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『風繰り嶺』 風纏いて疾る男

2018.05.03(22:45) 444

 ポートリオンから街道を北に、幾つかの村と町を経由して数日かかる場所。
 そこに宗教都市ペルージュがある。
 所謂教会の門前町だ。
 聖北教会の影響が強いそこは、同じような宗教都市であるラーデックとともに西方における聖北信仰の要となっていた。
 
 ペルージュは、接する近隣諸国において聖北教会に関わる法政を担当する宗教的司法機関でもある。
 宗教裁判や異端審問等を行う場所、と言ったらよいだろうか。
 
 魔女狩り等で残虐なイメージのある異端審問だが、実際には教会の勢力が及ぶ範囲で、宗教的な問題を解決するために行われるのが常だ。
 信仰とは時に人を、歯止めのない暴走へと駆り立てることがある。
 異端審問とは、宗教内における倫理や規律、慣習によって暴走を食い止め、裁くためのものなのだ。
 
 ペルージュには、西方諸国でも中心的な異端審問の拠点がある。
 常時数人の異端審問官…そのほとんどが司教クラスの権限を持つ…がおり、国家クラスの宗教問題にも対応し、貴族感や国家における宗教問題の調停や宗教的な刑の執行を行っている。
 
 シグルトは、異端審問の中で異教徒の問題を扱う部署に来ていた。
 
 ペルージュには小さな教会がたくさんあり、本部とも言える大聖堂を囲むように点在している。
 訪れた部署は、そんな教会の一つであった。
 
 ヴェルヌー伯爵の紹介だと紹介状を提示して告げると、教会側は意外にもすんなりとシグルトを迎え入れてくれた。

 伯爵家は聖北教会篤信の貴族であり、毎年多額の寄進を行っている。
 女伯からの早馬として、先日の聖遺物問題に関する書状の提出も頼まれていたため、現在のシグルトはヴェルヌー伯の使者という肩書も持っている。
 彼の貴族的作法を見た聖職者たちは、丁寧に扱うと決めたようだ。
 
「お前の言うアフマドという異教徒は、確かにこの教会の預かりとなっている。
 
 罪状は、まじないや怪しい呪術とあるが…
 昨今の魔術師の方が、よほどそれらしいことをしている。
 まったく、困ったものだ。
 
 調べたところ、この異教徒は病で苦しむ貧民を治療しただけのようだな。
 
 聖典教徒どもの医学は、我々の行う神の秘蹟とはまた違った、優れた知識と技術によるものだ。
 
 私は聖地へ巡礼した折、聖典教徒と語り合う機会を得ている。
 彼らは悪魔の使徒などではなく、ただ素晴らしい聖北の教えと出会えなかっただけの子羊なのだ。
 改心させ、聖北の教えを遍く世界に広めることこそ、我ら聖職者の役目であると思うのだが。
 
 失敬。
 件の聖典教徒のことだったな?
 
 まず罪状だが…

 一つ目は、〈腹を裂いて子供を取り上げた〉とあるが、これは母子を救うための治療法だったらしい。
 子供が逆子で、手の着けようがなかったからだそうだ。
 母親も子供も、今でも元気で夫は随分感謝していた。
 
 次の、〈頭に鑿で穴を開けた〉とあるが、それによって昏睡状態だった男が元気になった。
 妖術を使ったのだと言うが、聖典教徒の世界でも行える者は限られる高度な技術であるものの、ただの医療行為のようだ。
 
 〈腕の肉を削り取った〉ともあるが、これは患部にできた腫瘍の切除だ。
 私も、その治療法で腕を切り取られずに済んだ者を見たことがある。
 
 〈怪しげな薬草を鍋で煮詰めていた〉…薬草を大量に煎じるとき、大鍋を使うのはあたりまえのことだろう。
 
 告訴したのは、この男の活躍によって高額で薬が売れなくなったという商人だな。
 どう見ても、その商人が考えた冤罪であることは明白だ。
 彼は教会に対する虚言の罪で重い罰金刑となる。
 
 加えてこの聖典教徒は、シグヴォルフ王国の貴族からその縁の者であるという許証を与えられて所持し、通行証も正規のものだった。
 旅の目的は故郷に帰るためで、たまたま立ち寄った先で宿を貸してくれた貧民街の者たちに恩を返しただけ、というわけだ。
 罪らしい罪は無いと言っていい。
 
 教会側としては、この西方においてその身を証明してくれる保護者が現れ、一定の金を支払えばすぐにでも釈放するつもりだ。
 
 ああ、何と言うべきか…この金というやつは、異教徒を何の咎めもなく釈放することに反対する者を黙らせるためのものだな。
 〈異教徒には、すでに罰金を科した〉とでもすれば、保守派の連中の面子が保たれるというわけだ。
 その金は半分教会から免罪を与えるための寄付に、半分は聖典教徒を傷つけず保留した時の食費及び経費というわけだ。
 
 …異教の信仰を罪とするのは面白くないかね?
 建前の上でも異教徒が聖北教会の支配圏で活動するには、譲歩が必要なのだよ。
 君たち冒険者は、考え方が柔軟だと思っていたんだがね。
 
 まあ何分、問題が起こったのがこの宗教都市ペルージュの管理する教区でのことだったので、異教徒の扱いは実に繊細なのだよ。
 
 私としては、屁理屈など言わずに釈放するよう手続きを急いでいるのだが、保守派の連中が「異教徒をただ放免などとんでもない!」と意地になっているようで手がつけられない。
 即時釈放が未だできないのは、そういうわけなのだ」
 
 ジルベールというこの異端審問官は、広い肩をすくめてシグルトに説明してくれた。
 話によると、彼は異種族や異文化が関わる異端審問が専門なのだそうだ。
 触ると刺さりそうな硬い鬚と、鉄の盾を連想させる胸板。
 聖職者と言うよりは、騎士か戦士の様な風体である。
 
「他にも、やらなければならない異端審問は数多い。
 
 私としては、現在それほど険悪ではない東の事情を考えるに、彼を何事もなく釈放して故郷に帰せばよいと思っている。
 今の聖地は、聖北、聖東、穏健派が中心に聖典教徒との融和がある程度保たれているのだから、情勢を考えるに火種を作る必要はない。
 
 教区内の問題の処理で手一杯なのだから、余計な議題を増やすのは手間の無駄だ。
 まったく、保守派の石頭どものことを考えると頭が痛いのだよ。
 
 幸いこの聖典教徒のことを任されたのは私と、公正な審問をされることで知られたシェンデルフェール殿だ。
 
 異端審問官が、魔女を焼き異教徒を殺すための審問をするものばかり、というのは大きな誤解だ。
 我々は、公正に神の教えを守り、聖北の信仰を広めることこそ使命なのだよ。
 
 …釈放のための金について話さねばならなかったな?
 
 これはシェンデルフェール殿が、聖典教徒の維持は無駄として葬ろうとする保守派どもを止めるために考えた案だ。
 誰かが金を「寄進として出す」ことで、異教徒に恩赦が与えられる。「無駄ではない」ということだね。
 あの方の信仰心には、まことに頭が下がる思いだ。
 
 今、なぜ知恵があると素直に言わないか、と考えたかね?
 知恵は人を堕落させるものだ…たてまえの上ではね。
 閃きは神から与えられる〈霊感〉なのだよ。
 小賢しい悪魔の、〈悪知恵〉とは違うのだ。
 
 …そう眉をひそめるな。
 
 このまま君のような関係者が現れなければ、あの聖典教徒の身柄は保守派に渡り闇に葬られたかもしれん。
 本来、我ら聖北の徒が異教徒に慈悲を持って庇うことなど、限られた正直者が己の正義感を満足させるために行う偽善行為なのだ。
 
 彼の聖典教徒も、素直に話を聞かなかったから話がこじれたわけであるし、な。
 
 大体、保守派の司祭に向かって〈話のわからぬ愚物〉とはっきり言うのはどうかと思うぞ。
 まあ、私も内心で喝采した評価ではあったが」
 
 シグルトは疲れたような顔をすると、「釈放に必要な金は幾らなんだ?」と率直に聞いた。
 このままこの豪傑のような審問官の長話に付き合っていたなら、いつまでたっても本題に入れないと思ったからだ。
 
「ふむ。
 
 それは銀貨千枚だ。
 冒険者には高額かもしれんがね。
 
 あと、君があの聖典教徒の保護者として、後の責任を取る念書を書いてもらう。
 
 これで滞りなく釈放出来るだろう」
 
 シグルトは頷くと、ジルベールが差し出した書類にしっかりと目を通し、あやふやなところは質問する。
 法律に詳しいシグルトの質問は理路整然としていて容赦が無い。
 後で約束を反故にされないように、担当者としてジルベールのサイン入り念書まで要求し、西方でも外科的技術を用いた治療行為を行える免状を出すようにねじ込んだ。
 聖典教徒との停戦協定と宗教条約のいくつかから違反に見える部分、貴族の出した赦免状の無視と教会の規定違反を巧みに出して、所持品と通行証の返還も求める。

