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『碧海の都アレトゥーザ』 空に焦がれる踊り子

2018.07.06(20:42) 459

 ラムーナは潮騒の音を聞きながら、砂浜で飛ぶように舞っていた。
 
 師であるアデイが、軽く振ってくる枝を、ひらりひらりと避ける。
 唐突に足を払われるが、片足の動きだけで姿勢を速やかに整える。
 
 足元が柔らかな砂地であるのに完璧なバランスが維持され、動きの力強さは硬い地面の上で舞うそれに劣らない。

 一枚歯の下駄で疾走する類と同じ、重心の掌握術である。
 違うのは身体の柔軟性と平衡感覚を極限まで高めて、不安定な場所や格好でも体勢を立て直すことができるようになる、というこどだろうか。

 そういった技術を身につけさせるため、アデイはまずラムーナの体躯の矯正から始めた。
 
 長い間虐待されて育ったラムーナは、あちこちに骨格の歪みがあり、栄養不足で背も低かった。
 こんな体格では、美しい舞も激しい踊りも、行うことはできない。

 だから、骨格の矯正を促す念入りな準備運動を教えた。
 骨を真っ直ぐにするよう、その頭の上に物を乗せ、バランスの悪い塀の上を歩かせる。
 呑み込みが早いラムーナは、すぐにそれらをできるようになった。

 最初の闘舞術を学んだ頃、ラムーナの体格矯正に貢献したのが、シグルトだった。
 
 シグルトは自らも重い障害を持っていたが、それを感じさせず、綺麗に動くやり方を知ってた。
 ラムーナの骨格の歪みや、姿勢の悪さに関しても、直し方のアドバイスを与えたのだ。
 骨に好い食べ物から、準備体操の仕方、骨格を伸ばす懸垂の方法まで。

 生徒であるラムーナは、素直な性格の頑張り屋である。
 シグルト程厳しく激しくではないが、目に見えない努力を重ねていた。
 
 今回の技を習得するに至って、完全に自身の体格を直し、動く時にも綺麗な正中線を保持できるようになった。

 正中線とは人体の急所が集中する中心であり、平衡感覚に影響を与える芯でもある。
 この部分を真っ直ぐ保つだけで、姿勢がとても奇麗になり、動作に切れが出てくるのだ。
 所謂、〈背筋を伸ばす〉のである。
 
 バランスが整えば、力の入り方だってまるで違う。
 華奢なラムーナのような身体でも、頭蓋骨を粉砕するような蹴りや、自分の頭の位置を飛び越える跳躍が可能となる。
 
 レベッカが、ラムーナが自分の技で故障しないように、打撃部分に使う防具を作ってくれた。
 靴の爪先と踵に甲、アキレス腱には、軽く硬い樫と緩衝材を付けた簡易のプロテクター。
 肘や膝には、転倒時や敵への打撃時に、衝撃を逃してくれるパッド。
 これらは関節の動きを阻害しないように極小でとても軽い、強靭で携帯性に優れたものだ。
 
 ラムーナの戦い方は、素早い動きから踏み込んで行う肘や膝、蹴りによる打撃が中心で、剣は主に防御とフェイントに用いる。
 敵を足場にしたり、蹴ったり殴った反動も利用してヒット&ウェイを可能にする…魔剣である【スティング】は止めを刺す時は活躍するが、鋭利過ぎて動作を止められてしまうのだ。
 その代り、絶対折れない魔剣は、防御に使う場合頼もしい。
 
 もう一つ防御で活躍するのが金属製のバックラーだ。

 その小さな盾には、握りの部分に硬い半球状のカップがある。
 殴ってもよし、受けてもよし。
 体格に劣るラムーナが、敵を突き放したり押し上げたりする時、盾は大活躍する。

 元々大胆な性格のラムーナは素早い割りに繊細な回避行動が苦手だった。
 舞踏を取り入れて戦う軽戦士として、回避が苦手なのは致命的である。

 重装備ができる戦士たちと違い、素早い動きを重視する軽戦士は軽装になり、それ故に重い一撃を食らってしまうと即座に戦闘不能となり、倒れるまで行かずとも軸足や身体の要所に傷を負えば戦えなくなってしまう。

 ラムーナの悪癖に気付いたシグルトは、資金の目途が立つと早くから盾という補助的な防御手段を与えて対策を施した。
 戦闘においては英断であったが、今度は舞踏家として問題を発生させてしまう。

 片手に剣を持ち片手に盾を持つと、どうしても正中線が乱れてしまう。
 両手に形状と重さの違う物を持ったことで、左右の均衡が崩れてしまったのだ。

 盾の使用によって防御の大切さに気付かされたラムーナは、装備によって崩れた平衡感覚と戦い方の見直しとして、ちゃんとした防御系の舞踏を学ぼうと思い立ったのである。

 本来、生き物は左右対称にできているように見えて、細かい部分では左右非対称であることの方が多い。
 利き腕の筋力が発達して逆腕より太かったり、軸足の方がサイズが大きくなるといったことは普通に起きる。
 闘舞術にはそれを踏まえたバランスコントロールも、当然存在していた。

 それは歩法の〈円(サークル)〉と重心の〈転(スイング)〉である。

 バランスの悪いものであっても、回転している時は遠心力の移動でバランスが保たれている。
 独楽の回転によるバランスを例にすれば分かり易いだろうか。

 ラムーナが学んだ【幻惑の蝶】は、蝶のふわふわした飛翔を参考に、円運動と転運動による重心のコントロールで動きを損なわずに回避行動を続ける技能だ。
 身体にいくつもの円と旋回の力を与えることで〈気流と向かってくる力ににぶら下がる〉それは、決してバランスの均衡を損なうことが無い。

 独楽のような円、上下に浮き沈みする三次元的な歩み、そこに敵の攻撃が飛んできた時はそれに沿ってするりと回る。
 飛んでいる蝶に触れようとすると〈ひらり〉とすり抜ける、あの動作だ。

 複数の旋回点を持ち、時に敵の攻撃の瞬間に旋回点を相手に移してしまうことで、装備や体格のわずかなバランス崩壊を克服する。

 ラムーナは盾の慣熟を行う時、シグルトによって【接迫(バインド)】と、【感受(フィール)】という要素を学んでいた。
 そして、【幻惑の蝶】の動作は「【感受】で空間に【接迫】し【躱す】」ものなのである。
 〈空間〉にというのが最大のポイントで、敵の攻撃に接触することは、ギリギリのラインでしない。
 まさに、紙一重。

 実は、空間には何もないわけではない。
 何かが接近し合う時、間にある空気は移動するし、ぶつかり合う力が起こす振動や気勢というもので空間は常に変化している。
 空間に起きる変化を【感受】してそれに【接迫】するというのが、【幻惑の蝶】の持つ感覚を表現する時、一番近しい。
 だから、攻撃を受ける・流す・弾くではなく、見た目は触れずに【躱す】動きとなる。

 同時に、空間は緩衝材であり鎧だ。
 直接敵の攻撃に振れて防御をする場合、それによる影響が防御する側の動作を崩してしまう。
 皮一枚の空間こそが、防御と回避の境界線になっているのである。

 技能の習得によって優れた空間認識力を得たラムーナは、苦手な回避行動を補えるようになった。
 技の発動が必要ではあるが、【幻惑の蝶】の発動から盾によるディフェンスを行った時、ラムーナの回避力は熟練の戦士の攻撃をたやすく躱す。

 通常、ラムーナの攻撃力は技に頼らなければ低い。
 しかし、仲間に攻撃力を頼る場合、ラムーナは敵の攻撃を引き付けていれば良い。
 パーティによる戦い方に必要な役割分担を理解し、ラムーナは軽戦士が得意とする身軽さをさらに昇華させた。

 闘舞術と同じ南方大陸の武術には、倣獣術があるが、その動作には似通った部分が多分にあった。
 武器術ではなく体術として発展したので、闘舞術も倣獣術も、本来武器が無くても戦える技術を内包している。
 ラムーナの戦い方が、格闘的要素を持っているのは、そのためだ。
 
 より敵に接近する危険性が発生するため、今習っているような回避術の習得は急務であった。

 いつの間にか細かった腕と足は、安定した骨格としなやかな筋肉に包まれれ、スレンダーで綺麗な形に伸びた。
 猫背で歪んでいた腰骨と脊髄は真っ直ぐ延び、頭に十冊本を乗せたまま日常が過ごせるほどに安定している。
 左右の手に違う物を持っていても正中線がぶれなくなり、重心の変化があっても即座に対応できる。

 食生活の改善により、発育不良で貧相だった肉付きは、舞踏に邪魔にならず美しさを損なわないギリギリの範囲で丸みを帯び、爽やかな色気を醸し出す。
 本来リバウンドで腹部に蓄積されるはずの脂肪は、成長と鍛錬による運動で消費され、舞踏によって培われたごつさの無い筋肉によって醜く弛むことも無い。
 背が10㎝以上背が伸びた印象を与え、搾られた芸術的な8の字体形は雰囲気が以前とは全く異なる。
 そこに、民族的な特徴である又下の高さ、締まった少女らしい臀部が、数々の歪みを治すことで猫科の獣のように流麗な機能美を宿すようになっていた。

 ラムーナは元々、卑屈で歪んだ笑顔を作る癖があった。
 暖かい仲間の愛情に包まれ、今は自然に、柔らかく笑えるようになっている。

 色気や美しさを武器にするレベッカの影響もあって、ちょっとだけ化粧も覚えた。

 陽気で、身綺麗にすれば容貌も整っているラムーナである。
 努力が実を結んだ時、文字通り彼女は変身した…蝶の蛹が羽化するかのように。

 彼女が踊ると、周囲はその存在感と美しさに圧倒される。

 苦労から少しだけ憂いを含む濡れた瞳。
 小麦色の肌は躍動的にしなり、飛び散る汗が陽光を浴びてキラキラと煌いていた。

 ラムーナ自身は、自分がそれほど美しくなったとは思っていない。
 だが、踊る彼女を見る者は、華麗さに目を奪われる。

 不幸だった少女は、鎖や頸木から解き放たれた。
 空を舞う蝶のように、遠く、高く舞い踊れるのだ。
 
「…素晴らしいわ。
 
 それが闘舞術の要、【幻惑の蝶】。
 【連捷の蜂】と一緒に使いこなせば、攻防を備えた闘いの舞踏を踊れるでしょう」
 
 師であるアデイの言葉に、ラムーナの瞳が輝く。
 それだけで花が開くように、周囲の空気が変わる。

 アデイは、この愛らしい弟子の成長を自分のことのように嬉しく感じた。
 
「この舞踊は、ぬかるみや砂地でも自在に舞を踊る技。
 
 もし回避の姿勢を奪われても、次の瞬間には即座に体勢を整えることができるわ。
 束縛からも抜け出せる、回避術の極みよ。
 
 闘舞術は拘束を嫌う、解放の技。
 その根本は〈自由〉を体現する。
 
 女の子はね、筋骨隆々である必要はないわ。
 タフネスが無くても、敵の攻撃は躱せばいいの。
 
 〝蝶のように舞い、蜂のように刺す〟
 
 優雅で素敵な踊りでしょう?」
 
 ラムーナが嬉しそうに頷く。

 この少女は気が付いているだろうか?
 自分の笑顔が、こんなにも美しいことを。

「私はこの踊りが好き。
 まるであの空の向こうに、飛んでいけそうな気がするの。

 蝶々って、とても儚い虫さんだけど…凄く一生懸命生きているわ。
 私はあんな風に、綺麗で軽やかでいたい。

 そして何時か、本当にあの空を翔べるような舞踏を踊ってみたい…」

 かつて自由に焦がれた少女は、今はどこまでも続く空のように成りたいと願っていた。
 そこには彼女が抱く、本当の自由があるように思えるのだ。

 少女は、夕日に染まりつつある果てしない南海の水平線と、求めて止まない空を見上げた。
 その情景は、自由という空に焦がれた、ラムーナの心に燃える情熱の炎のように…
 
 赤く、紅く、幻想的であった。



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『希望の都フォーチュン=ベル』 魔法の大鍋

2018.07.04(22:03) 458

 希望の都フォーチュン=ベル。

 この都市が所属する国は女王が統治しており、他国に比べて精霊術師に対する迫害や女性蔑視…特に魔女に対する弾圧が少ない。

 他にも強大な魔力を得てしまった男や、他国から亡命してきた貴族、妖精、魔剣を作れる鍛冶師といった極めて特殊な立場の者が多数移住している。
 外の世界に絶望して逃れてきた者たちにとっては、まさに〈希望の都〉なのである。
 反面、そういった性質から聖北教会など、宗教勢力の影響は弱い。

 そんな都市の一角に、ひっそりと建つ小さな工房があった。
 
 工房の主セラヴィは年を経た魔女であり、悠々自適に毎日を過ごしている。
 この魔女は変幻自在の魔力を持ち、時に妙齢の女性に姿を変えて人を化かすこともある。
 だが彼女は、西方で有数の賢者であり魔法使いであった。

 セラヴィが作り出す品物、特に老化を抑えるという【若返りの雫】や最高峰の薬とされる【エリクサー】は、権力者にとって垂涎の品であり、他国からこれらを求めてやってくる商人や貴族の使いが跡を絶たなかった。
 セラヴィが合成する品々の販売に関しては、ロゴージンという交易商だけが取り扱いを認められている。
 彼女はロゴージンに魔法の品を卸売りすることで十分な財産を得ているので、気が向いた時に材料を持ち込んだ者の調合を請け負う程度で、薬の直接販売は行っていない。

 "風を纏う者"の仲間たちと別れたロマンは、主に向学心からこの謎めいた魔女を訪ねようと考えていた。

 ブロイの館で手に入れた商品価値の低い【魔法薬】と【解毒剤】を、他に余っていた他の品物と調合し、もう少し役に経つ高価な品物に調合し直す、という別の目的もある。

 本来【魔法薬】は銀貨一千枚、【解毒剤】は銀貨三百枚の価値があるのだが…レベッカが余ったそれらを売り払おうとしたところ、「こんな古びた瓶の薬は価値が低い」とごねられて、三分の一以下の価格を提示されたのだ。
 静かに怒りを露にするレベッカの横で、ロマンは「それならばもっと高価な品物の材料にした方が良い」と提案した。

 先日オーク退治をした時に手に入れた【聖別の葡萄酒】であるが…特徴的な瓶がわずかな骨董品的価値を持っていたのだため、調べる過程で同じような代物を売っているフォーチュン=ベル近郊の歴史を知る機会に恵まれた。
 そんな折、道具類を仕入れに訪ねた交易商のロゴージンとの会話で、瓶の中身を作成したのはセラヴィではないかという情報を得るに至った。

 セラヴィは特定の薬品同士を混ぜ合わせることが可能な【魔法の鍋】を持っており、噂を聞いたロマンは派閥内に伝わっていた【魔法の鍋】の専用レシピを試したくなったのだ。

「鍋の中に薬を二つ、四回交えば塗薬

 酒と毒消し、三度祈れば聖なる酒よ

 聖なる酒と塗薬、二巻きすれば活力香る

 エルフの秘密を知らしめる、活力の根元同じく、たった一会が謎を解く

 罪の果実は魔法と毒消し、五芒星が指し示す

 聖なる酒に魔法をかけて、七打の福音若返る

 塗薬と果実を杯に、安息日無くば復活叶う

 薬と聖なる酒を二本ずつ、何も無ければ泡になる

 一の誤り、混ぜるは勝ちよ

 可笑しな顔は助けとなろう

 あとは無情に消え果る…♪」

 セラヴィと同じ【魔法の鍋】を持っていた、先達の魔術師が残した秘歌である。
 昔から秘伝というものは、暗号を含めた伝承や秘密の歌として語り継ぐものだ。

 この歌にはちょっとした魔術概念や遊び心も込められている。

 例えば〈塗薬〉は【治癒の軟膏】のことだが、あえて違う呼び方をして迂遠にしつつ、知る者にしか扱えなくしている。
 他の品物も、鍋で合成できる限られた品目を知らなければ理解できないだろう。

 〈エルフの秘密を知(し)らしめる〉には【しらしめる】という言葉に白日にさらす→偽りのない=純白の意味が隠れていて【純白の秘薬】の調合であることを示す。

 〈活力の根元同じく〉は材料が【活力の霊薬】と同一の品物であること、〈五芒星が指し示す〉というのは回数以外にリンゴを横割りにすると種(すなわち肝要部分が)五角の星に見える(それ故に魔法使いはリンゴを叡智の象徴、シンボルに使うこともある)といった知識を掛けていて、【知恵の果実】の神秘性と重要性を示している。

 練る回数が四→三→二→一と来て、五行目に五を持ってくると、関連性から割合憶えやすい意図的なリズムで並べてあった。
 かといって六行目と七行目は練る回数が逆。これは柔軟に思考的な解読ができる者に伝える暗号であり、いかに計算力や記憶力があっても考え方が単純だと、こういった遊びの部分が理解ができない。

 作成可能な薬では奥義となる【エリクサー】を神聖な七つ目にすることで込められるのは、魔術的数秘である。
 一見バラバラに見えて、呪文的な韻を踏み、魔術的なバランスも重んじていた。

 〈塗薬と果実を杯に〉は、聖北教会の聖者復活を示している。
 槍で貫かれて果てた聖者に、塗薬による癒し(衆生救済)、果実が象徴する原罪(聖者の叫びでその罪は贖われた)、杯はすなわち聖者の血を受けた聖杯…魔法の鍋の原典でもある復活の大鍋を意味し、常人は到達できない蘇生や奇蹟を連想させる。
 偉大な聖者の復活を、錬金術最高の奥義【エリクサー】生成にかけているわけだ。

 〈安息日無くば〉は七(一週間)引く一で六。

 〈可笑しな顔〉は御機嫌な奴と変な仮面を表していて、時々合成の過程で出現するこの混沌の謎物体らが、他の道具に置き換えられることを示している。

 魔術師は魔法に必要となる知能を鍛えるため、様々な暗号を使い、真実=名(実質)を込めつつも暗号として崩すやり方と伝え方、解き方を学ぶ。
 魔法の力を呼び起こす鍵となる…真なる名を隠匿しながら、知恵ある者には感じ取れるように含めることも同時に行う多重性…それは魔法という神秘の本質であった。

 このような調合や技術を伝えるための秘歌は、魔術師の弟子がそのやり方を暗唱するために使われており、韻を踏んだ音楽や詩歌としての形態が呪文の詠唱の鍛錬に用いることもできる。

 師匠から無理やり憶えさせられた秘密の詩や不思議な歌が、実は貴重な財産であると気付けることも、魔術師として与えられる試練なのである。

 閑話休題。
 
 特別な品を合成できる【魔法の鍋】はセラヴィの前で使うという条件で使用を許可されるのだが、失敗すると魔女に嘲笑われ高価な薬をいたずらに消費するとして、挑戦する者は少ないのだという。
 それに、セラヴィは財力で力圧しに秘術を行おうとする者には【魔法の鍋】を貸さないこともある。

 ロマンとしては、特別な魔法の品に触れられ、先達の知恵を確認するチャンスである。
 知識の探求では、嘲笑や損失を恐れるほうが愚かなのだ…ロマンの師はそう教えてくれた。
 
 もしレシピが間違いであったとしても、その情報を持ち替えれば師から何らかの見返りが期待できるので、ロマンはあまり気負っていなかった。

 セラヴィの工房である『象牙の杯』を訪ね、ロマンがいつものように正しく魔術師の名乗りをすると、その金色の瞳を見たセラヴィは楽しそうな表情になり、彼をいたく気に入った様子だった。
 そして、工房の留守を預かる条件を提示され、代わりに都市に滞在中住まわせてもらえることになった。
  
 人相学も嗜んでいるというセラヴィの話では、ロマンの持つ双眸が【黄昏の金目】と呼ばれ、左右の瞳が違う色の【金銀妖眼】よりも珍しい神秘の相であるという。
 先天的に高い魔力を持つ者が、その魔力を体内で昇華しきれず、瞳の色素に溢れているから、金褐色をした神秘的な瞳になるらしい。
 何万人に一人という絶大な魔力を持ち、同時に見たものを決して忘れない記憶力と、あらゆる真実を見抜く観察力を併せ持つという。

 ロマンは、心の中で「ナンセンス」とばかりに笑い飛ばした。
 派閥の大先達たる魔導王イグナトゥスも【黄昏の金目】であったと伝わるが、語られる魔力には覚えがなかったからだ。

