られない類のもの。
 端正な顔立ちをしていて、一目では美しい少年なのか男装の美少女なのか判断がつかなかった。

 男性にしては高く女性にしては低い、優れた肺活量から発生される深みを備えた音声。
 喉を見て、男性には見て取れる凹凸が無いことで娘であると初めて判断できた。
 
 ロザリオの珠を一周繰り、祈りを終えたその娘は立ち上がると、スピッキオにもう一度礼をした。

「随分熱心に祈っておられたの。

 感心なことじゃ」

 称賛の言葉をかけると、娘は「いいえ」と首を横に振った。

「私は、全ての戒律を守れない業深い身の上で御座います。
 天国に行くことはできますまいが、せめて懺悔のために祈っているのです。

 司祭様より、お褒めの言葉を戴く資格など御座いません」

 その言葉でスピッキオは事情を察した。
 彼女の伏せられた目は、ちらりと腰の剣に向けられたのだ。

 おそらくは冒険者か傭兵。
 人を殺したことがあるのだろう。
 
「御国の門は、信心深き者すべてに開かれておる。
 悲観せず真摯に祈りなされ。

 すべての罪が主の愛で贖われたように、あなたの祈りも天に届いておるじゃろう」

 少しだけ目を見開いた娘は微笑むと、もう一度頭を下げて去って行った。

「あのような敬虔な者も手を血に染めるのか。
 物悲しいことじゃの。

 主よ、あの娘御の未来を照らしてやって下され」

 スピッキオは、いつもの祈りとともに、今日出逢った敬虔な娘のために祈るのだった。
 

 精霊術師レナータは夕暮れの町並みを独り歩いていた。
 
 普段は買い物以外めったに外出せず、『蒼の洞窟』にいることが多いレナータだが、今日はなんとなく外に出る気になった。
 
 今まで独りでいることは平気だった。
 何とか生きてきたし、普通の人に精霊術師という力や感覚を無理に理解してほしいという気持ちでもなかった。
 孤独という状況には慣れていたはずだ。
 
 でも最近、ふと無性に寂しくなって思い出す人たちがいた。
 
 自分と同じ精霊術師としての才能に溢れ、もうすぐレナータを凌ぐのではないか、と思わせる人物がいる。
 レナータに精霊術を学ぶため、『蒼の洞窟』に時々やってくる冒険者の若者だ。
 
 最初の頃は気弱な気配があったその若者は、先日再会した際、瞳に自信が漲っているのを感じた。
 精霊術師として共通の感覚や知識を持っていることから、あまりしゃべらなくても分かり合える、親近感のようなものがある。
 おそらくそれが〈同属〉の共感なのだろうとなんとなく思う。
 
 互いに理解し合える、同じ何かを持った者同士。
 
 言葉で表現するのはとても難しいが、その若者に精霊術を教えるととても充実した気分になった。
 新しい精霊術を習得し、瞳を輝かせていた彼を思い出し、レナータは頬を緩めた。

 他にも、自分に好意を寄せてくれる人間は複数存在する。

 最近新しい交易路ができたことで、リューンなどの西方都市からどっと人が流れ込んでいた。
 特に冒険者。

 アレトゥーザには、過去精霊術師と教会との間に大きな諍いがあった。

 自分が師との旅を終えてアレトゥーザにやってきた時、すでにこの都市の多くの人間が精霊術師を悪いものと考えるようになっていた。
 精霊宮か放棄されており、度重なる自然災害がアレトゥーザを襲ったことを、教会は精霊術師の職務放棄のせいだとして喧伝し、それを信じている人間が多い。
 多数派とそこに住む者たちの事情こそが、常識という正義になるのだ。

 師レティーシャに水の精霊術の手ほどきをしてくれた恩師、カッサンドラという精霊術師がいた。
 優れた精霊術師であり、名門カヴァリエ―リ家の遠縁に当たるというその女性は、精霊宮で水害を防ぐ部門の責任者であった。
 水の上位精霊である水姫アレトゥーザの召喚に成功し、穢れた水を浄化して人々の病を癒した彼女は、蒼の洞窟に南海の海路へと襲い掛かる海の魔物を退けるための装置を設置し、祖国を大いに発展させる貢献をしていた。
 
 カッサンドラは異国や異文化との交流を推奨する先進的な考えの持ち主でもあった。
 ウッドエルフであるレティーシャにも種族的な差別をせずに接してくれたという。

 当時さらなる十字軍の東征を企画していた教会は、異教徒たちとの交流の中核でもあったカッサンドラを疎ましく思っていた。
 精霊術師たち、特に水の女精霊術師を、水害を自分で起こしそれを鎮める自作自演の魔女だと因縁をつけて迫害し始めたのもその頃からである。

 これに対し、カッサンドラは「アレトゥーザ市の交易に東征は毒である」として、商人たちを味方につけて十字軍の編成を阻止しようとした。

 十字軍を聖務と考えていた教会と結託していた一部の聖堂騎士たちは、カッサンドラの言葉に怒って暴走し、弟子を人質にしてカッサンドラを拘束、魔女として火刑を宣言した。

 死ぬ覚悟を決めたカッサンドラは、密かに水姫アレトゥーザの聖女化を画策していた教会の目論見を見抜いて召喚の奥義書をカヴァリエ―リ家に返還し、弟子たちの命を救うため火刑を粛々と受け入れた。
 弟子たちはカッサンドラとの約定で命は救われるはずが、それを破った騎士たちによって殺されそうになり、精霊宮の他の術師たちによって助け出される。
 数々の悪行に怒り狂ったカッサンドラの弟子たちは、火刑に携わった教会の高僧数名と騎士たちをケルピーの力によって溺死させる事件を起こす。
 十字軍計画はこの事件で頓挫し、教会は少なからず汚名を負うことになった。 

 当時の市長は、ことの重大さを感じ取って緘口令を引いた。
 あまりにアレトゥーザと言う都市にとって不名誉な事件であったからだ。

 教会の名誉を重んじるという名目で事件を「不幸な行き違いと一部の人間の暴走」として処理し、カッサンドラの処刑に携わった僧侶と騎士たちを教会の穏健派が破門に、復讐に携わった精霊術師たちは国外追放となった。
 カッサンドラの魔女狩り事件があまり明るみに出ていないのは、都市議会と教会の共謀による隠蔽工作のためなのだ。

 だが、カッサンドラを慕っていた者、事件を隠蔽した都市議会や教会に対し不満を持つ者、魔女狩りが起きるのではないかと恐れた多くの者…多くの精霊術師たちが精霊宮の放棄という暴挙に出るのである。

 教会側は事件による汚名を隠すため、その後に起きた諸問題を精霊宮の放棄のせいだとして市民の恨みの矛先をそらし、自然災害や水質の汚染で被害を被った市民たちの多くが精霊術師を憎む状態になった。

 それがアレトゥーザで精霊術師が迫害される原因の真相であると、最近師から貰った手紙で知った。

 不毛な話だと思う。
 事件があったのはレナータの生まれるより前の話だ。
 精霊宮を出てしまった者たちとの因果関係すら、ほとんどない。

 レナータのもとに精霊術を学びに来るのは、その多くが冒険者たちである。
 他の都市の精霊宮に引きこもった精霊術師が、アレトゥーザまで来るはずがない。

 師の師に当たる人物が殺されてしまったのは不幸なことだが、二十年以上昔の話。
 その時代の柵によって今の自分が迫害されるのは、何とも言えない切なさを感じた。

 師の手紙を届けてくれたのは、幼少の折に姉弟のように接して育った師レティーシャの息子である。
 ハーフエルフである彼…フィランダーは、レナータと別れてから故国に帰った後冒険者となり、今では“黒獅子”フィルと呼ばれる凄腕の剣士に成長していた。
 ローズレイク流の獅子の剣を使い、黒髪の蓬髪で大剣を野獣のように振るう様からそう呼ばれるのだという。

 すっかり背が伸びて精悍になったフィルに、「もう“子獅子”ではないのね」とレナータがからかうと、ぶすっとした顔で「今じゃ、そう呼ぶのは姉さんぐらいだ」と尖った耳を掻きながらそっぽを向いた。
 フィルの父親は“獅子心剣”と呼ばれた騎士だったので、師が「私の“子獅子”ちゃん」と呼んでいたのだが、父親を誤解から憎んでいた誇り高い彼はその二つ名がすこぶる嫌いで拗ねていたものだ。

 フィルは、レナータやフィルと一緒に育てられた吟遊詩人のセラ、フィルの異母妹である魔術師のソフィ、優秀な軽戦士で盗賊でもあるロブ、精霊術師で剣も扱える戦士のボアズ、僧侶で補助術法を得意とするパムの六人で“輝きを歌う者たち”というパーティを組んでいる。
 北方の方で活躍し、大陸でも指折りの実力者たちということだ。

 妹のように思っていたセラは、美しい娘に成長していた。
 フィルとともに信心深い性格の彼女は熱心な聖北教会の信者だが、それ故に聖海教会保守派の横暴を苦々しく思っており、仲間とともにアレトゥーザ滞在の間レナータを迫害する輩からそれとなく守ってくれた。

 先日『悠久の風亭』のマスターと女将さんとで、レナータの十九歳の誕生日を祝ってくれた。
 あの宿のことに行くと、脳裏によぎる光景がある。 

 この都市に来たばかりの頃、真っ青な顔をした女性をかき抱いて教会の門を必死に叩いている大きな男の人がいた。
 
 女性はたちの悪い病気にかかっていて、医者では手遅れの状態だった。
 生憎その時、この都市のほとんどの聖職者は近くの都市の式典にでかけていて、女性を救えるだけの神聖術を使える者はいなかった。
 
 教会の留守番をしていた助祭から、癒すことが不可能だと告げられた大柄な男の人は女性を抱いて泣いていた。

 黄疸、爪先や歯茎に出る症状、口から匂ってくる独特の匂い。
 女性は重金属中毒を起こしていた。
 飲み水に混じった毒を長年飲み続けて、罹った病である。
 
 レナータはその女性を、今の自分にとってもたった一度だけしか召喚できない水の精霊ウンディーネの力を用いて癒し、何とか救うことができた。
 
 大柄の男は『悠久の風亭』のマスター、レナータが助けた女性は女将のラウラである。
 
 マスターはラウラの命の恩人だ、と言ってそれからいつも良くしてくれる。
 女将のラウラにもあまった食材をくれたり、夕食に呼んでくれたりと優しくしてくれる。
 
 ぶっきらぼうで乱暴な口調だが正直で根は優しいマスターと、陽気でレナータの師を思い出させるラウラは、レナータにとって今では掛替えのない大切な人たちだ。
 
 聖海教会で神聖術の指導をしているマルコ司祭も好人物だ。
 教会の人間では数少ない精霊術師の理解者で、アレトゥーザの過去の歴史にも詳しく、かつて教会保守派が起こした事件を嘆いていた。
 
 紳士的で精霊術に関しても理解があるマルコ司祭は、何度か他の聖職者からレナータを庇ってくれた。
 自分の信仰をしっかり持ちながら、異教異文化とも共存できるという親和性。
 それを備えた聡明なマルコ司祭を、レナータは尊敬している。

 このアレトゥーザには、好い人たちもいるのだ。
 だから、〈アレ〉を何としても防がなければならない。
 かつてカッサンドラがしていたように。
 
 そこでレナータはふとある人物を思い出して歩みを止めた。
 
「シグルトさん…」
 
 レナータは時々独り言のように呼んでしまう冒険者の若者の名を、大切そうに呟いた。
 
 不思議な若者だった。

 シグルトはレナータが暴徒に襲われていた時、まったく無関係であったにもかかわらず助けてくれた。
 大人びて見えるがレナータと同年代で、高名な冒険者パーティのリーダーをしていると聞いている。
 
 涼める場所を探していたというシグルトは、助けてくれたことを恩着せがましくしなかったし、知り合ってからもレナータのことを根掘り葉掘り聞いたりしなかった。
 ラウラの言葉で言わせればレナータはかなり美人なのだそうだが、シグルトは男から時折自分に向けられて気持ち悪くなる好色な視線を感じさせない。
 だが深く青黒い色の真っ直ぐな眼差しは、レナータを見つめる時いつも優しい。
 
 男女の恋愛には疎いほうだと自覚しているレナータも、シグルトが魅力的な男性だとよくわかる。
 優れた容姿の彼を周囲の町娘たちが宿に集団で覗きに来て、マスターに怒鳴られて蜘蛛の子を散らすように逃げていったらしい。
 
 髪型はかなり無頓着みたいだが黒いそれは獣の鬣のように野生的に見えるし、北方出身だというその肌は女性でも羨ましくなるくらい白い。
 背が高くがっしりしているが、猫科の猛獣のように強靭でスマートな体格。
 顔立ちは女の子が騒いでも無理がないくらい端整で凛々しい。
 
 老いと一緒にあせてしまうそういった外見的な美しさには、それほど興味がわかない。
 精霊術師として日々生活するのが精いっぱいのレナータに、恋愛的な感性を持てという方が難しかったかもしれないのだが。
 もちろんシグルトを含め、端整な顔立ちの男性は魅力的とも思うが、普段から精霊という異形の存在と交信するレナータにとって、外面的なものはさして重要には感じられないのだ。
 
 だが、レナータは外見をおいて有り余る魅力をシグルトの内面に感じていた。

 精霊術師としての直感だが、シグルトにも精霊と感応する才能がある。 
 シグルトが周囲の精霊になんとなく気を配っているのがレナータにははっきり分かるし、精霊の多くがシグルトを好んでいる。

 自然を畏怖し、敬意を示し、しかし狂信せず共存しようとする親愛の気持ち。
 精霊術師にとって、最も大切な心構え。

 性格によって精霊との相性があるのだが、シグルトのそれは稀有なものだ。
 彼は武具の精と通じ合うことができるのである。
 
 金属、ことに鉄の精霊は孤高で気難しい。
 
 精霊には鉄の精霊が苦手なものも多い。
 鉄は他の精霊の力を弱くしてしまうのである。
 
 鉄の精霊からも、他の精霊からもシグルトを嫌う気配はあまり感じなかった。
 
 シグルトは『蒼の洞窟』がとても落ち着くといっていたが、彼に向けられる精霊たちの好意を知れば納得がいく。
 『蒼の洞窟』は癒しを与えてくれる水の精霊たちの力で満ちているのだ。
 
 レナータはシグルトと交流を持つうちに、この人物の傍らにいることがとても快いことに気がついた。
 おそらくは彼の周囲の精霊の動きのせいでもあるのだろうが、レナータの奥底にある何かがシグルトをとても好ましく感じさせるのだ。
 
 最近それが何かなんとなく分かるようになった。
 
「レナータ、よく憶えておいてね。
 
 精霊術師の本質とも言えるもの。
 それは自身の中にある〈精霊〉としての性質なのよ。
 
 生きている人間の魂にも、精霊としての性(さが)というか、核というか、そういうものが少ないけれどあるものなの。
 それを私たち術師は〈霊格〉と呼ぶわ。
 〈霊格〉という言葉にはもっと深く広い意味もあるから、仮に使う言葉だと思ってね。
 
 私は精霊術を学んだ師からこう教えられた。
 自身の〈霊格〉を高め、他の精霊のそれと同調するのが精霊との真の交感だって。
 
 自分の中にある精霊と同じものを覚り、同じような感覚で精霊を識ること。
 私たちエルフみたいな、妖精と呼ばれる存在はほとんどそれが当たり前にできるから、優れた精霊術師が多いのよ。
 
 あなたはとても優れた〈霊格〉をもっているわ。
 
 でも、世の中にはその〈霊格〉がとても美しい人がいるの。
 多くは英雄や、後に超常的な仙人や神人になると言われているのよ。
 
 世界に愛されているその人たちは、必ずしも精霊術師になるとは限らないけれど、困難や苦難を自分自身の努力と強運によって乗り切って、偉大な存在になるわ。
 
 そしてあなたには、出逢えばきっと分かる。
 側にいるだけで精霊術師の〈霊格〉に心地よさを与え、何かしてあげたい気持ちを起こさせるから。
 
 これをカリスマ、と呼ぶ人もいるわね。
 
 英雄が幼少期に死にそうなところを幸運で救われるのは、実は周囲の精霊が助けてくれるからだともいうわ。
 
 もっとも、私はそういう生まれたときからある才能や宿命一辺倒な考え方は、納得がいかないんだけどね…」
 
 おそらくシグルトは師の言うように〈霊格〉が常人離れして美しいのだろう。
 精霊を視認する力でシグルトを見つめると、彼は白銀に輝く磨き抜かれた金属の刃のような清冽な霊気を放っているのが見える。
 あれは見ているだけで、暗闇の中で輝く松明や、魔物や獣を相手にした時に手に持っている武器のような、頼もしくて安心した気持ちになるのだ。
 
 レティーシャはこうも言っていた。

 精霊術師としての究極は、精霊を深く理解し愛してあげること。
 先天的な資質ではない。
 〈霊格〉の美しい者は多くの場合、精霊や上場の存在から受ける期待と鑑賞により、波乱万丈となる自分の運命を御しきれずに自滅したり不幸な最後をとげる。
 それは強運にもなるが、幸福になれるとは限らない。
 側にいる者も、その運命に振り回されることがあるのだ、と。
 
 シグルトにとても惹かれるのはきっと、シグルトの〈霊格〉から受ける暖かな心地よさからなのだろう、とレナータは自己分析している。
 師の言葉から、彼が歩んできた人生を感じられる…苦労した自分に重ね合わせて、共感を覚えているかもしれない。
 
 でもそれだけではなかった。
 
 シグルトはアレトゥーザにいる時、頻繁にレナータの元を訪れ、親しくしてくれた。
 この間、お土産だといって陶器のカップをもらった時泣きそうになるほど嬉しかった。
 
 シグルトの裏表の全く無い厚意が、孤独だったレナータの心の寂寥(せきりょう)を癒し、幸福感で満たしてくれる。
 必要なこと以外話さないレナータも、シグルトには気兼ねなく話すことができる。
 
 恋愛や依存といった感情とは違う。
 〈親しみ〉というとても単純な好意があった。
 
 レナータはそれを恋や愛、友情に昇華するほどシグルトを知らない。
 
 でも、レナータは感情云々は考えずに単純に思う。
 シグルトに逢いたい、と。
 
「シグルトさん…」
 
 呼ぶと名前に宿った精霊が応えてくれるような安堵感がある。

 名とは、その者に最初に与えられた個を認識する宿命の言霊(ことだま)。
 大切な者の名を呼ぶことは、疲弊した魂を癒す原初のまじないなのだ。 
 
 見れば周囲が薄暗くなっている。
 
 レナータは呼びかけに応える者がいないことに対し、寂しげな暗い苦笑を浮かべると、『蒼の洞窟』に帰ろうと踵を返し、途中で人の気配を感じて振り向く。
 そこには招かれざる者たちがいた。
 
 冷たい目の僧服の男、剣を腰に下げた傭兵風、取り巻きのチンピラたち。
 
 僧服の男はよく知っている。
 聖海教会の保守派に属する侍祭でジョドといったか。
 上品な口調で話すが、気障で嫌味、レナータを目の仇にしている。
 前に絡まれたときはシグルトが追い払ってくれた。
 
 周囲の男たちに見覚えはないが、決して友好的な輩ではないだろう。
 
 最も危険なのが傭兵風の男。
 目を見てレナータは背筋が寒くなった。
 サディスティックな狂気を宿した三白眼。
 血を見なくてはいられない好戦的で悪辣な雰囲気。
 
 直感は警鐘を鳴らしている。
 今回はとても拙いと。
 
 走って逃げようとして、喉に猛烈な圧迫感を感じ、身体が吊り上げられる。
 
 後ろから迫った腕の長い男がレナータを捕まえ、喉を締め上げていた。
 次の瞬間、あげようとした声が完全に途絶えた。
 
 見ればジョドが何か唱え終わったような顔をしている。
 
 沈黙をもたらす神聖術【封言の法】である。
 捕まえられて無防備な瞬間を狙われてしまった。
 
 これでは精霊を呼ぶことができない。
 
 ごろつきたちがレナータに殺到し押さえ込む。
 口にはいつ【封言の法】の効果が切れてもいいように猿轡をされ、手足は男たちに押さえ込まれている。
 
 ジョドと傭兵風の男が近寄って来た。
 
 言葉が出ないし、身動きがまったくできない。
 レナータは毅然とした目でジョドを睨み見た。
 
「ようやくこれで魔女の討伐ができるというものです。
 
 この間はおかしな男が邪魔をしましたが、あの男に備えて準備をしたというのに、取り越し苦労だったみたいですね」
 
 周囲を調べた後、ジョドは汚物でも見るような蔑んだ目でレナータを見た。
 
「ジョドの旦那~
 
 俺は殺しができるっていうから、張り切ってやってきたんだぜぇ。
 
 これじゃぁ、滾る血がおさまんねぇぜ」
 
 傭兵風の男は剣を抜いたり戻したりして、不愉快な金属音を立てながら言った。
 
「まったくだぜ。
 なんでも旦那に尻…危害を加えた野郎はいい剣持ってるって話じゃねぇか。
 いなきゃぶんどれねぇだろ?
 
 これじゃ、安い金で請け負った意味がねぇ」
 
 頭を太い腕でかきながら、ぼさぼさ頭の盗賊風の男が出てくる。
 この腕はさきほどレナータを押さえ込んだものだ。
 
「そんなことを言われても、報酬以上は払いませんよ。
 
 いいから早く魔女を殺しなさい」
 
 ジョドは苛々したように二人に命じた。
 
「…ちっ。
 
 つまらんぜぇ」
 
 ぼやいて剣に手をかけた傭兵風の男は、レナータを見下ろしていたが、不意に剣を抜くのを止め、歯茎を剥き出して凶悪に嗤う。
 虫を分解する子供が、新しい遊び方を思いついたように。
 
「なぁ、ジョドの旦那~
 
 魔女にはやっぱり罰を与えなきゃいかんだろ?」
 
 聞いた盗賊風の男も手を打って頷く。
 
 男たちを見ていたジョドが、なるほど、と頷いた。
 
「分かりました。
 
 この魔女を責め、その後に殺しなさい。
 
 …手段は問いませんよ」
 
 男たちはニヤニヤ好色そうに嗤っている。
 
 レナータは若い女で、周りは悪漢たち。
 つまり、レナータは男たちの慰み者にされて殺されるのだろう。
 
 悔しさや悲しさと一緒に、どっと虚しさが押し寄せる。
 自分の今まではこんな奴らに汚されるためにあったのか、と。
 
 現況では抵抗すらろくにできないだろう。
 
 せめてこいつらを喜ばせるような表情だけはすまい…
 レナータはぎゅっと目を閉じる。
 
 男の一人がベルトの金具を弄る音がする。
 きっとさっきの盗賊風の男だ。
 
「へへへ、白くて綺麗な肌だねぇ~」
 
 奴が生臭い息を吐きかけて、レナータにのしかかってきた。
 
(…シグルトさん!!!)
 
 心の中で最後にもう一度会いたい男の顔を浮かべ、その名を呼んだ。
 
「…じゃ、いただきま、ふぐぇ!!!!」
 
 鈍い音と共に、レナータの上に乗っていた重さが無くなる。
 恐る恐る目を開けると、先ほどの男が股間を押さえて泡を吹き、レナータの横に転がっていた。
 
 ボグッ!!
 
 レナータの腕を押さえていた男があごの骨を蹴り砕かれ、転がりながら倒れ伏す。
 彼女の側に、力強い足がしっかりと踏み下ろされていた。
 
 男たちがレナータから離れて一斉に得物を抜いた。
 
「…やっぱり来ましたか!」
 
 ジョドが目を血走らせて怨嗟の視線で睨みつけている。
 
「…俺は〈するな〉と言ったぞ、尻雑巾」
 
 底冷えするようなよく通る恫喝の声。
 混じった侮辱の言葉に、ジョドが金切り声を上げて怒りを表す。

 果敢な声も、この頼もしく長い足もレナータはよく知っている。
 
「すまん、遅くなったな」
 
 完全に日が沈もうとしている瞬間、見えたのは心配そうにこちらを見つめる深く青黒い双眸だった。
 
(…シグルトさん!!!)
 
 大地をしっかり踏みしめ、レナータを背に庇うように立ったシグルトは腰の剣を抜き放つ。
 
「…こんな奴らにお前を振るうのは気が引けるな、相棒」
 
 言葉にしたシグルトに応えるように、彼の手にある鋼は澄んだ咆哮を上げた。
 
 叩き潰すような一撃だった。
 鎖骨を砕かれたちんぴらの一人が白目を剥いて失神する。
 
 シグルトの凄まじい膂力が肩にあった金属製の防具ごと、上腕の骨を粉砕したのだ。
 
 チンピラたちは蒼白な顔立ちで退いた。
 
「おお、すげぇ。
 
 お前が“風を纏う者”のシグルトだな?」
 
 チンビラの間から傭兵風の男が出てくる。
 
「俺は雑魚とは違うぜぇ!!!」
 
 鋭い踏み込みをした傭兵風が重い斬撃を放つ。
 シグルトがそれを剣で受け止める。
 
 ガイィィィィン!!
 
 闇に赤い火花が散る。
 一合、二合と打ち合う刃と刃。
 
「ハッハァッ!!
 
 いかすぜ、あんた。
 違うぜぇ、前殺した奴とはよぉ!!!」
 
 シグルトが防戦になる。
 傭兵風はかなり腕が立った。
 
 そんな中、閃光がシグルトの脇腹を打つ。
 
「ぬっ!」
 
 数歩後退してシグルトが脇腹を庇う。
 その手のひらの間から血が滴っていた。
 
「…旦那~、いいところなんだから邪魔せんでくれよなぁ」
 
 そう言いつつ傭兵風は額の汗をぬぐっている。
 勝負はかなり膠着していたのだ。
 
 レナータは、はっとして猿轡を外そうとするが手足が思うように動かない。
 体重をかけられて押さえられていた手足はうっ血して痣になり、痺れている。
 レナータは必死に猿轡の縛り目を手でこすって外そうとするが、固く結ばれたそれは解けない。
 
「何をやっているんです!
 
 早く倒しなさい、人が来るでしょう!!」
 
 ジョドが叫ぶと傭兵風はやれやれ、興が冷めたぜ、とちんぴらに命じてシグルトを囲ませる。
 
「わりぃな、雇い主がうるさくてよ。
 
 あの魔女のねぇちゃんはたっぷり可愛がってから、おめぇの後を追わせてやっから…死ねや!」
 
 ちんぴらたちがシグルトへの距離をつめる。
 
 レナータは声にならない叫びを猿轡の下から上げそうになった。
 だがその頬に張り詰めた精霊の気配を感じ、驚いてそちらを見た。
 
「…死ぬのはお前らだ!
 
 風の輩よ、奴らを薙ぎ払え!!!」
 
 突風が吹き、悪漢たちが血煙を上げて倒れる。
 
 剣を構え、若者はレナータとシグルトを庇うように立った。
 
「ニコロさん!!!」
 
 ようやく緩んで外れた猿轡。
 レナータは青年の名を呼んでいた。
 
「『悠久の風亭』のマスターに、レナータさんを呼んできてくれって頼まれたから来たんだけど、あいつら…
 
 待ってて、今やっつけ…うわっ!」
 
 ニコロと呼ばれた若者を護っていた風の障壁が軋む。
 傭兵風が襲い掛かってきたのだ。
 
「ちぃ…おかしな魔法を使いやがってぇ。
 
 俺の必殺剣で真っ二つにしてやるぜ!」
 
 その構えを見てニコロの顔の血が引く。
 
(やばい…【居合斬り】だ!)
 
 リューンの闘技場でも教えている剣技だが、威力は凄まじい。
 直撃したら【風刃の纏い】の風の障壁でも護りきれないだろう。
 
「おらぁぁぁぁ!!!」
 
 傭兵風が振るう空を切り裂く刃。
 
 ギシィィィィン!!
 
