Y字の交差路

 ここはY2つめがノリで作ったブログです。  カードワースを中心に、私が思ったことや考えたことを徒然なるままに書きたいと思います。

『ざわめく風たち』

 “風を駆る者たち”のニコロを『ソレント渓谷』送り出したあと、『悠久の風亭』で“風を纏う者”と“風を駆る者たち”は揃って飲むことになった。
 
 ユーグも訓練中ということでいなかった。
 残ったメンバーは初めて会うものたちもいたためか、最初はぎこちなかったが趣味の合うもの話の合うもので集まり始めた。
 
 スピッキオとレイモンは話し始めてから意気投合し、往年の旧友のように親しく話していた。
 実際に修道院で聖海の知識と向き合って修行してきたスピッキオの言葉には、混じり気のない確かな歴史と純粋さがある。
 そして、レイモンが信仰のあり方を模索するように、スピッキオも探求者であった。
 
 スピッキオが信仰の研鑽のために巡礼したという聖北と聖海の聖地や霊蹟。
 邂逅した素晴らしい聖職者たちの話。
 歴史の真実に埋もれた聖者の事実と、その上でさらに素晴らしかった教会の歴史。
 
 スピッキオの話はレイモンの心に燻っていた教会への疑念を、新しい方向に目を向ける意欲に変える。
 そして、レイモンがまだ知らない東の聖地の話や、列聖されないながらその行いにスピッキオが感銘を受けたという高僧の話を聞くと、湧き起こる感激が押さえられなくなる。
 その感動こそ、レイモンが間違いなく宗教を志す者である証であった。
 
「…素晴らしい。
 
 聖海にはそのような歴史があったのですか。
 無理にでも貴方を訪ね、お話を請うべきでした。
 
 早くそのお言葉聞けなかったことが悔やまれます」
 
 レイモンは少し興奮したように言う。
 
「迷うのも主の思し召しですぞ、レイモン殿。
 
 人は罪を悔い、迷いの荒波を乗り越えて真実を得るのじゃ。
 わしらがここで話しているのも主の御業。
 
 やっと語る幸福に出会えたからこそ、わしらには《感動》という恩寵が得られるのです。
 
 奇跡を見つけ、その幸せを分かち合う喜びは、信仰にあって得られる宝でありましょう」
 
 互いに盛り上がるスピッキオとレイモンの横で、オーベはやや憮然とした顔で酒を飲んでいた。
 
「わしにはこいつらの信仰とやらはわからんわい」
 
 その横でレベッカが頷きながら、蜂蜜酒をやっている。
 
 同じ酒を飲みながら、つまらなそうに黙っているのはガリーナである。
 交渉ごとなど興味は無いが、貴重な魚人の辞書が何時の間にか交換されてしまったことに少し腹を立てていた。
 だが、いつもは小うるさいユーグがいない状態である。
 八つ当たりする対象もなく、またつまらない。
 
 すると、白い肌の華奢な少年がガリーナに近づいて来た。
 ロマンである。
 
 その秀麗さが際立って感じる美少年だが、ガリーナが在学中にこの少年の噂はあちこちで耳にしていた。
 もっとも、ガリーナにとって容貌や人の噂など路傍の石と大して変わらない。
 
「…何か私に用?」
 
 少し不機嫌そうにガリーナは言った。
 彼女は他人に干渉されることは基本的に嫌いである。
 興味のあることについては別なのだが。
 
「…はじめまして」
 
 それだけ言うとロマンはその近くの席に座って、暖めた果汁に蜂蜜を溶いた飲み物を啜りながら、なにやら羊皮紙に書き込み始めた。
 単に静かな席に着きたかっただけらしい。
 
 ちらりとガリーナがロマンの方を見ると、彼が書いているのは呪文書の写本のようである。
 
 内容は【魔導の昇華】。
 偉大なる魔術師の王イグナトゥスが残した非常に高等な魔術だ。
 
 ガリーナは目を見張った。
 なぜなら、写本なのに横に原典が無いのだ。
 つまり、原典はこの少年の頭の中にあるということ。
 
 それに見れば、正しい呪文の横に几帳面な注意書きがある。
 呪文の欠点や、改良すべきところ、制御術式の留意点の詳細化など、実に細かい。
 
 ガリーナが見てきた他の魔術書より興味深い記載もあった。
 
「…どうしたのお姉さん?」
 
 じっと横から眺めていたガリーナに、ロマンが首をかしげた。
 
「…たいしたものね。
 
 それってイグナトゥスの残した魔力貯蓄の呪文じゃない。
 結構高等な魔術なのに、全部憶えているの?」
 
 ガリーナが聞くとロマンは、はぁ、とため息をついた。
 
「一応、同格の関連魔術と一緒に手が届く範囲で読んだものは全部ね。
 といっても、僕の魔術回路の構成力と術の制御力では数回使うのが精一杯で、まだ《魔術回路の形成》はしてないよ」
 
 《魔術回路の形成》とは、憶えた呪文を魔力を込めて術者が準備装填し、いつでも使えるようにすることである。
 その際、単純な言葉だけではなく、文字を使った触媒…巻物(スクロール)や呪文書、魔導書の写しを作成し、それを使って魔術をより確実な形にする方法は、この世界の魔術師がよく使う方法である。
 
 魔術師たちはどんなに沢山の呪文を知っていても、それを同時にすべて使いこなせるかというとそうではない。
 前もって用意した呪文の触媒を元に《魔術回路(マギックサーキット)》と呼ばれるものを体内に形成し、そこに溜め込んだ魔力を用いて唱えた呪文を形にする。
 
 より沢山の《魔術回路》を形成できるのが優れた魔術師の条件であるいのだが、《魔術回路》は神経や組織に形成されるので、他の肉体的な技能や能力を圧迫する。
 ゆえに魔術師は剣術や盗賊術といった技術を使うことは難しいのである。
 
「イグナトゥスか…
 
 その呪文、確かあの〝隕石落し〟すら可能にする、召喚魔術の奥義にも使えるのよね?」
 
 古今最強にして最大級の禁呪とされる《隕石落し》。
 空の彼方や異空間から隕石という星の欠片を召喚し落とすという、とてつもない大魔術である。
 ガリーナだからこそ簡単に口に出来るが、頭の固い魔術師は存在そのものを忌避するのが普通である。
 ガリーナの言う召喚術の奥義とは、イグナトゥスがその深遠の奥義に至って、生涯使わなかったという大禁呪のことだ。
 
「伝説の四大禁呪の1つだよね?
 