 ただ、厚意で工房を自由に使わせてもらえる上に、セラヴィの蔵書を読む機会も与えられたので、他人が勝手に勘違いしてるだけと開き直ることにしたのである。

 工房に滞在を始めたロマンは、レシピを参考に初めて使った【魔法の鍋】で早速にも【治癒の軟膏】の最上級品を合成して見せた。
 立て続けに【聖別の葡萄酒】、【活力の霊薬】、【若返りの雫】、そして【知恵の果実】という優れた品物の最上級品を、すべて一回で生成してしまう。

 工房主のセラヴィも驚愕した様子である。
 彼女でも二十回に一回は失敗があるというのだ。

 ロマンとしては、単に派閥に伝わる秘歌のレシピに従っただけだ。
 先達の知識が正しかったと証明されたにすぎず、ロマンが特別優れているわけではない。

 錬金術のような調合では、過程と分量こそが何より大切なのだ。
 正しいレシピに、正しい行程、正しい分量。
 性格であれば確実に良いものができる。

 周囲が認める素晴らしい品物を生成しながら…ロマンは不満だった。
 彼が合成した品物は、すべての品質が良過ぎて他の合成に使えないというのである。
 鍋に入れて合成に使おうとすると、セラヴィが慌てて止めたのだ。
 「デキが良すぎるのも困りものだねぇ、とセラヴィには笑われていた。

 これでは全てのレシピを試すことができないではないか。

 考えた末、ロマンは持っていた材料でできる品物の中から【治癒の軟膏】をもう一つ、交易所で銀貨百枚払って【葡萄酒】を購入して【解毒薬】と合成することで通常品質の【聖別の葡萄酒】を作り、それらをさらに合成してエルフの秘薬とされる最高品質の【純白の秘薬】を完成させた。
 それを売り払うことで銀貨千枚、材料四つ分の販売価格と同じ価値まで引き上げて銀貨九百枚の収入を獲得する。
 普通に材料の【傷薬】二つに【解毒薬】を売れば銀貨四百五十枚であるから、拾い物から倍の儲け…市場の販売価格と同等の利益を出したことになる。
 仮に使用した素材を標準価格で買い直しても、まったく損が出ていない。
 
 売らなかった数々の品物も普通は購入できない高級品であるから、道具袋に死蔵していたことを思えば、とても良い仕事をしたと言えるだろう。

 それに、儲けを出すために行った合成の過程で、知らなかった秘歌の秘密も判明した。

(〈一の誤り、混ぜるは勝ちよ〉って、わざと作業工程で品質を落として作ると、他の合成に使えるようになるってことだったんだ。
 品質の劣った品物を持っているのは癪だったし、出費はしたけど損は出してないはずだし。

 なんだか上質の品物の売値がおんなじなのは納得いかないなぁ。

 あとは【傷薬】と【解毒薬】が一瓶ずつ残ってる…だいぶ片付いたね)

 ここまでで合成に一度も失敗しなかったロマンは、たまたま工房を訪れていた貴族と商人に見染められ、その後ずっと合成をする羽目になった。
 何しろロマンの合成は確実で、上質の品物を作ることもあるのだ。

 これはロマンにとって不本意な事態であった。
 彼は知識の探求者であって、錬金術師ではない。 

 錬金術の先師が書き残した書物には、霊感や星の運行の影響などといった神秘的な要素を重んじるものもあるのだが、ロマンはそれらを「再現性に問題がある」としてあまり参考にはしない。
 実際、化合の失敗によるアクシデントや、インチキ同然の内容を残している者も過去には存在し、〈錬金術師とは詐欺師である〉と考える一般人も多い。
 ロマン自身、〈錬金〉というジャンルの呼び方が嫌いだった。

 その点、物質合成という一面から見れば、魔力という神秘を呪文によってコントロールする魔術の類と違い、合成するだけなら魔力がいらないものも多い。

(〈錬金術〉なんて詐欺師そのものが名乗るような名称はやめて、素直に〈調合術〉とか〈合成術〉、大仰に言いたいなら〈アルス・マグナ(大いなる術)〉とでもすれいいんだよ。
 名を重んじる魔術師としては、黄金を練り上げるなんて俗っぽい名称にするのはね。

 確かに魔術的神秘と秘匿という意味では、俗物の目をそらすことに関しては理にかなってる。
 〈黄金のように尊いものを練り上げる〉という譬えであるなら、わからなくはないけど…)

 ロマンは材料さえあれば、最高の薬である【エリクサー】も調合可能だ。
 彼が得意とする【若返りの秘薬】は同じ値段でも効果が高く、貴族たちの御夫人に大人気である。
 
 セラヴィの元に滞在を始めて一週間ほどで、あまりに工房が繁盛するため、目的の読書ができずにもやもやしっぱなしだった。
 
 今日も、難しいとされる【知恵の果実】を合成して、貴族の夫人に渡す。

「…はいどうぞ。
 教会勢力が〈堕落の木の実〉といって嫌う物だから、あまり聖北教圏で見せたり自慢しないで下さいね。
 
 お代は何時ものように、物品でセラヴィ師に渡して下さい。
 では、僕は用事があるので…」

 用件を済ますと、味もそっ気も無く待合室にいる次の客を呼ぶ。

(まったく…。
 気軽に本が読めるっていうから引き受けたのに、これじゃ雑用じゃないか!

 この間は他所の貴族の配下に攫われそうになるし…ロゴージンさんが来てくれなければ拙かったよ。
 普段からフードを被って、顔を隠して作業していてよかったね。

 シグルトが修行から戻ったら、僕も一緒に移動しよう。
 魔女術や錬金術関係の書物はほとんど読ませてもらったし、ね。
 下手な薬より、シグルトが教えてくれた【悪風除けの薬】の方がよっぽど価値があるよ。

 でも、【賢者の石】を作る方法は流石に分からないね。
 【エリクサー】を生み出し、鉛や銅を黄金に変える石なんて眉唾っぽいけど、錬金術最大の目的であるそれが存在するなら、僕も見てみたい。
 それがあるとしたら、物理法則をひっくり返すよね。

 今の僕では、あの鍋無しで価値のある品物を合成するとしたなら…黄金の化合物や鉱石から金を抽出するのが精いっぱいだからなぁ…
 
 ま、元々純粋な黄金は、化合物の絶対数が少ないし、あんまり意味無いよね。
 化合物を戻すのも容易だし、うん、行為そのものがちょっと無駄かな。
 そこまでして化合物作って戻すのって、お金かかるだけの道楽にしかならないし。

 昔の、詐欺師もどきの錬金術師やったように、金が入ってるように見えない合金から金を取り出して、〝賢者の石の精製〟に成功した~とか。
 そういうことする人間が多かったから、錬金術の名は貶められたんだよ。

 この手の技術は知的探求心と好奇心の満足を除けば、まず人を騙すぐらいしか使い道が無いね)

 言葉にするとトラブルを招くから、と遠慮して、ロマンは頭の中で好き勝手な毒舌を弄していた。

 半ば魔術的な要素も含む錬金術。

 魔術や秘蹟がまかり通る今の世の中において、ロマンは魔術師の見習いでありながら…魔術の徒であるよりもあくまで知識の担い手であろうとする、異端者だった。
 
 天才と謳われながら、実際には努力勤勉こそとても大切にする秀才肌であり、才能に溺れたり神に祈るよりも、求め磨くことが美徳だと信じている。
 だから、信仰や宗教の必要性は認めても、自身の考えや生き方を拘束するそれらに依存するつもりはまるで無い。
 
 人は禁断の果実を食べて知恵と羞恥心を覚え、堕落して嘘を吐き、楽園を追放されたという。
 だが、神の箱庭に押し込められて裸でも羞恥すら抱かなかった人間は、その飼い殺しの箱庭のような生活に何の意味があったのか。

 親への反逆は、独立への一歩である。
 ロマンには、それを愚かだとする神学者の考えは分からない。

 本来親は、子の独立を願うものだ。
 それが、自分の支配から外れるとしても、子供の成長を願わない親がいるだろうか?
 そうやって子は痛みを知りながら、新しい世界を切り開いて往くのだから。
 
 思うのだ…〈神はわざと人に独立するきっかけを与えたのだはないか〉、と。
 そして、親に反逆する歪み…世界に挑戦する力こそが〈魔〉であり〈魔法〉なのだ、と。

(あ~あ、これじゃどっかの異端神学者だね。
 まあ、見えない部分を論議するのは、連中に任せておけばいいや。

 僕が欲しいのは、理路整然とした真実と事実だけだ)

 詰まらなそうに鼻を鳴らし、ロマンは残った仕事に没頭し始めた。



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『碧海の都アレトゥーザ』 鼠たちの囁き

2018.06.28(22:39) 457

 路地裏を歩く女がいる。
 
 最近新調した服は、革を使ったもので身体のラインをしっかりと強調していた。
 胸元も大胆に開いており、扇情的な色香に溢れている。
 
 気だるげな表情。
 だらしのない緩んだ口元。
 
 怠惰な雰囲気が、見て取れる。
 
 だが足音は全くしない。
 滑るように、羽根でも生えているかのように、ふわふわした歩み。
 
 まるで彼女の周囲だけ、音が消えているような違和感。
 
 緊張を見せずにこんなことができるのは、熟練の盗賊だけである。
 
 女…レベッカは路地裏のすえた臭いをよく知っている。
 
(―――昔は私もこんな路地裏にいた、ただの〈鼠〉だったわね)
 
 立ち止まったレベッカは、路地の隙間から見える本通りを眺めた。
 一台の馬車が駆け抜けていく。
 
 レベッカはそれを見てかすかに眉をひそめた。
 彼女にとって、始まりの記憶は馬車だったからだ。
 
 
 男が倒れている。
 女が倒れている。
 
 男は紫色になった舌をベロリと口からはみ出させ、血の泡を吐いている。
 女は綺麗な顔半分と血に染まった髪で、紅い縞模様だ。
 
 少女はじっと二人を見つめている。
 
 雨が降っていた。
 
 男の上に横転した馬車が乗っている。
 女の頭は半分が異様にへこんでいる。
 
 少女の顔に、ぬるりとした何かが張り付いていた。
 人間の脳漿だ。
 
 倒れている二人は少女の両親だった。
 
 たぶん、父親は優しくて頭を撫でてくれたと思う。
 たぶん、母親は美人でよく笑う人だったと思う。
 
 でもそこにあったのは両親だったものの死体と、天涯孤独になった少女だけ。 
 冷たい雨が、少女の顔についた母親の部品を洗い流してくれた。

 泥にまみれて転がった、雨に濡れる母親の眼球が、まるで泣いているようだった。
 
 後で知ったのは、乗った馬車が横転して夫婦が死に、1人の年端もいかない少女が後に残されたという…おせっかいな婦人が同情して泣きそうな、ありふれた話。
 
 数日後、遺産をよく知らない親戚に搾り取られた少女は、下町の孤児院に預けられた。
 
 
 そこは地獄だった。
 
 鞭を持った神経質そうな男と、でっぷりと太った偽の尼僧がいた。
 
 孤児院の子供たちは飢えてぎらぎらしていた。
 食べ物を巡って争う子供たち。
 喧嘩して食器を使って殴り合い、死ぬ者もいた。
 
 諍いの首謀者は神経質そうな男に、鞭で散々ぶたれて泣いていた。
 
 愚かな奴ら…私ならもっと確実にしっかり食べられる、と少女は思った。
 
 太った尼僧が大喰らいなのは知っていた。
 彼女の食べ物をちょろまかすだけ。

 年下の、身体が大きな子供が一人、レベッカを姉のように慕ってくれた。
 少女は兄弟がいなかったので、その子供にだけは目を掛けてあげた。

 「姉ちゃん、姉ちゃん」と慕われることは、地獄で唯一、心が温まる瞬間だった。
 
 だからその少年には、狡猾に生きる方法を教えてあげた。
 二人で協力して、悪戯や窃盗といった悪さをしたこともある。
 
 悪事を知らなければ、出来なければ、そこは生き残るにも困難な場所だった。
 
 時々孤児院の子供たちは数が減った。
 すぐに新しい孤児が連れてこられたが。
 
 神経質そうな男と太った尼僧は、子供が減る度に銀貨を数えていた。
 
「あの生意気な餓鬼はどうしたの?」
 
「今頃、変態親父に嬲られてるさ」
 
「あのぼ~っとした娘は?」
 
「今頃、お人形さんみたいに貴族のボンボンの玩具になってるさ」
 
「昨日の綺麗な子は?」
 
「今頃、怪しい黒服の奴らに生贄にされているさ」
 
 そうして神経質そうな男と太った尼僧は、儲かった、とほくそ笑んでいる。
 
 少女は顔に泥を塗って普段は下を向き、馬鹿な振りをして、来客がある時姿をくらましていれば大丈夫だと知っていた。
 弟分には、同じように逃げる方法を教えてあげた。
 
 足を折った乞食の爺さんに、盗んだパンをあげたら教えてくれた方法だった。
 
 この馬鹿どもはなかなか売れないと、神経質そうな男と太ったシスターは嘆いたが、少女にはこんな阿呆どもに得をさせるつもりはなかった。
 どうせ一定の年齢になれば間引かれる…タイミングは分かっているのだから、それまではこの屑どもを利用すればいい。
 
 二人が酔っ払ったり出かけた隙に、銀貨をちょろまかして貯めてある。
 気付かれないよう、少しずつだ。

 …もう少しで千枚になる。

 少女はお金を使えばいろんなことが可能だと、大人たちを盗み見て知っていた。
 自分がお金を使うなら、太った尼僧のように無駄に太るまで食べたりしないし、神経質そうな男のように財宝を集めたりはしない。
 上手に使って見せる。
 
 お金を溜め切ったらこんな地獄、とっととおさらばする気だった。
 できれば弟分を連れて、だ。
 一人より二人の方がきっと生きて行くのにも楽しいし上手く行くと、あたりを付けていた。
 
 やがて、銀貨が九百九十九枚貯まった時、孤児院が火事になった。
 
 目の前で、太った尼僧が喉を絞められて殺されていた。
 
 神経質そうな男と、頭を布で巻いている男が戦っていた。
 
 神経質そうな男は、脇腹から血を流している。
 頭を布で巻いている男は、片腕が無くて血を流している。
 
 さっき頭を布で巻いている男は、子供を盾にした神経質そうな男に不意を突かれて、剣で腕を切られた。
 頭を布で巻いている男は、きっとお人好しだろう。

 盾にされたのは、あの弟分だった。
 神経質そうな男に、建物を燃やす炎が大きくなって弾けて大きな音を立てた瞬間、見えない位置から焦げた木片をぶつけてやった。
 びっくりした神経質そうな男が手を離した隙に、弟分は逃げてくれたようで、少しほっとした。
 
 少女はわざと、神経質そうな男が自分をまた盾にするように、怯えた振りをして近づいて行く。
 案の定、神経質そうな男が少女を抱き上げて剣を突きつけた。
 少女は神経質そうな男の首に抱きついて、その首の後ろの少し上に、拾ったばかりの錆びた長い釘を思いっきり突き刺した。
 
 神経質そうな男が、前に生意気な子供を殺した方法をその通りやっただけ。
 
 神経質そうな男はあっけにとられた表情で倒れ、びくびくと痙攣していた。
 たぶんこの時、少女は初めて自分の手で…人を殺した。

 案外、何も感じないものだ。
  
 少女は頭を布で巻いている男に近づくと、お礼に私を助けなさい、と言った。

 男はびっくりしたように眼を見張り、そして次の瞬間楽しそうに笑い出した。
 
 後で名乗り合う。
 少女はレベッカ、頭を布で巻いている男はユベールという名前だった。
 
 
「…昔を思い出すほど、年を食ったのかしらねぇ」
 
 レベッカは「ぼやくのがすでに拙いわねぇ」と思いながらまた歩き出した。
 
 前に、この都市の知り合いに聞いておいた目印を探す。
 
 見るとその盗賊は、また立ち番をしていた。
 
「精が出るわね、鎧の置物みたいにさ」
 
 レベッカが声をかけると盗賊は肩をすくめる。
 
「仕方ないさ。

 それに、鹿みたいに角突き(抗争に明け暮れる)するよか、遥かに楽だぜ…」
 
 盗賊…ファビオは、相棒に合図するとレベッカを連れて歩いて行く。
 
 行き先は前とは違う。
 今度は廃教会だった。
 
「あらま…
 
 最近は随分と信心深いわね~」
 
 ファビオは「言うな」、と肩をすくめた。
 
「前の巣は、ロネって〈蝿〉が馬鹿やって叩かれた。
 
 〈蝿〉は残飯か糞溜めに群がってればいいのによ」
 
 〈蝿〉とはちんぴらの隠語だ。
 
「〈蝿〉っていや、最近気障な〈羊飼い〉の小僧が〈蝿〉と〈ハイエナ〉を飼い始めて、お前んとこの〈虎〉のことを嗅ぎまわってるぜ。
 
 『蒼の洞窟』を泳いでる可愛らしい〈お魚〉を食っちまおうって腹みたいだがな。
 
 ま、今回のはサービスしとくぜ、レベッカ」
 
 〈羊飼い〉は聖職者、特に聖北教会や聖海教会などの僧職を意味する。
 〈ハイエナ〉は傭兵やならず者のことだ。
 〈虎〉は戦士でも腕の立つ者に使う。
 
 〈お魚〉というのは、ファビオが作った急ごしらえの造語だろう。
 
 抽象的だったり、長かったり、幅広い意味の言葉を飾って言う時は仕掛けがある。
 水に関係ある言葉、可愛らしい〈お魚〉、つまりはシグルトがよく会いに行く件の精霊術師だろう。
 
「ちんぴらっていや、最近気障な僧職の小僧がちんぴらと傭兵を雇って、お前んとこの戦士(シグルト)のことを嗅ぎまわってるぜ。
 
 『蒼の洞窟』の可愛らしい精霊術師をやっちまおうってことが、目的みたいだ」
 
 ファビオがレベッカに伝えた言葉の意味は、このようなものである。
 
「ありがとう、ファビオ。
 
 お礼と言っちゃなんだけど…
 最近あんたんとこ、随分〈鮫〉に食い荒らされてるわよね?
 
 他の海で馬鹿な〈雑魚〉どもが、次にロアンの港で食事をするって息巻いてたわ。
 たぶんあと二、三日後みたい。
 
 どう、あんたの腹の足しにはなりそう?」
 
 レベッカの言葉にファビオが目を丸くし、続いてニヤリと笑う。
 
「ありがてぇ…
 
 今度一杯奢るぜ、レベッカ。
 ボスが探してたネタなんだ」
 
 貸し借り無しでいいわよ、とレベッカがファビオの肩を叩く。
 
「最近なんか〈鮫〉によく関わってね~
 
 フォーチュン=ベルでも〈鮫〉釣りするはめになったわ。
 あんたんとこ荒らしてるのよりは、綺麗な海の連中みたいだったけどね」
 
 〈鮫〉は海賊を意味する隠語である。
 
 隠語と関係ある言葉で、会話をまとめるのがスマートなやり方だ。
 
 レベッカはロアンという港を二、三日後に海賊が襲撃しようとしている計画があるをファビオに伝え、最近フォーチュン=ベルでやった海賊退治のことを話題にしたのだ。
 ちなみに「あんたんとこのより綺麗な海の連中」とは、「あんたのところの海賊よりは道理をわきまえていた」という意味だ。
 
 最近アレトゥーザ近郊を悩ます海賊の非道ぶり、は有名だった。
 
「まったくだぜ…
 
 最近ボスの機嫌が悪くてよ。
 〈鮫〉の中に獰猛な奴がいるみたいで、陸まで上がって来て喰いやがる」
 
 陸に勢力を伸ばした海賊に悩まされていることを、ファビオはぼやいていた。
 
「ま、がんばんなさいな。
 
 応援ぐらいはしてあげるわよ?」
 
 そういうレベッカに、ファビオは、それじゃ腹はふくれねぇんだよ、と毒づいた。
 
「おっと、いけねぇ…お仕事、お仕事、っと。
 
 今日はどんな用事だレベッカ?」
 
 回り道をして本題に入る。
 情報戦から入る盗賊にとっては何時ものことだ。
 
「あんたんとこ、〈鼠〉に芸を仕込んでくれるんでしょ?
 