 だが放たれた剣閃を若者の前に割り込んだシグルトががっしりと剣で受けた。
 負傷した状態で行った防御は力が入らなかったのだろう、数歩下がり脇腹から血が飛沫いた。
 
 距離をとって傭兵風が舌打ちして距離をとる。
 そのシグルトを白い閃光が打ち据える。

 この時、シグルトは身体を緊張させ、鋭い呼気で跳ね返すように力を込めた。
 
「こぉぉぉ…っ!!」

 とっさに【堅牢】を用いることで防御を行ったのだ。
 盛り上がった筋肉が、貧弱な術法を弾き霧散させる。
 
「くそ、あいつら…」
 
 ニコロが魔法を使おうとすると、シグルト素早く声をかける。
 
「俺が一回だけ敵の攻撃を引きつける。
 
 そこを君の魔法で薙ぎ払えるか?」
 
 初めてその目を合わせる。
 二発の【聖なる矢】を受けてなお、男の青黒い目は静かな闘志を宿していた。
 
「はい、でも大丈夫ですか?」
 
 その応えにシグルトはニッと笑うと、高らかに叫んだ。

「《来い、トリアムール!》」

 シグルトの足元からふわりと何かが舞い上がった。

 ニコロとレナータには感じ取れた。
 その風はとてつもなく怒っていると。

 シグルトは彼女の怒りに呼応するように、籠手を着けた逆手を前面に突き出すと、剣を引き敵陣の真っ只中に踏み込んだ。
 
 一見自殺行為だった。
 レナータが悲痛な声でシグルトを呼ぶ。
 
「おめぇ、格好つけて馬鹿か。
 
 まぁいい、おめぇら!」
 
 ちんぴらたちが一斉にシグルトに襲い掛かる。
 
 ニコロが風の精霊を従えつつ、まずい、と思った瞬間唐突にシグルトの姿が消えた。
 割り入ろうとした一人が、突風に胸を裂かれて吹っ飛ぶ。
 
「…ぁぁぁがあぁっ!!!」
 
 そして身体をくの字に曲げた傭兵風が、驚愕の顔でシグルトを見ていた。
 男の着る金属の鎧がひしゃげている。
 信じられない速度の踏み込みと斬撃だった。
 攻防一体の剣、【影走り】である。

 あえて鎧を強打して変形させ、拘束するように動きを封じていた。
 シグルトの行った攻撃は仲間の庇護と自衛だが、人を殺してしまうと後々厄介ではある。
 故に、激痛を与え動きを鈍らせるように狙ったのだ。
 
 なおも反撃しようと剣を振り上げる傭兵男の顔面を、シグルトの拳が殴打した。
 
 豪快な音を立ててくず折れる傭兵男を見つつ、シグルトは眉間にしわを寄せる。
 
「…殺し合いがしたいなら、キーレにでも行ってしまえ」
 
 有名なスラングで吐き捨てるシグルトの後ろで、ニコロの放った風の精霊の刃がちんぴらを残らず薙ぎ倒していた。
 
「ば、ばかな…」
 
 ジョドが真っ青な顔で後ずさっていく。
 シグルトはずかずか歩いていくと、腰の引けているジョドの腹を籠手付きの拳で殴りつけた。
 
 口から吐瀉物を撒き散らしつつ、転がったジョドをシグルトは引き起こし顔面を数回張る。
 
 惨めな顔で震えているジョドを放り出し見下ろすシグルト。
 
「今度レナータに手を出そうとしたら、他の手足も全部へし折って海に捨ててやる…」
 
 熾火が燃えるような眼光で睨みつけると、シグルトは容赦なくジョドの右手を踏み砕く。
 その手には隠し持ったナイフが握られていた。
 
 泣き喚いているジョドを膝で蹴り飛ばして気絶させると、シグルトはレナータたちのところに向かった。
 
「…レナータ?」
 
 ニコロと呼ばれた若者がレナータを助け起こしていた。
 やってきた痛々しいシグルトの傷を見てレナータはぽろぽろと涙を流していた。
 
「…あの、大丈夫ですか?
 
 薬を持ってますけど使いますか?」
 
 ニコロが言うとシグルトは、たいした傷じゃない、といって苦笑いして見せた。
 実際シグルトは二発目の魔法はほぼ耐えきっているし、筋肉を絞めて傷を塞いでいた。
 
 レナータがすぐに水の精霊を呼び出して傷を癒し始める。
 
(痛くないわけ無い。

 【魔法の矢】にも匹敵する攻撃を二発も受けてるんだ、同じ状況ならうちのドワーフだって…)
 
 そう言いつつ、あらためてシグルトを見たニコロは、噂通りの外見に息を飲んだ。
 
(この人が“風を纏う者”のシグルト…)
 
 知る人間は見れば分かるといったが、その通りだった。
 美しいが、それ以上にものすごい存在感がある。
 
 同じ風の精霊と交感することからか、ニコロは不思議とこの男を信頼してしまう安堵感のようなものを感じていた。
 相反して、微かに燻る嫉妬の情も。
 
「…どうして、どうしてこんな無茶をしたんですか!!」
 
 レナータが怒ったようにシグルトの胸を叩く。
 すでにシグルトの傷は彼女の精霊術で綺麗に消えていた。
 
「無茶といってもな…
 
 一部の敵が強く複数だったし、君に大きな怪我が無くて俺は不幸中の幸いだと思ってるくらいなんだが」
 
 泣かせるつもりは無かったんだ、とほつれたレナータの前髪を整えて、シグルトは優しい目で精霊術師の娘を見つめていた。
 
「でも、でも…」
 
 そう言って首を振るレナータにシグルトは頭をかくと、意を決したようにレナータの首に何かかけた。
 
「あっ…」
 
 声を上げてレナータはそれを見る。
 小さな女神をかたどった細工のペンダントだった。
 女神は手に小さな石を抱いている。
 瑠璃(ラピスラズリ)の欠片だろうか。
 
「これからずっと君に幸運がありますように…
 
 当日には間に合わなかったが十九歳の誕生日おめでとう、レナータ。
 俺の用事は、君にこれを渡すことだ。

 贈呈先がいなくなったら困るのでな。
 そのための無茶だと思って、今回は勘弁してくれ」
 
 先ほどの鬼のような迫力を欠片も見せず、シグルトは穏やかに微笑んだ。
 
(うわぁ、様になり過ぎだ…端で見てる僕までドキドキしちゃうよ)

 少し顔をそらしたニコロは、場をごまかすためにとっさに言葉を発した。
 
「ええと、マスターがレナータさんを連れてこいって…」
 
 それを聞いたレナータは、涙をぬぐうと大切そうにぎゅっとペンダントヘッドを握って頷いた。
 安心したようにシグルトはゆっくり息を吐くと、ニコロの方を見る。
 
「礼が遅れてすまない。
 君の助力はとても頼もしかった。
 
 俺は冒険者パーティ“風を纏う者”のシグルトという。
 
 助けてくれて有難う」
 
 胸に手を置き頭を下げ、最大限の謝意を示すシグルトに、ニコロも自己紹介する。
 
「“風を駆る者たち”のニコロです。
 
 噂は伺ってます。 
 
 会えて光栄です、シグルトさん」
 
 シグルトは、君が、と言って大きく頷く。
 
 二人はどちらかともなく互いの手を差し出し、しっかりと握手する。
 
「敬語はいいさ。
 
 同じ冒険者同士、この先に見かけたら気軽に声をかけてくれると助かるよ」
 
 シグルトはそう言って出逢いの挨拶を締めると、レナータを見て「歩けるか?」と聞く。
 
 レナータは歩き出そうとして顔をゆがめた。
 足を捻ったのだろう、少し腫れている。
 すでに癒しの術は使い切ってしまった。
 
 シグルトは足首がぐらつかないように手早く応急処置をすませると、レナータを抱き上げた。
 びっくりして、降ろすように言うレナータに、この方が早いと黙らせると、ニコロにも急ぐよう催促する。
 
「こいつらを自警団に突き出して、理由を話していたら夜が明けてしまう。
 俺のパーティは明日依頼に向かわなければならんし、時間を無駄にしたくない。
 
 死んだ奴も、死にそうなやつもいないみたいだし、いつも不機嫌な番兵に絡まれる前に退散したほうが得策だと思うんだが?」
 
 こんなむさ苦しいやつらに構うのは自由の浪費だ、と続ける。
 
「言えてる…」
  
 二人の男は頷き合うと、『悠久の風』に向けて足早に歩き出した。
 
 これこそが後に語られる“風を纏う者”と“風を駆る者たち”二つの風の最初の交差、眠れる両雄の邂逅である。 



⇒『碧海の都アレトゥーザ』 午後の余暇の続きを読む
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SSD環境でカードワースを遊ぶ

2018.11.18(22:57) 475

 最近PCのハードディスクの調子がおかしく、起動に手間がかかるわ、遂にハングアップする(これで書きかけのリプレイが吹っ飛びました…涙)わ…使い始めて三年ぐらいなんですが、経験上早い寿命の兆しが来たかもと感じたので、思い切ってSSD(ソリッドステートドライブ)の換装することに致しました。
 ここ数日はその準備やら、作業やらやってた感じです。

 現メインPCのハードディスクのクローン(データの転送に数時間かかりました)を作り、試しにカードワースをSSDに入れてやってみたのですが…あまりの速度の違いに唖然。
 まぁ、もともとCPUがi7(多分五世代目ぐらい?)でブルーレイが綺麗に再生できるメモリ16G限界まで増設したのそこそこにハイスペックなノートPCだったので…化けること。
 起動時間が三分の一以下になり、ブラウザはサクサク、他のソフトの起動やサムネイルの表示などはかなり早くなりました。
 今までは全然スペックを活かしきれてなかったんでしょうね。

 前はシナリオフォルダの表示の遅さにイライラしてたのですが、換装後は起動も早く一瞬で表示されるし、Pyの大画面仕様でもストレスなく動きます。
 カードワースの体感速度アップは限定的に10倍速超えたかも。
 CABファイルの読み込みなども早くなるのではないかなと。

 カードワースはそもそものデータが細かく小さいため、読み込みに結構時間がかかるのではないかなと感じています。最近のパソコンは大きなデータ(画像・音楽)を纏めて動かしてる感じですから、パソコンのスペックにカードワースの細かさが合ってない印象を受けていました。シナリオデータのバックアップをとったりするとき、やたらと読み込みや書き込みに時間がかかってたような。

 対してSSDは処理速度自体が、そういう小さくて細かいデータほど相性がいい様子。
 画像やシナリオの一覧とかぱぱっと表示されますし、BGMの途切れも少なくなった感じ。
 
 SSDは現在Amazonで500GBが13000円以下で買えるので、余裕があるなら25000円ぐらいはしますが1TBクラスとかに手を出すのもありです。

 え、二万~三万円超えは高い?

 使ってみた感想ですが、5万円出して新しいパソコンを買うより、3~5年型落ちでハードディスクがそろそろやばいパソコンを3万円出して1TBのSSDに換装したほうが安上がりかもしれません。バッテリー新しくしてもおつりがくるかも。
 ぼっろい中古PCですら普通に3~4万円しますからね。
 ひと世代前のパソコンは500GB以下のハードディスクがわりと普通だったので、愛用しているパソコンの寿命を増やす意味でもおすすめです。
 3Dバリバリの通信ゲームとかはPS4とかで十分できるでしょうし、それほど極端なスペックが無くてもカードワースやる分には十分なんですよね…普通に遊ぶと私家エンジンの特殊な機能ではとっても重いのですが。

 SSDの良いところは、早い・煩くない・衝撃にある程度強い・熱暴走し難い(今の季節ありがたいですよ)・省エネ。
 ハードディスクに換算すると値段は3~4倍といったところでしょうか。高価でデータ容量が少ないのが欠点ですが、故障のリスクがハードディスクよりましで携帯性を向上させる場合(衝撃に強く、電力の消費が少なく、起動が早い=無駄な時間を取らない)でも優れているため、メモリをガチャガチャ増設するよりよほどスペックが上がります。

 現在のSSDの使い方は、OSを入れるシステムディスクを換装して、メモリキャッシュやメインシステムのアクセス、ブラウザのキャッシュなどをスムーズにする目的で使う方が多分多いと思うのですが、Y2つ的にはあえて贅沢に「カードワースのデータをSSDに入れて使う」ことをお勧めします。

 SSDはハードディスクよりデータの書き換えの耐性が低いという欠点もあるのですが、Wikipediaによると「計算上は最低でも毎日10Gバイトのデータ書き換えを約190年実行してようやくエラーが発生する状態」らしいので、気にする必要はないかなと。その20分の1の期間で多分ハードディスク壊れますし。(遠い目)
 普通にアクセスが速いため、ハードディスクよりバックアップもしやすいのです。メンテナンスやバックアップの手間を考えると10年位で新しいパソコンに換えるとするなら、寿命は十分ですよね。

 もともとカードワースのデータって、最新版のMP3ずんどこ使ってるシナリオでも500MB超えるものは殆ど無い様子。
 カードワースを遊んでるプレイヤーさんは、OSがXPやWIN7のままという方もたくさんいらっしゃると思うので、そういう方が一番手っ取り早くパソコンのスペックアップをしたい場合は、バックアップを兼ねてSSD換装をしてみたらいかがでしょうか。

 ハードディスクはたいてい3~5年でお寿命を迎えます。過酷な廃使用するせいもあるのでしょうけど、私の経験上10年以上ハードディスクがまともにもったパソコンないんですよね…唯一生き残った年代物の富士通パソコンも不良セクタ塗れですし。そういや、先代パソコンは火災で燃え尽きたっけなぁ…

 私、パソコン交換の原因って、ハードディスクの故障とOS・システム環境の世代交代が9割以上なのです。
 カコンカコンとか、ガリガリとか聞いたことのない異音がしたり、不良セクタのたまり過ぎと度重なるOSのアップデートでやたらと動作が重くなった頃が黄色信号です。ハングアップ(停止して動かなくなる)やブルー画面が出て画像停止、頻繁にエラーを起こして再起動したりする時は壊れる寸前かも。

 私は数日ごとに再起動とOSのアップデートを要求されるのが嫌で嫌で…アップデートの時間が長い上に、ノートとしてはかなりのスペックにしてあったのですが再起動に数分かかってたんですよ、最近。
 
 クリーンアップとデフラグをすべきと思いつつも、従来のアクセス速度の速さでは半日以上かかってとてもやる気になれないという方、いませんか?

 データが肥大化するとバックアップが難しくなるので、換装したハードディスクをバックアップとして保存すれば二度手間になりません。

 SSDはAmazonなどで購入できますし、換装のやり方はYouTubeの動画がたくさんあります。古いパソコンの場合ハードディスクのフォーマット形式とかで注意しないとOS認証しなくなったりもあるんですが、SATA~USB3.0変換用のコネクタと、パソコンのハードディスクを自力で換装する技術なんかも必要にはなりますが、そういうの苦手な人は換装サービスをやってるところもあるのでお願いしちゃうのもありかなと。

 Y2つは【EaseUS Todo Backup Free】(https://jp.easeus.com/backup-software/free.html)の 11.5を使ってクローンを作り、余った容量を使って快適にカードワースを遊んでいます。

 もし低スペックのPCで遊んでて、最近の要領の大きなシナリオでストレスを感じるなら、SSD環境に換装するは選択肢の一つですよ~
⇒SSD環境でカードワースを遊ぶの続きを読む

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『碧海の都アレトゥーザ』 風は南海に集う

2018.11.16(21:59) 484

 ウェーベル村での仕事を終え、シグルトはジゼルを連れて、ロマンの待つヴィスマールに帰還した。
 
 ロマンは、シグルトがジゼルを伴って帰ると目を丸くしたが、詳しい事情を聴くと納得した様子で同行を認める。
 毒舌家ではあるが、理が通れば文句を言わない…そんな少年だとジゼルは評価した。

 シグルトの美しさにもびっくりしたが、ロマンの中性的な美しさも群を抜いている。

 柔らかな銀髪に、金褐色の瞳は黄昏の光を閉じ込めたよう。
 白く肌理細やかな肌。
 まだ声変わりをしていない高い声を聞くと、少女だと言っても信じるだろう。

 ジゼルが持前の好奇心でロマンを眺めていると、その横でシグルトが繕い物を始めた。
 明日は出発なので、装備のメンテナンスというわけだ。
 
「…上手ね。

 男の人でもそういうことするんだ?」

 少し新進的な考え方はするが、それでもジゼルはこの時代の女性である。
 男が裁縫をすること自体が異様に感じられるのは、田舎の山中で「それが当たり前」として育ったためもあるだろう。

 実家での裁縫事は、器用なこともあいまってジゼルが一手に引き受けていた。
 彼女がいなくなったことで父である村長は苦労することになるだろう。
 
 見た限りでは、シグルトの裁縫技術は「普通の主婦」程度に手慣れている。

「…冒険者をやっていれば、自然とこの手の作業は増える。

 道無き道を行き、怪物と切った張ったをすれば、ほつれや鉤裂きは付きものだからな」

 そう言いつつ、すでに愛用の外套を縫い終えていた。
 目立たぬように上手に縫い目を隠し、繰り返し丁寧に縫って頑丈にしてある。

 針を片付けるため、シグルトが革製の針刺しを手に取った。
 そこに見慣れない形の針が数本差してある。
 すぐに別の好奇心が首をもたげてきた。

「…この返しのついた小さいのは、釣り針よね。

 でもこっちの弧を描いた針の形はあまり見ないわ。
 職人が絨毯を縫う大きな針に似てるけど…しかも銀製?」

 細工物のように細く、銀で出来た不思議な針を見つける。

 針が弧を描いているのは、平坦な動かせないものを縫うためだ。
 用途も、布のように縫い易く折っやり曲げたりできない物のために使うのだろう。

「ああ、この弧針(こしん)のことか。

 特注の品だからな」

 丁寧に磨かれ、薄く油を塗付したそれは、装飾品のように美しい。

「でも、銀じゃ硬いものを縫う時曲がっちゃうでしょ?
 
 何に使うの、これ?」

 首を傾げるジゼル。

 シグルトは苦笑してその針を取った。

「これは傷を縫うための、医療針だ。

 見た目より柔軟で、曲がってもすぐ折れたりしない。
 銀製なのは、血に触れても錆び難く、錆の毒で身体を害さないためだ。

 弧を描いてるのは、手早く肉を縫うためであり、また片手で縫うことを容易にする工夫だな。
 真っ直ぐの針は、肉の弾力で押し戻されるし、深く刺そうとすると血脂で滑ってしまう」

 実演するように、指の腹に曲がった針を掛ける。
 巻き込む感じでくるりと回す。
 繕いものをするより、随分手慣れていた。

 生々しい話を聞いて、ジゼルの顔が引き攣る。
 
「…鋭利な刀剣による裂傷は、包帯で巻いても傷が癒着し難いし、すぐに開いてしまう。

 手っ取り早いのは、昔からの方法で縫うことだ。
 直針など使えば、縫い難く患者は痛い思いをする。
 下手をすれば、折れた針先が肉に残って危ない。
 針が弧を描いているのは、刺した先端が肉の外に出るという、その特性を考えているんだ。
 
 傷口はある程度深く縫わないと、糸で肉が裂けて傷を広げかねない。
 膿んだ傷口を縫う時は特にな…腐った肉が削げないように、より深く縫う必要がある。
 
 だから、こういった専門の針を使う。

 傷の縫合は、医療的にとても大切な技術だ。
 応急処置でも基本的なことだから、生肉や皮を使って近い感触を確認しながら縫う練習をしておくことも大切だ。

 矢傷や血管からの大量出血を、血管の桔索で止めることもできる。
 止血には、洗濯挟みのようなもので出血点を挟むのも手っ取り早い。
 紐や帯で止血すると、どうしても組織上部分の止血になって、下部が壊死を起こし易くなるからな。 

 専門の知識と技術は必要だが、こういったことができるなら、誰かの命を繋げることもあるだろう。

 獣の牙や爪で肉を抉られたり、戦場で腐った手足を切り落とすことになっても、手当の仕方と道具があれば生き残る可能性は高くなる。
 死ぬ者がいる時は、傷が深過ぎるか治療手段が分からない時がほとんどだ。
 
 俺は戦士だから刀傷や裂傷が絶えないが、治癒の秘蹟で何時も治して貰えるとは限らない。
 仲間の持つ有限のそういった力が尽きれば、すべてを手当てしきれない状況に出くわすこともある。

 …一番嫌な用途だが、死体を見目良くする時にも役に立つ。

 備えあれば憂い無し、ということだ」

 その針は、実際に使ったための摩耗や変色が見受けられた。
 シグルトの言う用途も、随分と具体的だ。

 つまり経験があるということだろう。

 話を逸らそうとして、ジゼルは咄嗟にもう一つの針を取った。

「…こっちの、穴の空いた筒みたいな奴は?」

 まるで見たことの無い形状のそれは、一言で言ってまさに筒だ。
 先端が尖っているから、針の一種なのだろうが。

「それは穿孔刺。

 膿を抜いたり、気道…喉が詰まった時や、打撃の衝撃で潰れて肺が膨らまなくなった時、溜まった血や空気を抜くのに使う。
 この膨らんだ部分は、深く入り過ぎないように肉に掛かる部分だ。

 内出血が酷い時には、適切な応急処置ができるから重宝する。

 ゴブリンやオークは棍棒を武器にすることも多い。
 打撲で内出血したり、肺が破れて息が体内に留まる症状があるんだが…これを使うと効果てき面だ。

 食い物が喉につかえたり、火傷や毒での喉の入り口がで呼吸が止まった時は、これで喉の下の方に穴をあけて気道を確保する方法もある。

 俺が学んだ医者は、腫れ物の中に溜まった患者の膿を出したり、頭に血や水が溜まった患者の治療にも使っていた」

 シグルトが話す言葉の中には、高度な外科の医療知識が含まれていた。

 だが、傍から聞いていれば異質で痛々しい話である。
 ジゼルは聞いたことを少し後悔し始めた。

「他にもこの薄い尖った剃刀は、切開のためのものだ。
 今は糸切りに使っているが、本来は簡単な手術に使う。
 俺は使うのが下手だから、精々鏃の摘出や鬱血の切開にしか使わないが。
 
 …こういった切開手術は、腐ったら切り落とすのが当然と考える現代の医者から見れば、異端とされるものだ。

 だが、手足と泣き別れしたくない時は、異質と呼ばれても頼る必要がある。
 俺は祈って秘蹟が起きる坊主ほど、敬虔ではないのでな。

 こういった罰当たりをするのにも、抵抗は無い」

 腐敗した患部を蛆に食わせることが、一番優れた壊疽の治療法だと教えたら、目の前の娘はどんな顔をするだろう?
 シグルトは筒状の医療針を弄びながら、肩をすくめた。  

「…それでシグルト、これからどうしよう?

 相変わらず湾は時化ているよ。
 悪天候じゃないんだけど、漁にも出られない有様なんだって。
 
 暫くは、状況も変わりそうにないみたい」

 ジゼルが青褪めて硬直している中、横からロマンが現状を切り出した。
 針を手早く仕舞い、しばし思案するシグルト。

「…湾沿いの街道を通り、アレトゥーザに向かうことにしよう。

 ジゼルのことを、『小さき希望亭』の親父さんに紹介しておきたいんだが…
 ついこの間出てきて、今更リューンに戻るのも非効率的だ。

 ここまでくる道中でジゼルと話し合ったんだが、一旦アレトゥーザに行って仲間と合流する。
 ジゼルには可能な旅に連れて行くか拠点で留守居番をして貰い、俺とラムーナで養生術を叩き込んで、冒険者として食っていけるように基礎を教えようと思っている。

 ジゼルは目が良く弓が得意で、斥候向きの資質がある。
 そっちの教導は俺よりもレベッカの領分だから、彼女に早めに面通ししておく必要もあるだろう。

 ジゼルは南海の闘舞術に興味があるらしいから、無駄な寄り道にはならんはずだ。

 南海の湿った空気や暖かい気候は、いくらか心臓にも優しい。
 これから急激に気温が下がる時期だからな。
 冒険者として旅に身体を慣らすのにも悪くないだろう。

 一区切りついたら、仲間との相談次第だが…一旦ペルージュにジゼルを連れて行って、俺の知り合いの医者に見せる。
 聖典教徒の中でも飛び抜けた賢者で、俺の医術の師だ。
 
 ロマン、お前の知的好奇心もきっと満足させてくれるぞ」

 シグルトの提案に、ロマンは「それは楽しみだ」と頷く。

「ジゼルの父親から紹介状を貰った。
 ヴィスマールから馬を借りて移動するとしよう。

 体格的にジゼルとロマンが相乗りだ。
 ジゼルは乗馬を得意にしているから、時間の節約はできるはずだ」

 相乗りという部分で、ロマンは露骨に嫌そうな顔をした。
 都会の人間のように垢抜けてはいないが、ジゼル自身は村一番の美女とも言われていたほどなので、男の子からここまで忌避されるとショックである。

 ロマンがここまで女性を忌避するのは、自身の容姿から女性にもてあそばれることが多く、純朴な一面を持つ彼にとって煩わしいことが多かったからだ。
 特にレベッカ、『小さき希望亭』の娘、“煌めく炎たち”の女性陣にはからかわれているので苦手意識が強い。

 だがロマンの歩く速度はシグルトに遠く及ばないし、ジゼルは女性でしかも病を患っている(実際に心臓は完治しているが)。
 シグルトの提案が最も効率的であった。

「…秋の野営は寒いだろうからね。
 湾沿いに行くなら、絶対海風が冷たいし。

 ヴィスマールで寄り道した分を取り戻せるし、仕方ないかな」

 ウェーベル村を出発する準備中、シグルトは特に念入りに冬支度をしておくように言っていた。
 旅人は野宿する機会も多い。

 病気持ちの自分のことを配慮して貰えていると気付き、ジゼルは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「…そうへこんだ顔をするな。

 君をペルージュまで護衛することは、君の父上から依頼された俺の仕事でもある。
 報酬として金を預かっているし、取引して高価な熊胆を全て貰えたから、まだ面を合わせていない他の仲間たちも悪い顔はしないだろう。

 明日は早い。
 もう休もう」

 シグルトの言葉に従い、一行は早めに休むことになった。

 
 次の日、紹介状を使って借りた二頭の馬に乗り、一行は朝早く出発した。
 秋の気候となり、明け方はまだ空気が冷たい。

 馬の身体に披露が蓄積しないように速度を調整しながら、一行は波音のする湾に沿って旅路を進んだ。

 ジゼルにとって、愛馬のホーリー以外に乗るのは久しぶりだった。
 相乗りするために体格の好い馬を選んだため、目線が少し高くて違和感はある。
 けれどその感覚は新鮮で、決して不愉快ではない。

 ここまで来るのに、不思議と心臓は平気だった。
 生まれた時からずっとジゼルを悩ませていた病は、何故か森神の祭の後、ピタリと治まっている。
 いつもならば、これだけ慣れない体験をすれば、息苦しさになって自分を締め付けてきたのに、だ。

 つい馬の歩みを速めてしまうと、同乗したロマンが美貌には似合わないじっとりとした非難の目で見上げてくるので、どきどきしながら普通の速度を維持する。

 一緒に並んで乗馬して分かったことだが、シグルトも乗馬には慣れている様子だった。
 ジゼルのように乗馬を日課にしていた者から見れば劣るのだろうが、十分に熟練者のそれである。

「シグルトは乗馬もできるのね。

 冒険者って徒歩のイメージがあるから、驚いたわ」

 気をそらすために話題を振ってみると、並足で巧みに馬を操りながら「ああ」とシグルトが返事をよこす。

「俺は一応貴族の出でな。
 乗馬は嗜み程度にだがこなせる。

 父は世襲貴族じゃなかったから、嫡子であっても…実力で騎士になってから武勲を立てて下級貴族の爵位を目指すか、尚武の国風に応じて武芸者として身を立てるか…出世する方法はあまりない。
 俺のような、嫡子以外の子供には普通に貴族になる選択肢が無いんだ。

 だから、自立するために学べることを貪欲に学んだ。
 いつか人生をともにする家族や、母や妹を守れるように。

 武術、言語、医学、伝承に乗馬。

 幸い生家には厩もあって、母から乗馬を教わることもできた。
 〈馬が暴走して森に取り残され、父と出逢った〉という惚気話を聞きながら、将来のためにということでな。

 十歳になる頃には裸馬に乗れるほど習熟したが、ここ半年は時々移動に使う程度で、故国より馬体の大きな奴が多いものだから苦労している」

 秋空を見上げながら、シグルトは独白するように過去を語る。
 背中でロマンが息を呑むのが感じ取れた。

「シグルトのお父様とお母様の出逢いですって?!

