『建国記念祭』

2007.07.21(11:50)

 その日、国は祭りの熱気であふれていた。
 
 季節は4月。
 北方ではまだ肌寒い季節である。
 
 そして、ここでも祭りのイベントに庶民たちは歓声を上げ、その刺激に瞳を輝かせていた。
 
 人々に囲まれた広場、そこで2人の男が対峙している。

 手に持つのは、互いに槍を模した細長い棒、棍と呼ばれる武器だ。
 相手に怪我をさせないよう、その両端には麻布が巻きつけられ、小さな膨らみを作っている。
 
 2人のうち、1人は2mを越える巨漢だった。
 筋骨隆々で、肌は汗に濡れ、つやつやと輝いている。
 腕は子供の頭ほど太く、手に持った棍がまるで玩具のようだ。
 棍に巻いた麻布には赤黒い、真新しい染みもある。
 誰かの顎を砕いた時の、血であろうか。
 
 対するは、すらりと細身の男である。
 特徴を挙げるなら、一言で〈美男子〉だった。
 青黒い長髪を後ろで束ね、女も羨だろう白い肌。
 整った鼻梁に、引き結ばれた凛々しい口元。
 切れ長の神秘的な青黒い瞳は、相手の大男を飲み込むように映している。
 
 大男は大声をあげたり、地面を踏んで威嚇するが、美男の方は動じた様子もなく微動だにしない。
 よく見れば、大男の方が気後れしているのが分かる。
 
 周囲から野次が飛ぶが、大男は先ほどから美男に近寄ることすらできない。
 
 やがて、美男の方が滑るように動いた。
 その後は電光石火。
 
 脇と喉を突かれ、呼吸が一瞬止まった大男の脛と膝を棍で打ち据え、倒れたところに振り下ろす一撃。
 大男が思わず目と閉じるが、痛みはやってこなかった。
 恐る恐る目を開けると、棍の先が大男の頭の上で寸止めされている。
 
「しょ、勝者シグルトっ!」
 
 美男が棍を引き、大男に手を差し伸べる。
 唖然とした大男がその手を取ると、美男…シグルトは軽々と大男を引き起こした。
 同時に、爆発的にシグルトの周囲で歓声が上がった。
 
「誰か、誰か挑戦者はいないかっ?!」
 
 シグルトの勝利を告げた男が周囲に問いかけるが、周囲の屈強な男たちは皆その視線を避けるように項垂れている。
 
「では…この度の槍術披露の儀は、シグルトの優勝とするっ!」
 
 大男を助け起こしたシグルトが、棍を軽く掲げると、周囲の者たちがそれを讃えて爆音のような喝采を浴びせた。
 
「…負けたぜ。
 
 まさか16歳で、出場資格持ったばっかりの野郎に負けるとはな。
 さすがは槍の英雄ハイデンの一番弟子、“青黒い稲妻”だ」
 
 大男は、苦笑しながらシグルトに突かれた喉を撫でている。
 そこは鬱血して痣ができていた。
 
「昨年の覇者の言葉だ…謙遜するのは無礼だろうな。
 
 他の戦士たちに勝てたことも、ともに俺の誇りとしよう」
 
 シグルトはそう言って頷いた。
 
 さらに周りから歓声が上がる。
 男たちは羨望の目で、女たちは熱い恋慕の視線でシグルトを見つめていた。
 
 〈槍術披露の儀〉…俗的には〈槍試合〉と呼ばれる武芸大会は、この国の風物詩である。
 年代分けされたこの武芸大会で優勝することは、武を重んじるこの国では意味が深い。
 
 シグルトは16歳から19歳が参加する若手のグループで、初めて参加して優勝したのだ。
 加えてシグルトは12歳から15歳が参加できるグループでも4年間優勝している。
 この国で、シグルトの武勇を知らぬ民は少ない。
 