 昔の勘を取り戻したくなってさ…
 
 あの頃得意だったちょっとした小技と〈蛇〉の芸を鍛えたいのよ。
 〈大蛇〉が踊るような凄い奴、ね。
 
 しばらく厄介になりたいんだけど、いいかしら?」
 
 ファビオが目を丸くする。
 
「〈蛇〉の芸って、お前…」
 
 言い難そうにするファビオにレベッカは、いいのよ、と言って続けた。
 
「確かに私は〈蛇〉の芸は嫌いよ。
 
 でもあんた、知ってたわよね?
 〈雌蟷螂(めすかまきり)〉に仕込まれてたこと」
 
 〈雌蟷螂〉という言葉に、ファビオが心底嫌そうに眉をひそめた。
 
「…ああ。
 
 そんなことがあったって聞いた時は、相応しくねぇ仕事をやらせた、事に関わった連中を全員絞めたくなったぜ。
 …ユベールの親父や、お前の腕に対する侮辱でしかねぇ」
 
 最高の〈鼠〉をよ、とファビオはむっつりと黙り込んだ。
 
「別にいいのよ。 
 ファビオは〈鼠〉が過去に何仕込まれて何食ってたかって、蔑んだ目では見ないからね。
 
 〈雌蟷螂〉の仕事は一番やりがいの無い仕事だったからねぇ。
 
 上で尻振ってる雄を、さっくり食い殺しちゃうだけなんだけど、臭いし汚いしさぁ…」
 
 さらに嫌そうな顔をするファビオに、ごめんごめんと謝りつつ、レベッカが頭を掻く。
 
 〈雌蟷螂〉というのは、性行為の最中に男を殺す暗殺者のことである。

 蟷螂の雌は交尾中に雄を食べてしまうことから、こう呼ばれている。
 暗殺のやり方の中でも、最も汚れた方法として忌み嫌われていた。
 
 〈蛇〉は暗殺者や刺客を意味し、例えば〈毒蛇〉が毒薬を使う暗殺者、〈大蛇〉が絞殺を専門とする暗殺者のことだ。
 執念深く獲物を狙う様からこう言われている。
 
 レベッカは本来穏健派の盗賊で、得意分野はスリや盗みだったが、今までに殺した人間もたくさんいる。
 
「最初に獲物を食ったのは八つの時よ。
 
 ま、今更聖処女様を気どるつもりは無いけどね。
 
 今まで必要無いから、芸から離れてただけよ。
 これからは〈蛇〉に戻ることがあってもいいと思ってる。
 
 綺麗な奴が汚れるより、慣れてるのが代わってやった方がいいでしょ。
 効率もいいし、さ」
 
 遠い目をして、優しげな笑みを浮かべるレベッカ。
 
「〈猫〉が女王やってた頃と同じ目をするんだな…」
 
 ファビオは懐かしそうに呟いた。
 
 リューンでファビオを助けた時も、この女盗賊は仲間や後輩たちをとても大切にしていた。
 
「残忍なくせに、身内には甘いんだよな、お前」
 
 ファビオの苦笑に、悪い?と返すレベッカ。
 
「いいや。
 
 俺はそういうところ、嫌いじゃないぜ。
 お前の男になるのは勘弁してほしいけどな」
 
 「失礼ね~、私だってあんたなんか願い下げよ」とファビオの脇腹に拳を入れてくる元暗殺者をなだめながら、ファビオは地下にある訓練場にレベッカを連れて行った。
 
 
 レベッカは近くに置いた鉢の中に入っている銀貨を、少し離れた場所にある籠に投げ入れていた。
 ひたすらそれを繰り返している。
 
 だがよく見れば、レベッカが投げる度に、銀貨を挟むその指が変わっていることに気がつくだろう。
 
 親指と人差し指、親指と中指、親指と薬指、親指と小指、人差し指と中指、人差し指と薬指、人差し指と小指、中指と薬指、中指と小指、薬指と小指で1セット。
 
 今度は格好を変えながら行っていく。
 時には座って、時には片手で壁に寄りかかって、時には食事をしながら、時にはワインを瓶ままラッパ飲みしながら。
 
 朝からそれだけを行っている。
 
 銀貨はすべて籠に入っていた。
 
「…やってるな」
 
 ファビオが若い男を連れて訓練場に入ってくる。
 野暮用があるからと留守をしていたようだ。
 
「まったく、生徒をほったらかしてどこ行ってたの…
 
 ファビオって女に興味がなさそうって思ってたけど、そこのはあんたの新しい恋人かしら?」
 
 馬鹿言え、俺は男色の気はねぇぜ、と口を尖らすファビオ。
 
 側にいた軽そうな男は、レベッカの投擲を見ていたが、「上手ぇな」と呟いた。
 
「…その若いのは何よ?」
 
 レベッカはまた銀貨を投げる。
 
「憶えてないのか?
 
 まあ、お前が…」
 
 ファビオが言おうとした言葉を制して、レベッカは薄っすらと笑う。
 
「分かるわよ。
 
 “風を駆る者達”のユーグ、でしょ?」
 
 そして、後ろの男にウインクをしてみせる。
 
「…いい腕だ。
 
 〈盗賊の腕一本は命の半分〉ってわけだ」
 
 ユーグと呼ばれた男はニヤリと笑う。
 それはレベッカとユーグにとって、特別な意味を持つ言葉だった。
 
 レベッカが最後の銀貨を放り投げる。
 それが綺麗に籠に入った。
 
「ひゅぅっ♪
 
 百発百中か?」
 
 ユーグが言うとレベッカは左右に首を振った。
 
「百枚中三枚が裏になっちゃったわ。
 
 まだまだよねぇ…」
 
 ファビオが籠を見て唸る。
 
 籠の中で綺麗に重なっている銀貨の中に、裏向きに伏せられたものが確かに三枚あった。
 こんな結果を出せる者は、盗賊ギルドでも数人しかいない。
 
「ファビオが惚れ込むわけだな…
 
 確かに噂通りだ」
 
 レベッカはしばらくユーグを見ていたが、なるほどねぇと頷く。
 
「…思い出したわ。
 
 ファビオが連れて来たのは、そっちでかぁ」
 
 レベッカはふう、と息を吐くとユーグに椅子を勧める。
 
 近くのテーブルの上にあったワインの栓を、ナイフで器用に抜くと、グラスに注いでユーグの前に置く。
 
「…お父ちゃんの葬式以来ね、ユーグ坊や。
 
 今まで思い出せなかったのは、それだけなまってたって証拠だわ」
 
 記憶術は、盗賊の重要な能力である。
 自嘲的な笑みを浮かべ、レベッカはくいっとワインを一口呷ると、目を細めてグラスを回し弄び始める。
 
「親父が泣くぜ、レベッカさんよ。
 
 俺より目をかけられてた、あんたがそれじゃあな…」
 
 ユーグもワインを呷り、この季節なら冷えたエールの方が美味いな、と言う。
 
 二人は、初めて会った日を思い出していた。
 
 
 昔、ユベールという盗賊がいた。
 
 盗賊の中の盗賊と讃えられた人物で、リューンの盗賊ギルドで幹部をしていた男だ。
 
 しかし彼は組織の縄張りで悪さをしていた男を粛清しようとして、思わぬ反撃から盗賊の商売道具とも言うべき利き腕を失ってしまう。
 ユベールの配下は不幸を嘆き、彼のライバルはお祭りのように喜んだ。
 
 だがユベールは、気落ちした風でもなかった。
 ギルドから去っていく彼の傍らには、八歳ぐらいの小汚い女の子がついていた。
 彼曰く、命の恩人だ、とのことだった。
 
 ユベールは何を思ったのか、家族と離れてその女の子を引き取ると、リューン郊外の小さな家に引っ越した。
 
 誰もが腕を失っておかしくなったんだと言ったが、一月後に様子を見に行ったギルドの盗賊は目を見張った。
 
 現れた愛らしい容貌の少女が、お茶を入れてくれたのだ。
 
 ユベールはその時、盗賊にこう言ったという。
 
「俺は半分死人さ。
 
 あの時食らった傷と武器に塗ってあった毒の後遺症でそんなに生きられんし、周りには醜態を晒しているようにしか見えないかもしれん。
 
 だが俺は宝石の原石を手に入れたのさ。
 今の俺には後継者を残すことしかできないが、全てを譲れる逸材を見つけられた。
 
 腕一本と数年の命でも、最高のお宝に換えたと思えば安いかもしれんな…」
 
 それから二年後に、ユベールは静かに息を引き取った。
 看取ったのはその少女である。
 
 葬儀の席で、泣きもせず葬儀に参列していた黒い喪服の少女。
 
 少女をじっと見ている少年がいた。
 ユベールの忘れ形見ユーグである。
 
 周囲の盗賊仲間はその少女…レベッカを見て、陰口を囁いた。
 ユベールに育てられた盗賊たちなどは、泣きもしないレベッカに「恩知らず」と口汚く罵った。
 
 ユーグはその時に、薄ら寒い笑みを浮かべて盗賊たちに言い返したレベッカをはっきりと憶えている。
 
「あんたたちは三流ね。
 
 お父ちゃんはいつでも冷静沈着にっ、て言わなかった?
 こんなところで私が泣き喚いたら、お父ちゃんが化けて出るわよ。
 
 私は笑って送ってあげたわ。
 それが私の手向け方よ…」
 
 侮辱されて怒り、叩こうとした大人の盗賊を足を引っ掛けて見事に転倒させると、レベッカはユーグの元に来てその頬を両手で優しく包んだ。
 
「…お父ちゃんはあんたに、盗賊にはなってほしくないってさ。
 
 でもお父ちゃんの子供だもんね、分からないよね。
 あんたの人生はあんたで決めるんだよ、ユーグ坊や」
 
 ユーグの周りの人間は、レベッカが父親を奪ったのだと教えて来た。
 だが、ユーグはこの日レベッカに言われたことを忘れなかった。
 レベッカを憎む気は起こらなかった。
 
 
 レベッカがユベールを葬った後のこと。
 
 元々ユベール最後の弟子という肩書きしか持っていなかったレベッカは、ギルドの使い走りをしながら、〈猫〉(スリ。相手にすり寄っていく様からそう呼ばれる)をして糊口をしのいでいた。
 
 少し成長して初潮が来ると、その容貌の美しさを見込んだ暗殺部門の幹部が、色香で男をたらし込み殺す〈雌蟷螂〉としてレベッカを引き取って鍛え、レベッカは暗殺者として数年を過ごす。

 その幹部は目的のためには手段を選ばない卑劣な男で、魅力的な容貌の女盗賊の弱みを握って自分の情婦にしたり、〈雌蟷螂〉や〈女郎蜘蛛〉(娼婦の肩書きを持つ暗殺者で、〈雌蟷螂〉が場所を問わないのに対し、娼館や決まったねぐらに誘い込んで暗殺を行う)といった身体を武器にする女の暗殺者を、多数手下に持っていた。

 まだ年齢が若く、後ろ盾の無かったレベッカは、つけ込まれて〈雌蟷螂〉をやることになったのだ。
 レベッカはその男の下で十人以上殺したが、結局その上司はある日あっけなく首を絞められて殺された。

 実はその上司を殺した男が、レベッカが〈雌蟷螂〉になる代わりに〈女郎蜘蛛〉から足を洗わせた〈猫〉時代の仲間であり親友の、兄だったのだが。

 問題の多かった上司の死には何も感じなかったが、レベッカは身の振り方を悩んだものである。
 
 レベッカの扱いに困った盗賊ギルドは、最初にやっていた〈猫〉の部門にレベッカを送るが、その時、あまりに鮮やかなレベッカの腕と統率力にギルドのメンバーたちは驚嘆した。
 そしてユベールは正しかったと口々に言い、レベッカはあと十年もすれば上級幹部だろうと噂されるようになった。
 十代で下級幹部である〈猫〉の親となり、“猫の女王”という別名を知らしめたことは、多くの盗賊の間で語り草である。
 
 しかし、かつてレベッカの師であるユベールと対立していた老年の幹部が、彼女の台頭を恐れて〈猫〉の部門を縮小したのである。
 盗賊同士では、疑心暗鬼でこの手の牽制がよく行われた。
 
 レベッカはそれを期にギルドを抜けて、冒険者になったのである。

 〈雌蟷螂〉の時代、幹部に請われてレベッカに女の武器…誘惑の仕方や化粧、養生術(いわゆる閨のテクニックである房中術の他に、薬学や健康法、その逆を含めた知識と技術)を教えたのは、当時のギルドの若手で最強の暗殺者だった“黒豹”エイダであった。
 エイダは数ある後輩の中でも、レベッカは特に目をかけて可愛がり、自身が諸事情で盗賊ギルドから抜けて冒険者として大成した後、レベッカが冒険者になる時は様々な場所に口利きをしてくれた後援者である。
 レベッカが冒険者という職業に就いたのは、この大先輩によるところが大きい。
 “黒豹”エイダの弟子、というのもレベッカの持つブランドである。
 
 レベッカの実力を知る者たちは、彼女の腕を惜しんだ。
 なにしろ大盗賊“錦蛇”ユベールと“黒豹”エイダの愛弟子で、二十歳前に、下級幹部に抜擢される程の才媛である。
 
 レベッカ自身は盗賊の前線から身を引いて気楽になったと、落ち込んだ様子もなかったのだが。
 そして、それからは自堕落に過ごすようになった。
 
 時が経ち、また組織の内部が入れ替わり、レベッカの実力を知る者は、彼女を何度も組織に誘ったが面倒だからと引き受けなかった。
 
「組織に属してると、細かい掟やら派閥やらと、しがらみの中で生きなきゃいけないから胃が痛くなるのよねぇ。
 せっかく面倒な手続き無しで、ギルドの檻から出られたんだし。
 
 慕ってくれる若いのがいるのは嬉しいんだけど、看板として担がれて矢面に立たされるのは勘弁願いたいわ」
 
 後年、酒を飲んだ席でレベッカがそうぼやいていたと、ある盗賊は語る。
 
 レベッカ弱みは後ろ盾になるビッグネームが身近にいない、ということだった。

 彼女の最大の後援者である“黒豹”エイダは冒険者として活躍した後、遠方の都市で恋人の子を産み、その都市で盗賊ギルドのトップになっていた。
 大先輩の威を借りるにはいささか距離があり過ぎるし、エイダはリューンの外…他所の組織関連の人間ということで扱いが繊細だ。

 そういう自分が台頭して面に出れば、警戒されて真っ先に潰されることをレベッカはよく心得ていた。
 
 だが、スリの時代に面倒を見た後輩や、彼女自体が作った仲間同士のコネクションはかなりのもので、彼女を慕う者や親しい盗賊も今だ多い。
 
 アレトゥーザのファビオもその一人である。
 
 
「それにしても、あのユーグ坊やが、ねぇ。
 
 今は新進気鋭のパーティで、腕を唸らしてるって話じゃない。
 願わくば、敵同士にならないようにって思うわぁ」
 
 レベッカがワインを飲みながら、うんうんと頷いている。
 ほんのりと頬が赤い。
 
「…その坊やっての、やめてくれねぇか?
 
 あんたとだって大して変わらないはずだぜ」
 
 ユーグは気に食わない、という顔でワインを飲み干す。
 
「そうね、そんなガタイで坊やも無いか。
 
 大きくなったもんよねぇ」
 
 そう言って、レベッカは手の上でくるくるとグラスを弄んでいた。
 かなり際どい扱いをしているが、中身のワインは一滴も零さない。

 格下に扱われているようで、ユーグは不愉快になってくる。
 
 最初からこの女は、ユーグを子供扱いだった。
 盗賊らしく、やり返さねばなるまい。
 
「…ケッ、年くってあんたがババァになったんじゃねぇのか?」
 
 坊や扱いなら年増扱いが意趣返しになる、と毒舌で一本取ろうとしたユーグは、次の瞬間首に綱を巻かれ吊り上げられていた。
 
「…ッッッ!!!」
 
 顔の横には、ぞっとする暗い目で自分を見ているレベッカがいた。
 ユーグは素早く綱を短剣で切る。
 
「…女に歳の話をするもんじゃないわよぉ」
 
 とろんとした様子で、レベッカはすでに座りワインを飲んでいる。
 先ほどの殺意に満ちた目ではもうない。
 
「…だ、だからって、絞めるか、普通っ!」
 
 酔いが醒めて冷汗を流しつつ、ユーグは悪態をつく。
 
「どうやら、俺が教えなくてもすぐ昔のお前に戻りそうだな…」
 
 ファビオがやれやれと肩をすくめている。

「って、おま、こらファビオ!
 
 涼しげに、殺されそうになった俺を無視すんじゃねぇ!!」
 
 激昂するユーグに、ファビオが切れた綱を指差していった。
 
「よく見ろ。 
 この綱は練習用だ。
 
 本物ならもう喋れねぇし、喉の痕もそんなじゃ、すまねぇぜ?」
 
 アレトゥーザの盗賊ギルドには【絞殺の綱】という暗殺芸が存在する。 
 ユーグも得意とするそれは、敵の背後に回りこんで首を絞め、声を上げることもできないままに絞め殺す技である。

 絞殺は古くからある暗殺の技で、絞殺紐(ギャロット)と呼ばれる革の紐を使う。
 実際には、【絞殺の綱】の綱は特殊な鋼糸を仕込んで強度を増し、ユーグが切って抜け出したような防御ができないようにしてある。

 絞殺紐には両端に滑らなくするために鮫の皮が編みこまれ、輪を作って絞めると仕込んだ鋼糸がむき出しになり、発声器官を強烈に圧迫して、綱を外しても少しの間声を上げられなくなる。
 乱戦において締め上げた対象を盾にし、身を守るところまで考えた、実に悪辣な技であった。
 
 絞殺術は大蛇が獲物を絞め殺すのに姿が似ている。
 袋をかぶせて黙らせる方法もあり、これは〈飲込み〉や〈丸飲み〉などとも呼ばれる。
 故に絞殺を得意とする盗賊は〈大蛇〉と呼ばれるのだ。
 
 ユーグは落ちていた綱を摘み上げて、なるほど、と言った。
 
 それは綿で作ったもので、強く締めると普通はすぐ切れてしまう。
 
 首に頑丈な皮と金属の防具を巻いた練習相手が動き回り、それを捕らえて綿の綱を首に巻き絞めて切るのが【絞殺の綱】の訓練法なのである。
 おそらく、ユーグが短剣を使わなくても勝手に切れただろう。
 
「練習用にしちゃ、一瞬身体が浮いたぜ、畜生…」
 
 ユーグが喉を擦りながら言うと、レベッカは艶然と微笑んだ。
 
「お父ちゃんは、それで人を絞め落せたそうよ。
 
 あんたも“錦蛇(パイソン)”ユベールの息子なんだがら、精進しなきゃね」
 
 ユーグの父親は【絞殺の綱】を得意としていたらしい。
 
 絞殺術は窒息させることを目的にしているように見えるが、実際は脳に行く血流を止めて絞め落し、意識を奪ってから窒息させるのが理想的な形だ。
 さらに優れた使い手は、相手を落す前に頚骨をはずすか砕いて殺すこともできたと云われている。
 
 芸が巧みなら、ユーグも落ちていたかもしれないわけだ。
 
「ユベールの親父が現役だった頃にゃ、綱一本でいろんな技がやれたらしいからな。
 
 だから〈大蛇〉の中でも派手な“錦蛇”なんて呼ばれてたそうだ。
 カラフルに何でもこなすって意味でな。
 もっとも、あの親父は『百芸百名』って話だからよ。
 
 その異名もあだ名の一つに過ぎなかったんだろうぜ…」
 
 ファビオがしみじみと言う。
 
 ユーグは面白くも無い顔である。
 
「まぁ、間違ってもガリーナっていう意中の可愛い娘に、今みたいな失言やって呪われないようにねぇ…」
 
 レベッカはワインの栓を手に取ると、素早く銀貨の入った籠に向けて投げる。
 その一擲は迷い込んできた一匹の蝿を打ち落とし、栓は籠の中に落ちた。
 
「…あんた、酔ってないだろ?」
 
 ユーグはこの女に試されたと知って、ぶすっとした顔で言った。
 
「今更気が付いたの?
 
 まだまだ坊やねぇ…」

 さらに痛烈な意趣返し…言葉にはもうできないが、まさに年の功だ。
 
 顔色を操作して自在に表情を作るのも、盗賊の変装術の一つである。
 この女は〈狐〉(詐欺師)にもなれるだろう。
 
 ユーグは、レベッカとの再会を少し後悔した。
 
「…ところで、ユーグ。
 
 あなた、情報を手に入れるとかの理由でたくさん女の子口説いてるみたいねぇ。
 フォーチュン=ベルの『幸福の鐘亭』のママとかさ」
 
 ユーグは、レベッカとの再会を激しく後悔した。
 
「は、ははは、何言ってるんだ、お、俺はガリーナ一筋…」
 
 別の意味での冷汗をかきつつ、ユーグは、レベッカとの再会をとてつもなく後悔した。
 
「あら、本当に?
 