 すっごく興味があるわっ!」

 ジゼルは目をキラキラさせて馬から乗り出すと、シグルトを問い詰めるように話をせがんだ。

 今度は「そういう反応するところじゃないよね?」というふうに、呆れたような溜息が漏れる。
 少し嫌そうに、ジゼルとロマンを乗せた馬が嘶いた

 苦笑したシグルトは、旅の間はせがまれるままに、夫婦仲の良かった両親の邂逅を語る羽目になったのである。


 アレトゥーザへの旅は、少し夜が寒かったものの…獣や野盗に襲われることもなく無事に終わった。

 いつも不機嫌そうな門番に挨拶をすると、シグルトたちはすぐに『悠久の風亭』へと向かう。
 宿の扉を開けると、カウンターに座って貝の蒸し料理を肴にイルマーレを飲んでいるレベッカが見える。
 間近の席にはスピッキオとラムーナが座って食事をしていたが、シグルトたちに気づいて手を振った。

「皆揃っているようだな。

 すまん、少し遅くなったか?」

 外套を脱いで壁に掛けると、ラムーナが「大丈夫だよ~」と間延びした返事をする。

「約束の日まで、まだ数日は余裕があるわい。
 とはいえ、皆なんとなく今日あたりには集合できそうだと感じておったようじゃの。

 これぞ神のお導きというものじゃ」

 胸の前で十字を切るスピッキオに、不心得者のレベッカとジゼルの眉間が同時に皺を寄せた。

「せっかくいいお酒で気持ちよく飲んでるのに、寺院の乳香で咽るような気分にさせないでよね。

 とはいえ、私は知り合いに頼まれてた野暮用を済ませてさっき戻ったばかりだし、ラムーナは舞踏の方がモノになったからってことで、あんたたちが来なければ三人で軽い依頼でもやろうかって話てたところよ。
 タイミングはバッチリ…って言いたいところだけど、まずは後ろの可愛子ちゃんのことを教えてくれる?」

 軽くジゼルにウインクをすると、仕事の目になってレベッカがシグルトに問う。

「うむ…彼女はジゼリッタ。
 いろいろとわけありなんだが、彼女の父上から彼女の護衛と知り合いへの仲立ちをする依頼を受けていてな。

 長くなるが…俺の方でかなりいろいろなことがあったから、報告を兼ねて話をしようか。

 何も注文せずにだべるのも他の客に失礼というものだ。
 食事をしながらにしよう。

 女将さん、俺は烏賊のパスタを。
 飲み物は鉱泉水を頼む」

 ジゼルの分まで椅子を引いてくれ、腰掛けたシグルトが昼食を注文すると、宿の女将ラウラが「あいよっ」とすぐに鉱泉水を注いでくれた。

 海辺の都市というのは水質が悪い。
 特に下町の井戸は、海水が混じっているのかわずかに塩辛く、海辺に近い『悠久の風亭』最寄りの井戸も酷いものだった。

 南海地方では初夏の頃に、南方大陸から砂埃混じりの季節風が吹く。
 それによっても井戸が汚れるため、綺麗な飲水は有料となり、酒や果実を絞ったものを飲むものも多かった。

 アレトゥーザには水の大精霊が湧かしたとされる清らかで大きな泉もあるのだが、交易で発展した今のアレトゥーザの民全てを潤すほどの水量ではない。

 こういった井戸水の問題に対処できるのは、水の精霊術だけだ。
 泉の精霊ネレイドや水の精霊ウンディーネは、飲水を浄化させたり、真水を作り出すことができる。

 一昔前のアレトゥーザにはそういった水の精霊術師が多数いて、井戸や溜池や瓶に雨水を溜めたものを浄化して日銭を稼いでいた。
 現在そういった水の精霊術師は、聖海教会の保守派によって迫害され、その多くがアレトゥーザを離れている。

 アレトゥーザの都市名は、水姫と呼ばれる大精霊の名前に由来していた。
 昔、不毛の地にカヴァリエーリという優れた精霊術師がやってきて、この地を水姫の浄化の力によって清めて人の住めるようにしたのがアレトゥーザの始まりだという。

 それから月日は流れ…教会の一派である聖海教会がこの土着の精霊や神を聖人として吸収して、精霊信仰を飲み込んでいった。
 教会は、都市の発生に関わったアレトゥーザの【聖女化】をも画策する。

 だが、アレトゥーザ発祥に関わるこの都市一番の名家カヴァリエーリ家が、断固として水姫の聖女化を認めなかったのである。
 というのも、力ある精霊の幾柱かが、聖海教会に帰順しないことを理由に封印されてしまう事件が起きていたからだ。
 上位精霊の水姫に「帰順か封印か」迫るような無礼を働けば、最悪アレトゥーザが元の不毛の地に戻ってしまう。

 当時精霊術師の多くが教会の横暴に怒っており、聖海教会の穏健派も「急激な布教の推進は乱暴すぎる」と異を唱えたが、教会保守派は精霊術師を多く排出したカヴァリエーリ家や水の精霊術師を目の敵とし、特に女性の精霊術師を魔女として攻撃するようになった。

 このことをきっかけに精霊術師と聖海教会の関係がますます険悪化し、十字軍の遠征と共に南海を拠点として聖典教徒を攻めようとした聖北教会の騎士団と聖海教会の保守派が結託し、水の精霊術師を捕らえて【妖術師】や【魔女】として異端審問にかけ、ついには精霊宮で重要な地位についていた女精霊術師が強引な魔女裁判で火刑に処されるに至り、南海の各都市にいた精霊術師のほとんどが精霊宮を放置して出奔してしまう事態に陥った。
 教会によって箝口令が敷かれたが、精霊術師がいなくなったことで不便になったことや、都市を出た者たちの口まで塞げるわけではない。

 精霊宮は、精霊や悪魔などが実際に存在するこの世界においては、霊的な自然の災害を防ぐ防衛装置として古くから各都市に配置されていた。
 そこに勤める精霊術師が精霊たちを鎮めることで、都市を見舞う災害が激的に減少するのだ。

 精霊術師の出奔で、アレトゥーザをはじめとする南海の各都市は精霊術師の不足により精霊宮が機能しなくなってしまった。

 当然、暴風や波浪などによる災害が激増し、特に深刻な被害をもたらしたのが水質の汚染である。
 豊富な水の精霊たちによって海水を浄化して清浄な泉を湧かせていた南海の村落が、水源の枯渇や飲料水の汚染によって維持できなくなり、村落を放棄する者も出始めた。

 ここで都市における権力の向上を機会を狙っていた第三者…魔術師学院連盟こと〈学連〉の魔術師たちが、古代の下水浄化技術を用いた魔道具で水質の劣化を抑えることになるのだが、水の精霊術の持つ完璧な浄化には及ばず、しかも高価な魔道具はすぐに普及することができずに権力者たちを潤すにとどまった。

 汚染された水源を使っていた下町や貧民街の住人に、特殊な病気が発生しやすくなったのもその頃からだ。
 
 『悠久の風亭』の女将ラウラもまた、水の毒に侵され瀕死の状態になった一人である。
 偶然通りかかったレナータがすぐに井戸水の汚染が原因の病であると見抜いて、ウンディーネの浄化による解毒治療を行い、ラウラは一命を取り留めたのだという。

 それ以来、『悠久の風亭』のマスターは近くの井戸水をそのまま使用するのを忌避するようになり、都市の郊外でレナータが見つけたという安全な鉱泉水や浄化した水を有料で出すようになった。
 『悠久の風亭』の夫婦はレナータに恩義に感じており、聖海教会保守派によって迫害される彼女を庇い、仕事を干されていたレナータに昔同様生活用水の浄化を依頼して仕事を斡旋していた。

 最近新しい街道が完成し、アレトゥーザへの交通事情が変わると、どっと冒険者たちが仕事を求めてアレトゥーザに訪れるようになった。
 これにより冒険者としての精霊術師が入ってきたことで、共和制のアレトゥーザでは精霊術師に対する迫害を止めて人権を尊重する動きが出始め、聖海教会保守派との間に新たな火種が燻っている。

 リューンで後輩の冒険者ができたことや、ディリス王家と知り合うことになった経緯などを話しているシグルトの横で、ロマンから現在のアレトゥーザの話を聞いていたジゼルは、頭から煙が出る思いだった。

 “風を纏う者”の面々は高度な政治的事情を含め、食事をしながら王族や貴族の話題を出し、各都市の情報を政治・商業・学問・宗教の動きなどを論じるため、田舎の村長の娘であったジゼルにはほとんど理解できないのだ。

 別の方に意識を向けてみれば、独特の巻き舌でまくしたてる南海の言葉はさっぱり聞き取れない。
 話の途中で、ロマンは肩をすくめてレベッカたちとの話し合いの方に行ってしまった。

 疎外感を受けていると、すっと近寄ってきたのがラムーナと呼ばれていた女戦士である。
 
 歳の頃はジゼルよりも下で、少女から女に成長する過程の微妙な起伏をした体格。
 美人というより、愛らしいという印象を受ける。
 服の間から見える手足はすんなりとしなやかで、身体を動かす職業独特の躍動的な筋肉が程良い女性の脂肪に陰影を加えていた。

「大丈夫だよ、お姉さん。
 シグルトたちはいつもあんな感じだから。

 お話が難しいよね?
 適当に分かるところだけ頷いていれば、そのうち終わっちゃうよ」

 残念なお仲間認定を受けて、内心複雑なジゼルであった。
 仕方ないので、ジゼルも魚介をふんだんに使った南海の料理を味わうことにする。

 試しに頼んでみた烏賊墨のパスタは、真っ黒な見た目によらず大変美味で、おかわりをすることになった。


 食事を終え、互いの状況を確認した“風を纏う者”は、今後の活動について話し合うことになった。

「事情は分かったわ。
 とりあえず、ジゼルちゃんの方はいずれペルージュに連れて行くとして…
 私達の後輩として冒険者やってくなら、一通り仕事のやり方を叩き込まないとね。
 
 才能は相当なものみたいだけど、身体がひ弱過ぎよ。
 弓を使う職業をしながらできる斥候役は私と微妙に被るし、旅慣れもあんまりしてないみたいだから、“風を纏う者”に迎え入れるのは論外。

 私たちの中で一番体力が無いロマンだって、今は一日に四十キロを普通に踏破するけど、ジゼルちゃんにできる?」

 確認するようにレベッカが聞くと、ジゼルは困ったように首を横に振った。
 舞踏をやるし田舎育ちで、基礎的な身体能力には自信もある。

 それでも、長い間心臓に負担をかけないために生きてきたため、運動量は限られていたのだ。
 アレトゥーザまでの乗馬による旅ですら、かなりの疲労を感じてシグルトやロマンに迷惑をかけている。

「うん、やせ我慢して、できない無理ができると嘘を吐かないのは美徳よ。
 そういう類の偽りはパーティ組んだ仲間が迷惑を被るから、忘れないでね。

 まぁ私たちは、結成して半年ぐらいだけどかなり特殊だから。
 熊と一騎討ちできるうちのリーダーについて行くの、大変なのよ。
 無茶はさせないから安心してね。

 旅の合間にちゃんと冒険者の基礎を教導するわ。
 斥候に関してのノウハウも叩き込むから、覚悟しておいてね」

 レベッカの評価は厳しかったが、仕方ないことだとも思う。

 一緒に数日旅をして感じたが、明らかにシグルトやロマンは規格外だった。
 知識や体力はもちろん、経験や意識が違う。
 修羅場を経験し生き残った冒険者の貫禄は、森で鳥や小さな獣を狩ったのがせいぜいの小娘と比ぶべくもない。

「方針はそんな感じとして。

 これから先、ペルージュの方は寒くなるのよねぇ。
 行くとしたら年内、できれば十二月になる前がいいかしら?

 一応は冬支度しないと、風繰り嶺の吹き颪はつらいかもしれないわ」

 そんなことをレベッカが言い出すと、『悠久の風亭』のマスターが空っぽになった食器を下げながら話しかけてきた。

「今日着いたばかりで、もう他所に行く相談たぁ、忙しい話だな。

 だがよ、ちょいと出発は待ってくれねぇか?
 実は厄介なことになってて、あんたらの手を借りてぇんだ。

 ゴブリンが住み着いて近隣の村で被害が起きてるんだが、最近南海で海賊どもが大暴れしてやがってな。
 このあたりの冒険者パーティが、軒並みそっちに引っ張られてるんだよ。

 あんたらぐらいならわかってると思うが、ゴブリンって奴は群れるから、単独や少数の冒険者には任せられねぇんだ。

 報酬は銀貨五百枚。
 ゴブリンの群れの規模は十匹程度。
 ロード種やシャーマン種はいねぇって話だが、中に田舎者(ホブゴブリン)が交じってるって情報がある。

 群れの規模が二桁になってるのもあって、報酬額の基準的に依頼の受け手がいなくてなぁ」

 討伐依頼の報酬は、二桁のゴブリンの群れであれば最低銀貨六百枚ぐらいが目安である。
 ホブゴブリンのような大型種がいるなもう少しほしいところだ。

「ふむ…討伐の依頼は、冒険者の手が余ってるなら銀貨五百枚でも受け手には困らないはずだが。
 提示された報酬の規模からして、近隣の村々が金を出し合ったものだろう。

 依頼が発せられる時点で、相当に困っているから依頼に踏み切った…海賊騒ぎもある中で銀貨五百枚は周辺村落に出せる限界。
 アレトゥーザのお役所から補助が出ていれば銀貨八百枚ぐらいにはなっているはずだから、海賊の討伐の方に財政を圧迫されて余裕がなくなっているというところか。
 まさに〈泣きっ面に蜂〉の状況だな。

 俺は受ける方に一票だ。

 銀貨五百枚ならば討伐報酬として及第、各自が習得した技能を確認した上で実戦の慣らしをするには良いかもしれん。
 世話になってるこの宿のマスターからの指名、断るのは不義理でもある。

 南海で村を巡っている立場からも、受けるのが道理だと思う」

 シグルトはこういう時、自分たちの実力を考慮した上で義務と道理に従った判断をすることが多い。

「〈鮫〉ども…海賊が騒いでるってのは確かね。
 私の野暮用も、リューン近郊の海賊の勢力情報について調べてる人間からの呼び出しだったわ。
 
 南海の冒険者どもは政府から金が出るってことで、船に乗って遊覧の真っ最中よ。
 船酔いで吐いてる連中もしこたまいるんでしょうけど。

 とりあえず私も受けるほうに一票。
 ゴブリンが溜め込んだ何かを獲得できるかもだし。
 ああいう人型の妖魔は、小銭や宝石を捨てずに持ってることもあるのよ」

 リーダーに加えて、慎重派のレベッカまで依頼を受けることに賛成したので、残りの三人もそれに合わせるように頷いた。

「まぁ、当然かな。
 ああいった妖魔の集団には、【眠りの雲】を習得した魔術師がいるパーティで対応するのがセオリーだから。

 ゴブリンって放置すると地味に鬱陶しいから、僕は構わないよ」

 もっと強いロード種が率いていたオークの討伐も経験しているので、ゴブリンごときには負けないと自負するロマンである。

「私もいいよ~?

 盾と新しい戦いのダンスで、頑張る!」

 ラムーナはガッツポーズを取り、とんとんとステップを踏んだ。
 彼女が習得したのは防御系の戦闘技術なので、早く試してみたいようだ。

「わしも異存はないから、決まりじゃの。
 苦しむ民草を妖魔から救うのも、神の思し召しじゃ。

 さしあたって、ここにおるお嬢さん…ジゼリッタさんじゃったか?
 依頼遂行の間、彼女にどうして貰うかじゃの。

 基本的な教導も終わっておらん新人を、討伐の依頼に連れて行くなど論外。
 どうしたものか」

 スピッキオが確認するようにジゼルを見た。
 急に話題の矛先が自分になってびっくりした彼女は、両手を大げさに振って「構わないで」のポーズをとる。

「私がアレトゥーザに同行したのって、こっちで本格的な南海の舞踏について学びたいのもあったんだ。
 故郷で習った巫女の舞踏は儀礼的なもので、それ以外の技術は我流に近いのよ。

 ラムーナちゃんの先生って、戦いの舞踏を教えてるんでしょ?

 興味があるし、みんなが依頼に行っている間にそっちを訪ねてみるわ」

 護衛対象でもある彼女が方針を示したことで、“風を纏う者”はゴブリン討伐を受けることに決めた。

「滞在場所に困ってるようなら、皿洗いや料理を手伝ってくれる条件で、討伐依頼が終わるまでの間は宿代は取らないで屋根裏を貸してあげるけど、どう?」

 こういう時、絶妙のフォローをする女将のラウラである。
 願ったりの申し出だったので、一行はその好意に甘えることにした。
 
 いつか夢のためにと少しずつ小銭を貯めていたジゼルだが、手持ちの資金はゴブリン討伐の報酬よりも少ない。
 シグルトたちと数日旅をして分かったことだが、旅には思った以上に金がかかる。

 まず関税。
 領地の住人が他領に流出するのは、領地に貢献する領民を失うリスクがある。
 そのため、税をかけることで貧しい領民を囲う。
 税を払わずに領地を出ると里帰りの時に多大な罰金を科せられることもあるので、領民は外の世界に出ることを嫌うのだ。
 さらに他領とのトラブルを避けるため、国や領地を超える時にも関所で税がかけられる。
 大きな都市に入る時も、ちゃんとした通行証が無ければ金で身分を保証するのが普通だ。
 都市を出るまで問題を起こさないための保険として、多額の金銭を預かるという場合もあった。

 次に、食事や宿泊費などの旅費。
 宿が無い村落でも、宿泊する時は労働や物品を対価とするか、最低限の謝礼を払うのが筋だ。
 無断で都市や村落で野宿することは、治安上好ましくないため認められないことも多い。
 道中山野で野営すれば、獣や盗賊、最悪魔物に襲われる危険を冒さなければならない。
 野営中の事故は法律が適用されないことも多いので、自己責任となる。

 他には施設の利用費や、防寒具や保存食などにかかる装備の費用。

 武装のメンテナンスにも金が必要となる。
 ジゼルのような弓使いにとって、矢玉にかかる費用は馬鹿にならなかった。
 時々、「使った矢を拾って再利用すればいい」と簡単に考えている輩がいるが、撃ち込んだ矢の鏃は歪み欠けるし、矢羽も触れることで傷んで命中精度が落ちる。
 獲物から矢を抜く時にシャフトが曲がったり裂けるのは頻繁に起き、弓の弦は張りっぱなしにすると張力が落ちるので普段は緩めるか外す必要もある。
 女性の弓使いは弦が胸部に当たらないように胸当てを着けるし、弦を掛ける人差し指と中指には関節部を切らないように弓籠手や特殊な手袋などで保護するのだ。

 さらにジゼルはダンサーを目指しているわけで。
 そのための衣装代まで考えると、資金繰りに気が遠くなりそうだ。

 仕事の間におけるジゼルの滞在先が決まると、“風を纏う者”は明日にでも依頼に出発することに決め、そのための相談を始める。

 そうして、相談を兼ねた長い昼食の後、“風を纏う者”とジゼルは次の行動の準備を兼ねてアレトゥーザの散策をすることになった。

 シグルトは、妖精が帰還して失った術に代わり、持っている剣術書の技を慣熟させるため、アレトゥーザで兵士に武芸を教える教官を訪ねるとのことだ。

 レベッカは、ゴブリンや海賊の情報を聞き出してくると言って盗賊ギルドに向かった。

 ロマンは賢者の塔に行くとのことだ。

 ラムーナは、ジゼルに請われて舞踏の師であるアデイの仲介をしつつ、しばしの別れを告げてくるらしい。

 スピッキオは、しばらく厄介になっていた聖海教会に挨拶してくるという。

 夕食は各自で済ませ就寝する前には宿に集合という約束をすると、一行はそれぞれの目的のため、一時的に解散するのであった。



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Y字の交差路


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『ジゼリッタ』

2018.11.02(18:06) 483

 出発の朝、シグルトとロマンは早々に食事を済ませると、フォーチュン=ベルの朝市に立ち寄っていた。
 旅の間の保存食や、油などの消耗品を手に入れるためである。

 この時代の旅は、身体一つで踏破できるような甘いものではない。

 山賊や野盗はもちろん、獣や怪物に襲われる危険性。
 崖崩れや地割れで街道を逸れた時の備え。
 旅の最中に負傷したり病に陥った時の対策。

 この時代一般人のほとんどが、故郷を出ることなくその土に還るのが当たり前だった。
 旅とは命懸けなのである。

 シグルトは、故国から西方諸国にやって来るまで、多少は旅慣れしていた。
 西方人がその名を聞けば震え上がる、城塞都市キーレや蛮族領を通過して来たのだ。

 対してロマンは、子供という身の上と華奢な身体つきから、あまり旅に向いていなかった。
 今回は馬があるので移動は楽だが、“風を纏う者”では一番体力も無い。

 シグルトは、ロマンがパーティに居る時は、その体力配分にも気を掛けるようにしていた。

 この少年は要領が良い。
 自分が一番疲れない動作を心掛けているので、並の大人より沢山の距離を歩くことができる。

 シグルトは馬に乗せられる分量を考え、水で増やせる保存食を中心に、重量が軽い物品を購入していた。

 購入といっても、シグルトたちはほとんど通貨を使わない。
 無駄な出費を抑えるためだ。

 商人が儲けるのは、利益が出るからである。
 販売に関する税金も、商品に上乗せされていた。
 その分だけ、消費者は金銭を失うのである。

 だが、ほとんどの都市の場合、「金銭の使用によって税金と利潤が発生する」仕組だった。
 物々交換をした場合、この関税が掛からなくなるので、安く済むのだ。

 普通に、それを見逃すほど役人も甘くない。
 一般人は通貨で購入し、売買には税金が生まれるようにちゃんとなっている。
 商人たちは、組合を作ってまとめて税金を納めたり、豪商は個人で税金を納めて、商業権を得るのだ。

 彼らのような商人たちには、沢山の権利が認められており、税金の分保護されているわけである。

 だが、何事にも抜け道はある…それが時間や売り場の制限がある市だ。

 朝や夕べに立つ市は、指定した時間内に安い税金と場所代で商売を許可することが多い。
 故に、特別な権利を持たない農夫や猟師、旅商などが露店を開く機会にもなる。

 市では「一定時間内に商品を売り尽くす」のが理想となり、結果的に物品はとても安く売られていた。
 そこで生まれた利潤は、それぞれが商人から買い物をする金になり、この状態まで権利云々で口を出す商人は少ない。
 役人も、都市の活性化や、市民の懐を潤し多少なりとも税金を取れるので認めていた。

 此処で重要になるのが、「税金を払った者は、その市において商業権を得る」ことである。

 物品の仕入れに関する権利が、認められる可能性があるのだ。
 しかも、市は「取引する物品の限定が少ない」のである。
 細かい制限を説明していたら、露店を出す前に市が終わってしまうからだ。

 冒険者が珍しい物品で、「税金を払って商売している者」に取引を持ちかけた場合、持ちかけられた側はそれを「仕入れ」る事ができる。
 対価として、その商人は冒険者の求める物品を与えて、取引を成立させる。

 事実上の物々交換が可能なのだ。

 ほとんどの旅商や、市に立つ〈にわか商人〉は、生活のために商売をしている。
 通貨を得て買い物をするのは当然だが、自分たちが欲しいものを安く手に入れたいのが本心だ。

 砂糖や塩は、商人が高く扱う高級品で、中々手に入らない。
 それを交換の対価として呈示すれば、大抵は取引に応じてくれるのである。

 市における物々交換は、税金があまりかからないマジックであった。
 これを利用すれば、圧倒的に安く品物が手に入るというわけだ。

 斯様な抜け道を禁止する厳しい都市も、もちろんある。
 だが、下手な拘束や制限は、都市への人の出入りを停滞させてしまう。
 税金が発生しなくなり、都市は活力を失う。

 それに、農夫や漁師などのにわか商人は、難しい制限を理解できず別の取引先を探す。
 ただ複雑であっても、弊害を起こすのだ。
 
 時間制限を設け地域的にも限定的に行うという条件で、多くの都市はこういった商いの自由化を認めていた。

 人気のある塩や砂糖、香辛料は物々交換に適している。
 〈にわか商人〉に「材料」として取引を持ち掛ければ、どの商売でも必需品であるため、他安く物々交換が成立する。

 古い保存食品は据え置きで引き取って貰い、塩や砂糖のような調味料を加えて必要なものをまとめて手に入れる…それは旅をする冒険者の、処世術なのだ。

 シグルトは、このやり方をレベッカから学んだ。
 彼女に付き合ううち、彼自身もそれなりに交渉ができるようになった。
 まさに、「門前の小僧」である。

 シグルトは、贔屓にしている露店を回り、干した無花果(いちじく)や胡桃、干し肉などを仕入れる。

 相手は若手の行商や子供が多かった。
 これは、シグルトが子供贔屓なわけでは無く、ちゃんと理由がある。

 若手や子供は、どうしても客に舐められて足元を見られる。
 だから、シグルトのように交渉を持ち掛ける客は有り難いのだ。
 
 顔見知りであればおまけもしてくれるし、持ちつ持たれつである。
 
 気がつけば、数片の砂糖と塩一袋、道中で摘んで来た珍しい香草だけで、荷物袋いっぱいの食料が揃っていた。
 交換する時、割ががいいのはやはり香辛料や砂糖である。

 揃えた食品は、多彩だった。

 干し肉は保存食の代名詞とも言えるが、それだけでは身が持たない。

 ビスケットやパン、保存用の香草に、干した果物。
 林檎などの、多少は日持ちする果物類は、水分補給にもなる。

 塩や香辛料は、虫除けや食糧保存のためにも使うが、大量に使うと身体を害する。
 薄味に慣れることは、旅する者に必要であった。

 シグルトは、アレトゥーザ商人の知り合いが喜びそうな物も少し手に入れ、買い物を終えた。
 先を見越して品物を仕入れるのは、次の機会に自身を助けてくれる。

 荷物を揃えた二人は馬に乗り、ヴィスマールを目指した。
 
 『緑の都』と呼ばれるヴィスマールは、周囲を深い森で囲まれている。
 街道の周囲も林道が多く、野営地も森ばかり選ぶ羽目になった。

 二人は夜間、蚊に刺されないように、露出した肌に虫除けのつんとした香りの香草を塗り、蚊帳を張って休んだ。
 ロマンは虫や鼠が病気を媒介することを知っており、嵩んでも蚊帳を手放さない。

 シグルトは香草で作った香を焚き火にくべて、虫や獣を寄せ付けないようにしていた。

 虫と蛇の対策として、彼の持つ荷物袋は香草で煮て、処理してある。
 短時間置いている間に、毒蛇が袋に入り込んだという話が実際にあった。
 
 春から秋にかけての間は、こういった気遣いも冒険者に必要なことだ。

 大人と子供二人を乗せれば、馬には無理ができないだろうと思われるが、そこはシグルトがしっかりしていた。
 馬車を引いたり、甲冑を着て走る、軍用にも使われる大型の馬を借りていたのだ。

 幸い馬の餌は、豊かな森の中にいくらでもあった。
 その馬は、疲れた様子もなく二人を乗せて良く走ってくれた。

 四日目の昼前には、森林に囲まれた都市ヴィスマールに到着する。
 そこは、丁度フォーチュン=ベルとアレトゥーザの中継点辺りにあった。

 さらに行って湾を船で渡れば、アレトゥーザまで間もない距離だ。
 カルバチアやヴィズマールからの移動では、このルートが最も近い。

 二人は、この都市の宿で一泊することにした。


 旅の冒険者が良く泊まるという宿で、シグルトとロマンは食事をしていた。
 だが、そこで聞いた噂にロマンが困った様に眉をひそめた。

「…この先の湾が荒れていて、渡れないみたいだね。
 船乗りの話じゃ、数日は荒れそうだよ。

 少しヴィスマールでお休みかな?」

 季節は九月初頭。
 秋口ともなると、海岸近くの天候ほその日任せだ。

「三日待って渡れそうになければ、時間はかかるが湾沿いの街道で回り道をするか。

 湾越えが最短ルートとはいえ、天候任せなのは困ったものだな」

 馬による移動は、こういった状況では不利だ。
 飼葉や馬屋を借りる賃金も、馬鹿にならない。 

「あんたたち冒険者だな?

 もし湾が渡れずに立ち往生しているなら、一仕事してみないか?
 この近くの村で、羆が出たってんで、退治の依頼が来てる」

 羆、という言葉にシグルトが眉をひそめた。

「村人でも狩れそうだってことだが、祭りの前で流血沙汰は御法度なんだと。
 この辺りの村落は、妙に仕来たりに拘るからな。

 あんた強そうだし、どうだい?」

 シグルトとロマンは同時に溜息を吐いた。

「この時期の羆を相手にするだって…獣を舐めてるね。

 侮って手負いにさせたりしたら、その村は大惨事だよ」

 ロマンの言葉に、シグルトも頷く。

「秋口は、豊富な餌で肥え太った熊の力が強い季節だ。

 しかも、〈腕の立つ冒険者一人〉とは…危ういな。
 熊狩りは、凄腕の狩人でもない限り人海戦術を使わないと難しい。

 誰かこの依頼を受けたりしているのか?」

 シグルトの問いに、「んなわけないだろ?」と店主が笑った。

「流石に、羆に一人で挑もうなんて勇者、いないさ。
 この辺りの森の民なら、なおさらだ。

 あの村は、ここ数十年熊が出なかったんで、日和ってるんだろ。
 聞いた話じゃ、森の神様を祭る古い祠があって、その神様は豊穣と村の安全を約束してくれてたらしい。
 その手の時代遅れな信仰がある村は、得てして無謀なんだよ。

 最近じゃ、聖北の坊さんもうろついてるから、その手の神さんの行事はすっかり廃れて来てる。
 だから、罰が当たって熊が出たんじゃないか?