 この上ない天変地異を起こすという【天地鳴動】。
 最も巨大な星を落とす隕石落しの至高【降焔招星】。
 1つの国さえ永久凍土に変えるという【極冷氷波】。
 
 件のイグナトゥスが使った【蹂躙の災禍】は彼のいた時代まで三大禁呪と呼ばれていたそれらをヒントにイグナトゥスが編み出した5つの災害を操る究極の召喚術。
 
 まあ、僕が今書いてる魔術があるということは、暗にそのとんでもなく眉唾な呪文の存在を肯定してることになるんだけどね」
 
 太古の魔術師の王イグナトゥスは、現代の魔術師の多くに影響を与えた大魔術師である。
 彼が得意としたのは膨大な魔力を用いた大魔術。
 ほとんどが失われているが、断片的な情報では、彼の生み出した呪文は驚異的なものばかりである。
 
「惜しむらくは、この魔術が現代のほとんどの呪文の制御式に使えないことだよ。
 
 魔力の蓄積と応用は、ジャンルとしてはとても興味深いし、研究分野としてまだまだ未開拓なのに…
 
 皆、この呪文の応用式の作成を敬遠するんだよね。
 完成させたら、魔術制御のやり方が根本から変わるはずなんだけど」
 
 話してみて、ガリーナはあらためてロマンの非凡さを確認することになった。
 子供っぽい性格の中に、深遠の知識を秘めている。
 特に驚異的なのは知識の豊富さと考え方の斬新さである。
 
 ガリーナの在籍していた大学の講師たちよりよほど面白い話をする。
 多少ひねくれた話し方ではあるが、押し付けがましいことは言わず、事実を淡々と話す様子は小気味が好い。
 
 知的好奇心を刺激されたガリーナは、この色白の少年に大学在籍時代にはまったく受け入れられなかった持論を披露し、ロマンはそれを興奮した感じで支持してくれた。
 
「なるほど、南方呪術の応用か。
 
 例えば断片的にその形跡が残ってる失われた古代の魔術では、ボルフォリの活力付与術【太陽の息吹】やレメゲイラの呪殺術【逆襲の思念】も南方呪術から派生したものだよね。
 アレトゥーザ近海に多いイシス系やヘルメス系の魔術も、南方呪術の影響を感じさせるし。
 そういえば、魔女の女神アラディアやダイアナを信奉する魔女のまじないにも、南方のエネルギッシュな思想は影響していると思う。
 
 目の付け所は素晴らしいよ。
 でも、大学の連中は敬遠しそうだね、異国の魔術。
 歴史や型にばかり囚われるから、先人の技術を越えられないんだ。
 
 ガリーナさんみたいに幅広くて斬新な考えを受け入れられないのは、狭量で暗愚だよ。
 
 そういえば、南方の“暗き空”と呼ばれた名無しの魔術師が、雷雲を召喚する魔術を作ってたよね。
 【雷雲の招き】…実力次第で巨人をも黒焦げにするすごい術だったはずだけど。
 
 南方呪術系の魔術は召喚魔法が多くて、研究分野として興味深いよ」
 
 他人が聞けばわけのわからない話をする少年であるが、ガリーナにとっては今までに出会えなかった相手であった。
 
 この少年が天才と呼ばれる陰でかなり勉強していることを、同じように勤勉なガリーナはすぐに感じ取ることが出来た。
 ガリーナにとって《天才》という言葉は陳腐な意味に感じられていたが、ロマンのような人物を天才と評するならば好い意味にも使えそうにさえ思える。
 
 それに女性の地位の向上について、ガリーナに近しい考えをロマンはもっていた。
 またロマンは、肌の白い西方系の人間が肌の黒い南方系の人間に対して示すことがある差別的、警戒的なものを感じさせない。
 話によると、ロマンもまた子供ということで、かなり不当な差別を経験しているという話だった。
 
 彼の話では、冒険者になったのは自分を正当に評価してくれると感じさせたシグルトに出会ったのがきっかけらしい。
 シグルトの側にいれば大学のような派閥や取り巻きの嫌がらせややっかみを気にせず自分の知識を広げられる。
 それに冒険者という職業は、自由なスタイルが見聞を広げるのに適し、幅広い行動から得られる経験が期待できそうで魅力的に感じたのだそうだ。
 
 その上、この少年には傲慢さも卑屈さも無い。
 ガリーナの語ったことで考えが違う部分は、彼女が納得する形できちんと論述してみせるし、自分が誤りだった部分は素直に認め感嘆する。
 気難しい魔術師にあって、知識に謙虚であれることも優れた資質である。
 
 意気投合したからといって、即日仲良しなれるほどガリーナはお人好しではない。
 しかし彼女が知識と意見を純粋に語り合えると認めるには、ロマンは十分な相手であった。
 
 渇いた喉を酒で潤しながら、ガリーナはこの少年と考えや質問をぶつけ合い、時間を忘れて話し込んだ。
 
 そこから少し離れたところで、エイリィとラムーナは賑やかに話し込んでいた。
 片や歌い手のエイリィ、片や踊り子のラムーナ。
 音楽と舞踊は密接な関係があり、2人は歳の近い若い娘である。
 
 最初ラムーナの方ががにこやかに微笑んで、エイリィに話しかけてきた。
 ラムーナは、相手が不快なことはしない気配りと持ち前の陽気さでエイリィと話し、エイリィも今までなかった同世代の少女との会話にだんだん引き込まれていった。
 やがて2人は互いに芽生えた親近感を友情に変え、お友達になろうと約束した。
 
 冒険者という職業は若い娘には過酷である。
 
 風呂や手洗いもパーティを組めば同じように行う必要がある。
 モンスターや荒くれ者と対峙し、時に倒す気概がなければ命を落とす。
 
 思想の自由な職業だといっても、それを尊重してくれるものが仲間になるとは限らない。
 〝女だてらに…〟という不当な差別は、男尊女卑の国を旅すれば痛いほど感じるし、保守的な女性たちの社会からは時に異物のように白眼視される。
 だから、年若いエイリィやラムーナのような世代の娘は、よほどの理由が無い限りは冒険者になったりしない。
 同世代の同姓の友人を作るなど、困難を極めるのだ。
 