 じゃ、あんたが仲間からちょろまかしたお金を、賭博ですったとかいう噂もあるんだけどぉ…」
 
 ユーグは目の前の女が悪魔のように思えて来た。
 
「し、しらねぇぞ、俺は。
 
 証拠があるとでも言うのかよ!!!」
 
 横でファビオが、この女の地獄耳は情報屋泣かせだぜぇ、とか言っている。
 
「別に証拠なんて無いわよ。
 
 でも一回、あんたの仲間を連れて賭博場に行ってみない?
 行ってないなら、〈旦那、毎度!〉なんて声はかけられないでしょうから、大丈夫よね?」
 
 ユーグは顔が引きつりつつあった。
 
「再会を祝して、河岸を代えて飲むとしましょうか。
 
 もちろんユーグの、お・ご・り・でっ♪」
 
 硬直しているユーグの肩を、ファビオが軽く叩く。
 
「…うわばみで高い酒が好きだから、財布の中身にゃ気をつけてな」
 
 まったく、怖い蛇女だ、とファビオが肩をすくめると、ユーグは恨めしそうにファビオを眺めつつ、レベッカに襟首を掴まれて引きずられて行くのだった。



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Y字の交差路


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『古城の老兵』 【影走り】開眼

2018.06.26(20:53) 456

 仲間と別れたシグルトは、一人『幸運の鐘亭』の裏手で剣の鍛錬をしていた。

 ブレッゼンに宿題として、渡された黒い鉄塊のような剣を実戦で使うように言われていたが、普段の鍛錬から実戦さながらの訓練をするシグルトにとって、難しいことではなかった。
 必要な実戦使用に達した剣は、間も無くブレッゼンに預ける必要がある。

 しばしの愛剣との別れ。
 惜しむならば、やることは鍛錬と決まっていた。

「物凄い剛剣ね。

 でも、剣の基礎がなってない」

 後ろから呟かれた言葉に手を止めて振り返ると、見目麗しい赤毛の女がそこに立っていた。
 鎧を纏い、大振りの剣を腰に佩いているので剣士のようだ。

 すぐに剣を鞘に納めると、女剣士に一礼する。

「見苦しいものを見せてすまない。
 俺は冒険者“風を纏う者”のシグルト。

 あなたは一角の剣士とお見受けする。

 恥ずかしい話だが、剣を始めてまだ三月。
 見ての通り、我流の先輩から幾分学んだだけの素人だ。

 もしあなたが見て、問題があるところがあれば御教授願えないだろうか?」

 振り向いて名乗った美しい男に、女剣士の顔が真っ赤になる。
 鍛錬のため上半身が裸だったためだろうか。

 シグルトが汗を拭いて上着を纏うと、女剣士は幾分落ち着いた様子になっていて困ったように語り出した。

「私はリリィ・ローズレイク。
 あなたと同じ冒険者をしているわ。

 …ごめんなさい。
 盗み見するつもりはなかったのだけれど、見ていたらなんというか、もったいなくて。

 あなたは凄い才能と、戦いの鍛錬を何年も積んできたのは分かるわ。
 技の一つ一つが迷っていない。
 戦闘におけるそれぞれの一動作としてはよく練られているし、そういう意味では後輩に戦い方を教えるのにも問題の無い実力があるのでしょう。

 普通の冒険者は初めて逢った女に、いきなり指摘された言葉だけで教えを乞うようなことはしない。
 武芸者として、きちんと私を測って見てくれたのね。
 〈女のくせに〉とか〈若輩が何を言うか!〉となじられたことはあるけれど、あなたのように素直に問い返した人は初めてだわ。

 私がアドバイスできることは大したことではないかもしれないけれど、一人の剣士が頭を下げて教えを求めたのだから、それに応えるのが同じ剣士というもの。
 深淵無辺の奥義には私自身も至っていないけれど、剣の先輩として応えます」

 シグルトの眉が、ローズレイクの名を聞いてピクリとした。

「あなたは高名なアイケイシアの大剣豪、ライラック・ローズレイクの御親族か?」

 シグルトの口から出た言葉にリリィと名乗った剣士は「父を知っているの?」とびっくりした様子で聞き返した。

「俺の祖国はシグヴォルフ。
 北方の国だ。

 エルトリアの武王が膝を屈して教えを求めた達人の名は、北では有名だ。
 俺の父も、北方ではそれなりに名の知れた剣士だったが、剣士と言えばあなたの父上とその盟友ナルシウス・トランシルブの名をよく語っていた。
 自分などは彼らに比べれば二流三流であると」

 今度はリリィの方が目を見開いた。
 父の名は有名だが、北方のエルトリア王国で剣術指南をしていたことは、西方ではあまり知られていない。

 そして、同じように武芸を志す若手の中に、ある気難しい槍の達人が一番弟子として認めた若者がいたことを思い出す。

「あなたはもしかして、"青黒き稲妻"シグルト?

 "眠れる閃光"アルフレトの息子、三形の槍を極めたハイデンがただ一人認めた高弟の?」

 懐かしい名前にシグルトは苦笑した。
 "青黒き稲妻"とは、一年ほど前までは国で知らぬ者が無かった武名だ。

 腕に巻いた布切れを解く。

 酷い傷痕にリリィの表情が曇った。

「…見ての通り、今の俺は剣どころか半生を尽くした得意技も使えないほど衰えている。
 槍の道は、志半ばで折れてしまった。

 今は冒険者として、何とか並ほどに剣が使えるようになれないか模索している。
 人生のほとんどを剣に費やした人から見れば、なんと身の程知らずと笑われてしまいそうだが。

 呼んでくれた二つ名は、どうか二度と使わないでほしい。
 父と友と幼馴染の墓前に、槍とともに置いてきた名だ」

 青黒い瞳の奥に熾火のように凝る闇を見て、リリィは神妙そうに頷いた。

「あなたたち"風を纏う者"は、このフォーチュン=ベルでも有名よ。
 正直言うと、どんな人たちか知りたくて覗きに来たの。

 もう呼ばないつもりだけれど、あなたの過去の武名を知っていれば納得できる。
 あのブレッゼンが久しぶりに剣を預けたことも納得がいくわ。

 でも、だからこそ不思議なの。
 なぜ【剣】なの?

 シグヴォルフ王国は【帯剣王授(たいけんおうじゅ)】が有名で、王に認められた騎士でなければ剣の所持を許されない国だったのでしょう?
 国を出たからといって、気安く持とうとは考えられない武器のはずよ。

 それに、剣の道はライバルも多い。
 この西方でどれだけの剣術道場があるか知ってる?

 玉石混交。
 そんな混沌とした剣の道を、一度違う武で高みに達したあなたが歩むのは、あまりにも無謀だわ」

 厳しいリリィの指摘に、シグルトは頷く。

「玉石混交…なればこそだ。
 数多くある剣の道であれば、病んだ俺でも振るえる技があるかもしれないと思った。

 あとは、血だろうな。
 国にいた時は諦めていたが、俺は父を尊敬していた。

 理由あって、生前の父は俺が剣を持つことを許してはくれなかったが…亡くなってしまった父の何かを、受け継ぎたかったかもしれない。

 これでは、動機が不純だろうか?」

 リリィはそんなシグルトの瞳をじっと見て小さく「いいえ」と答えた。

 少なくとも、ただ強くなりたいとかなんとなく剣の道を選んだ者達よりは、よほどしっかりとした理由である。
 それに彼の振る剣を見ていれば分かる…純粋でひたむきな剣筋だったのだ。

「おそらくあなたの剣は、普通の剣術道場の師範が見れば〈素晴らしい〉と言われるものだわ。
 あなたはそれに納得しないでしょう。

 最近まで武器を壊さないことに腐心してきたのね。

 でも、優れた武器を持てば、それが自分の未熟さを教えてくれる。
 圧倒的に足りないもの…積み重ねた練度の無さを。

 あなたの剣の振るい方はつぎはぎだらけ。

 武芸書を見て、どうすれば正しいのか模索しながら剣を振るっている…
 あるいは他人のそれを見て、かしら?
 他者の剣を見るのは、その人の未熟さも移ってしまうから…いえ、あなたの正直な剣はそれがよくわかっているから、模索し続けているのね。

 きちんとした正当派剣士であれば、師範や先輩がついて姿勢を見ながら型稽古を繰り返すわ。
 決して歪みが出ないように。
 その術理は剣士たちが何代も時を重ねて至ったもので、教わって繰り返し、身体で覚えるしかない。

 今のあなたの剣は、生まれたばかりの野獣が力任せに角を振るうよう。

 剣の道は術理の道。
 野生を脱却した理知と研鑚の果てにあるもの。

 剣はバランスに優れる武器であり、槍のように突出した間合いや、斧や鎚鉾のような破壊力も無い。
 だから常に器用貧乏で、足りない部分を技で補う必要があるの。

 今のままでは絶対に、壁に行き当たる。
 違うわね…壁を越えられないからこそ、私に尋ねたのね?」

 探るように思案し、女剣士は問うた。

「その通りだ。

 過去に槍があった俺は、父が本気で振るう剣を見たことも無い。
 達人の剣、というものを体感したことが無いのだ。

 俺の知人に優れた剣士がいたが、彼女の剣はとても綺麗だった。
 あなたの言うつぎはぎではない…絶え間なく鍛えた、密度の高い剣を振るっていた。

 彼女が近くにいれば、あるいは学ぶ機会があったかもしれないが。
 今はとても遠い場所にいてそれもかなわない。

 達人が何年もかけて編み出した基礎を、剣を始めたばかりの俺が思いつくはずもないのだ。
 俺は、剣の基礎たる【形】を知りたい」

 武にかける誠実さが、うかがい知れる回答であった。

 リリィはぞくり、と背を駆け抜ける衝動に身震いする。
 この若者は、教えればそれを高みに至るまで続けるだろう。
 ―――彼女が教える【それ】で。

 剣で必ず何かを成す…そんな予感があった。

「まず、私の剣を見て。

 その後には、剣を合わせましょう。
 あなたなら、それだけでいいはずだわ」

 わくわくするような光を瞳に宿し、女剣士はシグルトの前で自分が学んだ剣の一番基礎となる型を演武し始めた。


 キャロライナ・トランシルブは頭に来ていた。

 今日は一緒に剣を交えようと思っていたライバルが、予定の時間になっても一向に宿にやってこないのだ。
 約束したわけではないが、生真面目なそのライバルならば定刻通りにやって来たはずだった。

 仕方がないのでフォーチュン=ベルの街を歩く。
 すると、初心冒険者たちがよく集う冒険者の宿『幸福の鐘亭』の裏手で、目的の女剣士を見つけた。

 いつものように憎まれ口を仕掛けようとして…キャロライナは、ライバルが一緒にいる男性に初めて目が行く。

 …息を飲むほど美しい男だった。
 青黒い髪と瞳に白い肌、長い睫毛と女性と見まごうような顔立ち。

 反面、武骨なほどに鍛えただろう手足は無駄なく締まり、行う動作には一片の無駄も無い。

(…ああ、なんて綺麗…)

 それはライバルが得意とする、ローズレイク流【獅子の剣】最初の型。
 愚直に、武骨に、ただそれを繰り返す美しい男。

 学んで間もないとすぐにわかるが、どうしてこうも惹き付けられるのだろう?
 はっと気づけば、ライバルの方も彼の一挙一動に見惚れている。
 その姿を見た時、耐えられないほどの嫉妬心が燃え盛った。

「…リリィ~?

 修行をさぼって、何男と逢引きしてるんですの!」

 突然現れたライバルに、リリィが驚愕して目を見開き、それから一瞬の後にその赤毛と同じように顔を赤く染めた。

「あ、逢引き!?
 ち、ちがっ、違う!

 私はただ、この人に剣を教えていただけで…」

 そうなの?と美青年の方を見るキャロライナ。
 まともに見ようとすると拙い…顔が良過ぎる。

「リリィ嬢の言っていることは真実だ。

 俺はシグルト。
 冒険者パーティ"風を纏う者"で代表者をしている。

 見苦しい鍛錬をしていたところをリリィ嬢に指摘され、助言を受けていた。

 彼女の名誉のためにも…冒険者の自由に懸けて、逢引きなどという不純なことではなかったと誓おう」

 まっすぐに見返されて、今度はキャロライナの方が真っ赤になった。

「あ、そうなのですか…はい、わかりました」

 こういう時、怒ってごまかす者や照れて否定する者はいるが、シグルトの弁明は理路整然としていて、後ろ暗いものが全く感じられない。

(…"風を纏う者"のシグルト?

 あの海賊ジャドを、防衛装備もろくに無かった商船で迎え撃って、完勝に近い形で撃退したという、魔法剣士。
 新進気鋭の冒険者ですわね。
 なるほど、後々わたくしたちのライバルにもなりうる存在。

 リリィは様子を見に来たというところかしら?)

 思わず目をそらしながら、その理由付けに顎に手をやってみる。
 幾分頬の熱が下がってから、心構えをして美しい黄金の巻き毛を掻き上げ、シグルトの方を見やった。

「初めまして。
 わたくしはキャロライナ・トランシルブ。
 ローズレイク流【飛燕剣】最高師範ナルシウスの娘にして、高貴なるトランシルブ家の血に連なる者ですわ。
 
 そこにいるリリィとは同じ道場時代からのライバルというところですわね。

 あなたの武名は聞き及んでいますわ、シグルトさん。
 勘違いをして、申し訳ありませんでした」

 貴族の生まれであるキャロライナは、ライバル以外に対しては誇り高き令嬢である。
 優雅にカテーシーをしてシグルトに非礼を詫びた。

「なるほど、ローズレイク流至高の双剣…その御令嬢がそろい踏みというわけか。
 どうやら俺はお二人に迷惑をかけてしまったらしい。

 非礼を謝るのは俺の方だ。
 キャロライナ嬢、あなたの尊き血潮と誇りに、敬意と謝罪を。
 あなたの相方の時間を浪費させてしまい、申し訳なかった。

 リリィ嬢、あなたの鍛錬も邪魔してしまったようだ。
 心より謝罪する。

 俺がこのフォーチュン=ベルに滞在する時は『幸運の鐘亭』を使っている。
 アレトゥーザでは『悠久の風亭』を常宿に、所属はリューンの西地区郊外にある『小さき希望亭』だ。

 何かあれば、この恩は必ず返そう。

 あなたの指導に感謝を」

 優雅に胸に手を当て、キャロライナに貴人の礼を返してから、リリィに謝罪して自分の主な滞在先を告げる。
 〈自分の主な滞在先を告げる〉という行為は、教えた場所で寝首を掻かれるのも辞さない=最大級の信頼の意思表示であり、冒険者の礼節としてはとても丁寧なものだ。

 それなりに冒険者としての経験を積んできた二人は、シグルトという男の潔さと義理堅さに感嘆する。

「ふふふ、面白い方ですわね。
 その謝罪を受け入れます。

 あなた、生まれは貴族ですわね?

 同じ高貴の生まれ。
 〈袖触れ合うも多少の縁〉ですわ。

 本来ローズレイク流は、【獅子の剣】と【飛燕剣】が揃って一つの流派。
 リリィの型だけを見せるのは、偏るというものです。
 ローズレイク流の技を学ぶものとして捨て置けません。

 わたくしが、【飛燕剣】の型を教えて差し上げましょう」

 嬉々としてしゃしゃり出できたキャロライナに、リリィは「勝手にすれば」という死んだような目で教導の場を譲った。
 文句を言っても喧嘩になってシグルトに迷惑がかかると思ったからだ。

(それに…たった一回教えただけで、一見素朴に見える型の要訣まで理解してしまったみたい。

 今の演武が初めてやったものだと知ったら、キャリーはどう思うのかしら?)

 リリィが見せた型をシグルトは瞬きすらせずに見取り、取得してしまった。
 自分が習得するのに、父の型を見て何度練習しただろう?
 正直、落ち込むほどの衝撃だった。

 「有難い申し出だ」とキャロライナに感謝しているこの男が、とんでもない規格外と知ってリリィは溜息を吐いた。

 シグルトが先達に対する丁寧な礼を取ったことで、キャロライナは上機嫌になって、優雅に【飛燕剣】の演武をする。
 性格的に苛烈で高慢なところこそあるが、キャロライナは一種の天才だ。
 彼女の型は完成されている上に、芸術的とも言える完成度でとても美しい。

 やがて、演武を終えたキャロライナが、「あなたにできます?」と挑戦的な眼差しをシグルト向けた。

 シグルトは、すっと剣を構えると丁寧に演武を行う。
 功を宿し完成されたそれではない。
 でも、シグルトはその動作を一つも間違えなかった。

 素早さを礎とする【飛燕剣】の型は、動作が速く難しい。
 間違えずにたった一回で模倣することができた者は、ローズレイク流を学ぶ数ある天才たちの中にも、数えるほどしかいなかった。

 見る見るうちに、キャロライナの表情が驚愕のそれへと変わっていく。

「彼は、【獅子の剣】の型も一度で見取ったわ。

 あなたも知っているでしょう…"眠れる閃光"アルフレトの名前ぐらい。
 彼は、その方の御子息よ」

 これ以上にないくらい、キャロライナの瞳が見開かれた。

「"眠れる閃光"アルフレトですって?
 あの"焔紡ぎ"ワディムや、キーレのジュプセタ中将などと並ぶ、北方剣士のビックネームではありませんか?!

 でも、わたくしの記憶ではシグルトという御子息は次男で騎士ではなかったはず。
 御長男のベーオウルフ殿は、近代の剣士では御父上の再来と言われている方。

 御次男の方は、剣ではなく槍の使い手ではありませんの?」

 演武からは目をそらさず、キャロライナが問う。

「ええ。
 その槍を、身体の故障から使わなくなったのだと言っていたわ。

 でも、とても病んだ人の演武とは思えない。
 あれで、剣を始めて三か月なんて…」

 キャロライナの首が高速でリリィの方を向いた。
 開いた口が塞がらないという様子である。

「そうよ…私たちは立ち合っているの。
 彼は、たぶんこのまま強くなれば剣術の歴史に名を遺すわ。

 素質の差は悔しいけれど、そんなものより彼のひたむきで誠実な向上心が恐ろしい。
 彼の剣にローズレイク流が関わった…その事実でさっきから震えが止まらない。

 敵討ちが無ければ…冒険者でなければ、多分彼の先達となって一緒に高みを目指すことを願ってしまうでしょうね」

 ライバルの言葉に、キャロライナもシグルトの方に目を向け直してしっかりと頷いた。

 シグルトは、学んだばかりの【飛燕剣】の型を最後までやり終えていた。

 数年後、シグルトはあちこちで見聞きした技を元に、独自の剣術を編み出す。
 彼の剣に流派の看板は無かったが、ローズレイク流の【獅子の剣】から不動の防御と剛剣を、【飛燕剣】から柔(やわら)と鋭利さの影響を受けたのだと語った。
 その強さは、後の世まで語られることとなる。

 
 演武を終えた後、シグルトは二人に質問攻めにされた。
 なぜ、こんなにも簡単に型を習得することができるのか、と。

「簡単に型を習得?