 しかも、熊一頭に銀貨四百枚じゃ、まるで割に合わない。 
 ま、祭りが終わったら、村人総出で熊狩りってもんだな」

 他人事の様に話す宿の主人の胸には、聖北の聖印が掛かっていた。
 先ほどから依頼して来た村に対しても、どこか偏見を持っている様子がある。

 ヴィスマールは、周囲を森に囲まれた特性上、林業や薬草取り、狩人の類が多いと言われる。
 彼らは得てして、森のように寛大に振る舞い、その実とても排他的だ。
 森の民は獣同様に、縄張り意識も強い。

 もちろん、全ての民がそうではないだろう。
 しかし、雰囲気というものは、必然多数側に傾く。

「ロマン…」

 シグルトが全てを言う前に、ロマンは頷いた。

「行くんだね…お人好しだなぁ。

 まぁ、どうせ湾が渡れないなら足止めだしね。
 人助けしておいでよ。

 僕は此処の図書館で、森に関する書物でも読んでるから」

 シグルトは、仕事を選ぶのにはとても慎重だが、依頼が切羽詰まったものだと優先して受ける傾向がある。
 それに、シグルト程の武勇と慎重さがあれば、羆一匹に後れは取らないだろう。

「…気をつけて」

 そっぽを向きながらぼそりと言葉にするロマンに、シグルトは強く頷き返した。


 シグルトは、その日のうちに羆退治を依頼したという、ウェーベル村へと向かった。
 
 村へと続く近道は、急な坂が続き馬が使えない。
 足に障害を持つシグルトにとって、木の根や石が浮き出した坂道を踏破するのは正直きつかったが、シグルトはその身にトリアムールを宿して、風のように駆け上っていった。

 トリアムールの精霊術は、すでにシグルトの一部と言っていい。
 精霊の姿を見ることができず、その声も聞けないシグルトだが、トリアムールの意思ははっきりと感じ取れた。

 精霊と四六時中側にいるせいか、シグルトは精霊の気配を察する力が増している。
 森そのものが、シグルトの味方だった。

 彼は、精霊に愛される資質を持っている。

 何とはなしにシグルトは、妖精や精霊が嫌う鉄の籠手を戦闘に臨むまで外すことにしていた。
 それに山道では暑苦しく、汗がつけば錆の原因にもなりかねない。

 名工の作った剣と籠手は、耳障りな金属音がほとんど鳴らなかった。

 小気味好く急な坂を登り切り、平らな道は滑るように歩く。
 シグルトは気付いていなかったが、彼の歩みは馬による移動と大差なかった。

 ヴィスマールから西へ徒歩で半日。
 シグルトはその距離を、さらに半分の時間で踏破していた。


 ウェーベル村の入り口を潜ると、そこには目印のように大きな噴水があった。
 噴水は清涼な水を湛え周囲の空気を冷やして、一帯は少しひんやりとしている。

 この村の特産品は、その豊富な水源と豊かな森を利用した果樹栽培だ。
 柑橘類に梨や林檎、そして葡萄。
 中には、この村でしか取れない稀少な果物もあるという
 
 そのまま売る時もあるが、多くは酒や蜂蜜漬け、ドライフルーツにして、一年の間村の財政を潤していた。

 時刻は夕刻近くだが、村の広場に敷物を広げて果物の皮を剥いている村人が何人かいる。
 恵みの秋に差し掛かったこの季節、仕事は山積みなのだろう。

 村人の一人がシグルトに気がつき、その美貌に見とれてぽかんと口を開けていた。

「…お仕事中、失礼する。

 私はシグルトという、冒険者だ。

 ヴィスマールの宿で羆退治の依頼を知り、やって来た。
 依頼主であるこの村の村長に会いたいのだが、案内して貰えないだろうか?」
 
 声を掛けられた夫人は、言葉も無く何度も頷くと、シグルトを村で一番立派な建物まで案内した。
 立派な荷馬車と大きな馬屋があり、戸口には魔除けの意味か、大きな木の枝が結わえつけてあった。


 その日、娘は何時ものように乗馬を楽しんでいた。

 実り豊かとは言え、この閉鎖的な村の生活は息苦しい。
 馬に乗っている時、そして踊っている時だけが彼女に自由な気持ちを与えてくれた。

 少し無理をしたせいか、胸が苦しかった。
 彼女の身体は、先天的に重い病を抱えている。

 もう婚期が気になる年頃であるが、彼女の立場と病とが、結婚する気持ちを奪っている。
 美しい彼女に求婚する男たちは多いが、皆腫物を扱うように彼女に接した。

 娘には、それが辛かった。

「ジゼルゥ~!」

 乗馬服に身を包んだ娘とは全く違う、エプロンに農夫の女性が使う粗末なヘッドドレス姿の村娘である。

「どうしたのよ、マリー。

 慌てなくても、私、今から帰るところよ」

 幼馴染の彼女は、娘にとって数ない心休まる相手だ。
 同じ年頃の娘はほとんどが結婚してしまい、子育てに忙しい。

 この幼馴染も婚約者がいて、来年の春には結婚する。
 結婚した相手のために作る蜂蜜酒の作り方を学ぶと言って、最近まで大騒ぎしていた。

 時々、騒いで興奮できる彼女がとても羨ましくなった。
 娘の身体は、それすら許さない。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、この幼馴染は大きくて愛嬌のある両目をくりくりと動かした。
 とても興奮した時の、彼女の癖だ。

「あのね、村長が言ってた熊退治の冒険者が来たの。

 皆大騒ぎよ!」

 「騒いでるのは貴女でしょうに」と心の中でぼやきつつ、娘は相槌を打った。

「そうなんだ。

 あの依頼、いくらなんでも割に合わないから、受ける人いないと思ってたのに。
 よっぽどお金が無い人なのかしら?

 その人が山賊みたいな強面だったら、私隠れるわよ」

 すると、幼馴染の村娘は首を横に振った。

「逆、逆!
 まるでどっかの戯曲に出てくる森の妖精王みたいに綺麗な人で、立派な剣を腰に下げてたわ。

 どこか品があって、道を尋ねる時に自分から名乗って来たみたい。
 声を掛けられたカトラおばさんなんて、年甲斐もなく頭の中が桃色よ」

 興奮して顔を赤らめる幼馴染。
 彼女もどこか、夢見心地の様子だった。

「この間までホラントのことで惚気てばかりいたのに、浮気な娘ねぇ。

 彼の前で、そんな顔しちゃだめよ」

 幼馴染の態度をたしなめつつも、娘は久しぶりに感じる新たなものへの好奇心に、心躍っていた。

 
 村長の家についたシグルトは、ドアをノックした。
 程無くして迎え入れられる。

「よく来てくれた…」

 屈強な身体つきの男である。

「私は、村長のシュバル。

 この村を代表し、貴方を歓迎しよう」

 堂々とした村長の態度には、礼儀半分、舐められまいとする態度が半分。
 穏やかな表情しているが、その実豪胆さを持ち合わせた人物であると感じられた。

「俺はシグルト。
 リューン郊外の『小さき希望亭』に所属する冒険者集団“風を纏う者”の一人だ。

 歓迎の言葉、痛み入る。

 短い間になるだろうが、滞在の間宜しく頼む」

 武骨な口調だが、綺麗な礼をして応えると、村長はうむと頷いた。

「…では、早速話に移ろう。

 依頼の内容は羆の退治。
 報酬は銀貨四百枚。

 …村を出て西に少しの所に、広場がある。
 この村では、『森神の箱庭』と称される場所だ。
 そこまでは簡単な一本道だから、迷う心配はないだろう。

 村では十年に一度、その広場で収穫祭が行われる。
 それは間もなくのことだが…こともあろうに若い羆がその場所を餌場にしてしまったのだ。

 村の掟で収穫祭に近い時期は、村の者すべて、森の動物を殺傷することが禁じられている。
 我々は手を出せずにいるわけだ。

 そこで、村の外の人間に依頼した、というわけだ。
 過去にも、その広場を獣が縄張りにし、同じように狩った事例があってな。
 今回もそのようにしたのだ」

 シグルトは黙って聞いていたが、村長が一通り話を終えたのを確認すると質問を始めた。

「事情は理解した。
 だが、いくつか質問させてもらおう。

 羆は、油断できない相手だ。
 それに対応するには、相応の情報と準備がいる。

 その羆は、どの程度の体格で、特徴はあるか?」

 刺すような厳しい目付きで聞き出したシグルトに、村長は少し気圧された様子である。
 たかが熊一匹…簡単な依頼だと思っている節があった。

「…取り立てて冒険者殿が騒ぐような、大きな羆では無い。
 若い雄で、縄張りを追われてやって来たのだろう。

 村の狩人でも、容易く狩れるはずだ。
 冒険者殿ならは、造作もあるまい」

 シグルトは村長の言葉を、苦いものでも飲み込む様子で聞いていた。
 そして、大きく溜息を吐くと、言い含めるかの如く話し出す。

「まず、誤解が無いように最初に断っておく。

 報酬の増額要求をするつもりはない。
 条件付きで、この依頼は受けると約束しよう。

 だが、忠告したいことがいくつかある。

 まず、この時期の羆はたらふく食べて、とても力が強いのだ。
 もし過去に熊を狩ったことがある者がいるのなら、それは春先では無いか?

 越冬を終えた熊は、痩せ細り体力が無く、容易く狩れることがある。
 多くの熊殺しが、それ故に侮って次の熊に挑み、返討ちになった事例は多い。

 手負いになった狂い熊が襲い、ほぼ壊滅した村が実際にあったことを告げておく。
 人によって傷つけられた熊は狡猾になり、人を喰らって襲うようになる。

 恐れを知らず死ぬまで狂ったように戦う狂戦士…ベルセルクのベルとは熊のことだ。

 狂い熊の強さや狡猾さから生まれた言葉だろう、と話してくれた老婆は語っていた。
 北では、熊のように強くあろうと、都市や人の名にもベルを冠した話が多数ある。
 
 熊の縄張りは案外広い…そうして怒らせ、狂ってしまえば、近隣を巻き込む恐ろしい火種になる。
 沢山の無辜の人や獣が、巻き込まれることにもなりかねんのだ。

 我々冒険者は、時々そういった「狂い熊」を狩らされる。
 その時は、功名に逸った若手が良く死ぬと聞く。

 どうか、今後は熊狩りに関して、〈容易く狩れる〉などと侮った見識は改めて戴きたい。

 報酬の銀貨四百枚だが…
 熊狩りの最低報酬は銀貨五百枚、羆相手なら八百枚は用意した方がよかろう。

 報酬の基準は、仕事の難易度に関する目安になる。
 つまり報酬が相場より安いと、実力の無い者が受けることになる。

 熊の毛皮や肉を報酬に加えるのは、対策法の一つだ。
 その道の熟練者が受けてくれるし、依頼人の見識も推測できる。

 羆の怪力は、オーガーに次ぐと言われ、危険度の高い依頼として扱われる。
 相場を知らんと、悪質な冒険者に足元を見られることになるだろう。
 同業者にそういった悪辣な輩が居ることを否定できんのが、とても残念だが。

 雇う人数は、一人ではなく三人以上の多少熟練した冒険者に頼むこと。
 ただの宿の張り紙では無く、冒険者の宿か組合を通じて、ちゃんとした冒険者を雇ってほしい。

 あのような厳しい条件の依頼では、まず受ける者がいない。
 受けるとしても程度の低い、食いつめ冒険者がやって来て、熊を怒らせて終わるだろう。

 今後、これらのことを考慮してくれることを、この依頼を受ける条件としたい」

 村長はシグルトの厳しい言葉に、目を見開いていた。

「我々冒険者の多くは、依頼達成のため誠心誠意尽力する…命を掛けて。
 だからこそ、貴方たち依頼人にもこういった厳しさを知って戴きたいのだ。

 貴方たち依頼人の誠実さと注意が、多くの命と、同時に我ら冒険者の名誉と身を救うことになる。

 どうか、頼む」

 頭を下げたシグルトに、村長は慌てたように頷いた。
 厳しい口調の中にも、シグルトの態度はとても誠実だったからだ。

「…承知した。
 貴方の言葉は、今後村の皆に伝え、徹底させよう。

 一目見た時から、普通の冒険者とは違って見えたが…
 その深い見識と誠実で高潔な様子、もしや名のあるお方では?」

 この問いに、シグルトは首を横に振って否定する。

「…名は、父が有名な竜殺しの名からつけたものだが、正直不相応だと感じている。
 ことは思うままに行かず、日々喘ぎ、最近やっと駆け出しを抜け出したばかりの、粗忽者だ。

 だが、頼れる仲間のおかげで、なんとかやっている。
 今では導くべき後輩も、少しばかりできたところだ。

 その後輩可愛さに、初対面で厳しいことを言った無礼は、御容赦願いたい」

 ふ、と小さく笑うシグルト。
 爽やかで誇らしげな微笑みだった。
 
 彼がこの仕事を受けた一番の理由は、無知な後輩同輩たちを守るためだった。
 
 もちろん、見過ごすこともできた。
 だが、それは彼の信じる義に反する。

 シグルトは、言葉だけの正義に酔って謳うだけの偽善者になりたくなかった。
 自ら行うことこそが義を示し、後に続く者たちの道標になる。
 そうして、後輩たちに恥じない先達になろうと励むのだ。

 自身に問いかけ、己にこそ恥じないための信義を重んじる。
 それこそが、名の誉れよと、亡くなったシグルトの父が言っていた。

 シグルトの父は王を救った武勲で、シグルトの母の名誉を回復した。
 望めば高い爵位と、土地を得ることもできたのにである。

 口下手な父は、「私の名誉は、誇らしげにしてくれる妻と子の笑顔なのだ」と恥ずかしそうに言っていた。
 シグルトはその言葉を残してくれた父を、心から誇りに思う。

 そして、それがシグルトの重んじる名誉そのものとなった。
 つまらない自尊心で貶めてはならないと、強く自戒している。
 
 他者の名誉を守れぬ者に、己の名誉は背負えない。
 何かを見捨て、何かを蹴落として得るのは増長慢心だ。
 共に喜び称え合えることこそが、誇るべき名誉である。

 それは、シグルトの揺るがない信念であった。

〝明日飢えるとも、一つのパンを友と喰らい、その美味を分かち合って死ね。
 身は飢えて原野に朽ちるとも、心と魂は満たされよう。

 姿と言葉は忘れ去られても、屍(しかばね)が汚く泥にまみれても、妻と子と大地はきっと誇ってくれる。

 強きは弱きを守り胸を張ろう。
 臆病者はせめて覚えていよう。

 死に急ぐのは愚かだが、心満たされ逝くことこそが生なのだ。

 その一生が尽きるまで、どうか恥じずに生きて行こう。
 だから死ぬ時は、誰かのために笑って逝こう。

 残る者には一欠片の幸福を。

 どうかこの心と魂には、ささやかな名と誉れあれ〟

 シグルトは、故郷の兵士たちが歌え伝えた『明日の英雄』と呼ばれるこの歌が好きだった。 
 明日の同輩後輩が、ささやかな微笑みで幸福を謳歌した時、シグルトはその名誉を実感できるのだ。 
 
「では、早速明日にでも仕事を遂行しよう。

 契約書を作成したいので、この紙に署名を願えるか?」

 シグルトは宿から貰って来た張り紙の空いた場所に、先ほどの条件をさっと箇条書きにし、契約書を作成する。
 この方法は、貴重な紙を無駄にしないための知恵だ。

 “風を纏う者”のリーダーとして、多くの署名をして来たシグルトの作業は慣れたものだった。

「…これで契約成立だ。

 申し訳ないが、今夜はこの村のどこかで一泊させてもらいたい。
 どこか泊まれる場所があれば、手配して貰えると助かるのだが、お願いできるだろうか?」

 村長は、「もちろん」と大きく頷いた。

「客人は、我が家の客室を使うといい。

 大変な仕事に安い報酬で申し訳ないが、代わりに今夜は村を上げて歓待したい。
 いかがなものか?」

 シグルトは、首を横に振った。

「お気持ちは有り難いが、迷惑だろう。

 泊まれるだけで、充分だ」

 すると、村長は声の高さを少し落とした。

「いや、冒険者殿には悪いが、すでに手配済みだ。

 熊騒動で、すっかり村人の覇気が無くなってしまってな。
 十年に一度の祭を前にしているというのに。

 祭の練習を兼ねているが、その実村人にうっ憤晴らしをさせたいのだよ。
 このような森の奥の村では、きっかけがないと騒げないのが、悲しいところだな」

 笑う村長の申し出に、それならばと、シグルトも歓待を有り難く受けることにした。

 厳しい環境で生活する者たちは、とにかくお祭好きである。
 それは、祭や何かの宴会程度しか羽根を伸ばす機会が無いからだ。

 労働の妨げとなる酒は、普段は飲もうにも物が無く、特別な時にしか振舞われない。
 シグルトは厳しい環境で育ったので、その気持ちが良く理解出来る。
 
 粗悪だが独特の辛味があった故郷の酒の味を思い出し、シグルトは懐かしむように目を細めた。
 

 村長の言う通り、シグルトの歓待は大仰なものとなった。
 
 祭で行う芸の練習だといって騒いでいたが、村人たちは早くから酒に酔い、御馳走を並べて貪り食っている。
 ただ、殺生禁止というのは確かで、並ぶ肉類は塩漬けばかり。
 代わりに並ぶ果物や山菜料理は、とても豪勢だ。

 塩気の強い味付けに、喉が渇いて自然と酒が進む。

 シグルトは果実酒や蜂蜜酒など甘味の強い酒は、あまり好まない。

 今は余計な風味が無い酒に、干した棗(なつめ)と生姜を薄く数片切り入れたものを飲んでいた。
 生姜の微妙な辛みは苦手な者も多いが、シグルトは好んで入れる。

 村の女たちがこぞって酌をしようと訪れるが、「手酌で飲むのが好き」と自分のペースで嗜んでいる。
 本心は、明日は熊退治というのに、節度の無い飲み方は命取りになるからだ。
 最も、シグルトの場合、どんな時でも暴飲暴食は決してしないのだが。

 村の広場には大きな焚火が焚かれ、それを囲んで男と女たちが手拍子で踊っていた。
 
 シグルトは、こういった祭の情景が好きだ。

 日々をささやかに生きる者が、その情熱を炎にくべて燃え上がらせる時。
 自身もそれを見ることで、強く生を実感する。

「よう、アンタ。

 楽しんでるかい?」

 不意に声を掛けられて、幻想的な炎からそちらに目を移す。
 そこには若い男が一人立っていた。

 好奇心に満ちた不躾な目で、シグルトを眺めている。
 少しだけ男の鼻の頭が赤いのは、酒に酔っているせいだろう。

「俺はヒラリオ。
 よろしくな英雄サン。

 アンタは、なんてんだ?」

 シグルトは、この男の態度や口調から、虚栄心が少し強い、典型的な若者の性格を感じ取った。

「…シグルト。

 英雄というのは言い過ぎだ」

 応えて、間を持たすために、一口酒を啜る。

「なんだ、そりゃ?

 生姜なんて、薬臭くなるだろ」

 からかう様子に、シグルトは苦笑する。
 
「生姜は消化を助け、棗は強過ぎる生姜の効果を和らげてくれる。

 俺はまだ仕事を終えていない。
 歓迎して貰って、次の日仕事ができませんじゃ済まないからな。

 酒は、身と心を助けてこそ、だ」

 正直用意された御馳走は、多過ぎて食べきれない。
 シグルトが食べたものと言えば、薄く切った塩漬け肉と香草をライ麦の硬いパンに挟んだものと、スープぐらいだ。

「いけねぇなぁ。

 せっかく歓迎してるんだ。
 しっかり食ってくれよ」

 そういう勧めも、はっきり断る。

「健康を考えるなら、こういった宴は夜より昼やる方がいいんだ。
 次の日、寝込んでも良いなら別だがな。

 暴飲暴食の後に寝ると、寝ざめも悪い。
 次の日吐くくらいなら、明日の弁当にとっておくさ。

 うまし糧も身を活かすために取らねば、今どこかで食えずに喘ぐ貧しい者たちに申し訳ない」

 祭の席では無粋な言葉。
 だが、シグルトは貴族として生まれた母が教えてくれた志…〈高貴なる責任〉について、一番最初にこう習った。

〝貴方がありつける日々の糧は、持たざる者の血と涙。
 当たり前とただ貪るだけなら、美味の真意は理解できないでしょう。
 
 力無き者の小さな捧げ物を心から尊べないなら、貴方は自身が一番蔑む者にすら劣ります。

 貴方が食べている糧には、お腹を満たす幸福と、身を繋ぐ恩恵…
 そして、それを食べて生きながらえる者としての責任が込められているのです。

 与えられた幸福と恩恵に感謝し、食べることで担った責任を忘れてはいけませんよ。
 生きてそれを果たした時、人は初めて誇るべき自分になれるのです〟

 シグルトにとって責任や名誉とは、威張るものではなく、守るものだ。
 彼が高潔でいられるのは、こういった基本的な部分から実践しているからである。

 小食な反面、水代わりに飲んていた酒量はそこそこになっていた。

 最も、北方人であるシグルトは酒に強い。
 故郷で飲んでいた酒には、「酔った気分を無理やり起こすために、悪酔いさせる」薬草をぶち込んだ凄いものもあったぐらいだ。

「それに肉を食い過ぎると、体臭を強くする。

 明日、熊にばれるからな」

 ふうん、とヒラリオは鼻を鳴らした。
 彼には、理解できないことなのだろう。

「ま、頑張ってくれよ、兄弟。
 アンタが熊を殺らなきゃ、十年に一度の祭が駄目になっちまう。

 俺たちみたいな連中は、祭と女ぐらいしか楽しみが無いんだ。

 真面目なアンタに、これ以上無理に酒を飲ませるのは止めるさ。
 でも、気が向いたら女と踊ってみないか?

 あそこの娘と人妻どもは、あんたに誘われたくて、うずうずしてる」

 酒を飲んだ男らしい、やや品の無い会話。
 ふとシグルトは、女好きで知られていた親友を思い出し、笑みを浮かべる。

「人に勧めるより、そっちが誘ったらどうなんだ?

 女の尻に目を取られて、踊りの最中に転ばない自信があれば、だがな」

 客人の痛烈な反撃に、ヒラリオはガハハと笑った。

「言うねぇ…だんまりな朴念仁かと思えば。

 ま、俺みたいなイイ男は、慣れ親しんだこの村の女どもに食傷気味でね。
 だからこのとろけそうなワインで、甘い夜を過ごすのさ」

 そう言って、ヒラリオはよたよたと去って行った。

(酒に酔った男など、皆あんなものだな)

 故郷を懐かしみつつ、シグルトはもう一口酒を飲んだ。
 生姜の辛みと、ほんのり匂う棗の香り。

「今晩は、冒険者サン。

 楽しんでる?」

 次に声をかけて来たのは、ブロンドの愛嬌の好さそうな娘だ。
 頬が赤いのは、熱気とやはり酒のせいだろう。

「うむ。

 正直、本番の祭りでもないのに、賑やか過ぎるとも思うがな」

 うんうんと、娘は頷いた。

「そうでしょう。

 だって、此処はとても退屈なんですもの。
 騒ぐためのきっかけは何でもいいのよ。

 私、もうすぐ結婚するんだけど、嬉しい反面〈人生の墓場〉かなぁ、なんて思っちゃう。

 つまり、私たちは貴方というきっかけを利用して、はしたなく盛大に騒いでるわけ。
 来てくれて、有難う~♪」

 どういたしまして、とシグルトは肩をすくめて見せた。
 祭りの雰囲気は、普段頑なな彼の表情を柔らかにしている。

「…それにしても、冒険者サン、本当に綺麗な顔してるわよね。

 もう、この村の女の子は貴方に夢中よ。
 人妻まで、潤んだ瞳でロマンスを求めてるんだから。

 熱に浮かされてないのは…あの娘ぐらい」

 不意にその娘が見やった先を見ると、煌びやかな服を着た髪の美しい娘が立っていた。
 青っぽい不思議な色の髪をした、神秘的な女である。

「彼女が今回の巫女。

 収穫祭の時、村一番の踊り手が伝承にある舞踏を捧げ、森神様に感謝するの」

 舞踏と聞いて、シグルトはラムーナのことを思い出していた。
 妹のように思っている彼女は、無事に新しい舞踏を習得できただろうか。

「あの娘は、村の誇りよ。

 だって、幼馴染の私よりずっとダンスが上手なんだもん」

 軽い嫉妬と憧憬。
 そして、寂しげな様子は憐みだろうか。

 シグルトは、巫女と呼ばれた娘を見やる。

「ふふ、ね…冒険者サン。

 良かったら踊って来たら?
 貴方みたいな美男子が口説けば、あの娘も受けてくれるかも。

 それじゃ、良い夜を―」

 娘はそう言い残して、一人の男の元に向かう。
 彼が、結婚相手だろう。

 シグルトはしばしそのカップルを眺め、とても優しい顔をした。
 まるで、その幸せがずっと続けと願うように。

「ねぇ、貴方…」

 そんなシグルトに、また呼びかける者があった。
 張りのある美しい声に、シグルトはゆっくりとそちらを振り向く。

 何時の間にやって来たのか、先ほど巫女と呼ばれた娘が立っていた。

 華奢で可憐な容貌は、巫女の装束と化粧でさらに磨きあげられている。
 間違いなく、この村で一番美しい容貌をしていた。

「貴方、冒険者の人よね?

 噂通りの凄い綺麗な顔だから、すぐに分かったわ」

 薄っすらと浮かべた笑みと、好奇心に満ちた大きな瞳には、意志の強さも込められていた。
 そこにいるだけで、空気が変わるような強い印象を与える娘である。

「…シグルトだ。

 名乗るのはこれで何度目かな」

 苦笑して返すシグルトに、娘は嬉しそうに眼を細めて笑った。

「…うふふ、そうよね。
 でも私は貴方と会うのが初めてだから、勘弁してね。

 良かったわ。
 遠目に、あんまり楽しんでる様子が無かったから、帰っちゃったかと思った」

 そうやって胸を撫で下す。

「それなりに楽しんでいる。

 だが、帰るとは…
 その口振りだと、君は村長の身内か?」

 シグルトの洞察に、娘は頷いて手を叩いた。

「すごい…冒険者って、そんなことまで分かるのね?」

 笑顔の娘に、シグルトは首を横に振った。

「ただの推測だ。
 君は村長と雰囲気が少し似ている。

 …今晩は世話になるが、よろしく頼む」

 真っ直ぐに見つめ返したシグルトに、娘はしっかりと頷いた。

「…私はジゼリッタ。

 よかったら、ジゼルって呼んでね」

 差し出された手を、軽く握り返すシグルト。

「了解した。

 俺のこともシグルトでいい」

 シグルトの提案を、娘…ジゼルは目を輝やかせて受け入れた。


 ジゼルは、好奇心の強い娘だった。
 シグルトの横に座ると、根掘り葉掘り聞いて来る。

 簡潔明瞭にジゼルの問いに答えつつ、シグルトも会話を楽しむことにした。

「…まぁ、リューンから来たの?」

 シグルトの所属する冒険者の宿が、リューン郊外にあると聞くと、ジゼルは目を丸くした。

「故郷は、ずっと北の方なんだがな。
 他にもフォーチュン=ベルやアレトゥーザでも仕事をする

 この辺りはヴィスマールが一番の都市になるわけか」

 そして、シグルトは先日までフォーチュン=ベルに居たと告げる。
 
「凄い…あんな遠くから、よくこんな田舎まで来たわね。

 そんなに仕事が無いの?」

 ジゼルの素朴な質問に、シグルトは苦笑した。

「それなりに忙しい。

 今回は、通りがかりにヴィスマールで張り紙を見つけて、忠告がてらやって来た」

 村長とのやり取りを話すと、ジゼルは目を丸くしていた。

「シグルトって、好い人なのね。
 私たちは、貴方に依頼を見つけてもらえて、凄く幸運だったわ。

 私も言ったのよ、銀貨四百枚はちょっと酷いかもって。

 でも、こんな森の中ではお金がとても少ないのよ。
 果物やお酒は、商人と物々交換で渡すから、通貨そのものが手に入らないの。

 この辺りの村なんて、お金を持ってても使い道が無いでしょ。
 自給自足してることが多い村なら、なおさらね。

 聖北の教えには帰依してないから、あんまり他の村とも交流しないの。
 ううん、交流できないっていう方が正しいかな。
 もしかしたら、聖北の文化圏からは、仲間外れかも。

 年に何度か訪れる、旅芸人や吟遊詩人が語るロマンスなんて何も無い、退屈な村よ。
 皆して、世界はここだけだって思い込んでるような…

 そうして村人は村で結婚して、村で一生を終えるの…」

 閉鎖的な環境に慣れつつも、外への憧憬を捨て切れていない、そんな目をして、ジゼルは苦笑した。

「実は私、リューンに行きたいの。

 もっとダンスの勉強をしたいなって思って」

 遠い地に思いを馳せ、目を輝かせるジゼル。

「俺の仲間にも、踊りの得意な娘がいる。 
 今頃、アレトゥーザで新しい舞踏を習い終えたかもしれないな。

 君が求めるなら、村を出て学びに行かないのか?」

 直球な質問をすると、ジゼルは肩を落とした。

「そんな風に言って貰ったのは初めてよ。

 皆、私をこの村に縛り付けて、放そうとしない。
 この村で生まれた女は、この村で子供を産み、この村で一生を終えるの。

 もう、ウンザリ。

 パパったら、食事の度にお説教するんだから。
 おかげで、スープが文字に見えてきちゃう。

 いつか、食当たりになりそうよ」

 そんな愚痴を言って、肩を怒らせているジゼル。
 
「…人は背負うものがそれぞれ違う。
 考え方の違う者のせいにして嘆いても、空しいままで報われることは決して無い。

 君が望むなら、やってみるといい。
 何が答えかは、踏み出してみなければわからないが、少なくとも不毛な愚痴を吐かなくてすむだろう」

 シグルトは、自然とそう言葉にしていた。
 驚いたようにジゼルが見つめてくる。

「…選んでから後悔することは必ずある。 
 だが、その場に留まって延々と何かを責めているぐらいなら、歩み出した方がきっとずっといいはずだ。

 俺もまた自分で歩んだことで、失ったり、悲しい思いを繰り返しながら、それでも生きて来た。
 その経験から言えることは、自ら選んだ道ならば、愚痴を言う時も他人のせいにしなくて済む。

 望むのならば、求めて進み出せばいい。

 自身のことを選ぶのは自分であるべきだ…少なくとも俺はそう思う」

 それは、シグルトの生き方そのものであった。

「俺の言葉は俺のものだ。

 君に与えてやれるのは、君とは違う者としての言葉だけ。
 それは、君の父上も同じこと。

 選ぶのは、何時でも君自身だ。
 今の状況も、君が選んだ先にある。

 誰かを責める前に、自分が見るべき先を見据え、行ってみるといい」

 そして、こう付け加える。

「ただし、自分で道を選んだ時は、自身で責任を果たさねばならない。

 〈自由〉という言葉がある。
 とても高潔で、俺たち冒険者はこの言葉を愛している。

 だが、本当に〈自由〉を得る冒険者は希だろう。
 何故なら、己自身で選ばずに依存する、その弱さは誰にでもあるからだ。

 〈自由〉の本質は、他から解放されて自ら成すこと。
 同時に、選んだために負うべき責任や業をも内包する。

 全てを自身で受け入れ、それでも歩める者にしか〈自由〉は無い。 
 君が、今の生を誰かのせいにする限り、その生は縛られている。
 たとえ、君が村を出た後でも、だ。

 何かを得るとは、失うことの表裏。
 
 もし、君が後悔も痛苦も覚悟して〈自由〉であろうと願うなら…
 君の〈自由〉が〝リューンでダンスを学ぶこと〟なら…

 最初にすることは、〈自由〉がもたらす責任を負う覚悟と、勇気を持って第一歩を踏み出すことだ。

 〈自由〉を勝ち得るか、それとも後悔しながら愚痴を言い続けるのか。
 それも、また君次第だな」

 とても深い意味の言葉だった。

 ジゼルは、シグルトの青黒い瞳に見つめられ、どきりとする。
 どうしてこの人はこんなにも深い想いを、その双眸に宿しているのだろう、と。

 まるで、森の夜空のような眼差し。
 そこには、様々な苦しみや悲哀を内包しているのに、一片の迷いも無い。
 今の彼の言葉と同じように。

 胸が弾けそうに痛い…
 見透かされた恥ずかしさが半分。
 そして、病の身が半分。

(…そう、私はいつも〈コレ〉のせいにして来た。

 負けないように明るく冷静に振る舞って…その実留まっている。
 私は…)

 ジゼルはふと広場の篝火を見た。
 間もなく燃え尽きようとしているのに、こんなにも周囲を照らしているその灯を。

(ああ、この火は私と同じ。
 燃え尽きるその瞬間まで、周囲を精一杯照らそうとしている。

 時間は有限で、やりたいことが私にはある。

 私は…踊りたい!)