 この国の民たちは、強い者を重んじるからだ。
 
 強いシグルトの周囲には、自然と人の輪ができていた。
 
「ちょ~っと、開けてくれ」
 
 そんな人垣を掻き分けて、金髪の男がやってきた。
 
 少し軽薄そうな、けれど決して憎めない雰囲気の優男だ。
 シグルトは苦笑して、周りに道を開けてくれと伝える。
 
 その金髪男の後ろを、そばかすを残した少女がおっかなびっくりついてくる。
 
「そっちは先に優勝したようだな、ワイス」
 
 シグルトに名を呼ばれて、金髪男は自慢げに力瘤を作った。
 
「まぁな。
 
 〈弓試合〉は俺が4年制覇だぜ。
 お前が今回負ければ、並んだのによぅ」
 
 金髪男…ワイスが残念そうに言うと、後ろにいた少女が思いっきり拳骨でワイスの頭を殴った。
 響く鈍い音に、周囲の男たちが目を丸くする。
 
「こぉの、馬鹿兄貴っ!
 
 ルト兄ちゃんの勝ちを残念がるなっつうのっ、もうっ!
 なんで素直に祝福しないんだか、あきれてあたしゃ手が痛いよっ!!」
 
 拳をさすりさすり言う少女。
 対して頭を抱えつつ、唸るようにワイスが半泣きで少女を睨む。
 
「こぉの、じゃじゃ馬ぁっ!
 
 手が痛てぇのは、俺の賢い頭を殴ったからだってのっ!
 普通女が拳で殴るか、拳でっ!!」
 
 息の合った2人の応酬に、周囲が笑い声でどっと沸いた。
 
「2人ともそのぐらいにしておけ…笑いものになってるぞ?
 
 エリスも、いきなり殴るのは止めておけ。
 こいつがよけい馬鹿になったら、俺も困るからな」
 
 シグルトの言った冗談めいた言葉に、さらに周囲が沸く。
 エリス、と呼ばれたそばかすの少女は、真っ赤になって蜂蜜色の柔らかそうな髪を掴み、顔を隠そうとする。
 
「馬鹿とはなんだよルトッ!
 
 俺はこれでも字が読めて書けるんだぜ!!」
 
 識字率の低いこの時代、この国の庶民にあって、それは確かに自慢できることだった。

「字を教えた俺の感想だ。
 
 覚えが悪かっただろう?」
 
 肩をすくめたシグルトに向かって、ワイスは地団太を踏む。
 しかし、からかわれたことに気がつくと、やがてワイスも笑い出した。
 
 
 シグルトとワイスは幼馴染だ。
 その付き合いは10年以上になる。
 普段朴念仁のシグルトが冗談を言い、からかうのはこの男ぐらいであろう。
 
 そしてワイスやその妹であるエリスは、シグルトのことをルトという愛称で呼ぶ。
 〈シグ〉、というのはこの国では〈勝利〉を意味し、多くの者が名に含める。
 この国の建国王もシグヴォルフ然り。
 シグルトの妹も同様に略して、愛称で呼ばれていた。
 
 珍妙なこの呼び方は、ワイスとエリスしかしないのだが、シグルトはその呼ばれ方にすっかり馴染んでいた。 
 
 シグルトは友をあまり作らない、孤高の男であった。
 
 幼少期から、人一倍強く、何より大人びた考えをしていた彼は、普通に他の子供たちと遊ぶよりも、野山で風と戯れることを好んだ。
 持って生まれた神秘的な美貌と、他者を寄せ付けない厳しい雰囲気。
 その美貌に惹かれて仲良くなろうとしたものもいたが、幼少のシグルトは抜き身の刃のように他者との関わりを避けていた。
 複雑な出生と、かつてとある理由で迫害されていたことも理由だった。
 
 だが、ワイスとエリスの兄妹だけは違った。
 
 ワイスはシグルトの昔住んでいた家の周りの子供たちのガキ大将で、1人で遊んでいるシグルトに興味を持ち、一緒について遊ぶようになった。
 そのうちに2人は自然と今のような関係になっていた。
 ワイスの妹も、シグルトをもう1人の兄のように慕い、シグルトの妹の親友となり、仲の良い4人組になっていた。
 色々なことがあって、シグルトは昔住んでいた家を離れたが、今でもワイスとエリスはシグルトにとって特別な存在である。
 
 軽薄そうに見えるワイス…この幼馴染だが、実は弓の名手で、その実力は平民の若手では最高だと言われていた。
 
 その妹であるエリスは、ごくごく普通の娘で、シグルトにとってはもう1人の妹のような存在だった。
 蜂蜜色の柔らかそうなブロンドは抜きん出て美しく、まだ顔に残るそばかすが愛らしい。
 
 シグルトは、親しい者と過ごす時の心地よさに、柔らかな微笑を浮かべていた。
  
 
「さぁて、これからは祭りだ、祭りっ!
 