 得意のおしゃべりで場を濁そうとしたジルベールに

「被害者はシグヴォルフの名誉市民権と彼の祖国の高等医官の地位もあり、後援者である伯爵家がその身分を保証している。
 かつて西方で禁止されているはずの奴隷扱いをされていた上に、何の咎も無いのに異民族の異教徒というだけで再び彼の自由民を教会が害したとすれば、停戦条約の捕虜の待遇に関して重大な違反になるはずだ。彼は一度後援者による保釈金によって助け出されているのだからな。教会側の要求はそれに加えて今回の保釈金を寄付金としてよこせというから、どう見ても過払いだと思うのだが…貴方がたの顔を立ててその分の理由付けを示しているのだぞ?
 提示された保釈金がそれらをともなわないなら、違法すれすれだ。いかにも【救われる】という話だが…俺に言わせれば、こんなことを保険もせずにすれば足を【掬われる】方に見えるな。

 彼を『一刻も早く虜囚の状態から救出する』という名目あっての支払いであることを、忘れないでほしい。

 別義で当然だが所持品の返還が無ければ、それを保管する機関の略奪行為と認定される。
 それらの失態が教皇庁と彼の祖国に露見すれば、停戦条約を揺るがして現在東方に移住した貴族たちから厳しい突き上げがあるだろう」

 と、一歩も引かない口調でシグルトは切って捨てた。
 貴族や教会関係の聖職者は論法でけむに巻く者も多い。毒を込めつつ容赦なく正論で追い詰める。

 蒼白な顔でよろめくジルベールに、「釈放は一刻も早く、だ。拘束期間は正確に報告されるぞ」と止めを刺す。
 提示させた書類をしっかり吟味してサインし、銀貨を千枚取り出して渡すと、ジルベールは降参したとばかりに溜息を吐いた。
 
「…ふう、確かに千枚。
 この金の領収書と、この度の問題について始末書を作成するから、隣の控え室で待ちたまえ。
 
 例の聖典教徒は、世話をしていたクリストフという者に連れてこさせよう」
 
 シグルトは頷くと、異端審問官の執務室を後にした。
 今度は安堵したような溜息が聞こえるのだった。
 
 
 次の日の朝、浅黒い肌の老人を連れて若い僧侶がシグルトの元を訪ねてきた。
 その僧侶は、シグルトに老人の身柄を渡すと丁寧に会釈して去って行った。
 
「…久しいな、アフマド」
 
 シグルトは、ほっとしたような顔で浅黒い肌の老人に声をかけた。
 
「ふむ。
 
 いらぬ手間をかけたようだな。
 こうしてお前に再び巡り合えたことも、神の導きだろう。
 
 神は偉大なり、だ」
 
 尊大な態度で、老人…アフマドは強く頷いた。

 「聖北の地で聖典の祈りとは…あいかわらずだな」、と苦笑する。
 シグルトは、この老人が素直に感謝する姿を見たことが無かった。
 
「昨日のうちに、お前の所持品を返して貰った。
 
 新しい通行証もある。 
 異国を通過するために必要なものだから、無用とは言わないでくれ。
 
 貴方はひねくれ者だからな…」
 
 肩をすくめたシグルトに、アフマドは苦虫を噛み潰したように口端を歪める。
 
 ――聖典教徒と呼ばれる者たちがいる。
 元は聖北教会と同じ聖典を基とするが、時代の変遷で全く違う文化と教義をもって発展した東の国の人間たちだ。
 
 彼らはその信仰を広め、時を経て全く違う文化を持つ聖北教会と再会する。
 考えの違う宗教同士は、互いを正しいと主張して戦いを起こした。
 
 その戦いには、聖地を巡る対立や、教会と結託した権力者たちの思惑を内包して複雑化し、血塗られた歴史を作り上げて両者の間には埋めようのない深い溝ができていた。
 
 宗教に多く見られることがある。
 己の信じる者が最上とする場合、違う最上を否定するのだ。
 一神教の神も然り。
 元は同じ神であるのに、争う勢力同士は互いの唯一の神を否定し、戦いは泥沼に変わった。
 
 多くの血が流れてから、争っていた宗教同士は強力な指導者が和解をすることで、その関係をとりあえず友好的なものにした。
 建前の上では。
 
 未だに互いへの憎しみや偏見から、小さな紛争は絶えない。
 このアフマドという老人は、そういった戦によって虜囚となった。
 義勇兵として参加したアフマドは、軍医として従軍していたが、ある時制海権を巡る小競り合いで所属していた軍が敗北したのである。
 
 捕まったアフマドは、長い年月各地を違法な奴隷として連れまわされ、最後に遥か北の地へ送られた。
 寒冷な北方の気候と、過酷な長年の労働による過労で彼は倒れてしまう。
 
 そんなアフマドを、ある貴族が身代金を払って引き取り、人並の身分を与えてくれたのだ。
 件の貴族とは、シグルトの元婚約者ブリュンヒルデの父親である。
 アフマドの身を救うよう頼んだのは、まだ幼かったブリュンヒルデであった。
 
 恩義を感じたアフマドは、数十年をその貴族の下で過ごした。
 
 ブリュンヒルデはアフマドを師として古今の学問を学び、その知識は国でも五指に入るほどだった。
 アフマドは賢者であり、優れた医者なのだ。
 
 この時代、医術に最も長じていたのは聖典教徒である。
 脳腫瘍の手術から、心臓病の治療まで、その技術は先進的で多岐に渡っていた。
 使う道具も、最高の鉄を用いた最先端の品ばかり。
 さらには、東の華国の膨大な薬草学をも吸収し、習得した技術は西方諸国のものよりも、数世紀進んだものだ。
 
 アフマドは、聖典教徒の医者たちの中で知識も技術も、その最高峰に若くして昇りつめた。
 年齢が若過ぎてなれなかったが、後には帝王たちの御殿医になれるとも噂されていたほどである。
 
 悪漢によって両足の筋を断たれ、傷の重さから生死を彷徨ったシグルトは、アフマドの医術によって命を取り留めた。
 アフマドは、神業とも思える天才的な外科手術でシグルトの断たれた筋を繋ぎ合わせ、シグルトが今用いている両足の添え木も、この老人が考案し作ってくれたものだった。
 
「…お前のしぶとさには感心させられる。
 
 よくもあれだけの状態から、立って歩けるようになったものだな。
 常人ならば、杖を用いて歩けるかどうかなのだが。
 
 …見せてみろ」
 
 黙ってシグルトは腰かけると、足に巻いた布を解き、添え木を外す。
 
 だらりと垂れたシグルトの足を、アフマドは慎重に観察し大きく息を吐いた。
 
「…無茶をしおって。
 
 儂の作ってやった添え木もかなり傷んでいるぞ。
 ちょうど改良した添え木があるから、お前に合わせてやる。
 
 これで貸し借りは無しだ」
 
 アフマドは自分の手荷物から、シグルトが着けている添え木に紐のような物がぶら下がったものを取り出した。
 
「主要部の関節部分に馬の腱を使ったものだ。
 合成弓などで、よく使われる技術の応用だな。
 
 革を膠を使って巻き、真綿で足に負担がつかぬようにアソビを入れてある。
 
 前に使っていた添え木の傷み具合からどこに負担がかかるかは分かったから、そこも直しておいてやろう。
 格段に動きやすくなるはずだ」
 
 アフマドは、若い頃から既存の道具を嫌っていた。
 より合理的な道具を、自身で考案、改良して使っている。
 
 腰かけたままシグルトは一つ首肯して、アフマドの作業を眺めていた。
 
「…お嬢様のことは、聞かぬのだな?」
 
 シグルトの足首に合わせて添え木を削りながら、アフマドがぽつりと呟く。
 
「…聞いて変わることはあるのか?
 
 俺は、彼女を妻にできなかった。
 国を出た時、俺には彼女を守るだけの力も、養うだけの力も無くなっていた。
 
 彼女は他の男の妻になり、冒険者になった俺が此処にいる。
 一度は夢破れて放浪し、やっとすべきことを見つけて何とか進んでいるのが今の俺だ。
 
 彼女がもし望んでくれるのなら、今からでも何かで応えたいとは思うがな。
 力を尽くしたいと願う心も、まだ俺の胸の中にある。
 だが、彼女に許されない限り、開放してはならないものだとも思う。
 
 俺は自身の無力に押し潰されて、彼女の元を去ったのだからな」
 
 アフマドは驚いた顔をした。
 
「女々しいままかと思えば、すでに道は定めていたか。
 やはり、お嬢様が惚れた男だけはあるか。
 
 すべてに絶望し、生きることを捨ててしまったあの時のお前とはまるで違う。
 今のお前は、このアフマドが認めたシグルトのようだな。
 
 だが、お前は〈あの事〉を知っているのか?
 お嬢様が何故、お前と共に国を出なかったのかを」
 
 今度はシグルトが驚いた顔をした。
 
「彼女は何かが無ければ俺と国を出るつもりだったのか?
 彼女の心は領地とともにあるのだとずっと思っていた。
 それが貴族であり、彼女の素晴らしい部分であったことも知っている。
 
 最後に言葉を交わした時、彼女は俺と一緒にはなれないと言った。
 彼女には、国に残って守らねばならぬものがあると。
 それに病気がちのお父上を置いてはいけないとも。
 