 俺はただ、〈覚えて行っただけ〉だが」

 シグルトは何を聞いているかわからない、という風に首を傾げた。

「私たちは何故〈たった一度〉で習得できたかを聞きたいの。
 型は何度も先達のものを見て、それを真似し繰り返して覚えるものよ。

 私たちはおかしなことを聞いているかしら?」

 リリィの問いに、シグルトは驚いたような表情になった。
 そういうものなのか、と。

「俺がかつて学んだ師に〈型は一度見ただけですべて覚えなければならない〉と言われていた。

 一度で学び取れない者は〈見て取る機会が何度もあると驕っているのだ〉と。
 次に覚えれば良いという安易な気持ちが、実戦でも〈負けなければ勝てる〉などという甘えに変わる。

 敵の技も見てすぐ対応できなければ、それは死ぬということだ。
 実戦で再度を望む者は、機会が永遠にやってこない可能性を覚悟できていない。
 〈たった一度〉ではなく、その時その時が〈最後の機会〉であると心得て必死になれ…それが師の教えだった。

 師からそのことを言われた時、自分が一度で型を見取れることが学ぶ最低限の資質だと思い、俺なりに記憶術と感覚の鍛錬を模索して、学び取るための素地を磨くことから始めたんだ。
 できるようになってから、師に型の教授を願った。

 教えを漏れずに継承するということは、師の技を見て余さず感じられる感覚と、情報を欠けずに覚えておく記憶力を養わなければならない。
 型の動作とは決まったもので、その通りできて当たり前のものだから、再現するための身体的な柔軟さや体力も学ぶ側が持っていて当然の資質。
 ずっとそうしなければならないと行ってきたことだ。

 他の武術には、繰り返し見て学ぶことを許されることもあるのだな…」

 リリィもキャロライナも絶句するしかなかった。

 シグルトにとっては〈たった一度で見取る〉のが当たり前なのだ。
 同時に〈何度も学ぶ機会がある〉という考えが、戦士としてどうしようもなく甘えたものであると。

 羞恥から二人は赤くなって、顔を伏せた。

 シグルトは天才なのではない。
 ただ、真摯で必死だった。

 習得の速さは、彼の努力によってもたらされた副産物なのである。

 自分たちにはそこまでの懸命さと覚悟があったか。

 黙り込んだ二人に、シグルトは困ったような顔をし、次には決然と話し始める。

「武術にはそれぞれの流派のやり方がある。
 師が許すのであれば、再確認と反復もまた習得法なのだろう。

 師とは、行うべきことを弟子に伝える。
 許されたことが師の方針であり、流派のやり方であればそれに従うのが門弟だ。

 お二人の流派のやり方は、先達が正しいと行ってきたのであれば、その方がしっかり覚えられるということなのだろう。
 俺はじっくり学ぶことが悪いとは思わない。
 武の道も、高みに至る道筋は一つではないのだ。

 俺自身の学び方は、ただ単に修業時代からの癖のようなもの。
 かつて学んでいたものから剣に武器を換えたといっても、今まで行ってきた習慣は簡単に失われるものでもない。
 
 俺は今こうしてお二人に、術理の片鱗を授けて戴いた。
 正しく継承してきたあなた方が、恥じ入ることではない」

 隙無く厳しい、と感じていたシグルトから出たのは優しい言葉であった。
 
(これが、彼の才能なのね。

 己に対してはどこまでも厳格で、教えには誠実。
 でも他の意見を軽んじない柔軟さと公正さ。

 自分と違う者に対して偏見のない視野が、素直に型の特性を受け入れることができるんだわ)

 …台頭してくるわけだ、とリリィは納得する。

 その後シグルトは、「型の教授に対する謝礼になればよいのだが」と、自分が行っている素地の鍛錬法を二人に教えた。

「型のような連続した動作は細かく分けて覚えるのではなく、一つの流れとしてまとめて覚えるのがコツだ。
 無理に整理して分けることによって情報が分割し、憶え難くなる。

 速読の要領と似ているかもしれん。

 文字一字一字で覚えるのではなく、単語、行、文、章…と連ねて一つの流れとするように、自分が使えるあらゆる型も自分の身と連動させて流れとして全身で感じ、物語を憶えるるように吸収する。
 俺はこの方法が一番やり易かったので、できるようになるまでひたすら繰り返して慣れた。

 〈習うより慣れろ〉だな。
 
 俺が練習した方法は、朝起きて鳥や獣が行う動作の推移を記憶する、というものだった。
 街頭で吟遊詩人が謳う物語を、その動作ごと憶えるのでもいい。

 情報一つ一つをたくさんの情報の集合体として一度に憶えれば、その情報の一つから連想して必要な情報を思い出せる。
 他の符合する似た情報から、対策法の予測もできるはずだ。

 俺の母が文字を教えてくれた時、〈この方法を極めると予知すら可能となる〉と言っていた。
 母にこの方法を教えてくれた方は英明で、貴族名鑑を見なくても、そこに書かれていあらゆる貴族の系譜を、読んだ分全て暗唱していたほどだ。

 これは訓練で身につくもので、新しい言葉の習得や冒険者としての契約内容の記憶、戦いで作戦を覚えておくのにも役立っている。

 とにかく、できるようになるまで慣れるのが肝要だ。

 〈識得すべからず、体得すべし〉

 〈できない〉とか〈無理〉と心の中で囁く、【心の悪魔】に囚われず、体得するまでとにかくやる。
 妄想や先入観はその壁だ。

 補助的に雑念を払うための瞑想をするのもいい。
 賢者が山野に交わって知の奥義を極められたのは、心穏やかにこれを行えば至るのだと体得したからだろうな」

 シグルトのかつての師ハイデンは、山野に交わり木の実と草木を食む隠者の様な生活をしていた。
 柵のない深山にはどうしようもない孤独があり、煩悩を喚起する誘惑が存在しない。
 普段は働くことのない雑多な感覚が呼び覚まされ、自然の驚異が容易に命を奪うため、恐怖への耐性ができる。

 後世に聖人、偉人となった者たちの中で、山野に交わって孤独のうちに真理に至った者は多い。
 シグルトは十二歳のまだ純粋な精神だった時に、その境地を垣間見た。
 彼が若いまま様々なことを砂が水を吸い込むように習得していくのは、斯様な理由があったのである。

 だが、彼もまだ知らない。
 この時すでにシグルトのある部分は少しずつ変容を始めていた。


 その後シグルトは、リリィ・キャロライナ両名と剣を合わせた。

 フォーチュン=ベルでも熟練者のみが宿泊を許される『運命の呼鈴亭』から認められた剣士である二人は、とてつもなく強かった。
 精霊術を用いなければ、シグルトの剣はまだまだ未熟。
 勝てる道理など全くない。

 それでも、シグルトは一合剣を交える度にみるみる強くなっていった。

 …いや、強くなっているというのは正しくない。
 優れた二人の剣士の技に触れ合うことで、歯車が合うように剣というものを理解していく。
 上達ではなく、本来の強さに戻ろうとしていた。

(これが"風を纏う者"のシグルト。
 分かります…剣を合わせる度に、わたくしの未熟さとなすべきことが。

 彼は達人の域に達するために必要な答えをすでに持っていて、足掻いている。
 私たちは、その答えを求めて足掻いている。

 簡単なことでしたのね。
 強くなろうとただ頂上を見据え、焦がれること。

 わたくしたちは、並の剣士たちより強くなってしまったからこそ下を見てしまった。

 ただ無心に、達するまで、超えるまで…
 飛んでこその燕。

 彼は弱かった頃の、純粋で飛び立とうとしている自分。
 わたくしは、超えるべき先をただ見つめているただ一人の剣士。

 今ならば!」

 そうしてキャロライナが放ったのは【無影閃】。
 無拍子から繰り出される剣は、すでにシグルトの首元に添えられていた。

 パンッ!!

 剣を止めたのにその後に空気が鳴り、周囲を突風のように風圧が駆け抜けて行く。
 音速を越えた斬撃が衝撃波を生み出したのだ。

「お見事。

 あなたの勝ちです」

 剣を降ろし、シグルトが一礼する。

「キャリー…あなた?!」

 驚くリリィに、キャロライナは壮絶な笑みを浮かべた。

「とても小さなことです。
 でも確かに、超えましたわ。

 ローズレイク流には、まだ先がある。
 そして、わたくしは踏み出したのです」

 普段多くの敵に振るってきた必中の技。
 結果は一見同じ。

 しかし、剣士だけが感じる確かな違いをキャロライナは体感していた。
 歓喜が彼女の細やかな身体を満たしていく。

 続いてリリィもシグルトと剣を合わせる。

 近しい剛の剣。
 意外にも、リリィのそれはいつも以上にひたすらゆっくりだった。

 初歩の大切さ、ただ繰り返してきたなぞるような動き。
 シグルトはそれを剣で受け止めることしかできない。

(ああ、何万回この技の型を振るったかしら?

 リューンの【双狼牙】使いさえ、【獅子功】で耐えきってこの技で破った。
 
 鍛錬は絶対裏切らない。
 私は何を焦っていたのかしらね。

 放った時にすでに結果が決まっているこの技のように。
 剣士には絶対の答えというものがある。
 ゆっくりでいいのだわ。

 進み出した歩みは、必ず到達する第一歩。
 かたつむりのように鈍足でもいい。

 信じて続ければ、功は成る!)

 その一撃は良く見えた。
 子供でもかわせそうなほどにひたすらに遅い。

 すでに、シグルトの胸元に霜が張っている。
 鍛錬によって流れた汗と吐息が湿らせていた熱い空気が、一瞬で凍り付いた。

 ローズレイク流【蝸牛剣】。
 あまりに早く、凍り付いた空気に移る残像が、傍目にはとてもゆっくり剣を振るって見えるという技。

 振るう前に当たっていたのではないかと思えるほどに、凄まじい剣閃であった。

 リリィは花が綻ぶように微笑んだ。

「俺の負けだな。

 素晴らしい一撃だった」

 シグルトが剣を引いて一礼する。

 リリィは自分の手を見つめ、フウッと溜息を吐いた。
 まだ残る冷気がその吐息を白く染める。

「…言葉にできないの。
 でも、必要なのはたぶんこの感覚なんだわ。

 先達だったはずの私が教えられてしまった。
 凄く悔しい…
 でも、それ以上にわくわくして、嬉しくてたまらない!

 達した技が高みの先を超えるというのは、【これ】のことなのね」

 多くの剣士たちが何度もぶつかるという、才能や実力の壁。
 それを超える感覚がある。
 
 視野が開け、悩ませていた雑念が嘘のように消える感覚。
 【三昧(サマーディ)】、あるいは【明鏡止水】などと呼ばれるそれは、武を志す達人の多くが経験する境地である。

 興奮する二人の剣士の前で、シグルトもまた予感めいたものを得ていた。
 自分の求める剣の道は、別の場所にあると。

 二人の見せてくれたローズレイク流の技は、奇しくも両方が必中の剣。
 一方は初動不覚にしていきなり音速に至るほどひたすらに速く、一方は正しい剣速がゆっくりに見えるほど練達して至る。

 シグルトの習得すべきものは、このように努力や技量を極めて達する純粋なだけの剣ではない。
 おそらくはそれ以外の別の要素が混じった、夜の闇ような深く暗いものだ。

(そうか…【刹那の閃き】が上手く使えないわけだ。
 俺の剣は、業を背負った者が足掻いて至る闇の底にある。

 雨でぬかるんだ荒野、月の下に浮かぶ荒れ果てた古城で墓を掘っていた老人。
 あれが、俺の師事すべき剣の師だ。

 病んだ俺が月明かりの下で映す、のっぺりした無駄の無いひたすらに黒く深い…
 慟哭と寂寥の混じり合った、【影(おのれ)】の剣。

 剣は突出した強い武器ではないが、こうも習得した者が多いのは…己を映すことができるからなのだな。
 …父さん、あなたが剣を志した理由が、今になって少しだけ感じられるよ」

 シグルトは二人の女剣士に丁寧に礼を言うと、そのままフォーチュン=ベルを出る。
 
 旅立つ前に、一度愛剣を見せようと、一路桃仙山の『へフェスト』を目指すのだった。


 二度目になる『へフェスト』訪問は、少し日が陰り始める時間帯となった。

 最近の度重なる鍛錬がリハビリ代わりになったのか、アフマドに繋げて貰った腱の感覚が少しずつ戻っている。
 時々言いようのない痺れが身体を襲うこともあるが、一生歩けないかもしれないと宣言された時の絶望に比べれば改善しているとさえ思える。

 病んでいるとは思えない速度で、シグルトは山道を踏破して『へフェスト』へと到着した。

 工房のブレッゼンは、鍛冶の作業で一番神経を使う焼き入れ前に少し休憩をしていたところである。

 西洋剣の焼き入れは日本刀などとは少し違う。
 幅がある西洋剣は、やや高温で焼き入れをした後に油や砂などの冷却材に入れて表面を冷やした後、芯に残った余熱でじっくりと焼き戻す。
 わざわざ焼き戻しをするために、もう一度炉に戻したりはしない。

「暗くなる時が、一番焼き入れの色がはっきり分かるのだ。
 古今、鍛冶師が武器に魂を吹き込むのは黄昏が過ぎてからよ。
 お前の剣に焼き入れを行ったのも、薄暗くなってきた時だった。

 夏場は昼が長くていかん」

 手土産としてシグルトから手渡された葡萄酒を飲みながら、ブレッゼンは上機嫌である。

「今日あたり、来るような気がしていた。

 お前の顔を見ればわかる…どこかに剣の使い方を習いに行くのだろう?
 その間に見事鍛えておいてやる。

 ほら、とっととよこせ!」

 酒を飲み終わったブレッゼンは、酒瓶を工房の隅にある専用の酒瓶入れの中に放り込むと、火傷の目立つ腕をぐいと突き出した。

 シグルトは苦笑して、【アロンダイト】を手渡す。

「…くくく、か~はっはっ!

 なんとも無茶な使い方をしたものよ。
 儂の剣が決して欠けも折れもせぬと知って、力技から慣らしていったのか。
 この黒い塊の状態では、どいつもこいつも遠慮してこんな荒っぽい使い方はせんわ。

 お前、そこそこの使い手に打ち合いで圧し勝ったじゃろう?
 こやつが自慢げに鳴きおる。

 よし、今夜にも焼きを入れてやる」

 フンスッ、と鼻息で髭を揺らすと、ブレッゼンは鎚を持ち上げる。

 シグルトはよろしく頼む、と言って代金代わりに鉱石を二つ手渡した。

「おお、よくぞまぁこの鉱石を手に入れられたな。
 赤いのは最近あまり手に入らんのだ。
 金の方は数はあるんじゃが、どいつもこいつも貴族や商人に売りに行きおる。

 使えもせん鉱石を無駄にされるのは我慢ならん。
 見つけたなら、残らずここにもって来い。

 …今夜は泊って行け。
 相鎚ぐらいは打てるじゃろう?」

 本来鍛冶師は、一人で鍛冶を行うわけではない。
 特に刀剣のような面積の広い刃物を打つ時は、膨大な作業時間が必要になるため、助手に相鎚を打たせるのだ。

 シグルトは「了解した」と、荷物をサンディに預けに行った。
 話を聞いたサンディは「あの人が相鎚を?」と目を丸くしていた。

 その夜。
 シグルトはブレッゼンの指示に従って、無心に大鎚を振るった。

 幼少の頃、シグルトは北方の名工の側で作業を眺めていたことがある。
 熱せられた【アロンダイト】は、火の粉を噴き上げながら外気に触れると、キンキンと澄んだ音で鳴く。

 ブレッゼンが粉末状の何かをふりかけ、炎で熱して赤くなった【アロンダイト】を冷却材の中に刃を下にして、慎重に入れる。
 今回は水ではなく薬液なのだそうだ。

「かけた粉末は、永続化した剣をしばし開放する。
 これで炎を受け入れるようになる。
 通常の武器は鉄を熱してただ鍛えればいいが、魔剣は永続化によって決して壊れぬ。

 この薬液は、次の鍛錬の時に魔力が乗るようにするための物よ。
 薬液で覆われた剣は、三日かけて魔力を定着させる地金を形成しながら、じっくりと焼き戻される。

 あとは三日かけて研ぎ、一晩外気にさらして精気が満ちるのを待つ。
 一週間…こいつの場合は十日は必要だ。

 その間に、剣を学びに行ってくるがよい。

 …儂がなぜ、鍛冶師の秘伝とも言える秘密を教えたか、わかるな?」

 作業中は喋らないブレッゼンが、棚のような場所に取り出した剣をそっと置き、シグルトに語りかけてきた。

「使う剣の特性を理解しろ、ということだな。

 俺は精霊術を使う魔法剣士だ。
 剣に魔法を宿して戦うこともあるかもしれない

 実際に剣を鍛えるのに参加し、永続化…不変の魔力が宿った武器に変化となる魔法を加えるにはどうしたらいいか、焼き入れの時なんとなく考えていた。

 この剣は精霊(たましい)を宿し、生きている。

 加えるのではなく、刀身に鎧のように纏わせて剣精と同調すればいいということだな。
 俺がともに技を成すのは風の精霊トリアムールだから、【風鎧う刃金】というところか。

 このことを前提に剣の技を学ばねば、習得に支障が出ていただろう」

 シグルトは、迷うことなく言葉にした。
 ブレッゼンが「然り」と頷く。

「魔剣の力を十二分に発揮するには、感じ取り知らねばならぬ。

 魔剣の本質を理解せぬ者は、魔剣によって惑わされ、あるいは見限られ…破滅する。
 魔力を持ち、使い手を狂わせる魔性がある故に、これらは【魔剣】と称されるのだ。

 儂ら魔剣鍛冶師はその魔性と対峙しながら、鎚で魔性を打ち延ばし叩き込む。
 
 お前には、儂と同じく剣の声が聞こえるはずだ。
 やり方を教えた鍛冶師がおるのだろう?」

 いつもの厳しい視線ではなく、静かに問う眼差しだった。

「ああ。
 マクラホンという、ドワーフの鍛冶師だった。

 俺は幼い頃、金床の上に乗って、風を、空を掴もうとしたのだという。
 そこに居合わせたマクラホンは、俺が…とある力ある女神に愛されているのだと言ったそうだ。

 彼は妹が生まれて忙しい母に代わって数年間、俺を育み、刃金の扱い方を見せてくれたんだ」

 鍛冶師の名を聞いて、ブレッゼンの眼がくわっと見開かれた。

「"獣を鍛える者"マクラホンか。
 優秀な魔剣鍛冶師でありながら、魔性を宿さぬ武器しか打たぬ偏屈者だそうだな。

 かつてマクラホンが打つ魔剣は、最高の物だったと聞く。

 ある時愚かな貴族が造りかけの魔剣を奪い、試し斬りと称してマクラホンの妻と子供を殺害してしまったのだ。
 マクラホンは魔剣を打つための鎚で貴族を打ち殺し、その魔剣を折った。
 以来、魔剣は決して打たず放浪していると聞いていたが…

 儂ら魔剣鍛冶師は、魔を制する鐵や刃金の精霊と、刃金を唯一溶かすことができる聖なる炎を作る場所…炉や竃を司るヘスティアやブリジットと関わりが深い。
 魔剣の精霊はほとんどが、使い手の半身となるために使い手と異性、すなわち男が使い手ならば女となる。

 英雄…男の剣士が持つ魔剣の精霊や、授ける者は女が多い。
 これは与えられる剣が女神の分霊を宿しているからなどだ、とも言われておる。
 東方の【アメノムラクモ】は斎宮の皇女から、彼の獅子王の聖剣【エクスカリバー】は湖の貴婦人から授けられたという。
 刀身に口付ける古からの礼法は、剣精との儀式的婚儀を表すものでもあるのだ。 

 金床に立った…お前は刃金の大女神に見染められている。
 苦難の道ぞ。

 彼の女神は、見染めた剣士に試練と栄光と破滅を用意するという。
 魔剣【グラム】の担い手、不死身にして竜殺しの英雄シグルズが、栄光と最愛の女を手に入れながら、権力者によって運命を捻じ曲げられ果てたように。

 故に儂らは金床を、子の近くには決して置かぬ。
 金床は刃金の大女神が腰かける神座であり、彼の女神の祭壇なのだ」

 シグルトは頷いた。

「マクラホンが言っていた。
 俺の乗った金床は、マクラホンが借りていた鍛冶場の物だったと。

 マクラホンは俺の母の陣痛が始まる日、宿を求めて我が家にやってきた。
 故国シグヴォルフは亜人への迫害が厳しい土地で、マクラホンはどこにも宿が得られなかった。
 だが、亜人に対して偏見を持たなかった母はマクラホンを宿泊させ、その日に俺を生んだ。
 
 自分が来た日に生まれた俺の成長を見たくなり、マクラホンは父の勧めで蹄鉄を打つための鍛冶場を借りて逗留することにしたのだと言っていた。

 俺は鍛冶師に関わって生まれたからと、鍛冶師レギンに育てられたという竜殺しの英雄シグルズにちなんで、父からシグヴォルフ訛りの【シグルト】と名付けられた。

 故郷には、子供の成長を祈って行う厄除けの儀式がある。
 這って歩けるようになったら、赤子の周囲に様々な品物を置き、最初に触れた物に関わる何かを成すという謂れがある。

 ものを知らない誰かが、鍛冶場から金床を持ち出し、品物の中に置いた。
 鍛冶師が本来は努めて避けるべきものを。
 俺は知らず、その金床の上に乗ってしまった。

 マクラホンは、すぐに立ち去らなかったことを後悔したと言っていた。
 そして、俺が破滅しないように、俺に刃金の精霊との付き合い方を見せて幼少期を過ごさせた。
 父には〈剣に触れさせてはならない〉と言って、去る時に素晴らしい槍を造って渡し、俺はその槍が使いたくて当たり前のように槍の道へと進むことになったのだ。

 …なのに、不思議なものだ。
 俺は一度は破滅同然の目に遭って故郷を去り、こうして異国の地で剣を振るっている。
 手を伸ばして掴もうとした風の精霊に守られている。

 〈宿命から逃げるべきではない〉

 きっと、最初から剣を取り立ち向かわなければならなかったんだ」

 貰った槍は故郷に置いてきたのだ、とシグルトは続ける。

「うむ。
 迷いの無い、良い面構えだ。

 【アロンダイト】の元の主であるランスロットは、武勇に優れながら、王妃に懸想し名誉を失った。
 後に【オートクレール】として継承した聖騎士オリヴィエは、最後の戦いで忠心からの言葉を友に退けられ、果てた。