 思う存分、ガルツを飲もうぜっ!!」
 
 ワイスが側にあった大きな樽を拳で小突くと、周囲の男たちがどっと沸いた。
 
 ガルツというのは、保存に様々な香草を用いたビールの一種である。
 酒精(アルコール)は強くないが、使った香草の作用で、酒精の酔いに加えて、また違った酩酊をもたらす。
 
 〈飲むパン〉と呼ばれるビールは、粗末な食事を補い、断食の間の水分、栄養補給として修道院で作られていた。
 加えて、水があまり綺麗でなく生水を飲むのが危険な国々では、酒の飲用は子供でも当たり前な地域が多い。
 麦から作られるビールの類は、寒く葡萄の育ちが悪い北方の国の中では、よく飲まれる酒である。
 
 本来、修道院が特権的に作っていたビールだが、その製造技術は秘伝である。
 修道院の作るビールは質も良い。
 その多くは聖職者や裕福な商人たちが飲むもので、修道院の貴重な財源にもなっていた。
 
 庶民にとっても酒はつらい労働を忘れさせるものだ。
 だが、質のよい高級ビールなど、飲める庶民は少ない。
 厳しい北方の気候で、決して庶民の生活は裕福ではない。
 
 そこで、古来の粗悪な造りのビールであるガルツが、この国の庶民の酒として定着していた。
 だが、こういった酒ですら、庶民は満足に飲むことができない。
 
 だから、祭りのようなイベントで楽しみである酒を取っておき、その時に思う存分飲むのだ。
 
 シグルトは、不思議な香りのする苦味と辛味の強いこの国のガルツが、嫌いではなかった。
 
 木製のカップに生ぬるいガルツがなみなみと注がれ、皆に配られていく。
 ぬるいビールは、泡立ちがよく、濃厚な味の泡は飲むというより食べる形に近い。
 
 庶民は、男も女も同様に酒を飲む。
 この時代、性別の差無く酒を飲むのは当たり前のことだった。
 むしろ、子を産み育てる女たちは、男より酒豪が多いほどである。
 
 だが、祭りの席で武芸を競った男たちにとって、その時に飲む酒は特別なものだった。
 
 大きな酒樽がいくつも置かれ、木製の酒杯に並々と注がれたガルツが男たちに行き渡る。
 
「んじゃ、王様が作った、我らが故国とっ!
 
 今回俺たち2人の優勝とっ!
 
 美味いガルツ、そして好い女に、かんぱ…」
 
 お調子者のワイスが、乾杯の音頭を取ろうとした瞬間、シグルトの酒盃が後ろから伸びた白い手によって奪われた。
 
「…に・い・さ・ん。
 
 この時間からお酒なんて、いい身分よね。
 ずっと私1人に貴族のぼんくらどもの相手をさせて、あんまりじゃない?」
 
 年頃の娘としてはやや品の無い様にも見える格好で腰に片手を添え、シグルトと同じ色の青黒い髪の女が立っていた。
 
 女性にしてはやや太い眉が、凛々しい印象を与える。
 シグルトほど目立つ容貌ではないが、端整な顔立ちで、素朴な美しさがあった。
 しかし、その秀麗な眉は吊り上り、口元は引きつっている。
 三角に座らせた眼は、火を吹くようにシグルトを睨み据えていた。
 
 唖然とする周囲の眼差しも気にせず、娘は一気に手元のガルツを飲み干すと、たんっ、とその杯を樽の上に置く。
 そして、大股でシグルトの前に回り、腕を取って引っ張った。
 
「兄さんは、これから私と王宮の祝典に参加するはずでしょ?
 