 …領土について、いつも心にある夢を語ってくれた。
 
 俺はあの時、力無く絶望した抜け殻でしかなかった。
 だから、互いに違う道を行くべきと決めて、そして別れた。
 
 その事実以外に、何かあるのか?」
 
 黙して目を閉じ、何かを考えていたアフマドは、やがて決意したようにシグルトを見据える。
 
「お嬢様が言わなかったのならば、考えがあってのことだろう。
 別離するのに納得できる状況だった。それは間違いあるまい。
 
 儂の口からは話さぬ。
 
 かわりに、お前には別の真実を伝えよう。
 
 お前の異母兄はお嬢様と結婚し、亡くなられた伯爵の位と土地を継いだ。
 そうしなければお嬢様の伯爵家は守れなかったのだ。 
 
 だが、お嬢様は今でもお前を愛している。
 お前を愛する故に、お嬢様は私情を捨てたのだ。
 
 真実を知りたいならば、時が来る前に…
 一年の追放刑が終わったならば、すぐにあの国に向かえ。
 お前には、それをする資格と責務がある。
 真実は目にすれば理解できよう。
 
 時間も…限られているだろう」
 
 謎めいた言葉に、シグルトは首を傾げたが、アフマドはそれ以上何も言わなかった。
 
 
 そこは遠く離れた北方の小国シグヴォルフ。
 
 石造りの城のベランダから大地を見下ろし、女…ブリュンヒルデは物憂げな顔で溜息を漏らしていた。
 
 とても美しい女である。
 
 悪神ロキが嫉妬して盗んだという雷神の妻シフのそれのように、輝く黄金の巻毛。
 磨いたエメラルドに命を吹き込んだように神秘的な瞳は、知性と意志を宿し、煌いている。
 黒子一つ無い白い顔には、形の良い鼻梁。
 薔薇の花弁を思わせる、艶やかな紅い唇。
 
「…もう半年以上経つのね。
 
 この大地のどこに、貴方は立っているのかしら?」
 
 女は、今も愛して止まない男を想い切なげにその長い睫を伏せる。
 美しい女が物憂げにいるだけで、今は暗い空さえも彼女に合わせて曇ったように感じさせる。
 
「…シグルト…」
 
 女は、応える筈も無い、愛しい男の名を呼んだ。
 
「グウェンダが羨ましいわ。
 
 貴女は、全てを捨てて彼を追いかけることができる。
 私には、彼との思い出。
 そして、彼の残してくれた大切な宝物。
 
 でも、私には…ッ!!!」
 
 女は眩暈に襲われ、石畳に膝を突く。
 よく見れば、女の美貌は病的なまでに青白い。
 込み上がる吐き気に、ブリュンヒルデは何かを守るように己の身体をかき抱いた。
 
「…っ…!
 
 ぁっ!
 っぅぁ、はぁ…」
 
 込み上がる苦しみから、必死に何かを守ろうとする様子で、女はその手を強く握りしめた。
 そこには、黄金の小さな指輪。
 愛する男から、結婚の約束をする時に貰った彼女の宝物だ。
 
「…ぅう、はぁっ。
 
 ふ、うふふ…。
 ねぇ、シグルト。
 私、頑張っているのよ。
 
 守ると誓ったから…
 あの時、貴方と別れても守ると誓ったから…」
 
 何もない遠く離れた大地に、手を伸ばす。
 顔を蒼白にしながら、喘ぎながら。
 
「…シグルト…
 
 貴方に逢いたい…」
 
 女は痛苦を耐えながら滲んだ涙を拭こうともせず、霞む大地に向かって、愛しい男の名を呼び続ける。
 零れた涙は、その女の願い。
 しかし虚しく石畳の上で弾け、散った。
 
「また、夢でもいいの。
 
 貴方に、抱かれて眠りたい。
 シグルト…」
 
 朦朧とする意識の中で、逞しかった愛する男の腕を想い、女は静かに泣いた。


 次の日、アフマドはシグルトを伴い、その小さな教会に向かった。
 
「…具合はどうだ?
 
 窮屈な部分はまだ残っているか?」
 
 アフマドが、シグルトの足を見ながら聞く。
 
「いや、快適だ。
 
 確かに前のものより柔軟性があって、歩くときには違和感すら無い。
 これなら、普通に走ることもたやすいな」
 
 シグルトは地面を力強く蹴りながら、アフマドが調整してくれた添え木の調子を確かめた。
 
「ふん、顔も歪めずにおるお前ならば、足を裂き塩水につけても平然としているだろうな。
 
 普通は添え木との接触面が締め付けられて、耐えられん。
 万力で絞められたような圧迫感。
 
 それを涼しく〝走る〟などと言うのだ。
 鈍感だとは思っていたが、お前のそれは馬鹿げておるわ」
 
 シグルトは懐かしむような苦笑をした。
 この老人の毒舌は、かつて慣れるほどに聞いたものだった。
 
「…それで、用事とは何だ?
 
 教会に、といっても、異教の教会に祈りに行くわけではないのだろう?」
 
 ああそんなことか、とアフマドは教会付属の宿舎を指差した。
 
「昨日儂を、お前のいる宿に連れて行った若い坊主がおっただろう?
 
 クリストフというのだが、牢に拘留されておる間、世話になってな。
 お節介だが、聖北の坊主にしては勤勉で人の話を素直に聞く。
 
 施療院で薬学を学んでおるとかで、儂の国の技術を学ぼうと通って来てな。
 優秀とは言えんが、技術に偏見を持たぬから、まあ及第点といったところか」
 
 アフマドは弟子を自慢するように、上機嫌だ。
 この老人はひねくれ者だが、人にものを教えることが上手く、またそれを好む。
 厳しい言葉を使うが、教育には真摯に、智を求めるものを拒まない。
 
「貴方がそれだけ評価するなら、その僧侶は大成するかもしれないな」
 
 アフマドが手放しに誉める生徒、と言えば故郷では一人だけだった。
 聡明で美しかったその女を思い出し、シグルトは頬を緩める。
 
 アフマドが認める優秀な生徒にはシグルトも含まれていた。
 記憶力や解析力は常人より多少優れる程度だが、勤勉で何より応用力があり、知識に偏見を持たないシグルトは、アフマドを含め、彼に関わった師のすべてを感心させた。
 特にシグルトの持つ古今東西の伝承知識と、驚異的な戦術観は故郷の誰もが及ばなかった。
 
 パーティの知恵袋であるロマンは、シグルトが酒の席で語った数十の神話の異説に書物には無い口伝を見つけ、随分と興奮していたこともある。
 
 シグルトは王国最強と呼ばれた武術の師、そして精霊の物語やまじないについての師を持っていた。
 母親は戯曲や歌曲に優れ、父親は剣術と神話の知識は類希、恋人だった女は国でも有数の知識人で教養と礼法を極めていた。
 アフマドは医術と天文、暦を修めた賢者で、様々な異国の言葉を習得している。
 
 多くの人間は、シグルトの幅広い知識に触れると驚く。
 
 知識とは、持つ者に出会えなければ学べない。
 様々な知識の専門家から学ぶ機会を得たシグルトは、大変恵まれていたと言える。
 
 アフマドから見れば、自身の知識や才能に納得して向上心を失った天才よりも、常に学ぼうとする凡人の方が教え甲斐がある。
 彼に言わせると、向上心と探究心こそ、最高の才能なのだという。
 学ぶ機会を活かし知識を修めることが出来る者を、アフマドは好ましく思っていた。
 
「あ、アフマドさん」
 
 その若い僧侶は、人の好さそうな優しい笑顔でアフマドとシグルトを迎えてくれた。
 
「ぅぁ?
 
 …ぁぅえ?」
 
 奥から聞こえたくぐもった女の声に、シグルトとアフマドは顔を見合わせる。
 
 若い僧侶…クリストフは、部屋の奥に向けて喋らずに何か身振りをした。
 
「…手話か。
 
 この喋り方は、聾唖(ろうあ)のようだな」
 
 聾唖とは聴覚障害を持ち、同時に音が分からないので、上手く言葉を発音できず言葉も不自由な者のことだ。
 
「すみません、まさか本当に訪ねて下さるとは。
 
 とても光栄です。
 アフマドさん。
 
 貴方はシグルトさんでしたよね?
 何も無い狭い所ですが、どうぞお入り下さい」
 
 2人を部屋に招き入れると、クリストフは2人に椅子を勧める。
 同時にあらわれた15、6の娘がぺこりとお辞儀をした。
 瞳の大きな、素朴な印象の少女である。
 
 シグルトも軽く一礼し、そして手で何かをする。
 それを見た娘は、嬉しそうに自分も同じ動作を行う。
 
 シグルトは、「はじめまして」という所作を行ったのだ。
 
「ほほう、お前いつの間に手話を覚えた?」
 
 アフマドが興味深そうに、シグルトの所作を見る。
 
「使えるといっても、基本ぐらいだ。
 
 冒険者という職業をやっていると、離れた仲間と交信したり、言葉が話せない状況も考えておく必要があるのでな。
 仲間の一人が教えてくれたんだが、なかなか重宝する」
 
 そう言いながら娘に向けて、「手話は便利だな」と伝えて微笑むシグルトを、クリストフは尊敬の眼差しで見つめていた。
 シグルトの使う所作は分かりやすい大きなゆっくりとしたもので、内容も高度なものである。
 しかもこういう話をしたんだよ、とアフマド喋りながら、同時に娘に説明している。
 