 溢れる想いで胸をいっぱいにし、ジゼルはシグルトの手を取っていた。

「…ねぇ、シグルト、踊りましょう!」

 瞳を輝かせ、ジゼルは誘う。

「…俺は、上手くないぞ?」

 シグルトは、苦労性の彼らしい何時もの苦笑を浮かべた。
 それがとても可愛く見えて、ジゼルは笑う。

「うふふ、適当にふらついていれば良いわ。

 だって、お祭本番じゃないんだから」

 そう言って、ジゼルはシグルトを上目遣いに見る。
 戸惑う彼に、今度は拗ねて口を尖らせた。

「もぉっ…

 こういう時は男の人がエスコートしてくれなきゃ、駄目じゃない!」

 一瞬考えたシグルトは、また苦笑する。
 そして、大仰に片膝を地に着き、繋がれていた自分の手を、ジゼルの掌を上に載せる様に返す。

「…では、巫女にして舞姫たるジゼリッタよ。

 そのたおやかな御手を拝借。
 今宵の舞踏へ誘う名誉を、許し給え」

 片手は胸に、静かに一礼。
 かつて、恋人や妹に言われて覚えた、一つだけしか知らないダンスの誘い方。

 夜は更けていく。
 酒に、御馳走に酔いしれ、村人たちはもう微睡みに誘われつつある。

 残った観客は、星空と森の木々たち。
 
 篝火の照らすその舞台で、一組の男女は、とても不器用で微笑ましいワルツを踊るのだった。


 早朝、シグルトは外が白む前に起き出していた。
 周囲が薄暗い中で、広場へと向かう。

 日課の鍛錬のためである。

 朝が早いはずの村人たちを、誰も見かけない。
 昨晩しこたま酒を飲んだせいか、まだ眠っているのだろう。

 それはシグルトにとって、願ったりだ。
 できれば、昼過ぎまで寝ていてほしいと思う。

 最悪の結果になった場合、熊はこの村を襲うだろう。
 そうなれば、家の中にいる方が安全だからだ。

 敗れるつもりは毛頭無い。
 だが、敵を刃に掛け、死を前にし続けてきた戦士の心は、驕りを許さない。

 最悪の結果が起きた時どうするか…その手段は村長に伝えてある。
 自分が夕刻近くなっても戻らなかったら、次の冒険者を早く雇い、村人の外出は極力避けるように、と。

 残す憂いは無い。
 ならば、備えて刃を磨くのみ。

 シグルトは、広場に立ち鍛錬を始めた。

 剣や籠手は、万一村人に会って驚かせないために、外している。
 剣を持ったつもりで、手に馴染んだ愛剣の重みと太さをイメージしながら、時にゆったり時に激しく、演武の様相で動作を繰り返す。

 やがて身体が温まったところで、次のステップに移行した。

 一歩で地面が抉れ、吐き出す息は炎の如く。

 目前には、故郷で一度屠ったことがある羆をイメージする。
 そいつは、食らった人間の血で口元を真っ赤に染めていた。

 シグルトは、放たれる圧迫感に抗うため、深く集中した。

 心は氷…敵への憐憫と恐怖を消し去るために。
 腹は炎…敵を打ち破る猛々しさと力を得るために。
 手は刃…確実に敵を斃し、未来を切り開くために。

 睨み据えるのは、羆の身体の中心…心臓だ。

 羆が低く構える…突進で吹き飛ばされれば、圧し掛かられて、頭や喉笛を食い千切られる。
 立ち上がった時は、横薙ぎの一撃が来る…離れていれば身体一つ分覆い被さるように伏せて、すぐに飛びかかって来る。

 野獣の瞬発力は凄まじい。
 距離が近ければ近いほど、重量感が獣臭とともに押し寄せて、身体の芯から縛り付けるのだ。

 羆の横薙ぎは腕の反対に下がって躱す、あるいは屈んで避け、脇を抜けて背後を取る。
 突進は真横に躱す…森の中にそれだけの広さがあるか…無ければ木を盾に、それが折れ砕ける一瞬で凌ぐ。

 熊の巨体と、剣を足した自身のリーチ。
 どれだけ自分が有利で、敵の急所を刺した後、死に際の一撃を貰わないように、どう残心するのか。

 集中するごとに、敵の輪郭がはっきりしていく。

 羆のごわごわした毛並、そして鋭い爪や牙。
 円らに見える瞳に宿るのは、意外にも獰猛な野生の本性。
 生きるために食らう、畜生道の業。

 怒涛の圧力と恐怖を受け流し、貫くべき急所を意識して睨む。
 そして、達するべき結果は必殺。

 命を奪う自分には、苦しませずに相手を屠る義務がある。
 仕留め損なえば、悪鬼の如き獣を世に放つことになる。

 敗れれば村人が危うくなり、仲間は悲しむだろう。
 そして、大切な人が救ってくれた、自身の命が無駄になる。

(俺は戦い、己の生をもぎ取る。
 それが自然に食い込み腐らせる、人間の欺瞞だとしても。

 せめて、死をもたらす覚悟を持って、この刃を振るおう)

 一切の躊躇は無かった。

 動作は決まっている。
 ただ息を吐いて呼吸を止めた後、砲弾のように駆け、羆の心臓を抉る。

 手の刃金は、シグルトの牙であり爪なのだ。

 心臓を破砕され、獲物がびくりと痙攣する殺伐とした風景。
 剣を引き抜いて、敵の余力を躱し切る。

 羆が倒れ伏し、その目から命の灯火が消えていく。
 死をもたらすおぞましさすら飲み込んで、シグルトは最後まで敵を睨んでいる。

 そう、殺した者の務めとして、敵を死の世界に見葬(みおく)るために。

 高まった気合いで、側にある噴水の水受けに溜った水の波紋が、さかしまになった。
 シグルトの髪や産毛が立ち、空気がびりびりと震える。

 殺気の澱んだ悪意では無く、闘う者の澄んだ一念。

 ふわり…

 羽根が浮き、風によって舞い上がるような初動。
 地を滑るように駆ける。
 イメージした敵の目前、大地から力を吸い上げるように力一杯踏みしめ…

 剣は、敵の心臓を穿ち抜いた。

 実際には数歩駆けて、空手を突き出しただけ。
 それでも、踏み込んだ足は地に減り込み、剣先をイメージしただろうその部分の空気が、弾けるように飛散した。

 優れた武術家が最後に至るのは、心技体の三位一体と、それを引き結ぶ〈氣〉の領域。
 必ず成すと強く思う故に、必勝を呼び込む、迷い無き一撃であった。

「…フウゥッ…」

 腹の奥底から、溜めこんでいた雑念と後悔の全てを吐き出す重い吐息で終える。
 
 全身汗だくになり、身体中の関節が緊張からの解放で悲鳴を上げた。
 押し寄せる疲労と、痛苦…それすら吐き捨てる。

「…行くか」

 見れば、村を囲う木々の隙間から、刺すように朝日の清浄な光が通り抜けた。


 ジゼルは、鍛錬に励むシグルトを見つめていた。

 早起きできたのは、理由があって酒が飲めなかったからだ。

 早朝に屋敷を出たシグルトは、ジゼルの部屋からも見下ろせる、広場の噴水の近くで鍛錬を始めた。
 剣を持っていないので、最初は珍妙な踊りか滑稽な道化のようだと笑いそうになった。

 だが、見るうちに飲み込まれそうになる。
 
 シグルトの背には、とてつもない悲壮があり、動作の一つ一つが強く繊細だ。
 それが魂の籠った技だと気付いた時、ジゼルは呼吸すら忘れそうになるほどに、見入っていた。

 やがて、シグルトの動作がぴたりと止まり、次の瞬間裂帛の気合とともに突きを放つ。
 彼の空いた手には、無いはずの剣がしっかり握られ、貫かれた何かが霧散したように見えた。

 技が決まる瞬間、近くに稲妻でも落ちたように空気が震え、壁がビリリと震える。
 木々に羽根を休めていた鳥たちは、一斉に飛び立った。

 周囲から一瞬音が消える。
 刺激物の匂いを嗅いで、一瞬耳の奥が痺れたような感じ。

「…凄い」

 溜息の後には、驚嘆の言葉が溢れた。

 同時に思う…自分は彼のようにひたむきな覚悟ができていたのか、と。
 
 昨夜、シグルトに言われた言葉が思い返される…
 
〝選ぶのは、何時でも君自身だ。
 今の状況も、君が選んだ先にある。

 誰かを責める前に、自分が見るべき先を見据え、行ってみるといい〟

「…そう、だよね」

 森に向かうシグルトの背を見つめながら、ジゼルはある決意をしていた。


 シグルトが森に向かおうと歩き出すと、後ろからジゼルが追いかけて来た。

「…貴方、又下長いね~

 追いつくのにも、一苦労だったわ」

 昨晩の巫女装束では無く、活動的な麻の上着に、革の上下。
 一見すれば男ものである。

「…何だ?

 まだ起きるには早い時間だぞ?」

 鍛錬の汗で濡れた髪を拭いながら、シグルトが聞く。
 
「…お弁当よ。
 
 しっかり入ったこっちはお昼用。
 簡単にまとめたこっちは、朝ごはんだから、道中食べて。

 昨日の余りもので悪いけどね。

 私も弓をやるから、獣のことは分かってるつもり。
 すぐに熊が見つかるとは限らないから、食べ物ぐらい、ね」

 ふむ、とシグルトは頷いた。

 当たり前のことであるが、熊をはじめ動物の縄張りはなかなかに広い。
 羆が『森神の箱庭』をねぐらにしていたとしても、遭遇するかは分からないのだ。

 そうなれば、戻ってくるのを待つか、探しに行くか…どちらにしても長期戦である。

「有り難く戴こう。

 保存食では味気無いからな」

 そして、一緒に果実酒の瓶を受け取る。

「あ、お酒は拙かった?

 確かそういうお酒飲まないんだったよね?
 でも、生水よりはいいと思うんだけど…」

 しかし、シグルトは笑って首を横に振った。

「これはこれで別の使い方がある。
 この地特産の酒なら、尚更な。

 貰っていこう」

 別の使い道?、とジゼルが小首を傾げた。
 
「…捧げ物だ。
 神も精霊も妖精も、酒好きが多い。
 
 葡萄酒の起源は南海の酒の神ディオニソスが教えたものだというが、彼の神は森の鹿神ケルヌンノスと集合して考えられることもある。

 昔から森の神域に入る時、酒を捧げるのは森人の習いとされている…この辺りでは違うのか?」

 ジゼルは目を丸くした。
 そういった風習は廃れたものも多い…特に聖北の教えが入って来てからは。

 この村に残る祭の儀式には、シグルトの言うようなやり方の名残らしきものがある。
 
「博学ね、シグルトって。

 そういうことって、冒険者や外の世界の人って、軽んじてるのかと思っていたわ」

 ジゼルの正直な感想に、シグルトは苦笑する。

「そも、信仰とは畏怖から生まれたものだ。
 
 神とは超常にして及ばざる領域…それを恐れた者たちが信仰を始めた。
 神や精霊をなだめるために、神官や巫女という役目が生まれ、君のように舞踏を踊ったり、あるいは呪文や詩歌を用いることのルーツとなった。

 超常なる者への畏敬とは、生きるために慎重になることそのものなのだ。

 畏敬を忘れる者は、即ち危険に対する恐れも無いということ。
 
 それは勇気ではなく、無謀でしかない。
 怖れを知る者は、恐ろしいものに挑むための勇気と、危険を避けるための心構えを得られる。

 俺は敬虔では無いが、偉大な存在が無いとは思わない。
 目前に神の領域があるなら、他人の家に入るように敬意を尽くすべきだと思うのだ。

 特に、俺は余所者だからな」

 精霊術師の老婆に学んだシグルトは、神や精霊についてそのように考えている。
 
「…あなたって、年幾つ?

 昨晩みたいに、舞踏の礼法とか知ってるし、説教臭いし。
 まるで村の長老みたいかと思えば…

 己の道は自分で選べ、みたいな開放的な一面もあって…

 外見は若そうだけど、経験豊富っぽいし、年齢が予想できないわ」

 ジゼルが突拍子もなくそう聞いた。

「…先日十九になったところだ」

 二十歳前だと知り、ジゼルは驚いて、だらしなく口を開ける。
 あいた口が塞がらない、そんな様子だ。

「…うそぉ、私と同い年?

 外見は若いけど、見えない…ぜ~んぜん十代には見えないっ!」

 奇しくもそれは、シグルトがアンジュに出逢った頃に言われた感想とほぼ同じだった。

 シグルトは、その泰然さと強い意志から、老人のような雰囲気を持っている。
 それは、先輩先達として後輩や年下の者を導き、リーダーとして仲間の中心となって皆を引っ張って行く、彼の指導力の表れなのだが。

「…よく言われる。

 きっと、武人故の不精さから老けて見えるのだろうな」

 的外れな自推を口にし、困ったように首をめぐらしたシグルトは、年相応の青年だった。
 ジゼルはその可愛らしい仕草に、思わず吹き出してしまう。

「ぷ、ククク…

 変なの」

 美しくまっすぐで、とても聡明。
 なのに、踊りは不器用で、どこか憎めない鈍さもある。

 周囲を震わすほどの武勇を見せたかと思えば、同い年の娘に笑われて困った顔をしている。

 ジゼルは、出逢って一日で、すっかりシグルトのことが好きになっていた。
 それは、恋というには漠然とし過ぎた、憧れのようなものだが、胸の奥がむず痒くてとても温かくなった。

(きっと、沢山の女の子が夢中になってるんだろうな…)

 シグルトは、村の若者が自分に向ける青臭い好色さや、押しつけがましい好意を感じさせない。
 素朴で慈しむような、爽やかな親しみで、今もジゼルを見つめている。

 その態度がシグルトを一段と落ち着いて見せ、側にいるとほっとできるのだ。

「…熊退治、頑張ってね。

 あなたが無事に帰って来たなら、今夜がお祭の本番よ。
 びっくりするダンスを踊ってあげるから…

 それが一等席で立って見られるように、怪我しないで」

 そう言って顔を伏せ、弁当の入った袋を押し付ける。
 こんなちょっとした動作が、無性に照れ臭い。

 シグルトはしっかりと弁当を受け取り、頷いた。

「…楽しみにしよう。

 では、行って来る」

 羽織った外套を翻し、シグルトは振り向かずに森へと向う。
 その広い背中を朝日の眩さに目を細めながら、ジゼルは無言で見送るのだった。


 林道を歩きながら、シグルトは真新しい鋼鉄の籠手をはめ、昔習った狩人のまじないをする。

 森から冷たく匂う土を、上に伸びた若枝から葉を数枚。
 握りしめて混ぜ合わせ、籠手と剣になすりつけた。

 これで鉄の匂いを消し、獣に気付かれなくなるという。

 残った土と葉の汁で右頬に一本、戦化粧を描いた。
 感じる遺物感と一体化して、やがて森に溶け込むイメージ。

 そして、地に剣を置き森に一礼する。

 山や森は妖精や精霊が住む異界なのだ。
 敬意を持たず、支配しようとすれば惑わされる。

「これから、貴方の神域で狩りを行う。

 この大いなる森を司る御方(おんかた)よ…
 俺は信無き故に、敬意と誠意で祈ろう。

 どうか、森の気まぐれより護り給え。

 木々と草花の精霊たちよ、大地の精霊たちよ、風の精霊たちよ…
 俺に、小さな祝福を与え給え。

 願わくば、森の命のように永らえる力で、鉄の臭いを隠し給え。
 この身を、彼の獲物へ至らしめよ」

 シグルトの言葉に応えるように、森がざわめいた。
 何か大きな存在に抱かれるような安心感で、胸が一杯になる。

「その慈悲に、感謝を…」

 剣を収め、ジゼルから貰った地酒を大地に少し振り撒く。

「残りは、獲物を狩り終えた勝利の暁に捧げよう…」

 全て捧げると、森の神威は満足してしてしまい、力を貸してくれないという。
 酒を大半残して、焦らすのもまじないのコツであった。

 こうして、シグルトは『森神の箱庭』に向かった。


 その聖域は、欝蒼とした深い森だった。
 踏み慣らした道がなければ、容易く人を惑わせるだろう。

 その林道半ばでシグルトは、立ち止った。

「《…トリアムール、お前の風で、俺が風下にならないよう護ってくれ》」
 
 シグルトが精霊術の詠唱を始めると、周囲にふわふわと風が漂い始める。
 その風は、どこか不機嫌だった。

「…?

 《どうしたトリアムール?》」

 言葉に言霊を含んだ韻を踏んで、シグルトは呼びかける。
 こうすれば、精霊には必ず言葉が届くからだ。

「「…あのお色気過剰女といい、さっきの痩せっぽちといい…最近シグルトってば、女の子に優し過ぎ。
 
  私という者がありながら…頭に来てるんだからっ!!」」

 神域で精霊の力が強まったせいか、トリアムールの囁く声がはっきりと聞こえた。

 普段は、精霊そのものの影響力が現実世界に及び難いのと、シグルトの精霊術師としての視覚や聴覚が弱いため、トリアムールとの交信は感覚的なものである。
 だが、このような神域や幽体離脱でそのバランスに変化が起きると、今のように声を聞き取ることも可能になることがある。

「…なんだ、何時もの嫉妬か」

 シグルトは言葉が交わせない時でも、トリアムールの行動や思考を把握できるようになっていた。
 この可愛らしい風の精霊は、子供っぽい性格で悪戯好きだが、さらにはちょっと嫉妬深い。

 シグルトは、異性に好意を持たれやすいので、こうやって機嫌を損ねることがよくあった。
 さらには、トリアムールとシグルトが普段できない言葉による会話ができることも、トリアムールとしては面白くないのだろう。

「「…お、もしかして話が通じてる?

  そうか、この森って〈信仰の残った神域〉だから、私たちのような古の神の眷族の力が及びやすくなるんだ。
  よし、ではさっそく戻ってあの娘っ子の髪をかき乱して…」」

 不遜なことを考えているらしいトリアムールに、シグルトは呆れたように溜息を吐いた。

「…嫌がらせは、妄想の中だけにしておけ。

 それより、これから熊狩りをするから、力を借りるぞ」

 シグルトの眉が少しばかり釣り上がっているのを見て、トリアムールは「やだなぁ、冗談だよぉ」とひきつった笑みを浮かべた。
 前にしつこくシグルトに付きまとっていた取り巻きを、悪戯で転倒させたことがあり、その時に大目玉を食ったのだ。

「「りょーかいしたよ。

  でも、シグルト、無茶は駄目だからね。
  風で勢いに乗ると力は強まるけど、身体の負担になるんだから」」

 トリアムールの力を借りる【飄纏う勇姿】は、切り裂く突風を放ちながら、自身の能力を高める精霊術である。
 風に乗って勢いに乗れば、技の破壊力も格段に高まるが、同時に故障の多いシグルトの肉体に負担を掛けていた。

「もちろんだ。

 だが、羆は手加減して無傷で勝てるほど、弱くあるまい。
 むしろ、即決するために一切容赦無しだ。

 限界まで攻勢で行くぞ」

 さらに術を駆使してトリアムールの風を纏い、体術の【堅牢】によって筋肉をパンプアップさせると、シグルトは剣の柄に手を置いた。
 精霊術によって研ぎ澄まされた感覚が、森の何処に目的の羆がいるかを探し始める。

 少し歩くと、やや開けた場所に出た。

(此処が、『森神の箱庭』か?)

 そこは樹木の根が所々の地面から突き出し、でこぼことしている。
 聖域としては随分と荒れているようで、特別な神聖さも感じない。

(…いや、何かとても小さいが気配がある。

 ここは何らかの問題があって、聖域としての用をなさなくなっているのだ。
 だから、ああいった獣が住みつくわけだ)

 シグルトの目前には、我が物顔で寝転がっている羆が一頭見えた。
 体格は並の羆に比べて、やや小さめ。

 足元には、腐りかけた獣の死体が転がっている。
 悪臭が立ちこめ、蝿の群れが煙のように立ち上っていた。

(若い雄だな…
 縄張り争いに負けて、外れて逃れて来たのだろう。
 
 なるほど、ここは奴にとって楽園というわけか)

 だらしなく欠伸している羆を見据え、シグルトは静かに集中し始めた。

(…距離で五十歩。
 だが、乱立した木の根が邪魔だな。

 俺の脚なら全速力で二呼吸ぐらいか。
 仕掛けるには、あの辺りから…)

 殺気を飲み込み、周囲の空気に自分の存在を溶け込ませていく。
 トリアムールが、熊に向かって風が吹かないようにしてくれていた。

 やがて、熊の背後を取る。

(…よし、仕掛けるか)

 シグルトは剣を鞘払い、転がっていた石を叩いて金音を立てた。
 
 びくりっ、と羆が背を震わせこちらを見る。
 その時には走り出していた。

 案の定、思わぬ奇襲に羆は浮足立つように立ち上がった。

「《トリアムール!!》」

 シグルトから二筋の突風が吹き上がり、羆を切り裂いていた。
 完全な奇襲に、敵は慌てふためき首をめぐらすだけ。

 地を蹴る両足。
 膝下に力が入らないシグルトは、踏み切る時、全身で大地を蹴るイメージをする。
 風に乗った、鋭利な突進でシグルトの姿がぐらりとぼやけた。

 周囲に突き出した木の根が、疾走を遮る。
 それを姫垣を飛び越えるようなステップで、勢いを落とさないまま接近し、足りない部分は身に着けた籠手の重さを加えて剣を突き出す。

 全身全霊の一撃が、羆の心臓を抉った。

(…浅いっ!)