 さぼったりしたら、また私がベーオウルフお兄様に嫌味を言われるのよ。
 それに、今回はお父様にもよろしくって頼まれてるじゃないっ!」
 
 シグルトは額に手をやり、肩をすくめる。
 
「一杯ぐらい、勝利と祝いの酒を飲みたかったんだがな。
 
 仕方ない…」
 
 シグルトは立ち上がると、立てかけてあった棍を手に取り、美しい刺繍のされた上着と上質の絹で出来た外套を纏う。
 
「すまん、ワイス。
 
 俺のお姫様が怖いんでな。
 来年はもう少し早く始めてくれよ。
 こういう飲み逸れはつらい。
 
 どうせ、俺が祝典から戻ってきても、ガルツは一滴も残ってないだろうし。
 まぁ、今夜は甘ったるい葡萄酒で我慢しておくよ…」
 
 何か言おうとしたワイスを、シグルトの腕を掴んだ娘が逆正三角形から、二等辺三角形に変えつつある目で睨む。
 う、と黙ったワイスに、シグルトは肩をすくめ、娘に引きずられていった。
 
「…最強の戦士も、妹には形無しだよね」
 
 エリスが残念そうに眉根を下げ、自分のガルツに口をつけた。
 
「…ルーンの三角形の目、なんでいつもの可愛いタレ目がああなるのか、俺にはわからんぜ」
 
 緊張で乾いた喉を潤すように、ガルツを飲みかけた後、ワイスは今気がついたようにはっとなる。
 そして、ばつが悪そうに小さく乾杯の音頭をとった。
 
 
「…そんなに引っ張らなくても、俺は逃げないぞ、シグルーン。
 
 それに、そこまで怒るのなら、貴族の相手などせずにお前だって平民の祭りに出ればいいじゃないか」
 
 少しあきれたようにシグルトが、娘に語りかける。
 シグルトがシグルーンと呼んだ黒髪の娘は、疲れたような顔をして自分より頭1つ以上背の高い兄を見上げた。
 
「兄さんはいいわよ、いつも勝手気ままだし。
 
 でも、今回は違うのっ!
 隣国スウェインから、私が修道院にいた頃に目をかけて下さった方がお見えになるのよ。
 出席しないとその方に会えないのよ。
 
 だから、絶対に付き合ってね、って言ったのに…」
 
 シグルーンはすねたように口を尖らせている。
 
 彼女はシグルトと同母の妹だ。
 
 普段は聡明で温厚、毅然とした娘なのだが、シグルトにだけはこうやって甘えてくる。
 昔からお兄ちゃん子で、小さい頃からいつもシグルトの後を追いかけてきた。
 
 シグルトも、シグルーンは命を懸けても守ると誓った大切な肉親である。
 
「王宮の奥に入るには、男性のエスコートがいるのよ。
 
 それを、あの陰気なベーオウルフお兄様に頼んだりしたら…
 四六時中、貴族の何たるかのお説教で終わっちゃうわ」
 
 大げさにため息を吐くシグルーン。
 
「そんなに急がなくても、スウェインの使節団は陛下の謁見を終えないと現れないはずだ。
 
 祝杯の酒を一杯飲む時間ぐらいあっただろうに…」
 
 その言葉に、シグルーンはまた目を釣りあがらせる。
 
「お酒を飲んで?
 