「…助かります。
 
 彼女を置き去りにしないで済みます」
 
 クリストフは、同じく手話に切り替えて自己紹介するアフマドを指差して、「彼は怖くない。好い人だ」と説明するシグルトに頭を下げた。
 
 4人は言葉から手話に切り替え、しばらく話すことになった。
 
 
「彼女…レノールには、今日文字を教える約束をしていたのです」
 
 音の理解できない者に文字を教えるのは、困難だ。
 人は五感を使うことで理解を深め、言葉とは音と形でコミュニケーションを取るための技術である。
 だから、今日のクリストフのようにマンツーマンで教える必要があるのだろう。
 
「…なるほどな。
 
 それで、お前は頻繁に耳の治療法を訪ねたのだな?」
 
 皆の飲み物の用意をしているレノールという名の少女を、ちらりと見るとアフマドが納得したように頷いた。
 
「彼女は小さい頃に高熱を出して、それ以来耳を…
 それなのに明るくて、現状を悲観しない強い心を持っています。
 
 私は、彼女のように身体に障害を持っている人の助けになる、そんな仕事がしたいのです」
 
 アフマドと医術のことを熱心に語るクリストフ。
 シグルトは柔らかな表情で彼を眺めていた。
 
「ふむ、先天的なものでなければ、時間をかければ治る可能性もある。
 
 シグルトよ、儂はしばらくこの都市に留まって、この生徒を教えながらレノールを治療しよう。
 
 故郷を離れて数十年。
 今更帰国が数か月遅れたところで、たいして変わらんからな」
 
 皮肉屋で素直では無いが、アフマドは献身的で弱者を放っておけない義の男である。
 
「それなら、私がアフマドさんの身を保護する名目の書類を申請してみます。
 聖職の私が彼の身を保証するなら、周囲も納得するでしょうし。
 
 お恥ずかしい話ですが、アフマドさんを解放するよう尽したものの、なかなか保釈金が工面できなくて。
 私のような仕事をする者は、教会に属することで衣食住は保障されますが、建前の上で私財というものは持てない決まりなのです。
 特に私のように修行中の僧侶は。
 
 何とか銀貨八百枚ほど貯めたのですが、これは医学を教えて下さるアフマドさんに謝礼として…」
 
 するとアフマドはそんなものいらん、とレノールが用意してくれたハーブティーを啜った。
 
「お前には、牢にいる間随分世話になった。
 それに、これからしばらく厄介になるのだ。
 厚かましくはなれん。
 
 その金は、できればこのシグルトに渡してはくれぬか?
 こ奴には貸しはあったが、それにしては高い出費をさせてしまったからな」
 
 シグルトは、話を振られて苦笑した。
 
「…気にするな。
 
 貴方のおかげで、とても足が楽になった。
 俺も、厚かましくはないつもりだぞ。
 
 そうだな、その金はレノールのために使えば好い。
 君にとって、大切な娘なんだろう?」
 
 微笑まれたクリストフは、顔を真っ赤にして硬直してしまった。
 
「ふむ、色恋にとことん鈍感だったお前が、なぁ。
 
 これから大雨にならねばよいが…」
 
 しみじみと毒を吐くアフマドに、シグルトは「色恋に関してもお前の弟子に鍛えられたからな」と、少し寂しげにまた苦笑した。
 
 
 その日の午後、シグルトはクリストフと一緒にペルージュの露店を廻っていた。
 
 午前中、レノールのためにお金を使えば好い、という話になった。
 クリストフがいつも身の回りの世話くれるお礼として何か贈り物を、ということに決まる。
 
 女性に贈り物などしたことがない、というクリストフは困り果ててしまい、アフマドがレノールの耳を診療する間に2人で買い物をすることになったのだ。
 
 意外かもしれないが、シグルトはこういった買い物には慣れている。
 年の近い妹がいたし、恋人のための贈り物を何にするか悩んだこともあるからだ。
 
 ふと、金銀の細工をする露天商を見つめながら、シグルトは恋人に贈った婚約指輪のことを思い出していた。
 
 シグルトが選んだ婚約指輪は、小さな黄金の簡素な物だ。
 貴族の平均的な品からすれば随分貧相だったが、シグルトは身分を隠し平民に混じって労働し、本職の給金に得た金を加えてそれを買った。
 親の財産で買った物は、自分が用意する物にはならないと思ったからだ。
 
 黄金の指輪を買うということは、容易では無い。
 特にシグルトの国は貧しく、得られる金などたかが知れている。
 
 その指輪を用意するのに三か月。
 過酷だが地味な仕事を沢山こなして、やっと買った品だった。
 
 こんなものですまないと言ったシグルトに、どうやって買ったのか知った恋人は感涙して喜ぶと、大切にいつも身に着けていた。
 
 小さな指輪を嘲笑って、豪華な宝石のついた指輪や首飾りを見せ、その美しい恋人に心変わりを迫った貴族がいた。
 恋人は見向きもせず、シグルトの指輪を胸を張って見せつけると、こう言った。
 
〝私のこの指輪は、愛する人が私への想いを満たして送ってくれた物。
 
 見た目が豪華なだけの物と、比べられたくはないわ〟
 
 誇り高く物の本質を大切にするその恋人を、シグルトは一面で尊敬さえしていた。
 
 〈絶世〉と称される程に、彼女は美しかった。
 だが、シグルトが彼女に心惹かれたのは、その心が高潔で、その夢が素朴で愛らしかったからだ。
 
 労働する農夫の姿を立派だと称え、赤切れたその農夫の妻の手を美しいと褒める、そんな女性だった。
 貴族というより庶民派だったシグルトのことを、周囲の誰よりも理解してくれた。
 夢見がちで、思い込みが強くて…そんな彼女を、シグルトは心から愛し、離別した今でもやはり愛している。
 
 年老いて白髪になっても、暖炉の傍で孫子に囲まれながら、日々穏やかに過ごしたい…
 ささやかな未来を願って、語り合った過去の思い出。
 
(…未練だな)
 
 恋人のことを思い出す度、自分にとってどれほど大切だったかを思い知らされる。
 
 ペルージュからから見上げるようにそびえ立つ、高い嶺から吹き下ろす風。
 空の向こうにいる女を想い、シグルトは目を細めて過去を懐かしんだ。
 
 
 ペルージュは教会施設が数多く存在し、それに関わる職業の人間が在住し、巡礼にやってくる者も多い。
 必然、聖印や宗教物の小物を扱う土産屋も多く、客の要求に合わせて細工物を扱う職人も数多くいる。

 立ち寄った露店の細工師は、まだ若い男だった。
 
 昨日生まれた初めての子供のことを自慢げに話し、家庭のために頑張らねばならないと張り切る姿は微笑ましかった。
 
 クリストフのことを話すと、店主は作りかけの聖母像を模った大理石のカメオを取りだした。
 
「これなら、坊さんが娘に渡しても変じゃないだろ?
 
 周りに何か言われたら、信仰のために贈ったと答えればいい」
 
 もっと高いもののはずだが、店主は「子供が生まれたお祝いさ」と言値でカメオを売ってくれることになった。
 サービスでレノールの名前も彫ってくれるという。
 
 そわそわと、露店の近くで品物が完成するのを待つクリストフ。
 シグルトも壁に寄りかかりながら付き合うことにした。
 
「…ん?
 
 あんたらも何か必要なのかい?
 今仕事中だから、また…って、それは売る相手が決まってる奴だ。
 今包んでるところ…がぁっ!!」
 
 物凄い音がした。
 
 シグルトは不穏な空気に、さっきの露店の方に近づく。
 
 血溜まりに、露天商が倒れている。
 腹を刺されたのか、激痛に呻いてはいるが、致命傷では無い。
 
「…ぐぅ、金と商品を…
 
 あいつら、きっと『風繰り嶺』の、ならず者だ…」
 
 見れば、門番を蹴倒して都市の外に逃走する数人の男たち。
 
 昼日中、堂々と窃盗するとは誰も思わなかったのだろう。
 しかもここは庶民の住む地域で、衛兵は蹴倒されて気絶している門番一人しかいない。
 
 ペルージュに面する険しい『風繰り嶺』は天然の要害で、そちらに面した門は警備も手薄だ。
 盗賊は、だからこそこちらから脱出する道を考えたのだろう。
 
 シグルトは、おそらくこの都市の衛兵が真面目に犯人を追うことは無いと、直感的に理解した。
 
 税金など最低限しか払えないから露店を開いて、こんなところで仕事をする商人。
 被害届を出したところで、その頃には盗賊たちが証拠となる品をどこかに隠してしまうだろう。
 
 盗賊たちは、それも見越してこのような犯罪を行ったのだ。
 
「クリストフ、この人に応急処置を。
 致命傷では無いが、出血が多いと危ない。
 
 医術の心得のある貴方になら、後は任せて大丈夫だな?
 
 俺はあいつらを追いかけて品物を取り戻す」
 
 驚いて狼狽するクリストフに、こういう荒事は専門だと腰の剣を軽く叩き、シグルトは走り始めた。
 
(よし、いけるっ!)
 