 だが、これらの騎士たちは立派に戦い、その名を後世に遺した。

 ゆめ忘れるな。
 お前が剣に誠実である限り、魔剣も技も、鏡のように応えてくれるだろう」

 ブレッゼンからの言葉に、シグルトは強く頷き、誠意を示すように己の心臓を拳で叩いて見せた。

 
 数日後、シグルトは一人で辺境の荒野にやって来た。
 腰に武器は無く、護身用に一本の長い杖を携えている。
 
 周囲はもう薄暗くなっていた。

 昼の時間帯お目当ての人物には会えない。
 彼は今でも墓仕事をしているはずだ。

「俺の進むべき剣の道が、見つかるといいがな」

 シグルトはそう言って立ち止まり、遠くに見える廃棄された古城を見上げる。

 遥か昔に攻め落とされたその城は、寒々しい姿を晒したまま、夕闇に佇んでいた。


 シグルトが古城に辿り着いた時、すでに周囲は夜の闇に包まれていた。

 手頃な松明を見つけ火を灯すと、目的の部屋に向かう。 
 そこはかつてこの城の王座があった、謁見の間である。

 焼け焦げたタペストリーが無残に掛かったまま、細工を毟り取られた玉座がポツンとあるだけの広い部屋。
 そこに老人は静かに立っていた。

「…ほう、この間の若いのか。

 シグルト、だったな。
 この儂に何か用かね?」

 シグルトは頷くと、銀貨の入った袋を老人の足下に投げる。

「貴方に剣を学びに来た。

 伏して請う、剣の使い手よ」

 静かにシグルトは片膝をつき、頭を下げて三度床を拳で叩いた。
 シグルトの故郷での師弟の礼だ。

「ほう、古い礼をよく知っている。

 三形の槍使いのものだな。
 あの槍術は絶えて久しいはずだが。

 儂は槍を教えられぬぞ。
 過去に学んだ技を捨て、それでもお前は剣を取るのか?」

 老人が問う。
 
 シグルトは、持っていた杖を槍に見立て、一振りすると目の前で圧し折った。
 槍使いの道を捨てる、という意思表示である。

 古来より武術とは、中途半端に習得すれば技術が濁るとされた。
 故に、師弟の間では絶対の上下関係を結んで、忠実に技を学ぶのである。

 ある不器用な弟子は、師が旅立つに際し一芸を学んでそれを極め、誰よりも師に認められたという。
 
〝知るも良し、学ぶも良し。
 されど極めんとすれば、他に染まるなかれ。
 一芸を修めるは、多芸に浮つくより優る。
 
 驕るならば達せず、鍛えずば欠けるが武。

 最強は技にあらず、使う者なり〟

 シグルトの学んだ、かつての師の言葉である。
 
 純粋に一つの技術に没頭してこそ、純粋な極みに達する。
 それを鍛え抜いた人が使って、初めて最強に至るのだ、という教えであった。

 シグルトは、槍を捨て剣士として生きることを誓ったのである。
 
 老人は細い眼を見開き、深く頷く。

「…よかろう。
 そこまでの決意ある者に、多言は無用。
 
 儂は下らぬチャンバラ遊びはせぬ。
 実践にこそ答えはあるじゃろう。
 
 今夜から、始めるぞ」

 ギラリと睨んだ老人…グロアに対し、シグルトは師を敬うように、黙ってもう一度頭を下げる。

 その夜から始まった鍛錬は過酷を極めた。


 二日目の夜。
 
 上半身裸で岩を背負い、シグルトはひたすら膝の屈伸運動をしている。
 月光に反射し、汗が光っていた。
 
 グロアは、虐待とも言える厳しい鍛錬法で指導していた。
 
(…大したものだな。
 
 儂がこの国の兵士にこの訓練法をさせた時は、今の半分の回数で泣き喚くか岩に敷かれてのびてしまうか、だったが)
 
 無表情のままだが、グロアはシグルトの意志の力に驚嘆していた。
 
(この男には甘えがない。
 
 昨夜の鍛錬の疲労も取れていまいに…)
 
 黙々と屈伸するシグルトの首筋やこめかみに、血管が浮いている。
 足が、腕が小刻みに震え、食いしばった唇が切れて血が滲む。
 夜風に、シグルトの身体から立ち上る蒸気が溶けていく。
 
 そんな中、シグルトの目は静かな光を湛えていた。
 満月の様に清浄で、夜半の闇の様に深淵である。
 
 グロアは、この男のような目をするものを幾人か知っていた。

 歴戦の傭兵、達人と呼ばれた武芸者…
 修羅場と絶望を経験し、どん底から這い上がってきた戦士たちが持つそれは、グロアが何年も戦場を駆けて手に入れたものだ。
 
 岩を持つシグルトの腕。
 
 何時もは手首を守るために巻いている布があるが、邪魔だからと今は外している。
 そこに見えるのは、引き攣れた痛々しい傷痕だ。
 
 肉が抉れ、膿んだのだろう。
 ケロイド状の傷痕は、おそらく縄の痕。
 
「…止めよ。
 
 今夜はここまでだ」
 
 その声にシグルトは慎重に岩を地面に下ろすと、黙って立ち上がった。
 背中は背負っていた岩の凹凸で擦れて、小さな傷が出来ている。
 
 荒い息を吐きがらも、シグルトはへたりこんで休んだりはしない。
 師に対する敬意を表すように、優雅に一礼した。
 
(ふん…、へばったら喝をいれてやるつもりだったが、この男には不要か)
 
 最初に、グロアは自分が教える訓練の仕方はかなり厳しいものだと告げた。
 シグルトはそれで強くなれるのか一度尋ね、グロアが「お前次第だ」と答えると、それからは一切質問も口答えもしない。

 寡黙に、ひたむきに、ただ没頭する。
 
 シグルトの至っているのは、諦観という境地である。
 あらゆる現実を受け入れ、進む意志と覚悟。
 
 それは敗北、悲嘆、不条理などの辛い経験を味わい、砂を齧るような思いをしてやっと至る。
 
(この若さで、こんな目が出来る奴がおるとはな…)
 
 グロアは、優れた資質とそれを腐らせない勤勉さ、鋼鉄のような意志を持っているシグルトを教えるにつけ、錆び付いていた導き手としての好奇心が湧き起こるのを感じていた。
 同時に、わずかに燻る嫉妬の情。
 老いて忘れていたその感情に、滑稽よと厳つい頬を少しだけ緩めた。
 
(惜しむべきは、幼少の時に出逢わなかったことよ。
 
 いや、もしこやつの心が形作られる前に出会っておれば、いかな天稟も慢心に支配されておったかも知れんな。
 今は我が手に来たせっかくの玉、磨くのみよ…)
 
 老いて鈍っていただろう戦士としての高ぶりを感じ、グロアはシグルトを興味深げに見つめていた。
 
 
 心地よい春の日の光が差し込む、巨木の下。  
 シグルトは吹き抜ける微風を感じながら、柔らかな草の上に腰をおろし、飽きることも無く故郷の街を見下ろしていた。
 
「――――シグルト」
 
 横からそっとかけられた声に、思わず頬が緩む。
 
 金色の柔らかな巻き毛が、春の風になびいている。
 北方の民らしい雪花石膏(アラバスター)の様な白い肌。
 形のよい細い眉の下で、少し切れ長のエメラルドのように神秘的な眼差しが、優しげな光をシグルトに届けている。
 紅を注す必要のない薔薇色の唇も、微笑の形に緩んでいた。
 
「ブリュンヒルデ…」
 
 万感の思いを込めて、シグルトはその娘の名前を呼んだ。
 すぐに寂しげな眼差しになる。
 
「これは、夢か。
 
 未練だな…」
 
 いつもの苦笑をしながら、シグルトは娘に手を伸ばし、自分の方に抱き寄せた。
 何度も梳いた甘い髪の匂いも、その華奢な身体の柔らかさも、まだ忘れてはいなかった。
 
「…ええ、夢よシグルト。
 
 だから、目を覚まして?」
 
 からかう様に耳元で囁く娘に、シグルトは「ああ」と頷く。
 
「でも、まだ目覚めたくない…」
 
 そっと愛しい女を抱きしめて、シグルトは目を閉じた。
 

 シグルトが目覚めた時、既に朝焼けの光が、崩れた壁の隙間から差し込んでいた。
 
 しっかりと握りしめられていた手をそっと開く。
 そこには、小さな金色の指輪が一つ。

「俺の手は全てを零し、半生を尽くした技もその象徴とともに折り捨てた。

 そのはずなのに、何故君のことを諦められないのだろうな。
 女々しいと分かっているのに、君の声を、そして姿を思い出す。

 君はすでに、他の男のものなのに…」

 美しく優れた力を持つシグルトに、好意的な女性は数多い。
 だが、シグルトはどうしても他の女性に己の愛を捧げることは出来なかった。

 別れた恋人と婚約した時、友として歩んだある女騎士は真っ直ぐな愛を告白し、涙を飲んで祝福してくれた。
 恋人が破局して傷心のまま国を去ろうとした時、ある姫君は全てを捨てて愛してくれると言ってくれた。

 彼女たちは、傷ついたシグルトが甘えて愛を囁けば、また喜んで愛してくれるのかもしれない。
 だが、シグルトはそれが出来ない。

 男としての矜持もある。
 愛情への誠意もある。

 一番の理由は、かつての恋人に対するほどの情熱を抱けないからだ。
 それほどまでに、シグルトはその女性を愛していた。

 シグルトは指輪を乗せた手をじっと見つめる。
 そこには、過去しかない。
 なのに、指輪の描く輪の中に迷い込んだように、想いは延々と断ち切れない。

「…例え未練だと憎まれても構わない。
 俺はまだ君を愛している。

 俺の想いは止まったままだが、それでも前に進むだけだ。
 この矛盾した輪の中でも、俺は君を想う限り幸せだと思う。

 どうか君を夢見ることだけは、許してくれ。 
 君の幸せを祈る、俺の我儘を…」

 再び指輪を握り締め、シグルトはしばし黙祷していた。


 昼間のグロアは何も教えてくれなかった。
 この滅び去った国に転がる骸を弔い、墓を作るためだ。
 
 シグルトは道具を探してきて、黙って穴を掘った。
 何かを黙々と続けている間、シグルトの心には静寂がある。

 城に横たわった骸を葬るのは、師の仕事。
 だから、屍に触れないし、運ぶこともしない。

 訊ねられれば、ただ「自己鍛錬のために掘っているだけで、穴の後は知らない」と答えた。
 確かに【穴掘り】は、古代武術にもある鍛錬法である。

 グロアはシグルトの言葉を聞いて苦笑した。
 何故なら、彼が掘った穴は一つ一つが丁度墓穴ほどであるからだ。

 ここに技を求めてきた者で、シグルトのように穴掘りが自主的な訓練になると気付いた者は何人いただろうか。
 こうも愚直に無心に穴を掘った者はいただろうか。

 老いてからも技の衰えが無いグロア。
 その秘密は、確かにこの墓掘りにある。

「ならば、穴は儂が使わせてもらおう」

 そして、墓仕事は続くのだった。


 夜になれば石を担いだ。
 三日目には重さが二倍。

 朝から労働を続けて疲労が残った身体…
 血管が弾けるようだ。
 頭痛と疲労を感じ、目の奥が赤く、白く、ぼやけて霞む。

 昼間の穴掘りで磨り潰した手の血豆は、五日目には血を流すことすら忘れて、硬く固まった。

 酷使した身体が、これ以上の力は出せないと悲鳴を上げる。
 無駄な力を振るう余裕がなくなり、絶妙の力加減が理解できる。

 ひたすらに没頭した鍛錬のおかげで、身体と精神が分離したような錯覚を覚えた。
 異様なほどに感覚が冴え渡っていた。
 人間としての制限(リミッター)が外れたのだ。

 せっかく得られた感覚を無駄にはしない。
 周囲が止まって見えるようにゆっくり進むそれを、シグルトは自在に制御できるように試み始めた。

 動体視力は鷹を超え、発揮される反射神経は豹に勝った。
 解放できる時間はほんのわずかであるが…
 一呼吸で放つ技には、それだけで十分。

 夜の闇が、染み込むようにシグルトの中に入ってくる。
 夢の恋人に焦がれるように、暗闇はシグルトの絶望と安寧の場所である。
 
 闇を怯えるべきでなく、影はただ行いを追ってくるものだと理解した。
 自身の影は、光(おこない)によって映し出される…いつの間にか追い抜けることに気が付いた。
 できるはずの無いことが、いつの間にか可能になっていた。
 そうして、すでに影(おのれ)はシグルトの味方だった。

 グロアが的を空に放った。
 さらに、シグルトに向かって雨霰と砂利をぶつけようとする。

 シグルトは疲労困憊の中で、ごく自然に影に身を沈める。
 限界まで解放された動体視力と反射神経が、すべてを止まったように見せていた。
 この世の理はこんなにも遅かったのか。

 訓練用の木剣は的を粉砕し、砂利はただばらばらと落ちて行く。
 歩みは、影を振り切るように速く、影のように実体が無くなっていた。

「これぞ我が剣術における秘宝【影走り】。
 儂が傭兵時代に編み出し、後にこの国の高弟に伝えた。
 
 完全回避と絶対命中。
 独り、戦いで生きようとする者が、当然の答えとして導くそれを形としたものだ。

 流れは〈影〉という戦闘技法に依った技でもある。
 〈影〉の基本は回避と生存。
 その中でもこの技は、その中核を成すものだ。

 七日でこの剣の真髄を悟り、使いこなすか。
 末恐ろしい男よな…」

 グロアの言う〈影〉の秘奥には、縮地術と呼ばれる類の技がある。 
 初速から即座に最高速に達し、一瞬で相手の間合いを侵略する移動術。

 【影走り】は、そういった移動術で、場の流れを支配する技である。

 全ての攻撃を避け、放つ技は回避不可能という恐るべきものだ。
 使い手は、反応の限界を極め、敵の死角を制圧し、場の流れを掌握する必要があった。
 一瞬で全ての攻撃を見切り、確実に一人の死に体を攻撃するのである。

 それを実行に移すには、歩方だけではなく鍛え抜かれた瞬発力が必要なのだ。
 石担ぎは、力の軸となる足腰と剣を振るう膂力を鍛える方法だった。

 穴掘りによって培われた強靱な背筋力が加わり、これまでの要素を同時に加えることで神速に達する。
 その先に、予知という時間の先入観を取り去った感覚の深淵が、技を完成させるのだ。

 そう…放とうと意識するよりも、〈すでに命中させている攻撃〉は遥かに迅い。

 全てがなされた時、敵はその攻撃を見切れず、一瞬で間合いを侵食されて刃に斃れる。
 魔法のようにも見えるが、霊知と技巧の極みこそが可能とする、攻防一体の神速剣であった。
 
「…かつて俺は、同じような縮地術の槍術を一番得意としていた。

 【影なる女王(スカーハ)】。
 最初、何故あの技が影の国の女王の名を冠しているか、俺にはわからなかった。
 技の要訣を得た今なら、よく理解できる。

 過去という影、因縁という柵(しがらみ)は、拭えぬものかも知れないな」

 苦笑したシグルトに、グロアは言う。

「捨てても常は離れぬ、それが影だ。
 過去も己の影よ、拭うことなどできはせぬ。

 身も心も、その影と共に走るがいい。
 捨てず、背負って生きるのだ。
 
 極みに達し先に踏み込むことができた時、お前の一撃は音を超え、刹那よりも速くなるだろう」

 後にシグルトはこの技を磨き続け、さらなる高みに達する。
 “風鎧う刃金”と呼ばれ、攻防一体の剣術を開眼し、剣士としての名を知らしめるのだ。
 
 だがそれは、まだ先の話である。



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Y字の交差路


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『希望の都フォーチュン=ベル』 商船護衛

2018.06.21(15:58) 455

 風を纏う者たちは、海路でフォーチュン=ベルへと向かっていた。 
 彼の都で贔屓にしている『幸福の鐘亭』の名前で、シグルトたちに商船護衛の依頼があったのだ。

 最近西方諸国近海では、海賊による略奪が後を絶たない。
 近年の商業活発化から新しい海路による交易が盛んになった分、海賊たちも自分たちの狩り場を増やし、勢力を伸ばしているのだ。

 仲間たちが心地良さそうに潮風を楽しんでいる中、初めて商船に乗るというシグルトとロマンは、それぞれの理由で緊張気味である。
 
 海の無い北方の陸(おか)育ち(内陸出身者のこと)で、リューンへも陸路でやって来たシグルトは、海上を走る船舶に長期間乗ったことが無い。
 船酔いにこそならなかったが、逃げ場のない船の上で、しかも揺れる船の上での護衛という初めての任務に、頭を悩ませている。

「何時もより酷い仏頂面ね。

 貴方らしくないわ、シグルト」

 レベッカが軽く肩を叩くと、シグルトは大きな溜息を吐いた。

「そうも言ってられんさ。

 船という乗物は、兎角襲撃し易いものなんだ。
 海上故助けを求められないし、逃げ場も無い。

 護衛の任務を預かる以上、対策を考えねばならんが…正直お手上げだ。
 
 こんな危険な乗り物で、大量の物資を送るとは…いくら早いとはいえ理解できんよ」

 シグルトらしくない不満に、レベッカが苦笑する。

 このリーダーは、今までも愚痴一つ無く的確な戦術を立案し、特に護衛戦では大きな結果を残していたからである。
 例え困難なことであっても、最大の結果を出そうとする男なのだ。

「何がそんなに不満なのよ?

 海の上を風で走ってるから、敵が乗り込んでこない限り平気じゃない」

 レベッカの言葉に、シグルトは楽観的過ぎるとばかりに、首を横に振った。

「乗り込む目的がある海賊は、狙ってやって来るさ。
 マストと言う旗印まであるしな。
 
 構造上船というものは、防水のために油や塗料を塗り込んだ木材で出来ている。
 これほど火災に弱い乗り物など他に無いぞ。
 火災が起こったら、この海の真ん中で飛び込むしかない。

 仮に敵が強奪目的の海賊だったとして、燃やされる心配が無いとしよう…
 踏ん張りができない船上では技がぶれやすく、得物を海に落とせば紛失確実だ。
 重装などしていれば、海に落ちると助からない。

 装備を聞けば、この商船は速度向上による軽量化のため構造も脆く、戦闘用に必要な弩砲の類も無い。
 海戦用の投石機を用意しろとは言わんが、せめて矢窓に弩(いしゆみ)数機は欲しい。

 これを、海上装備もろくに無い俺たち五人だけで護衛しろと言うんだからな。
 
 俺たちは今、魔法以外に遠距離攻撃手段が無いんだ。
 一方的に敵の矢玉を受けることになるぞ。

 この船は中古船で、前の船を売って購入したものだという。
 武装はあらかた売ってしまったというんだから、呆れてものが言えない。 

 加え、お前やラムーナが乗ってることに対して、風当たりも強いだろう?
 迷信深い船乗りは女の乗務員を乗せることを、ことさら嫌う。
 船員の協力も、あまりあてに出来ない。

 最悪なことに俺は、海上戦の経験など皆無だぞ。
 船員にも海戦の経験がまるで無いらしい。
 水夫たちはほとんどが、海賊のいない入り江の巡航船の出だというし、今回の航海は初めての外海だという。
 外海での経験がある者たちも、聞けば護衛船がある船団に乗っていて一度も敵に襲われたことが無い。

 こんな急の仕事でなければ、海戦の知識と近海の潮の流れを調べておきたいところだ。

 俺が書物で読んで知っている戦術は、ガレー船用の古典的なもので、しかももっと大規模な武装船同士の戦闘を基準にしたものだからな。
 近代帆船による戦闘など、皆目見当がつかん。
 
 緊張するなと言う方が無理だな。 
 …悪条件極まりと言うことだ。

 この数日海が時化ていないということが、数少ない救いだよ」

 悪条件の中で、初めて乗る船に対し的確に観察して対策を講じようとしているシグルトに、レベッカは頭の下がる思いだった。
 実際、シグルトは船で余っている板を使って簡易の楯を作成している。
 射撃に対して、楯は最も効率の良い防御手段なのだ。

「とにかく火が最も怖い。

 火は風を受けて、上に向かって燃え広がって行くんだ。
 周りが水で囲まれているとはいえ、俺たちが乗っている部分は燃えやすい場所に浮かんでいて、海風という煽りまである。
 
 船のコックに聞いたんだが、火災予防のために、船が動いている時は火を使わないぐらい気をつけているらしい。
 あまりに不用心なので火災予防用の装備を増やすように具申したところ、〝護衛が余計な事を言うな〟と言いだす始末だ。
 