 あのベーオウルフお兄様が、それこそ怒るわよ…ヒュクッ」
 
 腕を組んだシグルーンは少し上気した顔で言うと、1つ可愛らしいしゃっくりをした。
 
「…それはお前だぞ、シグルーン。
 
 まったく、酒に弱いくせに…きついガルツを一気に飲んだりするからだろう。
 俺は先に行ってるから、母さんたちがいる宿に戻って水でも飲んで、少し酒精を抜いて来い。
 
 そうだな、第4鐘…祝典の中盤までに来るようにすればいい。
 王宮の噴水の前で落ち合おう。
 エスコートといっても、宮中に入るときに一緒にいればいいからな。
 
 先にベーオウルフに会ったら、適当にお前が気持ち悪くなった、とでも言っておくぞ。
 
 それでいいな?」
 
 シグルトの言葉に、シグルーンが複雑そうな顔をした。
 
「ね、兄さん。
 
 まだ、お兄様を…」
 
 シグルーンが紡ごうとした言葉を制し、シグルトが微笑む。
 
「俺もあいつも、互いが嫌いだからな。
 
 お前のようにあいつを呼んだら、きっと互いに気持ち悪くて悪酔いしたようになるさ。
 俺たちは今のままで良いんだよ。
 
 だが、もう憎むほどじゃない。
 それはたぶん、お互いに分かってる…」 
 
 優しげに微笑むシグルトに、シグルーンは小さく頷いて、じゃあ後で、と駆けて行った。
 
「…俺もアイツも、意地っ張りなのは似てるかも知れんな」
 
 シグルトは、妹の後姿を見送りながら苦笑するのだった。
 
 
 シグルトとシグルーンには、ベーオウルフという母親の違う兄がいる。
 ベーオウルフは、陰気で神経質な男であり、シグルトとシグルーンを愛人の子として嫌っていた。
 
 シグルトもその異母兄とは馬があわず、互いに仲が悪い。
 
 始めて引き合わされた時、ベーオウルフはシグルトとシグルーンを罵って乗馬用の鞭で叩き、シグルトは激昂してベーオウルフ殴り倒した。
 出会いからして最悪の形と言えたが、成長して嫌味っぽいのはあいかわらずなものの、しぶしぶ兄として振舞う異母兄である。
 
 そんなそのベーオウルフが、シグルトたち兄妹を憎んでいたのには訳があった。
 
 ベーオウルフの母親フリーデリーケは、政略結婚で嫁いだ身だった。
 その夫であり、シグルトたちの父でもあるアルフレトは、その妻を大切にしていた。
 
 しかし、フリーデリーケは猜疑心が強く我侭で、気位の高い女だった。
 夫に多くを求めながら、男爵という夫の低い身分に不満を言い、アルフレトに冷たく接したのだ。
 そして、ベーオウルフが生まれると、自分の役目は終わったとばかりにアルフレトから距離を置いた。
 
 冷め切った夫婦生活に落ち込んでいたアルフレトは、1人で森を散策中、馬の暴走で森に置き去りにされ途方に暮れていたオルトリンデ…シグルトたちの母と運命的な出会いをする。
 
 オルトリンデは建国王の弟から続く公爵家の令嬢であったが、後に家の没落によって身分を失ったところをアルフレトに助けられた。
 
 オルトリンデの両親である公爵夫妻は、事業の失敗で名誉を失い、それを嘆いて自殺してしまった。
 国では、自殺は大罪であり、死後は公式の埋葬すら許されない。
 貴族にあるまじき行いがあったとして、オルトリンデの家は建国から続く長い歴史を終え、取り潰された。
 
 オルトリンデは重罪を犯した者の子として、その全てを失ってしまった。
 
 妙齢で美しかったオルトリンデは、その身を好色な男たちに奪われようとしていたが、アルフレトが先んじて、愛人として引き取ったのだ。
 罪人の子となったオルトリンデを救うには、便宜上不名誉に扱い、愛人として囲うよりその身を救う術はなかった。
 
 だが、アルフレトは、オルトリンデに指一本触れなかった。
 美しいオルトリンデを得たと、多くの貴族がアルフレトを嫉妬して、不名誉な噂を流したが、アルフレトは不満の言葉一つ言わずにオルトリンデを庇い通した。
 
 そんな優しく誠実なアルフレトを、オルトリンデは慕い、深く愛していた。
 やがて、妻とのすれ違いから心に深い傷を負っていたアルフレトと、彼をそっと支えようとしたオルトリンデは自然と愛し合うようになり、生まれたのがシグルトとシグルーンだった。
 
 オルトリンデはかつて、王国一と謳われた絶世の美女であった。
 身分を失ったが、その血筋は王家に連なるほどである。 
 
 虚栄心の強いアルフレトの本妻フリーデリーケは、シグルトたちが生まれると劣等感と嫉妬に狂い、幼いベーオウルフに、己の心に燃える暗い憎しみを説いて育て、終には心を患って衰弱死していた。
 