 アフマドに直してもらった添え木は、調子よく足に馴染む。
 すでに随分小さくなった姿を見失わないように盗賊たちの背を睨み、シグルトは疾走した。
 
 
 霊峰『風繰り嶺』。
 
 今では盗賊の根城にもなっているこの嶺は、かつては精霊信仰があり、精霊術師たちがこの山に籠って修業をしていたこともあるという。
 しかし、聖北教会の勢力が急速に拡大し、そういった精霊術師は嶺を追われ、精霊信仰は姿を消した。
 
 荒々しく吹く山の風は、この季節のものにしては冷たい。
 
 逆巻く風の中で、薄汚れた襤褸を着た一人の老婆が立っている。
 不思議なことに、その襤褸は風になびくことがない。
 
 老婆は、先ほどからずっと切り立った崖の上にいて、遥か下を眺めていた。
 
「…ほほ、やっと来たか、あの刃金が」
 
 不気味な笑みを浮かべ、老婆は身体を揺らした。
 襤褸の被り物の下から覗いた瞳が、一瞬だけ猛禽のような黄金の輝きを宿す。
 
「…む。
 
 お前たちも、奴が見たいのかえ?」
 
 老婆は吹き抜ける風に向かって語りかけると、口端を狡猾な笑みの形に歪め、一つ頷いた。
 
「…では、行くとしようかの。
 
 〈風を纏うべき英雄〉を迎えに、な」
 
 一陣の強い風が吹く。
 そして老婆の姿は次の瞬間、忽然と消えた。
 老婆のいた場所には、銀色の美しい羽がひらひらと風に舞い、地面に落ちる前、融けるように宙に消える。
 
 何かの到来を喜んでいるのか、賑やかに風音を鳴らし、旋風がいつまでも踊っていた。


 シグルトは疾っていた。
 
 細工師を襲った盗賊たちは、度々この逃走ルートを使うのだろう。
 駆ける速度もかなり速い。
 
 だが、シグルトは足に障害があるにもかかわらず、徐々に距離を詰めていく。
 
 山岳修行者が一本歯の下駄で疾走する技術があるが、シグルトの疾走はそれの応用に近い。
 重心を前に傾け、リズムをつけて、次に足を置く場所を選びながら軽快に進む。
 
 武術に長け、肉体のコントールに優れるシグルトは、身体に負担をかけずに動くことを常に心掛けていた。
 むしろアフマドにもらった添え木についた馬の腱を利用さえして疲労を抑え、並の身体能力を凌ぐ。
 
 シグルトの育った国は標高が高い山地である。
 幼少の頃は足場の悪い山や森が遊び場で、武術の修業時代は崖を駆け登って足腰を鍛えた。
 
 意図して鍛え、要領を覚えたシグルトと盗賊では、実力に大きな開きがあったのだろう。
 四半時近い追跡で、シグルトは盗賊のすぐ背後まで迫っていた。
 
「な、何て野郎だっ!
 
 この俺たちに追いつくなんて…」
 
 急な坂道を越えると緩やかな丘陵になっていた。
 
 息を切らし、逃走していた盗賊たちは驚愕の表情でシグルトを見ている。
 ぜぇぜぇと荒い呼吸の盗賊たちに比べ、シグルトの呼吸は軽く走った程度の乱れだ。
 
「…さぁ、盗んだ物を返せ」
 
 へたり込んだ盗賊たちを見下ろし、シグルトが強い言葉を放つ。
 
「…ふん、仕方ねぇな。
 
 まあ、ここまで他の奴は追ってこれねぇだろ」
 
 盗賊たちのリーダー格らしい男が腰に下げていた剣を抜き放つと、周りの者たちもそれに従って自分の得物を構える。
 
「しつこい野郎だぜ…
 こんな場所まで追いかけてくるなんて、な。
 
 ま、足が速いのは分かったがよ。
 お前、この人数に勝つつもりか?
 
 …死ぬぜっ!」
 
 盗賊のリーダーが凄むが、シグルトは涼しい表情だ。
 すでに彼の呼吸は完全に落ち着いている。
 
「欲を出し過ぎたな。
 
 大荷物を担いで、速く走ることは出来んぞ。
 逃がすつもりも無い。
 
 俺の注意を引いて、後ろの…隠れている奴に俺を襲わせるつもりか?
 
 人数は把握しているぞ」
 
 シグルトは、奪われていた機制を取り戻すかの様に、剣を鞘払う。
 
 改心の策を見破られ、盗賊のリーダーが焦りの表情を見せる。
 
「…くそぅ、仕方ねぇ。
 
 てめぇら…囲んで殺るぞ。
 この優男野郎、ぶち倒してねぐらに帰るぜっ!」
 
 その声に呼応して、さっとシグルトを囲む盗賊たち。
 
(…この地形で、包囲とは、な)
 
 シグルトは呆れたように眉をしかめた。
 狭い足場での包囲は、よほど地形に慣れた者しかしてはならないのだ。
 むしろ挟み込むように2人で包囲し、その背後にさらに1人ずつ配置して逃げ道を塞ぐ方が合理的だ。
 1人の人間を一度に包囲するとき、5人で囲むなど、槍のように長い得物で横との距離を取れる状況で行うべきだ。
 振り回すことを主とする剣では、隣同士で邪魔になってしまう。
 足場が悪く道幅の無い坂道では、愚策となることもしばしばだ。
 
「ぬぅぅおぉりゃぁぁぁっ!!!」
 
 一人が襲い掛かってくるが、その攻撃をひらりと避けたシグルトは素早くその足を払う。
 よろめいた盗賊は勢いを落とせず反対側にいた男に突進し、互いにバランスを崩す。
 
 シグルトは刃の半ばを握り、上段に構える【王冠】の構えだ。
 そのまま前に低く踏み込んで、柄で一人の鳩尾を抉るように突き上げる。
 刃物を振るう相手に容赦はしない。今ので肋骨を砕いたので半死半生の状態だろう。
 
 交差した時首領の剣が背を掠め、じわりと痛みが走るが…シグルトは構わずに一転、鋭い呼気で筋肉を絞める。
 流れていた血が止まり、シグルトの筋肉がパンと膨らんで止めをと狙う斬撃を弾いた。【堅牢】である。
 かつて武術の基礎として学んだものを、剣術を学び直す際に思い出して再び使えるようにした武技だ。
 他の攻撃は受けるまでも無く、すべてかわす。

 剣の平でもう一人の鼻の少し上を殴打した。
 急所を殴打された賊は激痛で吹っ飛び、崖にぶら下がるように昏倒する。
 
 敵を押し遣った勢いで向きを変え、絡まってもがいている盗賊に向かう。 
 起き上がろうと焦る2人の敵を、一人は踏みつけて顎を蹴り、最後の一人は柄頭で延髄を強打して気絶させる。

 斬り殺さないのは、流した血で足を滑らせたくないから。
 野盗は捕まえずに殺すのが王道だ。
 情けをかけて反撃されるつもりもない。殴る時は殺す気でやっている。
 
(…背中の傷が、少し深いか)
 
 じくじくと痛む背の傷。
 だがその痛みをおくびにも出さず、シグルトは最後に残った盗賊の首領と対峙した。
 
 シグルトの腕にはさらに小さな裂傷。
 先程目の前の盗賊につけられたものだ。
 本来ならばもっと出血するはずの傷も、【堅牢】の発動で臼皮一枚が裂けた程度。
 
「く、糞っ!!!」
 
 盗賊は構えを低く取り、牽制するように小刻みに剣を繰り出してくる。
 シグルトは敵が一撃放つ度にそれを払い、腕を、足を剣の平で殴打して弱らせていく。
 
「ぬぅうあぁぁぁっっっ!!!」
 
 盗賊がやけになって突っ込んで来た瞬間、シグルトは交差の瞬間にその眉間を剣の鍔で殴り、気絶させていた。
 
(――…っ、はぁ。
 
 さすがに…5人相手では、厳しかったな)
 
 大きく一度息を吐き、呼吸を整えるシグルト。
 すぐに背の傷を、持っていた清潔な布で覆うと、帯を外しそれで縛って応急処置を済ませる。
 
 シグルトは、普段から常に帯を2本巻いていた。
 一本は細く、普通の帯に隠れてしまう物。
 これは戦いのさなか服が緩まないようにするためであり、あるいはこのように使うためだ。
 
 傷の手当てをしながら、シグルトはまだ油断ない様子で周囲を見回した。
 
 一人が多人数を相手にする場合、リーダー格を先に倒し、敵の戦意を挫くという戦い方がある。
 シグルトはそうせずに、首領が他の盗賊たちとほぼ同格の実力と見るや、その他から倒して追い詰める戦い方に切り替えた。
 
 実力が近しい敵の場合、無理にリーダーを倒しても、敵を激昂させて逆効果になる場合がある。
 リーダーを先に倒すのが効果的なのは、敵たちが戦術や実力でそのリーダーに依存していないと効果が無い。
 烏合の衆が相手ならば、手数を減らしたほうが良い。
 真剣勝負とは、そういった駆け引きを制し、心理戦で負けないことも必要だ。
 
 今回はシグルト単独で、仲間のバックアップは皆無。
 盗賊たちを追撃で疲労させていなければ、シグルトでも危なかっただろう。
 実際手傷も負っている。
 
 しかし、シグルトの修業時代に兄弟弟子と行った、槍を模した長い棍で殴り合う鍛練の方がよほど厳しかった。
 その訓練は痛みに慣れ、怪我をした状態でも冷静に戦うために行う。
 
 形式化した武術は大概が寸止めや防具を用いるが、それでは強い一撃を受けた後に、負傷に気を取られてたたみ掛けられてしまう。
 身体で痛みを知り、実戦の緊張感に慣れるその鍛錬は、シグルトの武術の師が元々は戦場で鍛えたことの名残である。
 