 風に強く押されていたためか、熊は思った以上に後ろによろめいていた。
 その分、刃は心臓を貫くまでには至らない。
 
 即座にシグルトは剣を引き抜き、バックステップする。
 敵の反撃は凌いで、再度の一撃で終わらせるつもりだった。

 しかし、その羆はすでに後ろに向けて倒れる寸前である。
 シグルトの剣が既に致命傷を負わせていたのだ。

「《トリアムール…楽にしてやれ》」

 羆の頸動脈を示し、短く告げる。
 一瞬の突風で羆の首筋が弾け、血飛沫が散った。

 羆はどうと後ろに倒れ、ひくりと一度痙攣して動かなくなった。
 失血による死は、眠る様な気だるさの中、苦しまずに死ねるはずだ。

 そのままシグルトはしばし、眼を閉じ黙祷する。

 全身を駆け巡る疲労を、飲み込むイメージで抑えて行く。
 添え木が足の肉を締め上げる激痛は、歯を食いしばって耐えた。

 背筋を下る冷たい汗。
 シグルトは何時も戦いの後に、眉間に皺を寄せる。
 それは、常人ならば数度は気絶しそうな痛みを耐えるためだ。

(…拙いな。

 身体は動くようになってきているのに、できるようになった運動量に比例して少しずつ、耐えられる時間が短くなっている)

 シグルトが絶えず鍛錬しているのは、身体の温度を上げるためだった。
 軽快なステップは上半身の体重移動で引っ張り、襲ってくる眩暈はこめかみに力を入れて耐える。

 空気を噛んだような、歯が浮く独特の脱力感。
 人が思った以上に力を出せない時に感じる、背筋の底から這い上がってくる無力感。

 シグルトは、長時間瞬発力を持続できない。
 だから、敵を引きつけてここぞという時に技を発揮する。
 必然、振るうのに何時も以上の力を使う技には、使用限度があった。

 シグルトの技が鋭いのは、彼の才能と努力よりも、彼が悲壮な程の覚悟で身を削って振るうからだ。
 溜まり続けた無茶のツケが、少しづつシグルトの身体を蝕んでいるようだ。
 
 眼を開けた時、熊の巨体は土に還ったかのように動かなくなっていた。
 シグルトは遺体の泥を拭い、余っていた酒を少し獲物の頭に振りかける。

 転がっていた獣の腐乱死体は、そのまま引きずって行き、近くの窪地に捨てた。
 拾ったしなやかな枝葉を束ねて、死体からこぼれ落ちた蛆虫を掃き、羆の遺体の周囲を清めて行く。

 熊の死体の側によると、血抜きの処理を施し、零れた血は敷き詰めた枯れ葉に落とす。

(近くに川があれば、沈めて熱を奪うのが理想なんだが)

 熟練の野伏に教わった獣の扱い方によれば、肉に残る独特の獣臭さは血の腐敗によるものなのだそうだ。
 本来獣の血液は命そのものであり、血液で作る腸詰があるほど。
 それをすぐに抜き去るのは、血が熱をもっている状態で滞り固まって血管から腐敗して終うと、血生臭さが移り肉を臭くしてしまうためである。

 さらに理想的なのは、まだ心臓が動いているうちに動脈を切って出血を促して血抜きを行い、毛細血管にわずかに残った血や体液を悪臭を放たないようにすぐに冷やすこと。
 優秀な狩人は肉を旨くするために、沢の近くを狩場にするという。
 
 内臓を抜き、熊の胆嚢を取って口を糸で縛る。
 内臓には様々な酵素が含まれており、残っていると肉を劣化させやすくなる。
 熊の胆嚢…熊胆は高価な薬になり、肉よりも高価だ。
 今回の報酬があまりに安価だったため、交渉したところ追加報酬としてもらえる約束を取りつけていた。

 羆の巨体を運ぶのは大変なので、葉のついた大きな枝を数本敷いて、その上に熊を乗せ、毛皮を土でこすらないように引き摺って日陰に運ぶ。
 冷たい日陰の土の上で、日陰にある枝をかけておけば多少は肉が腐るのを妨げられるはずだ。

 熊の処理が落ち着くと、シグルトは改めて『森神の箱庭』を見渡した。

 小さな祠らしきものが一つある以外、何も無い。 
 シグルトはその祠に近寄ろうとして、足を止めた。

 小さな土饅頭(土を盛り上げただけ)が、少し離れた場所にある。
 見れば、その周囲には丸い石が転がっていた。

(これは、『妖精の塚』の跡か)

 『妖精の塚』とは、零落した神々が聖北のような外来の信仰によって追い出され、違う世界に旅立つ時に使ったとされる門である。
 その塚がある限り、精霊や妖精として去った神は現世に力を及ぼせるが、それを知った教会の信者たちが塚を壊して回り、今はめったに見なくなった。

 その塚も、中心となる石柱を壊され、丸石で囲ったサークルは歪められている。
 もう一度祠を見ると、祠を置く敷石は、塚の物を使っているでは無いか。

(これでは、森神も出て来れまい)

 このように、祭祀のやり方が歪んで人間の元を去った神々は多い。

 祀る側は伝統を守っていると思っているが、この村では、本当の祀り方は廃れて久しいのだろう。
 または、廃れた祭をもう一度再興したのか。

 村の者は、十年に一度の祭だと言っていた。
 本来豊穣や収穫の祭は年に春秋の二回、少なくとも年に一度はあるものだ。

 飢饉や大きな災害があったためか、あるいは教会勢力から隠れるために祭をしなくなったのだろう。
 形式的に残った祭は省略化され、終いには元の祭とは別の、ただの儀式と化す。

 そうやって、古きものは消えていく。
 伝統とは、必死に守ってもやがてはこぼれてしまうのだ。

 此処の森神は随分優しいのだな、とシグルトは感じていた。
 ないがしろにされていた神や精霊は、そのほとんどが怒り祟る。

「…ならばせめて、俺の知る礼を尽くそう。

 古き森の神よ、その古の栄光を称え、森の恵みと慈悲に感謝を」

 歪んだサークルを直し、塚に生えた雑草と小さな木々を抜く。
 敷石にされた石柱の代わりに、手頃で大きな石を持って来て、塚の中心に立てる。

 そこに酒を注ぎ、持ってきた弁当から供物代わりの供え物を用意する。

「《輪の先には、林檎並木の黄金の園。

  古の栄光は、母なる大地の胸にある。
  神々の時は過ぎ、妖精は微睡むだろう。

  私は覚えている。
  時が過ぎても、神々が偉大だった頃の昔話を。

  その姿は見えずとも、時無き楽園で安らかに。

  精霊の歌が風となって駆ける時…
  見えざる世界で、緑の褥で、貴方たちは古の夢を見る》」

 シグルトは歌う様に詠唱した。
 忘れられた古い神々の安らぎを願う、祝詞である。

 ある吟遊詩人が、荒ぶる神々の御霊を鎮めるために作った呪歌を元にしていた。

「…残念だな。

 この輪が無事なら、お前たちを帰してやれたかもしれんのに」

 シグルトが腕を撫でると、囁くような声が聞こえた。

「「平気、私たちは幸せだもの。
  シグルトは覚えていてくれている。

  忘れられるのは淋しいけれど、人の誰かは覚えていてくれるから。

  だから、私たちはまた旅をするの。
  もう少し、貴方の物語を見ているの…」」

 シグルトは、妖精の力を借りることができる。
 彼の身体を借りているその妖精たちは、自分たちの世界への帰還を望んでいた。

 シグルトはその願いを果たしてやりたいと思っている。

「「安心、安心♪

  森の神様、喜んでるよ。
  きっと何かで応えてくれる。

  優しく大きな、森の神様♪

  うふふふふっ…」」

 しばし古い時代の神や妖精のために祈っていると、そんな風に妖精たちが騒ぎ出した。
 
「ならば、いいがな」

 シグルトはそう言うと、適当な木の根に腰を下ろし、弁当を広げて遅い朝食を食べ始めた。


 荒れた『森神の箱庭』を綺麗にして、シグルトは村に戻る。
 それなりの時間がかかったので、有り難く昼の弁当も貰って食べた。

 森から村に入ると、昨晩話したヒラリオが入口に立っていた。
 シグルトの姿を見かけると、すぐに長老の家に走って行く。

(なるほど、あの男の仕事は森番か)

 家の窓を少し開けて、不安げに村の者たちがシグルトを見ている。
 シグルトは、籠手をはめた手を軽く掲げ、勝利を示した。

 途端に家々の扉が空き、村人たちが嬉しそうに声をかけてくる。

 シグルトは、彼らに軽く応えると村長の家に向かった。

「ヒラリオから話は聞いている。

 依頼は、無事にすんだのか?」

 出迎えた村長は、シグルトに事のあらましを聞いてきた。

「羆の遺体は『森神の箱庭』の中央に残して来た。
 日陰に置き、目印として組んで蔦で結んだ二本の枝を近くの木の枝にかけてある。

 その処理はまかせよう…できれば自然に従って、村の皆で食べてやってくれ」

 狩った獲物は、不味かろうと食ってやるのが森や山での礼儀とされていた。
 腹に収まれば、その獣は誰かの血肉として生きられるからだ。

「ふむ、御苦労だった。

 しかし、驚いたな…かすり傷一つ負っていないとは」

 村長は、無傷で依頼を完遂したシグルトに、いたく感服している様子だ。

 だが、シグルトは渋い顔をした。

 怪力の熊によって傷を負えば、致命傷になりかねない。
 無傷でいることで、ぎりぎり及第点なのだ。

「一瞬で仕留めるつもりだったが、叶わなかった。
 仲間がいれば怪我人が出たかもしれない。

 生き延びることはできたが、今後に考慮すべき反省点が沢山ある」

 このように、シグルトはとても厳しい自己評価を下していた。 
 村長は、謙虚さと受け取った様子だが。

 約束だった熊胆の所有権の移譲を確認してから、羊皮紙に契約終了の署名と報酬の銀貨四百枚受け取る。
 その時、村長が思いついたように口にした。

「…どうだろう?

 収穫祭まで残って、是非一緒に祝ってくれまいか。
 村人たちも、皆貴方の誠実さを褒めていた。

 金で、というわけにはいかないが、せめて恩人をもてなす機会を作って貰えれば嬉しい。

 森神様も、きっと喜んで下さるだろう」

 村長の横で、ヒラリオも強く頷いている。
 その好奇に見開いた瞳は「残って武勇譚を語れ」と催促していた。

「…思ったよりも依頼が早く終わったので、明後日の朝までなら問題無い。

 これより厄介者となるが、それでもよろしければ」

 一礼したシグルトに、村長は深く頷いた。

「俺は、このことを村人に伝えてこよう」

 そう言ってヒラリオは、去って行った。

「では、世話になる。

 ところで御息女は?
 今宵世話になる挨拶と、弁当の礼を言いたいのだが」

 空いたバスケットを掲げると、村長は、ああと鷹揚に頷いた。

「ジゼリッタならば、何時もの乗馬だ。

 冒険者殿が熊狩りを終えるまでは、村の外に出るなと言ってあるから、村のどこかを周回しておるだろう」

 村長に礼を言い、馬小屋のある裏庭から見ようと、裏口から外に出させてもらった。
 それに表には、我先に熊殺しの武勇譚を聞こうと、村人たちが集まっていたからだ。

 屋敷の裏庭はよく整理が行き届いていた。
 馬が怪我をしないように土が慣らされ、小石は道端に寄せられている。

 秋口の爽やかな微風が、果物の甘い香りを乗せて吹きつけて来た。
 獣を一頭殺して染み付いた、血生臭さが洗われるようで、シグルトはまだ高い太陽を目を細めて見上げる。

 すると、風に乗って心地良い蹄の音が近づい来た。

 立派な白馬に跨り、乗馬服を着たジゼルがこっちに向かって来たのだ。
 彼女はシグルトの側まで来ると、馬からするりと下りて、愛馬の鼻面を撫でてやる。

「有難う、ホーリー」

 手綱を引きながら、彼女はシグルトに向き直った。

「…依頼はもう終わったの?」

 小首を傾げて、ジゼルが聞いてくる。
 シグルトがどこも怪我してないのを見て、ほっとした様子だ。

「うむ。

 先ほどは弁当を馳走になった。
 入れ物は、厨房の入り口に置いてきたが、問題無いか?」

 ジゼルは微笑んで頷く。
 しかし、シグルトが何時もの外套を纏っているのに気が付くと、表情が曇る。

「もう旅立つの?」

 ためらうように尋ねるジゼルに、シグルトは首を横に振って苦笑した。

「…いや、村長の御好意を受けることになってな。
 収穫祭が終わるまで残ることになった。

 もう少しの間厄介になるが、よろしく頼む」

 ぺこりとシグルトが頭を下げる。
 
「…そう。

 なら、またお布団に、干したてのシーツをかけなきゃね」

 ジゼルは胸を撫で下ろしていた。
 その様子を見ていたシグルトは、不意にジゼルの胸元に目をやる。

「な、何?

 もしかして女の子の胸が好きとか?」

 決して好色な視線では無かったので、ジゼルは目を瞬かせた。
 虫でも付いていたのだろうか、と。

「…やや呼吸が荒いと思ってな。

 早く中で休むといい。
 俺も、明後日には旅立てるよう、準備をしておこう」
 
 シグルトはそう言って、屋敷に戻った。
 どこか悲しげな様子で。

 残されたジゼルは、訳が分からず小首を傾げた。
 

 その日の夜、ウェーベル村の収穫祭が前倒しで行われることになった。
 熊肉の腐敗を避けるためである。

 狭い『森神の箱庭』には、村人が総出でひしめいていた。
 中央に場を設けるため、さらに詰めて座っている様は滑稽ですらある。

 中央には、巫女が踊れるスペースとやや小振りな篝火。
 火柱が赤々と夜空を照らし、天の月を食らうかのように火の粉を捲き上げている。

 皆の前には足場もないほどの皿が並び、御馳走が積み上げられていた。
 中には、シグルトが仕留めた熊の肉もある。

 若く栄養の生き届いた羆の肉は、すぐに血抜きをしたためか味も良く、好評だった。

 シグルトは武勇譚を請われる度に適当に受け流しながら、ジゼルの到着を待っていた。
 伝承好きなシグルトにとって、古来から続く奉納の舞踏は興味深い事柄だ。

 すると、ジゼルが薄い舞踏服姿で、こちらに駆けて来る。

「…シグルト!」

 上気した白い肌はほんのりと赤く染まり、そこはかとなく色っぽい。

「寒そうな衣装だな。

 舞踏が始まるまで、何か羽織らなくても大丈夫か?」

 男性として、女性の魅力に興味が無いわけでは無い。
 だが、シグルトは好色な目で女性を見ることを決してしない。

「ええ、踊れば暑くなるから、これで丁度好いぐらい」

 踊る前の緊張と興奮で、弾む声で話すジゼル。

「…ねぇ、どう本番の収穫祭は?

 熊肉の方じゃないわよ…」

 冗談めかして、ジゼルがシグルトに尋ねる。

「そうだな。

 素朴だが、暖かい」

 シンプルなシグルトの返答に、ジゼルは嬉しそうに頷いた。

「ね、せっかくだから、詩の一つも吟じてみて。

 都会の人の感性って、興味があるわ」

 不意に振られた話に、シグルトは目を瞬かせた。

「詩など、幼い頃に母の膝元で真似て作った程度だ。

 俺にはまったくセンスが無いぞ」

 眉間に皺をよせたシグルトに、尚もジゼルは迫った。

「だからいいんじゃない。

 荒削りな男の人の詩って、森の神様に踊りに乗せて届けたら面白そうでしょ?
 それに、あなたは村の英雄なわけだし」

 一行に引く気の無いジゼルの好奇心に、シグルトは困った様子で最後には折れた。

「では、笑わず聞いてくれ…

《十の年が巡り、森神の園は宴に賑わう。
 微睡む神々の足音を、人々が称えるだろう。

 篝火の煌きは、宵闇に火花の手拍子を上げる。

 天の星たちは夜の闇に静寂(しじま)を奏で、
 月は眩い太陽に思いを馳せ、満ち欠け続ける。

 水は涼風を起こしてこの情熱を包み、
 大地には、樹木の芽生える命の声が豊穣を謳う。

 たわわな果実は、天地の慈しみで甘美に実り、
 獣たちの肉で腹を満たし、酒の熱さに心は躍る。

 夜空は深く、いかなる望みも吸い込んでくれる。

 明日に焦がれ、有限の時を生きるとも、
 人々に受け継がれる血潮と魂は、未来へと続くだろう。

 願わくば、清浄な日の出を焦がれて待つ。
 朝露で歓喜の涙を流す草花があるように。

 栄える幸福がどうか恵みの雨をもたらし、
 森の神よ、この民草に豊かな収穫を幾年も与え給え。

 旅人たる私は、この出逢いを忘れない。

 舞姫よ、どうか我が拙き言葉を天に舞い上げよ。

 千の木の葉が落ちるとも、
 万の草花が芽吹くように。

 このささやかな喜びに満ちた、感謝の吐息を…》」

 朗々とシグルトは詩を吟じた。
 
 彼の深い声が、夜の闇に溶けながら、聞く者の胸に沁み込んでいく。

「…俺ではこんなところか。

 やはり難しい。
 母なら、もっと良い詩を吟じただろうが」

 黙って聞いていたジゼルは、首を横に振った。

「ううん、十分よ。

 とても温かで優しい詩ね。
 あなたの喜びが分かるもの。

 この際、詩人に転職してみたら?」

 祭の熱気で頬を染め、ジゼルが微笑んだ。
 
「…勘弁してほしいな。

 戦いよりも詩を作る方が緊張する。
 無精者の俺には、命を代償に詩の才能を与えるという〈妖精の恋人(リャナン・シー)〉に愛されずとも寿命が縮む思いだ」

 肩をすくめたシグルトの言葉に、ジゼルがくすくすと笑った。

「…有難う、シグルト。

 貴方のその気持ち…きっと森神様に届けて見せるわ」

 そう言って、ジゼルは『森神の箱庭』の中央に設けられた舞台へ向かった。
 
 しなやかに、静かな梢の囁きの様に、最初の動作が始まる。

 奉納された舞踏は、決して激しいものでは無かった。
 だが、動作の一つ一つには、見るものの魂を揺さぶる情熱が込められている。

 篝火の炎を反射して、ジゼルから飛び散る汗が、宝石のように輝いた。
 応えるように、火の粉が空に舞い上がる。

 ジゼルの瞳は、夜空の星よりも強く輝いていた。
 熱意を炎にくべ、天に昇る勢いで繊細な舞を踊り続ける。

 そんな中、ジゼルの双眸がシグルトのそれと合い、どちらからともなく笑みを浮かべ合う。

 互いに生じた想いは、恋などという洗練されたものでは無く、二人の仲は同じ祭を楽しむ巫女と旅人に過ぎない。
 だが、詩を捧げた者とそれを奉納する者…祭の熱気の中で常には無い一体感を感じていた。

 ジゼルはくるくるとシグルトの側まで踊って来ると、何かを持ち上げる所作で天を仰いだ。
 また篝火が弾けて、祭はクライマックスを迎えようとしていた。

 そんな二人の姿を、木の陰から睨む影があった。

「…何故だ?
 余所者が、どうしてあいつの側にいて親しくしている?

 ジゼルも、何故あのように微笑むのだ?
 同じ村で共に過ごしたこの俺には、振り向きもしないと言うのに。

 …気に食わん。
 まるで劇の勇者と姫にでもなったつもりか?

 どうして、そんなに満ち足りた笑顔を浮かべるのだ…
 お前の病を知り、それでもお前を見つめ続けているこの俺をないがしろにして。

 次第に赤らんでいくその頬は、恋する乙女だとその男に告げたいのか?

 見ていろ…俺こそが相応しいと思い知らせてやる!」

 その男、ヒラリオは血が出るほどに唇を噛みしめ、嫉妬に狂った血走る眼で睨んでいた。
 幻想的な祭の二人を、まるで呪い殺す勢いで。


 踊り終えたジゼルは額の汗をぬぐいながら、手を振る村人たちに応える形で優雅な礼をした。
 
 それを遠目に見ながら、シグルトは酒を啜る。
 
(祭とは不思議だな。
 忘れた多くの物を思い出すようで、とても騒がしく熱い。

 それほど経っていないのに、これほどまでに郷愁を覚える)

 酒が切れ、口に入った生姜の味が酔いを覚まさせる。
 何時だって夢は覚め、祭は終わるのだ。

 黄昏ていたシグルトの隣に、ジゼルが腰かけた。
 祭の熱気と踊りで赤く染まった白い肌を汗で輝かせ、大業を成し遂げた充実感で満ち足りた笑みを浮かべながら。

 シグルトは優しく微笑みかけ、彼女を讃え頷いた。
 嬉しそうにジゼルは目を細め、夜空を見上げる。

「ああ、まだ踊り足りないわ。

 今夜だけは、ウィアに魅入られた男のように踊っていたい気分!」

 祭の音楽に合わせて指を鳴らしながら、首を音に合わせて振っているジゼル。
 
「ウィア…ああ、ウィリーのことか。

 此処にも、不埒な男を踊り狂わせるという妖精の伝説があるのだな」

 シグルトが、何とはなしに口にした。

「あら、伝承を知ってるの?

 貴方の知る話も似たものなのかしら?」

 何気に口にした、ジゼルは興味深げにシグルトを見る。

「多分同じルーツの伝説だろう。

 非業のまま死んだ森に住む乙女は、その怨念を晴らすため、不埒な男を死ぬまで踊らせる妖精になって、月光の下舞うという。
 その始まりは、〈ウィル・オ・ザ・ウィスプ〉…鬼火伝説の一種らしいがな」

 シグルトが知った顔で話すと、ジゼルは持ち前の好奇心で身を乗り出して来た。

「貴方の知るそのお話を聞きたいわ。

 鬼火伝説って何?」

 シグルトは、祭の熱に酔ったのか、少し饒舌になることにした。
 元々伝承を語ることは、嫌いでは無い。

「…ある所にウィルという不埒な男が居た。

 ウィルは、強欲で口が軽く、それ故に生前に沢山の罪を犯したまま死ぬ。
 しかし、天国と地獄を分ける場所で人を裁くという聖者を言い負かし、一度は生き返るのだ。

 だが、反省せずに悪行を重ねたまま、再びウィルは死ぬ。
 その時もウィルを迎えた聖者は、彼の業の深さに呆れ果て、天国にも地獄にも行けないよう、扉を閉ざし追いやってしまったという。
 
 以来、ウィルは中有…死と生の狭間を彷徨ったまま、誰からも見つけられず淋しく孤独に彷徨うこととなった。
 それを見た悪魔は不憫に思い、煉獄に燃える一つの木炭をかぶのランタンに入れてウィルに手渡し、彼はそのランタンを持って闇夜に現れる。
 
 その時からウィルは自分の仲間を増やすため、底なしの沼地や淵にその青白いランタンで誘うそうだ。

 その伝説にちなみ、アンデッドとなって鬼火を燃やすものをウィル、あるいはごく一般的な男の名前…ジャックと呼ぶ。
 鬼火…アンデッドの〈ウィスプ〉とは、この燃える木炭やランタン、火を付けたひと房の藁束等が元の言葉となっているそうだ。

 そこから派生したのがウィリーだ。
 女の鬼火から、果てはウィスプを妖精とする説から、男に騙されたり不幸にされた乙女が死ぬと、ウィリーという恐ろしい妖精になると。

 ウィリーは、自身に非業を与えた男を憎み、生きている者を羨み、そういった者を見つけると死ぬまで踊らせるか、自由を奪って底なし沼に沈めるという。

 おそらくは、真夜中に踊る妖精の伝説と、生者を惑わす鬼火の伝説が集合して生まれたのだろう。
 斯様な伝説が残る地では、実際に物語に出てくるような怪物や妖精が生まれるそうだ。

 伝説は信じる者がそれを行った時、真実になる。
 案外、君がその話を知っているなら、この森にも件の妖精が居るのかもしれないな…

 何時までも踊りたいなどと言葉にしたら、本当に休まず踊り続けさせられるかもしれないぞ?」

 流れるように民俗学的な知識を披露し、最後に不遜なジゼルの言葉を取り上げてからかう。
 流石にシグルトも、祭の酒に酔ったのだろうか。

 同時に、ジゼルの身体を気遣って〈無理は良くない〉という願いを込めた言葉でもあった。
 シグルトは、ジゼルが病を抱えていることを見抜いていたのだ。

「こわ~い。

 分かりました。
 今日は休むから、脅しちゃ嫌よ」

 目は笑ったまま、ジゼルがおどけて見せる。

「そうしろ…休めば、またもっと踊れるはずだ。

 きっとこれからも、いい踊りをたくさんな」

 そう言ってシグルトは立ち上がり、近くの空いた皿に、使っていた杯を伏せて置いた。

 篝火は火勢を弱め、酔った村人たちも少しずつ帰りつつある。
 祭の終焉は近いのだ。

 天を仰ぎ、シグルトは一度静かに目を閉じる。

 たまたま依頼先で出逢っただけの縁。
 それでも、このジゼルという娘が心の底から自由に踊れるように…
 夜空に祈りを捧げるのだった。


 次の日の朝。
 シグルトが朝の鍛錬を終えて村長宅に戻ると、火急の用事と村長に呼び出された。

 少しだけ後ろ髪を引かれる思いはあった。

 この村の空気は、故郷のそれに似ている。
 土臭くて素朴な、あやまちすら飲み込むような閉鎖された世界。
 だからこそ、常の世界には無い独特の安らぎもある。
 もう少しだけ留まりたくなる、微かな逡巡。

 村長の一声はその迷いを完全に打ち消すものだった。

「昨晩は、楽しませて戴いた。
 誘って貰えたことを、心から感謝している。

 久しく忘れていた故郷を思い出し、立場を忘れてはしゃいでしまったようだ。
 迷惑をかけていなければよいのだが…」

 村長は苦笑して頷いた。

「迷惑などでは無い。

 貴方の詩は私も横で聞いていた。
 その気持ちに胸が打たれた。

 貴方の喜びも、祭に招いた者としてとても喜ばしい」

 だが、不意に眉を寄せ暗い顔になる。

「…しかし、貴方には本日中に村を出てほしいのだ。

 これは、貴方が迷惑をかけたからでは無い…
 一人の父親として頼みたい」

 明らかな拒絶の嘆願。
 シグルトは黙してその先を待った。

「…ジゼリッタが昨晩、貴方と村を出たいと言いだした。
 冒険者としての貴方の強さと高潔さに触れ、決意したのだろう。

 私も一人の父として、それを応援してやりたい。

 しかし、ジゼリッタには外の世界は耐えられない。
 あの娘は重い病を患っているのだ。

 だから、これ以上娘を惑わせないで貰いたい」

 黙って聞いていたシグルトは静かに頷く。

「…あの細い呼吸や、裏手に干された薬草で見当は付いていた。

 娘御は、心の臓を患っているのだな?」

 村長の目が見開かれた。

「…かつて、医者を師に学んだことがある。

 ジゼルの病は、初めて会った時にそれとなく感じていた。
 吐息に薬草の匂いが染み付いているのだ。
 慢性的な病を抱える者でなければ、ああはなるまい。

 親としての貴方の気持ちを分かるなどと増長するつもりはないが、気の毒に思う。

 申し出は最もだ。
 俺は、すぐにも村を去ろう。

 今まで世話になった。
 感謝する。

 だが、今一つお願いしたい。

 もし貴方が、父として娘に望む道を歩ませてやりたいと願うのなら…
 今なら、俺の医術の師がペルージュにいる。
 彼は、同じような症例を数年の治療で完治させたことがあると言っていた。

 ここにその医師への紹介状と、会うための手順をしたためておいた。
 変った風体をした異国の人だが、高い金を取る人では無いし、消毒用に使える強い酒を二~三本代金代わりに渡せば診てくれるはずだ。

 お節介かもしれないが、このまま座して死に怯えるよりは希望もあるだろう。
 願わくば、彼女に運命に挑む機会を与えてやってほしい。

 俺はまだ親では無いが、子として親を思ったことはある。
 だからこそ、ジゼルの気持ちを汲んでやりたい。
 
 どうか、あの娘の夢が叶うよう、決断してくれ」

 巻いた羊皮紙を机に置き、シグルトは静かに村長の決断を待った。
 降って湧いた希望に、村長は何度も頭を下げて礼を言う。

「…幸せになる者は、多いに越したことはない。

 もしその手助けになるなら、何よりだ。
 ペルージュは聖北の領分だから、この村の信仰のことは隠して行くと好いだろう。

 では、荷を持ったら失礼する。
 ジゼルに、よろしく伝えてくれ」

 一礼して、シグルトは去って行く。
 その後ろ姿を見つめながら、村長は呟くように口にした。

「…冒険者、か。 
 なんと気持ちの好い男なのだろう。

 ジゼリッタが興味を持つのも、当然だ。
 だが、あれほどの器では、この村で娘の婿にとも言い出せんな。

 娘の見る目は確かだが、目を付けた男が特別過ぎた。
 あれは、風のように止まらない、そんな男だ」

 紹介状を握り締め、村長は寂しげな笑みを浮かべた。


 シグルトが屋敷を後にしようと荷を纏めていた頃、ヒラリオは村長邸の馬小屋に忍び込んでいた。

「良し、誰もいないな。

 あの阿婆擦れめ…
 俺を怒らせたことを後悔させてやる。

 ククッ、この薬でお前の愛馬は大暴れさ」

 手に持った粉薬を一摘み、ヒラリオの侵入を警戒して鼻息を荒くしているジゼルの愛馬ホーリーに振りかける。
 見る間にホーリーの目から理性が消えた。

 ヒラリオは小屋に設けられた柵を外し、扉を開けてホーリーの脱走をお膳立てる。

「…シグルト。

 アンタは、あの馬を止められるかな?」

 自身もまたその粉薬によって惑わされたかのように、ヒラリオの目は嫉妬の炎によって燃え狂っていた。


 シグルトが旅支度を終え、屋敷を出ようとすると、村長が見送りに玄関まで現れた。

「では、世話になった」

 短いシグルトの挨拶に、村長は「こちらこそ」、と応え頭を下げる。
 
 そうしてシグルトが、この村での逗留を終えようとした矢先である。

「キャァァッ!!」

 甲高い女の悲鳴。
 人々が怖れ戦く声があちこちから聞こえてくる。

「な、何事だ?」

 村長が動揺して思わずに声にした。

「…蹄の音がする。
 
 この様子は、暴れ馬か?」

 シグルトの落ち着いた判断に、村長の顔が青ざめた。
 村落で、高価な馬を飼うことができる家は限られる。

「ま、まさかうちの…!!」

 それ以上聞く事無く、シグルトは外に飛び出した。

 案の定、外ではジゼルの愛馬ホーリーが、狂ったように暴れていた。
 目は血走り、口端から泡をこぼす姿は、まさに「狂乱した」様子である。

 周囲は、果物の収穫のために出された木箱や荷車が蹴倒され、酷い有様だ。
 何人か巻き込まれて怪我をしたのか、倒れた数人が呻いている。

(…死ぬほどの怪我人は居ないようだな。

 しかし、気難しそうだったとはいえ雌馬で、これほど暴れる気性には見えなかった。
 何故こうまで昂ぶっている?)

 シグルトは【堅牢】で防御を固めつつ籠手で頭を庇うようにして、ホーリーに近づいていった。

「…ホーリー!

 止めろっ!!」

 前に立塞がって、その気を誘うと、怒り狂ったホーリーはシグルトに襲いかかって来た。
 近寄った拍子に、飛び散ったホーリーの涎から何とも言えない刺激臭がする。

(…これはエパか?

 く、何者かが意図的にホーリーを狂わせたな。
 いったい誰が…)

 襲い掛かって来たホーリーの蹄を、見切って躱す。

 しかし、着地場所には砕け散った木箱の欠片が落ちており、ホーリーはそれに足を取られて派手に転倒した。
 骨の折れる音と、壁に激突する凄まじい音。

 土埃が舞い、ホーリーは一度悲しげに嘶いて、地に倒れ伏した。

 耳と鼻から血を噴き出し、舌をだらりと出す。
 当たりどころから、頭蓋骨が砕けたのだろう。
 馬の突進力とは凄まじいのだ。

 シグルトは動かなくなったホーリーの側によると、さっと脈を測り、唇を噛みしめた。

 その時、騒ぎを聞きつけてジゼルが走って来た。
 荒れ果てた周囲の様子と、変わり果てた愛馬の姿に目を見開く。

「えっ…これは?」

 悲壮な様子でシグルトを見るジゼルに、シグルトは静かに首を横に振った。

「ね、ねぇシグルト…

 これはどういうことなの?」

 信じられないという顔で、ジゼルはシグルトに問いただした。

「あなたが、あなたがホーリーを殺したの?」

 しばし黙ったシグルトは、肯定も否定もしなかった。

「俺に襲いかかって来たので、攻撃を避けた。

 その時着地に失敗して壁に突っ込んだが…事故と一言で片付けられる状況でもあるまいな。
 このような結果になって、すまない」

 静かにシグルトはジゼルを見た。
 否定しても、状況はそれを許さない。
 故に一旦ジゼルが話を聞けるようになるまで、待つつもりだった。

「…どうしてっ!」

 ジゼルが手を振り上げる。
 それを横から割って入った村娘が止める。

「違うわ、ジゼル!