 だからこそ、2人は互いの出会いを運命的に感じていた。
 それに2人とも気質が温和で柔らかなところなどよく似ている。
 
 久しぶりに話す少女としてのお化粧や、服や、装飾品の話題。
 そして互いに通じる芸術面の話題。
 
 姦しいとはこれを言うのか、エイリィとラムーナは若々しい歓声を上げて会話に熱中した。
 
 その後互いの技術を見たいという段階になって、実際に互いの持つものを披露することになった。
 
 エイリィが歌い、ラムーナがそれにあわせてダンスを踊り、『悠久の風亭』に来ていた客たちは大いに盛り上がった。
 普段ならこういう賑やかなのは苦手なガリーナやロマンも自分たちの会話に熱中していた。
 レイモンは信仰の何たるかを熱心にスピッキオと語り合い、スピッキオの老熟した答えに頷いていた。
 オーベもエイリィの歳相応の姿に厳つい頬を少し緩めていたし、レベッカは女将の新料理に舌鼓を打っていた。
 
 1人シグルトはカウンターに腰掛けて酒をちびりちびりと飲みながら、生き生きと交流する仲間たちを微笑ましく眺めていた。
 こういう和やかさこそ、シグルトが本当に望むものであった。
 
 小さな幸せを感じつつ、得られる心地よい酔いに身を任せていたシグルトだったが、不意に強い眩暈を覚え、カウンターに掴まろうとしてまったく身体に力が入らないことを意識した瞬間、音を立てて床に倒れた。
 
 最初、酔いつぶれたのか、とマスターが声をかけるがシグルトは立とうとして一度びくりと痙攣した。
 
 レベッカが跳ねるように動きシグルトを抱え起こしたが、その肌の冷たさに顔色を変えた。
 
「まずいっ、身体が冷え切ってる…
 
 マスター、火酒を!!
 あと医者を呼んでっ!」
 
 マスターからひったくるように火酒を奪うと、レベッカは人目など気にせずに口移しでシグルトに火酒を飲ます。
 スピッキオとレイモンが持てる秘蹟を使ってシグルトを癒す。
 
 少しだけ話せるようになったシグルトは、弱々しく皆に謝った。
 
 そして、シグルトの状態の酷さに、会した一堂は絶句することになった。
 
 シグルトの身体は度重なる無茶でぼろぼろになっていたのである。
 
 
 1年近く昔のこと。
 
 シグルトは悪漢の姦計で掴まり、虐待という他無い扱いをされた。
 
 シグルトの両足の腱は、シグルトの父の親友で北方最高と噂される中東出身の名医が、西方の何倍も優れた医術を用いて繋いでくれたが、かつては彼を苦しめようとしたものに《刃の欠けた刃物》で抉られていた。
 欠けた歪な刃のつける傷は組織を無残に破壊していた。
 あまりの酷さに、さすがの名医も絶句した状態だったのだ。
 
 彼の両腕にある引き攣れた傷痕。
 拘束に使われた縄を肉ごと引きちぎった後、骨が見えるほどに抉れたそこは化膿して、さすがの名医も切り落とすことを考えたほどだった。
 度重なる暴行で肋骨が数本骨折し、身体を踏みにじられて鬱血した場所が壊疽しかけて毒を出していた。
 
 シグルトが反撃で殴り殺した相手の歯が拳に刺さり、今でも珍妙な傷痕を残している。
 
 名医はシグルトの生存を奇跡と思ったほどであった。
 
 1月かけて、シグルトは最高の治療を受けた。
 だが、名医はその身体に残る後遺症を残酷にシグルトに告げていた。
 
「君の生命力には感心するばかりだ。
 
 命が助かり、動けるだけで奇跡だと思え。
 君は、もう一生武具を使うことなど出来んだろう。
 
 君が無茶をして動くたびに、常人が狂いそうになる激痛が走るはずだ。
 
 まぁ、少し痛むだろうが、歩けるようになれば幸運だな」
 
 しかし、シグルトはその状態で国を追われたのである。
 松葉杖を使いよろめいて旅立つシグルト。
 
 かつて結婚を約束していた愛する女性のうつむく姿。
 その夫となった常にいがみ合ってきた異母兄の蔑んだ視線。
 
 かつて守ると誓った母も妹も見送りには来なかった。
 少し前に立ち寄った父と親友が眠る墓地は、冷たい石の墓が北方の寒風の下でわびしくそびえ立つだけだった。
 
 身を切るような敗北感の中、シグルトは足を引きずるように故郷を去った。
 
 その時受けた絶望感。
 しかし、シグルトは生きることを選んだ。
 
 かつて武芸の修行に使った場所で、シグルトは常人が百度は狂うだろう復帰のための訓練をして、戦士としての動きを取り戻した。
 
 シグルトは痛みや苦痛に対し、鈍い。
 それは驚異的な鍛錬の中で、精神が痛みを超越してしまったためだ。
 
 そしてシグルトは、1年たたずに戦士としての力をかつての半分以上取り戻したのである。
 
 だがそのために行った無茶は、正直に身体に現れ始めていた。
 
 
 シグルトの身体はあちこちが痺れ、古傷が熱を持ち、神経が悲鳴をあげ、血流の悪くなった全身が冷えていく。
 
 『悠久の風亭』のマスターが呼んだ医者はシグルトを診て、あまりの状態に頭を抱えて帰ってしまった。
 
「…この人はアンデッドですか?
 
 とても動ける状態じゃないですよ」
 
 “風を駆る者たち”のレイモンやエイリィも手を貸してくれ、癒しを施されたシグルトはだいぶ回復した。
 だが、治療の際にシグルトの全身に残った無残な傷痕を見た一同は、ただ黙するしかなかった。
 
 レイモンはシグルトの持つ危うさが、常に肉体も精神もぎりぎりの状態で戦う者の覚悟であったのだと知り、背筋が寒くなった。
 
「…貴方はどうしてそんな状態で戦うのですか?」
 
 治療の合間にされたレイモンの問いに、シグルトはいつものように苦笑して言った。
 
「…性分だよ。
 
 きっと戦わずに泣くだけなら後悔する。
 痛みも苦しみも多分、やらずに後悔するよりはましだと思う。
 
 俺は沢山のものを失って、まだ生きている。
 
 だから、生きる限り進める道を進みやれることをやってから、納得できる後悔にしたいんだろうな。
 はは、納得できる後悔なんて変だけどな」
 
 絶望の中から這い上がったシグルトが選んだ、《進む》という選択だった。
 
「仲間のために命を無駄にするのは、仲間への裏切りだろう。
 
 多分俺なら、無駄に命を捨てるようなことには憤る。
 
 でも、大切なものを護るために命を失う覚悟を持つことは必要だと思ってる。
 それが無茶でも、無駄にならない行動になるかもしれないなら、俺は行うことを躊躇わない。
 やらずに後悔するのは、一度経験して懲りたよ。
 