 先程背に傷を受けた時、シグルトは背筋に力を込めて受けた。
 常人ならば大怪我をしていただろうが、まんべんなく鍛えられたシグルトの強靭な筋肉は、多少の攻撃には耐えられる。
 
 野蛮とも言える戦い方であるが、実戦とは殺し合いであり、荒っぽいものなのだ。
 
 自身の手当を終えたシグルトは、気絶した盗賊たちを縛り上げていく。
 道具は盗賊たちの帯と服。
 髪の長い盗賊を選んで、その髪をひと房切ると、それを使って後ろ手に拘束した状態で盗賊たちの親指と小指も縛る。
 こうすれば力が入らず、逃げられることは無い。
 欝血しない程度にきつく、使う髪は切れないように常に数本。
 
 野盗は可能なら殺さずに捕まえたほうが見せしめになる。
 一撃一撃は殺しても仕方ない威力で放っていた。足元に血を流さない意図もある。
 
 善意で殺さなかったのではない。
 
 官憲に引き渡された後の盗賊の末路は、大概悲惨なものだ。
 犯罪者が処罰されれば、その恐怖が犯罪を抑制する。
 生きた犯罪者は、助かるために他の仲間のことやその手口を話すだろう。
 
 実際に倒すべき対象が定まれば、軍隊というものは迅速だ。
 盗賊のアジトが分かっていれば、動く兵士たちもいるはずだ。
 そのすべてがいなくなるわけではないが、少しは被害が減るかもしれない。
 
 シグルトが4人目を縛り終えた時、気配の動きに振り向くと、先ほど倒したはずの盗賊のリーダーがいない。
 
(あの殴打を受けて、動いたのか?
 
 まだ身体が痺れてそれほど動けないはずだ)
 
 倒れていた位置から逃げられるルート、隠れられる場所の予測を始める。
 
(む…北か?
 それとも、東側の崖か?
 
 どちらを探す?)
 
 シグルトが思案している時、不意に柔らかな風が吹いた。
 撫でるように暖かい、不思議な風だ。
 
「「…こっちだよ」」
 
 心に直接触れるような、不思議な風。
 シグルトは即断し、風が導く方に走った。
 
 
「な、何でっ!!!」
 
 北側に生えている枯れた木の後ろに隠れていた盗賊は、何の迷いもなく走ってくるシグルトを認めてその身をさらしてしまう。
 
「逃がしはしないっ!」
 
 鋭い声で盗賊を恫喝し、距離を詰める。
 盗賊はなおも逃げようと、シグルトに背を向けた。
 
 シュバッ!!!
 
 瞬間、不思議な突風が吹いた。
 脇腹を裂かれて盗賊は転倒し、地面に額を強打すると動かなくなった。
 
 盗賊のすぐ近くで草木を巻き上げながら、ひゅるひゅると風が渦巻いている。
 珍妙な旋風に、シグルトは首を傾げた。
 どう見ても自然の風では無い。
 
「…ほほ、恵まれた男じゃて。
 
 風の方から力を貸すとは、の」
 
 盗賊が隠れていた木の後ろから、ぬっとその老婆は現れた。
 薄汚れた襤褸を纏い、眼光だけは底知れぬ何かを秘めている。
 
「…あの時の婆さんか?」
 
‭ 国を追われ何をすべきか分からずに彷徨っていた頃、イルファタルという国で、シグルトはこの老婆に逢っている。
 老婆はシグルトの未来を予言し、西方に向かうことを促した。
 
「久しぶりじゃの、オルテンシアの末裔よ。
 
 …また逢ったの」
 
 老婆の言葉に、シグルトは頷き返した。
 
「貴女は、あの時から俺のことを知っていたようだな。
 
 俺は名乗る必要があるか?」
 
 老婆はいらぬ、と首をゆっくり横に振った。
 
「お主のことは、小さい時より知っておる。
 
 金床に登って玉鋼(ぎょくこう)の女神に祝福され、天地の霊母(あめつちのはは)に頭(こうべ)を撫でられて空に手を伸ばした、その時からの。
 生まれながらに選ばれる英雄…それを我らは、愛おしみ、あるいは憎むものじゃ」
 
 謎めいた老婆の言葉。
 
 シグルトは、生まれて這い這いが出来るようになった頃、国の伝統である儀式をさせられたことがある。
 周囲に生活用品を置き、最初に子供が手に取った物を育て方の参考にするのだ。
 手に取った物に関わる職業に就く、と信じられていたからである。
 
 だが、シグルトは品物の数合わせで置かれていた、窓際の陰にあった金床に上り、窓から天に向けて手を伸ばしたのである。
 不思議な行為に、周囲の者はこの子供が特別な人物になると語り合ったという。
 
 今の老婆の言葉は、そのことを指すのだろう。
 
「ほほ、それにお主の名前の由来も知っておる。
 
 北方一の鍛冶師に祝福された、幸運な者であることもな」
 
 シグルトは呆れたような顔になった。
 そこまで詳しく知られていると知り、怒るより感心しさえしている。
 
 シグルトの父親アルフレトは、国で最強と呼ばれた剣豪であった。
 持っていた剣は、王より賜った名剣である。
 【ティゲル(虎)】と名付けられた、美しい縞の波紋のあるその剣を打ったのは、北方でも名の知られるドワーフの鍛冶師マクラホンだ。
 
 シグルトが生まれた日、薄汚れた旅のドワーフがシグルトの生家を訪れた。
 一晩の宿を、と望んだのである。
 
 この珍客を、家中の誰もが反対する中、シグルトの母オルトリンデだけは迎え入れて持て成す様に言った。
 当時は家の主人であったオルトリンデの命で、ドワーフは食事と酒を振舞われた。
 
 シグルトを身籠っていたオルトリンデは、身重のまま食事を作り、ドワーフと話す間に産気づいてシグルトを出産した。
 駆け付けた父アルフレトは、子の出産に立ち会ったドワーフが誰なのか知って、大変驚いた。
 彼こそ、アルフレトの愛剣を打った名工マクラホンであったからだ。
 
 アルフレトは古今の英雄譚が好きで、長子にも北方の英雄の名を贈っている。
 彼は鍛冶師に関係がある名前ということで、幼小に鍛冶屋に育てられたという竜殺しの英雄シグルトの名を生まれた男の子につけたのである。
 
 アルフレトはマクラホンに礼として、国にいる間使ってもらえるようにと、小さな鍛冶場と小屋を提供した。
 そこにしばらく留まって数々の剣を打ったマクラホンは、誰にも見せなかった鍛冶場をシグルトだけには見せ、シグルトも鉄を打つい音が響く間は上機嫌で眠ったという。
 
 マクラホンは儀式で金床に乗った姿を見て、シグルトが鉄の守護者とも呼ばれる竃の女神ブリジットと女神ダナに祝福を受けたと、すぐに理解した。
 後にシグルトが槍の道を志すと、一本の見事な槍を鍛えた。
 シグルトが9歳で狼を殺した勇気と罪を覚えておけと、マクラホンは厳つい顔で微笑み、狼を模した【ヴォルフ】という青黒いその槍を残してまた旅立ったのである。
 
 マクラホンは剣しか打たない鍛冶師だったが、唯一シグルトにだけはその槍を贈っている。
 彼の打った刀剣は“獣の銘”と呼ばれ、現在でも北方の剣士たちには垂涎の品だ。
 
 シグルトの、この由縁を知る者はあまりいない。
 彼は自分から話す方ではないし、鍛冶師マクラホンは謎めいた人物で、鍛える武具が業物という以外は居場所も性格も分からないと言われているのだ。
 
「お主は、玉鋼の女神ダナ、天地の霊母イルマタルと契約した神仙、大精霊術師オルテンシアが末裔よ。
 
 出生はダナが祝福し、イルマタルが言祝いだ。
 そう、神々が英雄となることを期待したのじゃ。
 お前の魂は、磨いた鉄のように輝いておる。
 
 神と精霊に愛された、選ばれし男、というわけじゃ」
 
 老婆はゆっくりとシグルトに近づいてくる。
 
「名を残すであろう英雄のお主とともに、自らの名を歴史に刻むことこそが、お前を見染めた神々や精霊の望み。
 英雄と関わって名を高めることは、霊格を高め、より偉大な存在になれるからの。
 
 同時にお主の力強き魂を奪わんとする者もおる。
 黄昏の後にも狂って魂を刈る戦乙女や、魂を喰らう悪神、死神どもじゃ。
 
 お主が地を這う痛苦と悲しみを味わったのは、そういた悪神の一柱、悪辣なる魂喰い“貪り”に影の一部を食われた故。
 同時に、“貪り”を屠った神仙“神狩りの灰”に出会い、不老の呪いを浴びた英雄“不折の刃”に命を救われ、諭されたお主。
 なにより、全ての神々の母…あの知られざる魔の混沌、女神ダナがお前を見初めた。
  
 その英雄性を、どれだけの神や悪魔…〈超越者〉が注目しておるのか、今のお主は分かるまいの。
 
 お主の道は、茨の道よ。
 
 傲慢なる聖北は、お主を助けることはなかった。
 だが、お主を憐れみ、力を貸す神々もおる。
 
 ゆめ、忘れるな。
 
 お主は、常に精霊と古き神々に祝福され、狙われておる」
 
 言い聞かせるような言葉だった。

 ねっとりとした妄執と、渇望する悲願の成就。
 
 老婆の眼光から感じるそれらに、シグルトは冷たい汗が脇の下を伝わるのを感じていた。
 それでも取り乱しはしない。
 
 シグルトが動じない性格なのは、この精霊が言うようにとんでもない存在に関わってきたからである。
 
 建国王の母とされる神仙に志を学び、命を恐ろしい死神に狙われたり、死神すら殺す神仙に助けられた。
 シグルトが尊敬するとある英雄は、絶望し死にかけたシグルトを救い、生きる意味を教えてくれた。
 
 超常の存在らと数多く邂逅すれば、肝も太くなる。
 
「…と、まあ、脅してみれば大して動ぜぬか。
 
 重畳、重畳。
 この程度の建前…
 有頂天になる馬鹿や、言葉の重みに狂う弱者など、このワシが認める筈もない。
 
 その泰然こそ、そしてあの若造らの〈新しさ〉も。
 お主らは、やはり面白い」
 
 くく、と老婆は笑い、やがてシグルトの目の前に立った。
 
「ワシはポダルゲ。
 神話に詳しきお主ならば、何者か分かろうな?
 