 武装に関しても、俺が作る楯にすら文句をつけるんだからな。
 守って貰う気があるのか、疑問だよ。
 
 こんなずさんな状態で護衛を雇うぐらいなら、中古の砲を一台備える方がよほどましだぞ。
 
 世話になっている『幸福の鐘亭」を通した頼みでなければ、と…愚痴ばかりこぼれるよ。
 
 この船の護衛は、今後受けるべきだはない。
 フォーチュン=ベルに到着したら、知り合いに情報を流しておこう。
 
 少なくとも、責任者があの分からず屋な馬鹿船長の間は、な」

 珍しいシグルトの愚痴である。
 
 シグルトの立てる戦術は、神経質とさえ思える堅実なものであるが、今まであてが外れたことはほとんど無い。
 結成して数か月のパーティが無類の強さを誇っているのは、シグルトの的確な戦術故なのだ。
 
 スピッキオが、気持は分かるとなだめた。

「まぁ、称賛を受けてばかりのお主も、時に人間と言うことじゃな。

 こんなに憤慨するとは思ってもみなかったぞ」

 スキッピオが場を慰めるかのように少しからかうと、シグルトは歯痒そうに唇を歪めた。

「対策が立てられないということは、万が一に死地に陥るということだ。

 何かを護るということは、護り切ってこそ意味がある。
 勝敗で言うなら、護れないことが敗北するということなんだ。

 俺は、共に戦うお前たちの命だって預かっている。
 皆に少しでも勝算のある戦い方をさせるのが、戦士でありパーティの代表を任された俺の仕事だ。

 思う様に出来ないのは、悔しいな…」
 
 リーダであるシグルトがそんな風に悩んでいる最中、ロマンは船乗りたちの態度に閉口していた。
 
 兎角、船乗りは迷信深く、ヒエラルキーや掟に煩い。
 女子供を一段下に見るし、体格的に肉体労働に向かない者は軽視される。

 女顔のロマンに至っては、衆道好みの船員に絡まれる始末。
 近海の諸国には【少年愛】という風習がある地方もあり、暖かい地方には裸の男性と少年が仲睦まじく寄り添い油の入った入れ物とスポンジが一緒に描かれた壺や壁画などが見つかる遺跡もある。油とスポンジは、スポーツで汗を流した男と少年が身体をそれで磨き合いながら戯れる官能の暗喩だ。

 先日乱杭歯の船員に後ろから忍び寄られて尻を触られそうになり、拒絶すると生意気と怒られるということが起きた。
 その船員は、シグルトが叩きのめしてくれたのだが。

 甲板に強かに叩きつけられた船員は船長に泣きつき、船員たちと“風を纏う者”との間で一触即発の状態になった。
 この船において、船員の方が護衛より格上であり、逆らったロマンや拳を振るったシグルトが悪いというのである。
 シグルトに装備の悪さを指摘され面白くなかった船長は、掟を持ち出してシグルトを海に放り込むと凄んだ。
  
 だがそこでスピッキオが船長を叱りつけた。

 生々しい話だが、修道院での同性愛も多い。
 スピッキオの所属していた修道院では、男性同士の恋愛であっても修行の妨げとなり、不潔な行為に及ぶこともあるとして、同性愛や少年愛を厳しく禁じていた。
 修道院の風紀を管理していた経験もあるスピッキオは、相手の同意も無いのに、いたいけな子供を手籠めにしようとすることがいかに罪深いか滔々と説教を始めたのである。

 海に関わる仕事の者は、聖北教会より聖海教会の信者が多い。
 その司祭の一喝は船員にも動揺を与え、船員とそれを擁護する船長の暴挙に船の中から多数の反対意見が出たのである。

(…迷信深いのが好いのか悪いのか分からないよね。

 話がまとまったから、よかったけどさ)

 結局、スピッキオの一声で事態は一応収拾した。

 シグルトは「もし仲間に手を出すようなら、次の港で降りる。契約はそちらが破ったと【冒険者の宿連盟】を通じて通達し、この船の護衛を受ける冒険者は一人もいなくなるだろう」と凄んだ。
 スピッキオもその意見を支持し、“風を纏う者”の総意として他の仲間も同意を示している。
 さらにレベッカが船長の耳元で「シグルトは貴族から紋章入りの感状を貰うほどの冒険者よ。彼をこんな理不尽な理由で海に沈めたりしたら、あなた方は全員吊るし首かもね」と囁いて、真っ青にさせていた。
 
 この一件で敵も出来たが、仲間を守ったシグルトに対して好意的な船員も多かった。
 
 レベッカが船の料理長を持っていた砂糖で懐柔していたことも働き、話は大きくならなかったのである。
 船での食事は、質が悪いと船員の反乱が起こるほどだ。
 こういう時、どこを抑えればいいか知っていたレベッカの作戦勝ちでもあった。


 躓きはあったものの、数日の船旅は瞬く間に過ぎて行った。

 海賊たちはまったく現れない。
 このまま何事も無く目的地に着くかもしれない…誰もがそう思っていた矢先である。

「…伝令!

 後方より海賊のものらしき小型船船影二つ!」

 気が弛み切っていた反動から、俄かに騒ぎ出す船員たち。
 戦闘装備の無いこの船では、無駄なことである。

「慌てるなっ!

 敵の射撃に備えて、俺が作っておいた楯を用意しろ。
 足りないなら、遮蔽物になるものの後ろに隠れるんだ。
 その時、頭は遮蔽物より一つ分は下げるんだぞ。
 矢は、弧を描いて上から降って来る。
 
 乗り込んでこようとした敵は、楯で体当たりして海に落せ。
 相手の体格がよくとも、二人がかりでやれば大丈夫だ。
 上半身を低くしてバランスを保っている奴は、下から頭を持ち上げて亀をひっくり返すように、だ。
 
 各自身を低く、敵船の突撃に備えるんだ。

 長物(長い柄武器)を持っている者は、敵が船に乗り込もうとした時に海に払い落せ。
 掛け板を転がすのでもいい。
 
 万一敵が火を使って来たなら、消火を最優先するんだぞ。
 火が燃え広がったら終わりだ。

 皆、肝を据えろっ!」

 シグルトが一喝して混乱を収拾する。
 鋭い指示に、船員たちは慌てて対応を始めた。

 その間にも船足の速い海賊船は、見る間に近づいてくる。

「スピッキオ、俺たちに守りの秘蹟を頼む。 
 ロマンは眠りの術で敵を眠らせ、後方から援護してくれ。
 レベッカとラムーナは、倒せる奴から対応しろ。
 術で寝た奴を海に落とすだけでもかまわん。

 スピッキオ、ロマン…妖精の術を掛けてやるからこっちに来い!
 レベッカは例の指輪の魔力で身を守ってくれ
 ラムーナは盾を活用だ」

 檄を飛ばし、精霊術で準備をするシグルト。
 横でスピッキオが【聖別の法】を使い、仲間たちに防御の加護を施していく。

 敵が矢を構えていることを確認したシグルトは、船の一つに向けて手をかざした。

「《トリアムール、敵船の帆を固定したマストのロープを切れ。

  あっちの船だっ!》」

 シグルトの精霊術で、風の精霊トリアムールが一隻の海賊船を足止めする。
 メインマストから帆を落とされた船が、速度を失い停止した。

 友軍を止められた反撃にと、もう一つの船が矢を浴びせて来た。
 しかし、楯による遮蔽で守りを固めていた商船の船員たちは、掠り傷程度の被害しか出ない。
 
「ぬぅ、危なかったわい」

 加護の術と妖精の護りによって、敵船から放たれた固定弩(バリスタ)の直撃を免れたスピッキオは、急作りの盾の後ろで冷や汗を流していた。
 巨大な太矢を受けた楯は粉微塵である。
 
 味方の傷が取るに足らないものと確認したシグルトは、ほっとしたように頷くと、敵が乗り込もうとする場所へと走って行った。

「いたた…」

 ロマンの逆腕が、破片で浅く傷つき血が滲んでいる。
 楯を用意していなければ、死者が出ていただろう。

 船同士が接舷することで衝撃が走り、シグルトは剣を甲板に突き立てて踏み留まった。
 見れば、すでに海賊の何人かが乗り込んでいる。

 スピッキオが杖で真先に飛び込んで来た指揮官らしき海賊を殴りつけ、トリアムールの風が近寄る海賊たちを打ちのめす。
 シグルトは、もう一人の指揮官らしき盗賊と切り結んだ。

 一方ロマンは二人の海賊に囲まれて牽制され、船の揺れに足を取られて転倒してしまう。
 
 防御しながら、ラムーナがそっちに駆けて援護に回った。

 敵の反撃でスピッキオが掠り傷を負うが、掛けた術で差し障りは無い。
 ロマンも、転倒したところを狙われるが、妖精の加護が働いて、避けた拍子に腰を打った程度である。

「フッ!」

 トリアムールの風でよろめいた手下の海賊野分を通り抜け、船に取りついた一人の海賊に斬りつけて、海に落とすシグルト。
 慣れない解錠での戦闘を意識し、バランスのくずれる技は極力使わない。

 その横で、海賊の指揮官が傷薬を使用して仲間を癒していた。

「ロマン、あの指揮官は厄介だ。

 眠りの呪文で足止めをしてくれ!」

 応じるように、ロマンが呪文を唱え始める。

「《…眠れっ!》」

 この呪文で三人の海賊が倒れる。

「ラムーナ、体勢を整えろ!

 起きてる奴から沈めて行くぞ!」

 シグルトの号令で、“風を纏う者”は一斉に動く。

「《…穿てっ!》」

 ロマンの呪文で【魔法の矢】が飛来すると、海賊の胸を打った。
 普通なら即死の攻撃を、その海賊は武器でブロックすることでどうにか耐えている。

「…ハァァっ!」

 ラムーナが、シグルトの前にいた指揮官を回し蹴りで吹き飛ばした。
 蜂の一撃の様に鋭いそれは、ラムーナの必殺技【連捷の蜂】である。

 レベッカが巧みなフェイントで、起きた海賊を翻弄していた。

 一人の海賊をシグルトが剣の鍔で殴って海に叩き落す。

「あと四人!」

 ラムーナが盾の重さを利用した体当たりでもう一人の海賊を船べりに追いやった。

「《張り巡らすは白蜘(はくち)の楼閣(ろうかく)、呪詛が羅網(らもう)で絡み捕らえよ》

 《縛れ!》」

 ここでロマンがブロイの屋敷で手に入れた呪文【蜘蛛の糸】を使い、眠っている指揮官の海賊の一人を床に縛り付けた。

「セェヤァアアアッ!」

 ラムーナが大きく跳躍してくるりと一転、海賊の一人を海に蹴り落とした。
 盛大な水飛沫を上げて海賊は水没する。

「キョエアアアアアァァ!!!」

 魂消る突然の奇声に、皆がそちらを向いた。

 レベッカが縛り付けられた海賊の股間を踏み砕き、痛みに悲鳴を上げて目が覚めたところを、シグルトの振るった鉄塊ともいうべき剣が気絶させている。
 ある意味、慈悲であった。

(え、えぐい…)

 一同は砕け散るナッツを幻視した。
 思わず「ヒュッ」とうなるロマン。

 周囲にいた男たちの多くは皆、「ヒュンッ」と身震いし、やや前屈みの内股になった。
 自分のことではないのに、皆痛そうな顔である

 次に放たれた【眠りの雲】が大勢を決していた。

 瀕死の海賊一人はシグルトが止めを刺し、ラムーナとスピッキオが眠ったもう一人の海賊指揮官をぼこぼこにしてロマンの【魔法の矢】が止めを刺していた。


「ああ、もうっ!

 なんてタフな連中なのよっ!!」

 苛々したレベッカが、汚いものを落とすように靴裏を甲板に擦り付けている。
 それを見る船員の目が恐怖で泳いでいた。

 戦いは若干眺めになったが、乱戦ともなれば指揮能力の高いシグルトのいる“風を纏う者”が圧倒的に強かった。

 バランスの悪い船上は、平衡感覚に優れたラムーナの独壇場である。
 闘舞術【連捷の蜂】で勢いづいた後は、切り合う端から海賊を押しやって優勢に持ち込んでいた。
 
 最後の海賊がロマンの魔法で海に吹き飛ばされるところを確認したラムーナは、船縁を蹴って一転、ふわりと甲板に着地する。

 “風を纏う者”は軽傷を負う者もいたが、スピッキオの守護の秘蹟の効果が切れる寸前、治癒の秘跡無しで海賊を撃退することに成功していた。

 見れば、先ほどマストを落としたもう一隻が、慌てて去っていくところだった。

 商船の船員たちは、“風を纏う者”の勝利に歓声を上げ、海賊たちの残した渡し板を海に落とし、船上で気絶した海賊たちを拘束する。

「どうにか勝ったな」

 仲間に怪我人が出たことに対し、シグルトは不満顔だったが、仲間の健闘を褒めることは忘れない。

 この襲撃は、“風を纏う者”の実力を証明するきっかけとなった。
 船員には軽傷者が数人出ただけで済み、船の損傷も簡単な修繕で十分なレベルである。

 取り巻きと身を隠していた船長は、戦いが終わると現れて、船の受けた被害をあげつらって報酬の減額を求める暴挙に出た。
 あまりの浅ましさに、“風を纏う者”と一緒に戦った船員たちの方が激昂し、船長はたちまち袋叩きにされてしまった。

 このことが原因で横暴だった船長は無能の烙印を押されて船倉に放りこまれ、副船長をしていた若い男が船の指揮を執ることになった。

 解任された船長は反乱を起こして今の地位に就いた男であり、今までの悪行が祟って擁護してくれる者は誰もいない。
 彼は船長として一番大切な公平さを欠き、取り巻きばかり大切にしたからだ。

 船乗りは地上よりも迷信的だが、同時に民主的で結果を大切にするコミュニティを形成しているのである。

 
 それから数日は平穏であった。

 中継地である小さな港を経由し、商船は順調にフォーチュン=ベルに向かっていた。
 海鳥の声を聞きながら、“風を纏う者”も充実した航海を続けている。

 新しい船長はシグルトの意見に従い、雨水を溜める防火水槽とその中に虫が涌かなくするための薬草を船に常備することに決めた。

 水に湧くボウフラは蚊の幼虫だ。瘧(おこり)…マラリアを媒介する。
 腐った水で食あたりを起こせば、下痢によって貴重な水分を失うことになるのだ。

 海で水が少なくなった時、倍の水に海水を混ぜたものが普通に飲める…ただし煮沸はした方がいいと、ロマンが豆知識を話している。
 この方法は簡易の経口補水液を作る様なもので、シグルトがアフマドから聞いたものをロマンに教えたものだ。
 水を失った時最も頼りになるのは、新鮮な水を生成できる水の精霊術師だな、とシグルトが苦笑した。

 “風を纏う者”のアドバイスに耳を傾けながら、新船長はいくつか弓を買い求め、捕鯨用の中古品を改造した固定弩も、後々購入する予定らしい。
 中継地で海賊と一緒に下ろされた前の船長はかなり金を貯め込んでおり、それを使えば装備の充実は一通り出来そうだという話だ。
 
 シグルトは「俺も船上での戦闘はこの間のが初めてだったんだがな」と言いつつ、求められて基本的な戦術を船員たちに手ほどきしていた。
 彼が基本とした戦術は、南海で数百年前に勃発したアレトゥーザとフォルトゥーナの戦役を参考としている。

 当時の戦闘は、船に積んだ石を投石器(カタパルト)で投げ合う乱暴なものであった。
 海戦では、船同士が接近して戦うのは最後の手段だ。

 相手の装備を奪うことを目的としていた戦い方もあり、有限の矢玉で敵戦力を削いで突入し、矢玉を補給しつつ次を攻めるのである。
 遠距離攻撃による初撃が重要であり、それを防御する手段が肝要だとシグルトは教えていた。

 紐を使って作成できる簡易の投石紐(スリング)の作り方も伝えた。
 慣熟に時間がかかるため、木の的を作って、娯楽代わりに船上で石当ての鍛錬をするように提案する。
 金のかからないこの申し出はとても歓迎された。
 
 敵の矢に対して絶大な効果を発揮した楯は、もう少し改良が加えられて、船員全員分が用意されている。

 舞う様に海賊を叩きのめしたラムーナは、船員たちに【幸運の乙女】だと持て囃される様になっていた。
 お調子者のラムーナはそれが嬉しいのか、得意のダンスを披露して今やすっかり人気者だ。
 最近はふっくらとした身体の線も見え始め、魅力的になって来た少女である。

 船旅は娯楽が少ないため、舞踏のような芸は好評だった。

 一方、船員を賭け事に引っかけ、レベッカは小金代わりにこの海域の貴重な情報を入手していた。
 同時に夜に飲むための酒も、しっかり調達している。

 ロマンは文盲の船員に文字を教えてくれと請われて、教師気取りだ。
 毒舌入り混じる厳しい指導も、彼の美しい顔見たさに集まる船員たちのおかげで大盛況だった。

 スキッピオの方は布教に励んでいる。
 新たに聖海の洗礼を受けたいという者が三人出て、スキッピオは彼らの洗礼名を考えることに夢中になっていた。

 前半の船旅に比べて、“風を纏う者”には船旅を楽しむ余裕が生まれていた。


 そして、後一日で目的地と言うところまで来た時である。
 
 見張りの甲高い声が、甲板を震わせた。

「後方より、大型船接近!」

 一同に緊張が走り、シグルトがすぐに警戒と武装を命令して、新船長の元に駆けつけた。
 
「こちらの方が小さいはずだ…振り切れんのか?!」

 船長の言葉に、青ざめた操舵士は首を横に振る。

「無理です…信じられない速度で追って来ます。

 逆風でこの速度。
 とても普通の船とは…」

 シグルトが大型船の帆を見上げ、困ったように息を吐く。

「あれはいくらなんでも船足が速過ぎる。
 風下なのに順風満帆の如し…十中八九風を起こす術を使っているな。
 風の魔法にはこういう使い方もあったか。
 
 あの規模の船を高速移動させる風だと…ロマン、勢いが付いてるから今更風や帆をどうにかしても止めるのは無理か?」
 
 常ならぬ力で走って来る大型船は、とてもではないが止められそうにないと、即座に計算したロマンも請け負う。
 自重のある船は、走り出すとすぐに止まれないのだ。

「風を操る海賊船だって?

 もしかして“蒼き疾風”のジャドか」

 新船長は絶望的な表情で、噂に聞いていたというその名を口にした。

「マジ?
 厄介な奴ね…
 
 この近郊じゃ一番知られてる奴らじゃない」

 レベッカが名前に反応する。
 情報に通じたレベッカは、すでに航路に出没する海賊の構成を把握していた。
 
 船という乗物は兎角金がかかる。
 食糧、水、修理費用の資材…
 必ずそれらを補給するために、最寄りの港を持つのだ。

 海賊は、船の形状や海賊団の気質にあった航路…縄張りを持っている。
 一回の出港で確実に略奪を成功させ、消耗品を補給するための資金や資材そのものを奪うためだ。

 必然、良く寄る補給場所やその航路から、情報が割れてくる。

 “蒼き疾風”とは、海賊団の首魁の二つ名であり、海賊団そのものの名前でもある。
 今通っている海域では、最強の誉れ高き海賊であった。

 彼らが有名なのは、強さもあるが、その略奪の巧みさにあるのだ。
 
 まず、船足の速さで逃げ切れた船は無い。
 海賊団を構成するメンバーは猛者揃いで知られていた。
 彼らが海賊退治のために出向したフォーチュン=ベルの軍船を沈めたという話もあるほどだ。

 略奪は根こそぎではなく、また商売を始められる程度には物資を残す。
 そうすることで、次の獲物として戻って来る可能性があるからだ。
 これは「小魚は釣っても海に戻す」という、海賊なりのリサイクルなのだ。 

 さらには、無力な女子供や老人は殺さず、無意味な殺戮もしない。
 義賊に近い矜持を持っていると聞いている。
 仲間想いで部下を大切にする首魁ジャドは、同系列の海賊が敗れた場合、面子を潰されたとして報復に出ることも多いという。

 所謂、義侠心の強い海賊であり、生き残って彼らの名を広めた者が多いのである。

 この海賊団が優れた実力で成功を続けたからこそ、伝わった話であった。

 商船の一同が苦い雰囲気にある中、まだ距離もあると言うのに敵船から大声が聞こえて来た。

「ハァ~ハァッハッ!!