 その時は、親友を失う羽目になったからな…
 
 きっともっと要領のいいやり方があるんだろうが、俺は不器用だ。
 加減の仕方が下手だし、どうしても無茶になってしまう。
 
 自分でも、後で落ち込むんだがな…」
 
 そう言ったシグルトの黒い瞳は、どこまでも深遠だった。
 一同は、そんなシグルトに冒険者を辞めろとは言えなかった。
 
「貴方は挫けることはないのですか?」
 
 レイモンが最後にそう聞くとシグルトはまた苦笑した。
 
「…挫けて得られるものがあるなら、きっとそうする。
 
 それは足掻いた後でも出来そうだから、やるなら最後にするよ。
 実際、死んだ連中の墓の前でいくら嘆いても、亡者は応えてくれなかった。
 
 心を癒すために挫けるのは、それも仕方がないと思う。
 
 でも、そうなる前に出来ることがあるなら、俺は行うことを選ぶだろう。
 
 指をくわえて嘆くのは、虚しかった記憶しかない」
 
 レイモンは思わず天上を見上げた。
 
(彼の強さは、乗り越えて進む決意だったのですね…)
 
 きっと、この男なら才能が欠片も無くても進むことを選んでいただろう。
 シグルトがニコロにアドバイスしたのは、決意し覚悟して行うことだったのだ。
 
「…この身体では仲間に迷惑をかけそうだ。
 
 まともに動けるようになったら、レナータに頼んで治療してもらうよ。
 どうやら水の精霊術による癒しは、俺の身体に合うらしい」
 
 シグルトがこれ以上の無茶を自粛し、休息を取ることを宣言したので、仲間たちはとりあえず納得したのだった。
 
 レナータの使う水の精霊の力は、傷と一緒に毒や麻痺を同時に癒すことが出来る。
 身体に痺れがあり、古傷から生まれる毒素に蝕まれるシグルトにとって、一番相性の良い治療であった。
 

 冷たさを含んだ海風が爽やかな朝、シグルトは『蒼の洞窟』に向かった。
 
 レベッカやラムーナが付き添おうと言ったが、シグルトは苦笑して断った。
 
「もう歩くぐらいなら問題ない。
 
 それに、あそこはぞろぞろ行くには少し手狭だからな」
 
 しかしシグルトが無理をしているのは明白だった。
 思えば、彼の苦笑は痛みをこらえるための癖なのかもしれなかった。
 
「…分かったわ。
 
 ただ、ゆっくり行きなさいよね。
 洞窟は逃げないでしょ?
 
 可愛い娘は逃げるかもしれないけどね」
 
 内心の心配を隠し、からかうように返したレベッカに小さく頷き、シグルトは宿を後にしたのだ。
 
 
 『蒼の洞窟』につくと、シグルトはレナータを呼んだ。
 
 しかし、彼女の返答は無かった。
 おそらく出かけているのだろう、と洞窟に入った途端シグルトの目が戦士のそれに変わる。
 
(…何だ、この巨大な気配は?
 
 それに、中位以上の力の強い精霊の気配…
 海精シレーネか?
 
 とにかく尋常ではないな)
 
 シグルトはいつでも抜けるよう剣の柄に手を置いた。
 
 慎重に洞窟の奥を目指す。
 
(…まずいな。
 
 今の俺の身体ではどこまで剣を振るえるかわからん。
 …だが、戻っていては間に合わないな。
 
 なら、進むだけだ)
 
 シグルトは丹田に力を込めて、手足の先まで闘気を行き渡らせると、奥へと入っていった。
 
 
 洞窟の、いつもは入ったことの無い奥。
 
 そこに進んだシグルトは思わず声を上げそうになった。
 叫ばなかったのは彼の胆力ゆえだろう。
 
 全長15mはあろうかという、とてつもない巨体がそこでとぐろを巻いて洞窟に流れ込む海水に浸かっていた。
 
 パキィィンッ!
 
 巨体の周囲の岸辺に突き立った杖のような形の杭。
 杭には水晶球がつけられている。
 
 周囲には濃密な水の精霊の気配がある。
 その気配の1つが世界に物質化し、巨体の何かを包んでいる。
 それは鎌首を上げようとしたが、やがて力尽きたようにその身を水に沈ませた。
 
 キラキラと海水に水晶の破片が零れ落ちる。
 
 先ほどの音は、杭の1つについた水晶球の砕け散る音だったのだ。
 
 杭の向こうで誰かが膝を折る姿が見える。
 
「…レナータ!」
 
 シグルトは迷い無く人影に近寄った。
 
 そこには荒い呼吸をするレナータが、その美しい顔からぽたぽたと汗を落としながら喘いでいた。
 
「…そうか、こういうことだったのか」
 
 シグルトは、なぜレナータが最近様子がおかしかったのか即座に理解した。
 近寄っても返事が出来ないほどレナータは疲労困憊の状態だった。
 
 シグルトは彼女に歩み寄りその身体を抱き上げた。
 
「…シ、グル…ト、さん?」
 
 流れる汗に顔をしかめて弱々しく聞くレナータにシグルトは、大丈夫だ、と優しく頷くと彼女を寝所まで運んでいった
 
 彼女が纏った外套だけを脱がし、水で塗らした清潔な手拭いでその顔の汗をふき取ると、レナータは大きな呼吸をして、幾分安堵した顔になった。
 その身体を彼女のベッドに横たえる。
 
「…すみません」
 
 レナータは目を閉じたまま謝った。
 
「今は何も言わなくていい。
 
 とにかく休まないとな」
 
 シグルトの穏やかな声に、レナータはほっとしたようにそのまま寝息を立て始めた。
 
 それを確認したシグルトは、どさりと尻餅をついた。
 両足が痙攣して小刻みに震えている。
 その顔は紙のように蒼白だった。
 シグルトの力はレナータ1人を運ぶことさえ難しくなっている。
 
(…運びきれたから、贅沢は言えんか)
 
 シグルトは眉根を寄せて痛みに耐えていた。
 全身の筋や関節が軋み、身を裂かれるような激痛と思うようにならない痺れや痙攣が続く。
 彼の意志でそれらをねじ伏せることはもう出来なくなっていた。
 
 むしろ、その苦痛に悲鳴1つ上げないシグルトの精神力は驚くべきものである。
 
 身体を引きずるように、岩壁まで近づくと、それに寄りかかる。
 目を閉じていつものようにイメージする。
 
 心は鋼鐡(はがね)。
 體(からだ)は鋼鐡。
 己は鋼鐡。
 血潮も筋も鋼鐡になろう。
 折れず曲がらぬ鋼鐡になろう。
 砂を齧る痛苦さえ…
 無力と失う慟哭に比べれば何のことはない。
 俺は護り貫く鋼鐡になろう。
 例えこの身が砕けるとも…
 心は屈せぬ鋼鐡になろう。
 