 今日は、再会と冒険者になったお主を祝い、贈り物をしよう」
 
 ポダルゲ、と名乗った老婆は、すっとしわがれた手でシグルトを指差した。
 
「旋風の娘が、お主を気に入ったようじゃ。
 
 精霊の方から力を与えて貰えるお主は、果報者よ」
 
 シグルトの周囲を、先ほどと同じ柔らかな風が包んでいく。
 
「風を纏い、戦う憑精の術。
 【飄纏う勇姿(つむじまとうゆうし)】と呼ばれる精霊降ろしよ。
 
 先程、そこな賊の居場所を教え、倒した旋風の娘。
 随分とお主を気に入っておるようじゃ」
 
 ポダルゲの声を肯定するかのように、風はシグルトの周囲を強く吹いた。
 
「その娘は名無しじゃ。
 
 名の無い精霊は、主と決めた者から名付けられることを好む。
 助けられたのじゃから、その礼と思って、名を考えるのだ」
 
 意地悪そうな笑みを浮かべたポダルゲ。
 急かす様に、旋風が舞う。
 
「…状況が理解できないが、とにかくこの恩人に名を贈れば良いんだな?」
 
 シグルトは手をかざし、風に触れるような仕種をした。
 
 シグルトに、精霊のことを教えてくれた老婆がいた。
 老婆は、シグルトに精霊術師の素質があると言っている。
 
 シグルトには精霊を見ることは出来なかったが、その息吹や存在を感じ取る能力があった。
 精霊たちはポダルゲの言うように、多くがシグルトに対して好意的だった。
 
 特に風の精霊は、シグルトにとって親しく感じられる精霊である。
 
 北方の冷たい風の精霊も、シグルトの周囲を吹く時は優しかった。
 傷つき彷徨って西方に流れて来た時、支えてくれた微風があった。
 アレトゥーザを訪れた時、南洋の海風はいつも歓迎してくれた。
 
 シグルトは自身に精霊術師の資質があることを、あまり言わず、また表に出すこともなかった。
 彼の故国は厳しい聖北教会の教えが浸透する国で、精霊信仰は教会によって禁じられていたからだ。
 自身の才能を開花させることなく、シグルトはずっとその力を隠してきた。
 
 だが、シグルトはいつでも精霊の存在を疑わず、そして受け入れていた。
 見えず、言葉が交わせずとも、そこにあるものを信じ受け入れられるシグルト。
 そんな彼に、精霊たちはいつも優しかったのだ。
 
「俺には精霊の姿を見る力は無い。
 だが、お前の導きは感じていた。
 
 先程は助かった。
 とても感謝している。
 
 俺はあまりこういうことは得意では無いんだが…
 恩人が望むならば、考えてみよう。
 
 そう…俺には見えない娘だから、〈トリアムール〉ではどうだ?
 
 偉大なる獅子王に仕えたロンファールには、妖精の恋人がいた。
 彼女はとても美しく、賢く、ロンファールにしか見えなかった。
 
 ロンファールの栄光は、この見えない恋人と共にあったという。
 
 お前が美しく、そして偉大な風であるように。
 
 〈トリアムール〉の名を贈ろう」
 
 旋風は喜びを現す様に、空に向かって吹き昇った。
 そして寄り添うように、シグルトを優しく風が取り巻く。
 
「ほっほ。
 
 精霊が契約で求める名に、〈トリアムール〉…〈愛を全うする〉とは、なぁ。
 まるで求婚のように、甘い囁きじゃの。
 
 旋風の娘は、すっかり虜になってしまったぞ」
 
 シグルトは、分からないという風に首を傾げた。
 
「…契約?
 
 名を贈れと言ったから、思いついたものを言っただけだが?」
 
 ポダルゲは、肩を震わせて噴き出した。
 
「精霊が名をくれ、というのは、親や相方になってくれという意味なのじゃ。
 
 それは、その精霊を名で支配する力を得る、ということ。
 つまりは、契約が成立したということじゃ。
 
 お主の贈った名を受け取ったその精霊は、偉大なる西風の娘。
 纏うことを許されるお主は、間違いなく勇者よのう」
 
 貴方の側を離れないわ、という風に旋風がシグルトに纏わりついて、その髪を撫でていた。
 
 困ったように、シグルトは風で乱れた髪を直しながら溜息を吐いた。
 
「…ポダルゲ、か。
 
 西風ゼピュロスの妻で、ハルピュイアイ(ハルピュイアの複数形)三姉妹、あるいは四姉妹の一人と聞いている。
 今伝わっている神話ではハルピュイアが醜い魔物にされてしまっているが、本来ハルピュイアは有翼の風の神かその眷属だ。
 
 貴女はつまり、その風の神たるポダルゲということだな?」
 
 ほほほ、と笑いながら、老婆は頷く。
 
「貴女がいるなら、このあたりの様子も理解できる。
 
 花一輪、咲いていないわけだ」
 
 散々笑われたシグルトは、ここで反撃に出た。
 ポダルゲは、不機嫌そうな顔になり、そっぽを向く。
 
 ポダルゲの夫、西風ゼピュロス、あるいはゼファーと呼ばれた風神は好色で有名である。
 その愛妾の一人には花の女神であるフローラもいて、ポダルゲとは仲が悪い、というわけだ。
 
 伝説では、ハルピュイアは花一つ咲かない毒の沼地に出現するとある。
 あるいは荒れ地や岩場の荒々しい風を象徴するのが、彼女たちだ。
 
 シグルトの聞いた話では、ポダルゲが植物の女神の筆頭のフローラを嫌ってのことだという。
 
「ふん、罰当たりな奴じゃ。
 
 神との邂逅に物怖じもせず、さっそくにも笑われたことの仕返しをするなど…
 儂の知る神にならば、殺されておるぞ」
 
 たしなめるポダルゲに、気をつけよう、とシグルトは苦笑して返した。
 
「しかし、〈ポダルゲ(足の速い女)〉という名に恥じない移動力だな。
 
 ここから貴方と逢ったイルファタルまで、数か月かかる距離だ。
 風の精霊術には、そんな術もあるのか?」
 
 シグルトの質問に、ポダルゲは頷く。
 
「知らぬだけで、すべての者は大気に触れておる。
 風とはその大気の流れじゃ。
 
 なれば、風を掌握した者は誰よりも早く、誰よりも見事に動ける。
 武芸の達人ともなれば、最後に行き着くのは、武具を振う時に風の抵抗をいかに少なくするかを考えよう。
 
 あるいは空を飛ぶ術。
 竜巻はかつて神々の乗り物であった。
 
 お主の纏うべき旋風の娘も、お主の不自由な足や身体を支えてくれるじゃろう」
 
 ポダルゲの言葉に呼応するかのように、シグルトの周囲の風がふわりと動いた。
 

「…そろそろ俺はペルージュに戻る。
 
 旅の道具もすべて置いてきてしまったからな。
 血は止まったようだが、しっかり傷の手当てもしたいし、転がっている盗賊どものことも官憲に知らせる必要があるな。
 
 トリアムール、本当に俺についてくる気か?」
 
 シグルトが風に向けて問うと、その旋風はシグルトの周囲をくるくると回った。
 今更何を、と怒っている様子である。
 
「往生際の悪い奴じゃ。
 
 風の目からは、何処におっても逃れられぬと知れ」
 
 ポダルゲの言葉に、シグルトは苦笑して頷いた。
 
「ならば、よろしく頼むとしよう。
 
 これから力を借りるぞ、トリアムール」
 
 旋風トリアムールは、まかせて頂戴、とばかりに強く吹いた。
 
「ではな、ポダルゲ。
 
 といっても、風が吹く処、貴女はどこかで見ているのだろうが」
 
 ポダルゲは、ただ皺だらけの顔を少しほころばせて、風に吹かれていた。
 
 シグルトは彼女を一瞥すると、ペルージュへ続く坂道を下り始める。
 去って行くシグルトの背中を見つめ、ポダルゲはしわがれた声でぼそりと呟く。
 
「…ワシの娘を、よろしくな…」
 
 その言葉はすぐに空に融け、後には荒々しい風だけが吹いていた。
 
 
 ペルージュに戻ったシグルトは、取り戻した装飾品を細工師に返し、役人に盗賊たちがどこで縛られているかを伝えた。
 役人たちは、門番を害されたことを重く見たのか迅速に動いてくれ、盗賊たちはすぐに捕縛される。
 