 その人は悪くないのっ」

 彼女の静止に、力無くジゼルの手が下げられる。

「マリー…」

 マリーと呼ばれた村娘は、荒れ果てた村の様子を指さした。

「見ての通りよ…

 ホーリーが突然暴れ出して、それを冒険者サンが止めようとしてくれたのよ!
 そうしたら、ホーリーが冒険者さんに襲い掛かって…

 そのまま受けたら死んでしまうから、冒険者サンは攻撃を躱しただけ。
 ホーリーはそのままこけて、運悪く頭を強くぶつけて…

 だから、冒険者サンは悪くないわ」

 ジゼルの目に諦めの光が宿り、そして彼女は項垂れた。

「…そう。
 分かったわ。

 ホーリー、今…うっ!」

 力無くジゼルは、死んだ愛馬に近寄ろうとして、突然苦悶の表情になる。
 胸を抑え、脂汗が額から落ちた。

「…いかんっ!」

 シグルトは、すぐにジゼルの心臓が発作を起こしたのだと気がついた。
 強い緊張の後の僅かな脱力…心臓の病にとってこれらの急激な変化は大きな危険を伴う。

「…く、苦しい…!」

 喘ぎながら、細い息を繰り返し、パクパクと口を開閉するジゼル。
 駆け寄ったシグルトは、血流を制御するツボを押さえ、彼女の体勢が楽になるように抱き抱える。

(くっ、唇が紫になっている…

 血が息が意思に逆らい始めているのだ。
 このままでは拙いっ!)

 処置を続けながら、シグルトは強い口調で側にいたマリーに声をかけた。

「…マリーと言ったな?

 すぐにジゼルの家の玄関に掛かっている、尖った葉の薬草を持ってきてくれ!」

 ジゼルの乗馬服を緩め、体温が奪われないように、自分が纏っていた外套でその身体を包む。

「う、うん!」

 慌てて駆け去るマリー。

「い…嫌っ!

 まだ、死にたくない…助けて」

 弱い痙攣を繰り返しながら、ジゼルが助けを求めるようにシグルトに手を伸ばす。

「ゆっくり息を吸えっ!

 惑乱に意識を捉われるな。
 ゆっくり、背中の後ろまで吸い込み、ゆっくり吐くんだ」

 血流を落ち着けるため、優しく肩を擦ってやりながら、シグルトは懸命にジゼルを励ました。

「…シ…グル、ト…」

 弱々しい一息の後、ジゼルはシグルトの名を呼び、だらりと脱力した。
 触れた身体から、脈拍による振動が消える。

「…逝くなっ!」

 シグルトはジゼルの心臓を何度も加圧し、ジゼルの鼻をつまんで口移しで息を吹き込む。
 時折心臓を叩くように胸の中心を圧し 、手に気を集中して心臓に送り込む。

 だが、何度蘇生処置を施しても、ジゼルが目覚めることは無かった。

 側には、薬草を抱え蒼い顔したまま立ち尽くすマリーと、急を聞いて駆け付けた村長が祈るような目でシグルトを見つめていた。
 諦めず、ずっと蘇生処置を続けるシグルト。

 時間が立つのも忘れて、行為に没頭していたシグルトは、背に男の嗚咽を聞き、終にその手を止めた。

 泣き崩れた村長の姿があった。
 その手から、シグルトの渡した紹介状が零れ落ちる。

 シグルトは、手拭いでジゼルの泥で汚れた顔と口を拭き清めると、乱れていた衣服を整えそっと地に横たえた。

「…力及ばなかった。

 すまない」

 周りには村人たちが集まって来ていた。
 中には、壊れた木箱を片付ける者もいる。

 ホーリーの遺体はすでに無かった。
 空の太陽は、真上からシグルトをギラギラと照らしていた。

 それだけ長い間、蘇生処置を続けていたのだろう。

「…冒険者サンは悪くないわ」

 泣き腫らした顔で、マリーが言った。
 今でも両手には、祈るように薬草が抱えられている。

 シグルトは耐え切れない激情をかみ殺すように歯を食いしばり、憎い何かを叩き潰す勢いで石畳を殴りつけた。
 飛び散った石の欠片が、シグルトの額をかすめ、血が一雫だけ汗と混じり合って地面に落ちる。

 それはまるで、シグルトの流した慟哭の涙のようだった。
 

 ジゼルはホーリーの遺体とともに、すぐに埋葬された。
 この村には、事故死の者が出た場合、魔物に成らぬためにすぐ葬る仕来たりがあるのだという。

 美しく、才能に恵まれた森神の巫女は、その夢を叶えることなくその一生を終えた。
 天は彼女に才能と美しさを与えたが、病という重い宿命も背負わせたのだ。

 シグルトは、村長と村人に請われ、ジゼルを埋葬するのを手伝った。
 村の誰もがシグルトの必死さを目にし、その資格があるのだと認めていた。
 
 墓穴を掘るのを手伝い、遺体を地に横たえ、土を掛ける間…シグルトは一言も喋らなかった。
 涙一滴流さない。
 だが、彼が泣かないのはその誠実さ故だと、誰もが感じていた。

 シグルトは、親しい者の死を経験したことが何度かある。
 それ故に悲しむのは、親である村長と、ジゼルの親しい者たちが行うべきと身を律していた。
 
 冷静に振る舞うシグルトの唇は引き結ばれ、軋むように歯を噛みしめる音が、心情を物語っていた。

(俺は何人、親しくなったものを見送ればよいのだろうな…)

 シグルトの背中は、そんな彼の本音を正直に語っていた。


 その夜のこと。

 誰も居なくなったジゼルの墓の前で、泣きながら謝る男の姿があった。
 ヒラリオである。

「ううっ…許してくれ!

 まさかこんな酷いことになるなんて、思いもしなかったんだ。
 ただ、お前とあの冒険者が楽しそうに話していたのが、妬ましかったんだ。

 すまない…すまないっ!」

 だが、ヒラリオは知らなかった…あるいは信じていなかった。
 夜半過ぎ、人の悲しみや後悔が、人ならぬものを招くことがあることを。

 そして、此処は墓場である。
 時には未練を残したものが弔われる、死と生の狭間…中有の領域なのだ。

 ヒラリオは嘆くのに夢中で、何時の間にか自分が沢山の鬼火に囲まれていることに気がつかなかった。

 不意に自分の涙が何かの光を反射して青白く光り、漸くそれに気付く。

「…ひっ!

 ひぃぃぃっ!!!」

 不気味に揺れる無数の火の玉を見て、ヒラリオは正気を失ったようによたよたと走り去った。

 やがて、鬼火の一つが古びた墓の上で人の姿を取る。
 それに習う様に、無数の鬼火たちは次々と人型に転じて行った。

 中央で最初に人型を取ったそれは、美しく白い顔を嘲りの表情で歪め、ヒラリオの逃げ去った先を詰まらなそうに見やった。

「…薄汚い人間の男め。

 我らが聖域を、言い訳と鼻汁で汚した罪は万死に値する。
 すぐに殺してくれようが…

 それよりは、新しく生まれる同胞(はらから)の祝福が先。
 
 ウィアの女王ミレトの名において命ずる…
 皆も妾と祝うのだ」

 女は、透けた白い霧の衣を纏い、捩じくれた一本の棒杖を天に掲げ、一つの墓を示す。
 それは、先ほどジゼルが埋葬された墓である。

 高らかに女が呪文を唱えると、合わせるように他の人外たちも唱和する。
 杖を持ったその女が、その杖でジゼルの墓を打ち据えた時、地面から弾けるように小さな鬼火が一つ飛び出した。
 その鬼火はやがて、人の姿を取る。

「…あ、あれ?

 私は何を…」

 それは、少し透けた姿だったが、間違いなくジゼルである。

「ふふ、ジゼリッタと言うのか。

 お前も、無念非業の死を遂げたのだな?」

 薄い唇を歪め、杖を持った女は笑う。

「えっ…

 私は、心臓の病で――」

 目をぱちくりと開閉し、分からないという風にジゼルは首を傾げる。

「――そう、お前は心臓の病で最期を迎えた。
 愚かな男の嫉妬によって起こされた、無情な仕打ちのせいでな。

 故に、妾たちの同胞として復活させた。

 この辺りでは〈ウィア〉と呼ばれている、その妖精になったのだ」

 女の言葉によって思い返されるシグルトとの会話。
 
〝…非業のまま死んだ森に住む乙女は、その怨念を晴らすため、不埒な男を死ぬまで踊らせる妖精になって、月光の下舞うという…〟

「ウィア…」

 舌に乗せて言葉にすると、不思議な感じがする。
 祭の中、隣でシグルトが語ってくれた妖精に、自分自身が成ったという神秘。

「―むっ…?

 珍しい夜だ。
 こんな夜更けに、二人も人の気配を感じるとは。

 ジゼリッタよ、その獲物はお前にやろう。
 我らの存在意義、しかと体認するのだ」

 女は促す様に頷くと、他のウィアを伴って飛び去った。

 残されたジゼルは、自分の墓の前で途方にくれる。

「…身体の奥底から湧きあがってくる、この衝動と知らない知識。
 私は、ウィアになったのね。

 でも、この衝動を否定する自分もいる。

 どうすれば…」

 思い浮かぶのは、自分の最期を看取ってくれた美しい一人の男。
 彼なら、どうするだろう?

 ジゼルは透ける身体で立ち尽くしたまま、思案に耽った。


 ミレトが感じたもう一つの気配は、シグルトだった。
 
 彼は、村人の勧めを断り、今晩のうちにヴィスマールへ帰還するつもりである。
 夜間の道は暗いが、その気になればランプも持っていたし、一度歩いた山道は記憶している。

 シグルトの胸には、封じていた暗い気持ちが呼び起されていた。
 助けようとしても叶わぬ不遇があることを、再び強く感じたせいだ。

 もっと早く駆けより、ジゼルに治療を施していれば…
 あるいは、ホーリーを止められていれば…

 様々な〈もし〉が頭に浮かんでは消えて行く。
 ジゼルを失った今では、それが詮無い愚痴に過ぎないことも分かっている。

 シグルトは多くの死を看取って来た。
 その中にはもっと身近だった者の、さらに残酷な死様もあった。

 一個の人間が努力したとしても、痛苦別離は世の常であり、逃れられない。
 それをよく分かっているシグルトであっても…やはり死別の虚しさは深い。

 ジゼルはもしかしたら、新しい未来を歩めるかも知れなかったのだ。
 希望に満ちた、夢を叶えるための未来を。

 だが、彼女は死んでしまった。
 とてもあっけなく、悲しい結果で。

 それがとてもやる瀬なく感じられた。

 天衣無縫に見えるシグルトも、その内は一個の人である。
 親しい者の死を悼み、憤懣に身を焦がす。

 ただそれが、人には見えないほどに、表現が下手なだけだ。

 一番許せないのは、すでにジゼルの死を認め断念し、悼んでいる無力な自分。
 死者にしてやれることは、いつでも弔いと思い出を語ることぐらい。

 このようなことが起こらないために、日々努力して来た。
 報われるためだけに励んで来たのではないが、どこかで大切な人たちを守れると自負していた。

 うぬぼれが、慢心が、許せない。

 でも、シグルトは決意を新たにしていた。
 嘆くだけでは前に進めないことを、何度も経験していたからだ。

 まずは村を出、日々の生活に戻る。
 やるべき時にやるべきことを行いながら、今回のことを身に刻んで生きてゆこう…

 嘆き澱んでも、それは決して死者のためにはならないと知っている。
 ならば、この痛苦を背負って生きること。

 これがシグルトという男の、生き様である。

 故に、旅立つ前に、もう一度だけジゼルの墓を訪れておきたかった。
 決意を新たにするには、きっかけが必要だからだ。

 夜道をジゼルの墓へと歩みながら、シグルトはすでに冒険者としての生存能力を発揮し始めている。

 周囲に満ちる哀愁と鬼気。
 何時もにもまして憂鬱に感じるのは、夜の森に満ちた瘴気のせいだろう。

 不意に思い出す、ジゼルとの会話。
 〈ウィア〉という化生の伝説。

 張りつめた表情のシグルトを、トリアムールの起こす風が心配気に撫でて行く。
 分かったという風に、シグルトは精霊術を行使した。

 トリアムールの風術とともに定着しつつある、妖精の隠形術。
 この術の力をもってすれば、多少の呪縛は退けることができる。

(嫁入り前の娘が非業の死を遂げ、妖精となった慣れの果て。

 夜に墓から抜け出して、森に迷い込んだ愚か者を死ぬまで踊らせ…
 あるいは底なしの沼に誘う)

 〈ウィア〉とは悲しい伝説である。
 
 シグルトは、妖精に生まれ変わった死者を弔うために、古いまじないの詩を口ずさみ、夜道を歩き始めた。

「《月夜の晩に踊る〈よきひとたち〉よ、
  星はこんなにも輝いている。

  死は悼まれ、そして消える。

  乙女は蝶に、戦士は獣に、
  可憐に雄々しく生まれ変わり、

  未練は果てて夜を謳歌する。

  ならば〈よきひとたち〉よ、
  死と夜の暗がりは、
  恐ろしいはずがあろうか。

  月は太陽よりも優しく包んでくれる。
  日差しに焼かれることはないだろう。

  夜の風はこんなにも静かなのだ。
  生の喧騒は忘れられよう。

  闇の安らぎで微睡むように、
  夜はあなたたちの揺り籠なのだ…》」

 【妖精の護光】に身を包み、詩を吟じるシグルトは、当人も妖精のようだった。
 当然であろう…シグルトもまた、白エルフと呼ばれる古い妖精の血を引く者なのだ。

 夜の森は不気味であると同時に、郷愁を感じさせる。
 寡黙なシグルトが、詩を捧げるほどに。

 シグルトの周りだけ、森の憂鬱な気配が消え、柔らかな静けさに包まれて行く。
 
 詩とは言霊の芸術である。
 言葉とは、本来高貴で高尚なものなのだ。

 神に捧げる呪文があり、賛美する歌がある。
 今シグルトは、言葉の持つ神秘によって、周囲の意味を変えた。

 弔いの言葉は、死に意味を与え死者を葬る。
 喜びの言葉は、生を祝福し力を与える。

 何気なく使われる言葉を、古の民はもっと大切に使っていた。
 森のような古からある場所は、それ故に美しい言葉を好むのだ。

 シグルトは、そんな伝承をとても尊いと思う。

 気付けば星空の下、ジゼルの墓の前に辿り着いていた。

 そこにあるのは、聖北の信仰が影響しない墓石。
 多くは魂を沈め、死者が甦らないようにするための重しの標。

 この時代、土葬が中心だった故に、死者復活の畏れがことさらに強い。
 
 聖北では、死者の復活は尊いものとされる。
 死を超越する救世主の奇跡だと。

 だが、生前の姿を残したまま葬られた者の復活は、本来は忌むべきものとされた。
 復活と同時に、生者を脅かす別の存在に変わるのだと。

 多くはウィスプやグールなどのアンデッド。
 ウィアのような妖精的な側面を持つものも存在する。

 それでも人が土葬を好むのは、死者がどこかで戻ってくることを願う意味があるのか。
 あるいは、生きた時の姿を壊すのが恐ろしいのか。

 埋葬された死体は見えず応えない。
 そこには、目印として重々しい墓石が一つあるだけなのだ。

 シグルトは、墓の前に跪くと、風で降りかかった土埃を払い落し、ジゼルの墓碑銘をなぞった。

〝麗しき森神の巫女ジゼリッタ、愛馬ホーリーとともにここに眠る〟

 簡素な碑文である。
 
「…ジゼル。
 謝罪が君の命を繋ぐものだったのなら、俺は迷わず何度でも君に頭を下げただろう。

 だが、君はこの冷たい土の下にホーリーと横たわっている。

 今の俺にできることは、君を忘れずにいて、思い出し語ること。
 悲しいことだが、せめて忘れないと誓おう。
 君を思い出す度、あの時の詩を、そして君の舞踏を思い出す。

 君に寂しさと無念が取り憑かぬよう、楽しい思い出が君の心を慰めるように祈ろう」

 素朴な誓いとともに、シグルトは墓石を撫でた。

「…あなたは強くて優しいのね、シグルト。

 そうしてくれるなら、とても嬉しいわ」

 空気の中から、響き湧きあがる声。
 そして、墓石の向こうからその娘は微笑んで、こちらを覗きこんでいた。

「…ジゼルなのか?」

 シグルトの状況判断能力が現状を把握し、何が起こったか理解した。
 同時に、彼女から危険な鬼気が発せられないことを知って、力を抜く。

「…また逢えたわね、シグルト」

 出逢った時から彼女の平素であった、好奇心と陽気さに満ちた笑顔。

「…そうか、伝説通りウィアになってしまったのか。

 だが、君は邪な存在にはなっていないようだな」

 落ち着いた様子でシグルトは、苦笑した。

「うん。

 正気のままだから大丈夫。
 踊り殺したりしないわ。

 でも、驚かないなんて凄いのね」

 好奇心で目を見開く仕草。
 少し透けていても、それは変わらなかった。

「…死神だの神殺しだの、色々なものに会ったからな。

 驚くよりも、今がどういうことなのかそちらに気が行くようになってしまった。
 因果まことだ」

 肩をすくめて見せるシグルトに、ジゼルがそうなんだと微笑み返す。
 まるで生きていた時と同じように。

 ジゼルには少しだけ恐れがあった。
 もしかしたら、ウィアになった自分に敵意を向けて来るのではないかと。

 だが、シグルトがそういう人間でないことは、直感で分かってもいた。
 彼は目に見えないものすらとても大切にし、真実を見据えていることを感じていたから。

 シグルトは続いて何かを言おうとするが、ジゼルは待ってとそれを制した。

「もし謝るのなら、止めてね。

 シグルトは村を救うために、ホーリーを止めようとした。

 そして、死ぬ間際に、あなたの温もりを覚えているわ。 
 必死に私を生かそうとしてくれたことも。

 謝られたりしたら、パニックを起こして死んじゃった私が恥ずかしくなっちゃう。

 ね、男の子は、女の子に恥をかかせないものよ?」

 唇に一本人差し指を当て、片目を瞑ってそんな言葉を口にするジゼルに、シグルトは「ふむ」と頷いた。

「…それにね。 
 私、たぶん長くなかったわ。

 だから、いいの。

 今はウィアになっちゃったけど、あなたとまたこうして話せるなんて、嬉しいわ。
 こんな夜に来てくれたから、逢えたのよね。

 有難う」

 そう言って、ジゼルはシグルトの手に自分の手を重ねる。
 透けて見えるが、実体がちゃんとある。

「ふふ、ちゃんと触れるわ。

 これなら、またあなたとワルツが踊れるわね」

 シグルトは両手を広げて困った顔をして見えた。

「踊り殺されない程度なら、お受けするがな。

 でも、知っての通り、踊りは苦手だぞ?」

 シグルトの言葉に、ジゼルは晴れやかな笑顔を浮かべていた。


 その頃…ヒラリオは必死に逃げていた。

 何時の間にか、夜気で冷やされて霧に覆われた沼の前に辿り着く。
 
 村からは随分離れてしまった。
 冷たい汗が、ぽたぽたと地面に滴り落ちる。

「な、何なんだ、あの鬼火は?

 後を追いかけて来やがって…」

 荒い息で、休みながらヒラリオは毒づく。

 すると、先回りしたかのように、沼地に四つ鬼火が現れた。

「ひぃっ!」

 怯えて尻餅を突く。

 やがて鬼火は人型を取り、中央にいる杖を持った女が滑るように近付いて来た。

「お、女?」

 目を見開くヒラリオを睨み据え、杖の女は蔑んだ様子で首を巡らした。

「――愚かな人間よ。
 我らの静かな月夜に、土足で踏み込み、やかましい靴音で眠りを妨げた罪は重いぞ。

 妾こそは、この森のウィアを統べる女王ミレト。

 夜の森は、我らあやかしの領分であるのに、そこに踏み入るとは恐れを知らぬ。
 その愚行を後悔するがいい…」

 ヒラリオは、この地方に伝わる伝承を思い出し蒼褪める。

「…ウィ、ウィアだと?」

 震えるヒラリオの足に向け、ミレトと名乗った杖の女は、その捩じれた杖を一振りする。
 途端、痙攣するようにヒラリオの両足が波打ち、勝手に上下に歩き始める。 

「か、身体が…!」

 必死に身体を制御しようとするが、まるで別の何かに足を乗っ取られたようだ。

「――踊り…死ね。

 滑稽な舞踏で我らを楽しませつつ、散り逝くがいい」

 薄い唇を吊り上げて、ウィアの女王が笑う。
 周囲のウィアたちが拍手する。

 まるで、虫の足を夢中で千切る子供のように、無邪気なのに邪悪な笑みを浮かべて。

「う、うわぁっ!

 止めてくれ、止めてっ!
 助けてっ!!」

 そのままヒラリオの足は、不器用なステップを踏みながら沼に向かっていく。

「ひ、ひぃっ!
 死にたく、死にたくないっ!

 だ、だれかぁ、誰かぁっぶぉ!!!

 がぼぉ、ぐふぉ、がぼぼ…」

 沼に入ったまま深水でぐるぐる回り、鼻から口から沼地の生臭い泥水が入ってくる。
 必死に陸を求めてもがくうち、何か細いものを掴み、必死に引き寄せる。
 それはヒラリオの肩にがしがみ付いた。

 ヒラリオはそれがなんであるか知って、息が止まった。

 自分と同じ様に沈められた男であろう、腐って眼窩から魚が飛び出した骸骨だった。
 そのままヒラリオの心臓は凍りつく。

 奇しくも溺れ死ぬ前に、ヒラリオは自分がジゼルにもたらした死と同様、心臓の停止でその一生を終えたのだ。

 死体になったヒラリオは、ぐるぐると骸骨と踊りながら沼に沈んで行った。
 その姿を、ウィアたちは腹を抱えて笑う。

「ほほ、醜い者同士、お似合いの舞踏よな。

 …さて、ジゼリッタの方は手間取っておる様だ。
 仕方ない、妾が手を貸してやろう」

 沈んでいく死体には目もくれず、ウィアの女王ミレトは鬼火に姿を変え、ジゼルの墓に向けて飛んで行った。


 二人の短い歓談は、ヒラリオの甲高い悲鳴によって終わった。

「…男の悲鳴…

 北の方からか?」

 籠手をはめ、剣の鞘を返す。
 即座に抜刀可能な状態とし、柄に手を掛け、シグルトの目は猛禽のような鋭さを宿した。

 後ろで見つめていたジゼルは、それがシグルトの日常だと気付いて少し淋しさを覚えるも、気持ちを切り替えて彼に向き直る。

「…シグルト、逃げて。

 多分、ウィアの女王が間もなくやって来るわ。
 あなたを、殺すために」

 シグルトは首を横に振った。

「…森の広さから言って、逃げるのは無理だ。
 鬼火になってやって来るウィアの移動速度は、とてつもなく早い。

 一応は対抗手段も備えて来ている。
 場合によっては、一戦も止むを得ないだろう」

 ジゼルは、浮かび得たウィアの知識で反論する。

「彼女を甘く見ては駄目。

 魔法の木の枝で、相手を想いのままにできるのよ」

 シグルトは頷いた。

「【支配の枝】とも呼ばれる棒杖(ワンド)だろう。

 それならば、俺の装備で何とか出来るかもしれん」

 シグルトは、籠手を打ち鳴らした。
 
「…駄目よ、無茶は。

 最後にあなたに逢えて良かったわ。
 私は、安らかになれる方法を探して、貴方との思い出を抱きながら眠るから…

 だから、さよなら」

 決意に満ちたジゼルの顔。
 シグルトは、彼女の気持ちを酌むことにした。

「…分かった。

 だが、もし君が生まれ変わることがあったら…
 或いは俺が一生を全うしたのなら…
 どこかで逢おう。

 何時かの昼には、君の墓に来て、良い酒と都会の話を捧げると約束する」

 シグルトの言葉に、ジゼルは深く頷く。

「…じゃあ、お別れ…あっ!」

 ジゼルの表情が、見る見る絶望に染まって行く。
 
「ウィアの女王が来るわっ!

 早く、お墓の影に隠れてっ!!」

 苦肉の策であろう。
 シグルトは、無駄と分かりつつも頷いて、ジゼルの墓石の後ろに姿を潜めた。
 同時に、ある決意を持って籠手に古い言葉を描きつけていく。

 シグルトが隠れるのと同時に、鬼火がふわりと降りて人型を取る。
 ウィアの女王ミレトである。

「――男を殺せなんだな、ジゼリッタ」

 現れるなり、刻薄な表情でミレトはジゼルをねめつける。

「も、申し訳ありません、女王様…」

 芯の所にあるウィアとしての本能が、創造主であるミレトへの畏怖を起こさせる。

 墓の後ろで、シグルトは剣と籠手に土で三角形と二十六夜の月(逆三日月)を描く。
 まじないを終え息を潜めるが、何時でも飛び出す備えはできた。

「何人足りとも、この夜に此処に足を踏み入れてはならぬ。

 妾の安息を守るため…そこに隠れておる男も始末せねばな…」

 元より、妖精は気配で存在を知る。
 姿を隠す故に、見つけるのも得意なのだ。

 シグルトは、隠れるのを止め、姿をミレトの前に晒した。

「はははっ!

 この森は妾の庭。
 全てを見通すのも容易い。

 ジゼリッタ、殺せ。

 その男の自由を奪い、踊らせて精気を奪い去るのだ!」

 即座にジゼルは反発する。
 頭を大きく振って、ミレトを睨みつけた。

「嫌よ、たとえ女王様の命令でもできないわ!」

 呼応するように、シグルトは暗がりからミレトの前に歩み出た。
 その美しい顔立ちに、ミレトが息を飲む。

「もし、ジゼルに俺を殺すことを命じるのなら、俺はお前に確実な破滅をもたらすだろう。

 〈ダナの子供たち(トゥアハ・デ・ダナーン)〉たる妖精ならば、【滅びの鎌】を恐れぬはずがない」

 強い言霊を持ったまじないの言葉に、ミレトが一瞬怯む。

 二十六夜の月は、欠け落ちんとする月夜を象徴した収穫の刃。
 魔の雲に乗ってくる全ての神妖を刈り取り、滅びをもたらす神殺し。
 かつて天空を不能とし、不死身の蛇女の首を跳ね、ドルイドが宿り木を刈り取るのに使ったという黄金の鎌の原型である。

 この世の者でないからこそ、このまじないを付与した攻撃は魔の領域に軽々と踏み込み、常ならぬ命を終わらせられるのだ。

「…ふん、小癪な人間め、片腹痛いわ。
 何処で知ったかは知らぬが、そのようなはったりで妾を貶められると思っているのか?

 ならば、望みどおりジゼリッタでは無く、妾自らお主を踊り殺してくれよう!」

 そうしてミレトは、呪文を唱えながら杖を一振りする。

「《魔法の杖よ。

  あの者を踊らせよ!》」

 しかし、ミレトが放った魔力は霧散した。

「ば、馬鹿な…

 何故杖の魔力が…」

 驚愕に染まったミレトの耳に、くすくすと小さな笑い声が聞こえた。

「「愚か愚かと笑うけれど、ほんとに愚かなのはウィアの女王。
  妖精の加護を受けた勇者の前に、癇癪起こして杖を振る、ただのおばさん!

  白エルフの血を引く王子様には、〈お母様〉の加護もある。
  きっと、刈られる、怒られる…」」

 シグルトが纏った【妖精の護光】が、呪縛を打ち破ったのだ。
 目には目を、妖精の力には妖精の力で対応した、シグルトの作戦勝ちである。

 その一瞬に、シグルトが踏み込んで剣を振るった。
 あっけなくミレトの杖が折れ飛ぶ。

 剣と籠手に描かれた紋章を見て、ミレトの顔が恐怖にひきつった。

「な、何故お前が、我らの〈偉大なる母〉の収穫の紋章を使っている!