〝あの愛人の子供たちに負けてはいけませんよ…〟
 
 死ぬときまで、その妄執を息子に吹き込み続けたフリーデリーケ。
 その子であるベーオウルフは、出会う前から顔も知らないシグルトたちを強く憎んでいたのだ。
 
 言葉汚く自分や家族を罵るこの異母兄を、事情を知らなかったシグルトも激しく憎んだ。
 シグルトにとって母や妹は、何より大切であり、母の名誉を汚す者は敵だったのだ。
 
 いがみ合う2人は、何度も殴り合う喧嘩をした。
 
 だが、やがて時が経って分別ある若者に成長したシグルトは、兄が何故自分たちを憎んでいたかを知り、自分から憎むことを止めた。
 ベーオウルフも自分と同じく母親を愛していたのだと、気付いたからだ。
 
 そして、聡明なベーオウルフも、〈愛人の子〉とシグルトやシグルーンを貶す事はなくなった。
 未だに互いの間にできた深い溝を埋めることはできないが、もう争うことはなかった。
 
 互いに嫌いだという感情は、まだ残っていたのだが。
 
 ベーオウルフはシグルトに匹敵する努力家であり、すでに王国の正騎士の称号を受けて、現在では帯剣を許されていた。
 シグルトの国では、帯剣は特別な資格を意味するもので、王に許された強い権力の象徴なのだ。
 そして、ベーオウルフの剣術の腕は、若い騎士の中では最強である。
 
 シグルトとベーオウルフの父アルフレトは、温厚な性格であるが、国で名の知れた武人だった。
 数年前に国王暗殺を企てた50人以上の敵から、たった1人で王を守り通した王国最強の騎士だったのだ。
 
 その武勲に、国王は大きな所領の追加と子爵の称号叙勲を与えようとしたが、アルフレトは王の与えてくれた恩賞を辞退した。
 代わりにシグルトたちの母であるオルトリンデの名誉回復を願い、正式な妻として家に迎え入れ、シグルトたちを貴族の子として認知したのだ。
 
 無理な戦いで利き腕を痛めたアルフレトは騎士を止め、後にその任を成長したベーオウルフに譲った。
 今では、愛するオルトリンデと、穏やかな隠居生活を楽しんでいる。
 
 そんなアルフレトの子であるシグルトとベーオウルフは、庶民と貴族最強の戦士として、互いに父の名声をさらに高めていた。
 古い神話や伝承を愛するアルフレトが送った異母兄弟のそれぞれ名は、サーガにある伝説の英雄たちと同じものだ。
 そして、名前に負けない武人として2人は知られるようになっていた。
 
 この仲の悪い2人とも、成長して父の苦労と誠実さを学び、互いに父を尊敬していた。
 そして、今では父の名誉のために、憎しみ合うことはきっぱりと止めたのである。
 
 複雑な経緯を経て貴族になったシグルトだが、10歳で認知されるまで、シグルトは庶民の子として育った。
 表に出られない不名誉な女の息子として、また母譲りの美貌を嫉妬され、シグルトの幼年期は礫を投げられ罵られる過酷なものであった。
 しかし、シグルトは努力して母と妹を守れるようになり、ワイスたちのような友を得た。
 さらには森で狼に襲われた時、まだ9歳だったシグルトは勇敢に戦って他の子供を助け、今では周囲に認められる男に成長していた。
 
 貴族となった今では、庶民のちょっとした英雄として名を知られつつある。
 シグルトも、貴族より庶民の生活を愛している。
 父の領土の民たちは、そんな庶民派のシグルトを慕っていた。
 
 過去を振り返って、シグルトは今の身を不思議に思う。
 
 シグルトは、名誉を重んじる男ではあるが、それは彼の名誉ではなく、常に家族や友人のためのものだった。
 貴族としての身分を煩わしくも感じていたが、同時にそれが家族のためにあるのならば、それも好いと考えるようになっていた。
 
「…しかし、年に一度の酒を飲めないのは、参るな」
 
 苦労性のシグルトは、癖になった苦笑をして肩をすくめると、王宮への道を急ぐのだった。

 
 
 外伝、いよいよ本編に突入です。
 シグルトの過去の人間関係が少し紹介です。
 
 話に出てくるガルツ、ビール純正法ができる前の、粗悪なビールをモデルにしています。
 微妙に違う詳細は、まあ、ファンタジーということで。
 
 次回はいよいよシグルトの運命の女性の登場です。
 ぼちぼち時間を見て更新していきますね~
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