 それはシグルトが友と父の墓前で無力にむせび、行き着いた境地。
 シグルトの不屈の叫びであった。
 
 ぼんやりとシグルトのイメージの中で、2匹の蟲(むし)を従えた褐色の女性が形となり、目を開ける。
 鐡の精霊ダナ。
 かつては鍛冶の女神として信仰さえされていたという精霊である。
 
 痛みによる恐れや迷いが少しずつ消えていく。
 
 故郷で呪い師の老婆から学んだ、勇気と不屈の魔力を授けるという鐡の精霊のイメージ。
 
「お前はダナに愛されておる。
 
 何れ、【鋼鐡の淑女】はお前に力を貸すだろう」
 
 老婆の言葉を思い出した時、シグルトの身体の痙攣と痺れは消え去った。
 痛みも徐々に消えていく。
 
(…難儀なものだな)
 
 シグルトは額を濡らす汗を拭いながら、呼吸を落ち着けていく。
 そして目を閉じ、レナータの目覚めを待った。
 
 
 数時間後、人の動く気配にシグルトも目を開ける。
 
 そこには自分が使っていた毛布をシグルトにかけようとするレナータがいた。
 
「…すまない。
 
 少し休むつもりが、俺も眠ってしまったようだ」
 
 いつものような苦笑をして、シグルトはレナータの差し出す毛布を断った。
 
「ごめんなさい、私、1人ベットで寝ていたようで…」
 
 恐縮するレナータに、シグルトは微笑んで首を振った。
 
「それはいい。
 
 だが、俺の無茶を留めるつもりなら君も無茶をするべきではないなレナータ。
 あんな儀式を1人で続けていたら、何れ君は壊れてしまう。
 
 無茶は身体の毒になる。
 …俺が見本だよ。
 
 さっきの状況を思い出せば、根掘り葉掘り聞くことではないが…
 あの巨大な魔物が、最近君が悩んでいた原因で間違いないんだろう?
 
 もし俺を知人と少しでも信用してくれるなら、事のあらましを教えてくれないか?」
 
 シグルトはそう言って、じっとレナータの碧い瞳を見つめた。
 彼の言葉には、レナータを責める雰囲気は無い。
 その真摯な眼差しは知り合ったときからずっと変わらない。
 
 レナータがここで何も言わないとしても、シグルトは自分に可能なことを模索してレナータを助けようとするだろう。
 
 そういう男だから、レナータも心からシグルトを信頼できるのだ。
 
「…あの姿を見られて、事実を隠しても仕方が無いですね。
 
 あの巨大な海蛇は、この地が持つ水の魔力に引かれてやってきた魔物。
 このアレトゥーザは、南海の都市の中で一際水の精霊の力が強いのです。
 
 そしてこの『蒼の洞窟』はアレトゥーザでも一番精霊力の強い場所。
 
 ここは海と水に関する精霊たちが集う、水の聖地。
 
 なぜなら、この都市を開いた偉大な精霊術師がこの場所を中心に《水姫(すいき)アレトゥーザ》の力で、荒地だったこの地を清水湧く緑と碧海の輝く美しい土地にしたからです。
 この洞窟は神にも等しい力を持つ上位精霊アレトゥーザの眠る場所。
 だから、水に関わる魔物や精霊の眷属が誘われて時折現れるのです」
 
 シグルトはレナータの話に頷いた。
 
「昔、俺の父に聞いたことがある。
 
 アレトゥーザ。
 処女神に仕える麗しいニンフだったが、水浴びをしていた時に川の神アルペイオスがその美しさに一目惚れをして彼女を追い、アレトゥーザは狩りの女神に助けを求め清水湧く泉に姿を変えたという。
 まあ、この神話には諸説あるが…
 
 汚れ無い心を持っていたアレトゥーザは、泉の化身となり清水と浄化を司る精霊に変わったというが…
 
 この地が件の『アレトゥーザの泉』のある場所なんだな」
 
 レナータは首肯し、続ける。
 
「そうです。
 
 だから、この地では水の精霊に祝福されたニコロさんや私のような精霊術師の資質を持った子供が生まれるのです。
 水に関わる妖精や魔物にとってもアレトゥーザの清浄な水の魔力は心地よく、この地には魚人(マーマン)や水の精霊の他に、先ほどのような巨大な海の魔物もやってくるのです。
 
 最初はあまりにネレイデス(ネレイドたち)が騒ぐので近海を調べていたら、あの巨大な水蛇がやってきたのです。
 しかも夫婦(つがい)でした。
 おそらくは、この地を繁殖の場所にとやってきたのでしょう。
 アレトゥーザの近海では、あの水蛇の食べ物になる海の生き物が沢山生息していますし、水も穢れがありません。
 
 この洞窟の近くであの魔物を見かけたとき、大きな事故がおきてはいけないと、兵の駐屯所や教会には警告したのです。
 でも、私は魔女と誹られる者。
 だれも話を聞いてはくれませんでした。
 
 仕方なく1匹…雌の方をシレーネの魔力を用いてここに誘い込み眠らせました。
 召喚したケルピーを囮に雄を外海に誘導し、一時的に魔物の目を欺く結界を張って…
 私の力では、それが精一杯でした。
 
 でも、あの貪欲な水蛇は日増しに反抗の力を強め、私も貯めていたお金で用意した急ごしらえの魔力増幅の儀式具を用いて今日まで封じ込めてきました。
 ですが、かえってそれが《魔女の怪しい儀式》を行うために道具を買ったと白眼視される始末です。
 
 でも、そんな儀式の道具も今日壊れてしまいました。
 もう私には水蛇を眠らせるだけの力も、道具もありません。
 持っていたお金も道具を買うのに使い果たしてしまったのです。
 
 おそらくあの水蛇は、あと数日で目覚めるでしょう。
 あの水蛇はとても縄張り意識が強いと、訓練場の方に聞きました。
 夫婦そろえば近いうちに必ず人を襲うでしょう。
 
 その後、きっと私はあの水蛇を呼び込んだ魔女として火刑に処されるのでしょうね。
 
 でも、私も疲れてしまいました。
 もう、何もかも…」
 
 溜め込んでいたことを、レナータは吐き出すようにいうと、大きなため息をついた。
 
「最初は、シグルトさんたちに相談しようと思っていました。
 
 でも、私には支払うべき報酬が用意できません。
 シグルトさんやニコロさんも、あんな怪物とただで戦うわけにはいかないでしょう?
 