 この間は、よくもうちの子分を可愛がってくれやがったな。

 久しぶりに骨のある獲物のようだぜ。
 今ぁそのツラ見に行ってやるから、小便ちびりながら待っていなっ!!」

 それは、大型船の船先に立った逞しい白髪の男である。
 顔の傷痕が、その男を一層凶悪に見せていた。
 
 脇に二人の部下を従え、威風堂々と立つ姿に、商船の船員たちは一気に士気を失った様だ。

「うわ、人相書通りだわ。

 最悪ね」

 レベッカが眉をしかめて相手を観察している。

 シグルトは今可能な対応策を検討し、知恵袋であるロマンに質問をした。

「…ロマン、あの船を風の精霊術で揺すってやるには、どの辺を狙えばいい?」

 シグルトの意図に気付き、ロマンは苦笑しながら計算する。

「無茶言うね…

 そうだね、やっぱりメインマストの帆に大きな大きな横風かな?
 この速度だと、下から吹き上げるようにこのぐらい。

 梃の原理と、向かってくるための力でぐらっと揺らせるよ。
 まあ、あの船体の場合は一回が限度だと思うけど、シグルトの精霊術ならあの高さでも大丈夫だよね。
 
 あそこに昇ってる見張りの、一人分下、マストを繋いでいるフックみたいなのがあるあたりに、角度をつけて下から刺す様に横風をぶつければ…」

 ロマンの言葉に頷き、シグルトは精霊に呼びかけ始めた。
 仲間に支援を求めつつ、妖精の術をロマンとスキッピオに施す。
 
「攻撃した後に、射撃で応酬があるぞ。
 
 皆楯か、厚めの遮蔽物の後ろに隠れてるんだ」

 スピッキオが仲間たちに護りの術を掛け、終えてもらったシグルトは、トリアムールを召喚しその身に宿す。

「…どうぉした?

 怖気付きやがったか、腰抜けどもっ!!」

 首魁である白髪の海賊が、恫喝するように大声を上げる。
 シグルトは、敵が好奇心から船に乗りだしてこちらを見ようとした瞬間、絶妙なタイミングでトリアムールの起こした突風を敵船の帆に叩きつけた。

 揺れは小さかったが、身を乗り出していた者たちにとっては堪らない。
 特に船に慣れた海賊たちは、「ありえない揺れ」に対しとても無防備だった。

 数人の海賊が悲鳴を上げながら海に落ちて行く。

「おぅわっ!
 糞、小賢しい真似しやがってっ!!

 野郎ども、衝角(ラム)で突撃しろっ!
 あの細っこいどてっ腹に、風穴開けてやれ!!」

 物騒なことを言っている海賊の首魁。
 シグルトは新船長に命じる。

「あの速度だ、完全には避け切れない。
 船首を曲げて直撃しないように、衝撃を流せ。
 
 相手はまっすぐ向かって来ることが分かってるんだ。
 何とか出来る!」

 新船長はシグルトの言葉に肝を据えたらしく、間一髪のタイミングで舵を切った。

 敵船の舳先を間一髪で躱し、船の横腹が擦れ合う。
 摩擦による焦げ臭い臭い…凄まじい衝撃に、周囲全ての者の頭が揺さぶられた。

「…敵が撃ってくるぞ!

 楯構え~」

 シグルトの号令と同時に、敵が矢を放ってくる。

「…畜生っ!

 掠ったわ」

 持っていた即席の楯が貫かれ、レベッカとシグルトは軽傷を負っていた。
 反撃にレベッカが、拾った弓で海賊の一人を射落とす。

 商船側の被害は少ない。

「この女ぁ…

 サザーラード、アザレア、行くぜっ!!」
 
 接舷の瞬間、あろうことか首魁と幹部二人が、商船に飛び移って来た。

「はぁっ~はっはっ!
 見参つかまつったぜっ!!

 俺の名はジャド・ヴァイスマン。
 人呼んで、“蒼き疾風”のジャドよっ!!!」

 白髪の首魁は口端を歪めて大笑しながら、詰まれた商船のマストをクッション代わりに蹴って船に着地した。
 駆け寄るとともに、シグルトが名乗り返す。

「俺は冒険者“風を纏う者”のシグルト。

 此処からは剣で応えようっ!」

 互いに交差して一合。
 振るわれた得物同士が火花を散らした。

 シグルトの苛烈な挨拶に、ジャドは感極まった様に身体を震わせる。

「~~~けぇっ!!!

 面白そうな奴が出て来たじゃねぇかっ!
 こうでなくっちゃ、楽しめねぇ。

 やっちまえ、野郎どもっ!!!」

 ジャドの号令に、一緒にやって来た幹部たちが頷いて応じた。
 
 ラムーナが【連捷の蜂】をアザレアという女海賊に仕掛けるが、技量の違いから回避されてしまう。
 返す刀ででラムーナが軽く傷を負うが、堅牢な加護が致命傷を許さない。

 その簡、ロマンとスピッキオがそれぞれ呪文と秘蹟を準備にかかる。

「ッ!」

 ラムーナの作った隙をついてレベッカがアザレアに交差攻撃を仕掛け、軽く手傷を負わせた。
 女海賊は流れる血を指にとって舐め、挑戦的に目を吊り上げて持ったサーベルをくるくると回転させた。
 小賢しい、と言うように。

 その近くでシグルトがトリアムールの起こす突風をジャドに叩きつけ、勢いに乗って斬りかかった。

「ぬぉおおっ!
 
 てめぇ、魔法剣士かっ!」

 突風からの鋭い攻撃で完全に守勢に追いやられたジャドが、背面から放たれたラムーナの連撃をかわしながら驚きに目を剥いた。

 ザザーラードがカットラスを振るってスピッキオに強力な技を仕掛けるが、スピッキオは何とかそれに耐える。

「なっ!耐えきった、だと?

 聖海の守りの秘蹟かっ!」」

 僧服で明らかに戦闘は専門家に見えないスピッキオが、自分の秘剣を、甲冑で弾き返しすように耐え切った。
 海に関わる稼業のサザーラードは、軽装で戦う海戦において、防御力を増す秘蹟がいかに絶大な効果をもたらすか知っている。

(まずい、そこいらのにわか護衛じゃない…)

 冷や汗が海賊幹部の頬を伝う。

「畜生、なんだこいつらは?

 その辺の冒険者とは段違いじゃないのさっ!」

 最初は余裕があったアザレアだが、“風を纏う者”の軽妙な連携で有効打が全く与えられないと知ると、文句を言いながら魔法を唱えて仲間の支援を行う。
 仲間に技を出しやすくするための呪文だ。

「《…眠れ!》」

 ロマンの魔法でサザーラードが微睡み、膝を折った。
 支援効果が発揮される前に足止めするのは、戦術の一つである。

「ラムーナ、そいつは起こすな。

 先にこっちの二人を沈めるぞ!!」

 ジャドと切り合いをしながら動きを抑え、シグルトは次々に命令を出す。

 長い船旅で船上で剣を振る時のコツをつかんだシグルトは、武器が壊れないという利点を生かして〈受け止められることが前提〉の攻撃を仕掛けていた。
 足を踏みしめられないタイミングの時、相手の剣と自分の剣がぶつかる状態まで〈足場代わり〉に利用しているのだ。

 受けるジャドにしてみれば、これでは防御しかできない。
 力を抜いていなそうとすれば、途端に鍔や柄で殴ってくるシグルトだ。
 避けようとした時反撃の肘が頬をかすめ、擦過の熱さに海賊の首領は高揚でにんまりとする。

 一方、アザレアを狙ったラムーナの【連捷の蜂】はまたもかわされるが、側面からロマンの【魔法の矢】が突き刺さって追い詰めていった。

「――ちぃいいいい!!!!」

 アザレアはレベッカ、ロマン、ラムーナによってかかって集中攻撃を受けてすでに息が乱れている。
 これではまともに呪文を唱えられない。

「…イヤァアアアアアッ!!!」

 ラムーナは、今度は技を回避されることを見越していた。
 レベッカに目配せをして、その場から大きく飛翔すると飛び掛かるようにアザレアの肩を斬る。
 激痛によろめいたアザレアは、連携で襲い掛かったレベッカの飛び蹴りを避けることができなかった。

「…格闘は専門外なんだけどね」

 身軽に着地しウインクしたレベッカの前で、大きな水飛沫が上がる。

 シグルトは重く堅実に攻撃を繰り返し、完全にジャドをその場に縛り付けていた。
 剛腕から振り下ろされる剣を受け続けたことで、ジャドの持つ大剣に歪みが生じ始めている。

 勢いづいている仲間の陰で、悠々とスピッキオが傷ついた自身を【癒身の法】で癒し、立ち直った。

「アザレアッ!

 この、女狐がぁああ!!!!」

 仲間を倒されたことに怒り狂ったジャドが、シグルトの斬撃を食らいながらも攻撃権から飛び出す。
 そこから飛翔して回転しながら炎を纏い、ロマンから放たれた魔法に耐えきってレベッカに斬り込んで来た。
 フォーチュン=ベルの英雄が得意としていた剣技、【獅吼斬】である。

 爆音とともにレベッカが吹っ飛んだ。
 だが、必殺の攻撃もスピッキオの秘蹟でかなりダメージを軽減されていたようだった。

 服を焦がす炎を叩いて消したレベッカは血反吐を吐き捨てると、追撃を警戒して姿隠しの指輪【シャイ・リング】を使用し姿を消す。

「あ、このアマ、どこ行きやがった!」

 ジャドが唾を吐いて怒鳴る横で、ロマンが呪文を完成させる。

「《…穿て!》」

 剣を前にかざして【魔法の矢】を防ぐジャドだが、シグルトの剛力を受け続けていた大剣の柄が終に砕け散った。

「な、なんだとうぅ!?」

 食らった衝撃の余波で、ついに膝を折る。

「はっ!」

 【アロンダイト】の柄頭が、頭一つ下がったジャドの頬骨を殴打した。
 目の焦点を失った海賊の首領は、派手に吹き飛んで甲板にあった空の樽を粉砕する。
 見事なノックアウトである。

 そして、立ったまま眠りの呪文でぼんやりしているサザーラードに目標を変えた。

 スピッキオが姿を現したレベッカに癒しを施す。

 恐ろしいほどの連携。

 長い間シグルトの優れた戦闘指揮を受けて戦っていた“風を纏う者”は、呼吸を合わせてフォローし合う時のパーティの強さというものを肌で感じていた。
 本来は、連携を構築する技量も経験も仲間同士の信頼も獲得できずに、多くの冒険者は命を落とすか辞めていく。
 
 レベッカは、自分が見込んで仲間になったパーティの強さ再確認して、高揚に一度身をブルリ、と振るわせる。
 これが武者震いというものだろうか。

 目前ではラムーナが【連捷の蜂】で攻撃を開始し、ひたすら連続の大技を繰り返す流れに入っていた。
 覚醒したサザーラードは五人に囲まれ、防戦一方である。

(は、反撃ができないっ!)

 二発目の【連捷の蜂】とシグルトの剣を段平で受けて、何とか攻撃をかわそうと防御に専念する。
 
「《…縛れ!》」

 攻撃を回避することに専念していたサザーラードは、ロマンが準備していた呪文に反応することができなかった。
 【蜘蛛の糸】によって雁字搦めになった海賊は、容赦なく海に蹴り落とされた。

 …彼は知らないが、ナッツを砕かれなかっただけましである。
 
「…今畜生っ!」

 見ればもう目が覚めたジャドが、大型船に垂らされたロープに飛び移っていた。

 ジャドは後ろに跳ぶことで、シグルトの一閃の威力を殺したのだろう。
 無残に柄が砕けた大剣を抱え、火を噴く様な目で商船を睨むジャド。

 その下でサザーラードも、部下に糸を切ってもらってようやく海賊船に取り付き、救出用に垂らされたロープにしがみ付く。

「…雑魚を釣るつもりが、鯱を怒らせちまったぜ。

 おう野郎ども。
 生きてる奴ぁ、海から引き上げてやれ。

 “風を纏う者”のシグルトだったな?
 今回は俺らの負けにしてやらぁ。
 
 けどよ、次にこの海域を通るときゃ、覚悟しやがれっ!!!」

 捨て台詞を残して、ジャドたち海賊は気持好いほどあっさりと逃げて行った。
 撤退も疾風の如し、三倍以上の速度である。

「深追いするな!
 まず被害を確認しろっ!

 怪我人がいたら、重傷者からスピッキオに癒してもらえ。

 …俺たちの勝利だ。
 よくやったぞ、皆」

 シグルトが一度周囲の気を引き締めてから、笑みを作り剣を掲げて勝鬨を上げる。
 船員たちが一斉に歓声を上げた。

「ぜぇ、はぁ。

 なんつう逃げ足の速さ…」
 
 敵の牽制に、奇襲にと、動きまわっていたレベッカが荒い息を整えようとしていた。

「…この程度の被害なら、航行に問題は無さそうだ。

 よし、負傷者を手当てしつつ、航路を戻そう」

 シグルトは、倒れた船員を助けながら矢継ぎ早に命令を出す。

 船員たちは、強大な海賊を少ない被害で追い返した“風を纏う者”を、崇めるように見つめ、嬉々としてその命令に従うのだった。


 次の日。
 船を降りてフォーチュン=ベルに到着した“風を纏う者”は、『幸福の鐘亭』に立ち寄り、報酬を受け取ることが出来た。
 
 無理な仕事を頼んだことに宿の女主人であるメイフィールドが、すまなそうに酒を奢ってくれた。
 
「女将さん。

 今度からは、依頼主を選んだほうがいい」

 自分たちを頼ってくれるのは嬉しいが、人によっては仕事を受けないのが冒険者だと、シグルトは強い口調で釘を刺した。

「依頼主の元船長さんは、うちの常連だったんです。

 一番の冒険者を紹介しろというので、有名な貴方たちの名前を出して、紹介状を書くと言ったんですが…
 次の朝使いを寄こして銀貨二百枚を置いていき、勝手に契約したぞって。

 貴方たち“風を纏う者”を雇うなら、いくらなんでもこのお金では無理だと言ったんですが、まさか受けて下さるなんて。 
 新しい船長さんは貴方たちのことをとても評価していらっしゃいました。
 
 私も“蒼き疾風”のジャドの噂ぐらい知っています。
 
 …本当に銀貨五百枚でよろしいんですか?」

 二回も海賊を退け、この海域で最強の海賊を追い払った“風を纏う者”に、新船長や船員たちはいたく感動した様子で、報酬をかなり増やしてくれた。
 しかし、船に被害をだしたからと、全部は受け取らなかったのだ。

「こちらが誠意を見せなければ、依頼人に誠意を求めることは出来ないだろう。

 臭い話かもしれんが、〈実績〉と〈信用〉こそ資産になりうるからな」

 これは、“風を纏う者”が属す『小さき希望亭』の基本方針である。
 無法者扱いされる冒険者だからこそ、他人の数倍誠意を見せるのが大切だと、宿の主ギュスターヴは言う。

 こういった真摯な姿と、名のある海賊を退けたことで、“風を纏う者”の名は鰻昇りだった。
 
 だが、シグルトの表情は暗いままだ。
 生還は喜ぶべきだが、妥協を覚えれば仕事が雑になるからと、自己評価は何時も辛い。

「とりあえず、今日はもう休もう。

 慣れない船旅で、疲れたよ」

 早々にシグルトは部屋に籠ってしまった。


 部屋に入ると、シグルトは大きく息を吐き、ベットに倒れ伏す。
 
(力技を使い過ぎたな。

 【刹那の閃き】は、使う余裕がなかった。
 この技は威力も鋭さも優れているが、今の俺の身体ではそう連発出来ない)

 バランスの悪い船の上で緊張しながら戦ったシグルトの身体は、思わぬダメージを受けていた。
 踵の腱が上手く動かないのに、シグルトは無茶をして踏ん張り戦い続けたのだ。
 
 そうしなければ“風を纏う者”の中に死者が出ていた。
 だから後悔は無い。

 先日から微熱が続き、軽い吐き気を覚えている。
 その不調は後輩の教導も含め、身体を動かし続けた代償であった。

(急を要したとはいえ、身体が整わない状態で新しい剣技を使うなど自殺行為だな。

 今後は気をつけねば)

 呼吸を整え、身体をもみほぐしていると、ラムーナが部屋に入って来た。
 心配そうな顔である。

「大丈夫?

 顔色が悪いよ、シグルト」

 この娘は勘が鋭い。
 異変があると、真っ先に気が付いたのだろう。

 安心させようと、シグルトは何時もの様に苦笑して見せた。

「少し悪い足場で、慣れない戦いをしたからな。
 船を降りてしばらく経つのに、今でも足場がふわふわして落ち着かん。

 何、陸で休めばそのうち回復する。

 ラムーナも、ああいう派手な技を連発した後は、筋を整えておけよ」

 シグルトの忠告に、素直に頷くラムーナ。

「そう言えば、随分姿勢が直ったな。 
 パーティを組んだ頃は酷い猫背だったが。

 お前の師匠は、姿勢が技の根であることをちゃんと知ってるらしい。
 まだ右肩に歪みがあるから、それは真っ直ぐな塀にでもぶら下がって伸ばしておけ。
 あれは、腕力の良い鍛錬にもなる。

 お前ぐらいの年なら、姿勢はすぐ直せるさ」

 シグルトの強さは、こういった生理学も基本としている。

 そもそも武人は医術に明るいべきなのだ。
 怪我を自分で治せるし、体の壊し方を知るために治す方法を知るのは理にかなっている。

 身体の動きをコントロールすることもまた然りである。

「シグルトって姿勢は綺麗だけど、技が強過ぎて間接痛めてるよね?

 無茶しちゃだめだよ」

 手に水桶を用意し、手際よく湿布を作ってくれる。
 同じ戦士だからこそ、シグルトの身体について一番分かってくれるのもラムーナだった。

「…ああ。
 こうやって休むのも、たまにはいいな。

 ここしばらく、張り詰めてばかりだった」

 そんな事を話しながら、シグルトは今後どうすべきかを考えていた。


 翌日、ゆっくり休んだ“風を纏う者”は『幸福の鐘亭』で朝食を採っていた。

「皆、聞いてくれ。

 俺たちはここ数日働き通しだった。
 だから、少し休日を兼ねて別行動を取らないか?

 俺は武器をブレッゼンに預けて、しばらく剣術修行をしたいと思ってる。
 娘さんに貰った新しい剣術書だが、慣熟するにはどうしても専門家から剣の基礎を学び直したい。
 先輩冒険者から学んだ剣術は我流で、技も荒っぽくて考えさせられるものがあってな。

 独学では限界もあるのだろう。
 少し専門家の意見を聞いて、今後にあの技を使っていけるか検討したいと思う。

 昨日レベッカとも話したんだが、今のところは財政的余裕も少しはありそうだし、な」

 シグルトの提案に、レベッカが続ける。

「いったん解散すれば、それを理由に仕事を断れるでしょ?
 仲間で揃ってると頼られちゃうからね。

 前にも話題になってた案件で、互いの技術強化すべきだとみんな考えてたじゃない。

 私もアレトゥーザの馴染みに頼んで、昔使ってた技の勘を取り戻したいと思ってる。
 どうかしら?」

 ラムーナが頷く。

「私、攻撃以外に防御の技が学びたい。
 大技を使うと、どうしても隙が出来てしまうから。

 もしここで別れるなら、レベッカと一緒にアレトゥーザに行って、アデイ先生を訪ねようと思う」

 スキッピオがそれならば、と同行を申し出た。

「わしも、仲間全てに及ぶ回復の術を学ぶべきじゃと思っておる。
 あれだけの戦いが続いて思ったんじゃが…何時も生傷が絶えんからの。

 アレトゥーザは西方の聖海教会で秘蹟を学ぶには、一番良い場所じゃ。

 レベッカたちと一緒に行くかの」

 最後にロマンが自分の意見を述べた。

「僕は、特に今学びたい技術は無いかな。
 【蜘蛛の糸】を貰ったばかりだしね。
 
 そういうことなら、このフォーチュン=ベルで、少し薬学の勉強をしているよ。
 手持ちの薬を調合すればもっといいものが出来るし、持ってる薬品類預かってもいい?」

 一同の意見がまとまり、シグルトたちは一月後にアレトゥーザで再会する約束をして、解散することになった。

「そうね。
 当座の資金として、シグルトとロマンにはそれぞれ銀貨二千四百枚分のお金を渡すわ。
 今護衛の報酬も含めてうちの財産は銀貨一万二千枚で、ちょうど五分の一。
 無駄遣いしたら〈捻り潰す〉から、大切に使ってね。

 あと、シグルトにはブレッゼンへの手土産の葡萄酒一本と剣の代金代わりに、鉱石を二つ。
 ロマンには薬類を全部預けておくわ。
 活用して頂戴。

 他はみんなアレトゥーザ行きだから、残りの資金は共有でもいいわよね?」

 一同レベッカの会計っぷりに笑みを浮かべつつ了承する。

 こうして“風を纏う者”は一月後の再会を約束すると、解散してそれぞれの目的地へと旅立つのだった。

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