 シグルトは背の傷をアフマドに診てもらい、数日をクリストフの教会で過ごした。
 背の傷には悪い風が傷から入らないように、近くの炭焼きからもらった木タールを使う。北方では代表的な治療法で、木タールは「体の真ん中を真っ二つに切られた傷でさえ癒やす」と言われていた。
 木タールには高い抗菌作用があり、現代では発がん物質が含まれるなどと言われるが…アルコールのようにすぐ揮発しないため薬草などに混ぜた場合は傷薬として重宝されていた。
 シグルトに塗られたのは、アフマドと一緒にシグルトが開発した薬草入りの希釈木タールで、切り傷にはすこぶるよく効く。

 治療の間にペルージュの役人から盗賊を捕まえた報酬として、銀貨三百枚を貰う。
 
 一方、クリストフは聖母のカメオをレノールに贈ることができ、レノールはとても感激したそうだ。
 アフマドの見立てだとレノールの耳は、彼の考案する治療法ならば完全に治るまではいかないものの、難聴程度にまでは回復できるだろうとのことで、補聴器を付ければ人並の聴覚が得られるかもしれないとのことである。
 
 シグルトは背中の傷が塞がると安心したように、アフマドのその後をクリストフに任せて旅立つことにした。
 
「またペルージュに来ることがあったら、寄ろう。
 
 元気でな、アフマド」
 
 不精髭の生えた顎を撫でながら、お前もな、とアフマドが薄く笑う。
 
「いつでも此処に寄ってください」
 
 クリストフの言葉に頷き、シグルトは一緒に見送ってくれるレノールを見た。
 彼女の胸元には、真新しい聖母のカメオが輝いている。
 
 シグルトは、レノールに「治療、頑張れ」と手話で伝えると、ペルージュを後にする。
 彼に寄り添う旋風トリアムールが、柔らかな微風を起こして街道の草木を優しく撫でて行った。 



 旧リプレイの『風纏いて疾る男』を一話にまとめての再録、加筆修正です。
 『風繰り嶺』のリプレイが主となりますが、シグルトが精霊術師としての一歩を踏み出すということで、長いエピソードになっています。大量の伏線が出てきてますね。」

 アフマドに関してはシグルトの医術の師であり、聖典教徒(ムスリムがモデル)ということでっそれっぽい表現ができてればいいのですが。
 彼のモデルは昔ケビン・コスナーが主演をやっていた映画『ロビン・フッド』に出てくるアフマドです。
 中世(特に十字軍の頃)ムスリムの医術は凄いもので、実際に腫瘍の切除とか脳疾患の治療をやっていたようですね。戦争では打撲で脳出血する人多かったでしょうし。
 木タールですが、昔はタールを治療に使ったのは本当です。発がん物質が含まれるとも言われますが、木の種類によってはお酒やお菓子の添加剤として使われていて、高い殺菌作用から使い方次第では消毒になるんですね。また、できる過程でとれる木酢液は虫よけにも使えますし、そこから中執したものが木精つまりメチルアルコールだったりします。
 まぁ、毒素もありそうなものですが、薬なんて過剰摂取すれば大概は毒ですし、最近はパンの茶色部分だって発がん物質だって騒ぐ人がいるわけですから、薬として使えるのはありかなと。
 まぁ、水の精霊術の解毒効果とか、これよりもはるかにチートなんですがね。フグ毒とか解毒薬の無い毒は世界にあふれています。

 リプレイはMartさんの『風繰り嶺』を題材にしましたが、当時このストーリーを書くにあたり、悩みっぱなしでした。
 
 この話を書くことを企画した頃、Martさんが『宗教都市ペルージュ』に『風繰り嶺』を取り込むということで『風繰り嶺』は一時公開中止になっていたんです。
 そこで、当初は【気精召喚】にするつもりだったスキルを取りやめ、風鎧の【飄纏う勇姿】というスキルを作りました。
 そのまま、『風繰り嶺』のリプレイは止めてオリジナルストーリーだけで行こうと考えていたんです。
 でも、また『風繰り嶺』が公開されたので、じゃあ、と今回のような話になりました。

 盗賊との戦闘は、首領に攻撃をもらっていくらか体力が減ったのですが、手元に来た【堅牢】を発動して、渾身の一撃でがつがつ雑魚を減らし、ほとんど雑魚の攻撃は回避、首領にもう一発攻撃を貰ったのですが、防御力が残っているうちに攻撃で削り切って敵を全滅させました。
 体力の残りは6割ぐらい。レベル2のソロにしてはいい結果ですよね。
 首領は途中から【道化の嘲笑】使いまくってましたが、対象を渾身の一撃でぶった切りましたとも。
 防御バフは偉大ですね。
 
 【飄纏う勇姿】は、『風繰り嶺』の【気精召喚】と大変よく似ていますが、より戦士向きにカスタムされたスキルです。
 イメージでは【気精召喚】がエアリアルを召喚して、彼女が独立して敵を攻撃するようなイメージで、【飄纏う勇姿】は精霊が変化した旋風を纏い、術者を中心に風の攻撃が発動する感じです。
 行動力アップがあるので、勢いに乗っているような感じがあります。

 ポダルゲに関しては、それなりに伝説を調べて、それを反映させた内容にしてあります。
 同時に、Martさんの考えていた設定と食い違うところも多いかと。
 でも、まあ、リプレイの世界に合せたということでお許し下さい。
 
 それからトリアムールですが、彼女はたくさんいるポダルゲとゼファーの娘ということで、奔放な西風と、嵐のポダルゲの娘ということで、旋風の精霊ということにしました。
 そのうち彼女の姿や性格がどんな感じかも書きたいなぁと思っています。

 今回のクリストフとレノールの物語は、最初『風繰り嶺』を私がプレイした時、僧侶のプレゼントの話はこんなかな?と思ったものをベースにしています。
 実は、お蔵入りになったという『宗教都市ペルージュ』の方の話だと、年配の司教がスケベ心で、愛人契約のために用意したプレゼントを取り戻す話だったので、それも微笑ましいと思っていたのですが。
 シグルトらしいストーリーで、ということで、こんな内容にしました。
 皆さんのイメージではどんな感じでしたか?


◆アフマド救出(-1000SP)
◆『風繰り嶺』Martさん(報酬+300SP)
 シグルト、オリジナルスキル【飄纏う勇姿】習得(アフマド救ったボーナスということで)
 
 シグルトの所持金1300SP。


〈著作情報〉2018年04月03日現在

 カードワースはgroupAskに著作権があり、カードワースの管理、バージョンアップ、オフィシャルな情報等はgroupAsk official fansiteにて、カードワース愛護協会の皆さんがなさっています。

 このリプレイは各シナリオをプレイした上で、その結果を小説風リプレイとしてY2つが書いたものです。
 書かれた記事、書かれる記事は、特定のシナリオの名前が出たときは、そのシナリオの著作権はすべてそのシナリオの作者さんにあります。

 リプレイ環境であるCardWirthPy Rebootは2018年2月1日リリースされたCardWirthPy 2.3 - CWXEditor同梱版に拙作のカードワースダッシュStandard Editionを使ったスキンを作成してプレイしているものです。
 CardWirthPy Rebootは同名の開発サイト
 ( https://bitbucket.org/k4nagatsuki/cardwirthpy-reboot/wiki/Home )で配布されています。
 カードワースダッシュStandard Editionはこのブログのリンクから行ける、Y字の交差路別院にて配布しています。
 エンジンと付属物の著作権・開発状況・その他の情報は各配布元を御参照ください。

 【CW:リプレイ】、【CW:リプレイ、R】、【CW:リプレイ2】、【CWPyDS:リプレイ】等で書かれた記事、書かれる記事は、特定のシナリオの名前が出たときは、そのシナリオの著作権はすべてそのシナリオの作者さんにあります。
 また私がお預かりしているMartさんの“風を駆る者たち”リプレイの記事を参考にした内容は、それぞれのシナリオそのものの著作権はそれそれの作者さんにあり、参照記事はMartさんに著作権があります。
 御了承下さい。

 リプレイ中に使われる内容には、各シナリオで手に入れたスキルやアイテム、各シナリオに関連した情報等が扱われることがあります。
 それらの著作権は、それぞれのシナリオの作者さんにあります。
 またカード絵等の素材に関しては、シナリオ付属の著作情報等を参考にして下さい。

 『風繰り嶺』はMartさんのシナリオです。現時点でVectorにて配布されています。
 シナリオの著作権は、Martさんにあります。
 このリプレイの時のバージョンはVer.1.05です。

 『宗教都市ペルージュ』はMartさんのシナリオです。作成途中で公開されませんでしたが、その内容は同じ作者様のシナリオ『銀斧のジハード』や『風繰り嶺』に残っています。プレイヤーが内容を知っているのは、作成途中のシナリオを見せてもらったことがあるからです。シナリオの著作権は、Martさんにあります。

 『風鎧う刃金の技』はY2つのシナリオです。
 このシナリオの著作権はY2つにあります。
  このリプレイの時のバージョンはVer0.66´です。
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