 仲間の命をかけるのに、そんなことできるわけないです…」
 
 その碧い瞳は諦めと憂いに満ちていた。
 シグルトは黙っていたが、不意に立ち上がるとレナータの頭にそっと手を置いた。
 一瞬レナータがびくりとする。
 
 しかしシグルトは柔らかな笑みを浮かべてそっとレナータの髪のほつれを直した。
 
「よく頑張ったな、レナータ。
 だが、俺としては遠慮せずに話してほしかった。
 
 俺は君を大切な友だと思っている。
 
 昔俺は大切な友を、むざむざ死地に向かわせて失ってしまった。
 妹と母のために無茶はできないと躊躇って、そして見殺しにしてしまったようなものだ。
 あのときの慟哭は今でも俺の胸に、真っ黒なうろになって残っている。
 
 だから、故郷を出るときに大切な人を見殺しには決してしないと誓った。
 もう、あんな思いをするのは沢山だ。
 だから、俺自身のために君を助けたいと思う。
 
 俺に報酬などいらないよ。
 
 …いや、違うな。
 俺は友達として君を生かしたい。
 君が人として生を謳歌してくれることが、報酬だ。
 
 それは前払いでもうもらったからな。
 君には嫌でも生きてもらうぞ」
 
 静かだが、断固とした決意の瞳でシグルトはしっかりとレナータを見つめた。
 あふれる想いに、レナータの胸がいっぱいになり、それは碧い瞳から零れ落ちた。
 
 シグルトは名誉に命を賭ける。
 彼の名誉は《大切な人を護る》こと。
 
 シグルトの胸に燃える固い誓いは、ゆっくりと凍りついたレナータの心を融かすのだった。
 
 
 シグルトは頼みに来た治療もそこそこに、『蒼の洞窟』を後にした。
 
「まずは『悠久の風亭』のマスターや俺の仲間、あとニコロの仲間を当たってみる。
 
 うちの連中はなかなか曲があるが、頼りになるんだ。
 何、うちのレベッカに頼めば妙案の1つや2つ考えてくれる。
 
 レナータ、君は最近きな臭い《聖海教会保守派》の連中の動きに注意して、しばらく身を潜めていたほうがいい。
 
 俺はその間に出来うる準備をしてみるつもりだ。
 
 …待っていてくれるか?」
 
 シグルトの言葉に、レナータはしっかりと頷いた。
 
「じゃあ、行って来る…」
 
 そう言い残し、シグルトは『蒼の洞窟』を後にした。
 
 
 その後のシグルトの行動は迅速だった。
 
 帰り道で聖海教会と賢者の塔、訓練所に寄って聞き込みをし、周囲の状況や情報を確認する。
 その間、協力してくれそうな組織を把握し、シグルトは『悠久の風亭』に帰還することにした。
 
 歩き回って手足が軋むが、シグルトの瞳は変わらぬ強い決意が宿っていた。
 
「…よお、久しぶりだなシグルトさんよ」
 
 そんなシグルトに後ろから声をかけたのは、先ほどユーグの訓練を終えて見回りに出たファビオである。
 
「…あんたはレベッカの知り合いの?」
 
 ファビオだ、と即座に名乗る。
 シグルトはアレトゥーザにいる間に、何度かこの盗賊に会ったことがある。
 
「個人的にあんたとは知り合いになっておきたくてな。
 あのレベッカが一目置く野郎だ。
 
 どうだ、これから一杯やらねぇか…驕るぜ」
 
 そう言うファビオに、シグルトは少し思案顔になる。
 やがて決意したように、ファビオにことのあらましを話しだした。
 
 黙って聞いていたファビオは、巨大海蛇の話まで聞いて目を丸くする。
 
「…そりゃ、まずいな。
 
 わかった、俺の方でも動けそうな連中…うちで寝てやがるユーグの野郎も叩き起こして声をかけておくぜ。
 そんな化け物が暴れたら、アレトゥーザでも下町の連中から被害に合う。
 
 ボスに掛け合ってあんたたちの駄賃ぐらいは何とかしておくから、報酬の方は安心しな。
 
 あんたは宿にもどって…、ん?」
 
 ファビオの目が鋭くなる。
 
「…話し込んで気付くのがお互い遅れたな」
 
 シグルトも剣をいつでも抜けるよう、柄に手を置いていた。
 周囲を囲まれている。
 
 やがて見覚えのある男が現れた。
 
「こそこそ嗅ぎ回って、あの美人のねぇちゃんのためかい、色男?」
 
 それは以前レナータを襲った傭兵風の男であった。
 
「…バドゥーリじゃねぇか!
 
 てことは、ロネもいやがるな」
 
 そうファビオが言うと、路地から腕の長い男がのっそりと現れた。
 
「御名答、ってか。
 
 …相変わらず正義のお犬様だな、ファビオよう」
 
 ロネと呼ばれた腕の長い男は、シグルトに一撃で倒された盗賊風のチンピラである。
 以前はアレトゥーザの盗賊ギルドにいたこともあり、ファビオとも顔見知りだったが、盗賊ギルドからは追放されている。
 正しくはギルドの所在をばらす愚行を犯し、罰を受ける前に逃げたのだが。
 
「…このメンバーということは、あの侍祭もいるんだろう」
 
 相手を油断無く睨みつけるシグルトに、バドゥーリと呼ばれた傭兵風の男が頷く。
 
「ジョドの旦那はあんたに砕かれた手が痛くて、今日は留守番だがな。
 
 ま、本当は臆病風ってやつか?」
 
 下品に笑うバドゥーリ。
 瞬間、シグルトは強い殺気に飛びのいた。
 
 ビュワッ!
 
 シグルトの首のあった部分を鋭い蹴りが一閃する。
 
 ふわりと体勢を整えた敵は、低く構えてシグルトたちを狙っていた。
 緑色の動きを阻害しない服で肌をすべて被い、金属製の篭手をギシリと鳴らせて立つその人物は、珍妙な道化の仮面で顔を隠している。
 
「…ザハかっ?!
 
 気をつけろ、シグルトッ!!
 その仮面野郎は格闘術を使う凄腕の殺し屋だ!
 
 くそぅ、こいつらの自信はコイツを雇っていたからか…」
 
 ファビオが短剣を構える。
 
「《剣戟を退ける不可視の鎧…》
 
 《纏え、鉄の如き護りを!》」
 
 さらに現れた人物が呪文を唱えると、バドゥーリたちの周囲の空気が一瞬歪む。
 
「【魔法の鎧】だと?
 