 それは、それは…失われた?!」

 ミレトを諭すように、シグルトが紋章を指さす…三角形に二十六夜の月の紋章を。

「俺の先祖の一人に、償い(エリック)と呼ばれた男が居た。

 滅んだ神代にあって光の神としてあがめられた者の血を引く、末裔だ。
 この青黒い髪と瞳は、邪眼の王を屠った呪いで、つけられた祖父殺しの徴。

 ならば、お前たちの終焉の言葉を知ってもいよう」

 シグルトは強い言霊を持って、ミレトを縛る。

「かつて、神々は人のいない世界に去って精霊や妖精になった。
 後の妖精は皆、去りし神の眷族だ。

 ならば、俺が最初に告げた言葉に従わなかった時点で、理不尽な妖精の力は全て失われている。

 偉大なる母神は、ことさらに力に酔い磨くことを忘れた、増長する者を嫌うからな。
 彼の女神の怒りで、どれだけの終焉が訪れたのか、それは神々の時代が終わり今は神話になっていることが示しているはずだ。
 
 【滅びの鎌】…神を斬る【金剛の鎌】は、お前たち全ての妖精を産み、魔の黒雲に乗ってやって来た神々の母〈ダナ〉のこと。
 産み与え、刈り取り奪う太古の、神性すら語られざる女神。

 俺は、奇しくも〈ダナ〉の申し子として生まれて来た。
 彼女の骨盤を象徴する金床に乗り、天を掴もうとしたそうだ。

 〈ダナ〉の本性は、歪みを歪ませ正す破魔。
 燃える炉の子宮で、子を鍛え直す刃金の母。

 全てを切り裂くその御名で、理不尽な妖精の力は去る」

 シグルトが言っているのは、ケルト神話を元にした妖精のルーツである。
 妖精となった神々の母…それが、刃金の精霊として知られる、謎多き大精霊ダナであった。
 
 シグルトの先祖とされる白エルフの姫君は、一人の旅人と恋に落ちた。
 その男の名はエリック…「償い」や「贖い」を意味する名を背負わされた、光の神ルー(ルーグ)の末裔である。
 
 ルーは〈ダナの子供たち(トゥアハ・デ・ダナーン)〉と〈フォーモル〉と呼ばれる魔神族の混血の神で、伝説の英雄クー・フーリンの父親だ。
 祖父であるフォーモルの王、邪眼のバロールを屠り、終には神々の王となる。

 だが、ルーの子供や血筋に関しては後の記録が残っていない。
 ケルトの神々については、多くが散失し残っていないが、シグルトは容貌に色濃く名残を残す、ルーの神魔の血と古き妖精の血を引く混血の末裔であった。

 ジグルトの才能、そして美貌。
 それらは血筋故である。
 同時にその波乱万丈の運命もまた、然り。

 シグルトは何時も、自分の才能に否定的だ。
 それは、背負わされた理不尽と孤高と引き換えに、彼に優れた才能を与えていたことを伝承で知ったからだ。

 自らの呪われた宿命を打ち破るには、努力より他無い。
 遠い昔にシグルトは、美しいハーフエルフの女性からそれを聞いた。

 その女性とは、エリックと白エルフの娘で、シグルトの遠い先祖に当たる神仙オルテンシア姫である。

 シグルトは、選ばれた英雄の相を持って生まれた。
 ケルトの多くの英雄たちがそうであったように。

 だが、英雄の相は才能故に持つ者を堕落させ、増長させ、破滅させる。
 シグルトもまた、増長こそしなかったが、運命に翻弄された。

 そんなシグルトだからこそ、憎むのだ。
 ミレトのように傍若無人に振る舞う、運命を弄ぶ古の者を。

「もう一つ教えてやろう。
 お前たちのまじないで、俺は踊らない。
 
 俺はすでに踵を切られ、普通に踊れないのだから」

 ミレトの持つ魔の杖は、舞踏で最も重要になる腱の一つ…アキレス腱を支配する。
 まともな踵の腱をすでに切り裂かれたシグルトを踊らせるなど、不可能だったのだ。
 シグルトが〈踊りは苦手〉という最もたる理由。
 妖精の加護が無くとも、シグルトは支配されて踊ることなど無かっただろう。

 折れた杖を握り締め、ミレトは悔しさの余りその顔を憤怒で歪めていた。
 薄い唇が波うち、悪鬼の様である。

「ぐぅ、これではジゼリッタに命じても…
 されど、ここで男を取り逃がすなどウィアの名折れ。

 かくなる上は、妾直々に屠ってくれるわ!」

 杖を投げ捨てたミレトの前に、ジゼルが躍り出る。

「シグルトを傷つけると言うなら、私も戦うわ。

 この村一番の誉れを持った私の弓で、貴女を射抜く!」

 ジゼルの手には、何時の間にか弓矢が握られていた。
 一緒に埋葬された愛用品は、死者の持ち物となるのだ。

 シグルトがトリアムールの風を召喚し、身に纏う。

「…ジゼルには安らぎを。

 人の敵である貴様には牙を剥こう。
 何故人が、神々や妖精に長じてこの世に蔓延ったか、知るがいい」

 剣先をミレトに向け、宣告するシグルト。

「身の程を知れ、人間、そして小娘がっ!

 我が魔力で、粉微塵に粉砕してくれるわ!!」

 その言葉をきっかけに、戦いが始まった。
 ジゼルが弓を構え、ミレトに狙いを定める。

「同じウィアでありながら、女王たる妾に矢を向けるとは。
 この無礼者めが!

 男ともども、殺してくれようっ!!」

 その言葉に、ジゼルは挑戦的な笑みを浮かべた。

「あら、私はもう死んだはずよ。

 死人をどうやって殺すのかしらねっ!」

 見え透いた挑発にも、逆上したミレトは面白いように乗って突っ込んで来た。

「《トリアムール!》」

 二筋の風がミレトの霧の衣を切り裂く。 
 シグルトはその間に接近して、渾身の力でミレトを殴りつけた。
 妖精の嫌う鋼鉄の籠手が、整った鼻をへしゃげさせる。

「ぐふ、き、貴様、女の顔を何だと…!!」

 鼻血こそ出ていないが、歪んだ顔はもはや美しさも気品も無い。

「後ろがお留守よ!」

 ジゼルの弓が、ミレトの腕に突き刺さる。
 血飛沫の様に、身体が霞んで夜の空気に融けて行った。

「…調子に乗るなぁぁぁ!!!」

 崩れかけた腕を鉤爪に変え、ジゼルを狙う。
 しかしそれを、シグルトが籠手で受け止めた。

 衝撃が骨まで響くが、耐えてさらにトリアムールの風を叩きつける。
 今度は左の拳で腹を殴りつけた。

「が、はぁっ…

 な、何故こうも人間如きの攻撃が…」

 よろめき後ろに下がったミレトに、シグルトは腕を突き出して見せる。

「…妖精は昔から鉄を嫌うからな。

 鋼の拳はさぞや効くだろう?」

 シグルトが剣で攻撃せず、籠手で殴りつけたのはそう言う理由だった。

「それに、この籠手も紋章入りだ。

 …死人に戻るがいい!」

 再びトリアムールの風を身に纏い、シグルトはミレトの攻撃を籠手で弾き飛ばした。
 即座に接敵し、風を叩きつけ、勢いに乗ってさらに右拳でミレトの顎を打ち抜いた。

「凄いわシグルト。

 まるで拳闘士みたいよ」

 ジゼルの矢が、ミレトの体勢を突き崩すと、シグルトはもう一度風を叩き込み、アロンダイトでミレトの身体を切り裂いていく。

「ぐは、や、止めろ…人間。

 それ以上すれば、容赦…」

 返す刃がその口を黙らせる。

「…消え去れ!」

 熊を屠った時と同じ突進から、アロンダイトをミレトの喉仏に突き徹す。

「―!…、ぉ、ぉ…れ!!」

 声にならぬ叫びを上げたミレトの首を、アロンダイトを捩って抉り、刃を立てたまま身体の旋回で分断する。
 そして、千切れ飛んだ頭を、拳で殴り飛ばした。

 首を失ったミレトの身体はふらふらと後ろによろめき、そしてぱっと青白い炎を上げて消え去る。
 恨めしそうに歪んで転がった首は、断末魔の悲鳴を上げる間もなく、同じ炎となって霧散した。

 拳を交えた格闘のような戦い方…荒っぽいこの戦い方こそ、冒険者が扱う本来の剣術である。

 戦場における刹那の攻防で、全身を使えぬ者はそれ故に命を落とす。
 籠手は防具にあらず、立派な武器にもなるのだ。

「…もう気配はないな。

 勝ったようだ」

 残心を終えて剣を鞘に収め、シグルトは静かに息を吐く。

「…ねぇ?」

 後ろから、ジゼルの声がする。
 でも、その気配は薄れかけていた。

「…ああ、何だ?」

 努めて平静に、シグルトは振り向いてジゼルを見る。
 思った通り、その透け方が酷くなっていた。

「…今度こそ、本当にお別れね」

 淋しげなジゼルの顔。
 その頬を、籠手を外した手を伸ばして優しく撫でる。

「ああ、そうだな」

 母体であるウィアの女王を倒した時点で、こうなることは分かり切っていた。
 ジゼルは、こうして呪縛から解放され、元の死者に戻るのだ。

 だが、二人とも清々しい顔をしていた。
 
 ジゼルはウィアとして人を殺すことを望まず、シグルトは彼女に安らぎを与えてやりたかったから。

「…本当に有難う。

 そして、御免なさい。
 最後まで付き合ってくれて。

 …ほら、もうこんなに透けて来てる。
 もう、あなたとワルツを踊るのは諦めた方がいいわね」

 シグルトは、何時ものように苦笑した。
 ジゼルの頬を撫でていた手には、すでに感触が無い。

「…俺は少し安心したよ。

 下手な踊りをしても、寿命が縮む」

 ここでは笑顔で見送ろうと、シグルトは決めていた。
 でも、彼の不器用な仕草では、苦笑が精いっぱいだ。

「…ふふ、貴方って苦笑してばかり。

 でも、素敵だわ。
 誰かのために精一杯やせ我慢してくれる。

 そんなあなたの顔が好きだったわ」

 愛おしそうに伸ばされたジゼルの手は、虚しくシグルトをすり抜けていた。

「…お願い。

 祈っていてね。
 私も、あなたとの思い出を夢見ながら、祈るから」

 シグルトは静かに頷いた。
 もう、ジゼルの身体はほとんど見えない。

「…で、何を一番に祈ったらいい?」

 優しくシグルトが聞くと、ジゼルはふふと笑った。

「月並みだけど…『君に幸あれ』ってね!」

 もう一度シグルトが頷いた時、ジゼルは朝日に融けるように消えて行った。

「…必ず祈ろう。

 君を思い出す度、無力に負けそうになった時。
 俺は、君を忘れない」

 見ればすでに朝日が完全に顔を出していた。
 一夜の不思議な体験は、幕を閉じたのだ。

 シグルトはそのまま、ヴィスマールを目指して歩き出した。


 暫く歩いていると、周囲が濃い霧に包まれていた。
 精霊術を使うシグルトの直感が、ただの霧では無いと告げている。

 シグルトの中に宿っている妖精たちがざわめいた。

「「ここは幽世。

  妖精界と物質世界の間にある、ぼんやりした場所だよ」」

 妖精たちの言葉に思案顔になる。 

(ウィアの復讐か?

 それにしては、戦う前に感じた瘴気が無いし、此処の時間は昼間だ。
 とすると、いったい何者が?)

 そんな事を考えていると、不意に大きな何かの気配がした。

「やあ。

 僕の声が聞こえるかい、美しい勇者くん」

 野太いが、どこか愛嬌のある深い声。
 人ならぬものの声だと、直感的に感じ取る。

「…何者だ?」

 シグルトは立ち止まって油断なく構え、声に問い返した。

「人は森神と呼ぶ。

 君には、祠のことや熊のこと…もろもろで礼が言いたくてね。
 ちょっと異界に招いて、話しかけてるのさ。

 まあ、大雑把に言うと、夢の世界ってところか。
 
 この霧は、魔の雲。
 僕たちの乗物で、違える時間や異世界を繋ぐ事ができる。

 当然、夢のようなあやふやな世界でもね。
 君は、普通の疑り深い人間と違って分かるはずだよ。

 夢は、僕たちがいる幽世と現実を繋ぐ装置のようなもの。
 それを忘れてしまった人間の方が多いけれど。

 そうだね。
 僕らを信じない人間にはこんな風に言うべきかな?

〝神を信じることは、常識や倫理の問題では無く感情の領域である。

 神の存在を立証することは、それを反証することと同じく不可能である〟

 哲学的に吟じてみたけど、どうだい?」

 どこか人を食ったような雰囲気が伝わってくる。
 
 シグルトは目を閉じ、その声が聞こえて来た方向に大きく足を踏み出した。
 覆っていた粘つく霧の感覚が晴れた時、シグルトは頃合いかと目を開ける。

 そこは、『森神の箱庭』だった。

「…ようこそ、僕の箱庭へ」

 そこには人懐っこい目をした、熊のような大男がどっかりと切り株に腰を下していた。
 体躯に合わず、その喋り方は穏やかで丁寧だ。

「…貴方がこの森の神か?」

 怖気付くこと無く尋ねると、男は嬉しそうに頷いた。

「流石は、僕らの末裔だね。

 神を前に堂々としたものだ。
 或いは慣れたかい?

 “貪欲”につけ回されて、生き残った君だ。
 普通の人間は僕らと邂逅すると驚愕するものだけど、僕ぐらいでは何ともないか」

 何もかも知っているかのように、森神は話す。

「…貴方の感想など興味はない。
 俺たち人間とは、考え方も価値観も違うはずだ。

 できれば、待ち人が居るので早くこの森を出たいのだが。

 用件を聞こう」

 神に対していささか不遜な物言いだが、この神は多分怒り出したりなどすまい。
 諧謔じみた視線が、そう告げているからだ。

「御褒美の時間ってとこかな?

 君には三つ借りが出来てしまった。

 一つは、祠を直してくれたこと。
 君の吟じてくれた言葉には心打たれた。
 長生きはしてみるものだね。

 二つ目は羆退治。
 祠が歪んで力が及ぼせなかったから、あんな獣に僕の庭を蹂躙させてしまった。
 安い報酬なのに、正義感で僕の民人の願いを叶えてくれたことも特別評価出来るね。

 三つめがウィアの退治。
 あの魂が汚れたアンデッドもどきの女王は、僕の力が森に及び難くなってから我が物顔で悪さをしていたから、やっつけてくれてとても感謝している。
 これで、僕の神としての威光も守られるというものさ。

 仮にも神と崇められている僕だ。
 何のお礼もせずに、君を返すのは忍びないと思ったんだ。

 そこで、君を此処に誘ったというわけ」

 ふむ、とシグルトは静かに頷く。
 神々とは元々契約や義に五月蠅く、気まぐれな存在だ。

 それを考えれば、森神の行動も頷ける。

「何でも望みを言うといい。

 巨万の富でも、歴史に残るような名声でも構わない。
 
 そうだね、時間を戻して死者を蘇らすことも可能だよ。

 僕は神だ。
 それができると断言しよう。

 君は、何を望むかな?」

 シグルトはこの神が何故出て来たのか、はっきり理解した。
 さまざまな伝承から、神と呼ばれる高等存在が願いをかなえる時のルールを知っていたからだ。

 彼らが望みを叶えるには、「誰かから強く望んでもらう必要がある」のだ。

「…では、ジゼリッタという貴方の巫女が、いまわに望んだ夢を、生きる道を叶えてやってくれ。
 彼女は死にたくないと望んだのだから。

 願わくば、彼女に夢を叶えるための生の存続を…」

 不意に森神は目を閉じ考え込んだ。
 そして、シグルトに問う。

「本当にそれでいいのかい?

 君が失った友人を生き返らすことも、あるいは失った恋人と愛を取り戻すことだってできるかも知れないよ?
 君は、何故自分のための望みを願わない?」

 戻すならば、もっと昔も可能だと言っているのだ。
 そして、失った友や恋人を取り戻す機会を与えると。

「…死んだ友のことは今でも悲しい。
 失った恋人との時間も、懐かしむことがある。

 だが、それはすでに起き、過ぎ去った遠い過去だ。
 その先に出逢ってともに歩んで来た仲間があり、成してきた現実があり、今の俺がある。

 嘆き、出逢い、そして歩む。
 ならば、俺の望みは叶えて貰うのではなく、自ら叶えるために励むのみ。

 過去を含めて、今を生きているのが俺だ。

 全ての死者を生き返らせれば、過去を取り戻せるわけでは無い。
 起きてしまったこと…すでに辱められた友たちが、救われるわけでもない。
 
 もし過去に戻ることが出来たとしても、今の仲間たちと築いてきた時間が軽んじられよう。

 仮に時の逆行が叶ったとして、代償は多分…今の記憶だろう?
 結果、俺は同じあやまちを〈時が戻ったと知らないまま〉繰り返すはずだ。
 そんな可逆など、死んでいった者たちへ同じ苦しみを追体験させる冒涜でしかない。

 俺自身に、再びの機会など必要ない。
 どれほどの慟哭も、結果である今も…それは俺が選び得た生なのだから」

 迷いの無い回答だった。
 しかし、少し意地悪な顔をして、さらに森神が問う。

「君の言葉は矛盾しているね。

 その言葉をたどるなら、ジゼリッタを救うことは過去を振り返ること。
 綺麗事を言っていても、結局は…」

 シグルトは強く頷いた。

「そう、綺麗事だ。

 俺は綺麗事とは花を愛でるようなものだと思う。

 咲いた花しか愛でない者もいれば、咲く花を夢見て育てることから愛でる者もいるだろう。
 でも、それが美しい、尊いと知っているなら、不完全なりに求めても悪いとは思わない。
 むしろ、人らしいとさえ思う。

 少しぐらいの歪みなら、かえってゆとりにもなるだろう。

 俺は完全無欠では無い。
 間違い、後悔する人間だ。

 人間として、目の前にある成したいことを、自分の欲で行う。
 それは、俺の矜持であり、我儘だ。

 綺麗なだけの人間でいるつもりもない。

 だが、綺麗なものを愛でないつもりもない。
 綺麗事でも、それが選ぶべきことだと信じたのなら、望むだけだ。
 自分の中の汚いもの、醜いものを知っているのなら余計にな。

 もし、それが誰かにとって喜ばしいことなら、道理や矛盾など知ったことでは無い。
 
 受ける謗りも含めて、俺は迷わずそれを選ぶ。

 …森神よ、いい加減試すのはやめてほしい。
 貴方の欲しい正解は多分、貴方の巫女が生きるはずだった未来を、村人ではない最後のピースである俺が望むこと。

 この閉鎖された箱庭で、因果律を歪めずにできる神の奇跡は、村人全てに惜しまれていながら亡くなってしまったジゼリッタの生。
 貴方の全ての民草が願った、彼女の生存。

 確かある神が死んだ時、冥界の神が望んだ条件の中にあったな。
 〈世界のすべての者が悲しんだのなら、生き返らせよう〉だったか。

 その条件を満たすことこそが、貴方が遠回しに仕掛けてきたなぞかけの答えだ」

 真っ直ぐに、目を逸らさずそう答える。
 
「万古不易であることは尊いだろう。
 完全無欠であることは凄いことかもしれない。

 俺は目前にある混沌とした小さな人の生こそが愛おしいと思う。

 永遠不滅では無く、老いて失うことがあるとしても…
 限りある一生を、悔いと悲しみで染めながらも…

 その先にある死を受け入れて尚、生きて来てよかったと言える、人として死ぬために。
 俺は生き、選んで行きたい。

 そんな刹那の輝きと綺麗事に、たまらなく焦がれるのだ。
 たとえ、明日に死すとも、誇りを持ってその明日を選べる者でありたい。

 逆に、俺が貴方たちのように不老を得て悠久に生きる事があったとしても…
 刹那の美しさを忘れずに、長い時を尊んで、何かの拍子に滅ぶまで生きたいと思う。

 刹那も悠久も、それは違う美しさのある綺麗事だ。
 俺は両方それぞれの美しさを、胸を張って讃えたい。
 それが、御都合主義で欲深なことであっても。

 不完全であることは何かに欠け、失うこともあるだろうが…
 無いからこそ求め尊ぶこともあるのだ。

 俺は、数日の刹那にジゼルに逢い、彼女の笑顔と願いを知った。
 だからこそ、この時この場所で、彼女のささやかな〈幸せ〉を、人間として身勝手に祈り願う。

 〝君に幸あれ〟と。
 そう祈ると約束したからな。

 神である貴方に、特にその願いを込めて今ひとたび祈ろう。

 俺は、そんな、我儘な人間だ」

 爽やかにシグルトは笑った。

「クックック、ハァ~ハッハッ!

 好いな、君は。
 人であることを悟り、清濁合わせ持ちながら、恐れず恥じない。
 僕らの偉大なる母が気に入るわけだ。

 失うことを嘆きながら、それでも得ようと高みを目指す…
 君の道はとてつもなく孤高で、武骨で美しい。
 
 かつて神々は、永遠不滅を得るために骨を選んだ。
 人には、一時の美味はあっても腐る肉が与えられた。

 だが、君は骨と肉の両方を選ぶことができる。
 だからこそ血が、両方を備えた身体を流れて生かすのだ。

 血の道とは、鋼鉄の生き様。
 〈揺るぎないもの(アダマス)〉の意味が、金剛石から鉄に受け継がれたのは…

 折れ欠ける脆さすら内包しながら、それでも貫く鉄の如き生き方が揺るぎないからだ。

 君は、確かに〈刃金〉の相を持っている。
 僕らの偉大なる母が、司っているそれを…」

 森神は満足気に頷くと、切り株から立ち上がった。

「…良いだろう。

 ついでに、彼女の病も除いてあげよう。
 納得できる答えを示した御褒美だ。
 彼女もウィア退治に貢献したのだから、その分も含めてだね。

 君の記憶もそのまま残そう…僕のことを忘れられると淋しいから。

 時間を戻して、あのお馬鹿君がホーリーを狂わせた所に、解決手段付きで戻してあげよう。

 でも、それだけのことをするんだ。
 僕は神らしく、もう少し代償を貰わないとね」

 ぎらり、と森神の目が見開かれる。

「…その代償とは?」

 やはり一筋縄ではいかない。
 これが神や精霊と言う存在だ。

「…僕に一太刀浴びせること。

 ただし、君が失敗した時は命を貰う。
 僕は本気で向かうから、手を抜くとあの世行きだ。
 
 神様らしい、試練だろう?」

 獰猛に歯を剥き出す。

 やはり古の神。
 どこか残忍で享楽的だ。

「さあ、君の一念を剣で示してくれ。

 言葉の次は行動さ。
 心の強さは願いに通じる。

 特に君たち〈刃金〉は、常に道を切り開くことを試されるのだから」

 どこから取り出したのか、岩でも粉砕できそうな巨大な斧を構え、森神は構えを取った。
 紛う事無き、達人の気配だった。

 並の剣士ならば、その一睨みで逃げだすだろう。
 しかしシグルトには、譲れないものがあった。

 目を閉じてジゼルの笑顔を浮かべる。
 会って数日の娘だが、確かに心を通わせた、夢に輝くその娘の瞳を想う。

「…全身全霊で、応えよう」

 そうして取った構えは、奇しくも突きではなく斬撃である。
 道を切り開くという、シグルトなりの意思表示だ。

「…行くぞ!」

 森神が、猪のように大地を蹴る。
 その巨体からは信じられない速度で、大斧はシグルトの脳天をかち割るべく振り下ろされる。

 シグルトは呼吸を止め、最上の技で応えるべく静かに待った。

 森神の大斧はシグルトが居た場所の大地を大きく抉り、土塊を撒き散らして減り込む。
 縦に割られたのは、果たしてシグルトの残像であった。

「…がぁ、は。
 クク、本当に容赦ない。

 だが、見事だ」

 不死の神は死なない。
 ましてこの森は、彼の神の領域だ。

 シグルトの一太刀は森神の図太い脇腹を七割がた分かっていた。

 【影走り】…必中にして天衣無縫の回避力を誇る、恐るべき秘剣である。

 周囲が霧に包まれて行く。

「ジゼリッタの死んだ未来は、僕の夢になる。
 こうやって神の試練に打ち勝ち、望みを叶えた君のことを僕が覚えているためにね。

 そう、単なる夢で、彼女は…」

 ぐるぐると周囲の霧が濃くなり、森神の声が遠くなって行く。

 その時、シグルトの身体から何かが離れる気配がした。

「「この夢はあっちとつながってる。
  ミレトの眷属にも、余計なことをしたって恨まれちゃったから、帰るね。

  今までありがとう」」

 【妖精の護環】で手を貸してくれていた妖精たちであった。

「随分と助けられたな。

 あっちでも元気で」

 妖精たちとはもともとそういう約束だった。
 いつの間にか現れたトリアムールが、あっかんべーをしている。
 
 そして、シグルトは〈あの時〉まで戻るのだった。


「ちょっと、待ってよ!」

 足早に急な森の道を下って行くシグルトを、必死にジゼルが追いかけてくる。

「…村一番の狩人なんだろう?

 ならば、山歩きも村一番でなければな」

 収穫祭の翌日、シグルトとジゼルはウィスマールに向かって林道を下っていた。
 
 ホーリーが、ヒラリオの悪さによって暴れるという問題があったが、シグルトが偶然に持っていた鎮静効果のある香水の一振りで片が付いた。
 嫉妬に狂ったヒラリオは罪を暴かれ、今は村にある小屋に閉じ込められている。
 
 もしかしたら死人が出てもおかしくない騒動だったので、ヒラリオの断罪はこれから村の会議で決まるそうだ。
 まあ、祭の直後で酔いが残っていたんだろう、と罪はそれほど重くならないかもしれない。

 シグルトが、村長の言葉通りすぐに村を出ると、ジゼルはなんと村長を説き伏せて、一人で村を出て来たそうだ。
 村長をはじめ、馬のホーリーまでまた暴れて反対したらしいのだが、彼女の意志は固い。

 ヴィスマールまで行き、その後一旦アレトゥーザで“風を纏う者”と合流を果たした後、護衛として“風を纏う者”を雇ってペルージュのアフマドを訪ね、心臓を診療して貰うことになっていた。
 実は森神のおかげで心臓は完治しているのだが、実際に完治を医者に宣言してもらった方がいいだろう。

 ジゼルは、心臓が治ったら、そのままリューンでダンサーを目指すそうだ。
 その間、本業として稼げるようになるまでは、シグルト同様に冒険者をして稼ぐと言っている。

 「なんだか朝起きてから視力が良くなって、思うように身体が動く」という話だ。
 遠方に見える雲のかかった山の見える部分に生えていた木の本数を数えられるよになり、できたことを本人が驚いていた。
 そんなことはレベッカでもできない…悪戯好きの森神が何かしたのだろう。

 体力や筋力はまるでないが、俊敏さはラムーナに匹敵する転生の物を持っている様子だし、斥候としての訓練を受ければ大成するとシグルトは予測している。

 彼女の呼吸も顔色も、見違えて良いので、シグルトは甘やかさないことにした。

 ジゼルの弓の腕が驚異的なことは、見知っているので大丈夫だとも思う。
 それに、ジゼルは野伏(レンジャー)としての優れた能力がある。
 『小さき希望亭』には稀少な人材故に、とても重宝することだろう。

 また女性を連れ込んだと、宿の人間に何か言われるかもしれない。
 脳裏に頬を膨らませたアンジュの姿が思い浮かぶが、先の話と割り切った。

 不意に立ち止ったシグルトは、ジゼルが追いつくのを待って聞いた。

「…ジゼル、君は神を信じるか?

 羆のような立派な体格の、神様を」

 そんな言葉に、ジゼルは肩をすくめた。

「具体的な例えね。
 
 姿に関しては、想像がつかないのよね。
 森神様は〈森そのもの〉で、その姿を現す神像が無いの。

 敬虔さなんてお母さんの中に置いてきちゃった私は、ぜんぜん信じてないかな?
 巫女になっておいて、なんだけど…」

 晴れやかに笑って、彼女は続ける。

「神様が居るのなら、これほど不公平なことは無いはずだもの。
 今私は、世界中に振り分けられた幸せを、とてもたくさん独り占めしていることになるわ。

 心臓の調子が良くて、しかも名医さんを紹介して貰えた。
 そのまま自分の夢にも邁進できそうな状況にある。

 …ね?
 一つ叶っても夢みたいなのに、村を出ようとしている私にそんな贔屓をする神様なんて、誰も信じてくれないわよ。

 こんなに幸せでいいのかって、思っちゃう。
 神様がいたら、罰を当てられちゃうわ」

 目を細めて、心から幸せそうに…ジゼルは微笑んだ。

 シグルトは、森神が御大層に述べていた哲学的な言葉を思い出しながら、苦笑した。

「…何?

 可笑しかった?」

 可愛らしく小首を傾げたジゼルに、「思い出し笑いだ」とシグルトは告げて、また足早に歩き出した。
 見上げれば、空はどこまでも高い。

(〝君に幸あれ〟か…)
 
 神に祈れば叶うこともあるのだな、とシグルトはまた苦笑して、必死に追いかけてくる可憐な供に仕方なく歩調を合わせるのだった。



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2018年11月
  1. 『碧海の都アレトゥーザ』 午後の余暇(11/27)
  2. SSD環境でカードワースを遊ぶ(11/18)
  3. 『碧海の都アレトゥーザ』 風は南海に集う(11/16)
  4. 『ジゼリッタ』(11/02)