 魔術師付きか!?」
 
 現れたのは魔術師風の男であった。
 年の頃はまもなく老人という感じだが、厳つい顔にその眼光は鋭く凶悪な雰囲気を持っている。
 
「…ヒギンだ。
 
 名乗って早々だが、死んでもらうぞ若造ども」
 
 ファビオの額を冷汗が流れ落ちる。
 ヒギンの名は知っている。
 かつてこの都市の賢者の塔で弟子を育成していたほどの男だ。
 
 実力はかなりのもので、賢者の塔の魔術師の師範であるエルネストをライバル視し、突飛な魔術の実験をして死者を出し賢者の塔を追放されている。
 
 敵の実力は、ほぼシグルトやファビオと同格。
 加えて相手の数が倍である。
 しかも敵は防御魔術の援護がある。
 ヒギンの使った【魔法の鎧】はリューンでもやや高等な魔術として伝わる防御魔術であり、物理的な攻撃の威力を半減する効果がある。
 
(まずい…俺たち2人じゃ半分も勝ち目がねぇ)
 
 加えてファビオは今日までユーグの特訓に付き合い、かなり疲労していた。
 噂ではシグルトも身体に不調があるという話だ。
 
(かなわなけりゃ、逃げの一手だな)
 
 盗賊はこのあたりの決断の早さと、必要なら臆病にもなれる狡猾さが武器である。
 
 シグルトとファビオの周囲をさらに武器を持った傭兵っぽい男たちが囲む。
 数はボス級の4人を除いてざっと6人。
 
 ファビオが戦闘の口火を切った。
 短剣で近寄ってくる傭兵の膝を薙ぐ。
 【黒猫の牙】と呼ばれる盗賊の短剣術で、相手を激痛で少しの間行動不能にするファビオの得意技の1つである。
 
 相手が動きを止めた瞬間、ファビオは容赦の無く敵の喉笛を切り裂いた。
 血を吹きながら倒れる敵を盾に、敵の攻撃を軽々とかわす。
 
 その横でシグルトが1人の胴を斬り払い昏倒させている。
 
 ファビオは巧みなフェイントで2人の敵を翻弄しつつ、隠し持っていた鉤爪で攻撃をさばき、傭兵1人の肺腑を抉った。
 【猿業爪】という技だ。
 
「ちっ、こう乱戦だと綱が使いづらいぜ」
 
 ファビオが最も得意とするのは【絞殺の綱】…つまり絞殺具を使った暗殺である。
 
 どうやって逃走する隙を作るか思案するファビオに、1人の傭兵を袈裟掛けに切り倒したシグルトが小声で伝える。
 
「…最近色々あって、不調でな。
 おそらく今の俺の身体では逃げ切れない。
 
 俺が隙を作るから、その間に逃げて仲間に伝えてくれ。
 多分、奇襲をかけて来なかったから、俺を捕まえてレナータやニコロを呼び出す餌にするつもりだ。
 
 俺はいくらか暴れて掴まるだろうが、お前はさっき言ったことを頼む。
 あと、レナータを護ってやってくれ」
 
 そう言ってシグルトは剣を正面に構えると剣に語りかけるように、呪文を口にする。
 
「むぅ!」
 
 ヒギンという魔術師がそれを留めようと呪文を口にしかけ、駆け抜けた疾風のような斬撃によろめいた。
 その横で、バドゥーリとロネも受けた衝撃でふらつく。
 その疾走で残った傭兵は残らず地に倒れ伏した。
 
(よし!)
 
 ファビオは出来た隙に滑り込むように走り出す。
 しかし、横からにじみ出るように現れたザハという暗殺者が、ファビオの腕を掴んだ。
 
 ズシンッ!!
 
 瞬間、猛烈なスイングで振り回されると、凄まじい衝撃がファビオの脇腹を襲った。
 
「っがぁぁぁっ!」
 
 ファビオも反撃の刃を振るうが、まるで短剣の勢いがそれるように、ザハはその攻撃を避けた。
 
「…畜生、闘舞術の回避歩法かよ」
 
 【幻惑の蝶】という歩法で、驚異的な回避力を与える技だ。
 そして喰らった技は【黒熊の竜巻】という格闘術。
 相手を振り回し、急所に肘打ちを食らわす恐ろしい技である。
 
(…やべぇ、肋骨が何本か逝ってやがる)
 
 内臓に刺さってはいないが、かなりまずい状態だ。
 
 暗殺者は表情を感じさせない仮面の瞳でファビオを睥睨した。
 ファビオに止めを刺そうと構えた瞬間、その構えの下をかいくぐって凄まじい衝撃がザハを吹き飛ばした。
 よろめいて後ずさるザハをシグルトの必殺剣がうなりを上げて襲う。
 
 ビュオォォォッ!!!
 
 必中の【影走り】から風の魔剣【縮影閃】。
 
 もし防御の魔術を受けた状態で咄嗟に防御していなければ、暗殺者は地に伏していただろう。
 
 かまいたちで服をずたずたにされ血飛沫を周囲に撒きながら、暗殺者は大きく後ろに下がる。
 
「早く行け!」
 
 手練の4人を相手しながらファビオを背に庇って、シグルトは叫んだ。
 軋みだす手足の震えを懸命にこらえながら、仁王立ちするシグルトの目は炎のような強さでファビオを叱咤した。
 
「く、無茶言いやがる!」
 
 立って再び走り出す。
 
(レベッカ、お前がコイツを信頼してる理由が少しは分かったぜ…)
 
 脇腹を押さえて走りながら、ファビオは必ずこの借りは返すと心の奥底で誓っていた。
 
「逃さぬ!」
 
 立ち直ったヒギンが杖をかざす。
 
「《舞い踊る白刃よ疾殺を歌え、荒れ狂う隼の飛翔の如く》
 
 《…斬り裂けっ!!!》」
 
 ヒギンの着ていた外套から数本の短剣が宙に飛び出し、シグルトとファビオの身体を切り裂く。
 【操刃の舞】というこの呪文である。
 ダークエルフとの戦いでその効果を経験していたシグルトは、この魔術が普通に回避可能な攻撃であることを知っていた。
 
 さらにファビオに追いすがる一本の短剣を、シグルトが剣で打ち落とす。
 
 背に走る激痛をこらえ、ファビオは迷わず近くにあった水路に飛び込んだ。
 
 シグルトの身体を魔術師の【魔法の矢】が焼く。
 こらえるシグルトに、暗殺者がタックルする。
 【水牛の猛襲】というこの技は相手の体制を崩すのだ。
 
 近寄って剣を振るうバドゥーリの一撃を辛うじて避けると、シグルトは渾身の一撃で逆に相手の鎧をかち割った。
 だが、そこまできてシグルトの身体に痺れが走る。
 
 その隙に、突き刺さるような暗殺者の踏み込み。
 拳を鳩尾に受けて、シグルトはついに崩折れた。
 
「…レナー、タ…」
 
 シグルトの意識は闇に沈んでいった。
 
 
 水路の底にある裂け目から隠し通路にファビオがたどり着いたとき、ファビオもさすがに大の字に通路に横になった。
 逆流した海水の混じった水路の水は、ファビオの背の傷をひりつかせている。
 折れた肋骨が原因で、早くも熱を出し始めていた。
 
「…糞、盗賊は戦闘向きじゃねぇんだよ!」
 
 石壁に毒吐き、そして這うように壁に手をかけると立ち上がった。
 
「だけどよ、恩は倍返し、仇は十倍返しだ、あの野郎どもめ。
 
 死ぬんじゃねぇぞ、シグルト…」
 
 熱と痛みでふらつきながらも、ファビオは通路の出口を目指した。
 
 
「…風が!!」
 
 悲しげな風の精霊の叫びをニコロは確かに聞いた。
 
「「どうしたのさ、坊や?」」
 
 先ほど助力の契約を結んだナパイアスが、怪訝そうな声で聞いた。
 
「…分からないけど、嫌な予感がする。
 
 急いで帰ろう。
 
 それと、ナパイアス…
 僕はニコロだ、坊やじゃない!
 さっき名乗ったじゃないかっ!!」
 
 むきになって睨むニコロを、意地悪そうな目でナパイアスは見ていた。
 
「「そういうところが坊やなのさ。
 
 可愛いねぇ…」」
 
 真っ赤になってニコロは駆け出した。
 
「「からかい甲斐があるんだよねぇ、坊や。
 
 あのエルフ娘ほど術師としての腕はないが、楽しいことになりそうじゃないか」」
 
 ナパイアスもニコロについた風の精霊が妙にざわめいていることを感じていた。
 しかし、この蓮っ葉な渓流の精霊にとってトラブルはスリルがあって面白いのだ。
 
 ナパイアスの甲高い笑い声を背に、羞恥とともに湧き起こる不安を懸命に押さえながら、ニコロはアレトゥーザを目指して足を早めた。

 
 
 長らくお待たせしました。
 
 周囲でいろんなことがあって、ついでに疲労で寝込んだりしてましたが、ようやくクロスの『レナータ編』前編をお届けします。
 
 今回、前半の飲み会シーンをどうするか悩んだのですが、Martさんから許可が下りましたので書きました。
 後半、ファビオとシグルトの夢の共演です。負けっぽいですが。
 
 後半のバトルは中堅レベル同士の激しい攻防にしました。
 互いにスキルを出し合うハードな対決です。
 名無しだった連中の名前もここで判明してたり。
 
 書いてる間にMartさんがサイト停止を宣言されたり、自作シナリオの更なるバグにへこんだりしましたが、私の方はマイペースにやるつもりです。
 Martさんお疲れ様でした。
 これからもよろしくお願いします。
 
 クロスもいよいよ佳境です。
 
 次回はさらなる苦難がシグルトを襲います。
 間に合うかレベッカたち!
 
 よかったら応援してやってくださいね。
 
 
 ちなみに難しいものをちょっくら解説をば。
 
 三大禁呪はある企画で使いたいなぁ、と思っています。
 読み方は【天地鳴動(てんちめいどう)】、【降焔招星(ごうえんしょうせい)】、【極冷氷波(ごくれいひょうは)】です。
 イメージとしては12レベルの神話級魔法で、10レベルでも2回しか使えない計算です。
 『風屋』の大禁呪は10レベルなので、まだある程度使用可能なレベルなんですけどね。
 これらの大禁呪は私の考えるCWの世界観の中で、「名前が明らかになっている」大禁呪です。
 皆さんのCWの世界には、名前すら忌み嫌われ、失われた大禁呪があるかもしれませんね。
 そもそもこの手の伝説級呪文は、一生に数えるほどしか使えないものです。
 使用した記録が歴史に残るトンでもスキルというわけですね。
 
 《魔術回路(マギックサーキット)》という考え方は、某PCゲームが好きなら惹かれるかもしれませんが、カードワースのシステムに無理の無いように考えてみたものです。
 マギックは仕様です。
 手品のマジックとの区別のために、わざとこうしてあります。
 いつか呪術戦(祈祷戦)を強調したシナリオとか、作ってみたいです。
 私の言う呪術戦は、バトルでドンパチではなく、駆引きによる遠距離での儀式による地味な魔術のぶつかり合いです。
 汗をたら~りたら~りしながら、魔術師同士が泥臭い魔力をぶつけ合う描写、やってみたいですね。
 イメージは陰陽師の祈祷みたいな感じです。
 
 聞いたこと無い呪文がいくつかありますが、名前だけのロストマギックです。
 しつこく私に作れといえば、どこかで出すかもしれません。
 
 敵に何人か新キャラが出てますが、結構強敵です。
 特にザハはお気に入りで、次回でも暴れると思います。
 謎の仮面って、ちょっとベタですかねぇ。
 ヒギンは強いですが、典型的な悪玉です。
 全体魔法2つもある5レベル魔術師ですからとても強いです。
 ちなみに【賢者の杖】持ってます。
 味方が使うと頼もしい【魔法の鎧】ですが、敵が使うととっても嫌らしい魔法です。
 中堅ではこういった援護の有無も影響したシビアなバトルを是非提供できればいいなあ、と思っています。
 スキルが連発すると派手ですよね。
 
 何か質問がありましたら、どうぞコメントくださいね。
 では次回で会いましょう。
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この記事のコメント

おはようございますm(__)m
前半の和やかなシーンから、後半の激しい戦闘と、読み応えが最高でした。

それにしても、シグルトさんはかっこよすぎます。あれだけ不幸な目にあっていながら人を信じる事をやめずにまっすぐな心を持っているところは尊敬できます。
そして、レナータさんを助ける為に・・・最高を通り越して超高です!!!

悪役の方も魅力がありましたね。迫力もありました。ザハは仮面+格闘技なので、バル○グを彷彿とさせます。

ファビオさんの「恩は倍返し、仇は十倍返しだ」の台詞は裏社会に生き、狡猾にならざるを得ないけど仲間や友人を大切にする盗賊の心情が表れていてよかったです♪

大変な事もたくさんあると思いますが、リプレイ楽しいのでまた書いてくださいませ
それでは失礼いたしますm(__)m
2006-08-30 Wed 09:53 | URL | らっこあら #mQop/nM.[ 編集]

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2006-08-30 Wed 16:37 Vento di Levante
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